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アレクサンドル1世期のロシア正教教育改革とプラトン
Title: | アレクサンドル1世期のロシア正教教育改革とプラトン |
Authors: | 兎内, 勇津流 Browse this author →KAKEN DB |
Issue Date: | Mar-2008 |
Publisher: | 北海道大学スラブ研究センター |
Citation: | プラトンとロシア = Plato and Russia / 根村亮編 ; 3 (「スラブ・ユーラシア学の構築」研究報告集 = Occasional papers on making a discipline of Slavic Eurasian studies ; No. 25), pp. 1-16 |
Abstract: | アレクサンドル1世期(在位1801-1825年)は、ロシア正教の歴史において、はじめて宗教教育制度の体系化がはかられた時代と言える。正教会の教育機関としては、1632年にはすでにキエフにペトロ・モヒラ学院が設立され、その後、ピョートル1世期(在位1682-1725年)の1687年には、モスクワにスラヴ・ギリシャ・ラテン学院が設けられた。これらは、当時のロシアにおける正教教育の基幹的教育機関となり、その後それぞれキエフ神学アカデミー(1819年)、およびモスクワ神学アカデミー(1814年)に改組されるが、その位置づけや教育内容は必ずしも制度化されておらず、一定したものでなかった。すなわち、神学アカデミーは、中等教育機関としての神学校(セミナリア)の卒業生を受け入れて、最高レベルの神学教育と研究を行うというシステムは、アレクサンドル1世期の1808年から1814年にかけて実施された正教教育制度改革によってはじめて成立したのであって、それまでは、どの学校がどの教科のどれだけの水準のことを何年かけて教えるか、一定しなかったのである。また、教育の目的も、聖職者の養成に限られておらず、神学の授業のない神学校も存在したという。18世紀のロシアにおいて、正教会の学校が教育機関として注目されるのは、他の教育機関があまりに貧弱だったことによるところが大きい。18世紀以前のロシアにおいては、教会文化と世俗文化とが分離されておらず、教会の外に教育機関は存在しなかったように思われる。ピョートル1世期には、西欧文化が積極的に摂取され、文化の領域は教会の独占物であることをやめて、はじめて各種の世俗的学校が設置されるようになったが、個別的職業教
育の色彩が強く、普通教育を基盤にした教育制度がある程度体系的に整備されるのは、同じくアレクサンドル1世期の1803年を待たなくてはならなかった。ロシア正教の教育改革は、上の公教育改革に引き続いて、内容的に多くの相似点を含みつつ、しかし制度的には別個のものとして行われた。すなわち、正教会の教育システムはロシアの公教育の制度とは別個のシステムとして、文部省の管轄ではなく、宗務院に附属する宗教学校小委員会の管轄下に置かれたのである。本稿において注目したいのは、この教育改革にあたって定められたその宗教学校学則(1814年)において、その哲学科目の内容として、特にプラトンの名が挙げられていることである。なぜここでプラトンの名が挙げられることになったのか。当時のロシアにおける正教教育にとって、プラトンとはどのような存在だったのか、本稿ではそのことについて考えてみたい。 |
Description: | 21世紀COEプログラム「スラブ・ユーラシア学の構築」 |
Type: | report |
URI: | http://hdl.handle.net/2115/33877 |
Appears in Collections: | スラブ・ユーラシア研究センター (Slavic-Eurasian Research Center) > 雑誌発表論文等 (Peer-reviewed Journal Articles, etc)
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Submitter: 兎内 勇津流
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