・ ’ 撃 瞬 」 . . 、 ー ノ 、 「 , 』 , - 一 遍 β 「 ^ , 一 、 了 紺 、 ・ ダ ほ ヨ         ぬ     ゆ     み     ね     の     ヨ     ゆ     り     さ   聖 馨 U ∩ 1 0 闇 《 ∩ O 一 〇 「 ∩ O コ → 「 〇 一 刀 ① 梓 ∩ 7 Φ い G。 テ Φ   b < ゆ O , 9 招 コ . .   ざ = 。 ≦     刀 区 ゴ      結       δ ζ p 瑠 三 〇 虞     δ     δ     ミ     δ   . お ≦ ∋ 剛 δ     @ 否 n 邸 ∫ 憩 O O 刈 → ζ “ き & 簗 ハ ω \ O O δ 「     匝 繭 O 皇 《 緊 σ α 奥 9 釦 く い 8 δ 〉   一   沁   ω   轟   α @ ス 9 要 鳥 8 刈 → ζ 二 8 α 婁 咽Lr一冨一ρ 一 回 にお  へ 幽幽{・・’ t /     マックス・ヒンデルと田上義也 大正・昭和前期の北海道建築界と建築家に関する研究 角 幸 博 齢 凹 四 四 、 、 嚥 、 噸 ;wwsa:#:s: さ 帖              x      ド  巴 渦       鞭   認 P  th」 轡   」 =            鎮                                        と 灘纏欄?灘翻糠三二難灘鑛灘韓灘i魏鱗総懸鍵盤雛総藻羅難難磯難難蕪蒸灘1灘講灘轟轟総総蕪蒸灘1購1総懸熱熱灘機難纐、 ・ 一 ぞ 緊 「 -『宙ニ」’ 目次 3-4棟梁設計の洋風住宅……・…………・・128 3-5近郊農家住宅…………・……・・137 序章 地方建築家研究と北海道      orl      O-2      0-3 研究の目的…・………・……・7 従来の地方建築家研究……………・…・・9 本論文の構成と要旨………・・………・ユユ 第1部 大正・昭和前期の北海道建築界と建築家 7 第2部 マックス・ヒンデル 第4章 ヒンデルの経歴と作品活動 4-1 4-2 札幌時代(1924一ユ927)・ 4-3 来日以前……………・…・・149          ..”.””..”・一・…150 横浜時代(1927-1940)以降………・………・・ユ53 第5章札幌時代の作品 148 第1章大正・昭和前期の北海道建築界      ユーユ大札幌案内・………・………・19          1-1一ユ:デパート ユ9          1-1-2:映画館 22          ユー1-3:カフェーと喫茶店 23      1-2道外建築家の活動……一……・・…26          ユー2-1:札幌組合教会と荒木賢治 26          】一2-2:札幌独立基督教会・クラーク記念会堂と高松政雄 29      1-3 中村鎮と不燃建築・……・…………・35          1-3一】:中村鎮;の経歴 35          ユー一3-2:中村式鉄筋コンクリートブロック構造の概要 35          1-3-3:中村鎮の作品 37          1-3-4:ユ92ユ年函館大火復興と中村鎮 38          ユー3一一5:「銀座街」火防線の建築 38          1-3-6:函館以外における中村式構造の建築 39      1-4鉄筋コンクリート造建築と函館・………………・・41          1-4-1:東本願寺函館別院 41          1-4-2:村田専三郎と建築同好会 43          ユー4-3:公共建築の不燃化 44          1-4-4:ユ934(昭和9)年大火復興 45      1-5官庁営繕建築家と市街地建築……・…………・・49          ユー5一一 1:札幌グランドホテルと北海道庁土木部 55          ユー5-2:小樽組合基督教会(1926年)と成田幸一郎 60          ユー5-3:日本メソジスト函館教会ハリス監督記念会堂(ユ930年)と萩原惇正 6ユ          ユー5-4:石井喜助と地方営繕事業 63      ユー6外国人建築家と北海道・………………・・65 16 第6章 5-1住宅建築…・…・………・…ユ58     5-1-1:東光園円い家 158     5-1-2:柳壮一邸 163     5一ユー3:山崎春雄邸 165     5-1-4:輝岩 ユ69     5-1・一5:大野精三態 ユ69     5-1-6:ノートン記念館 ユ70 5一一2  {鞠芝建築。… ■・。・・。・・・・・・・・… ユ72     5一・2・一ユ:札幌藤高等女学校(現札幌藤学園キノルド館) ユ72     5-2-2:暁星女学校女教師館(現北星学園百年記念館) 178     5-2一一3:北星女学校寄宿舎 185     5-2-4:北星女学校校舎 189 5-3宗教建築…・…………・…・199     5-3一ユ:聖フランシスコ修道院 ユ99     5・一3一・2:天使の聖母トラピスチヌ修道院 204     5-3-3:新潟カトリック教会 208 5-4 スキーヒュッテ……………・…・・2ユ4     5-4-1:パラダイスヒュッテ 2ユ5     5-4-2:ヘルヴェチアヒュヅテ 216     5-4-3:秩父宮殿下ヒュッテ(現空沼小屋) 218 5-5 ジェネーブ国際連盟会館案………・………・・220 横浜時代の作品 6一ユ 158 第2章 博覧会      2-1 1906年北海道物産共進会………一一…・73      2-2開道五十年記念北海道博覧会……………・…・・74      2-3 国産振興博覧会……・…………・・83      2-4 国産振興北海道拓殖博覧会…………・……・・88      2-5 小樽海港博覧会…・……………・・92      2-6 北海道大博覧会…・……………・・95 69   住宅建築………・………・・226     6-H:ヒンデル邸 226     6-1-2:旭シルク株式会社住宅 228 6-2宗教建築…一…………・・229     6-2一ユ:熱田天主公教会(1928) 229     6-2-2:岐阜天主公教会(ユ929)と付属幼稚園(1930)229     6-2-3:御器所天主公教会(カトリック恵方町教会)(1931) 231     6-2-4:金沢聖霊修道院三位一体聖堂(1931) 232     6一一 2-5:三本木天主公教会(現カトリック十和田教会)(1932)236     6-2-6:宇都宮天主公教会(現カトリック松が峰教会)(1932)239 6-3 聖母病院…………………244 6一一4名古屋市南山中学校本館(現南山学園本館)…………………25ユ 6-5 上智大学校舎(現上智大学1号館)…・…………・・…258 226 第3章 札幌の郊外住宅地と住宅      3-1札幌の郊外住宅地………・………・・ユ01          3-1-1:山鼻地区 101          3-1-2:円山地区 ユ04          3-1-3:札幌温泉土地株式会社 ユ08      3-2建築家設計の住宅・………………一110      3-3施主設計の住宅……一………・・113          3-3-1:有島武郎邸 1ユ3          3-3-2:古藤猛哉邸ほか 122 100 第7章 ヒンデルの建築観 7-1 7-2 7-3 274 一 ー ー ー ε 匿 装 亙 匙 ピ k 「新しく家を建てる人々へ」にみられる建築家観………………・・274 ヒンデルと日本建築…・……・一……276 ヒンデルの作風………………・・279 一2一 一3一 灘灘鎌難二二二二灘難繊三三鶴三二麟繊灘二三灘鐵灘i三三二丁欝灘灘羅i轟轟灘i灘灘鑛1議論購i論議灘灘論議1轟轟絵鑑灘轟轟謙譲鱗雛 魂 - 繋 マ繋響}          韓・}唱’ .1iL.響 ‘騨 ぐ 細w喉へ響IF .灘1糊罫響騨「鴨 第3部 田上義也 第8章 第9章 田上義也の経歴と作品活動 8-1 8-2 8-3 8-4 8一一5 早稲田工手学校時代まで………・………t・284 F.L.ライトとの出会い……………・…・・285 建築家田上義也の誕生・………………・・287 戦後の活動………・………・・29ユ 戦前期の作品活動…………………292 田上義也建築作品展と建築叢集 9-1 9一一2 9-3 284 295     11-2-4:亀屋本店(1928) 360     1ユー一 2-5:松岡農場事務所(1928)362 11-3日本基督教会札幌北一条教会く1927)・…一……・……364 第12章 1930年代の作品 12-Oユ930年代の作品にみられる作風・………………・・371 ユ2-1商業建築と書き割り表現……・…………・・372     ユ2-H:マリヤ手芸店改修G930) 372     12一ユー2:富貴堂改修く1930) 372     ユ2一ユー3:札幌第一農園ll(1930) 373     12一ユー4:岩城新聞店(1930)373     12一ユー5:小笠原商店野洲(1932) 374     ユ2一ユー6:千秋庵帯広支店(1933) 375 ユ2-2カフェー・飲食店一……………・・376     ユ2-2-1:亀屋支店(ユ929) 376     12-2-2:ヤマニ(ユ930ころ) 377     12一 2-3:アポQ(1929) 378     12-2-4:カフェー三條(1931) 378     12-2-5:キャピタル(1932) 379     12-2-6:紀文茶屋(ユ932) 380     ユ2-2-7:パリジャンクラブ(1933)38ユ     12-2-8:宇喜代(1935) 382 12-3病院建築とモダニズム表現・………………・・383     12-3-1:浅野炭鉱病院(1930) 384     12-3一一2:山下紅門院(1931) 386     ユ2一一3-3:池田病院(1933)387     12-3一・4:志田病院(ユ934)388 ユ2-4ホテルと艦船デザインー・………・…・・389     ユ2一一 4・一ユ:中島温泉(ユ930) 390     12-4一・2:野水ホテル(1932)391     12-4-3:十勝川温泉ホテル(1933) 395     12-4一一4:町営網走観光ホテル(1936)398     ユ2-4-5:石狩海牛ホテル(1937) 400 12・一5その他の作品から・…一…………・404     ユ2-5一ユ:佐々木座(ユ929)404     ユ2-5-2:円山郵便局(ユ930) 406     ユ2-5-3:幌西巡査派出所(1930) 406     12一・5-4:函館毎日新聞社(1932) 407     ユ2-5・一5:共同魚菜市de(1934) 408     12-5一一6:北見郷土館(現網走市立郷土博物館)(1936) 409     ユ2-5-7:札幌正教会計画案(1934) 4ユ0 ユ2-6北ノ王鉱山と平出航空㈱落部工揚一……一……・4ユ3     ユ2-6一ユ:北ノ王鉱山(1937) 4ユ3     12-6一一2:帝産航空㈱落部工揚(1944) 4ユ8 371 田上義也建築作品展覧会(1925)一……・…・……295 第3回田上義也作品展覧会(1930)・……・……・……300 田上義也建築学集(1931)……………一・・304 第10章 住宅作品 10-0住宅作品に見られるライト風スタイルからの離脱一……………・・309 10-1大竹虎雄別邸(1922)・…………i・……3ユ0 10-2高田治作邸(現江口修邸)(1925)・…・…・…………313 10-3ライト風住宅・………………・・315     1(ト3-1:高松泰造邸(1925) 3ユ5     ユO-3-2:関場不二彦邸(1926) 317     ユ0-3-3:田上自邸(1926) ユ37     ユ0-3-4:小熊桿邸(現北海道銀行円山クラブ)(ユ927) 320     10r3-5:坂牛直太郎邸(現坂牛正志邸)(1927) 322     ユ〔ト3-6:金子実邸(ユ927) 323     10-3・一7:坂敏男邸(ユ927) 324     1 O・一3-8:佐田作郎邸(現小熊宿雪)(1928)326     10-3-9:上田久寿子邸(現MOA世界救世教北海道地区本部小樽布教所)G928) 327     ユ0-3-IO:アパートメントハウス(1925) 329 10-4 「雪国的造形」住宅………・………・・330     ユ0-4一ユ:吉田角次邸(現袴塚厚三居住住宅)(ユ928) 330     1〔}一4-2:小川隆子邸(ユ928) 332     1(F4-3:東武別邸(1928)333     ユ(ト4-4:鬼窪重作邸(ユ929)334     ユ(ト4-5:後藤惣作邸(1930) 336 10-5片流れと陸屋根の住宅……・…………・・337     ユO-5一一ユ:百円の家(ユ926)338     ユ0-5-2:澤枝重雄邸(1928) 338     1e-5-3:櫻田邸(ユ928)339     10-5-4:城下良平邸(1930) 340     ユ0-5-5:太秦康光邸(1931) 341 10-6インターナショナル・スタイルを意識した住宅・………………・・343     1〔}一6-1;相内邸(現高亭亭)(ユ934) 343     10-6-2:倉田清純邸 345 10-7東京郊外の住宅作品……一………・・347     1(ト7一ユ:里美勝蔵邸・アトリエ(1929) 347     10-7一・2:外山卯三郎邸(ユ929) 348 第11章 1920年代の住宅以外の作品 309 350 第13章 田上義也の作風と建築観 ユ3一ユ田上義也と雪国的造型………・………・・420 13-2著作に見られる建築観一……………・・423 420 11-0ユ920年代の作品の作風………・………・・350 11-1バチェラー学園(ユ924)一…・……・……350 ユ1-2ライト風の作品…・…一………・355     11-2一ユ:札幌第一農園1(1926) 355     ユ1・一2一一2:札幌市医師会館(1926)356     1ユー2-3:愛野fU (1927)357 結章 北海道建築界と二人のフリーアーキテクトーマックス・ヒンデルと田上義也一 432 桑 図版出典および所蔵一覧……………・・…・439 主な参考文献…………………445 関連既発表学術論文および論著…………………450 一4一 一5一 響懇懸麟1轟磁麟翻鑛.熱三二二二翻 鹸鑛灘二二縫難鱗1撫巌灘議論論議灘轟轟灘欝繊li羅叢獺購叢雛1熱論灘謙譲叢叢鞭叢,瀞 一『琴 {灘騨零’欲『’ 一”  ”a  一   じし㌧    講・ 四隅一 G幽一・膚ら塒酬雪・・ずい胃一・Vsボ、 “x 8 鎚 り   牟一t一  ・’ISF、’ や    ,tL   ev ・ ∴..._1貫驚灘灘三三麟             e 1、デ 一 序章 地方建築家研究と北海道 0-1研究の目的  本研究は、北海道の近代建築史上においてほぼ同時代に登場し、かつ プロクェッション(職能)を強く意識した建築家の先駆けともいえる2人 のフリーアーキテクト’、マックス・ヒンデルMax Hinder(1887~!963) と田上義也(1899~1991)をとりあけ㌔両建築家の経歴、業績、作品・著 述活動等について検討し、北海道において本格的な近代建築家像の一一端 を明らかにすることを目的としている。  連節で概観するように、日本近代建築史研究における建築家研究に関 しては、多くの場合中央で華々しく活躍した人物を中心としており、地 方に拠点を置いて活動した地方建築家研究については資料の限界なども あってほとんどなされていないし、さらに北海道にあっては戦前期の建 築界の活動中心が営繕組織や技術者によることもあって、民間建築家に 関する研究はごく少数である。  本論文でとりあげるヒンデルは、作品活動の中心となった札幌では、 北星学園や藤学園、テイネパラダイスヒュッテの設計者として関係者の 問ではかねてから知られていた人物であるが、北海道の建築界や建築史 上にあっては、筆者が調査研究を進めるまでほとんど忘れられていた存 在であった。また、田上義也にしても、建築家としてまた文化人として 高く評価されていたにもかかわらず、戦前期の膨大な作品や著述活動に ついて、これまで専門的に扱われたことはなかった。  プロフェッショナルな建築家として両者が北海道で活動を開始した時 期は、全国的に見ても1920(大正9)年結成の「分離i派建築会」2を初めと して、「創宇社」3(1923年)、「MAVO」4(同年)、「ラトー」5(1924年)、 「メテオール建築会」8(同年)など各種の運動が堰を切ったように起り、 近代建築史上めまぐるしい変革が展開することになった時期と重なる。  さらに建築家のプロクェッション確立への機運が高まってきた時期で もあり、民間建築事務所の所長や所員、会社営繕などに属する建築家た ちが歩調をそろえ、1914(大正3)年にわが国最初のプロフェッショナル アーキテクトの団体「全国建築士会」(翌1915年日本建築士会と改称)を誕 生させ、さらに19ユ7年には関西建築界では片岡安を中心に、 「建築家の 団結と社会への貢献を求めて」7「関西建築協会」(1919年日本建築協会と 1:ここでは、建築組織に属さずに活動  した自営建築家をさす。 2:ヨーロソバやアメリカの20世紀初頭  に興つた近代建築運動の思想を初め  て本格的に把握し、 「過去建築圏よ  り分離し」、「建築圏を創造せん」と  した建築運動。 3:岡村蚊象(山口文象)を中心に逓信省  営繕課の技手たちによって結成。岡  村を除く同人はすべて10代であった。 4:大正末の建築を含めた幅広い芸術団  体。ドイツ帰りの村山知義を中心に、  尾形k之助・大浦周蔵・穴明共三・W.  ブブノアが創立会員。ソビエト構成  派の影響が濃い。1924年の帝都復興  創案展に参加。 5:東京帝国大学建築学科卒業生によっ  て同年催された帝都復興創案展参加  のため、結成した建築グループ。19  22年卒業の岸田日出刀らが中心メン  ノく一。 6:帝都復興創案展参加のため、早稲田  大学出身者で結成したグループ。助  教授今井兼次を中心に、猪野勇一・  佐藤武雄やその同窓生が集まる。 7:日本建築学会編『近代日本建築学発  達史』(:丸善㈱、1972.10.20) ト 匹 レ t z 悔 ㌧ 一7一 無爵謡曲懸懸灘籔二二三二鎌麟撫灘麟購総議二二懸盤三三蝋鍵藩総二三籔丁丁灘鰯響難三冠騨驚饗響騨辮灘灘難難欝騨難霧騨難聴饗欝難鐸鍵騨鞭驚騨饗幣で1纈響 職 ,1 、kt「x:.  ’ヤ置帽 ・・ hI、一㌧・謡ぺ 畢灘鑛 8:『新しく家を建てる人々へ』 (北海  タイムス、1925.12.13~20) 9:1867-1959。アメリカの建築家。初  期の住宅建築は独自の空間構成を示  し、大草原様式と呼ばれる。日本で  は旧帝国ホテル(1919-22)の設計者  として知られるe同ホテル現揚事務  所に田上義也は1918年から通訳兼所  員として勤務。田上は1919年12月か  ら1921年4月までライトに師事した。 10:遠藤明久『北海道住宅史話(上)(下)』  (住まいの図書館出版局、1994.6.21)  では、寒地住宅の模索で大正期の農  家住宅について、および都市化の様  相の中で田上義也についてわずかに  ふれているにすぎない。 改称)が設立されている。  1925年「日本建築士会」は、設立当初からの宿願であった「建築士法」 案の建議を第50回帝国議会に提出した。以後1940年までの15年間に12回 にわたって提案された7ものの、結局戦前に実を結ぶことはなかった。  北海道でも少数派とはいえ、建築家のプロクェッションをたえず意識 しながら、ヒンデルのようにはっきりと「建築に関する計画と監督は建 築家にまかせよ」8「建築家は、……自由なる判官として一般社会と建築 依頼者と、または建築主と請負業者との問に立つ」8「自ら請:負業者を兼 ねて居る限りそれに建築家の称号を冠せしむるわけにはいきません」と 建築家の職能への理解を新聞を通じて啓蒙したり、田上義也のように住 宅作品でも「設計報酬」の必要を認めさせ、建築家の職能を社会的に確立 していった建築家達が存在していたことは、わが国の近代建築史上にあ ってもっと評価されてもよいように思われる。  1923(大正12)年の関東大震災が、わが国の建築界に大きな影響を与え たことはよく知られていることだが、田上義也が24歳の若さで二道する 直接のきっかけとなったのもこの震災であった。また、偶然とはいえ37 歳のヒンデルの来道は翌1924年のことであり、しかも両者はこの年1924 年に札幌で同時に設計活動を開始した。F.L. WrightSの薫陶を受け た田上義也と、ヨーロッパの近代建築思潮を身に付けたヒンデルが、同 時期に活動を開始したことは、北海道の近代建築の本格的な幕開けとし て、いかにもふさわしくまた象徴的な出来事でもあった。  本論文では、両建築家の経歴や作品活動にふれる前に、2人が活動を 展開した札幌を中心に、大正・昭和前期(1920~30年代)の北海道建築界 についての概観を試みている。これまでの北海道における近代建築史研 究として、遠藤明久『開拓使営繕事業の研究』(1961)や越野武『北海道 における初期洋風建築の研究』(1990)など、明治期を対象とした労作は あるものの、その後の大正昭和戦前期を扱った概説書1。は見出せなかっ たからである。  なお研究資料として、ヒンデルに関しては、新聞投稿記事「新しく家 を建てる入々へ」(北海タイムス1925。12.13~12.20)、OAG東洋文化 研究協会講演集「Japanische Bausitten(日本の建築風習)」(1929.1.8)の ほか、関係者からの聞き取り、個々の作品についての設計図書、旧写真 の収集、沿革調査の積み上げによって、建築活動を総体的に把握した。  一方田上義也研究に関しては、田上義也から寄託された500点以上に 及ぶ設計図書、125葉ほどの竣工写真、田上所蔵初期のスクラップブッ クのほか、「田上義也建築作品展覧會」(1925)、「同」(1930)パンフレッ ト、 『田上義也建;築壷集』(1931)、 『芸術学研究第一輯』(1929.12.1)、 『同第二輯』(1930.5.1)、『同第四輯』(1930.11.20)で展開した「建 築論」や、投稿記事「北国にふさはしい建築一考察」(北海タイムス1929. 25,26,30)、「雪国の小住宅」(小樽新聞、掲載年不明)、「建築家の見た一 九三〇年の旭川」(新聞名不詳1930.12.25)、「帯廣都市計画一考察」(十 勝毎日新聞1933.5.16)、北方文化研究会編『田上義也建築抄』(らいら っく書房!966.5.1)などを史料として採用した。ほかに、経歴、年譜な どについては、以下に挙げる著述を参照した。 蝦名賢造『北方のビジョン/地域開発における人間研究』(らいらっく書房ユ966) 『わたしの道』(北海タイムス杜1974) 小山一男『北のまれびとくエゾライト・田上義也〉(上)(下)』(現代出版社ユ977) 田上義也『私と北海道の建物』 (月刊住宅ライフ連載ユ983.3~ユ984.3) 『私のなかの歴史3』(北海道新聞社ユ984) r受賞に輝く人々(昭和五十三年)』(北海道ユ979.3.29)  著述内容はいずれもほぼ同様であるが、詳しさの点では『北のまれび とくエゾライト・田上義也〉』を挙げることができる。上巻では、誕生か らライトに師事した後、渡道前後のいきさつ、戦前期のいくつの代表作 を通じての田上のパーソナリティー、戦後の活動、交友関係などにふれ ている。田上の監修も経ているが、 「建築家ではないし、建築について の知識も皆無である」11と著者も述べるように、個々の作品に則した分 析は欠けており、本論では特にこの点を中心に扱った。下巻では、戦後 の田上の随想、講演、交友記のほか年譜を添えている。この年譜は、田 上からの提供資料によってまとめられたものと思われ、田上の活動の全 容を把握する上で基本資料となるものである。本論文でもこの年譜を参 考としながらも、できるだけ個々の作品や遺存図面との照合にあたり加 筆訂正することにっとめた。 0-2 従来の地方建築家研究  日本近代の建築家に関する研究としては、神代ts一一郎『近代建築の黎 明明治・大正を建てた人びと』(美術出版社、1963)や、村松貞次郎『B 本近代建築史ノート 西洋館を建てた人々』などが知られるが、取り上 げられている建築家は、いずれも中央で活躍の主流派といえる建築家た ちである。