選言的定義としての芸術クラスター理論の 妥当性について 伊 藤 佐 紀 要 旨 20世紀半ばから英米圏で興隆した分析美学は,「芸術とは何か」という問い を「芸術」概念の分析に主眼をおいた「あるものが芸術概念に適応されるた めの必要十分条件とは何か」という問いへと再定式化した。このような「芸 術定義論」は現在も分析美学の中心的テーマの一つとされている。近年,ス コットランドの美学者ベリス・ゴート(Berys Gaut)は,反本質主義を擁護 する「芸術クラスター理論」を提唱した。ゴートは,「芸術は束概念であり, それゆえ定義することができない」と主張し,あるものが芸術概念に適応さ れるための条件として,複数の改訂可能な基準を選択的に結合させることに よって芸術概念を特徴化する,選言的結合形式を持つ記述の束(the Cluster Account of Art:以下 CAAと略記)を提示する。こうした議論に対し,芸術 概念の定義不可能性を主張する主張する反本質主義擁護の立場に立ちなが ら,芸術であることの条件を挙示するゴートの主張は矛盾を包含していると いう批判が集中した。本稿はこうした批判に対するゴートの応答を検討する ことによって,一見矛盾を包含するように思われるゴートの主張の目的を整 合的にとらえるよう試み,理論の位置づけを明確化する。そのうえで,ゴー トが提示した CAAの妥当性を検討する。まず芸術クラスター理論の前提と 背景を確認し(第一節),次いで基本的な概要(第二節)を確認する。さらに, ステッカーとデイヴィスによる「CAAは定義である」という批判を取り上 げ,この批判にゴートがどのように応答しているか検討する(第三節)。ここ でゴートが CAAは「高度に選言的で多様性に富む」定義であると譲歩しなが らも,反本質主義者の立場に固執したゴートの意図を明確にするよう試みる。 最後に,反本質主義を擁護しようとするゴートの主張は維持できず,CAAの 妥当性は選言的定義として認められうることを示唆する(第四節)。 ― ―35 はじめに 20世紀半ばから英米圏で興隆した分析美学は,異なる思想的背景を共有するもの同士も,等 しく議論によって用語の混乱と曖昧さを排し,概念の妥当性を客観的に検証しようという動機 のもとで,「芸術とは何か」という問いを「芸術」概念の分析に主眼をおいた「あるものが芸術 概念に適応されるための必要十分条件とは何か」という問いへと再定式化した。この形式をも つ問いをめぐる議論は「芸術定義論」と呼ばれ,現在も分析美学の中心的テーマの一つとなっ ている。近年,スコットランドの美学者ベリス・ゴート(Berys Gaut)は,芸術定義論の主要 な立場のひとつである反本質主義を擁護する「芸術クラスター理論」を提唱した 。ゴートは, 「芸術は束概念であり,それゆえ定義することができない」と主張し,あるものが芸術概念に適 応されるための条件として,複数の改訂可能な基準を選択的に結合させることによって芸術概 念を特徴化する,選言的結合形式を持つ記述の束(the Cluster Account of Art:以下 CAAと 略記)を提示する。こうした議論に対し,芸術概念の定義不可能性を主張する反本質主義擁護 の立場に立ちながら,芸術であることの条件を挙示するゴートの主張は矛盾を包含していると いう批判が集中した。本稿はこうした批判に対するゴートの応答を検討することによって,一 見矛盾を包含するように思われるゴートの主張の目的を整合的にとらえるよう試み,理論の位 置づけを明確化する。そのうえで,ゴートが提示した CAAの妥当性を検討する。まず芸術クラ スター理論の前提と背景を確認し(第一節),次いで概要(第二節)を確認する。さらに,ステッ カーとデイヴィスによる「CAAは定義である」という批判を取り上げ,この批判にゴートがど のように応答しているか検討する(第三節)。ここでゴートが CAAは「高度に選言的で多様性 に富む」定義であると譲歩しながらも,反本質主義者の立場に固執したゴートの意図を明確に するよう試みる。最後に,反本質主義を再構築しようとしたゴートの主張は維持しがたく,CAA の妥当性は選言的定義として認められうることを示唆する。 