-  - 『スラヴ研究』No. 59(2012) 後期ソヴィエトにおける「生の構築」 ―― ユーリー・ロトマンの演劇的文化論の社会史的考察 ―― 乗 松 亨 平 はじめに――ロトマンと後期ソヴィエト  ソヴィエト記号論の泰斗ユーリー・ロトマン(1922–93)が没して 20年近くが経つ。ソ 連を代表する知識人のひとりとしてのその名声は、ロシア内外で、ソ連の記憶とともに風化 してしまったようだ。「雪どけ」期に発し、ロトマンの勤めたエストニアのタルトゥ大学を 橋頭堡に、「停滞」の時代を生き延びた記号論のプロジェクトは、鉄のカーテンが取り払わ れたときには、西側では流行遅れとなっていた。最新の「西側文化」だった記号論は、ある 者にとっては旧ソ連の人文学の後進性を示すものへと凋落し(1)、またある者にとっては民族 文化の遺産目録に登録されるべきものとなった(2)。  このような成り行きは、ソヴィエト記号論を歴史的考察の対象とする機が熟したというこ とでもあるだろう。実際、ソ連における構造主義や記号論の運動史の詳細な検討が進められ ている(3)。一方で、ソヴィエト記号論、とりわけロトマンのテクストの内在的読解も、同時 代的受容の段階から学問的検証の段階へと移って続けられてきた。マクシム・ワルドスタイ ンの著書『記号のソヴィエト帝国――タルトゥ記号学派史』(2008)は、関係者へのインタ ビューも交えて、ソ連のアカデミズムにおける学派の運動史を丹念に跡づけるとともに 0 0 0 0 、そ の理論的内容を西側の構造主義と比較・検討したもので、現状でのソヴィエト記号論研究の 精華といえる。同書に足りないものがあるとすれば、この「とともに」だと思われる――テ クストの外でくりひろげられた学派の運動(権力闘争)と、テクストの内在的読解とが、同 書では前半(第 1~ 3章)と後半(第 4~ 7章)に分断され、結びついていないのだ。  本稿はこの分断を架橋する試みである。「停滞」の時代のロトマンについては、タルトゥ というソ連の「僻地」で外部社会と隔絶され、そのおかげで生き延びえたと同時に、内容面 1 そうした反応の一例としては、ミハイル・ヤンポリスキー(平松潤奈訳)「身体の制度・表象・実 践:ミハイル・ヤンポリスキーに聞く」『隠喩・神話・事実性:ミハイル・ヤンポリスキー日本講 演集』水声社、2007年、118–119頁。 2 エストニアにおけるそのような動きについては、Maxim Waldstein, “Russifying Estonia? Iurii Lotman and the Politics of Language and Culture in Soviet Estonia,” Kritika 8, no. 3 (2007), p. 567. 3 Peter Seyffert, Soviet Literary Structuralism: Background Debate Issues (Columbus: Slavica Publishers, 1985); Егоров Б.Ф. Жизнь и творчество Ю.М. Лотмана. М., 1999; Maxim Waldstein, The Soviet Empire of Signs: A History of the Tartu School of Semiotics (Saarbrücken: Verlag Dr. Müller, 2008), chaps. 1–3. -  - 乗松 亨平 では西側から置いていかれたといったイメージがあるかもしれない。しかしロトマンは、西 側の学問動向を察知していなかったわけではなく、ポスト構造主義の著作にもある程度目を 通したうえで拒絶していた(4)。西側でポスト構造主義が勃興したのと同時期に、ロトマンは それとはべつの転回を行う。70年代以降の彼は、記号論に関する純粋な理論的探究よりも、 具体的な文化テクストの記号論的分析に力を注ぐようになったのだ。「文化記号論」と呼ば れるこれらの作業のなかでも中心を占めた、18~ 19世紀初頭のロシア貴族の「演劇的文化」 をめぐるロトマンのテクストに、同時代のソヴィエト社会に対する応答を読みとることで、 彼の転回のひとつの積極的意義を探るのが本稿の目的である(5)。  ロトマンのテクストの内に外部社会への応答が読みとれるという指摘は、これまでにも再 三なされてきた。例えば和田春樹は、ロトマンのロシア貴族論について、〈彼がそこに惹き つけられる理由は、外からの思想の影響、専制権力の自己防衛、大衆運動の欠如、孤立した 知識人の自由の模索など、あの時代の文化の多くの特徴が、ソヴェト社会をモデル化するの にヒントを与えるということにあるのではないかと思われる〉(6)と述べている。アンドレイ・ ゾーリンによれば、〈ソヴィエト史のひらかれた討議は検閲のため不可能であったので、伝 統的に、19世紀のロシア史がアナロジーの源泉を提供した。〔…〕そのようなイソップ的ほ のめかしは、1960年代半ばからとりわけ一般化した〉(7)。  とはいえ、そうした「イソップの言葉」を実証することは簡単ではない。ロトマンのロシ ア貴族論にソヴィエト社会への反応を読み込もうとする試みの多くは、断片的印象にとど まってきた。対照例として、G. M. ハンバーグによるナタン・エイデルマン論を参照しよう。 エイデルマンはロトマンと同時期に、デカブリストらロトマンと重なる対象について、一般 むけの歴史書や歴史小説を数多く手がけた。ハンバーグはそれらのテクストを、異論派的メッ セージの隠された「イソップの言葉」とみなすのだが、その主な根拠となるのは、エイデル マンの死後に夫人が編纂した日記である。日記という私的テクストに吐露された内面の反映 を公的に発表されたテクストに見出すことで、ハンバーグは「イソップの言葉」を解読しよ 4 例えばナターリヤ・アフトノモヴァ宛ての書簡(1978年 2月 23日付)では、次のようにいわれ ている。〈レヴィ=ストロースは具体的局面に関する最大級の研究者であり(これはつねになによ り貴重なことです)、フーコーは機知に富んだ才能ある哲学者(フランス語でこの言葉がもつ意味 での)ですが、バルトとクリステヴァは(神よ罪深き私をお許しください!)さして面白くはあ りません。これはエッセイストであって、しかもたいした程度のものではありません〉。Автоно- мова Н. Открытая структура: Якобсон – Бахтин – Лотман – Гаспаров. М., 2009. С. 469. ミハ イル・ルイクリンは 1990年にジャック・デリダに行ったインタビューで、脱構築はソ連に馴染 まないと発言している。〈私が思うに、わが国の文化では非論理的な矛盾があまりにあからさまで あって、それを深層から引っ張りだして開示するのに、とりたてて洗練された手続きなど必要な いのです〉。Рыклин М. Деконструкция и деструкция. Беседы с философами. М., 2002. С. 25. 5 同じ転回に関して以下の拙論では、ロトマンのテクストに内在的に、理論的レベルで考察した。 乗松亨平「ユーリー・ロトマンの文化記号論における『ロシア』の単数性と複数性」『ロシア語ロ シア文学研究』第 43号、2011年、35–42頁。 6 和田春樹「記号としてのロートマン」『月刊百科』第 285号、1986年、18頁。 7 Andrei Zorin, “Lotman’s Karamzin and the Late Soviet Liberal Intelligentsia,” in Andreas Schönle, ed., Lotman and Cultural Studies: Encounters and Extensions (Madison: The University of Wisconsin Press, 2006), p. 210. 〔 〕内は引用者。以下同様。 -  - 後期ソヴィエトにおける「生の構築」 うとする(例えばプーシキンとニコライ 1世の会談の記述は、スターリンとブルガーコフの やりとりの反映だという)(8)。しかしロトマンの場合、このような私的テクストを傍証に使 うことは難しい。これまでに刊行されたかぎり、ロトマンに日記の類はないし、書簡でも彼 が同時代の社会情勢に触れることはほとんどないからだ。  ロトマンのテクストの内と外を架橋するにあたっては、ハンバーグの「イソップの言葉」 解釈にみられるような公/私の捉えかたを変える必要がある。ゾーリンは、ロトマンが生涯 にわたって論じた対象のひとり、ニコライ・カラムジンの肖像に、ロトマンの自己投影を読 みとっている。 歴史的真実と道徳的自律は、彼〔カラムジン〕のなかで、政治的忠誠とイデオロギー的信念を凌 駕するものだった。こうした公私の対立において私的なものが優先されること、倫理的要請があ らゆる考慮を上回ることを、最初に指摘したのがロトマンである。 書斎の静寂のなかで、後代のために歴史的真実を保存すべく歴史作品を書く思想家という理想像 〔=カラムジン〕は、現状でなにか有効なことはいっさいなしえない、現在の社会慣行は変えられ ない、しかし過去の真実を発見して記録するのは義務である、という〔ロトマンの〕全般的感覚 に一致していた。〔…〕孤独のうちに私欲なく熱中する者が綴る歴史は、ボリシェヴィキが創造し た神話と対立した。(9)  ハンバーグが着目するエイデルマンの書く作業とは、私的テクスト(日記)が先行して存 在し、公的規範に受けいれられるよう、それを変形することであった。既述のように、ロト マンにそうした有意な私的テクストの存在は確認できない。一方、ゾーリンが着目するロト マンの書く作業とは、公的規範に対立する「歴史的真実」という名の私的テクストを生産す る過程である。いいかえれば、ハンバーグの図式では自律した私的領域があらかじめ存在し、 それが公的規範と折衝するのに対して、ゾーリンの図式では、公的規範から自律的な私的領 域――とみなされるもの――をつくりだす 0 0 0 0 0 過程が問題になっているのだ。ただしロトマンの ほとんどのテクストは、地 サミズダート 下出版や海 タミズダート 外出版ではなくソ連で公的に発表されたのであり、規 範から自律的といっても、私的領域はあくまで公的領域の内側でつくりだされる。マーク・ ガースロンによれば、ハーバーマスのいうような、政治権力から自律的な市民社会としての 公共圏はソ連には存在しなかったのであり(10)、ハンバーグの図式においても、「公 パブリツク 的」は 8 G. M. Hamburg, “Writing History and the End of the Soviet Era: The Secret Lives of Natan Eidel­ man,” Kritika 7, no. 1 (2006), pp. 71–109. 異論派が 19世紀の反体制的知識人に共感を寄せ、とき に自己を仮託して語ったことは、Jay Bergman, “Soviet Dissidents on the Russian Intelligentsia, 1956–1985: The Search for a Usable Past,” The Russian Review 51, no. 1 (1992), pp. 16–35. 9 Zorin, “Lotman’s Karamzin,” pp. 213, 216. 