後者ではさらに、建築家誕生前の建築家として、初期の棟梁、 技術者達を論じているが、北海道に関しては安達喜幸の名を挙げるにと どまっている。  村松貞次郎『日本建築家山脈』(鹿島研究所出版会、1965)は、建築家 をいくつかの群としてとらえ、総合的、集団的に扱ったユニークな建築 家論であるが、主要な建築家群の中には、地方で、そして孤立した活動 11:小山一男『北のまれびとくエゾライ   ト・田上義也〉』下巻p.197 一8一 一9一 粋 ’ 一懸騨騨辮簸轟灘藤購.鑛灘 一細撒轟 ・轟鮪繍 輪灘・…. 熱厭’撫        綴    鐸  = 灘…撫騰黙糠灘1麟織懲欝響i,、騨 朗朗 弾響響 $ 譲 総 廓 卜 圃 「 ’ 解 一難,癒卿一一 1「「暉■’ 『郵寧r㌻『1 ’=’響 ?置二_,摯.脚,、・轡、羅麟 12:村松貞次郎他『ウォートルスの経歴  について』 (日本建築学会論文報告  集}lkx 1 O 3、1964)や菊池重郎の『英人   T.J。ウォートルスの事績に関する  研究』1~4(日本建築学会大会学術  講演梗概集1974、口本建築学会論文  報告集Na228、229、243、1975)など  の研究がある。 13:菊池重郎『明治13年来日米人J.M.  ガーディナーの人と作品』 (日本建  築学会論文報告集bkLIO3、1964)、松  波秀子『J ames McD。nald Gardi-  nerの来日までの経緯一日本聖公会  の建築史的研究2』(日本建築学会大  会学術講演梗概集1993.9)など。 14:坂本勝比古『英人建築家Alex. N.  HanseH(F.R.1.B.A.)の経歴  と作品について』 (日本建築学会論  文報告集M69、1961)、同『建築家  Alex N. Hanse11のF.R.1.B.  A.入会経緯とその作風について』   (日本建築学会大会学術講演梗概集  1987)など。 15:藤森照信『エンデベックマンによる  官庁集中計画の研究』1~5(日本建  築学会論文報告集ぬ271~273、1978、  M280、281、1979)など。 16:小山道ほか『札幌美以教会(明治37  年)について』(日本建築学会北海道  支部研究報告集Nα54、1981) 17:越野武・角幸博『札幌独立基督教会  クラーク記念会堂(1922)について  その1』(日本建築学会北海道支部第  35回研究発表会、1971) をなした建築家についてはふれられていない。もちろん彼らを無視して いた訳ではなく、 「日本の近代建築の発展史に欠かすことのできない人 びと」と評価しつつも、 「山脈として、群として処理することができな かった」ためである。  近代建築家像を精力的に概観した、村松貞次郎ほか『日本の建築[明 治大正昭和]!~10』(三省堂、1979~82)に所収の年譜には、53名の建 築家が取り上げられているが、北海道の建築家としては、初期の官僚技 術者安達喜幸を除くと、わずかに田上義也が扱われているにすぎない。  さらに外国人建築家に関しては、明治期の著名な建築家コンドルに関 する多くの研究のほか、ウォートルス12やガーディナー13、ハンセル14 などを扱ったもの、エンデベックマンに関する藤森照信の一連の研究15、 またrウィリアム・メレル・ヴォーリズの建築をめぐる研究』(1993年) ほかヴォーリズに関する山形政昭の一連の研究、ライトに関する谷川正 己の研究などがみられるが、いずれも中央で活躍した建築家たちで、ヒ ンデルのように地方で活動した在日外国人建築家に関する研究は、筆者 の管見したところでは極めてまれである。  北海道における建築家研究は、営繕技術者や営繕組織を対象とするも のが主である。遠藤明久博士の『開拓使御用係安達喜幸について』 (日 本建築学会北海道支部研究報告集、1961)、 『森山武光と中村一正(開拓 使物産売捌所の研究第5報)』(日本建築学会論文報告集No.104、1964) や、 『開拓使営繕事業の研究』(1971)中の「開拓使営繕機構iおよび技術 者」、『北海道事業管理局炭鉱鉄道事務所の建築技術史料』(日本建築学 会北海道支部研究報告集No.32、1969)中の「炭鉱鉄道事務所建築課の建築 技術者」など一連の営繕技術者に関する研究のほか、営繕組織を扱った 越野二二『開拓使函館支庁の営繕組織について』 (日本建築学会大会学 術講演梗概集1988)、大條雅昭ほか『函館市(区)の営繕組織について』 (日本建築学会北海道支部研究報告eeNo.56、1983)などがあげられる。  民間建築家に関しては、本論文の基礎となる筆者の一連の研究である マックス・ヒンデルおよび田上義也に関するもの以外に、中村式鉄筋コ ンクリートブロックを考案し、函館の防火建築にたずさわった建築家中 村鎮に関する、伊藤俊英他『建築家中村鎮と中村式鉄筋コンクリート』 (日本建築学会北=海道支部研究報告集No.55、1982)、 r建築家中村鎮と北 海道』(日本建築学会大会学術講演梗概集1982)や、小坂映王他『建築 家石井喜助(1893~1977)』 (日本建築学会北海道支部研究報告集No.56、 1992)、遠藤明久『指田近之助の経歴と業績』(日本建築学会北海道支部 研究報告集No.66、1993)などのほか、実測調査にともなう簡単な設計者 調査として、札幌美以教会設計者間山千代SW1 Bや道外建築家として札幌 独立基督教会・クラーク記念会堂の設計者高松政de 1 7などに関するもの がみられるにすぎない。 O-3 本論文の構成と要旨 本論の構成と要旨は以下のとおりである. 序章 地方建築家研究と北海道  本研究の目的は、北海道の近代建築史上において同時代に登場した2 人のフリーアーキテクト、マックス・ヒンデルと田上義也をとりあげ\ 両建築家の活動、著述の検討を通して、北海道におけるプロクェッショ ンを意識した本格的近代建築家籍の一・端を明らかにすることである。両 建築家研究の背景として、日本の近代建築家研究が主に中央で活躍した 主流派ともいえる人物が中心であり、外国人建築家に関しても、中央で 華々しく活躍した建築家たちを対象とし、ヒンデルのように地方で活躍 した人物を扱ったものはまれであること、北海道における建築家研究は これまで営繕技術者、営繕機構を対象としたものが主で、民間建築家に 関しての研究はごくわずかであることなどを指摘した。  第1章以下は大きく3つの論旨で展開し、第1部では両建築家が活動 した時期の北海道建築界の動向を概略把握し、2部でマックス・ヒンデ ル、3部で田上義也をとりあげた。 第1部 大正・昭和前期の北海道建築界と建築家  第1部では、2人の建築家の昭和戦前期の活動期が、1924年頃から19 30年代にかけての時期、つまり大正末から昭和初期であることに着目し、 2人が建築活動を展開した札幌を中心に、大正昭和初期(1920~1930年 代)にかけてのモダニズム期の北海道建築界の動きを概観した。  第1章1-1では、第3部に扱う田上義也の市街地作品群で特徴的なジ ャンルとしてカフェー、喫茶店などのあることを念頭に、『大札幌案内』 (1931年)でとりあげられた札幌のモダニズム期を代表するデパート、映 画館、カフェー、喫茶店などの市街地施設の概要にふれた。  1-2、1-3では、市街地における銀行や商社など大規模商業施設の多く が道外の建築家や建築事務所で設計されていることを指摘し、さらに道 外建築家の代表例として、札幌組合教会(!913年)設計の荒木賢治、札幌 独立基督教会(1922年)の曽彌中條建築事務所高松政雄、1921年函館大火 復興に寄与した中村鎮の3人についてについてふれた。  1-4は、1-3で指摘した中村式コンクリートブロック造のほか、鉄筋コ ンクリート造の函館における展開を、東本願寺函館別院(1915年)や施工 業者木田保造、市会議員岡田健造の小学校不燃化の提唱、1934年大火復 興事務局の活動などについてふれた。第3部で後述するように、田上義 也の民間市街地建築の中には、鉄筋コンクリート造を想定した計画案が 数多く見られるが、実施段階ではすべてが木造モルタル仕上げとされる 一10一 一 11 ,磯白白螺灘懸白白籔二二二二麟撫轟灘縮一一一・二三麟三白轍麟紬麟礁碧羅雛旧記鐡雛i灘騰懸灘難灘雛灘難灘羅1灘鱗欝灘購i灘購 縄   雪 遙 年 . , 弓 ■ ㌔ Ψ 巾 , -   嘲 琶 ㌔ 、 ㌔ ■ し 駐 . ㌔ ‘ . 霜 一 - ・ , 押 - 湿 u 強 〆 4 1 董 」 . 障 } ー ト 距 」 ↓ p 学 些 民 - 慶 レ 「 . - い 謬 劇 馨 翫 豪 郵 ■■唾鴫he〔N?一聖 一L一1.U4=. 一“s.r. ’“ .. 響離響饗:騨灘響螺1難饗難難灘灘欝欝籔醗三三醐1 など、市中の中小建築では鉄筋コンクリート造の採用は、まだまだ少数 派であった。  1-5では、戦前期の北海道建築界の活動の中心をなした北海道庁と、 札幌、函館、小樽、旭川など主要自治体の営繕作品年表を試作した。ま た、地場の民間設計事務所がほとんどない状況を反映して、営繕技術者 による民間建築設計例について、逆に専門建築技術者を擁することので きなかった地方自治体での嘱託建築技術者の雇用例として、12市町村の 営繕事業に関与した音江村(現深川市)石井喜助(1893-1977)の特筆すべ き存在を指摘した。石井は、本論で扱うヒンデルと田上義也(いずれも 1924年活動開始)よりも数年早い1920年に岩見沢に事務所を開設したが、 活動の多くが営繕事業を中心とするため、本節で扱っている。  1-6では、北海道における外国人建築家の活動として、旧函館英国領 事館(1913年)設計の英国上海工事局や札幌カトリック教会聖堂(1916年) 設計のフェルゲット神父を例にとり、北海道に居を構えた建築家として は、ヒンデルが唯一の例であることを指摘した。  第2章では、都市文化の高揚に大きな影響を与えた5っの博覧会をと りあげ、設計スタッフ構成やパビリオンの施設概要を中心に述べた。こ のうち、国産振興博覧会(1926年)や国産振興北海道拓殖博覧会(1931年) では、田上義也がパーラー施設や、野外舞台設計に関与していることを 指摘した。  第3章では、市民生活に密接な影響を与えたと考えられる住宅地と住 宅建築について札幌市を例としてとりあげ、新興住宅地の開発が中流住 宅の建設に拍車をかけたこと(3-1)、「モダン住宅」、「文化住宅」などと 呼ばれる意匠的にも平面的にも目を引く住宅が、建築家の設計(3-2)ば かりでなく、施主や棟梁たちの手によって創造され(3-3、3-4)、また近 郊農家住宅にもみられる(3-5)ことに注目した。建築家設計の住宅のう ち、札幌市を中心にマックス・ヒンデルや田上義也の作品が多数注目さ れるが、これらについては、第2部、第3部門扱うこととした。 第2部 マックス・ヒンデル  マックス・ヒンデル(1887-1963)は、1924年に来道、3年半の札幌滞 在後横浜市に移住し、1935年設計事務所解散、1940年ドイツバイエルン 地方レーゲンに旅立っまで、在日外国人建築家として活躍した。ヒンデ ルが札幌で活躍したころの北海道建築界は官庁営繕組織や営繕技術者達 が主流を占めており、組織に属さないかっ職能に自覚的な自営建築家の 存在は、第3部で扱う田上義也と共に、きわめて少数派であった。  第4章は、マックス・ヒンデルの経歴と作品活動の概要にふれ、第5 章では札幌時代の豪邸を、住宅建築(5-1)、学校建築(5-2)、宗教建築(5 -3)、スキーヒュッテ(5-4)など建築種別ごとに概説し、5-5ではジュネ ーブ国際連盟会館設計案についてふれた。  第6章横浜時代の作品は、 ヒンデル邸(1927)を含む住宅建築(6-1)、 宇都宮天主公教会など宗教建築(6-2)のほか、聖母病院(1931、6-3)と名 古屋市南山中学校本館(1932、6-4)についてふれ、上智大学校舎(1932、 6-5)では、図面資料を基に設計過程をやや詳細に追いながら建築概要に ふれた。  第7章では、ヒンデルの建築家観、建築観作風についてまとめ、建 築家の職能について市民啓蒙を図ったこと、日本建築や日本文化を積極 的に理解しようとしたこと、ヒンデルの作風として、住宅では、急勾配 の裾広がりのフレアード屋根、こけら葺きや鉄板葺きの外壁防寒処理、 引き戸、引違い窓の採用など、住宅以外の作品ではロマネスク様式への 顕著な傾倒を中心に、住宅に通じるフレアード屋根の扱い、鐘塔、尖塔 の付加など共通のモチーフなどを指摘した。 第3部田上義也  田上義也(1899-1991)は、1918年帝国ホテル現場事務所に採用され、 翌1919年12月来日のライトに1年4ヵ月ほど師事し、通訳として、日常 生活を通じてライトから建築家のプロクェッションについて学んだ。19 23年11月、関東大震災の被災地東京から北海道に渡り、一時バチェラー 博士宅に寄留、翌年道東の旅を契機に北海道での建築活動を決意し、19 25年札幌時計台で第!回建築展を企画し建築家としてデビューした。そ の後1928年第2回建築展、1930年札幌と旭川で第3回建築展を開催し、 1931年には田上義也建築書集を刊行している。1920年代には住宅を中心\ 1930年代には「雪国的造型」をキーワードに、住宅および住宅以外の作 品も含め、多産ともいえる精力的な活動がみられたが、1930年代後半か ら設計依頼は激減し、1937年北ノ王鉱山、1944年二丁航空㈱落部工場な どの産業施設を最後に戦後1951年の再出発まで建築家としてまったくの ブランク期をむかえることになった。本論文で扱う作品活動もこのブラ ンク期以前とした。  第8章は、田上義也はF,L.ライトに師事し、関東大震災後の渡道ま での東京時代(8-1、一2)、北海道における戦前期の活動(8-3)、戦後の活 動(8-4)を概説し、8-5では、戦前期の作品活動の全容を概観した。  第9章では、3回の田上義也建築作品展覧会のうち、資料の残る1回 展(1925)と3回展(1930)および、初めての作品集『田上義也建築甕集』 (1931)にみられる田上義也の設計理念や制作姿勢について論考した。  第10章の住宅作品では、1920年代に見られるライト風スタイルから19 30年代に展開する「雪国的造型」への過程を、ライト風から脱却して独 自の作風を求めた過程と位置づけ、独自の作風を求めた萌芽と考えられ る大竹虎雄別邸(1921、12-1)、北海道初の住宅作品で、かっ雪国的造型 への模索がみられる高田治作邸(1925、12-2)のほか、代表作をライトの 影響を強く受けているライト風住宅(10-3)、田上的作風として確立した 一12一 !3 一 出自鑛鐵麟離麟購織講 二二i灘灘灘響二三二三三二懸磁灘購灘羅難灘i溝鼠綴難藻類灘灘灘羅灘滋藤灘灘ii灘灘輪講轟轟灘無識懇 難諜 瞬 軍 11融,購幽幽軸摩・蝋・冒・一画三酉榊繊鮒幽幽・噛塾・・袖 の ノ . 、 う ど搾 ・ 量 ’ ∴ 一 ・             一 … 緊               臨 緊 帰 蔵 霧 「雪国的造型」住宅(10-4)、「雪国的造型」にいたる習作としての片流れ と陸屋根住宅(10-5)、インターナショナルスタイルを意識した住宅(10- 6)、東京郊外の住宅(10-7)に分類し、個々の作品を通じて田上の設計姿 勢、建築観を考察した。  第11章は住宅以外の作品のうちライト風の影響の強い1920年代の作品 についてふれている。  第12章では、1930年代の活動範囲が住宅から市街地建築に移るものの、 「雪国的造型」を第一目標としながら、ライト風スタイルからの離脱志 向がよリ顕著であることを指摘した。多くの作品を、看板建築ともいえ る書き割り表現のみられる商業建築(12-1)、モダニズム期の代表建築と してのカフェー・飲食店(12-2)、陸屋根表現などインターナショナルス タイルを意識した病院建築(12-3)、艦船デザインを意識したホテル建築 (12-4)、その他の作品(12-5)とに分類し、この時代の作風の変化につい てふれている。  また、12一・6では、この時期の最後を飾る作品として、それまでの田上 の作品には見ることのできなかった大規模な産業施設計画である北ノ王 鉱山と帝産航空㈱落部工場をとりあげ、作品活動の激減期に欝積した創 作エネルギーの格好の発散の場であることを指摘した。  第13章では、上述の作品概要をふまえ、1920年代と1930年代とでは大 きな変化がみられ、それはライトの精神を土台にしながらも、むしろラ イトの作風から抜け出すことを意識しっっ、積雪寒冷地に適した建築作 品の創造に向けての過程の到達点の一つが雪国的造型であること(13-1)、 著作に見られる主張でも一貫して「雪国的造型」意図の確立であること を指摘している。  煙管では、第2部、第3部のヒンデルと田上義也の個々の作品、著作 活動の検証、検討をふまえて、両者に共通する北海道近代建築史上にお ける位置づけとして、(a)建築家の職能についての市民に対する啓蒙、 (b)北国の設計条件を取り入れた北海道向き建築の提案、(c)安易な国際 様式傾倒への警鐘、(d)設計ジャンルの多様性の4点を指摘した。 第1部 大正・昭和前期の北海道建築界と建築家 一14一 移∵lv;驚鑛.一,.., 灘   難罐猟     醐幽幽._,_ _,一翌_灘縮㍊.、 e・灘, s、]as」  _罵 凹凹  k」. i  嘘.聾     胴 。. ・欝一山蝋甕繊m翻. 購麟鍵盤鍵盤論議憲羅灘灘 」欝』 葺雛1.羅ま、i…1鋤. 再 鞍 「 乙 ポ ! 、 暴.瞬  轍 ’一u難璽,窟。.、       ’ ■  t一」一一一》 璽一ムー一’一一t・・t--一一一偵‘L「隔’.  . .:一b 一T tl .L .i;.E.,一. ,;. 綴蛾,練細一鞭 第1章大正・昭和前期の北海道建築界 1:『さうぼろ文庫・別冊札幌生活文化  史〈大正・昭和戦前編〉』(1986.2.  20)p.42 2:中尾保「誤れる文化生活」(『建築と  社会』第2号1925.2.1) 3:南博+社会心理研究所『大正文化19  05・一1927S p.249 4:『大正文化1905~1927』p.250 5:『建築図案 文化生活と其の住宅』   (建築書院、1923,2.11)序文によれ  ば、 「早稲田大学工学部建築学教室  撰科生」とあるが、稲門建築会名簿  には記載されておらず、卒業年など  不祥。 / 姥 f i l    ・建,嬢圏慕    立化踊セ     蔦の孤そ.    ,な韓と俊翻一燵序    匿㎜今 和二β先生序    砲鱗恨噂 山 申 値 蘭 著   はソ 図1-1-1 『建築図案 文化生活と其の    住宅』表紙  本稿で扱う2人の建築家の戦前の設計活動期は、いずれも1924年頃か ら1930年代にかけての時期つまり大正末から昭和初期である。ヒンデル は、札幌で1924~27年、横浜で1927~39年にかけて活動し、田上義也も 1924年以来設計活動の中断する1940年頃までを戦前の活動期としていた。  本章では、2人が建築活動を展開した札幌を中心に、大正昭和初期 (1920~30年代)にかけての北海道建築界の動きを概観してみたい。  大正期がいろいろな意味で、それまでの明治期とは異なった雰囲気を 醸し出していたことは誰しも認めるところである。無我夢中で外国文化 の摂取模倣に執着した明治期の段階が終わり、やっと落ち着いて、ゆと りを持って芸術、生活文化を考えることの出来る時代がやってきて、何 かしら若やいで、明るく自由な雰囲気が感じられる時代であった。この 時代には「文化生活」や「文化住宅」という言葉が流行したが、 「文化」 という文字があまりに乱用されすぎる傾向もあった。文化鍋、文化机、 文化寝巻、文化せんべい1から文化餅2までが現れている。しかしこの 言葉は必ずしも定義づけられたものではなく、いわば近代的なというく らいの意味で使われたようである。  文化住宅は、ホワイトカラー、官吏あるいは医師、弁護士など自由職 業の新中間層3の理想となった住宅形式であった4。文化住宅の典型例 は、谷崎潤一郎の『痴人の愛』の主人公が住んでいたような「勾配の急 な、全体の高さの半分以上もあるかと思はれる、赤いスレートで葺いた 屋根。マッチの箱のやうに白い壁で包んだ外側、ところどころに切って ある長方形のガラス窓。そして正面のポーチの前に、庭と云ふよりは寧 ろちょっとした空地がある。……中に住むよりは絵に書いた方が面白さ うな」(『痴人の愛』1924.3)住宅であった。  1923年発行『建築図案文化生活と其の住宅』は、建築技師山中節治5 の作品や設計案を収録したものであるが、同書内の作品解説にも、 「青 い野に赤い瓦は非常によい調和であります、ですから之れはどうしても 赤瓦を主張致します、壁は黄土の漆喰壁がよろしふ御座います、柱「ハ ーフチンバー」等は「クレオソート」塗が適当でありますD」(「菜園中 の小さな家」)とか、 「二つの尖った三角形の「ゲーブル」と勾配の緩やか な家とが具合よく調和されて居ります……赤い「セメント」瓦を使用致し ます」(「S博士の住み」)、 「赤瓦が温か味があってよろしふ御座いま す」(「簡易住宅拾種(其の二)」)、「尖った屋根は赤瓦葺きにして」(「簡 易住宅拾種(其の七)」)などとあり、急勾配の赤い屋根・卵色の妻壁が随 所で推奨されており、当時の明るい色彩の「文化住宅」の姿をかいま見 ることができる。  「文化」の言葉が一般に広く使われるようになったのは、1922年の平 和記念東京博覧会で、14戸のモデル住宅を展示して、これを文化村と呼 んだことに始まるという1。第1の呼びものともなったこの文化村は、 わが国最初の住宅実物展eであり、「所謂文化生活に適応する」7ことを 意識したモデル住宅群であった。東京材木問屋同業組合出品の物を除く 13棟は、建築学会が一般募集する際に決めた15項目の条件にのっとって 工夫を凝らされたものであったが、条件をまとめると、 「一椅子式を主 とする事二家族本位なるべき三三開放的ならざる事 四建築費は坪 当たり約二百円程度なるべき事」7などであった。この条件によって設 計された住宅を通観すると、一つは設計の出発点を「日本家の概念から 出発して洋式の生活に適合せしめやうとしたもの」7、 いま一つはこの 逆に「洋式住宅の概念に出発点を置き、日本人の住宅にしやうとしたゴ もの、いわば和洋折衷の住宅であったが、「何処となく妙な不自然味」7 が感じられたという。  これらについては様々な評価が下されたようだが、ここでは当時の雑 誌からいくつか拾うだけに止めておく。  1922年の『建築之普及』5月号(No.26)では、 「文化村とは余りにも 見苦しい名称である。建築工業あめりか屋生活改善會上遠組銭高組其他 の住宅の見本品である。洋風生活唱導の一法となればよい。 (アンダー ラインは筆者)改善宣傳には建築家が付かれている。文化村の建築を説 けば大問題と成る。文化村其物を一見したのみでは問題外であります。 二二塵には不安なる哉『文化的改善住宅』と申上げておくに止めます。」 と、かなり批判的ではあるものの洋風生活を主導する手段の一つという 点では評価しているように感じられる。  同誌6月号(1922年)の社説では、 「現代目標とされている『文化』に 封ずる人々の、生活及至は住宅建築の上によい出発黙を示し、夫が一般 人士の生活の上に多いなる参考を與へたといふ事は確かである.……詳 細に就いては随分と難黒占を見出す事が出来るが、……其評する慮は多種 多様で、主催者側の失望も少なくないとのとである。然しながら主催者 は之に失望せず建築なる一分野を斯くの如くにまで進め得たことは誇り として気力を捨て去らぬ事が大切である。少なく共『住宅普及』『改善 助長』の上に於いて今度の『文化村』は多いに意義があったのであるか ら。」と細部には問題点があるものの総体的には好意的に扱かわれてい る。  北海道でも「文化村」と呼ばれた住区が誕生している。函館では、現 在の本町、杉並町、松蔭町、当時の「開発畑ほっ」の一画が1915年ごろか 6:内田青蔵『「昭和改良会」の活動か  らみた大正・昭和初期(戦前)におけ  る「洋風系独立住宅」の導入と成立  に関する研究』(1986年) 7:早稲田工学士山本外三郎「「文化村  落の」建築に就いて」(『建築之普及』  6月号(M27)1922年) 一16一 一17一  .鐡1鑛灘1懸磁蕪。麟灘三二鐡麟麟齢鱗二二繊,鑛三二灘纏縫灘藁紙灘灘i難詰灘羅灘雛灘鑛灘i・灘護憲 鰯灘鞭.論難  量.,   e・ ・講1購懇、雛羅鍵難 灘鍵 一ツ騨1黒墜一’∴ゴ脚』          一一一’ 一 一咽圏コ」■■閂■一一 SE ㌧紳「邑 {’ む噌榊脚昏」 ソ涛蟹冠雪弩難菱難劉,,.