第一節 芸術クラスター理論の前提と背景 伝統的な美学の問いとしての「芸術とは何か」という問題は,分析美学によって「あるもの を芸術作品と呼ぶための必要条件は何か」という問いに分節化された。無論様々な時代の異な る思想背景をもつ哲学者や美学者たちが論及してきた「芸術とは何か」という問いに対し,「あ るものを芸術作品と呼ぶための必要条件」を与えることが果たして十全な解答となり得るか, あるいはまたそのような所与の条件へと芸術が還元されうるのかという点には大きな疑問符が 北海道大学大学院文学研究科 研究論集 第10号 Gaut,Berys[2000]‘“Art”as a Cluster Concept’,in,Theories of Art Today,ed.N.Carroll.Madison: University of Wisconsin Press,pp.25-44 ― ―36 付されるに違いなかろう。しかしながら,それぞれの哲学者にはそれぞれの含意をもつ「芸術」 概念があり,彼らのテキストに固有の芸術概念を理解するには彼らのテキストに固有の専門的 な知識が要求されるうえ,研究者によってもそれらに対する解釈が異なる状況は,哲学者と美 学者とその研究者の数だけ「芸術」概念が乱立している状況だといえる。さらに,20世紀も半 ばにさしかかると,「美」や「崇高」といったある一つの機能によって,芸術概念を説明するこ とがほとんど不可能であるような作品が膨大に創出されていく。眼前の対象が芸術かそうでな いか,なぜこの作品が芸術か,説明せよとの要請に美学理論は応じる必要性が生じた。ところ が,「芸術」概念が乱立し,統一的に用いられることがないならば,これが芸術か,なぜこれが 芸術かという問いに対して有効な議論は成立しえない。同時期のアメリカの美学会の創立にあ たっても,同じく概念や術語の混乱と曖昧さを排除を企図するという動機が共有されている。 「芸術概念の定義づけ」への動機づけと機運はこうして高まってゆく。また,この時代思想的に 大きな影響力をもっていたのは,ウィトゲンシュタインを中心とする言語哲学的な潮流であ る 。彼の美学や倫理学に関する哲学探究の一節は殊更美学への影響も大きく,芸術概念の定義 不可能性を主張する反本質主義とよばれる立場が生じ,難点が指摘され斥けられるまで長く興 隆した 。 分析美学における芸術定義論の学説史的な展開は,次のような図にあらわすことができる。 芸術概念の本質的な定義,すなわちあるものが芸術であるための必要十分条件を与えうると認 伊藤:選言的定義としての芸術クラスター理論の妥当性について Macfee,Graham[2003].“Art,Essence,and Wittgenstein”,in Art and Essence.ed.Stephen Davies and Ananta Ch.Sukla,Westport,Praeger Publishers pp.17-38 Davies,Stephen[1991].Definition of Art,Ithaca,New York,Cornell University Press ― ―37 めるか否かによって二分される。上述の反本質主義は定義可能性を認めないため左半分に示さ れている一方で,定義可能性を認める諸説は,必要十分条件を単数とするか複数とするかによっ てさらに大別することができる。このうち単数であるものは,一つの主要な機能によって一義 的な定義を試みる「機能的定義」,社会的な制度が「芸術」の資格を授与するとして外在的な定 義を試みる「制度的定義」,既存の作品との特定の関係性から定義を規定する「歴史的定義」と 呼ばれている。 他方,必要十分条件を複数とするものは,その形式上の特徴から,「選言的定義」と呼ばれて いる。「選言的定義」は,挙示された複数の選択肢の選択的な組み合わせによって定義可能性を 論じる議論であり,妥当性の定義のあり方として近年注目を集めている。 本稿の取りあげる「芸術クラスター理論」は,反本質主義の擁護を唱えながら選言的定義と しての特徴も兼ね備えているとされ,その身分をめぐって活発な論争が生じている。以下では, CAAを反本質主義と位置づけるべきか,選言的定義と位置づけるべきか,基本的概要を確認し た後,批判的議論を通じて検討をおこなう。 第二節 CAAの基本的な概要 ゴートは,反本質主義の難点を克服し洗練させた議論として,「芸術クラスター理論」を提示 する。