10 Marc Garcelon, “The Shadow of the Leviathan: Public and Private in Communist and Post­ Communist Society,” in Jeff Weintraub and Krishan Kumar, eds., Public and Private in Thought and Practice: Perspectives on a Grand Dichotomy (Chicago: The University of Chicago Press, 1997), pp. 303–332. -  - 乗松 亨平 「公 オフイシヤル 式」(規範)と過不足なく一致し「 私 プライヴエート 的 」と対立している。それに対してゾーリンが 描きだすロトマンの企図は、そうしたソ連の「公的」領域を拡大し、「公式」とイコールで ない一種の公共圏をそのなかに生みだそうとする試みとも理解できよう。  本稿ではロシア貴族の「演劇的文化」に関するロトマンの議論を、後期ソヴィエトの公的 領域のなかで私的領域をつくりだす過程のアナロジーとして読解する。はじめに、近年の後 期ソヴィエト社会研究を参照しつつ、ロトマンがみずからの学問的営みを社会のなかでどう 捉えていたのか考える。つづいて彼の演劇的文化論を、「生の構築」という概念の展開を中 心に特徴づけ、彼の社会意識との照応について吟味する。最後に、「生の構築」が孕むある 種のジレンマについて、後期ソヴィエトにおける自由の可能性の問題として検討する。 1. 「誠実」な「仲間」――モスクワ・タルトゥ学派の形成  ソ連における記号論の興隆は、「雪どけ」期に科学・学問全体に生じた大きな変化に伴う ものであった。ルイセンコのような疑似科学の横行を許したイデオロギーの桎梏から科学が 解放され、〈誠意 0 0 と真実 0 0 が新たな批判運動の決まり文句となった〉。〈厳密な思考、論理的明 確さ、計量的正確さというこの新たな精神は、ソ連で機密を解かれたばかりだった新種の技 術装置の文化的イメージに具現した。電子デジタル・コンピューターである〉(11)。この変 化はハード・サイエンスにとどまらず、スターリンの死後間もない 1953年に『新世界』誌 (詩人トヴァルドフスキーの編集下で「雪どけ」期の文学をリードすることになる)に発表 されたヴラジーミル・ポメランツェフの評論「文学における誠意について」以降、「誠意 ис­ кренность」「誠実 честность」は人文学でも合言葉となる。これは社会で主導的役割を果た す学問分野が、哲学や文学からハード・サイエンスへ移ったことも意味していた。宇宙開発 の華々しい成功に沸く 1959年、『コムソモーリスカヤ・プラウダ』紙上で、作家エレンブル グと数学者ポレターエフ(ソ連初のコンピューターに関する啓蒙書『シグナル』(1958)の 著者)が交わした論争は、〈フィクションや詩の言語と科学の普遍的言語、どちらが共産主 義の未来につづく道へと社会を導くのか、一般の議論をおおいに巻き起こした〉(12)。ハード・ サイエンスのなかでも革新的だったのは、コンピューターやサイバネティクスなど情報科学 であり、ソ連の公的言説の語彙全体が「ドグマ的」哲学から「誠実」「正確」な情報科学に 基づくものに変わったことを、スラヴァ・ゲロヴィチは「ニュースピークからサイバースピー クへ」と言い表している。  このような変化が人文学に産み落とした申し子が記号論であった。のちにロトマンと「モ スクワ・タルトゥ学派」として共闘するヴャチェスラフ・イヴァーノフらは、1950年代か ら構造言語学を唱導し、とりわけ機械翻訳の開発を介して情報科学と結びついた。ロトマン を記号論へ惹きつけたきっかけのひとつは、1958年にロシア語訳の出たノーバート・ウィー 11 Slava Gerovitch, From Newspeak to Cyberspeak: A History of Soviet Cybernetics (Cambridge, Mass.: The MIT Press, 2002), pp. 154, 155. 強調原文。以下同様。 12 Vladislav Zubok, Zhivago’s Children: The Last Russian Intelligentsia (Cambridge, Mass.: The Belknap Press of Harvard University Press, 2009), p. 134. -  - 後期ソヴィエトにおける「生の構築」 ナーの『サイバネティクス』であり(13)、のちのちまでサイバネティクス学者と共同研究を行っ ている。しかしソ連の人文学のなかで、記号論・構造主義が覇権を握ることはなかった。イ ヴァーノフとならぶ学派のモスクワ側の領袖だったヴラジーミル・トポロフは、構造言語学 部門を複数の研究所に設置する審議が科学アカデミーで始まった 1960年を、構造主義が公 的に認可された年としている(14)。その結果、スラヴ学研究所に開設された構造分類学セクター で、62年には記号論をめぐるシンポジウムがひらかれた。すでにタルトゥ大学で構造主義 詩学の講義を行っていたロトマンが、モスクワという「中心」の構造主義者たちと知りあっ たのは、翌 63年である。だがそれは、記号論・構造主義が覇権への道を閉ざされた年ともなっ た。62年のシンポジウムが、フルシチョフ期の中心的イデオローグであったレオニード・イ リイチョフから指弾され、記号論の独立した研究所の創設を目指す動きは挫折する。特に『文 学の諸問題』誌には、レオニード・チモフェーエフの「40年経って……(詩学研究における 尺度の数と感性)」(1963)を皮切りに、ヴァジム・コージノフの「構造主義詩学は可能なのか」 (1965)など批判論文が相次いで発表され、擁護派とのあいだで論争をくりひろげた(その なかでロトマンの「文学研究は科学でなければならない」(1967)も掲載された)(15)。結果 的に記号論は、「中心」モスクワから「周縁」タルトゥへと拠点を移して存続を図ることになる。 第二次大戦でソ連に併合されたエストニアは、モスクワ側のメンバーからすれば「隣国」「内 なる西側」であった(16)。タルトゥ大学発行の紀要『記号システム論集』と、1964~ 70年 の隔年と 74年にひらかれた「サマー・スクール」(実際にはシンポジウム、74年は冬開催)が、 学派の主要な媒体となった。タルトゥとモスクワそれぞれの実務を担い、両地を繋いだロト マンとボリス・ウスペンスキーの往復書簡を繙くと、彼らがこの活動に注いだ心血が偲ばれ る。  こうしてロトマンが参入すると同時に記号論がソ連の中央で挫折したことは、ゾーリンが 述べていたようなロトマンの自意識に影響を与えただろう。タルトゥ学派の一員でのちにア メリカに亡命したボリス・ガスパーロフは、1989年に発表された回想で、当時の学派に顕 著だった自閉的志向を指摘している。森のなかのスポーツ・キャンプでひらかれた「サマー・ スクール」の参加者は慎重に限定された。〈学問的共同体の隠遁性は、サークルで使われて いた秘儀的な学問用語によっても支えられていた。〔…〕意識的・無意識的なこれらの集団 的努力は、理念的には、「純粋な」記号論の言語を生みだすためのものだった。一方でその 言語は、記号論的研究のあらゆる分野で統一されている。他方でそれは、「外部」の学問的 伝統から切り離されていた〉(17)。分野を横断する「普遍性」は「雪どけ」期の科学の中心理 念だったが(18)、ガスパーロフによれば、その「普遍性」が学派の閉鎖性を支えたのである。〈ディ 13 Егоров. Жизнь и творчество Ю.М. Лотмана. С. 91–92. 14 Топоров В.Н. Вместо воспоминания // Московско-тартуская семиотическая школа. История, воспоминания, размышления / Под ред. С.Ю. Неклюдова. М., 1998. С. 147. 15 Seyffert, Soviet Literary Structuralism, chaps. 7–9. 16 Waldstein, The Soviet Empire of Signs, p. 36. 17 Гаспаров Б.М. Тартуская школа 1960-х годов как семиотический феномен // Московско-тар­ туская семиотическая школа. С. 62. 18 Gerovitch, From Newspeak to Cyberspeak, chap. 5. -  - 乗松 亨平 シプリンの境界を廃棄することで、記号論という、つくられつつあった建造物の一体性が強 調された〉(19)。翌年、この批判的回顧に応えたロトマンは、実質的にはなにも反論していない。 私たちには共通の 0 0 0 基盤がありました――絶対的な学問的誠実さです。私たちはみな、Б.М. ガスパー ロフも含めて、闘士だったのです。まもなく私たちのあいだに、非常に近しい友情関係が生まれ たのに不思議はありません。〔…〕  〔…〕私たちみなに理解可能な言語で、私たちは喋っていました。Б.М. ガスパーロフによると、 それは特殊な秘儀的言語で、流行に乗った反抗的ポーズだったと……。そうではありません。単 にその言語を使うと、おたがいをより簡単に理解できたのです。(20)  〈いかに外圧に耐えて真理にしがみつくかという道徳的模範をコンピューターが与えた〉(21) とゲロヴィチがいう「コンピューター」は、ロトマンにとっては「記号論」におきかえられ る。「雪どけ」から 30年が過ぎてなお、学問的「誠実さ」という当時の決まり文句を踏襲し たこの回想に窺えるのは、やはり「雪どけ」期の現象であった、「仲間 компания」――〈20 ~ 30代の主に教養層の人々から成る非公式グループ、友人サークル〉――に似た意識である。 ヴラジスラフ・ズボクによれば、〈新たに現れたコミュニティはまた、彼らの親の人生を束 縛しつづけた公式の公的領域とは切り離された、私的な社会生活の余地をつくりだすのに精 力を傾けた。彼らはより人間的な倫理的・美的規範を、自分たちのあいだ、自分たちのサー クルと友人集団のなかで創造しようとした〉(22)。  ロトマンの書簡には、「仲間」とその「外部」の峻別が明瞭に表れている。「外部」を代表 するのはモスクワの世界文学研究所やレニングラードのロシア文学研究所(プーシキン館) で、例えばミハイル・バフチンの遺稿がコージノフら世界文学研究所のメンバーに委ねられ たことを知った、1975年 3月 22日付のウスペンスキー宛て書簡には次のようにある。〈К– в〔コージノフ〕はコソ泥です――手稿の全部でなくともその一部はきっと盗んで、数年後 に自分の名前で発表するでしょう〉(23)。これが本気かはともかく(文面からはそう思われる が)、「外部」を道徳的にも劣った存在として切り離す身振りが、「仲間」内で交わされてい たのだ。 19 Гаспаров. Тартуская школа 1960-х годов. С. 67. 20 Лотман Ю.М. Зимние заметки о летних школах // Там же. С. 87–88. タルトゥの「修道院」的 雰囲気を、アメリカ移住後の「世俗的」な学問環境と対比して懐かしむヤンポリスキーにも、同じ「誠 実さ」の記憶が窺える。ヤンポリスキー「身体の制度・表象・実践」119–120頁。 21 Gerovitch, From Newspeak to Cyberspeak, p. 162. 22 Zubok, Zhivago’s Children, pp. 47, 162. 23 Лотман Ю., Успенский Б. Переписка. М., 2008. С. 275. ボリス・エゴーロフ編のロトマン書簡 集では、この箇所は伏せられている。