・ 岬   ・㍉マ ’轟、1・・門・詞二。b     ’ 鯨 8;『ふるさとの想い出写真集 明治大  正昭和函館』(1978.9.30国書刊行  会) 9:池上:重康、角幸博他『北大医学部文  化村について』(日本建築学会北海道  支部研究報告集M67、1994,3)、同   『北海道大学医学部文化村にみられ   る文化生活の導入』 (H本建築学会  大会学術講演梗概集(東海)、199 4.9)   に詳しい。 10:『大正文化1905~1927』p.7 11:南博編『日本モダニズムの研究』   (ブレーン出版、1982.7.30)p.6 12:『大正文化1905~】927』 (勤草書房、  1965.8.10) p.118 13:『β本モダニズムの研究』p.樋 14=南博編『近代庶民生活誌③世相語・  風俗語』(三一書房、1985.5.31) ら郊外住宅地として発展し、 「文化村」と称された8し、札幌では北海道 大学医学部の初代教授連が1922、23年にかけて、北海道大学官舎隣接地  (北10~11条、西3丁目)に、急勾配の半切妻屋根、ハーフティンバー の外壁という、類似の外観意匠で住宅を新築し、「医学部文化村」9と呼 ばれたことなどが知られている。  大正文化がひとつの頂点を迎え、その特色をもっとも鮮明にしていた 時期は、第一次世界大戦(1914~1918)終戦の頃から関東大震災(1913年) までといわれる1。。第一次世界大戦は、ヨーロッパ的世界秩序の崩壊と アメリカの台頭をもたらした世界史的イベントであった11が、アメリカ 同様わが国にも様々な領域で飛躍的な発展・繁栄をもたらした。工業界 は空前の活況を示し、映画、ラジオ、雑誌新聞などのマスメディア産 業(または文化産業12)が興隆し、電車、バスなど都市交通の営業開始、 映画館、カフェー、デパート、レストランなどの商業・風俗営業施設の 開店・成長、博覧会などの華やかなエキシビションの開催など、都市化 を促進する新しい動きがみられた。  さらに大正末から昭和初期にかけて、 「文化」に変わり「モダン」と いう言葉が盛んにとりあげられるようになった。日本におけるモダニズ ムは、年代的にはほぼ大正中期から昭和10年代にかけてあらわれた日本 的な近代化現象をさすという13が、1930年あたりを頂点とする近代化の うねりであった。  昭和に入って新語・流行語の辞,典が続出し、たとえば『モダン語辞典』 (1930年)、『一般的共通的誤字誤読モダン語の新研究』 (1934年)な ど14は、当時の世相をよく浮き彫りにしていた。当時のジャーナルリズ ムにもしきりに「モダン生活」や「モダン相」などがとりあげられ、同 様の風潮は北海道でもみられた。  たとえばその頃の主要紙である『北海タイムス』の見だしを挙げてみ よう。 「ペーチカ付きのモダン交番」(1928.12.5)、 「旧師校(筆者注:札 幌師範学校)のモダン校舎成る」(1929.10.23)、 「北大土木専門部モダン 講堂竣工」(1929.12.25)、「超モダーンな偉容 北大理学部の誕生」(1930. 4.1)、「西創成小学校のモダン図書館落成する」(1931.6.lO)、「古い狭い 山二二 今やモダーン校」(1932.3.4)、「発寒川二股にモダンヒュッテ」 (1932.4.16)、「海員モダン会館」(1932.4.20)、 「山鼻幼稚園モダン園舎 落成式」(1933.10.2)、 「ヒュッテ造りモダン軽川駅落成」(ユ934.2.20)な ど、モダンという語が随所に使われている。 1-1 大札幌案内  このモダニズム期の札幌の街の状況、雰囲気そしてモダン相をよく紹 介していると思われる文献のひとつに、大塚高俊著『大札幌案内1(1931 年)をあげることができる。 「朗らかに明るく大衆的にしかも気品」(大 塚)をモットーに、「スマートに動く札幌のプロフィル」(木下三四彦)を 良く表現した著作で、どのページにもモダニズムの息吹がほとばしって いる。市会議員で弁護士の木下三四彦’5が序で評しているように、 「全 巻映画・レビュー・カフェーの紙上跳躍」であり、 「紙上ネオンサイン」 でさえあった。  大塚高俊は当時小学校の青年教師’eであったが、人名録等には収録さ れておらず詳しい人物像は不明である。『大札幌案内』の序によれば、 この著書をもって「近世社」という出版社を開設したようである。  発行所の「近世社」(札幌市南7西5)というネーミングを始め、巻頭 を飾る「札幌行進曲」17、「札幌の印象」の章に並ぶ「都市のスタイル、都 市美、街路・並木・建築」など「都市」というフレーズの連発、 「享楽 の札幌」の章に展開される「デパート、劇場、映画常設館、カフェー、 喫茶店、ダンスホール」など、 「モダンライフ」を象徴する建物群がリ ズミカルに紹介されている。  「享楽」ということばは、意味があいまいであり、それよりも文化的 に高いレベルの楽しみは、 「享受」という別な言葉で表現された。芸術 作品を観賞し楽しむことは享受であり、酒を飲んだりダンスをしたり芸 者と遊ぶような楽しみを享楽といって、そこに上下の差別をつけるのが、 ならわしであったというIS。  本項では、 「享楽の札幌」の章にとりあげられ、またこの時代のモダ ニズムを代表する施設と考えられる、デパート、映画館、カフェーなど について、高塚の論評を引用しながらふれておきたい。 2・一1-1=デパート  「華麗なる殿堂、流行の源泉!」 「スマートな姿誇りかに都市のスカ イラインを壼するデパート」 「そこには都会の一切のものがある」と謳 われだ9デパートは、まさにこの時代の「都会生活者のメッカ」Isでも あった。北海道で最初の百貨店は、1906年に開業した五番舘であるが、 初めてデパートメントストアと呼称したのは1912年のことという20。瓦 葺き寄棟屋根の木骨煉瓦造2階建ての店舗は、1階に大きな弓形アーーチ のファンライトを連続させ、華やかなショーウインドウが外観を飾って いたが、デパートらしい外観といえば丸井今井百貨店本店がまず挙げら れよう。 15:1883年室蘭生まれ。1899年北海道師  範学校に入学するが中途退学、東京   の順天中学校を卒業、熊本第五高等  学校を経て、1912年東京帝国大学法  科大学英法科卒業、1913年3.月東京  地方裁判所所属弁護士となった同年、   1月札幌に転居し、同年10月代議士   の兄成太郎(しげたろう)が発刊した   「日刊北海道報」の副社長に就任し   た。札幌体育会の創設、野球協会の  助成スケート協会の創立などに奔走   し、また日本製麻㈱法律贋問、帯広  電気㈱取締役、札幌理髪青年会長、  札幌魚商仲買協会長、札幌教育会議  員などの公職を歴任した。 (『札幌  之人』 『札幌人物史』による) 16:大塚高俊『大札幌案内』 (近世社   1931.7.20) 17:「札幌行進曲」大塚高俊作詞、中山   晋平作曲  香るアカシアミス・サッポロの   シーク姿の直線美   めぐる高層行くハイヒール  バスと電車のシンフォニー  恋のステップ鈴蘭通   プロムナードの華やかさ  乱れ渦巻くセPtラーズボン  星のまなざし月の眉   ジャズと五色の光の巷   こSは薄野キネマ街  右は山猿左にしょか  恋の十字路一思案  鐘が鳴りますあの時計台  せめて今宵の更けぬやう  逢うて悩んで別れて泣けば  橡の梢に月淋し 18=二丁「総説」(万博編『近代庶民生活  誌⑩享楽・性』(三一書房、1988.7.   15)) 19:『大札幌案内』 p.99 20:『札幌市史産業経済編』(札幌市役  所、 1958●4.30) p.295 継欄幌オに;尽 :・1遜姦?凶飽避常用 r葱ツ甑瓦 聡 慧 鳶 図1-1一一2 『大札幌案内』表紙 一18一 一 19 一一 鎗灘織白歯一一i難山鍛二二1灘灘三三三三三三灘二二護二二鎌i三三纏二二鞭懇霊室i懸灘灘饗灘鍵羅欝二丁丁丁冠羽1灘膳殿難難雛講鰹嚢雛灘総懸鱗ii灘 匿 一一 dpt ’ ・ ~讐灘、撚難懇            L: .Fg “一“L ir tre T 一【ロー1■剛■一一一一一一q一一濫 一闘■■■ie v ’「es』 「t一べ 21:『丸井今井百年のあゆみ』(1973.12.   1) p.187 22:近江栄・二三良『日本のモダニズム   (日本の建築明治大正昭和10)』 (三  省窒、1981. 8.30) 23:『札幌大案内』p.100。 正面中央階  段間で、ピアノ、バイオリン、チェ   ロの三重奏楽団が終日演奏したとい   う。(『丸井今井百年のあゆみ』  p. 189) 24:『丸井今井百年のあゆみ』p.188 25:『札幌大案内』p.100 晒 - ㌔ ノ ー 「 一     』 触 し 跡   ゴ ー を ・ 麗 坤 骨 ひ ン 鋭 騨}鳩襯闘・・… e ., ≠オ.1  螺、 i 厘 ■ ∴ 6 ユ            オ   1川1“聯 孟 , 図1-1-3 今井百貨店本店(1926) 図1-1-4 今井百貨店本店(1937) 一’・ 今井百貨店本店  客用エレベーターを本道で始めて設置したRC造4階建ての今井百貨 店本店は、1924年に焼失後、設計を鉄筋コンクリート建築界の第一人者 遠藤於菟21に依頼し、1925年4月木田組の請負で着工、翌1926年4月末 に総工費80万円をかけて竣工した。遠藤於菟は本店に先立っ1923年10月 に竣工したRC造4階建ての今井呉服店小樽支店(12月3日開店)もて がけている22。  5月13日に開店した新館は、地階下足預り所、1階玄関側下足受渡し 口、メリヤス・洋品雑貨、食料品のほか演奏所2s、2階呉服、洋服売場、 3階家具、家庭洋品売場、催場、4階食堂、楽器、玩具、ラジオ、時計 貴金属品のほか写真撮影部、美容部、5階屋上遊園場となっており、オ ーチス会社製客用エレベーター1基と貨物用エレベーター1基を備えて いたu4。昭和6年4月には内外人旅行者に旅行上の便宜を提供するジャ パン・ツーリスト・ビュロー案内所が設けられた25。  1937年、当時の札幌市の人口は20万人余であったが、10年後の人口25 万人に目標をおいた本店の大増改築が着工した。木田組の請負で2月に 着手、10月28日竣工、11月1日開館披露された新店舗は、地上7階、屋 上広場、航空灯台、展望台延べ4,162坪(13,000㎡)、売場1,845坪(6,089 ㎡)と、1926年店舗の2倍の大きさとなった。  外壁は白っぽい磁器質タイル貼りで、1階蛇腹は本磨きの花二二を使 用し、1926年店舗で柱型頂部を飾っていた円形装飾は、新店舗では垂直 線を強調した幾何学的な彫刻に変えられた。1階南1条電車通りに面し た中央と東側に大玄関2、南西側に小玄関1、電車通り玄関両脇に8っ のショーウインドウを設けていた。各階の構成は以下のようであった。 1階:婦人雑貨、和洋酒、食料品売場、商品券、喫煙具、ツーリストビューロ   一、紳士靴工、荷物預リ揚 2階:紳士、婦人服、メリヤス肌着売場、小歩調 3階:呉服、和装小物、高級呉服陳列売場、特別和室 4階:貴金属、時計、和洋家具、家庭用品、催場、婦人着付け室付属の美容部、   理髪室 5階:300人収容大食堂と食堂別室2室、楽器、玩具、書籍売場 6階:大ホール(椅子席400人収容)、お好み特別食堂、大温室、茶室雄勝閣    (4畳半と2畳台目席の2席と6畳二間) 7階:子供大遊園場  1904年には東京三井呉服店が百貨店業を開始し、1907年高島屋大阪店、 1908年松坂屋上野店、松屋、1909年大丸が大阪店、京都店、1910年名古 屋松坂屋と、いずれも大呉服店が百貨店方式に変更されている2㌔  百貨店の開設準備は1913年の土地買収から始まり、1915年5月に着工 した。総建坪1260坪のセセッション様式の建物は、東北随一を誇るもの であり、北海道初の貨物用エレベーターも備えていた。正面玄関上と3 階軒下廻りに電飾を採り入れ、夜ともなれば建物のシルエットが浮かび 上がり、1階ショーウィンドゥの豪華さは目を見はるものであったとい う27。  1階は一部呉服の座売場、玩具、化粧品、写真機材、文房具、雑誌 などの陳列式売場、メリヤス売場、洋服部、事務室、解荷下、暖房室、 店員宿舎、2階陳列売場、休憩室、事務室、電話交換室、店員宿舎、3 階陳列売場、食堂、催場、事務室、店員宿舎となっており、当初は客の 下足を預かり、靴にはカバーをかけて上った時代が続いた。今井が下足 預かり方式から土足のまま入店できる大衆商法に切り換え、日用品販売 に廉売方式をとるようになったのは、1929年以降のこと28という。  1930年には釧路鶴屋、帯広藤丸などと地方都市にも百貨店が誕生し、 1932年には三越札幌支店が開業した。 く嬉㍉胡  φ  一悔 図1-1-5今井呉服店(1916) ix 屋上:動物園、庭園式広場、航空塔下大展望台  さて1924年焼失の煉瓦・石造3階建て店舗は、1916年9月末竣工、10 月1日に開店したものであった。設計は市役所建築課長遠藤喜三郎技師、 請負は小樽大虎組名義で札幌の新開新太郎がてがけた。今井本店の百貨 店化は1910年度の役員会から計画されたが、背景には東京や関西での百 貨店開設という情勢への敏感な反応があった。 三越札幌支店  1932年5月1日開業した三越札幌支店は、鉄筋コンクリート造地上6 階地下1階一部8階建ての建物であった。当時の新聞(北海タイムス19 32.4.27)には、 「屋上の展望が消防の望楼よりやや低い程度」の「全市 唯一の高層建築」と報じられている。  外観は大きく3層構成の表情をみせ、!階上と5階上の水平胴蛇腹が 各層を分節している。1階は腰部を稲田産花闘石張り、ほかは富国石張 りの白っぽい外壁仕上げ2sとし、2~5階は大オーダー風に扱った無装 飾の柱型の分節が古典的な固さをみせている。二部のパラペットに三越 のマークを掲げる6階は、下階の固さを和らげるように半円の3連アー チをみせ、隅切りした二部のみ4連アーチとしている。2階以上は入造 石洗い出し仕上げ及び煉瓦小口形タイル張りで仕上げられていた2s。  設計監督桜井小太郎建築事務所3。、施工木田組の手で行われた工事は、 1931年4月16日地鎮祭、同年9月17日鉄:筋コンフリート工事完了、10月 20日上棟式を挙げ、1932年3月31日竣工した2s。  『建築雑誌』1932年8月号(第560号)記載の工事概要によれば、敷地 面積425.1坪(1,402.8㎡)、建築面積313.1坪(1,033.2㎡)、地階331.4坪、 1~6階313.1坪、7階72.O坪(237.6㎡)、8階18.0坪(59.4㎡)、延べ面 積2,300坪(7,590㎡)。軒高は6階パラペット上端まで80.5尺、高さ8階 パラペット上端まで98.5尺。各階階高は地階13.0尺、1階15.0尺、2~ 26:『丸井今井百年のあゆみ』p.150 27:『丸井今井百年のあゆみ』 p,157 28:『丸井今井百年のあゆみ』p.159  り 補一礎&     鼻・ ・         ぬ  図1-1-6 三越札幌支店(1932) 29:『建築雑誌』第560号(建築学会、   1932,8) p,57 30:桜井小太郎は1870年東:京神田生まれ。   1887年第一高等中学中退、渡英して  建築を学ぶことを決意。1892年英国  王立建築士会の資格試験に合格、英  国公認建築=ヒARIBAの称号を得る。   1893年帰国。1896年海軍技師に就任、   1913年退官後三菱合資会社入社、三  菱地所課技師長として丸ノ内ビジネ  ス街の建設に寄与した。1922年三菱  銀行本店、1923年丸ビルの竣工後、  三菱合資会社を退職、桜井小太郎建  築事務所を開般した。三越札幌支店  が竣工した1932年には63歳であったe   1935年66歳で第一線を退き、1953年  84歳で他界した。(『日本の建築[明  治大正昭和コ8様式美の挽歌』(三省  堂、1982.8.10)参考) 一20一 一 21 一 一一一i一白難難山一二二二二二灘蕪i難織譲三三難二二1灘織織二二二二購響ぎ糟懸鷺響嫉織麟箋驚饗驚欝難灘霧難灘懸三図湯煮難i灘灘琴灘欝総鳶繋 転 ’ 一 ’ 匝 1 ダ 訟 『墾欝罪欝覧∵ン “一一に一 ’s・;v“’L ’      筆}・冒・樺響欝欝響麗麗響響隷檎羅騰鑛鱗二三 ・紳轡一一趾聾ゴ 31:『大札幌案内』p.106 32:北海タイムス(1927.2.17) 33:『大札幌案内』pp.107、108 34:北海タイムス(1929。12.6) 35:北海タイムス(1930.12.27) 図1-1-7 松竹座  5階12.0尺、6階12.5尺(売場他)、15.O尺(ホール)、7階12.O尺、8階 10.0尺である。   内部構成は、以下のようであった。 1階:売揚(文房具、下駄、傘、髪飾品化粧品、タバコ、写真機、商品切手な    ど)、進物相談所、買上品渡場、飾窓、事務室、荷扱所、宿直室、警防    員詰所など 2階:売揚(洋品雑貨、洋服、帽子、靴、鞄、時計、貴金属)、休憩室、事務    室 3階:売場(呉服類)、特別陳列室、支店長室、書記長室、応接室、電話室、事    務室 4階:売揚(図書、楽器、運動具、玩具、家具)、休憩室、理髪室、結髪室、美    容室、着付室 5階:食堂、土産物談論、喫煙室、別室、写真撮影室、社員食堂、厨房、給仕    更衣室 6階:催物場、ホール、楽屋、別室、事務室 7階:園芸品売場、喫煙所、昇降機々械室、屋上庭園、噴水、動物小屋、子供   遊場、温室、稲荷社 8階:昇降機機械室、換気機械室、水槽、展望台 地階:一門(食料品、食器、格安雑貨品)、冷蔵庫、汽罐並に機械室、電気室等  エレベーターは、客用2基、店員用1基、厨房用1台を備え、いずれ も日本エレベーター製造㈱製であった。もうひとつ同社製で買上げ品の 運搬に供されたスパイラルシュートというのも備えていた。4階以下の 各階に投入口があり、1階の買上げ品渡場に出口を設けたユニークな設 備であった。 1-1-2=映画館   「映画とスポーツ!。このニッが話せないでは完全なる現代人たる資 格がない」S’とまで大塚にいわしめたキネマは、 「性別を超越して、素 晴らしい魅力と恐ろしいテンポとをもってモダー…ンの尖端に立ち時代の 流行を決定するところまさに民衆娯楽の帝王」3ユであった。  こうした人気を受けて営業する映画常設館の筆頭は、札幌松竹座であ った。1927年2月16日南4西3にあった木造建築の映画館が焼失32し、 1929年4月同位置にRC造3階建ての建物を起工、同年12月に竣工した。 その「ウルトラモダン」33の建物は、総:エ費27万円、総坪卯数580余坪、 約2,000入を収用できたs4。観覧席の大部分は下足廃止、椅子席で、「酸 素発生装置」33や最新の暖房装置を施し、食堂、娯楽室の設備も併設さ れた3q。いち早く外国トーキーを紹介したのもこの館であった。  松竹座と並ぶ幌都の双壁、日活系の美満壽館も、1930年に内外大改造 を施して面目を一新し、12月29日開館式をあげた3‘。外国映画専門の三 友館は、若者に人気の館で、やはり新装を予定していた。  『大札幌案内』発刊後に誕生した南5西2の札幌寳螢座は、1935年8 月中旬上棟式をあげ、建坪890坪、300人を収容するRC造3階て、流線 型のモダンなものであった。木材業者中村卯太郎の個人出資経営で、総 工費30万円、設計施工は指田近之輔であった3㌔  この映画館を設計施工した指田近之輔の経歴と業績については・遠藤 明久博士の研究37があり、 「在野の建築家として、めざましい活躍をし た大書されるべきデザイナーのひとりである」とするが、1927年から19 29年にかけては設計業務を専業とするものの、以後は設計および土木建 築請負業者として活躍しており、本論文でとりあげるM.ヒンデルや田 上義也などの専業建築家と、一線を画する建築家とみるべきであろう・  指田は、1897年(明治30年)東京府北多摩郡の出身。1920年、私立東京 工科学校建築科を卒業(22期)後、東京市役所技手補、富士屋ホテル本社 建築技師を歴任。1922年函館市役所に移り、関根要太郎設計と伝えられ る市立病院外来診療所の工事の監督員として従事した。  1923年、札幌伊藤組に移籍し、1926年末まで同社に在i籍、1927年独立 して建築事務所を設立、1929年まで設計を専業としたが、以降1939年に 活動を停止するまで、土木建築請負業者として活躍した。1935年、本門 仏立講(日蓮宗在野仏教教団)に入信後、1939年に得度して僧籍に入り、 事務所は所員に譲られ「指田組事務所」と改称した。  この間1928年からは、庁立札幌工業学校建築科の施工教師を委嘱され て、教育にたずさわったり、1927年から1929年にかけて、北海タイムス や旭川新聞に住宅設計の啓蒙記事38を寄稿している。また建築設計図案 展を、1928年頃に札幌丸井呉服店、1929年旭川丸井呉服店を会場に開催 したり、1931年には札幌工業学校建築科の卒業作品とともに自らの設計 案65点を札幌ビルで展示している。後述(第11章)の田上義也の建築展覧 会とあい前後してのこの建築展開催は、この期の北海道建築界での見逃 せない潮流の一つとして特筆できるものであった。 1-1-3=カフェーと喫茶店  「機械文明線ABが、人間生活線CDと1点○にて交はる時、其交点 をカフェーなりとす。而して社会の進歩復ママ雑に従ひ此の種交点は無数 に忌数を加ふ。」3Sという「超モダーン定理」3Sに基づき、この時期に 「幾何級数的」3Sに増加した施設のひとつとして、都市の「享楽」4。を 代表するカフェーが挙げられる。このモダン情緒の代表格である「カフ ェー繁盛の因」39を、 『大札幌案内』は、物質文明進歩の結果、生活の 圧迫や「生存競争」39は、日に日に激しくなり、 「人々は月に疲労」3S し、「神経の興奮を強烈な」SS刺激に求めようとしたことであると述べ ている。  カフェーは、フランス語でコーヒー店。当初はコーヒーを専門に売る 店で、1888年(明治21年)に開店した東京下谷黒門町の可否茶館のような コーヒー店は、やがて喫茶店と呼ばれるようになり、カフェーはビヤホ ールにかわる洋酒酒場の名称になったといゲ1。カフェーの先駆けとな 36:北海タイムス(1921.7.17) 図1-1-8 寳螢座 37:遠藤明久『指田近之輔の経歴と業績』   (日本建築学会北海道支部研究報告  集NCL661993.3) 38:「千円内外で出来る中流の文化住宅」   (1927.10.14、北海タイムス)、 「防  寒秘法(1)(2)」(1928,1.31、北海タイ  ムス)、「千円内外で出来る文化住宅」   (1929.4.9、旭川新聞)など。 39二『大札幌案内』pp。112、 n3 40:『大札幌案内』p.89 41:『世界大百科事典4』(平凡社、   1965. 2. 10) 一22一 一23一 白鍵白白鞭懸隔一山二二縫二三鐵講搬麟灘鵜縫二二二心麟麟購二二饗蟻磯叢莞羅愚灘四鏡i灘灘≡豪州鳥影灘難懇灘灘撫鑛灘灘認識1難購離職懇懇鍵:’ 爵 蒜 謬 凱 輩 し 袈 翫 驚 } ゼ 艶 臨 詳 卜 謎 底 き 享 ■ 減 疑 罫 婁 ギ 猫   義 望懸・一・,三蜘幽輪由噺混一麟娼、輪薦講贈蝿麟謡繍晦齢騨’    V. SJ [一 ,難解・  ” 42:槌田満文『明治大正風俗語辞典』   (角川書店、1979.11.25) 43:坂本太郎監修『風俗辞典』 (東京堂  出版、1981.10。10) 44:林喜代弘「昭和初年大阪歓楽街展望」   (南博編『近代庶民生活誌⑩享楽・  性』(三一書房、1988.7.15) 45:『大札幌案内』pp.113~U5 46:『大札幌案内』p.127 47:『大札幌案内』pp.116~117 48:『大札幌案内』pp.119~122 騨類纂 図1-1-9 カフェー三條 つたのは、1911年3月“2に京橋区日吉町に洋画家松山省三が店を出した カフェー・プランタンで、さらに同年12月京橋区南鍋町にカフェー・パ ウリスタができてから、銀座はカフェーの時代に入ったという42。1923 年前後には、カフェーは美人の給仕女を置いて、その方で客を呼んだが、 内容的にはビールを飲ませるのが主眼に変化してきた。この傾向は洋食 屋まで滲透して、いずれもカフェー何々と名乗って、洋酒・洋食の飲食 をサービスするようになった43。  こうして明治末年に芽生えたカフェーは、大正後期には一段と伸長し、 昭和初期には「モダニズムの尖端」をたくみに流入して、独自の世界と 調和させ、押しも押されもせぬ風俗産業の王座についた。気軽に遊べる 美の殿堂、色情をたのしむ恋愛遊戯極彩色の室内装飾、ジャズと流行 歌のやるせない扇情、歓楽王国の夢があやなす官能の世界に魅せられて、 遊ばせ上手の女給との一夜の仇情を夢みる浮れ男が足繁く通うこととな った44。  