主要な定義論のほとんどが議論の端緒とする反本質主義の代表的論者であるウェイツの 主張の難点とは,「パラダイムの類似性を挙げる」ことをくりかえすという方法論的主張は何も 明示していないことに等しく,「空虚である」というもの,そしてその繰り返しはどこまでおこ なえば完了したことになるのかが明らかではなく「完遂できない」というもの,の二点である。 しかし,ゴートによればパラダイムの類似性に対する難点によって反本質主義の主張が退けら れるのは不当であって,「『家族的類似』に対するパラダイムの類似性という構成ではなく,ク ラスター概念という構成こそが,芸術概念の正しい特徴化を与える」と述べ,自説の目的がク ラスター概念による芸術概念の特徴化にあることを示す。続けて,「われわれは必要十分条件を 与えるという意味では『芸術』の定義を与えることはできないが,しかし,「芸術」の特徴付け, すなわち基準ないし特徴付けの観点から『芸術』がなんであるかに関する説明を提供すること ができる。」として,必要十分条件を与えるのではなく,「芸術」概念に資する基準を与える点 で自説の特徴づけをおこなっている。 ゴートは芸術概念の特徴付けのため「単独では必要条件ではないが,複数が選択的に結合し て必要条件となり,結合して十分条件となるような記述の束」すなわち,CAAを提示した。こ Gaut[2000]p.26 Gaut[2000]p.27 ― ―38 北海道大学大学院文学研究科 研究論集 第10号 のとき彼は,ウィトゲンシュタインの家族的類似の考え方を出発点とし,サールの固有名の指 示理論をモデルとした。指示理論における「クラスター説」とは,固有名の指示に関する理論 である。固有名は,それが指示する対象についての同定記述と「選言」の形で結びついており, その記述の十分な数を満たすものが指示対象である,という見解である 。ゴートは,ウィトゲ ンシュタインの見解を根拠に次のように述べる。 「『もしかすると,わたくしは,『モーセ』という語によって聖書がモーセについて語ってい ることを行った男,あるいはその多くを行った男のことを了解しているのだ,と言うかも しれない。しかし,どのくらい多くのことまで考慮したらいいのか。自分の言明を偽なる ものとして放棄するためには,どのくらい多くのことが偽と証明されなくてはならないの か,私はすでに決めてしまっているのだろうか。』サールは(ウィトゲンシュタインの『哲 学探究』 79における)この説明に基づいて,固有名の意味に関するより詳細に系統立て られた記述群による説明をおこなっているが,ここに挙げた例が記述群による説明の主な 特徴を示している。すなわち,諸々の概念に該当しているかどうかに対して複数の基準が 存しているが,それらの基準のすべてが必要条件ではない。ある対象が件の概念に適応さ れる場合,こうした基準のうちいったいいくつの基準に合致すべきかに関しては,すべて 合致している,ないしすべて合致していない,という両極端の場合を除いて確定的ではな い。」 ある対象が件の概念に適応されるかどうかを判別するための基準が複数存在し,そのうちのす べてではなく,同定するのに十分な数を満たせばよい,という基本的な図式を示している。つ まり,基準Aかまたは基準 B,または基準 C……のうちのいくつかを満たしているならば,そ の概念に適用されうるといえる。 ゴートはこの図式を芸術に適用させて「単独では必要条件ではないが,選言的に結合して必 要条件を作るような複数の十分条件」として CAAを規定する。「ある対象が,列挙されている 複数の特性のうちのすべてではないが,すべてよりも少ない数の特性を例示している場合,そ の対象は芸術作品と呼ばれうる 」とゴートは述べる。これらの基準ひとつひとつは,あるもの が芸術であるための必要条件ではないのと同時に,どんな芸術作品も少なくとも一つかそれ以 上の基準を満たしているということである。 冨田恭彦『アメリカ言語哲学の視点』世界思想社1996年 p.63 Gaut[2000]p.26引用中( )内の補足は筆者。引用中に引用されている箇所は『哲学探究』 79 の一部。翻訳は『ウィトゲンシュタイン全集8哲学探究』藤本隆志1976年79-80頁を参照した。 