研究ノート> ウイルタ語調査報告 風 間 伸次郎 東京外国語大学 0.本稿の構成 本稿は3つの部分よりなる。1節では、調査のあらましについて述べる。2節では、コンサルタ ントより伺った人類学的な情報を示す。3節では短いウイルタ語のテキストを1つ示す。短期間で の調査であり、拙い報告となってしまったが、他にない情報が少しでも得られていれば幸いである。 誤謬等の御指摘を乞う。 1.調査の概要 以下、1節におけるさまざまな情報は、現地の方々や同行の方々からの御教示を賜ったものであ る。逐一伺った方の名前を記さないが、その点についてお詫び申し上げるとともに、深く感謝申し 上げたい。 調査は2010年8月7日~18日の12日間、うち11日~16日はノグリキにて、さらに12日~15日 にはトナカイキャンプ地(おおよそ地図2の矢印の地点)にまで入ることができた。現地に長期間 滞在して本格的にウイルタ語を調査している山田祥子さん(北海道大学)、ウイルタでありウイルタ 語の流暢な話者であるビビコワさん(E.A.Bibikova)とフェジャーエワさん(I.Ja.Fedjaeva) に全面的にお世話になり、先導していただくことによってこのような調査は実現した。 8月7日、千歳空港よりユジノ・サハリンスクへ向かう。千歳空港には、今年(2010年)3月に 国際線ターミナルが運航を開始した。17:00発、1時間20分ほどの飛行でユジノ・サハリンスクに 着く。プロペラ機(Bombardier DHC-8-300)であり、低空飛行であるが、曇っていたため下の景 色は見えなかった。横に4席、12列で48人乗り、ほぼ満席であった。サハリンの面積は北海道と同 じぐらいだが、人口は北海道の1/10ぐらいで、現在は50万、もしくはそれよりももっと減少した 人数であろうという。気温は25度ぐらいで、けっこう湿気がある。1、2年前には石油の関係から 人が多く訪れ、ホテル代が1泊2万円くらいしたこともあるが現在は落ち着いているという。 8月10日、20:45発の夜行寝台でノグリキへ向かう。ノグリキはこの鉄道の終点で、サハリンの 北端から1/4ほどの位置にある。定時の10:10にノグリキ着。駅から街までは遠く、車で10分ほ どかかり、しかも車以外に交通機関がない。いったん海のほうに出て、若干内陸に入ったところで、 ノグリキに着く。ノグリキの人口は約3千人、半数弱がニブフで、ウイルタは非常に少ないという。 51 天気が悪かったこともあって、気温は20度に満たないぐらいであった。ノグリキの街には博物館が あって、実際に使用されていたものが多くあり、展示はなかなか充実している。サハリン北部のウ イルタの服には前掛けがあり、これはエウェンキーの影響を強く受けているという。筆者のみると ころ、大陸のウルチャやナーナイと共通する文化的要素も多いが、大陸にないものには例えばアザ ラシ皮のスカートがあって、これはニブフの影響によるもののようだ。最後にクマ祭りが行われた のは1992年であったという。 8月12日、大型のトラック(写真1・2)をチャーターしてトナカイキャンプ地へ向かう。片道 のチャーター料は2万2千ルーブルであった。11:00出発の予定であったが、最終的に出発したの は11:40頃であった。ここからサハリン島のほぼ北端に近いオハの街まで、東海岸沿いに本道が伸 びている。オハは北サハリンにおける最大の街である。途中には温泉などもあり、時々海が見える。 川をいくつか渡りつつ北上して行く。2時間弱ほどでワール村に着く。ワールはノグリキからオハ に向かって1/3ほど行った地点にあり、北サハリンのウイルタの中心地というべき村である。ソ連 になってから村が建設され、それまでトナカイ遊牧であったウイルタたちの定住化が進められた村 であるという。ワールの人口は約1,700人で、うちウイルタは130~150人ほどであろうという。こ こで食料などの買出しを行い、さらに北上する。当然ながら道に舗装はなく、黄土色の土はここ数 日の雨によってぬかるんでいる。ワールまでは75kmで、道の状況が良ければバスでも1時間、早 北方人文研究 第4号 2011年3月 地図1:サハリン全図 地図2:調査地点 52 い車なら40分ほどで着けるという。道の両側はもっぱら松をはじめとする針葉樹の森で、ヤナギラ ン(露:ivanchaj)という紫色の花(写真4)などがところどころに咲いている。1989年に大きな 山火事があり、その後も数回、近くは1995年にも山火事があったそうで、道の両側にはしばしば黒 焦げの地帯が続くこともある。山火事の跡に、最初に生えてくるのはハンノキであるという。 ワールからオハに向かって1/3ほどの地点で右折し、ここからはピリトゥン川の右岸に沿ってこ れを下り、海岸へ向かう。この地点にはかつてピリトゥン(Pil’tun)と呼ばれていた集落があった そうで、地図にもそう記されている。川沿いに下り始めたあたりに、1930年代(1938年頃?)に最 後のシャーマンを葬ったという場所がある。16:00頃、車から200mほどのところに野生のクマが 行き来しているのを見た。 河口付近で川を渡り、海岸沿いを北上する。道は悪く、このような大型トラックなどでなければ 進むことが難しい。オジロワシやオオワシも多く見ることができて、この地域の自然の豊かである ことがわかる。16:45頃、灯台に到着する。ここには数件の家があり、現在はここをピリトゥンと 呼んでいるようだ(写真5)。 ここから7kmほど内陸に入った地点に目指すキャンプ地がある。最後の1、2kmほどは、この 風間伸次郎 ウイルタ語調査報告 写真1・2:調査地に入ったトラック 写真4:ivanchaj写真3:道の状況 53 トラックでもはまってしまうため、徒歩で行く。17:00頃着。トラックを降りた地点でたくさんの 人が出迎えてくれた。その地点に1家族のキャンプがあった(1家族といっても、もちろん大家族 である)。ここの女主人はトナカイキャンプの組合の長をしているという。現在トナカイ遊牧に対し ては政府より補助金がでていて、それによってかろうじて成立しているというような状況であると いう。我々がお世話になるキャンプは上述したようにここからさらに1、2km先にある。ユジノ・ サハリンスクの博物館館長のローン氏によれば、我々が行った場所はエウェンキー語で「ジムダー ニ」と呼ばれる場所であろうとのことであった。ジムダーニはそこの川の名前であるという。 雨が続いていたせいもあるが、ここは海岸沿いの湿地帯で、クリスマスツリー並みの小さな松が わずかに見られる以外は、ほとんどベリーやトナカイゴケ、ハイマツばかりが生えるツンドラ状の 地帯である。私は歩いているうちに深い水たまりに囲まれてたちまち身動きできなくなり、すぐに 長靴に履き替えなければならなくなった。天候も悪かったが、気温は15度前後で、霧雨混じりの横 殴りの風が強く吹いていて、体温がどんどん奪われる。大陸であれば、たとえ緯度が高くとも8月 ならかなり気温は上がるので、それほど厚着をして来なかった。また以前にユジノ・サハリンスク に行った時に、植生も気候も北海道にとてもよく似ていると感じたのも不十分な装備で来てしまっ た原因の一つであった。聞けばサハリン南部はたしかに北海道のようだが、サハリン北部はカム チャッカのような気候であるという。植生も気候に応じ南北で大きく異なり、その境界は旧日ソ国 境より緯度にして15度ほど北のあたりであるという。他方、この夏の日本はひどい猛暑で出発時の 東京は35度、その時点での熱中症による死者が200人を超えていた。この調査の期間中の体調不良 は、気候の違いにすばやく適応する体力に欠けていた点にもその原因があったように思う。日本で あれば2000m級の、北海道でも1000m級の山の上に生えるハイマツが、海抜0mから生えている ことに驚かされた。 着くとトナカイの肉の他に、アザラシの肉や脂(写真12)をごちそうになった。海沿いであるの で、このようなものも得られるのだ。母屋のテントに泊めていただく。