プーシキン館については、例えば 1967年 11月 19日付の ウスペンスキー宛て書簡を参照。〈最近、プーシキン館の思想家たちが、すべての悪は記号論と構 造主義にあると公式決定を下しました。実際、ソ連科学アカデミー準会員ブシミンが結語として、 次のような考えを表明したのです。「彼ら」のところに「身内 свой」を送りこみ、ひそかに学習 させるのも悪くないだろう、そうすれば「彼らの書いているものをわれわれが理解して、批判を より壊滅的なものにできるだろう」〉。Там же. С. 81. -  - 後期ソヴィエトにおける「生の構築」  このように、「外部」の主流派アカデミズムから「仲間」を切り離そうとするロトマンだが、 その身振りを真に受けすぎるべきではない、とワルドスタインは注意する。〈認知と独立を 求める構造主義者たちの奮闘は、ソ連のアカデミズムの秩序への反抗ではなかった。賭けら れていたのはこの秩序からの独立ではなくて、この秩序内部 0 0 での一定の自律と影響力だった。 ソ連の構造主義者らは、ゲームの規則のいくらかには挑戦する一方、他の規則は遵守し、し ばしば自然なものとして受け入れた〉(24)。「誠実さ」や「普遍性」は、先述したように、「雪 どけ」期の社会全体に広がった決まり文句であり、「仲間」だけでなく「外部」も使っていた。〈か つての公式哲学と同様、サイバネティクスはいまや、完璧な客観性、政治的意義、普遍的応 用性を吹聴していた〉(25)のであり、その語彙は公式言説のなかに溶け込んでゆく。ワルド スタインによれば、〈彼ら〔構造主義者〕の「科学的」方法論と「精密科学」の革命的レトリッ クを学び適用するライバルたちの能力を、彼らは過小評価していた〉(26)。〈公的機関が「仲間」 を模倣し、その理念と活動を引き継ぎ、公式の管理のもとに接収しはじめたのだ〉(27)とユ リアーネ・フュルストは述べている。共有された語彙の解釈――「学問的誠実さ」をどう具 体化するか――の違いが「仲間」と「外部」を分けるにしろ、その境界は、恣意的な「倫理的・ 美的規範」――「コソ泥」――の助けも借りて築かれたのである。  「仲間」も「外部」も同じ秩序と語彙のなかにいる――近年のソヴィエト社会研究では、「停 滞」の時代に関してこうした状況がしばしば指摘されている。例えばセルゲイ・ウシャキン によると、〈異論派の公的振舞いの多くは、ソ連の法と市民権、人権に関する現存の公的言 説によって枠づけられていた〉(28)。異論派の人権運動が求めたのは、現行法で謳われている 権利の保障であり、ピョートル・ヴァイリとアレクサンドル・ゲニスにしたがえば、法の文 言を〈字義どおりに受けとること〉だった。〈異論派はソ連の学校で教わったことを実践し たのだ。誠実で、原理的で、無欲で、進んで助けあうこと〉(29)。〈権利に基づき法を志向す る言説〉は、フルシチョフのスターリン批判からブレジネフ期のフルシチョフ批判、さらに ペレストロイカ期のスローガンに至るまでの公式言説に一貫しており(「普遍的法則」を志 向する「雪どけ」期の科学礼賛にも通じる)、〈自分たちの言説を公式言説に対置するのでは なく〔…〕支配的な象徴体制に同一化する戦略――既存の修辞的道具を擬態的に再生産する 戦略を、異論派は選んだのだ〉(30)とウシャキンは分析する。それゆえ、先にみたハンバー 24 Waldstein, The Soviet Empire of Signs, p. 24. 25 Gerovitch, From Newspeak to Cyberspeak, p. 260. 26 Waldstein, The Soviet Empire of Signs, p. 29. 27 Juliane Fürst, “Friends in Private, Friends in Public: The Phenomenon of the Kompaniia Among Soviet Youth in the 1950s and 1960s,” in Lewis H. Siegelbaum, ed., Borders of Socialism: Private Spheres of Soviet Russia (New York: Palgrave Macmillan, 2006), p. 245. 28 Serguei Alex. Oushakine, “The Terrifying Mimicry of Samizdat,” Public Culture 13, no. 2 (2001), p. 196. 29 Вайль П., Генис А. 60-е. Мир советского человека. М., 1996. С. 177, 180. またフュルストによ れば、「仲間」のメンバーたちは〈共同性と平等に関するボリシェヴィキのレトリックを信奉して おり、ただ、官僚や立身出世主義者たちを厳格に排除して、自律的にそれらの理念を行動に移し たのだ〉。Fürst, “Friends in Private,” p. 242. 30 Oushakine, “The Terrifying Mimicry of Samizdat,” pp. 208, 199. -  - 乗松 亨平 グのエイデルマン論のような、公表されたテクストに現れえない「隠れた」私的領域を異論 派は抱えていたという考えを、ウシャキンは受け入れない。  このような事態を鮮やかに論じたのが、アレクセイ・ユルチャクである。スターリンとい う超越的「主人」が規範を決定した時代が終わると、誰も規範を判断できない――「普遍的 法」や「誠実さ」に叶うものが何なのか、一義的解釈は存在しない――ようになった。その 結果、「停滞」の時代には前例の機械的踏襲が蔓延し、定型化された語彙や慣行が際限なく 反復される。だがそれは、単なる受動的くりかえしには終わらなかった。J. L. オースティン の言語行為論を用いてユルチャクが主張するのは、定型的語彙・慣行の「事実確認的」意味 は問題ではなくなり、その「行為遂行的」使用――どのように定型を用いるか――が能動的 に多様化されたということである。「停滞」の時代によくみられた「身内 свои」感覚は、〈権 威的言説の行為遂行的ずらし〉、定型の使用法の共有に基づいていた。これはウシャキンの いう「擬態的再生産」にも似ているが、異論派のような反権力性は一般的でなく、〈あから さまな反抗はあからさまな支持と同様に避けられた〉(31)。  こうした実践がどの程度の範囲(世代・場所)でみられたのか、ユルチャクは明確にして いない。彼の扱う「ソヴィエト最後の世代」は、ロトマンにとってほとんど子にあたる。公 式領域から自律した「仲間」という私的領域の形成を支えた「誠実さ」や「普遍性」、ある いはゾーリンのいう「歴史的真実」、それらの道徳的でいわば公共的な――「はじめに」で 述べた「公式」とイコールでない「公的」領域、一種の公共圏の構想を支えるという意味で ――価値が、公式言説にも共有されるという事態にロトマンはいかに応答したのか(32)。次 章からは、「停滞」の時代に書かれたロトマンの演劇的文化論を対象に、テクストの内と外 がどう照応しているのか検討していこう。 2. 「単純」な演技と「家」――演劇的文化論  ロトマンの演劇的文化論は、「19世紀初頭の文化体制における演劇と演劇性」(1973)「19 世紀初頭の人間の文化的行動をコード化する装置としての舞台と絵画」(1973)「日常生活に おけるデカブリスト」(1975)「18世紀ロシア文化における日常行動の詩学」(1977)など一 連の論文で展開され、のちに増補・改訂のうえ『ロシア文化講話』(33)(1994)にまとめられた。 伝記『プーシキン』(1981)『カラムジンの創造』(1987)でも基本コンセプトとなっている。 18~ 19世紀初頭のロシア貴族の生活行動が、芸術テクストの規範に則った「役柄」として 演じられた、というのがその要点だ。周知のとおり、演劇は 17~ 18世紀フランスの古典主 義芸術で中心となったジャンルであり、演劇を鍵として当時の文化・社会を論じることは、 31 Alexei Yurchak, Everything Was Forever, Until It Was No More: The Last Soviet Generation (Princeton: Princeton University Press, 2006), p. 117. 32 ウシャキンによれば、同一のテクストが異なるコードによって別々の意味をもつことへのモスク ワ・タルトゥ学派の関心は、そうした状況への抵抗的応答の一例とみなしうるという。Serguei Alex. Oushakine, “Crimes of Substitution: Detection in Late Soviet Society,” Public Culture 15, no. 3 (2003), pp. 446–448. 33 邦訳は、桑野隆、望月哲男、渡辺雅司訳『ロシア貴族』筑摩書房、1997年。 -  - 後期ソヴィエトにおける「生の構築」 ルソーの『ダランベールへの手紙』(1758)からマイケル・フリードの『没入と演劇性』(1980) まで長い伝統がある。ただし、その伝統でしばしば主題化される、見る観客と見られる(見 せる)俳優の関係(その場合、theatricalityは「演劇性」ではなく「劇場性」と訳すべきか)は、 ロトマンにおいてはほとんど触れられない。各論文・著書のあいだには若干の内容的齟齬が みられる(日常の演劇化が始まった時期など)が、ここではまず「日常生活におけるデカブ リスト」を中心に、ロトマンが描きだす演劇的文化の変遷を確認したい。  「19世紀初頭の文化体制における演劇と演劇性」で、ロトマンは「舞台」と「幕間」の対 立について語っている。 18世紀末~ 19世紀初頭のロシア貴族の生活行動には、一定の「舞台空間」に結びつけられた行 動タイプと、「幕間」――行動の記号性が最小限に低下する休憩時間――への志向という、二つの 特徴がある。この特性を十分に評価するためには、1860年代の「ニヒリスト」の行動を想起すれ ばよい。ニヒリストにとっての理想は、「おのれに忠実」であること、日常と生活の相貌の不変性、 家庭生活でも社会生活でも、「歴史的」生活でも個人的生活でも、同一の規範に従うことだった。「誠 意」の要求は,記号性の強調された行動システムの拒否を含意すると同時に、「おのれ自身である」 ための休憩時間を不要のものとした。(34)  「舞台」と「幕間」は「社会生活」と「家庭生活」に並置され、「おのれ自身である」こと のできる「幕間」には、「誠意」という「雪どけ」期のキーワードが冠されている。ここに は公式=公的領域と私的領域を画然と分け、後者を無菌状態のようにみなす、ハンバーガー のエイデルマン論と同様の図式をみてとれるかもしれない。  「日常生活におけるデカブリスト」で論じられるのは、このような分割の解消である。〈社 交界のサロンでも、市場で農民といるときも、子供たちといるときも、衒いなく、有機的か つ自然に「おのれ」でいられるこの能力こそ、プーシキンの詩にも近い、デカブリストの日 常行動の文化的特殊性であり、ロシア文化の精華のひとつである〉。ただしこの統一は、ニ ヒリストのように生活のすべてを「幕間」化=非記号化するのとは逆に、すべてを「舞台」 化=記号化することで果たされる。〈18・19世紀の端境期におけるロシア貴族の日常行動と いう無意識的な自然状態〔=「幕間」〕から、イデオロギー的意義をもつ日常行動の意識的 システムをデカブリストは築きあげ、テクストのように完結的で、高度な意味に満ちたもの にした〉。この「意識性」をロトマンは高く価値づける。