Gaut[2000]p.27 ― ―39 伊藤:選言的定義としての芸術クラスター理論の妥当性について 次にゴートは記述内容のサンプルとして,以下の⑴~⑽の基準を挙示する。 ⑴ 美しい,品位がある,優美であるといった美的特性を所有している(感覚的な快をあ たえることができる) ⑵ 感情の表現である ⑶ 知的な挑戦となっている ⑷ 形式的に複雑である,ないし形式的に首尾一貫している ⑸ 複雑な意味を伝達する能力がある ⑹ 個人的見解を提示している ⑺ 創造的想像力の実践となっている(オリジナルである) ⑻ 高度な技術の産物である人工物であるかパフォーマンスである ⑼ 確立されている芸術形式に属している(音楽,絵画,映画等) ⑽ 芸術作品を創ろうという意図の産物である これらの基準はあくまでも例示であって,内容は改訂や変更が可能であると述べる。こうした 基準の改訂可能性によって CAAの形式上の検討と例示の内容上の検討を峻別しておこなうこ とができることも CAAの利点であると主張しながら,より重要でありかつ関心を寄せている のは,この形式上の問題であると述べている。 さらに,ゴートはウェイツの主張と自説との差別化をはかっている。ウェイツは,何かを芸 術であるための必要十分条件を与えることはできないと主張して,すべての芸術に共通する本 質的な特性がある,という考えを退ける。ウェイツによれば過去の哲学者たちによって提供さ れた諸々の定義はそういった記述的な定義というよりもむしろ評価的な定義である。すべての 芸術に固定的な本質を特徴づける代わりに,良い芸術に対する賞賛の発露としてみなすことが できる質を「定義」は含んでいるはずである。ある専門家集団の推薦に過ぎないものが,すべ ての芸術に客観的に適用することのできる定義として提示される場合に,立派な評価の表れと して与えられるものなのである 。 ゴートは「芸術」に二つの意味があるという仮定は誤って基礎づけられていると否定する。 ゴートによれば,それは「健康」の概念を考えることで理解できるという。「われわれは,良い 芸術とか悪い芸術とか用いるのと同じように,誰かが健康だとか不健康だとか言うことがある が,そういった意味では「健康」もまた評価的な概念である。したがって,われわれが何かを Weitz,Morris[1956]“The Role of Theory in Aesthetics,”Journal of Aesthetics and Art Criticism 15(1956)または Davies,Stephen[1991]“Weitz’s Anti-Essentialism,”in Definitions of Art Cornell University 1991 p.6 ― ―40 北海道大学大学院文学研究科 研究論集 第10号 良い芸術だ,とか悪い芸術だとか述べることができるからといって,それは直ちに分類上の意 味での「芸術」が存していることを示してはいない。」つまり,「健康」という言葉も価値語の 一種であり,肯定的な評価を含んでいる。そして,「芸術」もまた価値語の一種として捉えるこ とができるとすると,そもそも「芸術である」というときには,肯定的な評価を含んでいるこ とになる。われわれは通常,「よい『健康』」,「悪い『健康』」ないし「よい『誠実』,悪い『誠 実』とは述べることができないので,それらには分類上の意味が存していると主張しない。し たがって,われわれが何かをよい芸術だ,悪い芸術だ,と述べることができるからといって, ただちにそのことが「芸術」が分類上の意味をもっている,ということにはならない,という ことなのであろう。さらに,ゴートは,こうした評価的な「芸術」という言葉の使用法につい ても CAAは適用可能だとしている。というのは,「何かを芸術として確立している複数の特性 の中には,美しいものである,とか創造的想像力の実践であるなどといった評価的な特性も含 まれているからである。たとえば,ある芸術作品は悪いとされるが,しかしその作品が芸術で あるのは,その作品が芸術作品かどうかを確立している他の特性を有している」ためである。 よってクラスター説にとって,分類的な意味と評価的な意味があるという論点は問題とはなら ず,むしろクラスター説によって「芸術」には二つの異なった意味があるという幻想から免れ ることができる,と主張する。 