普段、彼らは全員入り口の 方へ足を向けて川の字になって寝ているようであった。テント自体は現代のもので、真中に小さな 薪ストーブがあり、煙突が外に突き出ている。まず杉の枝葉が敷いてあり、その上にトナカイの毛 皮が敷いてある。しかしこの晩、ある事件があって翌朝我々はもう一つの家族のキャンプに移るこ ととなった。この事件について詳細を記すことは控えるが、私たちのトラックにワールから同乗し 写真5:現在のピリトゥン 写真6:到達地点と迎えてくださった人々 54 北方人文研究 第4号 2011年3月 てキャンプに戻った人々の持ち込んだウォッカもその一因であったと思う。少数民族とアルコール の関わりについて改めて考えさせられた。 翌日(8月13日)も天候は悪く、多くの時間をテントの中で過ごした。おかげで上述のお二人(E. A.Bibikovaさん、I.Ja.Fedjaevaさん)より、いろいろと聞き取り調査を行うことができた。 翌8月14日も小雨であったが、朝トナカイの繫ぎ替え(写真13)を見学した。昼のうちには仔ト ナカイを放牧し、夜は母トナカイを放す。したがって朝夕に繫ぎ替えをする必要がある。しかしト ナカイの乳搾りをしているわけではない。キャンプの周辺にいるのはもっぱら母仔のトナカイで、 雄のトナカイたちは半島のずっと北の方へ行っているそうだ。5月の段階で、ここには2家族で150 頭ほどのトナカイを保持していたという。現在は200頭近くになっている可能性があるという。ど 写真10:トナカイの毛皮が敷かれている写真9:薪ストーブ 写真8:キャンプ地の様子写真7:泊めていただいたテント 55風間伸次郎 ウイルタ語調査報告 ちらの家族も、家の周りに母仔のトナカイを30頭ずつぐらい配しているようだ。トナカイはシカの 仲間であるが、鼻に毛が生えていて蹄が横に広く、オスメスともに角が生えている、などの点でシ カと区別されるのであるという。 この日はモーターボートで半島の先の方へ行き、雄のトナカイたちの群れを見学して徒歩で帰っ てくる予定であったが、群れが遠くに行ってしまっているそうで計画はお流れになった。最近の雨 続きでキノコがたくさん生え、それを食べているうちにトナカイたちはだいぶキャンプから遠くへ 離れてしまったのだという。代わりに橇を引くところやトナカイに乗るところなどを見せていただ いた。チュルクの諸民族が左側から乗るのに対し、ツングースの諸民族は右側から杖を使って乗る というが、そのことも実地に確認できた。 やがて雨は止み、上述のお二人はベリーを採りにでかけた。私もそれに随って歩いた。たしかに 湿地一帯には、コケモモ、ガンコウラン(写真15)、クロマメノキ、ホロムイイチゴ(写真17)な ど、さまざまなベリーがたくさんあった。ホロムイイチゴは赤いものと黄色いものがあり、黄色く なるほど熟していて柔らかい。「クマのベリー」(写真16)と呼ばれているものもあり、有毒である という。大地には無数のベリーが広がっていた。シャーマニズムに必須の植物であるイソツツジ(写 写真11:多岐の角を持つ年輩のトナカイ 写真12:アザラシの肉 写真13:繫ぎ替えの様子 写真14:放牧の状況 56 北方人文研究 第4号 2011年3月 真18)も生えていた。ウイルタでもやはりシャーマニズムに用いるのだという。 8月15日、朝8時に再びトラックにて帰途につく。朝早く発つのは、この時間が引き潮であるか らだという。本道に出る手前のあたりで一度タイヤの点検のため止まる。お二人は今度はキノコを 集め始めた。10分ほどの時間であったが、ビビコワさんとフェジャーエワさんのお二人は結構な量 のキノコを集められた。ウデヘやナーナイは基本的に木の上に生えるキノコのみを集めて食べる。 毒にあたるのを恐れてのことであろう。お二人が集めているキノコも基本的に1種類のものだけと のことであった。10:30前にはワールに着く。11:00にはワールを出発、やはり道の状態が悪かっ たため、行きと同様2時間ほどかかって13:00頃ノグリキに戻った。 翌8月16日に、3節に示したテキストの聞き取りおよび書き起こしを行った。19:00発の汽車に 乗り、翌8月17日の朝10:59にユジノ・サハリンスクに着く。距離は600kmだそうで、平均時速 は38kmということになる。このように時間がかかるのは、基本的に途中で何度も長い時間止まっ 写真15:ガンコウラン 写真16:「クマのベリー」 写真18:イソツツジ写真17:ホロムイイチゴ 57風間伸次郎 ウイルタ語調査報告 ているためである。 8月17日は快晴で、帰りの飛行機からは海峡や利尻・礼文、稚内、札幌などの眺めを十分に楽し むことができた。 2.人類学的情報 以下の情報は、上述のE.A.Bibikova氏(1940年、ダーギ(daagi、ノグリキの近くだという) 近くのキャンプ地生まれ)、I.Ja.Fedjaeva氏(1940年、ワール(val)村生まれ)の両氏より、ロ シア語で質問しロシア語で答えていただいたものである。基本的に両氏の語ったままの情報である が、語られた順序どおりではなく、テーマに沿って再構成してある。ウイルタ語の単語を教えてい ただいたものは( )内等にこれを示した。基本的に音韻的な表記によっているが、さらに音韻論 的な検討が必要と考えられる若干の音声的な特徴(例えば有声軟口蓋摩擦音の など)については、 それを反映させた表記となっている。筆者自身の考察や、後から文献などにより得た情報は[ ] 内に示した。両氏に同じような質問をした部分では、答えの内容が重複しているものもある。同一 話者の内容にも若干の重複がある。 本来であれば、ウイルタに関する人類学的・民族学的な諸先行研究の成果をまとめ、それらの記 述との異同などについて整理すべきであるが、筆者の力量不足により為し得なかった。得られたウ イルタ語の語彙についても、池上(1997)およびOzolinja(2001)によってその記録の有無を確認 し、方言差について検討することが望ましかったが、これもごく一部の語についてのみ行ったにと どまっている。 2.1.E.A.Bibikova氏より得た情報 ・トナカイについて 7月の終わり頃に、2、3日かかってトナカイを数えた。まずトナカイたちを追い立てて、それ からその時同時に去勢もする。数える時には、角に赤い布を縛り付けて目印とした。数えながら、 オスとメスとkoorbo「種トナカイ」と1歳に満たない仔トナカイ、1歳の仔トナカイ、2歳の仔ト ナカイ(apala)、などのように分けた。牧民はトナカイの顔を見れば全部わかるのである。トナカ イは年齢によって6種類に分けられた。オスもメスも同様に年齢によって分けられ、合計12種類に 分けられた。「これは何、これは gulu」[guluは池上1997によれば、三歳のメスのトナカイである] などと一人が叫び、記録する者がその傍らでそれを記録する。それから放すと、今度はそこで去勢 の施術を行う。これらの仕事は組織的にたいへん良くなされていた。 トナカイを数え終わると再び内陸の方へ、高い土地の方へと上って来る(私たちのキャンプは毎 年daagi川に沿って上ったり下ったりを繰り返していた)。その頃にはアブはもはや少なくなり、さ らにはいなくなっている。8月には山の頂上のあたりに上っている。そこで冬を過ごす。冬、そこ で男たちは狩りをする。春になると再び戻って来る。 秋になって(10月~11月)厳しい寒さが訪れると、山の上にはトナカイ牧場(露:koral’)があ るが、そこで 殺を行ってトナカイの肉を生産する。コルホーズの計画に沿って、一定の数を 殺 した。一方、自分たちが食べるための肉は、(当時のウイルタの男たちは)もっぱら野生トナカイを 捕らえて調達していた。 夏には冬に食べるためのものを作って蓄え、冬には夏に食べる物を作って蓄えるものだった。し 58 北方人文研究 第4号 2011年3月 たがって冬に獲った野生トナカイの肉は細く切って干し肉とし、夏に食べるために蓄えた。四角い のや細長いのや、好きな形に切ったものを干した。