〈記号的行動はつねに選択の産物で あり、それゆえ行動の主体の自由な能動性と、自分と社会を関係づける言語の選択を含んで いる〉。生活の全局面は、「社会」という公的領域と関係づけられた「舞台」になる。デカブ リストの「おのれ」はそこで演じられる役柄なのだ。〈デカブリストの日常行動は、現代の 観察者からすれば、観客を意識した演劇的なものに思えるかもしれない。その際にはっきり 理解しておくべきは、行動の「演劇性」が不誠意やなにか否定的な特徴づけを意味するわけ 34 Лотман Ю.М. Театр и театральность в строе культуры начала XIX века // Об искусстве. СПб., 1998. С. 626–627. - 0 - 乗松 亨平 ではまったくないということだ〉(35)。「誠意」ある演技としての「おのれ」というこの観念が、 ロトマンのデカブリスト論の核心である。  デカブリストによる生活の全面的「舞台」化は、前ロマン主義(カラムジン主義)からロ マン主義への変化と平行している。〈カラムジン主義は行動の多様性とその入れ替わりを、 生活に対する詩的態度の規範として主張した。〔…〕ロマン主義にとっては逆に、行動の統 一性、行動が状況から独立していることが詩的であった〉。その結果、〈ロマン主義者の行動 の全般的「文学性」、あらゆる行動を記号的とみなそうとする志向〉(36)が生まれる。ただし ロマン主義者とデカブリストのあいだには、重要な違いがあるという。  デカブリストの日常行動とロマン主義的世界観の原理との結びつきに注意しないわけにはいか ないが、彼らの日常行動の高度な記号性(絵画性、演劇性、文学性)はわざとらしさや長広舌に は陥らなかったこと、反対に、単純さや誠意とおどろくべき結合を果たしたことには留意すべき である。〔…〕  その原因は、ひとつには、デカブリストの日常行動の理想が、バザーロフ〔=ニヒリスト〕の 行動とは異なり、既成の日常的作法の文化的規範を拒絶することではなく、これらの規範を習得 しつくりかえることで築きあげられたためである。(37)  既成の規範と絶縁することではなく、それをつくりかえることで得られる「おのれ」とい うこの観念は、ウシャキンのいう「擬態的再生産」やユルチャクのいう「行為遂行的ずらし」 に基づく「身内」に近づいているだろう。ただ、そんな「おのれ」に付与される、「単純さ простота」という賓辞は理解しづらい。記号性をすべて取り除いたニヒリスト的「おのれ」、 あるいはハンバーグの扱うような無菌の私的領域のほうが、「単純」と呼ばれるにふさわし いようにも思える。「誠意」と組みあわされていることで「雪どけ」の残滓を窺わせもする この賓辞、「わざとらしさや長広舌」のない「単純」な演技とはいかなるものなのか。それ は『プーシキン』で詳述されることになるのだが、そこでも明確な答えが与えられるわけで はない。「単純」な演技はむしろ、一定の振幅をもったイメージとしてくりかえし語られる のであり、それは当時のソヴィエト社会のなかで、「おのれ」=私的領域をつくりあげるた めの戦略の振幅に対応しているように思われる。以下、本章の後半では、この問題を軸とし て『プーシキン』を検討していこう。  『プーシキン』は、ロトマンが『「エヴゲニー・オネーギン」注釈』(1980)に続いて「啓 蒙 Просвещение」社から出した教育図書で、「生徒用教材」と銘打たれている。両書は成功 を収めて版を重ね、晩年にはテレビで連続講座を担当もしたロトマンのメジャー化のきっか けとなった。その基本コンセプトは演劇的文化論であり、詩人が自分の人生と著作のなかで どのように「役柄」を演じたか、その変遷が綴られる。前ロマン主義、ロマン主義、そして「単 35 Лотман Ю.М. Декабрист в повседневной жизни (Бытовое поведение как историко-психоло­ гическая категория) // Избранные статьи. Т. 1. Таллинн, 1999. С. 335, 333, 321, 303. 36 Там же. С. 303. 37 Там же. С. 334. -  - 後期ソヴィエトにおける「生の構築」 純」さへの志向が、それぞれペテルブルグ時代(1817~ 20年、第 2章)、南方追放時代(1820 ~ 24年、第 3章)、それ以後(1824~ 37年、第 4~ 9章)に割り振られ、「単純」さへの 志向は「リアリズム」と呼ばれることになった。ただ、前ロマン主義期においてもすでに、プー シキンの最終的な関心は「おのれ」にあったと指摘されている。〈あれやこれやのサークル での「ゲームの条件」をいともやすやすと習得し、あれやこれやの話し相手や指導者の提示 する友情関係のスタイルに合わせながらも、プーシキンは他人の性格や規範のなかに融解す ることはない。彼はおのれ 0 0 0 を探している〉(38)。  多様な「役柄」を演じ分ける前ロマン主義、単一の「役柄」に同一化するロマン主義を経て、 リアリズムへの転回のきっかけとなったとされるのは、プーシキンが 1823~ 24年に滞在し たオデッサにおける、アレクサンドル・ラエフスキーのサークルである。そこでは各人が著 名な文学作品の登場人物名で呼ばれ、「役柄」の演技がきわめて自覚的・遊戯的に行われて いた。 オデッサにおいて〔…〕ロマン主義的行動の本性そのものが、自覚された事実となった。それは 二種類の帰結をもたらした。ひとつには、ロマン主義的心理を外から、外した仮面のように眺め る可能性を詩人は得た〔…〕。もうひとつには、まさに日常行動において「スタイル〔複数〕の遊 戯」ができあがり、ロマン主義的な自己中心性を退けて、他人の視点を考慮する心理的可能性が 生まれたのである。  〔…〕生活における「スタイルの遊戯」の形成と、詩において対照的な諸スタイルを用いる遊戯 とは、共通の心理的ルーツと目的をもっていた――単純さへの道である。[P99–100]  この「単純さへの道」は、特異なものではなくありふれたものへの志向やリアリズムとし て説明されるのだが、前ロマン主義への逆行のようにもみえる「複数のスタイルの遊戯」が なぜ「単純さ」をもたらすのか、十分な説明はない。ただ、ロトマンの『オネーギン』論では、 多視点性やスタイルの複数性とリアリズムとの結びつきが説得的に説かれている。〈それぞ れの意味的・文体的視点の主観性の限界を超え、客観的リアリティを再現しようとするリア リズムの文体にとっては、これら複数の中心、多様な〔…〕構造の独特な相関性が重要である。 それぞれがたがいを排除せずに相関しているのだ。〔…〕結果的にこの芸術モデルは、現実 の重要な側面、すなわち現実はいかなる完結した解釈によっても汲みつくされないというこ とを、再現しているのである〉[P427–428](『「エヴゲニー・オネーギン」特講』(1975))。『プー シキン』のこの箇所でも、複数の主観の併存 0 0 (前ロマン主義はおのおのの「役柄」=主観が 入れ替わり、たがいを排除する点で異なるのだろう)によって個別の主観の限定性を乗り越 える、という『オネーギン』理解が念頭にあるように思われるが、直接参照されることはなく、 「複数のスタイルの遊戯」と「単純さ」との関係は飛躍したまま、抽象的イメージにとどめ られている。 38 Лотман Ю.М. Александр Сергеевич Пушкин. Биография писателя // Пушкин. СПб., 2005. С. 44–45. 以下、本書からの引用は本文中に[P 頁数]で示す。 -  - 乗松 亨平  プーシキンのこうした変遷について、ロトマンはさらにイメージ的に語っている。〈しか し前進運動は、プーシキンには回帰と考えられている。有名な詩「***に〔アンナ・ケル ンに〕」(「私は妙なる瞬間を覚えている……」)にみられるのは、次のような精神的成長の概 念である。心の始原の「純粋」状態 –心の翳り –透明な始原への回帰としての復活〉[P101]。 さまざまな変遷を経て回帰すべきこの「純粋」な「始原」は、「複数のスタイルの遊戯」が もたらす「単純さ」のイメージと重なるだろう。「始原」はここで「幼年時代」と結びつけ られるのだが、興味深いことにロトマンは、プーシキンには幼年時代がなかったと第 1章 で述べている。〈プーシキンの幼年時代の最もおどろくべき特徴は、彼がのちになってこの 年月を振りかえることがいかに稀かという点に認めるべきだ。貴族の子供の人生において、 《家》といえば全世界である〉、〈のちに人生の始原を振りかえろうとしたとき、彼はつねに リツェイだけを思い出した――幼年時代は人生から抹消された。彼は幼年時代なき人間だっ た〉[P29]。回帰すべき「始原」はあらかじめ抹消されている。リツェイの思い出にしても 大差はない。〈リツェイが実家であるという観念〔…〕が詩人の意識のなかで最終的に形成 されたのは 1820年代の半ばで、そのときには実際のリツェイの記憶は、どちらかといえば 遠い過去の風景のなかにすでに溶け入ってしまっていた〉[P30]。「始原」は振りかえればそ こにあるようなものではなく、むしろ新たにつくりだしていかねばならないのだ。  『プーシキン』後半で語られるのは、このような「単純さ」と「透明な始原」を具現する《家》 を築こうとする、詩人の努力である。そのなかで「単純」さのイメージは、「複数のスタイ ルの遊戯」がもたらすものから変質していく。例えばプーシキンの結婚の決意が〈結びつい ていたのは〔…〕自律した尊厳ある存在――《家》――の探求であった。ここには彼が幼年 時代に失ったもの――家族団欒の温かさ――への渇望と、深い理論的思索が合わさっていた。 すなわち自分の《家》をもつ人間だけが、「母なる大地に忠実である」、歴史と民族に忠実で ある、という確信だ〉[P139]。《家》は公式領域からの自律性によって特徴づけられる。〈プー シキンが自分の考えのなかで家族に割りあてていた高尚な役割――実際に個人的自律と人間 的尊厳の砦になること――を果たすためには、家族は警察の介入から守られねばならず、い かなる権力――平のスパイから皇帝まで――も鼻を突っこめない聖域とならねばならない〉 [P155]。このような私的領域、「個人的自律と人間的尊厳の砦」を通してのみ、「歴史と民族 に忠実である」ことができる。〈世代と世代のバトンを繋ぐためには、みずからが生彩ある 個人となり、固有の尊厳と個人的自律をもたなければならない〔…〕。歴史の一部たりえる のは、同時に生彩ある人間的統一たりえる者だけである。〔…〕/このような見方において《家》 は、民族的なもの、歴史的なもの、個人の生の集合点となった〉[P151]。そして《家》の「単 純さ」は、非常に具体的な、むしろ「素朴さ」と訳されるべきかたちをとる。〈妻への手紙 でプーシキンは、ことさらに単純であったばかりではない――民衆的に粗野だった〔…〕だ がそれは粗野ではなく――民衆のことばの単純さと誠意への意識的志向なのだ。〔…〕/プー シキンの妻への手紙の言語は、まったく新しい現象だった。彼は創作のみならず、自分の生 活をかたちづくるうえでもリアリズムを示唆し、単純さと真実への志向を毎日の生活設計の 法則とした〉[P154]。  プーシキンが懸命の努力で公式領域から《家》を隔離しようとするとき、「単純さ」は「複 数のスタイルの遊戯」がもたらすものから「民衆のことば」に変わる。モニカ・グリーンリー -  - 後期ソヴィエトにおける「生の構築」 フがロマン主義的イロニーを参照しつつ、〈結局プーシキンは、さまざまな視点をつくりだ す文飾のあいだでの舞い、移動にのみ位置づけられる〉(39)と述べていた運動、「いかなる完 結した解釈によっても汲みつくされない 0 0 」という引き算の定義しか与えられなかった『オネー ギン』の不定形の「現実」が、「民 ナロード 衆」によって充填されるのである。