『大札幌案内』に幌都のクインとしてまず紹介されているのが「株式 会社組織で企業化され」45たカフェー三條。 「清楚、気転、高雅の三大 信条を以て、ホテルの気品とカフェーの和やかさの中間を行く高踏的カ フェーの先駆」45をうたい文句に誕生したモダーンなカフェーで、1931 年5月に田上義也設計で、設備、装飾共に新しく、座席は船室のような つくり45で再誕した。 『大札幌案内』に掲載の広告には、 「敷地百四拾 坪、建物百八十坪、石造ライト式五段床面、建築美と女性美の一大オー ケストラ」46とあり、建築家が関与して、空間にも力を入れた様がよく 表現されている。  三条の筋向かいの錦糸は、広告塔を聲えさせた新装の店舗で、見違え るほど明るい「モダーン振り」45で、この頃進出のキリンビールを扱う ビヤホールであった。  夏の「鈴ぶら」 (鈴蘭通り=現狸小路)連の絶好のオアシスであった 映画館三友向いのツバメは老舗。 「モダーン紳士」47が客層のエルムは、 ツバメと共に古参のカフェーであった。薄野の岡田屋は、札幌で一番大 きくウエートレスも多い、市内唯一の大阪式カフェー。ツェッペリン食 堂というものを増設して、窓、客席をツェッペリン門門にしつらえるな ど「超突端」47的な施設でもあった。  日本酒の名をとっているが洋風レストランの北の誉バー・一・・、 「五色の明 滅燈に埋まる」47豪華なミミー、カフェー三門と同じ5月に誕生した 「新様式建築」48のマリモのほか、サロン錦水、太陽、キャバレェロ、 コマドリ、ララー、春、ライン、アサヒ、マツヤ、バッカス、芳蘭、ク ロバー、アザミ、モンナミ、銀河、銀座、北洋、モンパリ、ミマス、ス ズラン、パンドラ、五条などの店名が並べられている。  モダーンな外観の嗜好は喫茶店でも見られた。「回転式五彩色広告塔」 48 �bュ掲げた3階建ての明治製菓売店は、1階は正面左右にショウウ ィンドーを配した売店と喫茶、2階は喫茶室と撞球場、3階は集会用に 当て、 「新時代の慰安所と健全な社交場としての役割を果たす」48べく、 1930年に狸小路に登場した。そのスマートな容姿は、 「鈴蘭街の女王」 98 ニも謳われ、開店早々サラリーマンと学生の街の要求にピッタリとあ って押すな押すなの繁昌振りであった48。またメインストリート南一条 十字街の亀屋も田上義也の設計で新装をこらして登場した。 「モダーン サッポロの心臓に地の利を占めて」48「ラッシアワーには若いサラリー マンで、レジスターは猛烈な回転を開始する」“8繁昌ぶりであった。  ほかに「尖端人種の注意をのがさない」48だけのスタイルと装飾をも ったルビーや、坊ちゃん、ポプラ、ニグロ、ヤスノ、白樺、ネヴオなど があげられている。 蔦 錨麟 顯惣 騰亀一凸血図1-1-10亀屋 胴軸幽・N一 一24一 一25一 欝雛幽幽幽幽欝白麹灘二二纏麟灘三三鐡雛麟i欝灘i二二麟難懸鑛i麟灘灘灘難1藤織難轟轟孫譲灘灘灘灘繊麗1慧灘鐵叢叢懇難論…叢叢欝鑛灘 L マ ー b 瓦 「 」 ヤ 戸 〔 鰍 墜 騨 t-ッ,卸 ㍗購い C一 49:『日本の建築[明治大正昭和]6都  市の精華』p.178 50 :」。Mcdona】d Gardener(1857-1925)Fま、  1879年ハーヴァード大学建築学科卒  業。1880(明治13)年立教大学校長と   して来日。1925年死去まで45年間に  わたり在日建築家として活躍した。 51:1889-1959。1907(明治40)年秩父郡  立農学校卒。1911年セセッションス  タイルを得意とした三橋四郎建築事  務所に入所、三橋の死(1915年)後、   日本勧業株式会社を経て1920年独立。 52:『建築世界』第8巻第2号(1914,2.10) 1-2 道外建築家の活躍  もちろん市街地には、銀行や商社など大規模な商業施設も生まれてい るが、多くは、道外の建築家、建築事務所によって設計されていた。既 知のものを年代をおって一覧すると以下のとおりである。 ユ9ユ3年 北海道拓殖銀行旭川支店 大高精・矢橋賢吉 19ユ9年 北海道銀行滝川支店 渡辺節49    北海道銀行旭川支店 渡辺節49 ユ920年 函館海産商同業組合 関根要太郎 ユ921年 第一銀行函館支店 西村好時・入木憲一 ユ923年 北海道拓殖銀行小樽支店 矢橋賢吉・小林紹・山本万太郎    小樽今井呉服店 遠藤於菟 ユ924年 第一銀行小樽支店 中村田辺建築=事務所 ユ926年 十二銀行函館支店 木子幸三郎    百十三銀行本店 関根要太郎    丸井今井本店 遠藤於菟 ユ927年 三井銀行小樽支店 曽禰中條建築事務所 1928年 第一銀行札幌支店 西村好時 1929年 千代田生命保険(互)北海道支部 曽禰中條建築事務所 1933年 大同生命札幌支社 W.M.ヴォーリズ ユ937年 三井物産㈱小樽支店 横河工務所  このほか、曽禰中條建築事務所の作品では、1918(大正7)年開道五十 年記念博:覧会で中村順平、1922年札幌独立教会クラーク記念会堂では高 松政雄らが担当し、また、ガーディナー50の1913年札幌小田良治邸や、 助手の荒木賢治の担当した札幌組合教会(1913)、札幌北二条郵便局(同)、 札幌エンジェル館(同)や、関根要太郎51の1919年亀井邸(函館)なども道 外建築家設計の代表例として挙げることができる。また、1921年函館大 火の復興に関わった中村鎮も、忘れてはならないであろう。  開道五十年記念北海道博覧会については2-2で後述するので、本節で は道外建築家が関与した作品から、荒木賢治の札幌組合教会と高松政雄 の札幌独立教会について若干ふれ、中村鎮については次節で述べること にする。 1-2-1=札幌組合教会と荒木賢治  1913(大正2)年に完成した札幌組合教会(現日本基督教団北光教会)は、 荒木賢治の設計によった5Z。会堂の概要を述べる前に、同教会『札幌北 光教会七十年の歩み』(1966.10.2)から会堂新築までの沿革に多少ふれ ておこう。  関西を中心に発展してきた組合教会の北海道伝道は、1882(明治15) 年に、日高荻伏(元浦河)に入植した赤心社の第2次移住のときから開 始され、教会は1886年に設立された。  1895(明治28)年5月、米国伝道会社(アメリカンボード)は、札幌に北 海道伝道局を開設する目的で、宣教師ウィリアム・W・コルテスと伝道 師田中兎毛の二人を派遣した。当時の札幌は人口27,000入、すでに札幌 バンドによる札幌基督教会(独立教会)、札幌美以教会、札幌日本基督教 会、北一条カトリック教会、ハリストス二三教会があり、聖公会も伝道 を開始していた。ほかに札幌長老派伝道教会スミス女学校(現北星学園) も開校しており、札幌農学校では札幌バンドの佐藤昌介、宮部金吾、新 渡戸稲造らが教鞭をとっており、札幌はキリスト教的色彩の濃い街とし て発展を続けていた。  二人は山形屋に宿をとり伝道の準備にかかり、8月には家族と共に再 度来札し、南1条西3丁目に一軒屋を借り、仮集会所を開設した。当時 (1896年)の会員は17名、うち7割は商人かその家族で、 「商人の教会」 としての色合いを深めていった。  1897(明治30)年札幌美以教会移転の際に旧会堂を買入れ、修繕、模様 替えのうえ、9月5日移転式をあげた。1899年北1条西3丁目の元札幌 県令調所広の土地140坪を借りて、新会堂を建築e間口4間、奥行8間 の会堂は、会員松原儀八によって建設され、3月上棟式、5月に奉堂式 を挙げた。  この会堂はあくまでも仮のものと意識され、新会堂の建築計画は、19 03(明治36)年ごろから進められ、1909(明治42)年会堂新築を決議、予算 L2,000円を計上した。会堂新築委員として、集金主任太田三五郎、建築 主任松原儀八、会計主任古谷辰四郎・藤井太三郎、顧問相談役ローラン ド宣教師らを委嘱した。建築設計には松原、藤井、ローランド等が東京、 関西方面へ出向き、実地見聞したり専門家の意見を聞き、設計監督は荒 木賢治が担当51した。  荒木賢治(1881~1948)は、1881(明治14)年4月23日誕生52。1898(明 治31)年東京工手学校(現工学院大学)の建築学科第19回次卒業58の建築 家で、1913(大正2)年当時ガーディナーの助手として、小田邸の監理で 懸札しており、ほかにエンゼル館や二二条郵便局の設計にもたずさわっ たという54。詳しい業績は、今後の課題として残されているが、1939年 『建築学会会員名簿』には「建築士荒木建築事務所」とある。  1913年5月、会員の献金4,000円で札幌二三1条西1丁目14・15番地 の760㎡(229.5坪)を買収し、会堂定礎式を行い、同年10月28日竣工した。  1914年の『建築世界(第8巻第2号)』には、 「設計監督 建築技師 荒木賢治君」と記載され、正面外観写真、立面図、平面図が収録されて いる。  会堂は、急勾配の亜鉛鍍鉄板葺き切妻屋根をかけた広間式で、正面性 を強く意識したデザインとしている。2階ギャラリー部の大きなゴシッ ク窓、1階や破風上部ニッチの尖頭アーチなど開ロ意匠に中世主義の表 53:古林亀治郎『現代人名辞典』(中央  通信社、1912.6.27) 54:『工学院同窓会会員名簿』(1939.12.  1) 55:北海タイムス(1913.7.10) 戸 図1-2-1札幌組合教会(『建築世界』第     8巻第2号) 一26一 一一@27 一 白灘白糠灘織1灘一白一白灘1二二鱗灘羅1三三i麟姦議二二二二講i灘灘二二:騨撫黙黙璽:罫灘擁灘譲灘i雛姦慧灘円円繋籔灘慧麟灘難義i蕪i繋羅雛難騨欝欝灘! ヌ 毒 峯 聾 一 謹 一 閏 潔 葦 彗 理 藝 r タ 摩 メ 適 膚 鋸 . 満 ぎ 垂 0 4 ゴ   年 蒙 p 脹 落 臨 ー ー 柴 睾 ・ 一 ・ 〆 、 い点nbS戸 璽’㌦ 督w一一.’.!’L’7=三’ 現がみられるが、上部の小ニッチはトスカナ式円柱と小尖頭アーチをパ ラディアンモティーフ風にアレンジしたようにとれるし、正面三角破風 の稜線の段状の折れ曲げや頂部を水平にカットした玄関廊左右の柱型、 玄関廊のパラペットなどの採用に、独自の造形への試みがみられる。  レンガ造3階建て、建坪68.92坪(227㎡)。 間口37尺、奥行62尺(以後 の尺寸法は心々)の矩形平面で、地階は児童用会堂、1階が会堂である。  1階は、北側玄関廊に続いて奥行11尺部分を「階段之間」(間口11.5尺)、 「広間」(間口14尺)、「予備室」(間口14尺)と3分割し、会堂部分は10尺間 で4ベイの奥行、南側ベイ(奥行11尺)の中央に「講i台」(間口21尺)、西 「階段之間」(間口8尺)、東オルガン室(8×6尺)、物置(8×5尺)を並べて いる。  会堂は、左右各3本の独立束ね柱を立てた三属国平面。身廊、側廊そ れぞれ24尺、6.5尺のスパンで、身廊部の天井は、曲面弓なりの板張り。 各柱部分は漆喰細工の半円リブヴォールトで結ばれている。会堂部分の ゴシック風の装飾に比べ、尖頭アーチの漆喰額縁で縁取られただけの講 台廻りは、無装飾の白壁が印象的なシンプルな空間であった。  会堂北側2ベイ分は、2階ギャラリーとし、段状に会衆席がしつられ られていた。  地階は、北側に1階と同じ奥行の前室部分に、「階段之間」「広間」(い 圏百立計般築新曹救合親幌乳 図1-2-2    口   塗   N   餌 札幌組合教会立面図(『建築世界く第8巻第2号)』》 1.Z一,ll’i 鼈鼈黷 /iir.,i.,S.1{lti’Uii“M‘ilr,:,iilliltt,i,.,/i’,’一”” 1-2-3 札幌組合教会平面図(『建築世界(第8巻第2号}ノ) 一一一一一一 u。多1.鳳 彪で !  ii. 1脅      、       1,             、「 J己   Ili“ …  [ 「「 ‘ 」… 「 『   「 ゼユ 28一 _譲轡難自由一白慈白白白山二二織講鎌鞍繊;鱗識麟二二二二ii二三三二二二驚ぞ鍔際 一_@ ___ “ 一S・・・… 一壷・・一聯’曙朗鱒幅蜘 鰹三三灘  &   傭 れも間口11.5尺)、「教室」(間口14尺)が並ぶ。中央の児童用会堂(24× 2.5尺程度)の南端に講台を置き、裏は「機罐室」、「教室兼台所」「教室」 いずれも8.5×7.5尺)、階段室などである。さらに中央の会堂を囲むよ に、東西各3教室、北側両端に各2教室を並べていた。 -2-2=札幌独立基督教会・クラーク記念会堂と高松政雄 1970年7月、札幌市南大通西7丁目に建つ札幌独立基督教会・クラー 記念会堂が取り壊された。この会堂は、1922(大正11)年創建のもので るが、それに先立つ独立教会の創設と旧会堂の建築についてまずふれ おこう。 幌独立基督教会の創設と旧会堂(1885年) 札幌独立基督教会は、札幌農学校第1、第2期卒業生(1877、1878年 業)のうち、同校教頭W・S・クラークによる「イエスを信ずるもの 誓約」署名者(31名)を中心に、1882(明治13)年12月に結成された「教 の区別無く日本は日本の教会に依て行く」(内村鑑三)56ことをめざし 新教団である。教団結成前の1881年から札幌市南2条西6丁目開拓使 下官舎(いわゆる白官邸)の一部を仮会堂として使用していたが、1885 5月南3条西6丁目に木造の会堂を建設した。切妻屋根の簡素な建物 、正面両開き三口とその両脇の窓にアーチを飾り、妻上部には四葉形 レサリーの円窓をあけている。軒コーニス部分には飾り板(barge bo- rd)を張り付けている。側面の窓は質素な上げ下げ窓で、水平下見板 外壁とともに、開拓使洋風建築の延長上にある初期洋風建築の好例の つといえる。大正時代、新会堂建設のため人手にわたり、直ちに壊さ たという57。 明治末期にはこの会堂の老朽が著しく、新会堂建設の声が聞かれ始め 58。1912(大正元)年10月、たまたま来札中の内村鑑三によってクラー 記念会堂新築の建議がなされた。直ちに新築準備が開始され、翌19!3 大通西7丁目に敷地を購入している。しかし、当初の5ヵ年計画も資 が十分集まらず、さらに第一次世界大戦による物価の高騰によって延 を重ね、1921年8月ようやく工事契約を結ぶに至った。 既に工事の始まっている1922年2月の独立教会機関紙は、新教会堂着 に至る経過を説明し、請負工費5,600円および諸設備費のためさらに 付金を集めねばならないことを訴えている5s。この請負金額5,600円 、当初構造を石造として設計見積が7万円に達したため、煉瓦造に設 変更し、さらに請負業者伊藤亀太郎(伊藤組)の好意によるものであ た。 工事は、1921年8月工事契約、同年10月30日クラーク博士の令孫を招 て定礎式を挙行、約13ヵ月の工期を経て翌1922年8月28日完工、翌9 6:濡 瘟T撃紙『北海教報 7:『北海教報 第116号』 (1922.9.15) 8:たとえば『独立教報第61一号』(1912. 3,15) 9:『独立教報 第109号』 (1922.2.15) によれば、請負工費56,000円、設備 費10,000円、合わせて66,000円のう ち、集まった金額は、申込み15,000 円、旧会堂亮却費20,000円、合計35, 000円であった。 1-2-4 札幌独立基督教会(1885)   己, や  鷹  幽  ●  幌  鱈           一くし..,,f鯉 ・t;”’     a‘・   .ハ, 直 ・‘㌃’;繁¥ 1-2-5 札幌独立基督教会新会堂    (1922) 29一 ㌦~卜蒙 メ窄, 、 遺 ア 郭 ’ げ)y“一」1 灘:胸 … “叫陥凹    ・ ギぐ  寸認・㌧   ,  =い箸ド∴疋麿.』添与 ヌ’、=凡:〆 略ユ~ ・・ “きデ1’葦」,「⊇一』羅馬 一・溝燕趣。魁〆麟炉煽論・’轟壷毒・!・〈・・…1・t離郷…撚目菩1噸紳翻齢総 軍健騨蟹1灘鑛 月献堂式を挙げている。  以降40年歴史の風雪に耐え続けたが、1962(昭和37)年7月三越に売却 され、1970(昭和45)年取り壊された。 新会堂の概要  煉瓦造半地下付き2階建て、延べ面積約666㎡のこの建物は、本体北 側屋根が寄棟、南側が切妻と異なる屋根形式を有し、さらに北側寄棟部 分に切妻屋根のポルティコを付属する。創建時には亜鉛引き鉄板瓦棒葺 きであった。  外壁は、礼拝堂部分では煉瓦をそのまま露わしているが、玄関ホール 部分およびポルティコでは、煉瓦の上に人造石洗出し仕上である。正面 の付柱も、外壁と同様入造石洗出し仕上である。正面壁は、三角ペディ .’ ッ一£一二  μ ミ駄mーご\,   ’ 一襲 ’ 一 8華華r皇 モ 【   幽 �P1 撒酔 師 一 ↓       1 ニー土_一一 @φ÷    ・ ヲ     一     一   一     計   一     で 一 7 一 1↓輩 甕琴ξ≒≒三千.一===一二一一≡≡チー=一 一 メントをのせた二つの盲窓と、4本のタスカンオーダー一の付柱によって 構成されている。  ポルティコ部分は、前柱式(Prostyle)のローマンスタイルを顕著に表 わしているが、これは19世紀のクラシックリバイバルではよく使われた パラディオ風のスタイルである。  高い基壇上にベースの付いた4本の太いイオニア式独立柱が立ち並び、 大階段が会堂へと導いていた。大階段の左右には夜灯が備えられ、両端 の独立柱と主棟の付柱間にはバラスターが付いていた。  大ペディメント下のフリーズ部分には、「札幌独立基督教会」と、ティ ンパヌム部分には、「IN・MEMORY・OF・WILLIAM・S・CLARK・ERECTED・1922・」と 銅製文字をはめこんでいた。  東西側面では、窓は上げ下げであるが、さらに外側に両開きの銅扉が          tL.一一 L inr“ t  t !  口’i i-II ., Dき1三瞬  緯聖 図1-2-6北立面図(1970年実測)  .七二 ti” IE露‘謙 、一一_紫  ∵  ワ 儲灘1’,」憲  ヒ              ァ ・r≠’・豪」 ノ   一一 一ム 聾 ト。1“ F. 〈.? …卜一 る 寸冊一   賞 .  ,轟、齢   鰐」 ti.U,wut一一1一一一一n-ige’ 図1-2-7 東立面図q970年実測)   毒+ 十噂嵐ゴ ’二 二1∴ 腿 ∵iB l肖1  義 轟    , 茎 liは、1峠 ・    ノ』              γギ    ロ       の        リカゆ       ’:響・ガ」幽嵐遜ヨ∵唱一⊥ 4主 嶋 ?’ つり          の ギ{胃∴1! …」_賑.、・ し4.tt .ナ瞥『樗ヤrrl  訓 弊 脅 ロ凸 の 轟   ⇒ 価 い ”   ヨ ー蛸嶺.驚・ 「           ’馬亭’     r i 叫 U q コ 凶 一 驚        L一;一Fr一一一一一.一,,a 図1-2-8 平面図(札幌独立キリスト教会蔵) 1階 2階 地階 一30一 一31一 熱血i幽幽難欝難懸灘縷1灘1講鐵二二蕪難叢i鍛難麟講蕪二二二二二二撫三二二二騨糧昏鋤き写蜷灘墾麟忌避羅灘馨欝欝難欝鷲i欝欝搬器i欝欝難麟灘黙黙難i欝欝雛 { 閏『一一一一晒蝋■■一轍’闘■一■■■■■寧日■闘隔鴫ゼ 60:『独立教報 第109号』 付けられており、窓台および楯には石が用いられていた。地階北側前室 部には東西両面に出入り口がつけられ、外側にシャッターを備えていたe  南面は、正面の様式的スタイルとはうって代わって、倉庫のような印 象を与える、煉瓦壁面の単純な切妻スタイルである。  平面は、間口42尺、奥行51尺の礼拝堂の北側に、間口43.5尺、奥,行12 尺の前室を置き、さらに北側前面にポルティコ部分(27×9尺)を付属して いる。1階は「礼拝堂」(以下「」付きの室名は旧図面による)として 使用され、南側正面にはアーチのついた講壇が、正面東側に「図書室」 (9×9尺)、正面西側には地階へ通ずる階段室(9×9尺)があった。  2階へは、西側階段より上り、玄関ホール上部に「会議室」(12×11.5 尺)、「記念室」(12×17.25尺)の2室がある。  礼拝堂上部は吹き抜けで、ギャラリーがコ字型に廻り、北側は12尺の ,奥行で会衆席を置き、両端のギャラリーが南側正面左右の「日曜学校分 教室」(9×9尺)に通じていた。天井にはアカンサスの葉をあしらったメ ダイオンが付き、隅部分にモールディングを施していた。内部の仕上げ は漆喰仕上げk2階北側のギャラリーは、曲線を描いた大きなモディリ オンと、2本のタスカンオーダーの化粧角柱が支えていた。  地階は、ポルティコ下部は物置として、ホールをはさんで南側に大き な「日曜学校礼拝堂」(39×27尺)、それを「日曜学校分教室」3室(!2× 16尺の2室と15×16尺)、 「私室」2室(12×16尺、12×15尺)、階段室 (12×12尺)がし型に囲む。  小屋組はキングポストトラスで、平臥に鉄筋を使用している。ポルテ ィコのペディメント部分には鉄骨が使用されており、2本の控えで固定 されていた。  本体の構造は煉瓦で、礼拝堂部分では外壁にそのまま露わし、正面玄 関ホールは表面人造石洗出仕上げ\ポルティコ部は鉄筋ゴンクリート造、 人造石洗出仕上げであった。独立柱も鉄筋コンクリート造、人造石洗出 仕上げ、内部は空洞で、内側を木造捨て型枠で丸く造り、そのまわりに 鉄筋を配してあった。 設計者高松政雄  教会資料によって、設計者は曽禰中條建築事務所で、 「両者監督の下 に最近欧米より帰朝せる同事:務所所員高松工学士」80が担当したことが わかる。  曽禰中條建築事務所については、あらためていうまでもない。 1908 (明治41)年に設立された、明治末から昭和にかけての指導的設計事務所 のひとつである。設計委託の経緯は明らかではないが、中條精一郎が札 幌農学校新校舎(1903年7月)の設計者であることを考えれば、新会堂建 設委員の一人である宮部金吾(札幌農学校教授)その他教会関係者との知 一32一 噸磯難麹癬鎌総轟鑛灘鑛纏蜘鎌纏無麟麟≡二二三二熱撫一三遡一一鍛懸盤ll 悉関係は容易に想像できるところである。  実際に設計を担当した高松政雄(1885~1934)については、『高松政雄 君の制作と著作』(1935.9.5)に詳しい。  同書によれば、高松政雄は1885(明治18)年11月5日横浜市長住町生ま れ。1910(明治43)年東京帝国大学建築学科を卒業、卒業論文「建築家の 修養」は、伊東忠太の推薦でその年の建築雑誌にも掲載された。また卒 業した年の12月建築学会臨時通常会においてJ・コンドルの講演「公共 建築に関する私見」を臨時に通訳するなど、その秀才ぶりを物語るエピ ソードである。  同年7月曽=禰中條建築事務所に入所、翌11年10月から1914年9月まで 病気静養のため2年間の一時休所があるものの、1934(昭和9)年3月11日 の死去まで20年間にわたって同所員として活躍した。1920年エコール・ デ・ボザールに留学する前の中村順平、同年早稲田大学理工学部建築学 科選科生になる前の蔵田周忠らが、高松の同僚・後輩として机を並べて いた。この間、1911年日本建築学会正員、1918年には工手学校建築科に おいて建築構i造法を教授(1920年まで)、1920(大正9)年2月日本建築士 会および山房冷蔵協会(のちの衛生工業協会)正員として入会、1922年 には病院建築研究所を創設している。  1920年9月業務視察のため北米合衆国に派遣され翌年5月に帰朝して いる。海外出張の詳細は明らかではないが、次の大作日本郵船ビル(19 25年竣工)の設計準備のためであろうか。とすれば、札幌独立教会は高 松が帰朝後、郵船ビル設計までの中間期に手掛けた小品ということがで きる。北国の新興キリスト教派の会堂の設計には、訪米の体験も活かさ れたに違いない。クラシックリバイバルの国アメリカからの伝道を象徴 するのに、クラシックな様式は適切なものであった。まじり気の少ない、 まことにすなおな様式を実現している。  独立教会以外に、前掲『高松政雄君の制作と著作』によると、以下の ような作品がある。  曽禰中條建築事務所に於ける作品 東京海上保険会社(旧館) 慶応義塾大学医学部校舎 慶応義塾大学医学部付属病院 東京自治会館 永田町井上眼科病院 稲葉子爵邸 井上医学博士邸 慶応義塾大学医学部付属食養研究所 東:京府医師会下谷病院 慶応義塾大学予防医学教室 駿河台井上眼科病院 東:京海上保険会社(新館) ㈱東京計器製作所 日本精工株式会社事務所 ユ9ユ9年 ユ9ユ8~ユ920年 ユ919~ユ932年 1922年 1924年 ユ924年 ユ926年 1927年 1928年 ユ929年 1929年 ユ930年 ユ930~ユ931年 1934年 一33一 ジ ー 蕉 ~ 臣 乱 臨 蔭 下 臥 蔭 駐 ゼ 蔭 豪 豪 ㌃ 籔 羨 曝 .