よく干せば、ひと夏の間保存が利いたので、今 のように蒸し煮した缶詰の肉を買う必要がなかった。干し肉はolooktoと言う。牧夫が放牧に出る 時には必ず弁当として持って行った。他に彼らは、飲み物、小さな鍋、などを持って行った。魚は 行く先で調達した。水鳥も撃って得た。夏の8月ともなれば、すでに干し鮭を準備し始めていた。 白樺樹皮製の容器(xurum u)に入れ、トナカイの皮で作った袋にさらにそれを入れていた。砂糖 などはロシア人から買ったが、肉を買うことはなかった。 7、8、9、10月にはトナカイの乳も得ることができた。トナカイの乳は一晩寝かせてからでな いと飲めない。トナカイの乳は白くて牛乳のようである。その後ビンに入れてこれを振ってトナカ イのバターを得る。ビンは普通のビンでよいが、大きければ大きいほどよい。私が子供の頃にはシャ ンパンのビンを使っていた。母が振って作っていたものだが、私もよくこれをさせられたものだ。 バターを採った残りの乳はストーブの上で煮ればもっと濃くなり、別の料理となる。これはそのま ま、もしくはレピョーシュカ(小麦粉で作る平たくて円形の食べ物)と一緒に食べた。子供はたい へんにこれを喜んだものだ。トナカイの乳はクロマメノキとともに、現代のヨーグルトのようにし て食べるとたいへんにおいしく、私も大好きだった。トナカイの乳はulaa kooniという。乳は一般 にkooと言う(nari kooni「人間の乳」、ixa kooni「牛乳」)。 さらにサワークリームのようなもの(koorcik)を、koorcikikkuという道具(泡立て器、写真19) を使って作る。これはパンに塗ったりしても食べる。トナカイの乳の乳脂肪分は11%である(ヤギ は5%、牛は3%)。脂は simur と言う。トナカイの肉を煮て、上に浮かび上がってきて固まった 脂もやはり(ulaa)simur (ni)という。これに対して液状の脂を ildaと言う。アザラシの脂をpaikta ildaniと言う。トナカイのソーセージをpulduxiと言ったのではないか(あまり自信がないが)。脂 のついた肉を細かく切って、そこにギョウジャニンニクをかけ、よく洗った腸の中に詰めて煮る。 トナカイの足の先(ひづめ)には、非常に脂の多い箇所があり、これを一日中煮る。小さな骨が 全部簡単に取れるようになるぐらいまで煮る。kukca(ひづめの肉)だけが残る。ギョウジャニンニ クと塩を入れ、冷ましてからしばらく置いておいて煮凝りを作る。足の上部(腿)は生で食べた。 薄く切って、魚の刺身のように、半分凍らせて食べたものだ。 写真20:トナカイの鈴と足枷写真19:koorcikikku 59風間伸次郎 ウイルタ語調査報告 肝臓も生で、半分凍らせて食べた。生肉、生魚を切ったものは talaaという。凍らせない場合には、 細かく切って、ギョウジャニンニクを混ぜ、胡椒やタマネギも混ぜ、挽肉状のものを作る。これを パンなどに塗って食べた。もちろん新鮮なものに限る。腎臓(bosokto)も生で食べる。脳や骨髄も 生で食べる。頭は骨が多いので、煮てから煮凝りを作る。目は生では食べない。大きいので、煮て から刻んで食べる。 トナカイを屠殺する時には首のところをナイフで一突きして殺した。その血を集め、一晩寝かし、 まだすっかり固まらないうちによく捏ねるととても濃くなる。これに胡椒やギョウジャニンニク、 今ならタマネギを加え、よく洗った腸に詰めて煮て「血のソーセージ」を作る。ウイルタ語で何と いうのか知らない。 トナカイを意味なく屠殺することはなかった。もし足を折ってしまったとか、何らかのアクシデ ントがあった時にだけ屠殺した。その時10のテントがあれば、肉を10の部分に分け、必ず全員に 行き渡るようにした。解体は男の仕事で、女はしない。戦時中、男たちが皆兵隊に取られてしまっ た時には、女性も行ったに違いないが、その時には老人たちが手伝ったのだろう。 唇の近くにも肉がある。これを熱くなったペチカの上で若干両面を炙って食べるのもおいしい。 これは女性が縫い物の仕事をしている時に少し口にしたりするものである。 トナカイの舌の先端の肉(sinu t kk ni~sinu duw ni)は必ず火に投げ入れた(火の神に捧げた)。 t kk はふつう「根」のことだが、このように先端のことも言う。 6、7月のトナカイの若い角(露:panty)は毛が生えていてこれをuȷil と言う。縛ってから切 り取り、火で表面を焼いて、それからナイフで毛を削り取る。これを食べるが、おいしい。硬いと ころがあまり好きでない人は血を吸う。健康にもたいへん良い。8月にはもう木のように硬くなっ てしまって食べられない。若角から薬を作ることはなかった。近年では集めて作る者もあった。以 前はトナカイももっとたくさんいて、若角もいっぱい採れた。 トナカイの多いことはこんな風だった。ある時、遠く地平線の方に黒い線のようなものが見えて、 急いで車に乗り込むとあっという間に車は野生トナカイの群れに囲まれ、その群れはさらに先へと 去って行った。野生トナカイの群れは s siと言う。geeda s sii baaxambi,ulaaba waaxambi.「一 つの群れを見つけて、トナカイを獲った」のように言う。 トナカイ牧民はトナカイ遊牧をしていて、移動の途中、何ヶ所か留まるところがある。そこに紐 の罠や金属の罠を仕掛けて、クロテンなどを獲ることもあった。常に狩りをするわけではない。最 近で覚えているのは、ある年に20頭ほどのトナカイ、10~15匹のクロテンが獲れて、ニコラエフス クから買い付けに来た商人たちに売った、という話を記事で読んだことがある。 かつては一年に二度ここからニコラエフスクまでトナカイを渡した。砂糖などを買う必要があっ たからだ。夏に川に沿って山に登り、マイの山を越えて、サハリンの西海岸側に出る。冬はトナカ イに乗って、夏は徒歩と舟(ugda)で行った。その頃の舟は丸木舟だった。かつては各家族に丸木 舟があった。舟はトゥイミでニブフから買った。ニブフには大きな斧があって、これを作ることが できた。私の母方の祖父もこうした技術に長けている人(pakci nari)であって、作ることができた。 ・魚について 秋にサケがたくさん溯って、干物を作るヒマがない時には、頭と尻尾を切り落とし、両側から3 枚ずつ薄く切り取ったものを串焼き(silo)にする(動詞は silleeci、現在の3人称複数形)。焚き火 の周りに10匹ぐらい並べて焼く。もしくはその串に刺したものを、小屋の中の焚き火の上の棚 60 北方人文研究 第4号 2011年3月 (kiporo、4本の足があるという)の上にたくさん並べて、水分を抜き若干煙に燻して固くなったも のを作る。これも冬の食料となる。 以前はコルホーズで特別に魚を捕っていた。11月、もしくは年によっては10月にはもう可能だっ たが、寒波が来てから後、ワールから山の方へ上り、アッダウ(addau)川で魚を捕った。支流が流 入しているところで、秋鮭(goodu)を捕った。そして春になるまで村に定住している人々に供給し た。ギョウジャニンニク(siduli)も同様にして集めた。私たち子供たちも自分たちの分のギョウジャ ニンニクを、薄皮を剥いできれいにするようにと言われ、よく手伝わされたものだ。大人たちはき れいにしたギョウジャニンニクを切って塩した。ギョウジャニンニクは現在におけるタマネギのよ うに炒めたり、スープにしたり、味付けに使ったりして食べた。ギョウジャニンニクを食べれば虫 歯になりにくい。 この時期の鮭からは干物の一種であるxawajaを作った(xawajamba andusipu.「干物を 私た ちは作る」)。干すというより、直接この時期の寒さで凍らせて作る。魚の両側から皮つきで、骨の ところまで横に切り取ったものを、捕ったところで干したものである。凍った後、村に持って帰る。 夏に捕った鮭から、皮を一枚薄く切った後、そこから最初に一番脂っぽい部分を薄く薄く取った ものは s in という。