「民衆のことばの単純 さと誠意 0 0 への意識的志向」と、ふたたび「雪どけ」のキーワードが登場するように、この《家》 のイメージは、「誠実さ」「普遍性」といった道徳的・公共的価値を支えに公式領域から自律 しようとした、「雪どけ」期の「仲間」と照応する。「民衆」としての「単純さ」は、そのよ うな価値となって《家》を支えるのだ。「日常生活におけるデカブリスト」で説かれた、既 存の規範をつくりかえることで達成される「単純さ」や、さらに『プーシキン』前半における、 やはり既存のスタイルの遊戯から目指される「単純さ」のイメージが、「ソヴィエト最後の 世代」の実践を思わせつつも曖昧なものにとどまっていたとしたら、『プーシキン』後半に おける「単純さ」は、「雪どけ」世代の実践に合致しつつ具体的なものとなっている。しか し「母なる大地」への忠誠を促す後者は、一定の危うさも孕んでいるのではないか。次章では、 『カラムジンの創造』などにおける「生の構築」という概念の展開を中心に、この危うさに 関するロトマンの認識について検討したい。 3. 「生の構築」と「生の創造」  ロトマンにとって、『プーシキン』の執筆は大きな挑戦だった。1977年 6月 18日付のウ スペンスキー宛て書簡には次のようにある。〈問題はこれが非常に難しいジャンルであるこ とです。短い伝記(印刷全紙 10枚)、生徒用(つまりわかりやすく書かねばなりません、わ かりやすく書こうなんて生まれて初めてです!)。/でも私は真剣なことについて書きたい のです――内面の伝記、個性の本質について。〔…〕ほとんど達成不可能な課題――これが 私を惹きつけました〉(40)。ロトマンがこの課題を忠実に果たそうとしたことは、『プーシキン』 に対する専門家たちの書評にも表れている。伝記で描かれるプーシキンの「個性の本質」の 「わかりやすさ」――単純化が、しばしば指摘されるのだ。〈プーシキンがあれこれの行動タ イプをたえまなく立案し、かなり整然と「自己形成」したという感覚が読者には残る。自然 発生的なもの、無意識的なもの、非合理的なものの広大な領域は、本書ではほとんど触れら れない〉(41)、〈意識的で熟慮された行為としての自己構築、生の構築という観念がここにも みられる。Ю. ロトマンの立てた課題が体系的厳格さを必要とするのはわかるが、欠くべか らざるバランスが、著者も保とうとしているとはいえ、ときおり乱れているのだ〉(42)。ロト マンの長年の盟友ボリス・エゴーロフもこの点では同意見である。〈プーシキンの人生と創 作におけるロマン主義期にロトマンが限定していたなら、論争にはならなかっただろう。〔…〕 39 Monika Greenleaf, Pushkin and Romantic Fashion: Fragment, Elegy, Orient, Irony (Stanford: Stanford University Press, 1994), p. 54. 40 Лотман, Успенский. Переписка. С. 322. 41 Эйдельман Н. Вклад в пушкиниану // Новый мир. 1982. № 6. С. 257. 42 Гордин Я. «Малая биография» и масштаб судьбы // Вопросы литературы. 1983. № 5. С. 236. -  - 乗松 亨平 やはり零れ落ちるものはありうるにしろ、これはみな、意識的な生の構築にすっぽりと収ま る。/それ以外の時期や、プーシキンの性格と行動の全般的本質ということになると、ロト マンはあまりに断定的である〉(43)。  エゴーロフが問題にしているのは、「単純」な演技という観念の不自然さだといってよい。 前ロマン主義やロマン主義において生活が芸術のように生きられたということは、ロトマン の演劇的文化論に限らず当時のソ連で論じられていた(代表的なものとしては、リディヤ・ ギンズブルグの『抒情詩について』(1964))。ロトマンはそれをリアリズム期のプーシキン にも拡張し、もはや特定の文学流派とは関係のない「個性の本質」として捉えようとする。 それは人生をみずから組み立てていくプーシキンの能動的な生きかたに集約された。〈運命 によって放り込まれた世界をプーシキンはむりやり変容させ、みずからの精神的豊かさをそ こにもちこみ、「環境」がおのれに勝利することを許さない〉[P147]。  プーシキン像のこの単純化、「わかりやすさ」にエゴーロフは、プーシキンに対するロト マンの自己投影を見出した。〈Ю.М. ロトマンは自分自身の厳格な生の構築をプーシキン理 解・解釈に反映させ、プーシキンの道のりにおける多様な努力のなかで、意図や意識的志向 をいくぶん誇張したのである〉(44)。『プーシキン』ポーランド語版序文で、ロトマンは次の ように述べている。〈本書を読むのに特別な記号論の素養はなにも必要ないよう、生に対す る記号論的な見方が読者に自然に感じられ、さらには昔から身につけていたかのごとく思え るよう、この本を書こうとした〉(45)。経験したことのない数の一般読者を想定して(46)、「仲 間」と「外部」を分けてきた記号論の用語――スタイル――は放棄され、「記号論的な見方」 だけが残される。そんな「見方」の一部にして根幹であるはずの、「仲間」の自律性を支え た道徳的・公共的価値が、『プーシキン』には直截に書き込まれるようなのだ。プーシキン の《家》が「スタイルの遊戯」ではなく、「歴史」「民族/民衆」といった価値観に支えられ るのもそれゆえかもしれない。  「生の構築 жизнестроительство」とここで呼ばれている概念は、『プーシキン』に続いて 書かれた伝記『カラムジンの創造』(1987)でも基本コンセプトとなる。〈文学の登場人物が 本のページから脱け出して、作者の現実の行動と、同時代人たちによる作者の個性の受けと めかたを形成した〉、〈カラムジンがカラムジンを創った。おのれの作家人生のすべてを創っ たのだ。意識的に、粘りづよく創ったのだ〉。みずからの生を構築する営みの倫理的基盤も 『プーシキン』と同じである。〈彼の社会的理想は自律であり、彼の幸福の観念は、個人的存在、 43 Егоров. Жизнь и творчество Ю.М. Лотмана. С. 177. 44 Егоров Б.Ф. Памяти Ю.М. Лотмана // Русская литература. 1994. № 1. С. 227. ロトマンの プーシキン像に著者の自己投影や理想をみるものとしては、Irina Reyfman, “Iurii Lotman’s Pushkiniana,” Slavic Review 58, no. 2 (1999), p. 441; Штедтке К. Фигура умолчания в Мос­ ковско-Тартуской школе // Ускользающий контекст. Русская философия в XX веке / Под ред. М. Рыклина, Д. Уффельмана, К. Штедтке. М., 2002. С. 179. 45 Лотман Ю.М. «Александр Сергеевич Пушкин. Биография писателя». Предисловие к поль­ скому изданию // Лотмановский сборник / Под ред. Е.В. Пермякова. М., 1995. С. 86. 46 『記号システム論集』が 500~ 1000部発行だったのに対し、『プーシキン』初版は 60万部。なお 次に触れる『カラムジンの創造』も初版 20万部の一般むけ書籍である。 -  - 後期ソヴィエトにおける「生の構築」 友人たちの緊密なサークル、家庭生活とつねに結びついていた〉(47)。とりわけ次のくだりは、 『プーシキン』における《家》の概念と照らしあわせると興味深い。  彼が念頭においていた社会とは、文学の力によって、なによりも彼、カラムジン自身の創作によっ て、これからつくりだされてゆくものであった。〔…〕  愛においてもまったく同じことだ。女性とは感情の教師である。だが〔それに先立って〕彼女 らの感情を養わねばならない。それを成すのは詩人自身の行動であり、行動は詩へ転化して詩の プリズムをとおして受容され、「感情的」愛の手本となるのだ。  感情の教育、精神生活の文化が、カラムジンにとっては唯一の現実的な進歩の道のりである。 したがって社会的なものと個人的なものの区別は、彼にはまったく無意味だ。個人的なものにお いてのみ、社会的なものが成し遂げられるのである。[K263]  ここでいう「社会」は、政治権力と私的領域の仲立ちとなる、市民社会的な公共圏に重な るだろう。個人的なもの=私的領域における「生の構築」が、社会的なもの=公共的価値の 創出と合致するこの光景は、『プーシキン』における《家》と「歴史」「民族/民衆」の結び つきをより洗練したものだ。ただその際、これらの公共的価値が公式言説にも共有されるよ うな事態は想定されていない。「雪どけ」から「停滞」の時代にかけて生じたのはそうした 事態であり、また「民族/民衆」にしても、プーシキン存命中の 1833年には、国民教育省 大臣セルゲイ・ウヴァーロフ――かつてプーシキンと同じ文芸サークル「アルザマス会」に 属した――によって、「正教・専制・民 ナロードノスチ 族性〔国民性〕」が帝国の国是とされたのだった。  カラムジンが前ロマン主義の領袖であったにもかかわらず、『カラムジンの創造』には、「生 の構築」を同時代の演劇的文化の産物として説明する箇所は少ない。それとはべつの背景と して触れられるのが、「文化史的コンテクストにおける文学的伝記」(1986)「啓蒙主義的擬 古主義者」(1986)「ピョートル後の時代のロシア文学とキリスト教的伝統」(1991)などの 論文で展開された、近代ロシア文学の宗教性である。〈ロシアの中世文化では、神に吹き込 まれた言葉が最高権威であった。〔…〕ヨーロッパではまったくみられない、言語芸術―― 文学――の権威はこれに由来する〉[K57]。近代文学が宗教を受け継いだ結果、ロシア文学 のテクストは生と特殊な関係を結ぶ。〈中世では〔…〕苦行にも及ぶ厳格で聖なる生活だけが、 神に吹き込まれた《言葉》に対する権利を与えた。18~ 19世紀初頭の新しい完全に世俗的 で人間的な文化でも、この観念は〔…〕保存された〉、〈ゴーゴリもレフ・トルストイも、《言 葉》と《生》の一致のみが、みずからをその使命と読者の信頼に叶うものとするということ を疑わなかった〉[K58]。テクストと生の強固な連関は、ロシア文学史全体に拡張されるのだ。 そして『カラムジンの創造』末尾では、テクストと作者の生を分離し〈文学史をなにか没個 性的なプロセスとして表象する試み〉に比して、宗教を継承する文学観の価値が説かれる。 〈誠実さ、精神的な高貴さ、真理の勇気ある探究といった雰囲気は、文学にとって空気であ る。それなしでは文学は死んでしまう。/だがその雰囲気がつくりだされるのは、〔作者たち〕 47 Лотман Ю.М. Сотворение Карамзина // Карамзин. СПб., 1997. С. 23, 25, 15. 以下、本書から の引用は本文中に[K 頁数]で示す。 -  - 乗松 亨平 個人の偉大にして困難な努力によってのみなのだ〉[K309]。「生の構築」は近代ロシア文学 の伝統へ、さらに一箇のモラルへと敷衍されるのである。  