諭b. 61:蔵田周忠「建築評論家として」(『高  松政雄君の制作と著作』追憶記) 62:「建築家の修養」(『建築雑誌285号』   (1910.9.25) p.455) 63:中村琢治郎「緒言」(『高松政雄君の  制作と著作』) 64:黒崎幹男「事務所の先輩高松政雄氏」   (『高松政雄君の制作と著作』追憶  記) 病院建築研究所に於ける作品  芝医院  大阪難波病院付帯設備  私立松山病院  産科婦人科濱田病院  産科婦人科濱田病院付属産婆学校 社団法人実費診療所横浜支部病院  社団法人実費診療所大阪支部病院  財団法人東京慈恵会医科大学付属東京病院 個人としての作品 富士見町日本基督教会 松江税務署 1邸 S邸 渡邊忠雄邸 加藤守一邸 田島定雄邸 本間良道邸 S旧邸 堤経長邸 東京府立第三高等女学校御真影奉安所 ユ922年 ユ924年 ユ925年 1926年 ユ926年 1928年 ユ932年 ユ930年 ユ9ユ6年頃 ユ923年 ユ924年 目924年 ユ925年 ユ926年 ユ928年 ユ929年 ユ929・年 ユ930年 ユ930年  著作も多く、すべてを挙げることは控えるが、卒業論文以来終始一貫 して建築家の職能、道徳的立場を強調し、晩年は建築士法制定の促進運 動にも尽力した。 『高松政雄君の制作と著作』にも、建築士法に関して、 「建築士法と建築士の対社会の義務」(日本建築士1929.4.)など6編、 建築士の業務に関して11編、建築競技に関して、「建築の競技と建築の 職業と」(日刊土木建築資料新聞・土木建築界全貌号1932.8.!5)など8 編が収録され、建築一般に関しては、前述の「建築家の修養」のほか21 編、講演として「横浜の復興と建築」(1924.9.27)「病院建築に就て」(19 26.4.2)などが掲載されている。ほかに、採録しなかった著作目録が付 記されており、実に165編の著作が挙げられているが、多くは1920年以 降のものである。  卒業直後の華々しい活躍を思い起こすと、「10年間の沈黙は長すぎる」 61 謔、に思えるが、高松は、当時東京海上火災保険会社旧館(1918年竣 工)という大作の設計をかかえて設計業務に忙殺されていたのであろう。 同時に、 「筆の人たり口の人たるは吾人の使命に非ざる……断じて実行 也」B2という高松は、専心建築設計に打ち込んだのであろうか。 「勤勉 で」e3「周到綿密」64な執務ぶりであった高松らしい一面と思われる。 一34一 藩14、鍵撫轡饗滋響難懲灘、欝饗三二1三山強縫魂讐白白∵ 1-3 中村鎮と不燃建築  中村鎮マモル (1890~1933)は、1914(大正3)年早稲田大学卒、以降昭 和初期にかけて活躍した建築家である。『建築ト装飾』などでの評論や、 「中村式鉄筋コンクリートブロック」の特許、この構法による函館での 建築活動などで知られている85。 1-3-1=中村鎮の経歴68  中村鎮は、1890(明治23)年10月福岡県糸島郡波多江村に中村彌次郎の 次男として生れた。1908(明治41)年、福岡市の市立中学校を卒業後、台 湾総督府土木局傭として台北水道水源地でRC造倉庫などの設計、現場 管理助手を務めたが1年余で依願解職、早稲田大学理工科建築科に入学 した。在学中は、書生として佐藤功一宅に寄寓していた67。在学中『建 築ト装飾』に評論を発表し、1913年には同誌の編集主任をつとめた。19 14年卒業、翌1915直線は陸軍技手になるが、同年野田俊彦も陸軍技手に 任ぜられている。  1917(大正6)年病気のため陸軍をやめ、一時アメリカ屋にっとめたよ うであるが、1918年東洋コンフリート工業株式会社技師長に転じた。コ ンクリートブロック構造の考案に手を初めたのは、両社在職中のことで ある。1920年5月、日本セメントを辞職独立し、日比谷交差点で建築相 談所を開いた。翌1921年4月の函館大火を機に同地に赴き、「銀座街」火 防線建設に加わった。同年、中村建築研究所を設立、特許中村式鉄筋コ ンクリートブロック造の普及、研究に努めた。1926(大正15)年には都市 美協会を主唱設立、1928年には早稲田高等工学校で建築歴吏学の講師を つとめた。1933(昭和8)年、東京市杉並区荻窪に自案「新軽:量構造」の 自宅を新築し移転したが、同年8月19日病没した。 1-3一・2=中村式鉄筋コンクリートブロック構造の概要  中村鎮考案のブロック構造については、自身が1923(大正12)年『早稲 田建築学報』に発表した『「コンクリートブロック」より鉄筋「コンクリ ートブロックまで」』に詳しい。  この構造は、L字型のブロックを組み合わせ、壁体をつくり、これを 型枠として鉄筋コンクリート造の壁柱を打ち込み、床スラブは、中空部 をもつ小亭スラブとするもので、いわゆる型枠コンクリートブロック造 の一種である。中村鎮は、特に関東大震災後、中村鎮式鉄:筋コンクリー ト造と称している。これは、震災で耐震性に弱点を現わしたブロック造 のイメージを避けるためと思われる。  前掲『早稲田建築学報』の論文では、ブロック構造の利点として、 一35一 65:村松貞次郎『日本建築家山脈』 (19  65.10.20)、村田専三郎『函館建築  工匠小伝』(1958.函館市史資料集31  集)、 『日本近代建築総覧』(1980.3,  30)など。 66:中村音羽編『中村鎮遺稿』(1936.9.  5)による。 67:『中村鎮遺稿』の佐藤功一序から。 鎌継、・ 誘 ≧ 伽 輩 ” 薦 挙 唱 卍 鷺 営 熔 巽 僅 姫 三 調 , 蕊 、 誕 } 辱 d 毒 、 罫 享 r 5 ご 匿 り 一 G パ ; 蜜 野 齢 馨 浮 罫 1鐙 ,z IA’7 5’7 図1-3-1 中村式L字型ブロック(『早稲田建築学報第二号』(1923。7)) , 」  ■  5 、曾: 濤 り . 難一 唯ご 図1-3-2 中村鎮式ブuックの床スラブ(『中村鎮遺稿』)  図1-3-3 中村式ブロックの壁の構造例(『中村鎮遺稿』) ①保温、防湿、②材料および基礎の軽減、③型枠の削除、④施工の迅速、 ⑤価格の低廉、⑥外観の優良一壁厚が厚くなることによって「壁面を内 外とも非常に豊かに落付多く見せる事」および、天井、壁に梁柱型の突 出しないこと一、⑦配管配線の便利、⑧耐震耐火性の8点をあげている。 これらは鉄筋コンクリート構造の弱点を補うものとして考えられている。  余談であるが、この中村式L型ブロックの特許に対し、疑問を述べた 人もいた。ベルリン在の早大工学士古塚正治がr建築の普及』 (1922年 5月号)という雑誌に「中村式L型特許プロツクと所感」と題して、こ の形式のブロックがすでにドイツでは使用されているもので、特許に値 するものかどうかと報じている。古塚は、1920年ミュンヘン市ブリュッ クマン図書会社発刊「小住宅と小台所」に小住宅の経済的方法として使 用されている点をあげ、さらに同年6月号に、 「再び中村君のL形ブロ ックに就て」と題してドイツにおけるL形ブロックについての詳細を補 一36一 自画唖聾鰻鱒1罐灘懸、難灘二二蕪灘二二 ‘n’d  ・“べ糖・’『、 ”昌eぐ’撃’【洲唄・ 足している。それによれば、1917、18年頃:のドイツ国内の経済的困懲を 背景に、民衆の住宅問題の解決としてr経済的建築施設博覧会』が開催 されたこと。その出品作のひとつとして、ハッケの「アムビイ石建築施 設(即ちL形ブロック)が、優良名誉一等賞金杯が授与され、一一名ハッ ケ人造石とも称されたこと。カタログには、このアムビイ石の建築方法 によれば、その利点として、一般鉄筋コンクリート建築物と同様に鉄筋 の併用ができることはもちろん、単なるコンクリート造としても、煉瓦 造の壁厚1枚半以上の強度を有し、施設の簡易と迅速、仮設工事を要し ないこと、仮枠代わりになることなどがあげられている。またドイツに おける戦時中からの石炭其他の燃料の欠乏する状況下で、煉瓦のように 燃料がいらず、準備工事の軽敏な点について、当時の審査長であった枢 密顧問官、ベルリン高等工業学校長、都市開拓役所最高委員ヨット・ブ リックスの題言を得たこと、そしてヨハンニスタールのドイツ政府開拓 役所がただちにこの方法を採用して多くの住宅建築に好結果を納めてい ることも付記している。古塚は、ベルリンで実際に中村のブロックを見 たわけではなく、雑誌のニュースから単に形態に対してこうした意見を 述べたわけで、たとえば中村式ブロックの長い方の「足」の腹部の2本 のリブの工夫や、L形の組み合わせ法などについては見逃している。  中村は、前掲『早稲田建築学報』の論文中で、このアムビー(古塚の いうアムビイ)式建築法にふれ、ドイツの特許の方法であること、非常 に優れた方法とは思わないが小建築(低い3階くらいまでの物)には適 当な方法で、鉄筋柱を小さいながら完全に組み合わせている点など、鉄 筋コンクリート構造の大切なところを誤っていないが、中建築および大 建築に用い得ないのは、この方法に限らず多くの鉄筋コンクリートブロ ックの共通の欠点であると、自らの構造との違いを強調している。 1-3-3=中村鎮の作品  『中村鎮遺稿』(1936年)の中の「制作年表」には128件の作品が載録 されているが、うち119件が「中村単鉄筋コンクリート構造」であった。 この構造は、前述のようにL字型コンクリートブロックを型枠として壁 体、壁柱、小梁スラブを形成するもので、いわゆる型枠コンクリートブ ロック造の一種である。  l19件の同構造建i築は、東京周辺の45件を主として全国に分布してい るが、特に初期の30件が北海道(うち25件が函館)に建てられている。 1982年現在での道内の作品30件を表1-3。1に示した。函館で2件1棟の ものが2例あったので、建物棟数は28棟となる。うち17件(15棟)の現 存を確認した。不明3件、他は滅失している。さらに「制作年表」以外 に同じ構造で建てられた6件、ブロック寸法など形式は異なるが類似構 造の4件を見出したので表に併記しておく。 一37一 罫 “ 選 婁 . 験 . de4.s.  ロ      ドザしやロ  も       ぞ ゴ ミロ ∵“ YJ山 ’ r 辞    ■)L ’t 等3ご警鴛欝難懇 68:中村鎮『建築経済の問題』『いわし  屋大磯商店の建築一中流商店建築の  一実例』(いずれも『中村鎮遺稿』) 詳懸慧論、裁ン 図1-3-4 錦輝館     (『早稲田建築学報第二号』     (1923. 7)) 69:『函館大火(昭和9年3月21日)調査  報告』(建築雑誌1934年6月号) 1-3-4=1921(大正10)年函館大火復興と中村鎮  中村鎮と函館の結びつきは、同市中心街49町歩余を焼失した1921(大 正10)年4月14日の大火による。中村は、早稲田大学卒業後、陸軍省、 アメリカ屋、東洋コンフリート工業、日本セメント工業株式会社を経て、 大火の前年1920年に独立したばかりであった。函館区蓬i莱町(現宝来町) の映画館「錦輝館」 (1920年10月起工)設計を機に函館への往来が始ま り、工期中に大火に逢ったものと思われる。   「耐震耐火の鉄筋コンクリート建築(又は其以上のもの)を、如何に 廉価に能率よく又如何に衛生的に造るべきか」 (『建築経済の問題』 (中村鎮遺稿)原文の傍点をアンダーラインで示している)を使命とし、 新構法を考案した中村にとって独立直後に遭遇した函館大火とその復興 は絶好の機会であった。函館の側からしても中村の貢献は大きかった。 中村自身の言を借りれば、 「全くの田舎町に過ない函館が……東京や横 浜が(そうして大阪が)その実現難を卿って居る軒並防火建築の完成を 僅々一二年の間に成し得」(同上)たのである。  函館区会は、大火直後、街区改正と火防線の設定を議決した。火防線 は街路両側または片側の5間幅に防火建築を建てる構想で、甲種火防線 として蓬莱町「銀座街」 (街路両側)および「二十間坂」 (片側)が指 定された。この火防線建設に中村がかかわる経緯は自身の回顧によれば およそ次の通りであるBe。  区側の目論見では通常の坪当建設費木造の80円と、RC造160円の差 額を補助および低利融資でまかなうはずであったが、実勢にあわず難行 していた。そこへ中村が自身の特許鉄筋コンクリート(ブロック)造な ら予定の160円以下で実現できると提案、受入れられたという。 「制作 年表」中ユ6件が、1921年7月一斉に起工、同年12月に竣工しており、ユ1 月16日には盛大な連合上棟式が行なわれている。函館の永年にわたる防 火的都市づくりの、重要な一里塚であった。 1-3-5=「銀座街」火防線の建築  函館はこうした都市防火の努力にもかかわらず、13年後の1934(昭和 9)年3月21日の大火で市街の大半を焼失した。「銀座街」火防線も「道 路を横断して延焼した形跡」esこそなかったが、惨禍をくいとめるには 無力であった。 「銀座街」の建物自体も多くが内部を焼失している。日 本建築学会の大火調査報告BSによって「銀座街」の概要を知ることがで きる。街路両側66棟のうちRC造24棟、コンクリートブ1コック造19棟、 煉瓦造15棟、他に木骨鉄筋コンクリート、土蔵造が混在していた。中村 の作品は、現存の確認できるもの13件(12棟)、確認できなかった3棟も、 所在地から推してこの中に含まれそうであるから、 「銀座街」のコンク リートブロック造19棟の大半を中村が手がけたことになる。 表1-3-1北海道における中村式および類似鉄筋コンクリートブロック建築(1982年現在)                         (番号は「制作年表」の建物番号、○印現存)   旧名称          現名称 3  」・川商店 4   塚商店 5   川商店         小野寺商店他 6 岡本商店        スナックカトレア他 7・12関、藤原商店        座そば他 8  川商店        割烹料理う志ほ 9   田商店         居酒屋まさご他 10  山商店         青函設備工業 11 青木商店         三愛梱包運輸他 13 千秋製パン株式会社     光堂作業場 14  北          共立ビル 15  村商店        住友建設函館出張所 16 能見商店        喫茶プロスパー 17 北川商店 18 目貫商店        道南石油社宅 19  野司         スーバーホリタ銀座店 20  生町交番 21 中村建築研究所函館出張所 22・23 川、高島商店      井上正義アパート 24 西本願寺別院庫裡 25 地蔵町交番 26 函館市役所自動車車庫 34 西本願寺別院塀 37 L幌測候所 45   aヒ海道庁倉庫 所在地 函館市旧恵比寿町 〃  〃  〃  〃  〃  〃  〃  〃  〃  〃  〃  〃     〃  〃  〃     〃  〃  〃     〃  〃  〃  〃 国鉄札幌電気工事事務所 札幌市中央区北8西9             11       階工期     現存       2T10.7-10.12不明  〃     2〃       不明 宝来町23-3  3〃      ○  ,, 23-5 121i, IO  n 22-16 131n IO  n 23-2 1 2 1n IO  n ,, 131u 10  r, 23-6 1 2 1,, 10  n 21-12 1 21,, 10  n 24-2 121,, IO 豊川町1-4  3〃       O  n 1-15 1 31n 10 末広町7-16  2〃      ○  ”  〃  2〃      9解体  n 17-16 1 4 1n 10 宝来町22-18 3T9.10-11.100 元町四一9   1T11.3-11.6 戦後解体 旧蓬莱町   3T11.3-11.8 不明 宝来町25-15 2T11.6-11,100 東川町12-12 1T12.4-12.7 9焼失 豊川町7-1  1T11.6-1 1.12 55解体 豊川町23-17 1T12、6-12.8  体 東川町12-12  T 10.10-11.4 9焼失       2一・aT12.8-13,2 10  〃 北3西6 2T13.8一一一14.6 S41解体 £ り   3   」 q 4   ρ 0   8 日面新聞社印刷工場 q海道電燈株式会社倉庫 コ蘭市社会館 旭川市5-10 @〃 4-10 コ蘭市幸町1-2 2 2 3 T13.5-13.10 s14.8-M.9 s15.5-15.11 46解体 S0s解体 R6解体 中村鎮「制作年表」以外の中村式鉄筋コンクリートブロック建 築  蘭市公益質屋及び:倉庫 @蘭市立病院 ¥村工務店住宅 k海道拓殖銀行滝川支店 k海道拓殖銀行紋別支店  鎖海龍 ィ江邸 函館市宝来町8-3 コ蘭市幸町1-2 @〃 常盤町2 D幌市中央区南16西 齔?市本町1 苺ハ市本町3 3 1 2 2 2 1 S4 r3 s15 r5 r8 r7 036解体 r26解体 宦 宦 類似のコンクリートブロック建築 浜面畳店 大浜崎畳店 R田そば店 末リ麻雀荘 c口美容院 函館市宝来町25-2 @〃    〃    〃 @〃   〃 22-12 @〃 豊川町1-2 2 2 2 3 T10-12頃 G ; 〃 ○ ○ ○ ○  中村が自作に数えていないコンクリートブロック造の建物がいくつか 見出された。大浜崎畳店はRC造フレームに型枠ブロック張壁を用いて いるが、ブロック寸法は中村式より大型であった。山田そば店、薄木麻 雀荘も同様の構造と思われる。田口美容院では、スラブは中村式である が、壁体に1尺角のブロックが用いられていた。旅館斗酒(1929年)の壁 体は中村式と同寸のブロックを積んでいる。 1-3-6=函館以外における中村式構造の建築  「製作年表」には、函館のほか、札幌、旭川に各2件、室蘭1件の作 品が載せられている。札幌測候所(1924年)は、札幌市中央区北7条西10 丁目にあって、1939年以降は国鉄札幌電気工事事務所(現国鉄清算事業 団北海道支社札幌事務所)として使われている。 『札幌気象百年史』(19 76年)によれば、鉄筋コンクリート造2階建て、延べ241.5坪の建築であ 一38一 鍵劉画因懸轟叢灘繊繋懸離灘難購灘簸二二二二繊i白山灘一白白山纏一驚白白驚1ッ騨響警撃鷲 一 39 一一 罪響署霧{欝轡i響雛灘峯響響響購繋難詰灘耀欝霧法難慧難総轄饗饗1綴蟹懸i灘塗純磁∴ 」 罵 ー 酒 盛 1 墨 毯 , 麟 , 、 、 」 ー ー , と , . 、 養 鹸 、 、 囎 縮 i ’ 1,i.・ じ國・ 紐 厭 ’ よ ノ ≧ 、 夢 - 「 、 ‘■1巳w糟s.’ 轤戟@ w 骨・彫1一.. ・y 70:『旭川新聞』1924.8.13  同記事中に「赤阪技師は此の最新発  明者たる中村氏の実兄で同時に中村  氏築造の主宰者である」とあるが詳  細は不明。 71:『室蘭市史 下巻』(1941.6.25) 72:杉村工務店および拓殖銀行の建築に  ついては、北海道設計監理㈱広田基  彦氏の教示による。 図1-3-5 北海道拓殖銀行滝川支店 つた。北海道庁倉庫(1925年)は、1966年に取り壊された。  旭川新聞印刷工場(1924年)は、中村の報知新聞社(1921年、東京麹町 区)が、 「昨秋の大震大火に際して些の被害な」かったので「専責特許 中村式鉄筋混凝土に依り赤阪工務所赤坂準吉(準一?)技師に設計施工 を嘱し」たという7。。この建物は1971年頃、また北海道電灯株式会社(19 25年)も1960年代に取り壊された。  室蘭市社会館(1926年)は、市立職業紹介所庁舎として新築されたもの で「本館間口十八間、奥行八間……合計三百二十三坪八合」の建物であ った71。戦後市分庁舎などに使われたが、1961(昭和36)年解体された。  函館市以外でも、 「制作年表」にない中村式鉄筋コンクリートブロッ ク造の建築がいくつか建てられている。室蘭市社会館付設の公益質屋お よび倉庫(1928年)、さらに室蘭市立病院(1926年、ユ951年焼失)が、中 村式鉄筋コンクリート造で建てられた7ユ。誤って「制作年表」からもれた のでなければ、構造特許を使用して独自に設計したものであろう。  札幌では、北海道庁倉庫を施工した杉村工務店が、その後中村式ブロ ックの製造と普及を目的として営業したという。札幌の畑江邸は、杉村 工務店のモデル住宅として建てられたものである72。  北海道拓殖銀行滝川支店(1933年)は、コリントオーダーの古典様式建 築であるが、構造は中村式鉄筋コンクリートブロック造である。設計者 日沢長吉は、1877(明治10)年岩手県生れ。1907(明治40)年から1919(大 正8)年まで道庁技師として勤め、同行紋別支店(1932年)もてがけてい る72。  中村自身、自身の考案した鉄筋コンクリートブロック造を、むしろ積 極的にRC造の欠陥を補うものと考えていた。函館や札幌、室蘭、滝川 などで、自作以外の中旧式ないしこの類似構造の建築が建てられたこと は、この構造がRC造の普及確立の過程期において、一定の役割を果た したことを示すものと考えられる。 一40一 灘…_、灘繕一議鑛灘鑛難山白白羅i難山二二二二難山!一白灘一白ゾ、耀 1-4鉄筋コンクリート造建築と函館  函館では、1921(大正10)年大火を契機に、前述の中村式鉄:筋コンクリ ートブロック造などの防火造建築が普及し、耐火造建築の商店群で構成 された「銀座街」などを生み出していったが、北海道で初めて鉄筋コン クリート(以下RCと略)造の建物が誕生したのも函館である。 1-4-1=東本願寺函館別院  RCの使用は、1907(明治40)年頃、函館区技師渋谷源吉が汐見町の道 路境の擁壁に採用したのが最初の例といわれる7Sが、本格的に建物に採 用されたのは、1912(明治45)年7月3日起工式74、1915(大正4)年11月 完成の東本願寺函館別院本堂である。  同別院は、本道初のRC造建築であるとともに、我が国最初のRC造 寺院としても名高い。伝統的な寺院建築の様式そのままに、細部に至る までRCで造った傑作であり、柱上部組物、虹梁などは構造部材と同時 にコンクリートを打ち、外部に見える種は1本ずつプレキャストして釣 り込んだ。入母屋瓦葺き屋根の小屋組は鉄骨造、使用された異型鉄筋は、 米国トラストコンクリート、スチール社製という75。また外廻り開口部 には開き戸形式の鉄製防火戸も採用され、耐火への細心の注意が払われ ていた。  間口32.7m、奥行33.1m、建築面積1,084.67㎡の大規模な本堂は、内 陣左右に貸間を配し、前面に柵内、一段下がって外陣、その前面に入側 を置く、典型的な本願寺本堂形式を踏襲している76。  1907(明治40)年大火で類焼した本堂の再建は、初め酒井建築事務所77 の設計によって行われる予定で、酒井啓次郎、大淵金也両名が担当78。 木造伽藍の外側に煉瓦を貼り付ける防火措置を施したものであった。模 型を造る段階まで進んでいたが、壇信徒総代3代目渡辺熊四郎が率先し てRCの不燃構造を主張、酒井案は廃案となった。  RC造によって新本堂を建てることについて、辰野金吾博士は様式と 構造がマッチせぬ故不可能と断言したが、帝室技芸員伊藤平左衛門は可 能であるとし、設計の嘱託を引き受けた。また伊東忠太博:士も可能とし たらしく、工事監督に石丸又吉を推薦している7s。施工請負は10世伊藤 平左衛門即ち吉太郎工学士であるが、実際には伊藤の配下にいた木田保 造に一任された。  木田保造は、1882(明治18)年1月13日千i葉県君津郡大貫町小久保で、 宿屋と網元を業とする旧家の長男として生まれた。2歳で父親と死別、 1910(明治34)年17歳で横浜の大工鈴木栄吉の徒弟として修業したが、鉄 道院募集の大工に応募し上京、築地の夜廻工手学校に入学した。1906年 一41一 鴛蓼 、、ag 蜊w灘 ㌔戸    脳)tS2’   も ’ 灘灘・ 73:村田専三郎『函館建築文化雑記』函  館’名匠顕彰晶晶(1943.11.25) 74:函館毎日新聞(1912.7.4付)。同紙19  12年11月13日付けでは、起工式を挙  行したが、明治天皇崩御により、実  際には1912年10月22日から着手とあ  る。 図1-4-1 東本願寺函館別院 75:函館毎日新聞(1912.12.1) 76:遠藤明久『大谷派本願寺函館別院   (大正4年)の構造形態』日本建築学  会大会学術講演梗概集(1978.9) 77:主宰酒井啓次郎。末広町渡辺熊四郎  本店西隣に所在。村田専三郎「建築  アラカルト」(『建築士/函館地方建  築士会10周年記念 1962』)によるe 78:村田専三郎「函館の建築(一)」(『郷  土昔話』195L9.11) 79:村田専太郎「建築アラカルト」(『建  築士/建築士10周年記念 1962』) k k    嫡 滴 4 擁 、 瞳 , 噸 、 匹 轟轟。 