ゴートは自説の定義としての可能性についても,2000年の時点であらかじめ論じている。こ の点に関して彼は「すべての定義が必要十分条件の点から与えられる訳ではない。選言的定義 という考え方もある 」と譲歩して記述群は選言的定義と呼びうる可能性を認めている。しか し,それは言葉遣いの問題に過ぎず,「定義」という名で呼ばれるものだけが定義であると固執 することに意味はなく,もしそのように呼びたければ選言的な記述とも選言的な定義とも呼ぶ ことは可能だとしている。 しかし,現実問題として,哲学者たちが「定義」という言葉を用いる場合,念頭においてい るのは連言的な記述である。さらに,記述群に必要となる選言の数が増えるにつれて,頭の中 に一つの定義として思い描く記述のもっともらしさは減ってゆく,とゴートは述べる。たしか に,「A or B or C or…… or n,のうちのおよそ過半数くらいを満たす」という長いフレーズ (しかもA,B……は記述)が一つの定義だと考えるともっともらしくないと言われるのもうな ずける。ゴートは,記述群による説明がどちらの呼び名で呼ばれるにせよ,「本質的な点は,必 要十分条件の点から定義を与えることができないということ,そして代わりに指定された形式 の選言的記述を用いなければならないということ 」だとしている。つまり,「それぞれが単独 Gaut[2000]p.39 本文中この段落の引用はすべて同箇所。 Gaut[2000]p.40 Gaut[2000]p.40 ― ―41 伊藤:選言的定義としての芸術クラスター理論の妥当性について で必要条件となるような記述の連言的結合形式という意味では定義できない」という主張と, 「それぞれが単独で必要条件ではなく,結合して十分条件となる記述の選言的結合形式により芸 術概念は特徴づけられる」という二つの主張をおこなうのである。 すると,ゴートは「必要十分条件を与える」という意味では定義できないものの,芸術概念 の特徴付けに関して可能性を残していることになる。一方,ウェイツは芸術概念は開かれた概 念であるから定義できないと主張した。では,反本質主義の「必要十分条件を与えるという意 味では,芸術概念を定義することはできない」との主張の後半部分に主眼をおく立場と前半部 分に主眼をおく立場とに分類してみよう。すなわち,ウェイツのように芸術概念はそもそも定 義できないのだと主張する立場と,ゴートのように「必要十分条件を与えるという意味ではで きない」が他の分節化では芸術概念の定義可能性を残す立場である。すると反本質主義であり かつ,選言的定義にも分類される可能性があるということになる。先述の展開図を確認してみ ると,芸術クラスター理論(図中では cluster T.と表記)は反本質主義の系統と選言的定義の系 統との両者にまたがって位置づけられるということだ。しかし,定義不可能性を主張しながら 同時に選言的形式によって定義可能性を主張するのは,矛盾を呈しているように思われる。こ の矛盾はどのように解決されるべきだろうか。 これまでの議論を確認してみよう。芸術定義論の「あるものを芸術と呼ぶための必要十分条 件は何か」という問いに対し,ゴートは定義不可能性を主張する反本質主義の立場をより洗練 させたものとして芸術クラスター理論を提示した。ところが,「必要十分条件を与える」という 意味では定義できないとする一方で,複数の基準を選言的に結合することで芸術概念の説明を おこなうゴートの立場は,二つの相反する主張をおこなうようにも見え,矛盾を孕んでいるよ うである。 CAAは選言的定義であるとほのめかしながら,ゴートはなぜ反本質主義の擁護を強く主張 したのだろうか。複数の論者も CAAは定義であると批判している。CAAを定義だと呼ぶこと によって,ゴートは何を放棄したことになるのか。以下では,この点に関して2000年の論文に 対して寄せられた批判 とそれにたいするゴートの応答を検討してみる。 第三節 ステッカーとデイヴィスの批判に対するゴートの応答 定義論の代表的な論者のひとりである R.ステッカーは,歴史的機能主義を提唱して選言的定 義を擁護する立場で知られている。ステッカーは,ゴートの主張する CAAはその構造上の特徴 ゴートの2000年の論文に対してはその妥当性をめぐって多くの批判が寄せられた。