このような歴史的敷衍は根拠のないものではない。すでに論文「18世紀ロシア文化にお ける日常行動の詩学」の末尾では、次のように指摘されていた。〈行動の詩学は長いあいだ 消えてはいなかった。最後のロマン主義者たちとともに 1840年代に消滅したあと、それ は 1890~ 1900年代の象徴主義者たちのバイオグラフィー、「生の構築」、「一人芝居」、「生 の劇場」その他、20世紀の文化現象に復活することになる〉(48)。ここで言及されているの は、第一に、ベールイやイヴァーノフ、ブリューソフら象徴主義者による「生の創造 жиз­ нетворчество」であり、彼らはみずからの生を芸術作品のようにつくりあげようとした(49)。 なかでもベールイの論文「演劇と現代のドラマ」(1908)は、ロトマンの演劇的文化論と重 なる点が多い。〈おそらくドラマの最終目的とは、人間がおのれの生をみずから創造し、宿 命的出来事を生のうちに収めるべく、人間を変容させることなのだ。その場合、人間の生と は彼に与えられた役柄であり、この役柄をどう理解し、生を創造によりいかに輝かせるかは、 彼次第である。〔…〕創造された生は宿命に打ち勝つ〉(50)。生活のなかで「役柄」を演じる という点はもちろんだが(この発想自体はシェイクスピアのグローブ座に代表される「世界 劇場」の系譜に連なる)、「宿命に打ち勝つ」ための演技という点も、先ほど『プーシキン』 後半にみた、「運命によって放り込まれた世界」を変容するものとしての「生の構築」に重 なる。  こうした能動性の契機は、「一人芝居」「生の劇場」という言葉でロトマンが示唆している ニコライ・エヴレイノフにも共通する(「一人芝居」は彼の提唱した「モノドラマ」のこと だろう)。エヴレイノフは人間生来の演劇的本能の存在を主張し、生活のなかで自覚的に「役 柄」を演じるよう呼びかけた。例えば『演劇それ自体』(1912)では、ニーチェの『ツァラトゥ ストラ』の影響もあらわに、次のようにいわれている。〈彼は生を演劇化する、すると生は 意味に満たされて彼の 0 0 生となり、愛しうるものとなる!〔…〕/生とはそこからなにかをつ くりだして、自分が生の奴隷ではなく主人だと感じるべきものであること、生は必然ではな く欲されたものへ、さらには玩具へとなるべきだということを、彼は理解している〉(51)。  この能動性の契機を軸として、象徴主義者の「生の創造」は、芸術による新しい現実と人 間の創造という、未来主義者のプログラムに繋がる。先の引用でロトマンが象徴主義者とエ 48 Лотман Ю.М. Поэтика бытового поведения в русской культуре XVIII века // История и ти­ пология русской культуры. СПб., 2002. С. 254. 49 とりわけプーシキンは、彼らの詩作のみならず日常行動の手本ともなった。Паперно И. Пушкин в жизни человека Серебряного века // Boris Gasparov, Robert P. Hughes, and Irina Paperno, eds., Cultural Mythologies of Russian Modernism: From the Golden Age to the Silver Age (Berkeley: University of California Press, 1992), pp. 19–51. なお、ロトマンの妻ザーラ・ミンツ には、「生の創造」に関する古典的論文「テクストの概念と象徴主義美学」(1974)がある。 50 Белый А. Театр и современная драма // Символизм как миропонимание. М., 1994. С.153. 邦 訳は、八木君人訳「演劇と現代のドラマ」『世紀末転換期演劇論(ロシア)』早稲田大学演劇映像 学連携研究拠点、2011年、27–39頁。http://kyodo.enpaku.waseda.ac.jp/trans/modules/xoonips/ detail.php?id=2010russia05(2011年 12月 4日閲覧) 51 Евреинов Н. Театр как таковой // Демон театральности. М.-СПб., 2002. С. 49. -  - 後期ソヴィエトにおける「生の構築」 ヴレイノフのあいだに挙げている「生の構築 жизнестроительство」は、「生の創造」と同 義でいわれている可能性もあるが、ニコライ・チュジャークが「生の創造」の影響下に唱え た(52)「生の建設 жизнестроение」を指しているとも考えられる。〈はるかな展望のもとに現 実をつくりかえること、現実の荒廃ぶりを自覚すること、はるか先からの光で照らしだし、 来たるべき現実をつくりだすこと――これが芸術の道である〉(53)。こうした目的をもつ「ウ ルトラ・リアリズム」の概念に、〈「生を忠実に示す……単なる『客観的現実』としてではな く、その革命的発展における現実を描く」という、のちの社会主義リアリズムの公式的定式 の萌芽を認めないことは難しい〉(54)とイリーナ・グトキンは述べる。このように、「生の構 築」をロシア貴族の演劇的文化と切り離し、その能動性の契機をとりだして粗く敷衍すると、 革命運動やソ連の公式文化と結びつけうるのだ(55)。  一方、「日常生活におけるデカブリスト」には次のようにある。〈おのれの行動を高尚なテ クストの法則と模範に準拠し意識的に創造するというこの〔デカブリストの〕アプローチは、 しかし、例えば 20世紀の象徴主義者の「生の創造」のように、行動というカテゴリーを美 学化することには繋がらなかった。というのもデカブリストにとって行動は、芸術と同様、 自己目的ではなく手段であり、生のテクストないし芸術のテクストの高度な精神的充足を外 的に表すものだったからだ〉(56)。このあとには前章で引用した、デカブリストとロマン主義 を比較し、前者は「わざとらしさや長広舌には陥ら」ず「単純」だったとするくだりが続く。〈美 は「現実の現実的改良 0 0 0 0 0 0 0 0 を導かねばならない」〉(57)と唱えるソロヴィヨフを源とする「生の創造」 を「自己目的」とするのが妥当かはともかく、このときすでにロトマンは、「生の構築」に おける能動的目的の存在を重視していたわけである。ただしその中身は、「精神的充足」と いう曖昧きわまるかたちでしか述べられていない。  前章ではこのあとのくだりの、デカブリストが既成の規範をつくりかえることで「おのれ」 を演じたという発想を、ウシャキンの「擬態的再生産」やユルチャクの「行為遂行的ずらし」 になぞらえた。しかしユルチャクは、1980年前後に活動した芸術集団ミートキーМитькиに 関して次のように書いている。〈彼らが完成させた日常生活や交流のスタイルは、後期社会 主義で際立って普及したアイロニーの美学のグロテスク版だった。このライフスタイルは濃 52 Günther H. Жизнестроение // Russian Literature 20 (1986), pp. 42–44; Irina Gutkin, “The Legacy of the Symbolist Aesthetic Utopia: From Futurism to Socialist Realism,” in Irina Paperno and Joan D. Grossman, eds., Creating Life: The Aesthetic Utopia of Russian Modernism (Stanford: Stanford University Press, 1994), pp. 186–187. 53 Чужак Н.Ф. Под знаком жизнестроения (Опыт осознания искусства дня) // Леф. 1923. № 1. С. 17. 邦訳は、杉里直人訳「生活建設の旗印のもとに(今日の芸術の認識の試み)」松原明・大石雅 彦編『ロシア・アヴァンギャルド⑦ 芸術左翼戦線』国書刊行会、1990年、83–110頁。 54 Gutkin, “The Legacy of the Symbolist Aesthetic Utopia,” p. 187. 55 実際にそのような研究が相次いだ。ロトマンの影響が最もよく窺えるのはイリーナ・パペルノの 『チェルヌィシェフスキーとリアリズムの時代』(1988)だが、ボリス・グロイスのスターリン文 化論やアレクサンドル・エトキントの「銀の時代」論、ミハイル・エプシュテインらのソ連=ポ ストモダン論など、テクストが生を規定・操作するという主題は共通している。 56 Лотман. Декабрист в повседневной жизни. С. 334. 57 Irina Paperno, “The Meaning of Art: Symbolist Theories,” in Creating Life, p. 15. -  - 乗松 亨平 厚に美学化されており、生活そのものがほとんど芸術プロジェクトに転じたほどだった〉。 社会に蔓延した定型を事実確認的意味には受けとらず「ずらし」ていく実践は、本質的にア イロニカルである。ユルチャクは、ソ連の日常生活の美学化というミートキーの試みが同時 期のソッツ・アートと似ていることを認めつつ、前者は〈いかなる政治的・社会的関心も、 なにかに賛成・反対する直接的連携も回避した〉(58)点で異なるという。このミートキーの 活動は、ロトマンがデカブリストに対置する象徴主義者に照応するだろう。ロトマンも政治 に関わることは拒否したが、彼の非政治性は、「ソヴィエト最後の世代」のそれとは違い、 非政治的であること自体が公共的価値をもつような、「雪どけ」世代のものだった。「非政治 的」は「非『ドグマ』的」で「誠実」なことを意味したのである。「仲間」の自律性を支え るこの価値=目的が「生の構築」の能動性の契機へと繋がり、「単純さ」が「民衆」に具体 化しそのモラル性を強めるにつれ、ソ連の公式文化の淵源にも重なってゆく。〈象徴主義者 の不明確な「現 レアリオラ 実」や未来主義者の「未来」が、より明確な「共 コミユーン 同体」ないし共産主義にとっ てかわられた〉(59)ことが想起されもするのだ。 4. 自由のジレンマ――選択可能状態と選択決定  前述したように、能動的「生の構築」の強調は、『プーシキン』の評者たちから一面的と の批判を受けた。ヴァジム・バツーロもそんな評者のひとりである。〈プーシキンの新しい 伝記のこの著者は、生には本質的につきものの、個別的で自然発生的な、なんなら偶然的と いってもよい契機をときに過小評価しがちである〉(60)。ここでバツーロが「生の構築」の意 識的能動性と対置する「偶然性」は、晩年のロトマンの著作で主要テーマのひとつとなった。 『思考する諸世界のなかで』(英 1990,露 1999)では次のようにいわれている。〈単一の歴 史プロセスのさまざまなレベルに人間の意識的努力が関与する度合いの差は、一方では偶然 性の役割を、他方では個人の創造的可能性を、どのように評価するかの違いに関わっている〉。 バツーロの評言と同じく、偶然性は個人の能動性と対置されているようにみえるが、実はロ トマンの考えは異なることが、しばらくあとでプリゴジンの散逸構造論を参照しながら明ら かにされる。〈偶然的なものと法則的なものは相容れない観念であることをやめ、同一の対 象の二つのありうる状態となる。