導・ ぜ熟議   「 ・s一1 t「 80:木田保太郎『木田保造』(1942年4月  16日旧版発行、1976年4月16日再版  発行) 81:1913年7月11日まで連載。 82:函館毎日新聞(1913.7.3) 83 :函館毎日新聞(1913.7.5) 84:山崎英雄『道南の槌音/函館建設業  界史』(函館建設業組合1982.4,D  p. 105 大蔵省臨時建築部に「雇」として奉職し、19!0(明治43)年に依願解雇、 この頃白木屋の改築工事を手掛けていた伊藤平左衛門の知遇を得ている。 翌1911年土木請負の木田組を赤坂溜池で開業、翌年明治が大正と年号が 改まったばかりの8月に結婚、1913年東本願寺別院再建に取り組むため 来僻したe。。  工事の最大の苦心は資金調達もさることながら、保造傘下の職人や専 門技術者達がRC工事に未経験で、理解と知識が欠けていることだった。 保造は毎晩彼らに講義を続け、工事の円滑化を図り、さらに別院工事中 の1913年6月30日から函館毎日新聞紙上に『火防建築に於いて』という 記事B’をのせ、RC構造の啓蒙も図っている。主な部分を抜粋すると    「而して防火上必要なるものは、家屋の構造、防火壁の設置、道路 の改造、消防の完備等なるも、(中略)私は只この家屋の改造及防火壁設 置に就て、少しく述べんとす。都市の中央にある諸学校は第!に之を不 燃質物にて造ること、之と同時に官衙其他公共物寺院等の大建築物は、 隔れも不燃質物を以て造り、斯くして一一一meに布及せしむべく、斯る不燃 質の大建築物が都市に散在する時は、一朝火災の起りし場合には、其延 焼を防遍し、且つ消防上、非常なる利益を得るものにして一つの大防火 壁を造りしと異ならざるべし。」82と、防火帯としての不燃建築物の利 点を述べ、また、鉄筋コンクリートが、土木建築界に広く応用されるに 至った理由として、 「△第一工費の非常に低廉なること。△(二)振動及 激動の抵抗の大なること。△(三)防錆なること。△(四)耐久的特性を有 すること。△(五)形成容易にして外部の美観を得、且つ施工の迅速なる 事。」83を挙げ孔 「実地に付いては、目下当区元町別院に於て再建せら るへき本堂工事に、此の鉄筋コンクリートを以て築造しつつあるので、 興れは日本古式の御堂造りであるが、工場としては、札幌鉄道院管理局 の工場及室蘭の機関庫等がこの鉄筋コンクリートの施工中である。今後 に於ける、我国の建築も別に旧套を墨守するの必要はないから、此の経 済と美観と実用とが相待って調和されて居るといふ此の新方式をやるが よかろふと思ふ。そこで有志の仁は各階の手近の工事場の実地に付いて 見聞し、研究せらるるは最も参考となるべき事と思ふ。」83と書き、連 載の締めくくりに、別院建築工事の概要も述べている。  この不燃質構造採用には、明治以来、3度類焼の憂き目をみた本堂再 建への檀家衆の並々ならぬ意気込みをみることが出来るが、何といって も初めてみる構法。工事が進行して「繊弱なる鉄棒と鋸肌の枠に依って、 泥土に等しき不浄極まる混凝土を流し込みて造る」本堂をみて、一・部の 檀徒から「木の四割しかるべき新御堂が、其の真髄から仕上げまで、得 体の解らぬ泥工作では、御仏様、御先祖様に対し何共申訳ない」と建設 資金の寄付が途絶えるという事態もあったという84。渡辺熊四郎の一計 により、上棟式(1914年11月10日)を早め、多数の檀信徒を床スラブに招 き、構造に何の懸念もないことを実証した84というが、いかにもRC造 の草創期らしいエピソードである。  また総代渡辺熊四郎も、RC造啓蒙のため、木田保造の設計・施工で、 自己経営の書店大正堂をRCで1913年7月頃着工、完成は別院本堂より も1年早い1914年11月であった84。  1916年には相馬哲平の寄付によって、辰野葛西建築事務所設計の函館 図書館行啓記念書庫が竣工した。RC造5階建て延べ122坪の建物で、施 工は、地元の村木喜三郎であった85。 1-4-2=村田専三郎と建築同好会  一方、!916年9月から6ヵ月間、函館工業補習学校でも、本道初の鉄 筋コンフリート工法の特設科が開かれている。東京高等工業学校附設教 員養成建i笑窪出身の村田専三郎(1916年4月訓導として来任)が、 「鉄 筋コンクリート法」と「万国建築条例」の講義を行った。村田によると、 「当時はまだ鉄筋鉄骨に関する参考図書も少なく主として蔵前で習った 「ノート」を基にして「ロンドン市鉄筋コンクリート条例」や「東京市 建築条例案」 (1913年東京市が建築学者に委嘱してっくったもので実施 には至らなかったもの)を虎の巻にした」そうである86。  この講義には各方面の技術者が多数参加し、修了後全員が引続き建築 研究のために「建築同好会」を組織したといわれている。函館工業補習学 校建築科主任小田千太郎(1914.4~1925.3まで在職)を会長に、会員に は、函館区役所の職員、鉄道院函館保線事務所の所員ら43名の参加があ り、中には岡田健蔵函館図書館長の名も見られる。会の趣旨は、主とし て不燃建築の研究発展進行であり、建築座談会、通俗講演会等を教育会 と提携して開いたり、希望者から賞金を預かって住宅の設計図案懸賞募 集をしたともいわれる86。 建築同好会会員名簿87 函館区役所 専売局 要塞司令部員 監獄署 図書館 函館支庁 税関 鉄道 築港 轍 建築業 大工 建具木工 其ノ他 沼崎梅吉、駒林善三郎、布目清重、志子田新吉、清水弁 西沢亀之助 飯尾三吉、岩佐常三郎 伊藤重治 岡田健蔵、岡田哲郎 武部四郎 村上頼、太田秀雄 福井静、佐藤留之助 岩淵数衛 藤木源吉、斉藤文五郎 新庄新太郎、斉藤正次、斉藤良治、山本金作、松野梅次郎 西川市太郎、二本松勝次郎、入日市登喜松、田浦正吉、 葛巻長松、杉田芳太郎、平野忠治、三束粂次郎、桜井吉雄、 越田庄太郎、小安土與市、小池源作 加賀彦一、山田彌惣吉 奥村銀平、梶塚吉蔵、萬年正次、河部三蔵、青木幸次郎 一42一 一43一 ・∴論㌔幾麟灘白繭灘轟一白一議麟、濫 ゴ 餐. “   鑓端 縫轡驚磯回 ・’ 蜊w 驕薮 85:川島龍司『はこだての文化財 古建  築編』(函館市文化財保護協会1971.  12. 20) 86:「建築士會以前(函館建築団体のあれ   これ)」(『北海道建築士』V。1,1619  56.1.26 pp.31一一33) 87:前掲『函館建築文化雑記』 座 ∵ ≠ 聯㌦最勝 「t@勢 .声 iiil,liilllli11・ 唾’ ト 88:岡田健蔵『小学校建築の不燃化に就  て』(函館紅茶倶楽部、1923.4) 89:小野基樹「鉄筋混凝土小学校建築調  査報告」(『函館市広報』1923.7.15) 90:『播州解績一小南武一の生涯一』  (1 q. 82. 1. 20) し 1-4-3=公共建築の不燃化  前出のように木田保造は、小学校建築を第一に不燃化すべしとの意見 を既に1913年に述べているが、こうした建築界の不燃化への動きに大き なはずみとなったのが、1921(大正10)年4月の大火である。市の公共建 築の不燃化に関して、建築同好会の会員であり、また市会議員であった 岡田健蔵が口火を切った。  岡田健蔵は、青森県出身の大工、岡田丹蔵の子息であり、そのためか 建築に寄せる関心は並々ならぬものがあった。1916年完成の行啓記念書 庫も、鉄筋コンフリート工法に強い興味を持つきっかけとなったに違い ない。岡田はまず1923年2月14日の第1回函館市会で、谷地頭小学校々 舎の不燃化を提唱する。この提案は市側には結局受け入れられなかった が、同月19日から25日にかけて、函館毎日新聞紙上に『小学校建築の不 燃化に就て』と題する論説を連載し、広く一般市民に問いかけた。さら には、これらをまとめて同年4月函館叢書第1冊同題パンフレット88を 発行、坪当り350円(岡田の試算の3倍弱)を要するとした市の技術部の 計算に対し、建築費のわずかな増資で不燃質校舎が実現し得ることを試 算によって強調したものであった。  市役所側も岡田のこうした主張をむげに退けた訳ではなく、積極的な 対応を示したようである。岡田のパンフレットが発行された同じ1923年、 土木課長小野基樹は、6月17~30日に東京、大阪、神戸を視察し、結果 を『函館市広報(大正12年7月15日)』に「鉄筋混凝土小学校調査報告」 として報告した。内容は、各地の鉄筋コンクリート造校舎の特徴を詳細 に説明し、特に工費については広いスペースをさいて重点的に報告して いる。また、最後に付記された小野の意見の中で、技術者に関する項は、 市側の方針に大きく影響した。  東京、大阪両市のように建築技術者を集めやすい役所でも、鉄筋コン クリート小学校の設計はほとんど全部著名な事務所に頼んでおり、 「優 レタル技術家ヲ聰スルニ困難ナル当市ノ如キニ於テハゴ89「高級ナル技 術家ヲ平素ヨリ多数聴シ置クヨリ」89も依託の方が経済的であるとする 意見を受けて、市長佐藤考三郎は、曽彌中條建築事務所宛にRC造建築 の経験者を「任期1年」という条件で推薦を依頼したso。中條は、技師 三戸義雄(1883~1938)、技手小南武一(ユ897~1976)、荒木善三郎(?~ ?)の計3名の派遣を決定、函館市の公共建築不燃化は、彼らの来函(三 戸は1925年3月、技手2名は同年4月赴任)を機に本格的に始まること になった。  彼らの赴任とほぼ同時に、1925(大正14)年5月1日、土木課営繕係は 建築課に改められ、継続中の建築工事と並行して、西川町市民館(1927 年3月1日竣工)、函館図書館本館(1928年7月17日開館式)、新川小学 校(1927年11月15日竣工)、函館女子高等小学校(1929年9月28日竣工) 一 44 一 ” 轡 r , 、一t.  匁   瀞婦1乱ナ・ などが、RC造で次々と建てられていった。  市の工事初のRC造の市民館は、 「工事概要」s’によれば、設計並に 監督には三戸、小南に加え、技術員田村久吉、臨時技術員石井仁作、篠 木幸吉らがあたった。  図書館本館は、小南が設計を担当したが、竣工当初は現状の洋瓦葺き 勾配屋根とは異なり陸屋根で、市民館と類似の意匠をみせていた。  新川小学校は、荒木の担当といわれるが、これら一面の初期RC造建 築の設計監督業務の中心が、三戸であったことはほぼ間違いない。三戸 は、その実力を請われて道庁に転職、1927年8月8日付で函館市役所を 退職、小南は同月26日付で建築課長代理を命じられることになる。課に 昇格したころ8名であった職員は、2年半後には18名まで増えたが、一・ 連のRC造建築工事に目処がつき、1927年12月1日建築課が廃され土木 課建築係となるにおよんで、職員数も10名程度に減少している。荒木も 1928年に退職し、その後市内の瀬崎組に入社している。  営繕組織の規模が縮小された反面、小南を中心とした組織は、かなり まとまった形態をとりはじめたともいえる。1926年に臨時技術員で採用 された石井仁作、篠木幸吉は函館工業高校の卒業生で、いわば最初の函 館市役所子飼いの技術者といえる。彼らは、1934年大火の目覚ましい復 興に活躍することになるが、小南のもとで、この頃からすでに復興を可 能にする下地が作られつつあったということができる。 1+4=1934(昭和9)年大火復興  1934年3月21日の大火は、火防線として期待されていた銀座街沿線の 建築群のほとんどを延焼し、過半数が今後の使用に耐えられないまでに 損傷を受け、中には崩壊したものさえあった。市申では、RC造建築の 不燃性に対して不信が囁かれるようになった。このため日本建築学会で は、市民の建築知識啓発のため、『耐火建築の注意』S2と題するパンフ レットで「耐火、耐震、耐風、耐久の諸性質を合せ備へた最も優秀な構 造は、鐡筋コンクリート造である」と力説し、また『球筋コンクリート が火に弱いといふ誤解を解く(函館市民諸君に告ぐ)』SZというリーフ レットを作成、市役所及び警察署等を通じて全市民に配布した。  学会は、その中で、(誤解は)「まがひの鐵筋コンクリート造を同士の 鐵筋コンクリート造だと誤認してみたからである。今回の場合でも本綴 の息筋コンクリート造の建物は火災を免れて嶢跡の中に完全に残って居 る」とし、具体的に建築名をあげた。西川町の函館郵便局電話分室、真 砂町(実際は鶴岡町)の商工会議所、地蔵町の十二銀行、末広町の松下 商店、風月堂、東濱町の大森商店などに並び、市営繕設計の市民館があ げられ、また修理可能な損傷軽微なものにも、新川小、函館女子小が含 まれていた。このことは、小南率いる技術者たちの大いに自信を深める 一45一 購 噛磁     ヶ 鎌 91:「彙報市民館開館式工事概要」   (『函館『市広報』ig27.4.15) 図1-4-2 函館市立図書館本館 92:『建築雑誌』(1934.5) , オ t.LP、t .溺劉i 丁 ≠ ノ 嵩 ∵ 識 瞳 「 F 託避脇_L. い賄いツ’ 一1一 旭で’…∵’ゼ’∵臼 ヴ 帰  「t ・ り 蛋民’ 壁ご’ 図ガ∵誉∴’鑓幽幽灘轄1,        磯イf 93:『函館市史資料集第6集』 (函館市  史編纂委員会、1956.12、22) 94:「函館共愛舎蓬莱ビル案内圖」(北海  道大学建築史研究室蔵)による。 ところとなったに違いない。  1934年12月28日に函館市復興事務局が創設され、局長のもとに庶務、 区画整理、工事の3課が置:かれ、翌35年1月工事課内に建築係が設けら れた。係長は小南武一の兼務である。復興建築事業は、市役所土木課建 築係の技術者たちが担当したと考えられ、職員数もその時期に増大して いる。大火前に11名であったのが、大火後の1935年7月には37名、10月 には47名にもなっているが、復興事業が一段落つき、復興事務局から建 築係が廃された1937年10月1日以降は人員が削減され、翌1938年7月に は14名まで減少している。  公共建築の復興は、新川、函館女子小の2校舎をはじめとする罹災建 築物の復旧工事がまず行われ、さらに焼失小学校校舎7校にかわる不燃 質小学校5校(青柳、高森、東川、的場、大森、1935~37年)の新設が なされた。また、財団法人共愛会の建物群のように直営事業外のものも 手掛けた。  共愛会は、1934年9月12日、函館市火災救援会に交付された資本金137 万円を基に、西川町函館市役所(大火後半焼だった西川町市民館内に市 役所を置いた)社会課内に設置された社会事業団体である。その事業は おおよそ、住宅建設、職業紹介所、簡易宿泊所、児童保護の四種類に大 別される。このうちRC造の共愛会館(1937年竣工)、蓬莱アパート(同 年竣工)、SRC(鉄骨鉄筋コンクリート)造の大火記念慰霊堂などは、 小南武一を中心とする市の復興建築スタッフによる設計であった。 1 蓬莱アパート  蓬莱アパートは北海道初のRC造集合住宅である。土地買収費6,493. 57円、工事費34,392円、設計監督費2,264.20円93をかけ、1936(昭和11) 年8月14日着工、翌1937年10月25日竣工93した。1,500㎡の敷地に建つ3 階建ての建物で、建築面積1,084.95㎡、塔屋の192.46㎡を加えて、延べ 床面積3,447.31㎡である。  1階を店舗併用住宅とする64世帯収容の賃貸下駄履きアパートで、全 館を1号より6号館に区画93し、1階は店舗と1室(6畳)または2室(4、 6畳および6、8畳)の4タイプと一部2室(Dタイプ)の住戸、2、3階は、 4タイプ(A~D)の2室でまとめられているs4。 A、 Dは、8畳・6畳 と玄関、流し、B、 Cは4畳・6畳と玄関、流しで構成され、4戸ごと (一部5戸)に階段室を設けた階段室型で、1階は街区内裏庭へ通り抜 けられた。上階裏庭側には非常用バルコニーを張出し、非常階段や各室 専用階段とも連絡するなど避難動線も考えられていた。飲料水は市上水 道、洗濯他雑用水は敷地内の井戸から各階に配水されたs3。便所は水洗 式であった。また共同洗濯場、物干場、共同倉庫を備えていた93。 「各 室の独立性と採光換気に特段の注意」gsを払って設計されたアパートの 図1-4-3 蓬莱アパート 、塒㌧     一。’ 一’”nyl’t” i:,s・,i’ 建 ”’ @TrSiT ”vr 蕪[輩塑,         4蹴㌶ 一 ly轄無窮i 肇:多野工願   藪 1胤= 1二 噌,笠 、轟一 1 2   乙 至 ㍉ 麗 一M 濫 ・ r (   「」 ・:’:lr昏ゴゾ -a’一一P f 口 ユ 鱗  へ し 働  御・懸  ゆ   まロ      ニ  ロコたりじ 1ユ P;i!樽    ・・:ヂ癌 宅 二 荘 ズ ギ 謎   D    聖よ監  1ぎ げ           ゆ も院・引帰  萱 響、 薗  響 雫 , 三 . 了 舷 鳳 曾鷺 も  鰐い臥7  ピゴ     ム 掛… 警階as面 薗 壌 一擢 覆 葺 一 ’ ・ 孝 董 夢 ㌃ ㌧ , ・ 〆 ,     ㌔ L ⑤ . い み :; ボ 理 [ 短 「 炉 ・ず;・飯館二四_..   ,ぜ・     ズt:‘ 蓼       り     ヨ 妻剃◎ ~ ヨ ◎ 瀞 し ④ 噂 。 二 敢  階 卒  面  圖 iL .F“  ηし, ξ懲 1 “ @t. ltt  }“t ,}費 I I F 製 燈¢=’ P 賦   、 了 1舞, ・ 翼    蹴∵t““”1: 図1-4-4 蓬莱アパート平面図 絵.庸・, A  ・ 噸 ・’ 」t{ご・ ・鰺’・諺・ ノ」奨 誉 1櫨ご鯵   iご 毫   馬 議四 秩 浴 竹 遭 . 碑 ヤ     釦   一 鼠 転 ど 浄奪’壁Y 艶’晒腎  TP rpt ” のし    戸 筆 縛 撫燐纏 選 . 織 蕎 ン 」 贋   鵡 、     ,   露 響 羅 顯 : / r ’ t . 1 ・ 一46一 一47一 幽幽蟹灘鑛白糠自白難白白鑛難山灘灘1山山i懸灘白白繋懸i欝一白一難罐一面、梯琴罵響讐1響;野≧璽∵野:欝饗罵騨無爵響=難饗1灘灘難欝野鼠総懸羅羅纏;黙欝:・ン灘 章 し ま 乖   く t 著 コ 、 , 、 ♂ 愚 . 軒 聖 臨 歎 む 弾 む 紫 匡 ∵ 爵 ノ 瓦 ㌦ 斧 出 戦 彰 厨 卸 靴 銃 籍 幽 転 醐 愛 ㍉ 斑 , 群 ξ 醸 一{ 警、 礁 只 幽 ∵N @    ・ミ戸野弊響騨懸灘課      、  ・こ多  薩   v “u        ヤ塁誠 95:「慰霊堂新築工事設計図昭和ll年6  月」による。 96:『函館市史資料集第6集』 啄 家賃は次表のようであった。 蓬莱アパート家賃(円) 2階 3階 1階 店舗併用1 23 住宅A 24 23 / 2 35 B 19 18 / 3 32 C 17 16 / 4 30 D 24 23 18 図1-4-5 大火記念慰霊堂 大火記念慰霊堂  もうひとつ異彩を放つものとして、大火記念慰霊堂がある。名前が示 すように1934年大火後、殉難死者の供養を目的に建てられた堂宇である。 その管理には、高龍寺、大谷派本願寺別院、称名寺、実行寺等、計12寺 が当たった。設計は1936年に始まり95、1937年4月19日に着工、翌1938 年9月30日に竣工した。鉄骨鉄筋コンクリート(SRC)造平家建瓦葺き、 建築面積185.5坪、工事費111,493円、設計監督費2,040円であった98。  広間兼祭場と火灯窓風意匠の祭壇からなる間口10間、奥行15間の主屋 の奥左右に事務室や祭具室、控室用の9坪の付属棟をつけた左右対象の 建物である。大きな入母屋屋根の二棟の妻側に唐破風の向拝を突出させ、 懸魚、二股、平三斗組、木鼻など、SRC造ながら木造寺院の細部意匠 を忠実に採用している。設計は主に小南が担当したらしく、新築工事図 面の「技師」および「設計」欄には、小南の印が捺印されている。 1-5 官庁営繕建築家と市街地建築  戦前期における北海道建築界の活動中心は、北海道庁や主要都市(函 館、札幌、小樽など)、 北海道帝国大学などの営繕組織や営繕技術者た ちであった。そしてこの傾向は、ヒンデルや田上義也ら少数のフリーア ーキテクトが誕生した時期でも変わらず、主流を占めることになる。  北海道における営繕組織や技術者については、体系的な研究がそれほ どなされているわけではない。早い例では、遠藤明久博士の『開拓使御 用係安達喜幸について第1報履歴とその業績の概要』(日本建築学会北 海道支部研究報告集 1961)、 『開拓使の建築技術者』(日本建築学会論 文報告集Vol.1031964)、 『開拓使営繕事業の研究』(私家版1971)な ど開拓使技術者に関するものや、北海道事業管理局炭破鉄道事務所技術 者に関する報告37があり、また北海道庁の営繕組織と技術者98、函館の 営繕組織99、小樽の営繕組織10。などに関して断片的に報告されている に過ぎない。  表1-5-1は、大正・昭和前期(!912~1940)における北海道庁と札幌、 函館、小樽、旭川の営繕組織の主な作品を年表化したものである。北海 道庁の活動については、1980年2月6日実施の「橋本理助・広田基彦両 氏を囲んでの座談会」での聞き取りおよび橋本氏作成の営繕年表メモを、 主要自治体の作品については、札幌市事務報告、函館市事務報告、小樽 市事務報告、旭川市事務報告を基本資料に、上記報告によって補足して いるが空欄も多く、今後の課題として残されている。  こうした学校建築や官公庁庁舎などの公共建築設計という本来の業務 以外に、北海道では民間設計事務所がほとんどなかった状況を反映して、 民間市街地建築物の設計依頼なども、営繕技術者たちに寄せられること があった。1934年の札幌グランドホテルなどは好例といえるが、その他 にも、札幌区土木技師遠藤慶蔵設計の今井百貨店(1916年)、小樽市技師 成田幸一郎設計の小樽組合教会(1926年)、北海道帝国大学営繕課長萩原 惇正設計の日本メソジスト函館教会ハリス監督記念会堂(1930年)など、 いくつか例をあげることができる。  また逆に、専門の建築技術者を擁することのできなかった地方自治体 などでは、北海道庁土木部の建築技術者の援助を受けたり、外部の建築 技術者を嘱託として臨時に雇用することが行われた。特に音江村(現深 川市音江)の学校建築に嘱託としてかかわった石井喜助は、個人事務所 としても延べ12市町村の営繕事業に関与しており、北海道における市町 村営繕技術者の中で、特筆すべき存在ということができる。 97:『北海道事業管理局炭磧鉄道事務所  の建築技術資料(その1)』(日本建築  学会北海道支部研究報告StNa32 19  69) 98:吉田実『北海道における学校建築に  関する史的研究一道庁設置以降の初  等・中等学校建築をめぐって一』   (1980年度北海道大学建築学科修士  論文) 99:越野武ほか『開拓使門鑑支庁の営繕  組織について』 (日本建築学会大会  学術講演梗概集(関東)1988)  大條雅昭ほか『函館市(区)の営繕組  織について』 (日本建築学会北海道  支部研究報告集Nor561983) 100:小抜映王ほか『昭和初期における小  樽市の営繕事業について』 (日本建  築学会北海道支部研究報告熱h63  1990) 一48一 一一@49 一 白陽画幽幽難購自白難騨難羅三白難山山山灘1一白1難講騰難白白自邸群}騨瓢避∵響泄 , 迂 8 . 響 ご ㌧ 鴎 ? ㌧ 酒   弓 L 3 ㌧   . b ヘ ポ   こ ρ ’   ヒ 『 ウ ・ ρ T 」   ’     ピ 蒋   」 ’ ㌧ ・ 議   劉 螺 留 無気課、 四響 騨饗灘i r” 獅買i P’ k.鯉鰹該貼.菖伊ALkTt “価 ρ       一 難」7 @ 儲 “h、 く1 一 遙       - 『 , 画 留 ?一 tfi ”’ rt「ノv偽L『’ A !レ{“λへ ’IAt ャ“鴨、り二層「’㍗轟F障’、4」胃が孕㌔嶋モへ’{lft   S) 一1’ ,   傍vM 6 ノら 雇 一Ji-tltLp]一ttl                         転 燦 笹 輪 ” , 【 潔     、 P 鰯 O ρ う , = N 星 鄭 紳 ’ で 蹄 鷺 苔 噂 圏 回 国 . = 斜 O 匡 ( 澱 側 聞 州 嶽 ) 驚 卦 ξ 憩 酷 『 響 廉             ( 蘇 婁 ) 伸 隼 く 繭 弊 臆 煮 咲 鰍                       歴 翌 騰 崖 漢 川 駅                       縮 ξ 駅 鵜 響 翻 依                     ( 綴 蓄 警 ) 盤 懊 輝 蝋                   . 恥 怒 輕 散 ヨ 紅 ” 第 芝 H 繋 の 一 . 