後述する R.ス テッカー(2000)や S.デイヴィス(2004)の他に,T.アダージャン(2003)がある。ゴートによる 応答論文(2005)の後にも,A.メスキン(2007)らによって論争は継続されている。 ― ―42 北海道大学大学院文学研究科 研究論集 第10号 から選言的定義と同義であると指摘する。彼は,「ともに結合して十分条件になるような必要条 件」というよりも,むしろ「結合が解けると必要条件になるような複数の十分条件」だとして CAAを特徴付けている。さらに,何らかの概念が「選言的に定義されている」場合に満たさな ければならない要件を,CAAの構造上の特徴はすべてあらわしているとして,ゴートの CAA と選言的定義は同義だと指摘している 。 続いてステッカーはゴートのクラスター説が定義に等しいかどうかを見極めるための鍵とな るのは,ゴートが「有限でありかつ限定された諸条件の集合」を明示する意図があるかどうか という点を挙げている。もしゴートにそのような意図があるならば,CAAは選言的定義と同義 であり,もしそのような意図がないのであれば,CAAと選言的定義は区別されうるだろうと指 摘する。つまり,ゴートの挙示する基準は複数であり,なおかつ基準の組み合わせや内容が改 訂可能である点によって,ともすれば無限の集合を想定することも可能となる。ゴートが挙示 する基準を有限とみなすか,無限とみなすかによって,CAAが選言的定義であるか,そうでな いのかが峻別されることになる。 一方,同じく定義論の代表的な論者のひとりである S.デイヴィスは,自身による定義は提示 していないものの制度論の系譜に位置する「手つづき」による定義を擁護する立場をとる。デ イヴィスはゴートの主張を定義とみなし,次のような積極的な評価を与えている 。 「反本質主義の擁護に失敗しているばかりか,その反対である。必要十分条件の点から芸術の 定義をしうるというような見解にむしろ重要性を与えている。ゴートの立場は選言的定義の創 出である。なぜなら CAAは何らかの芸術作品にも偶然に見つけられるような恣意的な諸特徴 のリストとしてではなく,ひとまとめにされた諸原則の把握として提供されているからであ る。」「美学における本質主義に抗うと説明するよりも,本質主義が真であるための別の方法を 示している。」つまり,ゴートの主張する「結合して十分条件になる必要条件」という CAAの 構造上の形式は,ゴートの述べるように反本質主義を擁護するギロンとしては有効ではなく, むしろ,必要十分条件の観点から定義を与えている点で,本質主義的な要素が認められる,と デイヴィスの指摘は解釈できるだろう。 したがって,デイヴィスの批判は,CAAと同様の構造上の形式をもつ他の諸説をあげてそれ らが定義として扱われている点と,ゴートの述べる反本質主義擁護の根拠を否定する点にある。 ゴートは,芸術クラスター理論が,あるものが芸術概念に適用されるための多数の方法を認め るという点に,反本質主義の根拠をおいていた。ところが,デイヴィスによれば,この多数性 Stecker,Robert[2000].‘Is it Reasonable to Attempt to Define Art?’in Carroll(ed.),Theories of Art Today,pp.45-64 Davies,Stephen[2004].‘The Cluster Theory of Art’.British Journal of Aesthetics,vol.44,pp.297- 300 ― ―43 伊藤:選言的定義としての芸術クラスター理論の妥当性について は,定義と呼べないことの根拠にはなり得ないと批判する。 こうした批判に対し,ゴートはどのように答えているのだろうか。 まずステッカーの論点に対して2005年の応答論文でゴートは次のように述べている。「有限 かつ限定された諸条件の集合」であれば CAAは定義であるとステッカーは書いているが,どの ような正しい記述も,選言の「無限の」リストを用いることはない。われわれは真の人間の能 力を(「芸術」という語に適用させるために)象ろうと試みている。真の人間の能力はたとえ, そのリストが多種多様な基準を含んでいるとしても,有限なリストを要求するのである。