さらにその次に、「アコーディオン式(露:garmoshkoj)」に細く切り取った ものを干して作るのは jaawuという。場合によっては少し塩水に漬けてから干す。jaawuを取った 後、さらに背骨の両側の残った肉を切り取ったものをb kk iと言う。一匹の魚からb kk iは切り ようによってはたくさん取れる、両側で6つなど。mauriは皮のついた干物である。mauriは干物 についての総称でもある。「貯え(露:zapas)」を一般に t liという。動詞としても使う(t lix mbi 「(私は魚を)捌いて貯えを作った」)。 [なお干物に関して、Ozolinja(2001)にはxawajaa, jaawu, b kk j, mawriともに記載がある (表記はOzolinja(2001)のまま)が、池上(1997)にはxawajaについての記載がない。jaawuに ついて、池上(1997)は「さけを三枚におろし、皮はそのままにし、頭・骨・尾を除いたもの(肉 二枚は切り離される、また乾きやすくするために切りめを入れる。あなをあけ棒に通して干す、火 だなには掛けて干す)」としている。jaawuについて、Ozolinja(2001)は「干物の一種。秋鮭の最 初の縦の一切れ(皮の下の)。ふつう横の〝アコーディオン式"に切られたもの」としている。s in はOzolinja(2001)に記載がない。池上(1997)には s in「となかいの腸や胃についているあぶら」 とある。t liについて、池上(1997)は「さかなの切り身」とし、Ozolinja(2001)は「⑴食料の貯 え、⑵干物の一種、…」としている。] 50代、60代と高齢になってくると、トナカイのことに従事するのはつらくなってくる。その世代 は川に沿って、または河口(uni daani)に家屋(aundau)を建てて定住し、もっぱら魚を捕ってた くさんの干物を作った。干物は、まず皮を剥いでから、薄く薄く3枚ほど取り、これを棒(sairi) に刺したりして干す。これは s in と言い、最も脂ののった部分である。魚の両側から合計6枚取れ る。その後b kk iだが、これは普通4つ取れる。お腹の部分もたいへん脂が乗っていておいしいが、 これも干す。これの名称は覚えていない。最後に残るのが s riで、背骨に残った肉がついたもの のことである。魚が大量に捕れればこれも大量に得られる。 s riを煮て、魚の粉 suluktaを作る。これは魚を丸ごと煮て、煮えたら皮を取り、骨を小さいの も皆取り除き、その汁を絞り取って、作るものである。天気の良いときに広げて干す。天気が良け れば太陽と風の力であっという間に乾く。その後、板の上で擦って作る。ごはんにふりかけのよう にかけて食べる。いつでも食べられる簡易食である。もしくはこれにお湯を注いで、各人の好みで 61風間伸次郎 ウイルタ語調査報告 脂やベリーを加えて混ぜて食べる。トナカイ牧民が遠くへ遊牧に出ているとき、特に強い火が得ら れない時などに食べるのにもたいへん便利である。s riは、suluktaを作る必要がなければ、頭を つけたまま干して、犬の冬用の餌にする。 魚卵(イクラ:xairi)も干す。セイヨウスギ(露:kedr、ハイマツのことか)の実(bookto)を 干したものと一緒に食べる。一緒に食べるとビタミンが加わる。胃も煮て食べる。ある者は心臓、 肝臓、白子、を挽肉にして胃で巻いて食べたりもする。これはolopul puxi「煮た内臓」と言う。 これはイトウからも作る。イトウからはb kk iは取れるが、s in は取れない。基本的に上記の干 物類はサケについてのはなしである。カラフトマスではmauriしか取れない。しかも subgulu mauri「魚皮のついたマウリ」である。両側からこれを切り取って終わりで、残りの骨(s ri)は 犬にやる。 サケはdawa、マスはoworoと言う。サケ・マス以外にはnalduma「イトウ」を食べた。これか らはサケ・マス同様、mauriや jaawuを作ったが、夏に生で食べることもあった。近年では尻尾以 外は挽肉にしてしまい、干物はもう長いこと作らなくなっている。他にはkaa ai「コマイ」を食べ る。頭と骨を取った切り身にして干す。冬には talaaで、つまり生でも食べる。loima「アメマス、 露:kumzhaサーモントラウト(ニジマス科)」には何種類かあり、皮が赤いものも、銀色のものも ある。赤い(s m bii)ものはkawciと言う。他に食用の魚にxojodo「イワナ、露:goletsホッキョ クイワナ?」、poskoi「ラッド(鱗の赤いコイ科の淡水魚)」、mamaacca「カワカマス」、biro「チカ」、 nilcuuli「キュウリウオ」がある。「カジカ」には2種類あり、laska a,baskuiと言う。laska aは 黒く、その肉は少し硬めであり、baskuiは美しく模様がついている。カジカは食べると健康に良い。 「カレイ」にも2種類あり、ざらざらしたほうのものを sk 、つるつるしたほうを lokkoと言う。 キュウリウオはポロナイスクで捕れるものはおいしいが、ノグリキで捕れるものはさほどおいしく ない。 ウイルタはどんな魚でも生で食べるというわけではない。冬は捕ったそばから凍るので良いが、 夏は問題だ。しかし lokkoは生でも食べる。やはり細かく切って塩や胡椒で食べるとおいしい。ア メマスも生で食べるが、一年中というわけではない。たしか春だと思うが、アメマスには虫がいる。 ラッドも細かくタタキにして塩や胡椒、タマネギと混ぜて生で食べる。イトウは夏には尻尾のとこ ろだけ生で食べる。冬は他の部分も生で食べられる。 産卵を終えたサケは、初冬に山の上で得られるが、捕ったらそのまま凍らせて保存しておく。こ れも火を通さずに食べる。切ったら、さらにそれも干す。すると脂のある干物が得られるがこれを xawajaと言う。サケは主に銛(ȷobgo)で捕るが網(aduli)でも捕る。釣って捕ることはumbuccici (現在の3人称複数形)と言う。特に女性たちは冬に氷に穴を開けて釣りをするのが好きで、魚が食 いつくと(su datta ikt munduini、「魚が食いつく」)、「ハアーッ」と声を上げたものである。こう して冬や春に主にアメマスやイワナを釣った。イワナの肉は柔らかく、私の夫が好きだった。 ・植物等の採集 海岸の浅瀬で、pu da mooni「ハンノキ(榛)」があるところに、クロユリが生える。これを抜く と、karka「クロユリの根」が得られる。それを干して、ニブフ語でいうmosi、ウイルタ語でいう musiという料理を作る。ベリーと混ぜて作る料理である。今はその代わりにジャガイモを使ってい るが、以前はジャガイモがなかったので、これを使っていた。 一般に siduli「ギョウジャニンニク」以外の植物は、特にそれを採りに行くということがなく、あ 62 北方人文研究 第4号 2011年3月 ればそれを採るという風であった。siduliは5月に集めたが、そんなにたくさん集めることはなかっ た。siduliは早く傷むからだ。以前は塩が無かった。3リットル入りのビンに入れて塩して保存する ようになったのは最近のことだ。以前は単に焚き火で表面を焼いて食べた。 paama「ガンコウラン」と魚の身とアザラシの油から、soliという料理を作る。 他にも魚の肝臓と白子を集め、アザラシの脂を少し足し、つぶす(monnici、現在の3人称複数形)。 そこに s duxi「ベリー(総称)」を加えて料理を作る。 キノコはd u kt と言う。 bojo s duxini「クマのベリー」もしくはorki s duxi「悪いベリー」と呼ばれるベリーがあって、 これは有毒であり食べられない。その葉は先のほうが紫色~茶色で、根元のほうが緑色で二色になっ ている。私たちは縫う時にその葉のような模様で縫うことがある。 s kkur 「イソツツジ」もある。これは悪い魔物を追い払うのに使われる。 