安定した場を運動するときには線形的発展の一点として現 れる対象が、ゆらぎの空間に入ると、偶然性を伴う潜在的可能性〔複数〕の連続体となり起 動装置として現れる〉、〈分岐点で作動しはじめるのは偶然性のメカニズムだけでなく、意識 0 0 58 Yurchak, Everything Was Forever, pp. 242, 250. ただし、グロイスが次のようにまとめるソッツ・ アートの認識は、ウシャキンやユルチャクの論じる「外部」なき後期ソヴィエト社会の状況を、 いち早く指摘していた。〈ソヴィエトの芸術家は、権力を外的で没個性的なものとしておのれに対 置することはできない〔…〕。世界あるいは少なくとも自国を単一の芸術的計画に沿ってつくり かえようとするソヴィエトの統治者に、芸術家は第二の自我を認めずにはいられない〉。Гройс Б. Стиль Сталин // Утопия и обмен. М., 1993. С. 18. 邦訳は、亀山郁夫、古賀義顕訳『全体芸術様 式スターリン』現代思潮新社、2000年。 59 Gutkin, “The Legacy of the Symbolist Aesthetic Utopia,” p. 191. 60 Вацуро В. Биография как творчество // Литературная газета. 15. 12. 1982. С. 5. -  - 後期ソヴィエトにおける「生の構築」 的選択 0 0 0 のメカニズムもそうなのである〉(61)。すなわち偶然性は複数の可能性を出現させ、そ のうちのひとつを選ぶという能動性を個人が発揮する契機となるのだ。  この「偶然性」の概念は、ロトマンの生前最後の著書『文化と爆発』(1992)で、「爆発」 や「予測不可能性」ともいいかえられ、ある記号システムに他の記号システムが干渉するこ とで引き起こされるものとして詳しく考察された。一方でそれは、ロトマンが 60年代から たびたび論じた「遊戯=演技 игра」の問題にさかのぼる。論文「『モデリング・システムに おける芸術』という問題にむけてのテーゼ」(1967)では、〈遊戯的モデルにおいては各要素 やモデル全体が、自分自身でありつつも自分であるだけではない。あるプロセスや現象の含 む偶然性、非決定性、確率性を遊戯はモデリングする〉(62)といわれている。1964年 5月 14 日付のエゴーロフ宛て書簡によると、そのころに遊戯の問題という着想を得たという。〈ラ フにいえば、これはおそらく、約束事的状況というかたちを借りて生を再現することであり、 生ではひとつのことしか可能でないのに対し、そこでは多数のコード決定が可能となるので す〉(63)。  こうした複数の可能な選択肢の出現する状況――偶然性、遊戯=演技――が人間にもたら すのは、端的にいって「自由」である。「日常生活におけるデカブリスト」から、すでに引 いた箇所の前後を含めて再引用しよう。〈ルーティン的行動領域の特徴は、個人がみずから 選択をせず、社会や時代、自分の心理的・生理的組成による、ほかに代替選択肢のないもの として受けとるということだ。記号的行動はつねに選択の産物であり、それゆえ行動の主体 の自由な能動性と、自分と社会を関係づける言語の選択を含んでいる〉(64)。デカブリストの「演 技」は、日常生活のすべてをこのような意識的選択の「舞台」としたことで評価されたのだっ た。  第 2章では、ロトマンの演劇的文化論における「単純」な演技というイメージが、分裂 した内容をもっているのではないかと論じた。既成の規範をつくりかえる(「日常生活にお けるデカブリスト」)、あるいは複数のスタイルの遊戯によってもたらされる(『プーシキン』 前半)曖昧なそれと、「民衆」という公共的価値に具体化された(『プーシキン』後半)それ とである。前章で「生の構築」の歴史的展開にみたように、後者はモラル性と目的志向性を 強めることで権力性を帯びうる。この分裂は単なる一貫性の欠如ではなく、ロトマンの自由 の概念が抱えるジレンマを表しているように思える。ロトマンにとって自由は、複数の選択 肢が可能な状態、つまり選択の自由というかたちをとった。だが自由は行使されて初めて意 味がある。複数の選択肢からひとつを選ばなければならず、そして行動の美学化にとどまら ない有意義な「演技」をするためには、「役柄」を選ぶ根拠となる価値や目的が必要とされる。 これはスターリン期におけるイデオロギー的「ドグマ」の一元的支配から脱し、公式領域に 61 Лотман Ю.М. Внутри мыслящих миров // Семиосфера. СПб., 2004. С. 344, 349, 350. 62 Лотман Ю.М. Тезисы к проблеме «Искусство в ряду моделирующих систем» // Об искусст­ ве. С. 391. 邦訳は、大石雅彦訳「〈モデル形成システムにおける芸術〉という問題に関するテーゼ」 桑野隆、大石雅彦編『ロシア・アヴァンギャルド⑥ フォルマリズム:詩的言語論』国書刊行会、 1988年、382–396頁。 63 Лотман Ю.М. Письма. 1940–1993. М., 2006. С. 169. 64 Лотман. Декабрист в повседневной жизни. С. 321. - 0 - 乗松 亨平 対するオルタナティヴとして、公共的価値により結ばれた私的領域=「仲間」を自律させよ うとする、「雪どけ」のプロジェクトに照応しているだろう。しかし選択を根拠づける価値 や目的は、新たな選択の自由を制限するものへと転じうる。「仲間」を支える価値観をころ ころ変えるわけにはいかない、それは堅固で変わらないからこそ支えとなるのだ。  アイザイア・バーリンのいう消極的自由――他人の干渉を受けない自由――と積極的自由 ――自己決定と自律の自由――との古典的区別を、ここにあてはめられるだろう。後者は自 己決定の根拠となる価値や目的を、「われわれ」全体に強制する事態を招きうる(65)。ロトマ ンのいう「生の構築」には、複数の選択肢を享受する消極的自由と、公式領域から自律する 積極的自由とが複合しており、「単純」な演技のイメージの分裂はこれに対応する。すなわち、 既成の規範のつくりかえや複数のスタイルの遊戯は、複数の可能性をつくりだし、選択可能 状態=消極的自由をもたらす。一方、「民衆」という公共的価値は選択決定の基準となり、《家》 を公式領域から自律させる支えとなって積極的自由をもたらす。この積極的自由の帯びうる 権力性は、ロトマンの「仲間」を支えた公共的価値、「誠実さ」や「普遍性」が、実際には 公式言説に共有されたことや、「生の構築」がソ連の公式文化にも繋がったことに表れている。  したがって、自由について考えるロトマンにとって問題だったのは、彼がしばしば言及し マルクス主義においても伝統的な、主意論(能動性)と決定論(受動性)との対立ではない。 能動性の行使が自由の制限に、つまりは決定論に陥ってしまうという循環が問題だったので あり、例えば『文化と爆発』で論じられる回顧的視点の問題も、そうした関心の表れとして 理解できる。〈爆発の瞬間は予測不可能な状況をつくりだす。そのあとに、きわめて興味深 いプロセスが進行する。出来事が完了して、回顧的反照を投げかけるのだ。〔…〕過去から 未来を眺めるときには、われわれは現在を、一連の等しい確率の可能性の束とみなす。われ われが過去を眺めるときには、実現されたことが事実という地位を得て、われわれはそれが 唯一可能なことだったようにみなしがちだ〉(66)。選択可能状態=消極的自由は、選択決定と いう能動的行為を経たのちには、決定論のうちに解消されてしまう。晩年のロトマンが、選 択可能状態を出現させるものとして、能動的な遊戯=演技に代わり、受動的な偶然性を強調 するようになったことは、この文脈で重要である。能動性の役割を、選択決定という積極的 自由に関わる局面に限定することで、能動性の抱えるジレンマ――ある選択をひとたび能動 的に行うと、新たなべつの選択肢の出現が制限されてしまう――が前景化される一方、選択 可能状態の出現はただ受動的に、偶然を待つしかないことになる(これは当時、ペレストロ イカやソ連解体がそれこそ予測不可能なかたちで爆発的に選択肢を出現させたことと、おそ らく無関係ではない)。  ユルチャクが描いた「ソヴィエト最後の世代」の「行為遂行的ずらし」あるいは「自己目的」 的な「生の構築」は、逆に、消極的自由の範囲内で能動性を確保したうえで、積極的自由は 放棄してしまおうというものにみえる。定型的語彙・慣行を読みかえること(ロトマンのい う遊戯=演技)によって、選択可能状態=消極的自由が能動的に実現される一方、選択決定 65 I. バーリン(生松敬三訳)「二つの自由概念」『自由論』みすず書房、1997年、295–390頁。 66 Лотман Ю.М. Культура и взрыв // Семиосфера. С. 110. -  - 後期ソヴィエトにおける「生の構築」 は公共的価値や目的なしに行われる。公共的価値を標榜しないその営みは、公式領域から自 律しようというより、むしろそれに寄生し相補的である。〈ミートキーのアイロニカルな美 学は、ポストモダン的な、あらゆるものからのシニカルな撤退を想起させるかもしれないが、 実際にはそんな立場とは正反対だった――それはすべてをおおらかに受け入れることに基づ いていた〉(67)。ユルチャクの著書のタイトル(『失くなるまですべては永遠だった』)にいう、 ソ連は解体するそのときまで永続するかのごとく思われていたというのはそのためだ。積極 的自由がなくとも選択の自由は存在しうる、というのがユルチャクの主張の眼目だといえる。  消極的自由すらきわめて制限されたソヴィエト社会で、自由を拡大するためにロトマンが 選んだ戦略はそれとは違っていた。その根底にあったのはおそらく、選択可能状態は公式領 域からの自律なくしてはありえないという判断であり、それゆえ消極的自由と積極的自由は 分かちがたく結びついている。「ソヴィエト最後の世代」のごとき、公共的価値や目的を伴 わない遊戯=演技は、べつの 0 0 0 選択肢(少なくともロトマンからみて有意な)をもたらしはし ない。これは当然、なにをもって公式領域とは「べつ」だとみなすかという価値観の問題で あるし、ロトマン自身の公式領域からの自律性も問われてしかるべきことは、第 1章でみた とおりである。アレクサンドル・ピャチゴルスキーやボリス・ガスパーロフら、モスクワ・ タルトゥ学派のメンバーが亡命していくなか、ロトマンはソ連に残ることを選んだ。また、「仲 間」の一部から派生した異論派のように、地 サミズダート 下出版により著作を発表しようともしなかった。 「外部」なき後期ソヴィエト社会の内側にとどまって、「仲間」の公共的価値が公式言説にも 共有されるという環境に応答し(既成の規範のつくりかえ)、積極的自由が孕む権力性を認 識しつつも(「生の構築」の歴史的敷衍)、積極的自由を切り離すのではなくそのジレンマを 含めて引き受けることで、「公式」とイコールではない公的領域を切りひらこうというのが ――たとえそんな〈ソヴィエトの公共圏は、客観的に検知しうる現実というより心のなかの 構築物〉(68)だったのだとしても――、ロトマンの選択であったように思われる。  [付記]本論文は、平成 22~ 23年度科学研究費補助金(22820014)による研究成果の一部である。 67 Yurchak, Everything Was Forever, p. 239. 「擬態的再生産」の転覆性を強調するウシャキンはこの 点で異なるが、例えば彼が同種の転覆性の例としてとりあげる後期ソ連の地下経済は、公式領域 と相補的な側面も強かったのではないか。 