(そし てわれわれの把握することのできる無限とは,帰納的に一般化されるような基数のように,す べて構築されたものでしかない)。」 ここでゴートは,構築された概念である無限のリストはつ くれないのであって,人間の能力を象った基準は有限なものとなりうるという見解を示してい る。したがって「これ(つまり有限かつ限定された諸条件の集合を明示すること)が CAAの目 的であるから,CAAは定義であると言いうることに同意する」として,CAAが定義であるこ とを認める発言をしている。ただし,ゴートは全面的に譲歩した訳ではなく,「高度に選言的で 多様性に富む」という条件付きならば,定義と認めるとしている。ステッカーの主張する選言 的定義は,時代と機能という2つの選言項からなる単純な選言的定義であるのに対し,CAAは より多くの選言項をもち,その分多様性をより多く認めうるといえるのだという。 では,2005年の応答論文でも譲歩しなかった反本質主義の擁護に関してはどのような議論を おこなっているのだろうか。つまり,デイヴィスの「多数性」は反本質主義への根拠とならな いという批判に対してどのように応じているのだろうか。ゴートはまずウィトゲンシュタイン のこのような諸概念は固定された境界をもたないが,しかしこのことによってそれらの概念は 使用に適さないということにはならないと述べる。境界を固定したいと望むのならば,その唯 一の方法は既存の境界を発見するというよりはむしろ,境界を描くことであるという見解を紹 介した上で,固定された既存の境界を発見するのではなく,境界を描こうとする姿勢こそが反 本質主義の基礎をなすと説明する。例えばウェイツの「開かれた概念」というのは,その概念 に適応されるための条件が改訂かつ訂正しうるということである。いいかえれば,ある状況や 事例が適用されるよう概念を使用できるように拡張するか決定を迫られる場合,ないしは新し い事例やその特性を扱うために概念を閉じたり新しい概念を発見しなくてはならない場合であ る。したがって,あらかじめ決定されたどんな境界も存在しておらず,新たな対象を芸術に含 めるかどうかについてそのつど決定しなくてはならないというのが反本質主義の立場である。 しかし,「開かれた概念」の中にも定義可能なものは含まれているし,反対に定義可能とされて よく例に挙げられる「既婚者」や「独身者」の例も改訂を迫られる場合があるだろう。このこ とから,「開かれた概念」によって定義可能か不可能かを峻別することはできないことがわかる。 Gaut[2005]p.286 ― ―44 北海道大学大学院文学研究科 研究論集 第10号 以上のことから,ゴートは「開かれた概念」ではなく CAAを反本質主義を擁護するための第一 の候補とすべきだと主張するのである。 ここまでの議論を整理しよう。ステッカーの「選言を有限とするか無限とするかによって定 義か否か区別される」という指摘に対し,ゴートは条件付きながら CAAは有限の選言項をもつ ため定義であると譲歩した。一方デイヴィスの選言項が多数であり不確定であるという点は反 本質主義を擁護する主張の根拠たり得ないという批判に対しては,新たな対象を芸術と含める かどうかはその都度決定し,境界を引くのだから,選言項が多数であり不確定である点は依然 として反本質主義の立場を維持しうると主張した。 しかし,新たな対象を芸術に含めるかどうかに関して厳密な境界を設るのが難しいという点 はどの定義論に適用される難点であり,反本質主義に限った問題ではない。以下ではこの問題 を検討することで,CAAの妥当性を明らかにするよう試みる。 第四節 選言的定義としての妥当性 ゴートは,芸術かどうか意見のわかれる境界事例に関しては,議論を重ねることが重用で, またそのような議論の蓄積が,何が芸術の基準なのかを発見するのに特に有用だと述べている。 ここで,境界事例の観点から今日の定義論が抱える問題点について考察してみよう。現代の芸 術作品を定義(ないしは反本質主義の立場から特徴づけ)しようとする場合には,境界事例を どのように扱うかという点が重用性をもつ。例えば一義的な定義論を論じる場合でも,その定 義とする条件をどのように拡張,解釈することで新たな境界事例を含意するのかという議論が なされることになる。