saadai「ブルーベリー、露:golubika」は、エウェンキー語でduusikt と言う[筆者の調べたと ころでは、エウェンキー語で golubikaのことは一般にȷikt と言うようである]。 ・子供の頃の暮らし 当時女性は自分たちで様々なものを縫って、それを売った。当時はよく買い物の目的でPil’tunに 行った。そこで食料品などを買い集め、子供たちに食べさせた。そして十分な食料を得ていたのだ。 だから私は子供の時に(もう16~17歳だった頃に)、お腹を空かせていたという記憶がない。16歳 ぐらいの時に私はここを去ったのだ。それからPil’tunで学んだ。1958年にコルホーズは解体し、ソ フホーズとなった。そこで私の母さんたちはワールに家を与えられ、18歳以降は私たちはワールに 移住した。女性たちはそこに住み、男性たちは森にいた。このように別れ別れになったのは良い事 ではなかった。牧民としての生活をそのまま続けていれば、それはその形で機能していたはずだっ たのだ。(大陸の)シベリアでエウェンキーたちは現在「遊牧の学校制度」(露:kochevaja shkola) を行っている。今はそういうことが可能になったけれども、以前は学ぶためには寄宿舎に入らなけ ればならなかった。現在は、3人でも4人でも子供がいればそこで学校を開くことができる。 当時の仕事はコルホーズの仕事として行われた。ソフホーズでは給料も出るが、当時の我々では お金をいかようにも使えなかった(使いようがなかった)。牧民に関しては、放牧に出ている月は30 日から休日の5日分を引いた25日が労働日として計算された。一年の終わりに、その仕事に相当す る給料をもらった。それはなかなか十分な量のお金だった。それゆえにその時期には、たくさんの 物資を運んで来た。牧民はそのお金でミシンや布や糸など、必要な様々な物を買った。 ・その他 クマの肉は、女性は食べてはならなかった。ごくわずかに肉片を与えられることはあったが、他 方女性が決して食べてはならない部分というのもあった。クマを解体する時もトナカイを解体する 時も、決して斧は使わず、全部ナイフでやった。クマを獲った時には、クマ祭り(xurigaccuri)を 行って、クマの魂を自然に還した。クマの骨は捨てずに、紐に通し、焚き火の上で燻す。それから 特別な場所に置いた。以前はそのようにしていた。クマは畏れ敬う存在であるので、森に入り、ク マが恐ろしい時には、すぐに呪文を唱える。 p k , sii mumbeepu ȷi l wuccee, uli gaȷi mumbeepu biwwoonu.「おじいさん(クマのこと)、私たちを脅かさないでください、良く私たちを いさせてください」と。こうした呪文はクマに対してばかりでなく、例えば、夜行き来する時や、 63風間伸次郎 ウイルタ語調査報告 遊牧して行って新しい土地に着いた時などにも唱えた。また新しい土地に着いた時は、これを唱え るとともに、私の母は少しずつの米と砂糖とタバコを持って外へ出て、「maa k ,maa k 」と言 いながら、大地や水、自然に対してそれらを捧げていたものだった。大地の神、海の神、火の神を それぞれ、naa d ni,namu d ni,tawa d niのように言う。 妻が妊娠している時には、その夫である男は、安産のため靴紐を結ばなかった。 母はNuuci torissa氏族の者で、ウイルタ名をXumuranȷiと言い、あだ名はKorgorȷiであった。 そのあだ名は「何でもすばやくやり、よく働く人」の意である。母の父は3人兄弟の末っ子で、そ の兄弟は上からKi giaanu, Ambakkaanu, P t nuという名前だった。Ambakkaanuは amba 「魔物」から、P t nuは p t 「あざらし」から名づけられた名前だろう。祖母は Inmaldaとい う名だった。男性の名前に関して、エウェンキーの名は子音で終わる(~aanなど)が、ウイルタ語 ではuがついて母音で終わるようにする[開音節化する]。女性の名前には、Gisiktalda,T t m ri, Li gaari,Ciskuuda, kin 、などがあった。 父はエウェンキーで、名をCilandooと言った。父は大陸のアムグニ川の河口のほうで生まれた。 祖父のあだ名はLuuca「ロシア人」で、混血であったらしい。 子供の頃は、子守りなどの仕事をするかたわら、もっぱら布切れで作った人形(xoko)で遊んだ。 6頭のトナカイの人形があった。その後、自分でも人形を縫うようになった。 私が子供の頃、すでにシャーマンはいなかった。物語や伝説を語れる人はいた。私は生涯でその ような人を3人知っている。Adaako mapa,Maksimov, x mapaの3人だ。その頃、トナカイ キャンプは3つあった。どのキャンプにも10~15のテントがあった。時々こうした高齢の語り手が キャンプにやってくると、キャンプ中の人々が1つのテントにすし詰めになって、彼の話を聞いた ものだ。私が唯一覚えているのは、「d k nd i~,d k nd i~」というリフレインの部分だけだ。 ある時、 の発音が多く現れる文を作ってみたことがあったが、それはこのようだった:peedari t cci, ulaaba dap acci, pur tt i n cci, ulaaba wa acci, gasattakki is acci, ȷeesiltakki bori acci,dukutakki is acci,caiwa umi acci,taroopiccini.「フェージャは起きて、 トナカイを捕まえて、山へ行って、トナカイを獲って、村へ戻って、仲間に分けて、家へ戻って、 お茶を飲んで、と急いでやった。」 2.2.I.Ja.Fedjaeva氏より得た情報 ・トナカイについて トナカイには何一つ捨てるところはない。内臓でも何でもだ。xababi「肺」も煮て食べた。さら に挽肉にもするし、お米を一緒に使ってピロシキも作る。paaka「肝臓」は生でも食べた。bosokto 「腎臓」やcidaki「太腿のところの肉」も半分凍らせて生で食べた。cidakiは串焼きにしても食べた。 肩甲骨のところの肉(pisa)も串焼きにしても食べた。 「角」はxuj と言う。uȷil 「若鹿の袋角」は次のようにして採る。まず血が流れないように紐で きつく縛り、それからナイフで切り取り、火の上で蒸す(kaamucixaci、完了の3人称複数形)。そ して焼いて毛をきれいにしてから、切って食べる。 腸(silokta)の中に血を入れてソーセージを作ったが、これはbojosko(??bojosko)と言う。ト ナカイの舌(sinu)の先端の肉は必ず火に投げ入れた(火の神に捧げた)。トナカイの鈴には2種類 ある。ku gil は木製で、cooraは金属製である。cooraは柔らかい音がする。トナカイの逃走を防 ぐため、足枷となるように首からc g iをぶら下げる。これはオスにもメスにも使う(写真20)。 64 北方人文研究 第4号 2011年3月 仔トナカイは soondoと言う。 7月にトナカイを数える時、その最後には、ヘリコプターで上空から見て、角に赤い布がついて いないトナカイを数えて数を足して最終的な数とした。もっとも歳を取ったトナカイは sagdaatu と言った。雄トナカイの去勢は、人が嚙み切って行う。3、4人の人で足などを押さえつけて行う。 その後、棒に縛り付けて、騎乗用にするための訓練を順を追って少しずつ行ってゆく。一番初めに は荷袋用の鞍(n m [neem ])をつける。その後荷をつける。次に人が乗る用の鞍( m )を つけ、その後に人が乗る。子供用の鞍はduur k と言う。以前は、食べるために毎月一頭トナカイ を屠殺した。テントの数だけ屠殺したので、例えば13のテントがあれば13頭屠殺した。頭と内臓 と舌は皆がそれを食べることを好むので、次の月は誰と決めて順番に食べたものである。まれには 1ヶ月に2頭屠殺することもあった。 誰かが亡くなった時には、その人と関係の深かったトナカイを一頭屠殺する。その時にはそのト ナカイの内臓などは食べない。