68 Fürst, “Friends in Private,” p. 244. -  - “Life-construction” in Late Soviet Society: A Sociohistorical Review of Yuri Lotman’s Theory of Theatricality Norimatsu Kyohei This paper examines Yuri Lotman’s analysis of the theatrical culture of the Russian nobles from the eighteenth century to the beginning of the nineteenth century as an implicit response to late Soviet society and as a speculation on how to establish an autonomous “private” sphere, independent of the “official” sphere that penetrated almost the entire society. Soviet semiotics began simultaneously with the blossoming of information science in the “Thaw” period. Semiotics was considered to be an “honest,” “sincere,” and “universal” science, free from the ideological “dogma” of Stalinism. Having failed to find a way into mainstream Soviet academia, the school of semiotics took refuge in Tartu, Estonia, a “marginal” place in the USSR. Lotman has often represented mainstream academia as the morally corrupt “other,” dominated by ideology, but, in fact, the moral values that sustained the Tartu School were largely shared by this “other” in officialdom. As recent studies on late Soviet society demonstrate, the “official” vocabulary was so prevalent in the “Stagnation” period that there was practically no alternative to it. According to Alexei Yurchak, the creation of the “private” sphere was made possible only by a “performative” reinterpretation of “official” formulas. Lotman argues that the everyday behavior of the Russian nobles was “played” like a theatrical role, taken from the example of art (mainly literary) works. He differentiates theatrical culture into two periods: the pre­Romantic era when people played various roles, shifting from one “mask” to another, and the Romantic era when people identified themselves with only one role, considering all aspects of their everyday life as a “stage.” The Decembrists, highly evaluated by Lotman, developed this Romantic approach by “sincerely” playing the sole “simple” role that was called one’s own “self.” Lotman maintains, in agreement with Yurchak to some extent, that the Decembrists incorporated existing norms into their roles/selves. This idea of the “simple” role is described in detail in Lotman’s biography of Pushkin, whose life is traced as a passage from pre­Romanticism to Romanticism to Realism or the stage of the “simple” role. At the transition from Romanticism to Realism, Pushkin attempted to shape the “simple” role from the “play of styles.” These vague images of the “simple” role become clearer and more concrete in Pushkin’s later years: in his endeavor to build an independent “home,” the poet expected his family to share his ideal of a “simple” people (narod). This notion of the private “home” is reminiscent of Lotman’s view of his school, which was sustained by certain moral values in the prevailing mood of the Thaw period. Although criticized by reviewers for overemphasizing Pushkin’s conscious construction of his life through acting roles, Lotman applies the same idea to the biography of Karamzin. This book scarcely ascribes Karamzin’s “life­construction” to the theatrical culture of the nobility but instead explains it as a part of the legacy of medieval Christianity handed down to modern Russian literature. In this tradition, a text can appeal to readers only when its author lives a life relevant to the text. It is true that phenomena similar to “life­ -  - 後期ソヴィエトにおける「生の構築」 construction” are found in various periods of Russian literature, such as the Symbolists’ “life­creation,” Nikolai Evreinov’s “theater in life” and Nikolai Chuzhak’s “life­building,” but as the latter’s close relationship with the thesis of Socialist Realism shows, the active orientation to change life according to textual ideas can have a suppressive effect. This dilemma of active “life­construction” is embodied in the two­fold image of the “simple” role: recreation of existing norms or styles, and devotion to the moral values of the narod. They respectively correspond to Isaiah Berlin’s notions of negative freedom (from restraint) and positive freedom (to self­determination). Lotman has repeatedly discussed play and contingency (especially latterly), which enable one to have plural options and therefore freedom of choice (negative freedom). In choosing one option, one then needs certain values that justify one’s decision. Particular values help one to be an autonomous subject (positive freedom), just as the Tartu School was sustained by such moral values as “sincerity” and “universality.” On the other hand, Berlin points out that positive freedom would lead to the imposition of one’s values on others. This pitfall of positive freedom that parallels the possible suppressive effect of “life­construction” is all the more serious for Lotman for the fact that his school’s moral values are shared with the “official” sphere. Aware of these dangers, Lotman nevertheless considers it vital to establish autonomy by employing positive freedom for securing plural options in late Soviet society.