或いは,多義的な定義論,すなわち選言的な定義論もまた,定義とする 諸条件を拡張・解釈することで,境界事例に対する判断をおこなう。つまり,境界づけをその 都度おこなうという態度自体は反本質主義に限ったものではないことになる。形式上はすでに 選言的定義だとゴートは認めているし,境界事例への態度に対しても反本質主義に限ったこと ではないという二点から,CAAは選言的定義だと認めうるのではないだろうか。 それでは,CAAを選言的定義とみなした場合,どのような妥当性が認められうるかを考察し てみよう。ゴートは CAAの発見的有用性について次のように述べている。「CAAは,唯一絶対 の価値,単一の価値よりも,複数の,多種多様な価値を重要視する。このことから,多領域と の結びつきを吟味するよう促し,芸術形式の多様性に対して敏感になり,そうして見いだされ た多様な形式と芸術と等価な特性との両方を正当化することができる。」さらに,「『芸術』の 記述群に含まれる特性や基準は,他の人文学の領域とも共有される。したがって,記述群によ る説明は,細分化した専門領域内のみの特殊理論ではなく,美学と他分野とのむすびつきを検 Gaut[2000]pp.40-42 本文中この段落の引用はすべて同箇所。 ― ―45 伊藤:選言的定義としての芸術クラスター理論の妥当性について 証する際に用いることができるものである。」最後に,「分析美学は「芸術」を,必要十分条件 を与える「定義」との関連付けからのみ扱い続け,近視眼的だった。記述群による説明は,(他 領域との関連を考慮し,厳密な「定義」に固執せず多様な価値を正当化し発見するので,)分析 美学は依然として成果に富むということを示すことができる。」と述べている。つまり,芸術と 等価な多様な価値を発見し芸術以外の人文学領域と基準や質を共有可能なこと,新しい作品例 に対しても対応可能であること,近視眼的に定義を探求した分析美学への反省となり「哲学的 美学の指針」を提示すること,これらの3点に発見的有用性が認められるという。先ほどのデ イヴィスの引用にもあるとおり,CAAは特性の恣意的なリストではなく,何が芸術かに関する 諸原則の把握だといえるし,「芸術と等価な諸特徴と相対的な価値を特徴化することによる定義 の定式化かつそれらと相関関係をもつ等価な次元への分解だと要約しうる」。つまり,芸術と 等価な価値を特徴化することで,芸術とはどのような特徴,基準,価値と同等なのかを再構成 するための一つの契機となるということが示されている。新しい境界事例の扱いに対して判断 を下す際,新たに認められうる芸術と等価な基準を設けることになる。このように設られた基 準は,不適当となった既存の基準と取り替えられ改訂される。さらに改訂された諸基準をひと まとまりのものとして,我々は今日の定義に資する諸基準の束を獲得しうるといえるだろう。 結 語 本稿は,近年の分析美学における芸術定義論のひとつである「芸術クラスター理論」をとり あげ,芸術定義論の学説史の展開図を作成してその位置づけをおこなった。一見矛盾を包含す るように思われる錯綜した議論に整合的な解釈を与えることを試み,さらに,有限な選言項を もつ CAAは形式上選言的定義と認められるが,新たな境界事例に対しその都度境界を設ると いう立場は反本質主義を擁護する主張だとするゴートの議論を確認した。しかし,新たな境界 事例に対する態度変更は反本質主義に限らず他の定義論にも等しく認められるべき今日的問題 であるから,ゴートの主張は維持できず,むしろ,選言的定義として,芸術と等価な新たな価 値を統合して提示するところに意義がありうるということを示した。選言的定義一般の有する 問題に関しては今回言及できなかったが,芸術多様性を捉えるという点に意義を持ちうると予 想されるので,今後の課題としたい。 (いとう さき・思想文化学専攻) Davies[2004]p.300 ― ―46 北海道大学大学院文学研究科 研究論集 第10号 参考文献 Adajian,Thomas[2003].‘On the Cluster Account of Art’,British Journal of 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