木の二股になっているところ(jaadara)に、その頭や内蔵を掛ける。 トナカイの呼び名(あだ名)はたくさんある。色などに基づくものには次のようなものがある: soogdo「青い」、noogdo「黄色い」、taagda「白い」、geeȷi「緑色の」、g lci「灰色の」、s gd 「赤 い」、karau「暗い色の」、peemura「まだらの」。黒は s ariというが黒いトナカイはこの地域には 存在しないので言わない。雌の総称をnamiと言い、不妊の雌をwaa gaiと言う。 トナカイを屠る時には、首のところをナイフで刺して一撃で殺す。そうしてトナカイが苦しまな いように行うのだ。うまくやると、トナカイは足を震わせてから即死する。 皮なめし具には、xosipu,k d r ,tottoがある。どれも私のところにあったが、人に貸して還っ て来なかったので、今はない。 ・魚について moriska「カワメンタイ(露:nalim)」は海の魚である。これは釣って捕った。夏でも冬でも捕れ る。私自身は好きでないので食べない。「ウスリーシロザケ」は siiwu~sii uと言う。 魚皮から糊を作った。これはkamduと言う。魚の皮を干し、冬に煮て作った。スキーに毛皮を貼 り付けたりするのに使った。イトウやサケの皮で、シャーマンのタイコ(dali)を作った。tuupl「ス リッパ」やpokto「服」も魚皮で作った。 串焼き(silo)を loima「イワナ」、oworo「マス」、 sk「カレイ」などで作った。トナカイで作っ ても魚で作っても、串焼きのことは siloと言う。 soliは料理の1つで、ロシア語ではvinegret「サラダ、ごたまぜ」と言う。ベリーには、xojoo「ホ ロムイイチゴ」、paama「ガンコウラン」、saadai「クロマメノキ」などがあるが、これらと、トナ カイの乳(ulaa kooni)、魚の白子(マスでもサケでもよい)を混ぜて soliを作る。 xoltoとは「煮た魚肉」のことを言う。 soktoとは「串に刺した魚を棚(p ul )の上で干したもの」である。なぜかはわからないが常に アオマスかサケで作った。 「フナ」をmapaaccaと言う。 ・葬礼や冥界について かつて私が9歳か10歳ぐらいだった時に、ある場所にお客に行ってそこで見たことだが、そこで 一人の子供が病気で亡くなった。しかし火事のため、その子を急いで葬らなければならなかった。 65風間伸次郎 ウイルタ語調査報告 その時、人はその子を棺桶に入れて、大きな枝から吊るして葬った。 ずっと以前だが、普通に人を葬る時には、木を組んで台を作り、その上に棺桶を置いて葬ってい た。近年はロシアの影響で、地面を掘って埋めるようになった。 人が亡くなった後に行く冥界には3種類ある。最初に行く世界がbuniで、その次に行く世界が seeltaunaである。seeltaunaで人は石炭になるが、まだ生きている。[なお seeltaunaは、seelta「石 炭」から派生した語と考えられる。]3番目の世界はpun kt un で、ここで人は灰になる。[この語 もpun kt 「灰」からの派生語と考えられる。]pun kt un にまで来ると、その人はもはや完全に 死んだということになる。3つの世界の総称もまたbuniである。私の母は、高齢になってから、冥 界にお客に行く夢をみた、とよく話していたという。冥界はとても清潔で、道の両側にテントがあ り、トナカイの数はすごく多いという。 ・その他 エウェンキー語でollobi 、ウイルタ語でulubi という集落があった、ワールからそう遠くないと ころにあった。 oと oのミニマルペアに、poro「ライチョウ」とporo「親指」がある。なお人差し指はxun 、中 指は taldau、薬指は gajau aa ni「小指の兄」、小指は gajauと言う。 もし子供が外で遊んでびしょぬれで帰って来ると、母親は洗濯物が増えるので次のように言って 叱るという: indandoo g s apkalisi.「犬と一緒に寝なさい」 誰かの家にお客に行って、そこで何かおいしいものを食べていたのにそれを御馳走してもらわな かった時に、帰ってお腹が痛くなったりすると、それをxuniと言う。動詞はxunix ni(完了の3人 称単数形)である。 3.テキスト 下記のテキストは8月16日にノグリキにて、E.A.Bibikova氏に語っていただいたものである。 内容は氏の一代記である。全体の録音は約30分で、そのうちそこで書き起こすことができたのは、 半分ほどだった。そのうちそれのさらに半分ほどを、E.A.Bibikova氏の協力のもとで直し、意味 を聞いてできたのがこのテキストである。汽車の時間が迫っていたので、残念ながらそこで作業を 打ち切らざるを得なかった。したがって一代記というには遠く及ばず、幼少期の思い出の部分を整 理したにとどまっている。ただ後半1/3ほどは大部分がロシア語だったので、ウイルタ語部分の1/3 ほどはここに発表することができた。全部形にすることができず、せっかく興味深い話を語ってく ださったE.A.Bibikova氏に申し訳なく思っている。残りは今後何らかの機会を捉えて完成させた いと考えている。 テキスト凡例 ・基本的に音韻表記によっている。 ・明らかな言い間違いと考えられる箇所には訳を付していない部分がある。 ・ロシア語が使われた場合には、イタリック体でこれを示した。 ・付属語はハイフンによって分離して示した。 ・検索等の目的のため、固有名詞などにも大文字は使用しない。 66 北方人文研究 第4号 2011年3月 2010年8月16日 ノグリキにて E.A.Bibikova氏口述 bii balȷixambi, daaxi naaduni 私は 生まれた、 ダーヒ川の あたりで bii balȷixambi, daaxi naaduni, saxalin, buataduni. nimbi, 私は 生まれた、 ダーヒ川の あたりで、 サハリンの 島に。 私の父さん、 amimbi, ulaaba t xum ri biccici. bii balȷixambi ȷi , 母さんは トナカイを 飼って 暮らしていた。 私が 生まれたのは、 すごく、 suun in idu, silla beeduni, cipa~l xai-daa xamacee-ddaa, silla silarinȷiici. 天気のいい 日に、 6 月に、 全部 何でも どんなのも、 花が 咲いている。 bii, nijj pi, t li daaxi naaduni biccici. bii nimbi, 私は 母とその親族は、 その時 ダーヒ川の あたりに いた。 私の 母は、 tori, tori, tori xalani, torissa xaladuni, balȷixa, トリッサ、 トリッサ、 トリッサ 氏族、 トリッサ 氏族に 生まれた、 amimbi geetta, xaladuni balȷixa. bii nuciik bi s wwee, 父は ゲーッタ 氏族に 生まれた。 私が 小さかった時に、 vojna biccini. amimbi vojnatai, pulicini. buu nimun 戦争が あった、 父さんは 戦争へ、 行って来た。 私たちは 母さんと一緒に waalutai n x pu bicci cadu, mooma duku ワール村へ 行った のだった、 そこに、 木製の 家が biccici mundu, bii ninduwwee ilaa putt , biccini t li. あった、 私たちの所には、 私の 母の所には 三人の 子供が いた、 その時に。 