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O 『 甥 留 終 遷 蝋 騒 馨 罵 ,   つ ●   ▽           ■   マ の g 母 N 雲 ミ               翼 輩               で 竈               魎 §               ゴ 畳           - ’   」 ・ 鱒   制 52 瓢1『『:鷲幽幽li三山鐸瀬瀬白駒難雛攣i白麹寒一白難難山一山馨灘1鱗白山白白響憂二野1輝二二 、.∴幽 ㍗ 時 レ ー 監 》 ビ 覇 ゲ レ   ’   ㌧   戸 、 げ   ビ 、 ’ .     瞬 ず ’ こ 月 “ -   ^ . ’   1     ≧ 呂 セ ー ジ ・ 恥 } p ご ! ポ ニ ” Σ ’ 、 h 、 詠 些 「 ’ ∴ ド 駈 ’ 餐 ご 竃 件 氣 7 7 へ 占 庶 信 凶 ㌧ 戴 仁 { ・ ご き 恥 枯 ξ ン ㌧ , し 猷 冤 讐盤騨:響騨讐∵1㌃lll驚∵鷺欝欝マ1盤欝欝驚襟塗筆饗灘懇慧織 1 1         「                                                                                                                     伽                                                       ・ 巴 o Q O マ 望 O ■   ●   ●   . 三 の 霧 強 一「 @             ミ ぐ 冒                 レ 瞬 亡     胴     遭     鐸 貼     κ 鶏 U 一 捜 遭 緯 』 ご 蓼 芝 導 ” 酬   ( 鰹 遡 愚 計 長 話 蟹 照 ギ )     。 ゆ % u ズ 纒 熔 解 」 る へ 賢 蔚 煮 ≒ ) 『 P ’ ゆ 0 9 蝋 熟 累 加 e 笹 輩 ’ マ ゆ 赴 弱 り → 嫡 々 幕 無 』 用 さ 蜂 ぐ . マ ( 趨 蚤 秘 塒 頃 ゆ 暴 蟹 覗 ≒ ) 『 報 毒 S 剖 ゆ 極 罫 9 三 三 三 三 蝦 ム ー 「 簡 “ ハ 目 三 三 三 三 噸 む 『 1 》 刃 〉 £ 剣 認 轍 軽 建 議 卿 一 二 温 品 e 謹 益 遡 韻 セ 梱 蔓 ≒ i 露 這 濫 剖 噸 恒 認 2 省 筆 鰹 朴 ゆ 匁 純 9 型 壌 昇 』 蝋 藁 菰 . N ( 鋸 怜 翼 母 卜 瞬 二 歩 く ≒ ) 『 駕 毒 ε 艦 e 齪 棊 繋 赤 墨 壇 麗 』 三 二 嚢 子 。 一 輔 想 1-5-1=札幌グランドホテルと北海道庁土木部  北海道における本格的ホテルである札幌グランドホテルが・現在地北 1条西4丁目に開業するのは、1934(昭和9)年12月11日である・  落成式と開業披露は、ホテルと同居の北海道商工奨励館および隣接の 札幌商工会議所の落成式とあわせて、商工会議所2階大講堂で行われた・  建物の設計スタッフは、北海道庁の土木部総務課技師福岡五一をチー フに、設計担当会田久三郎、構造担当橋本理助、図面担当高岡仁三郎、 本間永作技手たちである。民間企業の施設を北海道庁技師たちが設計と いうのも妙な話であるが、実はこのホテル、当初は北海道庁の官営ホテ ルとして計画されたもので、それが最終的に民間企業の形で開業したの であった。  官営ホテルといっても自治体の直営ではなく、土地と建物を提供して 民間企業が運営にあたる方法がとられた。札幌グランドホテルが開業す る前後の1933年忌ら1940年にかけて建設された官営ホテルは、全国で16 にも及ぶという101。 うち14ホテルが大蔵省預金部の低利資金による一 種の国策観光ホテルであった’e1。  1929年に可決された「外人山居遊に関する建議」は、輸入超過となっ ている国際収支を観光収入で改善しようとしたもので、外人客誘致のた め国家事業としての機関として、翌1930年4月鉄道省に国際観光局が創 設され、海外宣伝用映画の作成や内務省との協力による国立公園指定な どをてがけたが、最もカをいれたのが、ホテルの新設、改造の推進と資 金の斡旋、ホテル関係法規の整備であった。観光というおなじみの単語 も、時の鉄道大臣江木翼が易経の「観二国之光_利レ用。賓二千王一」からと ったもので、このときにはじめて官庁用語として使われたともいう。い わば政府推進の観光ホテル開発の時代であった102。  旅館しかなかった札幌に外国入や中央の賓客を迎えるための相当な洋 式ホテルがほしいというのは、 「札幌を往来する人々の年来の要望ゴ03 でもあった。当時の旅館には茶代という不明朗な料金制度があり、三代 のほかにチップと違って直接旅館経営者の懐に入る代金、いわば北海道 価格のようなものがあり、宿泊客には不評で、明朗な料金システムのホ テルが望まれたこともあった。また1928年の秩父宮来札の際の冬季オリ ンピックなど国際的行事の開催に備えてのホテル施設が必要との意向も 大いに影響したに違いない。  札幌に観光ホテル建設の計画が具体化したのは、1932年ごろからとい う。大蔵省より低利資金を受けて、北海道物産館を改築、ホテルと物産 陳列所を開くため、当時の北海道庁商工課長が3月上京し、大蔵省や鉄 道観光局を訪問したことが新聞に報じられている1。4. また、北海道庁 の観光ホテル計画が報じられる1ヵ月半前の1月の記事には、商工会議 所の「近代的大ビルゴ05建設計画も報じられたが、結局両者の抱き合わ 蝉 図1-5ヨ 札幌グランドホテル     (札幌グランドホテル蔵) 101:阿部要介『札幌グランドホテルの50  年』(1985.4,25)p.13 102:『札幌グランドホテルの50年』p.14 103:『創立趣意書』(1933.5) 104二北海タイムス(1932.3.9) 105=北海タイムス(1932.1.22) 一 54 .一 一一@55 一 幽幽難ii幽幽1 難鱗糠蕪灘一白鑛白白隷一一難山1灘i灘講一白馨i白白欝讐i欝讐購論議欝難灘難響盗難羅i騰熱熱購懇灘鱗欝欝灘欝欝灘縫鱗難ii魏魏1購ue i , : e ,;s’ 障 霞 1 1 由 ピ 墨 害 卜 芭 ド 範 事 潅 野 ㌦ 態 動 院 瞳 璽 ∵ チ 葺 争 106:北海タイムス(1932.8.17) 107:北海タイムス(1934.11.25) せ案に決定した。  しかし、大蔵省資金の内諾は得たものの、客室数や集会、宴会設備等 が政府資金援助の規格にあわずまたホテル建設の主体も、道庁から札 幌商工会議所に転貸する形式は認められなかった。結局北海道銀行の資 金融資で建築することが決定したのは、1933年7月のことである.早速 その年の8月21日に地鎮祭が行われた。施工業者は、その5日前の指名 入札の結果、大林組493,700円、伊藤組513,700円、田中組528,000円、 今井組537,500円、大星組535,000円、大倉組544,285円などを抑えて、 木田組の448,300円に落札した108。途中建物規模の縮小や設計変更を受 け中断したが、やっと9月21日に着工している。  同年12月19日、株式会社札幌グランドホテルの創立総会が豊平館で開 催された。ホテル経営を担当する会社の設立計画は、道庁と札幌商工会 議所が中心になって進められ、 「株式会社サッポログランドホテル創立 趣意書・予算・工事概要」が、同年5月各界に配られた。6,000株のうち 450株は発起人、残り5,550株が公募され194人の株主が決定した。  筆頭は、三井合名会社三井高弘の700株、次いで三井系の王子証券㈱ 藤原銀次500株、ほか小倉正恒(住友合資会社)、原邦造(明治製糖)、森 血豆、浅野総一郎、大倉貴七郎、穴水熊雄といった中央財界人、遠藤石 太郎、小熊幸一郎ら道内経済入や名士のほか、佐藤昌介、高岡熊雄、時 任一彦、越智貞見、中村豊、大野精七といった北海道帝国大学の教授連 も名を連ねている。  代表取締役社長に発起人代表美濃部俊吉(元北海道拓殖銀行頭取)(50 株)、取締役に五百本竹四郎(丸之内会館社長)(同)、岡本康太郎(函館商 工会議所会頭)(同)、藤田昌(大日本麦酒札幌工場長)(同)、木田保造(木 田組社長)(同)、平塚直治(帝国製麻札幌工場長)(同)、岩田彦二郎(札幌 商工会議所理事)(30株)、村田不二三(札幌市議会議長)、小竹文次郎(北 門貯蓄銀行専務)の2人が監査役、相談役に札幌商工会議所会頭大瀧冨太 郎が就任した。常勤の岩田彦二郎は当初からホテル計画の中心的人物と して活躍したが、ホテル営業は五百本竹四郎に一任された。  五百本は1887(明治20)年四国宇和島生まれ。17歳の頃から横浜クラブ ホテルのコックを経て築地精養軒に移り、1915(大正4)年28歳の時に東 京ステーションホテルの精養軒の支配人に抜擢され、その後精養軒の社 長になった人である。精養軒は関東大震災で廃業するが、その後上野精 養軒、丸ビル精養軒、仙台精養軒の他、丸之内会館、長良川ホテルを経 営するホテルマンであった。地元採用の役員にホテル経営の経験者が一 入もいないため、得意先の美濃部社長から特に参画の要請をうけたので あろう。  設計変更の多かった工事も1934年6月22日には、5階ホテル屋上で上 棟式を挙げるまで進み、同年11月10日に竣工した。 一56一 幽幽“.t灘灘灘羅1灘灘幽幽灘・羅懸灘灘灘一一勲白白i難山灘鱗幽幽蝋潮一白鵜 騨 誹『『潟,IJ..  t ”“.“   t v’㌻㌔ピ触’▼““マ,∫1悌.・ 胃 讐灘灘騨 撫艦盗蝉{1一,7. 葺_llt.。’:F,.  この間に道庁チームは、ホテルと道路一本隔てた北1条西5丁目にR C造3階、地下1階の札幌警察署新庁舎も手掛けた。設計および工事監 督は技手田子秀二郎が担当した。1933年11月12日着工、翌1934年7月9 日上棟、同年11月17日に竣工している。こちらも請負は木田組であった。  望楼風の塔屋を載せたグランドホテルと角地の正面をゆるやかな局面 とした面札幌警察署の出現は、中心市街の「時代の動きと共にグングン 伸び行く活発な姿」107としてとらえられ、ホテル南側に建設予定の札幌 市役所を含め、 「二、三年後にはサッポロのビル街!として華やかな一 頁を本道発展史に刻み込むゴ07と報じられたが、さらに筋向かいの北2 条西3丁目では竹中工務店設計の帝国生命札幌支店(1935年)、北3条西 3丁目ではヴォーリズ設計の大同生命札幌支社(1933年)が建築中で、R C造ビル街の誕生は、 「躍進サッポロ」108の印象を強烈に市民に与えた に違いない。   「サッポロの未来を約束づけるが如」き「遊覧船のような華美な巨体 を横たへ」10?た建物は、当初案から何度も設計変更を受け、当初3,030 坪であったのが、最終的に2,799坪127となった。鉄骨量680トン、コン クリート1,000立坪(約6,000㎡)、延人員48,000人の工事であった1。e。  鉄筋コンクリート造の外壁は、黄褐色の「二丁掛テラコッタータイル」 109 ナ覆い、 1階部分を花山岩張り、張出窓の枠廻りや、玄関軒先、3 階蛇腹の装飾は、テラコッタ製であった。宿泊部分と宴会食堂部分は、 外観意匠にも意識的に表わされ、4、5階部分の平坦なタイル仕上げ面 と、連窓の下階とは、装飾的な水平蛇腹ではっきりと画されながら、東 側階段室の張出しが、テラコッタ製の方立で垂直性を強調しっっ、上下 階のつながりを表現している。  開業時の平面図10Sによると、 1階は、北側に突出させたホテル玄関 や、事務室、ホール、グリル、理容室などホテル部門と、ショーウィン ドーにはさまれて引っ込んだ東側玄関に直接通じる物産陳列所と会議室 が独立した構成をとり、2階は、一部吹き抜けの大食堂と東正面のテラ スや配膳室、休憩室、食堂、クラブルーム、小会議室、3階は、和室宴 会場、食堂(洋室宴会場)、パーラーなど、食堂、宴会部門がとられた。 宿泊部門は、4階に和室11、洋室ユ2、5階に貴賓室1、洋室26が設けら れた。  地下1階は、調理場やボイラー室、洗濯室、大工部屋などサービス部 門の他、ビリヤード室、スキー乾燥室や、洒落た都会風の雰囲気が客の 優越感をくすぐったといわれる喫茶室などがあった。  同時に竣工の商工会議所については平面などは省略されているが、規 模についてはrグランドホテルの50年』に記載があるので、内訳を次に 示す(単位:坪)。 107:北海タイムス(1934.11.25) 図1-5-2 札幌警察署     (『札幌市写真帖』) 108:『札幌グランドホテルの50年』P.33 109:『札幌グランドホテルの50年』   pp.172N179. 一一@57 一 f R’f 瀞_運、’G 寸‘ニ臨 環 2 騰 嘉 φ 鶴 ♪ 魂 弱 震 ρ 豊 窟   ㌧   、 ; 弓 ピ 鳶 冤 賛 聖 ヤ ㌦ 躰 詠 ㌔ 一 詳   2 5 , t - 譜 い た耀ツ}ツー罰曽 紅㌔特 ・ ivt.     工  ‘卍 凸 や 臨濫晶 110:『札幌グランドホテルの50年』  p. 76 111:「空の茶屋」開業広告(北海タイムス、  1936, 4, 1) ホ テ ル 会議室 小  計 地階 434,ユ80 ユ55,022 589,202 1階 435,805 147,249 583,054 2階 34ユ,496 72,9ユ6 414,4ユ2 3階 283,0ユ3 68,749 351,762 4階 259,0ユ3 68,749 327,762 5階 259,0ユ3 68,749 327,762 塔屋 90,840 ユ4,333 ユ05」73 合計 2,103,360 659,768 2,799,ユ27  1936年11月、5階屋上に和室を増築、「6階空の茶屋Sora no Chaya」 110 �J業。「味覚のデパート 札幌グランドホテル」111と謳った庶民的 な料理の食べられる食堂であった。  1945年9月26日連合軍将校官舎として接収され、1952年8月31日に解 除された。北海道では、ほかに小樽北海ホテル、越中屋ホテル、登別グ ランドホテル、旭川北海ホテルなども接収されたが、小樽北海ホテルは 1946年6月、越中屋ホテルは1955年と解除の時期はまちまちであったと いう。  接収で荒廃した建物は、解除後、改修工事が進められ、1952年11月8 日から営業開始したが、営業再開時には、!階の物産陳列所、会議室は、 喫茶室と大食堂に変更され、地下のビリヤード室と喫茶室は、お好み食 堂、ビヤホールに、3階の和室宴会場は客室に、ロビーも広々としたも のに改造された。  1964年に隣接の札幌商工会議所移転に伴い、新館(現本館)の新築工事 が着工、1966年6月29日落成し、さらに17階建ての新館(現東館)が着工 されるに伴い、創業時の旧館は、1973年2月に解体された。 参 階 屠 シ 置 ー ウ イ ン ド 翼  冨  」  鯉  嵐 @ 肖工欝勘傭    竃    厘     翼     口 c口                 騨    . @・ ,一,。.刈鳴 6』          轟 @        配 ィ貿 店          嚇 @        蜜 シ F ウ イ ’ ド [ グ E 見 増 場   ■   ● @水一ル・  ●    ● @ 8   hA 伽 動 卓 顧 口    下      [ 事 着 璽 餐瞭 ・・隅鵜・馳 4 塞 爾隔   h     A �@} ロ       ユ            ロのロサ 6ぎ盤麟囎}輯i轄;}  鱈齢㌔,畿儲=瓢}霧穴∴昌 , の                   セ き セ  カ ぎ≡尋麟鵯 籠i蹴=1 .,諾轟51 二=…聾襲艦==:=;∵,読二==二り一 :=lli:諮郷二綴際質盤 寒董攣欝三三攣阻…欝釜1ラ1   ’斌・プアγ嵐) 練履四階 塔 厘   階 鈎’  る StS ■轟 葺・ げコの 紛’ ヨ ‘2ト Sltv 業 SD 三 下 ! ㌻ル  れ      ノぐメし 5㌔   」’孟3 ノゴ ぽノづ  ”ニ  ノ2 瓢 8 膚 勇 s   懲 :sple 嫡・3 魂se- c 壷   階         地     階 図1-5-3札幌グランドホテル平面図 五 四    階 築 海 FK奄m 一58一 一59一 鐘一一幽幽幽幽灘i騨馨購灘灘難山幽幽鍵難li白白灘難一一灘欝i懸灘鐸白白難ご解・…ド・∵㌣響1:響◎饗1濃鼠㍗署1;ぎ.響避鷲響1讐饗:同義懸盤灘i騰籔1綴羅欝欝叢/羅蕪締驚憲1 眠驚∵淋’’”∵謄巳} 』u㍗㌣    ごゾ㌃’、 MY-iNii-t・“一一一一日目i“riiut一一Ni一一Mt一一一iWnfiMM ∵∵c∵∴∵鍔聯ご臓饗難灘羅llt 望脚・莚三慮ピ. wn 蝶門下_“ v        ゆ   二 、 辱 ㍗ , ノ 謬 塗 ■ ■ ..ss 藩 む 一 哩 図1-5-4 小樽組合基督教会 袷 匹 屍 旨 旨 ■ 触 ’ 1-5-2=小樽組合基督教会(1926年)と成田幸一郎  小樽市花園公園に通ずる公園通りに面して建つこの教会は、1926年8 月定礎式、同年11月献堂式を挙げた。1902年7月20日献堂の初代会堂か ら、1908年2代目会堂をへて、第3代目の会堂にあたる。創立70周年に あたる1972年に土台替え、軸組補強、屋根葺替え、礼拝堂天井の張替え や二重窓化などの部分改修が施され、尖頭アーチのがっしりとした玄関 部も3連アーチに変更されて、当初の姿をやや失ってはいるが、全体と しては設計者成田幸一郎の作風をよく伝えている。  間口5間、奥行10.5間の矩形平面に11尺角の塔屋を付属した単純な形 態に、角上部屋根のバルトメントや軒下の尖頭盲アーケード状装飾、主 屋正面の尖頭アーチの大窓など、簡略したゴシック風意匠がみられる。  1階は日曜学校、牧師館、2階は一廊式の礼拝堂で、礼拝堂正面には 尖頭アーチをみせる講壇部とし、露出したトラスの方杖を装飾的に扱っ て、船底天井の単純な空間を引き締める効果をあげている。  成田への設計依頼の経緯は明らかでないが、教会の受洗者、転入会者 名簿に名前が見られないことから・信者としての関わりでないことは推 察される。この時期には、ほかに寿原商事ビル(1925年)などの設計依頼 がみられ、営繕技術者が高聞建築と関わらざるを得なかった状況の一端 を示しているものと考えられる。  成田は、1888(明治21)年2月7日小樽:区石山町で生まれた。1912年東 京高等工業学校建築科を卒業と同時に逓信省経理局の営繕課員となり・ 1914年同省逓信局技手、大臣官房経理課営繕係員を経て、1920年依頼免 官、免官後ただちに㈱鹿児島銀行建築工事監督を嘱託されている・翌19 21年4月、32歳で小樽区に技手として奉職するが、ただちに土木課営繕 係主任という営繕担当部門では最高のポストを与えられている・翌1922 年技師に昇格、!928年には営繕係長となるが、小樽組合基督教会や寿原 商事ビルは、この間の仕事である。以後、!939年に50歳の退職までに、 小樽市小学校五箇年継続設備計画、市庁舎改築を始めとする多くの事業 をこなし、小樽市営繕の歴史に一時代を築きあげた人物ということがで きる。 鴛三門ぐ認裁・・ ・簿・、貿轄揮細響畷7野’一樫簿駅 『 ^ ; 鋼 霧 賊 1奪・冴     イよ ア ψ ∵1≒が一㌣甑    メ・封ミ㌧    忌、惣・ヨ    リ夏野1 ;・薯     琵  ヤ     貸 潅     f~       曜”     軸 の   ・ i’。 一 諒響 麟クー 1 _制」L^_剛   『1 ー ノ         鯉 の 蚤 薩 . ㍊ 聾 \ 鞭 慰 ヒ 4 一 ー ー - 匙 … … 動 ・ 紅 蘭          ご 匙・,《蝋L9・:s L ×lt m’ ?l],lil>t〈1,’‘ D    N ! 撚 x皇 濠 3 奉   ニ ー 副   岬 罎 、 繋 曝 , 》  一ξ凝轍一一tx   も      ヒおギば ロ    陛㌦ ズ .,一ト・1一.      蔑 臨、 図1-5-5 磐茎㌦脳 {・ E 、 ㌧ 》     気 亀 い 嚇 . ~ 薪 ≒ 馬 、 」 ギ 「 論 . 擁 蠣     - p     嫡       刷           ト   =   ’ ぶ   e   鼻 ㌔ .   ・         ・ り 撃   メ 伊 ㌧ 雨 ド ビ パ 嘱響         ’ }     目 し 幣ゆ 虫, { 、 ↓レ.㎝ん’ ゐ ロ ヨ壌 、 、 葦    も 1i 溺・ ギ、         ・  一一慈一一ジ 小樽組合基督教会設計図(玄関部詳細)(日本基督教団小樽公園通教会蔵) 1-5-3=日本メソジスト函館教会ハリス監督記念会堂(1930年)と萩原惇正  函館市元町の日本基督教団函館教会(旧メソジスト函館教会)は、1931 年2月22日献堂式をあげた。鉄筋コンクリート造一部2階建てで、着工 は前年1930年8月10日、同年9月定礎式をあげている。  重厚な安定感のある外観で、二部にはピナクル付きバットレスや、尖 頭アーチを連続したロンバルド帯をみせ、中央入口や窓は尖頭アーチで 縁取り、さらに外壁の二葉飾りや玄関上部のフィニアル風装飾など、全 体にゴシックを意識したデザインとしている。  内部は、説教壇廻りをヴォールト天井やステンドグラスの円窓などで 飾るものの、比較的簡素にまとめており、やはりゴシヅク風意匠を展開 している。両側面には、1ベイに2っ背の高い尖頭アーチの窓が並び、 明るい空間をつくりだしている。四壁の木製パネルも、尖頭アーチを連 続させた意匠としている。説教二二のコミューンレール(聖さん欄)が、 メソジスト派の教会であったことを伝えている。  総工費37,811円74銭5厘、伊藤組の施工で完成したこの建物の設計は、 北海道帝国大学総長佐藤昌介の紹介によるものであった。佐藤は札幌農 学校一期生の15名の一人で、函館美以教会宣教師M.C.ハリスから洗 礼を受けた’12札幌教会創立以来の信徒であり、函館教会の創始者と強 く結ばれていた人物である。  1907年8月大火後に再建の第4代会堂は、1909(明治42)年12月献堂式 をあげたが、設計は文部省建築課札幌出張所技師新山平四郎が関わって いる.新山は1896年文部省へ入省、1903年同省札幌出張所に赴任、中條 精一郎技師のもとで札幌農学校移転新築工事にたずさわった。1907年札 112:『川畔の尖塔:一札幌教会75年史一』  (日本基督教団札幌教会1964.9.13) 藷 痙 一60一 一61一 幽幽羅一白幽幽灘灘繋i灘i難山懸鑛一白灘一白灘懸1一白白白熱烈灘一一白白欝.隅野讐梅毒響… , 席 チ 恥 シ 黙 南 ぞ 瓢 ’ 欝 ㌃羅1総画囎7覧サ戯ガ ・m黶ESt II響三・∵’ .諾_驚薮盛望謂欝饗灘、. 113:履歴については北海道大学庶務部人  事課所蔵履歴書によるm .嘉 1 搬   温 λ 私 べ 一   . ’ . 『 、 醗 1 胆             . 輪巌    傘  1北 1 轡 ^/δ\、 戟@l『 幽     ㌧  一� i l   L     . _ 呑 ( 口 ! 口 嵐 昌 聰 一  一 皿 一 Ol S es 12 0    1    ? 4 ?4尺 図1-5-7 日本メソジスト函館教会第4    代会堂(1909)     (『日本メソジスト函館教会五     十年記念史』) 図1-5-8 北海道大学理学部本館 図1-5-6 日本メソジスト函館教会立面図(1982年実測) 幌出張所所長となり、東北帝国農科大学新築工事を1909年まで担当し、 在任中に小樽高等商業学校本館(1912年竣工)をてがけたことで知られる。  新山設計の第4代会堂は1921年大火で焼失し、仮会堂を経て、萩原設 計のRC造第6代会堂となるわけで、佐藤昌介の紹介とはいえ、営繕建 築家が2代にわたって関与した点で、興味深い教会建築である。  萩原惇正113は、 1892(明治25)年静岡県小笠原郡横須賀生まれ。1911 年関西商工学校建築学科卒業後、河合(弓蔵?)建築事務所入所。翌1912 年依願解雇後、宇治川電気㈱臨時雇い、日本製油㈱建i築工事(1917年)、 大阪税関ほか新序工事(1917~1920年)、神戸高等商船学校(1920年)、第 二十四高等学校(1923年)などを嘱託されている。  1923年8月北海道庁土木部建築課に勤務し、古典的な要素とセセッシ ョン風の意匠を加味した北海道庁立図書館などを担当した。その後1927 年から1934年まで、北海道帝国大学技師、営繕課長(1927年9月26日拝命) として在任し、理学部本館(1929年)、農学部本館(1935年)などを担当し た。理学部では、ロマネスクスタイルを基調に、玄関車寄せの尖頭アー チや内部のアインシュタインドームと愛称されるリブヴォールトなどに みられるように、ゴシックを加味するなど、中世リバイバル様式を得意 とした。