bii, anu, sagȷiduma, internat adu naxulakkadu tacixani, bii, xasu, 私は、 あれ、 兄弟の年上で、 寄宿舎で、 ノグリキで 学んだ、 私は いくつ、 xasu-kaa, ȷiin juuju, ȷiin juu..., ȷiin anani ulu biccinduwwee, いくつか、 四 ぐらい、四か そこら…、 四 歳の頃 だった時に、 67風間伸次郎 ウイルタ語調査報告 bii nimbi mimbee, geeda mamatai, buux ni, katakuri, 私の 母は 私を、 一人の おばあさんの所へ やった、 カタクリという g lbuni biccini. a, mapa combokko. bii, mindu 名 だった。 一方、 おじいさんは チョムボッコだ。 私は、 私には biccini nuciik , n ubi, gena, lucadaiȷi, tuluskeenu いた、 小さな 弟、 ゲーナだ、 ロシア語で言うと、 トゥルクセーヌだ、 m nd iȷi. buu geedara tuluskeenundoo, pattacipu, 自分の言葉で言うと。 私たちは ある時に トゥルクセーヌと、 一酸化中毒になった、 orki, orki sa naskaȷi, dukuȷȷeeri bim ri. cawa, cawa 悪い、悪い 煙で、 自分たちの家に いて。 彼のことを、 彼のことを ȷi , doonȷi..., dooppaccukkibi. bii, m n , caa mamatai, すごく、 私は思い出した。 私は、 自分は その おばあさんと一緒に n buȷȷi ananacimbi. tari mama, xaiki-dda cipali 行こうと した。 その おばあさんは、 どこへでも 全部 pulipukki biccini, uumbucimi, su dattaa xamaceemba-da cipali b icimi. 行き来する のだった、 釣りをして、 魚を どんなのだって 全部 捕って。 nooni mitt i geedara, nim rimi, nim rim ri orokcini, 彼女は 私の所へ ある時 お客に来て、 何人かでお客に来て 連れて行った、 noottaini. xaiwa-ddaa cipali ȷi aptaulimba d pooccini, 彼女の所へ。 何でも 全て すごく おいしいものを 食べさせてくれた、 s duxi-dd s gd , xamacee-ddaa cipaali varenija, コケモモも、 赤いコケモモ、 どんなのでも 全部の ジャムを、 bii ninduwwee tamacee anaa biccini. tari, naa, tari mama 私の 母の所には そんなのは 無かった のだ。 その、 その おばあさんは xaiki-da cipaali pulimi s duxee gatasi biccini. nimbi, どこだって 全て 歩き回って コケモモを 採った のだった。 母さんは 68 北方人文研究 第4号 2011年3月 uil mi, wukki kulpee biccini. bii, nooni mitt i 働いていて、 いつも時間が無かった のだった。 私は、 おばあさんは 私に panusini, “sii mindu g s bilisi-i?” bii unȷiiwi, 訊く、 「おまえは 私の所に 一緒に いるかい?」 私は 言う、 “ii. sindu g s biliwi.” 「ええ。 あなたの所に 一緒に いるわ。」 cimanaani t x mbi, nitt ki..., mamatai unȷiiwi, “bii si, 次の日の朝 起きた、 おばあさんへ 私は言う、 「私は 今、 m n uttabi gaanȷilami.” dukutakki n x mbi nitt ki unȷiiwi, 自分の 長靴を 取って来るわ。」 家へ 行った、 母へ 言う、 “buuru mitt i bii uttaawwee. bii, atakatai nneel mi. 「ちょうだい、 私に 私の 長靴を。 私は おばあちゃんの所へ 行くわ。 noonduni g s biliwi.” caa uttabi dapagacci, n x mbi, 彼女の所で 一緒に 暮らすわ。」 その 長靴を つかんで、 行った、 mamatai. i, t li, doob jjuu, ilaabajjuu, anani, tari おばあさんの所へ。 そして、 その時に 二だか 三だかの 年月の間、その mamandu, mapandu, pulipukki biccimbi pur kki. おばあさんの所で、 おじいさんの所で、 歩き回って 暮らしていた、 森に沿って。 uni daaduni, waurkudu, xaiki-ddaa cipaali, pulisi 川の 河口で、 ワオルクで、 どんな所だって 全部 いつも歩き回る biccici, tari mapa, mamandoo, xaiȷi-ddaa ものだった、 その おじいさん、 おばあさんと、 何にも wukkil ll . ugdaci, au dau, au daudoori いつだって怖れることはなかった。 彼らの舟は、 円錐形家屋、 円錐形家屋に tulleeci, b iccici, to su dattaa b iccici, p t mb b iccici, bii cawa, 建てた、 捕る、 魚を 捕る、 アザラシを 獲る、 私は それを、 69風間伸次郎 ウイルタ語調査報告 it cix mbi, nuciik ȷȷi. mama mitt i buuwukki biccini, 見ていた、 小さい時に。 おばあさんは 私に くれた のだった、 sisa adulini biccici. caa sisa adulimbani atuccimi biccimbi, 日本人の 網が あった。 それを、 日本人の 網を 広げて あった、 g gd k . vot terpenie vyrybatyvalos’, ma~len’koj, chetyre pjat’ let いつも。 ほうれ 我慢が できなくなった、 小さい、 四年か 五年か、 uzhe, vot tak. caa verevkaȷi mataawusiȷi, mataawusiȷi, もう、 ほうれ そんなのだ。それを 縄で 太い糸で、 太い糸で、 aduliȷȷeeri andupukki biccini, mapa, tari, p k . 自分らの網を 作って あった、 おじいさんは、 その おじいさんは。 geedara it cix mbi xooni nooci joosseeci. joosseeci, ある時 私は見た、 どんな風に 彼らが アザラシを獲るか、 アザラシを獲る、 eto, dobyvaet nerpu. tari, namu kirataini n x ci, それは、 捕獲するか、 アザラシを。 あの、 海の 岸辺へ 彼らは行った、 namu kiraduni ro~i ȷi , bara b lu ȷi , daa~i b lu 海の 岸辺に ああ すごく たくさんの 氷山が、 すごく 大きな 氷山が biini. b lu, aldaakkeeni ll ut muu, cipaali, i, tari nari, ある。 氷山の 間には すぐにぐるりと 水だ、 全部、 それで その 人々、 maparisal b iccici, anu, p tt , anuȷi, gidaȷi. おじいさんたちは 獲っている、 あれ、 アザラシを、 あれで、 槍で。 gidaȷi b iccici. buu puril namu kiraduni xuppipu, 槍で 彼らは獲る。 私たち 子供たちは 海の 岸辺で 遊ぶ、 it ccipu, nooci, xooni nooci b iccici, p tt . t li 見ていると、 彼らが、 どんな風に 彼らが 獲るか、 アザラシを。 その時 d lbii waawukkil biccici p tt , xaidu-ddaa cipaali あまりに多く 獲っていた のだった、 アザラシを、 何にだって 全て 70 北方人文研究 第4号 2011年3月 naada biwwukki biccini. narisal, narisal silmalȷeeri andusici, 必要 だった のだった。 人々は、 人々は 自分らの手綱を 作る、 maatulȷeeri andusici, s rukkuȷȷeeri andusici, uttaa p rmissici tari 投げ縄を 作る、 荷袋を 作る、 長靴の 靴底を作る、その p t ȷi. ȷi , ȷi naadassukki biccici, caa p t ȷi. アザラシで。 すごく、 すごく 必要としていた のだった、 それを アザラシで。 bolodu-tanii buu s duxxee gatannipu. s gd s duxxee 秋には 私たちは コケモモを 採りに行った。 赤い コケモモを gatannipu, ȷi barannee oppougacceeri, kk s l, puril, 採りに行った、 すごく たくさんの人が 集まって、 女たちが、 子供たちが gatannipu, anu, ugdaȷi t g cceeri. tugd tugd ini, palatkaddoori 採りに行った、 あれ、 舟で 乗って。 雨が 降ると、 自分らのテントを andusipu, caa dooduni, dooduni t sici, xaiwa-ddaa cipaali 作る、 その 中に、 中に 座っている、 何でも 全部 t lu ucim ri, duwa..., tuw duut nni mama..., tari 物事を語り合って、 冬になった時には、 おばあさん、 その mama mapa, uidu bii biccimbi, anu, おばあさん おじいさん、 誰かといえば 私が 暮らしていた あの、 pur ndu tozhe, b iccukkil biccici, anu, b ludu, su datta. 森でも また、 狩りをした のだった、 あれ、 氷の上では、 魚だ。 mimbee umuuk mb w ȷȷeeci, cimaisiir nneeci, unitai, 私を 一人きりを 残す、 朝早くに 彼らは行く、 川へ、 uni daataini. sa allici, tari b lumb sa allici, i uumbuuȷi 川の 河口へ。 穴を開ける、 その 氷を 穴を開ける、 そして 釣竿で uumbuuccici, su datta, annici, uumbuuccici. lalumilaka 釣った、 魚、 ああした、 彼らは釣った。 飢えるかといえば 71風間伸次郎 ウイルタ語調査報告 wukki lalloo biccimbi, g , g gd k xamacee-ddaa cipaali 飢えることがなく 暮らしていた、 そうだ、 いつも どんなのでも 全ての d ppi biwukki biccini. duwa, ȷi uli gaȷi t lli biccini 食べ物が あった のだった。 夏は、 すごく 良く 魚の干物を作る のだった、 tari mama. xamacee-ddaa cipaali mauree. bii t lu ucix mbi. その おばあさんは。 どんなのでも 全部、 鮭の干物を。 私は 語ったね。 xamacee-ddaa cipaali, mauri, jaawumba jaawukki, s in , s iwukki, どんなのでも 全部、 干物、 「ヤーウ」を 作る、 「サイナー」を 作った、 b kk iw b kk irini, soktoo, sokceeni, 「バッカイ」を 作る、 「ソクトー」を 作る、 suluktaa, sulukceeni, xairee, xolȷiccini, karkaa, xolȷiccini, 干し魚の粉を、 作る、 何をする、 干した、 黒百合の根を 干した。 ȷi , ȷi , uil l mama biccini, tari, katakuri すごく すごく、 働き者の おばあさん だった、 その カタクリ mama. mimbee, bii, nooni biccini anuni, putt ni putt ni biccini, おばあさんは。 私を、 私は 彼女の、 いた、 あれ、 子供の 子供が いた、 tari minȷi ȷiin anani uluȷi nuuci. mumboop doonneepa その子は 私より 四 歳 年下だ。私たちを この二人を dapagaacci, pulipukki, nim rikt mi pulipukki biccini, 連れて、 いつも行き来して、 お客によく行って 行き来して いた、 tari mama. その おばあさんは。 未完 [謝辞] まずE.A.Bibikova氏と I.Ja.Fedjaeva氏の両氏に深く感謝申し上げたい。両氏は貴重な情報 を下さったばかりでなく、調査地でのさまざまな便宜を図って下さった。まずキャンプ地に入れた のもお二人のおかげであった。調査期間中もずっとお二人の温かな気遣いに支えられて、調査を続 けることができた。 キャンプ地への調査に一緒に入った坂巻正美さん、中田篤さん、山田祥子さん、ユジノ・サハリ 72 北方人文研究 第4号 2011年3月 ンスクまで同行された津曲敏郎先生、笹倉いる美さんにも深くお礼申し述べたい。途中から調査に 加わりたいと言い出した私を温かく迎えてくださった。そしていろいろと御教示をいただいたばか りでなく、体調を崩していた私はいろいろ御面倒をおかけしてしまい、たいへんにお世話になった。 何よりも現地のウイルタの方々が温かく迎えてくださったのは、長年に亘り上記の方々がウイルタ の方たちと良い関係を築き上げてきたからに他ならない。このことに何より深く感謝申し上げたい。 本誌の査読の方からも有益なコメントを多数いただき、より良いものにすることができたと思う。 拙い論考を読んでくださった査読者の方にお礼申し上げたい。 参照文献 池上二良 1997『ウイルタ語辞典』北海道大学図書刊行会:札幌 Ozolinja,L.V. 2001 Oroksko-russkij slovar’. Rossijskaja Akademija nauk sibirskoe otdelenie, institut filologii. Izdatel’stvo SO RAN:Novosibirsk. 73風間伸次郎 ウイルタ語調査報告 A Brief Report on Northern Uilta Shinjiro KAZAMA Tokyo University of Foreign Studies The northern dialect of Uilta is spoken on northern Sakhalin. This paper consists of three parts: 1.a brief report on the fieldwork; 2.ethnological information by elicitation; 3.a small text. The topics of ethnological information are about reindeer breeding, fishing, stockfish and so on. The text is told by E.A.Bibikova (born in Daagi,1940). The content of the text is a memory of her childhood. 74 北方人文研究 第4号 2011年3月