農学部では、サラセン風やバロック風の装飾細部を加える一方 で、端正な幾何学的構成を展開するなど、多彩な面をみせていた。 1-5-4=石井喜助と地方営繕事業  建築家石井喜助(1893~1977)は、1920年岩見沢に設計事務所を開設・ 1929年には音江村(現深川市)に事務所を移し活動を続けた。北海道にお ける個入事務所開設の建築家は、本論文で扱う田上義也とマックス・ヒ ンデル(共に1924年から札幌で設計活動開始)らが知られているが、石井 はこの2人よりも数年早く、加えて都市部ではなく地方に事務所を開き、 活動範囲も空知地方を中心とした農村部であった。  石井喜助は、1893(明治26)年6月25日秋田県太平村(現秋田市太平)に 生まれた。父は嵯峨姓であったが、喜助だけは戸籍上、母方の籍となり 石井と名のった。1909年秋田県立工業学校建築科(現秋田県立工業高等 学校)に入学、3ヵ年の建築教育を受けた。卒業後すぐに北海道に渡り、 1912年4月石狩石炭株式会社に工手として入社、新夕張工業所勤務。19 16年4月からは北海道炭鉱汽船株式会社の仕事も手がけ、1918年11月前 り大倉鉱業株式会社へ技術員・工作主任として入社、茂尻炭鉱(赤平村 平岸)に勤務した。  1920年1月大倉鉱業株式会社を辞し、同年2月岩見沢町で設計事務所 を開設した。  1929年8月、音江村(現深川市音江)の4小学校の改築設計に伴い音江 村に住所を移し、自宅の1室を事務所とし、 「石井(建築)工務所」とし た。以後、満州に渡る一一時期を除き、ここで設計業務をおこなった。  音江村時代の設計は、石井が書き残した「最近二種ケル主要設計」’14 より、1933年度から1940年度まで詳しく知ることができる。また、その 前後については、石井宅に残されていた図面や仕様書類等が参考となる。 これらの資料をまとめたのが表!-5-2である。  戦前期の石井の設計活動は、石井の住んでいた音江村を含む現深川市 域を中心とした北空知地方での仕事が多いものの、空知地方全域に広が り、さらに上川、宗谷地方にまで及んでいる。その設計内容は、地方町 村営繕と産業組合営繕の関係がほとんどを占めている。  営繕事業の進め方としては、納内尋常高等小学校工事のように、!928 年9月から翌1929年8月まで、納内村(現深川市納内町)から主任監督とし て嘱託されたり、音江村内小学校改築設計及び工事監督のように1929年 8月から翌1930年12月、1933年1月から翌1934年1月置1935年4月から翌19 36年9月の3回に渡って音江村に勤務などの形態をとった。ただし、納 内村と音江村の最初の2回の勤務は、職員としての雇用であるが、音江 村の3度目の勤務115と、それ以外の市町村では、職員としての雇用記 録はみあたらない。事務所として外注を受けたのかもしれない。また職 員の場合でも、設計監理業務の期間だけ勤務し、仕事が終われば辞める 形態を取り、延べ12市町村もの営繕に関わった。  1943年4月に満州に渡り、建築土木請負会社「玉置工業公司」の工事 図1-5-9 石井喜助(石井家蔵) 114:1933年から1940年までの間に、石井  が行った設計を年度別に列記したが   リ版刷りのもので、石井宅に数枚残  されていた。 115:最初の2回の音江村勤務は、 『音江  村事務報告』(道立文書館蔵)の1929  年度、1930年度、1933年度、1934年  度版の「有給吏員調」に技手として石  井の名が見られる。しかし、1935年  度、1936年度版には、石井が勤務し  た記述はない。 一62一 一63一 偽 瑠 灘灘灘灘難難一白灘籔一難灘白白自白il羅ii一一款.._ 一f ・一J x}”’;一p Y’.1     瀞 羨,講 響 t 卜 [ ’ p 一’ ケ㍗「▼ 主任を経て、翌年6月から建築土木請負会社「日露工務所株式会社」の 取締役及び工事部長として終戦を迎えた。1946年10月満州から引き揚げ、 再び音江村の自宅で設計活動を続けた。戦後の設計も町村営繕と農協関 係が多いが、活動はほとんど現深川市内に限られた。1965年代まで精力 的に設計活動を続け、1977年3月28日、享年83歳で他界している。 表2-5-2石井喜助設計一覧 一 1 ! 2 図 音江村音江西尋常高等小町校    ☆ 平 書図 ○ 音江村内大部中央尋常高等小学校  ☆ 平 図 音江村内大部尋常小学校     ☆ 平 図 ○ 畳寒易蝿同、(現浜県別町) 増築 平 図 ○ 下嘲1簿高小(現浜噸別町) 増簗 平 秋田県太平村太平尋常高等小学校 2 音江材産業組合煉瓦造:倉庫 納内村産業岨合倉麗 北辺村板谷農掲産業組合倉庫 浜頓別産業組合倉庫 1934 」  ’         ノ 平 多度志村宇摩尋常小学校増築 平 幌向村南幌尋常高等小学:校及び鞍殿 平 幌向村費幌尋常高等4補血及び遜安殿 平 幌向雲鳥翠尋常小学校及び簿安殿 平 音江村産業組合:燦:瓦造倉庫 潮1町信用組合煉瓦造:禽鷹 上北龍産業組合RC造:倉厩 江部乙村産業粗合石造倉嵐 幌加内村産業組台雌倉鳳 新十津川村信用組合上徳富煉瓦造倉直 新十津川村信用組合RC造倉庫 3棟 幌向村鷹合煉瓦造:倉1竃 上川郡鑑別村旭農場産組煉瓦造倉庫 上川郡上多寄産組煉瓦造倉庫 2棟 13 沼田・      ノ 多度志村役場庁舎 平 書図 ○ 音江村産業組合肥料配合所・煉瓦造倉庫 秩父別村商業組合煉瓦激倉躍 新叩網q愚僧用組合下徳富事務所 平 新十津川村信用組合倉庫 幌向村教員住宅2棟 1 o  b        口         ●        口 平 秩父別村魔業組台薫瓦造倉庫 2棟 幌加内村産業組合嬬コ駈倉庫 1 ¥   ・        ノ 平 沼田村共成尋常高等小学校増築 平 沼田村奥御斜尋常高等小学校増鎮 平 多度志村石橋尋常高等小学校増簗 平 多度志村五内尋常高等小学校増悪 平 多度;㈱尋常4瞠校 増築 平 書 多度志村鷹泊尋常小学校増鎮 平 書 音江:村敦員住宅5棟 音江村産業組合集乳所 一巳村産業組合RC造書庫 一巳村産業組合煉瓦造:倉圃: 書 沼田村畳畳組合煉瓦造倉庫・作業場・ 四分工場○◎乞鯉「・卿寧イヒr繭r勾讐場 頼向村産巣組合事務所購買部 2 ○ 洩野雨龍翌翌㈱浅野炭砿(現沼田町) 事務所・雄風合宿所・坑夫合宿所・ 社宅5種類・浴掲ほか  1 k龍村碧水尋常高等小学校・教員住宅 2 平 ○ 幌向村設張太尋常高等小学校 平 図 音江村教負住宅 多度志青年会館 2 書 ○ 多度志村産業組合倉庫 一巳村産業組合煉瓦造倉庫 江部乙村産業組合石造倉直 秩父別村産業組合煉:瓦造倉庫 北龍村板谷農場産業組台煉瓦造:倉簸 幌加内村産業組合倉庫 添牛内村産業組合煉瓦造倉庫 沼田村産業組合倉庫 1 、 北龍村役場村長住宅・顛住宅 音江村産業組合肥料配合所 音江村産業組合:煉瓦遺:倉庫 書 深川町産業組合石造:倉厳 多望志村産業組合事務所店舗 2 沼田村産業組合事務所 2 沼田村産業組合興野濃墨 添牛内村産業岨合事務所 増築 幌加内村齪墜組合羅切鷹 北龍村板谷農場産業組合煉瓦造倉塵 幌向村懸巣組’合煉瓦造倉曜 幌向村産業罎台精米飼料配合製縄工場 長沼村商業組台煉瓦造:頭型 滝川町蔽巣組合石造倉庫・木造倉庫・ 欄      !ョ川布職巣紹介所増隻柳糖 2 図 音江村巌業組合加工場 多度志村産業組合幌成倉置 北龍村板谷農場産業組合 和加工場・憩水力出場・肥料同塵 秩父51肘産業組含醤油工場’加工場 滝川町産巣組合倉醸 働ロ内村灘合正和倉鷹 上川郡卿刷村産巣組     鷹 、 莱童巣組合    ぴ店舗 2 図    1     口 ケ江村吉住国民学校鞍置 書 覧 1943 ・ 丘国            … 平 1948 」 2 1949 江・ 丘ノ・             ※ 平 1950 ・ 江               ※ 平 音江村向陽中学校        ※ 平 慈 ○ 音江村吉住中挙校        ※ 平 ○ 多度志村幌成中学校        ※ 平 ○ 1901 江・                × 平 図 音江村内園小学校 増築 平 図 ○ 多度志村幌成小学校 平 ○ 音江村公営住宅1号 書 ユ952 ・ロ陽             ※ 平 多膨志村多度志中学校体育館   ※ 平 感 音江村菊丘小中学校体:育館 平 図感 ○ 多度志村湯器小学校 平 図 ○ 193 ・ 田公            ※ 加納邸 2 図 音江村役場庁舎 増築 2 図 ○ 154 脇・                ※ ’ 多度志村字摩小学校        ※ 平 感 ○ 多度志村幌成小中学校屋内    ※ 平 感 ○ 195 江・口陽             ※ 平 1956 RC 2 1957 」・    区         ※ ’ 多度志村役嚇 増築 平 図 ○ 多度志村農協倉庫 感 1958 江・口                ※ 平 音江村内園小学校体育館 平 図感 ○ 音江村向陽中学校体育館 平 図 1959 し』  、 平 図 北竜村農協碧水乾燥場(RC造) 2 図 北竜村農協RC造倉庫 平 図 160 江・ 平 音江村農協木造:倉庫 平 図 1961 平 富1崎邸 2 図 幾 2 図 音江村共同種付場 2 図 多度志村誌艮館 2 図 ○ 多度志小学校屋内体鎌場 平 感 ○ 菊丘小中学校体育館 ステージ増鎮 平 図 ○ 江部乙農協農業倉匝 感 1 石 醐 2 図 一乗寺納骨堂(ブロック造) 平 図 多度志町幌成小中挙校特別教室増築 平 図 ○ 多度志町教員住宅 平 図 多智志町診療所 増箕模様替 平 図 音江村消防会館 2 図 度志農協亭務所店舗 増藥 2 図 ○ 1963 太田 2 上田清一邸(ブロック造) 2 図 宮田善郎邸 2 図 音江1農協更進支所 模様替 2 図 音江農協資材店舗 平 図 雲母農協石炭油墨 平 図 ○ 音江食糧検査所・住宅 2 図 音江中学校 特別教室増築 平 図 多度志町鷹泊小中学校増築 平 図 多度志町立家政女学校 増田 平 図 多度志町弥栄消防番屋 2 図 1964 Il     及 冒 平 音江農協第二豚舎 平 図 多麗志町鷹泊教貝住宅 平 図 多型志町公民館幌成分館 2 図 音江村農協精米場及物品倉直 補修 平 図 165 2 図 岡本邸 2 図 納内伊藤旅館 2 図 音江農協亭務所 増築模様替 平 図 ○ 多度;志町公民館鷹泊分館 2 図 雪辱志町役場庁舎 増鎮模様替 平 図 ○ 多度志町役場車庫 2 図 1966 谷口 2 1967 田 2 襯 2 図 某住宅 2 図 1968 深∫1 図 加納邸 2 図 雨竜農協曽田樺布邸 2 図 音江農協梶本邸 平 図 音江農協ガソリンスタンド住宅 平 図 19 2 長谷川邸 2 図 山西功邸 2 図 音江農協LPガス格納庫(ブロック造) 平 図 ○ 不明(2戸1住宅) 平 図 北空知信用金庫 2 図 191 庄記 ①年次は設齢年で表わした。般計年不明のものは竣工年で表し、  ×印を付した. ②資料 「書」・・仕撚欝.積算書他工事関係書類が残るもの    「図」・・設計図が残るもの 「感」感幽状が残るもの ③階(階数) r平」…平載建 「2」・・2階遮 ④現存 1992年時点で現存が確認できたもの ⑤☆  1933年設計の音江村内4校は、1935年に再般計 一64一 匙ご11;轡璽鰹灘無撫灘欝響議鱗黛縷韓驚獄籍譲撫饗:1潭嚢撫鰯罫㌻鍔野Tl鞭響1・凱 e sP[ .一3一.. . 1-6 外国人建築家と北海道  戦前期に北海道に居を構えて設計活動した建築家としては、滞在期間 がわずか3年半とはいえ、マックス・ヒンデルが最初で最後の人といっ てよいであろう。ヒンデル来道前後にも、外国人建築家の作品はみられ るが、いずれも道外在住の建築家である。  古くは、J.J.スワガー設計の厳律シトー会灯台の聖母トラピスト修 道院本館(1908=明治41年)をあげることができるし、W.M.ヴォーリズ 設計の大同生命札幌支社(1933年)、遺愛女子高等学校集会室(1935年)や 北星女学校女教師館の基本設計(1923年)、ガーディナー設計の札幌小田 良治邸(1913年)などのほか、函館英国領事館(1913年)のように英国上海 工事局といった在外営繕組織設計の建物が知られている。  本節ではヒンデル以外の外国人建築家の例として、外国人営繕組織の 英国上海工事局と、建築家ではないがカトリック施設の設計を手掛けた フェルゲット神父の2例を取り上げたい。 上海工事局と旧函館英国領事館  函館市元町33一一14に所在の函館開港資料館は、旧英国領事館の建物を 転用したものである。1913年副領事館として新築落成し、創建時には副 領事E.L.S.Gordon、 Shipping Officer(海事監督官)John Wil!、書記 畑中昌太郎らが同居116していた。  この建物の設計図書がPublic Record Office(英国公文書館)117に所 蔵されている。「Maps and Plans:Public Buildings O▽ersea」中、 WO- RKS40に分類されているもので、212~215の4葉である。同分類には、 ユ872(明治5)年の配置図211も含まれている。  WORKS40/212(図2-6・一2)は、 rHAKODATE:Proposed Rebuilding of Vi- ce-Consulate Plan of Boundary Wal1」(1912)118(酉己置図および周壁の 平面、立面図)のタイトルがつき、縮尺「16feet to an inch」(1/192)、 WORKS40/213~215までは、同じタイトルrH.B.M.Vice-Consulate HAKO- DATE」がつき、縮尺はいずれも「8 feet to an inch」(1/96)、「May,1912」 の記入がある。  図213(図1-6-3)は平面図、図214は断面図および使用人棟立面図、図 215は主棟の立面図(図1-6-4)が描かれている。212~215までの図面には、 いずれも設計機関であるrH.B.M.Office of Works, SHANGHAI(上海工事 局)」の記載がある。従来、英人技師キーツの名が挙げられており11s、 工事局の担当技師の可能性も高いが、これまでの調査では特定できず今 後の研究にまちたい。  副贋皿   川凋 藷駕運離磁.魯鐘 図1-6-1 旧英国領事館(1960年撮影) 116:『ジャパン・ガゼット英文日本人名  録』(市立函館図書館所蔵) 117:Ruskin Avenue Kew, Richmond Sur-  rey TW9 4DU, London 118:図面には年号の記入はないがWORKS  40のファイルに記入の年号による。 119:坂本勝比古『明治の異人館』(1965.  9)に村田専三郎氏談として掲載。 卜 一65一 ”㌶興「・1轡胡響.響ツr響饗讐鑓響1聯欝マごk’・避欝驚騰蛭響貯、穫、 繋 馬 瞥 鎖 ’ ガ ボ し 藁 塁 渉 “ ヲ t 一 軌 L 5 撃 「 銑 ∴ ㌻ 子 士 ∵ 蝋 も ’ 渥雛もギW ’tS ”l/ 1 J一 n) き   「㍉    ノ imjilsma ih“ Le“i2tin.uzi.,tsitL.一lsei ∴1.鹸隊㌶欝欝璽鍵難  ・、E.’sH     略翼瓦二、ゴ.↓ 120=新川珠子氏(小樽昭和高校勤務)の教  示による。 121:「フランシスコ会北海道布教小史(二)  」(『光明附録』1957.1.20発行) 122;『函館・宮前町聖ミカエル教会改新  築記念誌』(1965.Il,7) 123;『倶知安カトリック教会五十年記念  誌』(1962.7.8)では、フェルゲット  の在任を1911年7月一1919年9月とし  ているが、ここでは三二『回顧五十  年』によった。 124:『回顧五十年』 (小樽)天主公教会  (1941.6.25) 125:沖田啓子氏(三浦才三子女)からの聞  き取り。 126:新川珠子氏からの教示。 フェルゲット神父  専門の建築家ではないが、カトリック系の宗教施設の設計者として、 札幌カトリック教会司教館(旧会堂、1898二明治31年)のラフオン神父や 灯台の聖母修道院附属円聖堂(1915年)のイヴォ神父、ヨハン修士などの 名が伝えられているほか、札幌カトリック教会聖堂(1916年)や函館亀 田教会(1912年)のインテリア設計のフランツ・フェルゲットのように、 絵画や建築の素養をもつ神父の設計もみられた。  フランツ・フェルゲットは、1876(明治9)年8月24日オーストリア生 まれ120。ローマのサン・アントニオ大学で修学したばかりの1909(明治 42)年6月4日、札幌に着任した121。「絵をかくのが上手」z21で、『フ ランシスコ会北海道布教小史』IZIには「古い教会になら今でもまだ、師 の彩管を揮った絵がどこにでも見られる」とあり、また数々の祭壇の設 計図もかいたという’21。  1912年9月竣工の亀田教会小聖堂の内部装飾もフェルゲットの設計で、 「狭いながら落着いた、いかにもフランシスコ会のものらしい祭壇と飾 りで」 「周囲の窓硝子は色硝子をはめて全体がうす暗く、天井からはハ イカラな花飾りの電灯が下がっていた」122。信者でもある松川豊吉が請 負った122。教会には、フェルゲットが描く聖フランシスコと聖アント ニオの絵があったという121。  亀田教会の基礎は、1901(明治34)年ベルリオーズ司教が購入した民家 に築かれたユ22。1909年6月フランシスコ会が引継ぎ、翌10年モーリス・ ベルタンが派遣された。まずモーリス設計の修道院が完成、7月14日祝 別され122、同時にフェルゲットとヘルクラン修士とが転任となった。 同教会は、1915年3月フランシスコ会から再び外国宣教会の受け持ちと なっている122。  フェルゲットは1911年7月から18年1239月まで、倶知安天主公教会司 祭として在任、この間に1916(大正5)年竣工の札幌カトリック北一条教 会の設計も担当したと伝えられる。1918年9月小樽:天主公教会司祭とし て着任、在任中の1928(昭和3)年8月24日、小樽市富岡町に聖堂工事を 起工した124。設計施工は三浦才三と聞く125が、フェルゲットの深い関 与があったことも推察できる。聖堂は1929年6月30日に献堂式を挙げる 124 ェ、フェルゲットは完成を待たずに、その年の2月11日札幌へ栄転 した124。  1932年12月から翌年4月まで札幌北十一条教会の主任司祭に着任する が、重い糖尿病をわずらい、1940(昭和15)年札幌フランシスコ修道院に 籠居後、天使病院に入院し1944年7月25臼昇天した。享年67歳であった 12e Bフェルゲットについては、以上の在職経緯が知られるのみである が、カトリック系宗教施設の設計者として注目すべき人物といえ、関与 した建築作品や装飾など今後の研究課題として残されている。 f t ぽ ◎ 9 監 て 響 ■ r 肇 9 嘗 。 塾 し-NL F . i , 1 甲 看 国     } ~ ~ 一 → 1  鵬__‡、 1       ⊃齢凶肉     ’ 図1-6-2在英資料〔図212〕(配置図) 牒549ん5        誓 ε 儲 ぼ’ .・一 1 ; 一一一 ct.; . ラ   ノ ミγlIl 駒閥の\ @〆  r: kS.[, ワ亀 ㍉ 1・:堰CL 」→一晶一躍”       一 語 ご 」 1 切 辱 . : Wi . ] 算 御 し : 関 1日 、写     ゆT●        、 @        幽,    2臨g    一 P 勘「灘」図駐h」L【 P 、  紬     ,一    一   ρ鱒 o 「       噛 …1御卿 於 怪 . ■ : し 疇 ● 晒 一 2 ● \ 蘭   ● 騨 劇 噛 ● 」 ● ’ 鱒 L   ● o           鮨 圃 胴 隔   髄 辱           レ 亀 繭 圃 L   b 購     r       」 鴫 ■ 6   6           叫   し 6         L 一 俸 籟 ■ ● 瞬 1   賢     鷲   ● L         ■ 噸 画 隔   鱒9●黶ゥ一一・一一つP   」 _ r   5 ! , い L勝』9卿隙 一   晒 }       魅 ー ユ 41 一= 」■隣  。 障 も 齢 巳 即 8 , 響:o噌酔「一一層一一一 @1    1 1         1 J: 1 一 ’ , 騨        鴨              醐 @」圃■曜覧 駄    b’●恥1 @  5@ :@1   ,凱__向L.___ 噛 , 図1-6-9 札幌カトリック北一条教会 臼_蝕巳h.i ぬ    ロロ リ い ピコ  覧   ロ ロ ゆ ロ 旗・ 総  漁  顔 図1-6-3在英資料〔図213〕(平面図) :N.臓.三把●co二二二二: :trhmmme: : ’e2rv EAsT ltumxlow 圃i 興 鋤w月曜鮎に領 s   6r   ・ノ.高      [ ,       P 「 思思里 三二二 ム思千里 1 圃思 囲圃毘属肺.   鴨    ・ ? 轟・ ■   腫  口 編 ま    1:S〈):irrtt r)N,sT eunTvorh(’1. 菖  6,腔丁㌔植■r験  ●   一   一     一噌蓋富」」」ぜ一 図1-6-4 在英資料〔図215〕(立面図) uT”Wtsr eaunoec l T=. :;=一rpt....一一        .r et, ・, . 一66一 一 67 一                                                                                                                            g 野曝幽幽幽幽幽幽幽幽幽幽i雛灘1白白i魏一一白白癒白白霧驚蓼玄蕪難白白響1::{1;驚灘凝1攣驚欝1ゴ灘耀総記騰雛饗響繋鰐難論灘響響饗豫灘、灘繋難;鰍簾. 窒 溺 寒 享 % 旗 ご 騰 噺 朔 卜 軽 レ 国 際 ¢ シ ㍉ } “ ’ ~ ず 7 、 牡 ミ 鵜 ト 之 , 鴛 襲 手 く ㍉ “ ㍉, @ ポ 第2章 博覧会 里 囲 ・圏 眉三 図1-6-5北側復原立面図 耀 }川・ 囲  羅1 組畳 囲 囲 囲 里 Mmefeet ii Il・i目 iili ii”1 L 蔦。.2 『ミ、 VERAN O. 5Feet XNt 図1-6-6 西側復原立面図 0000 NX し 2 F 瞭醤s 鵬’   }T ㌣騨 Y1酷柑 」 ! 」     匪 」 毒ll L r 一 」 一 L 「 5 rTtr rr sEnvMT 駈鷺》剛7 savANr SEIrvMT 図1-6-7 主棟断面図 聖撃 綴 × 、L醐蹄6 器錦    麗D剛。側麗D■o鰍     隔◎。1 髄92 NLC口縦 :/lWl曙 漁酬 図1-6-8復原平面図  ll,圃 iiiillli … ㎜ …  1918(大正7)年の開道五十年記念博覧会は、1914年東京大正博覧会も 手掛けた中條精一一郎を顧問とし、曽禰中條建築事務所の中村順平が担当 した。北海道における本格的な博覧会の第!号といえるものであり、ま た大正期の市民生活に新しい息吹を吹き込んだ大きなエポックでもあっ た。  この博覧会を契機に札幌電気軌道㈱の電車が開業し、現在の札幌市営 交通の基礎がっくられた1し、巡査・郵便配達・車掌などの制服の採用 2、女子や子供に至るまでの洋服化への移行2、洋食店や酪農品などの発 達など衣食住全般にわたる極めて大きな変化がみられた。  準備に数年を要した大規模な1918年開道五十年記念博覧会に続き、5、 6年周期でいくつかの大きな博覧会も開催された。1926(大正15)年には 「国産振興博覧会」、1931(昭和6)年「国産振興北海道拓殖博覧会」、19 37年には「北海道大博覧会」が開催され、「本道ノ面目ヲ発揚」3する大規 模なパビリオンや「瀟酒な」4セセッション風 ドイツ表現派風のデザイ ン、 「垢抜けのした」5パビリオンなどが出現し、夜ともなればイルミネ ーションや投光機の照明が博覧会ムードをいっそうかきたててくれた。  もちろんそれ以前にも、農業博覧会や物産共進会、畜産共進会といっ たものが多数開催されている。北海道における物産共進会の開催は、18 78(明治11)年10月札幌で開いた第1回農業仮博覧会6が最初である。そ の後1882年まで、札幌、函館と交互に毎年開かれ、1883年に初めて北海 道物産共進会と改称し、この時から根室も交代開催地に加えられた(図 2-1-1)。1887(明治20)年まで毎年開催され、その後中断し、1892年札幌 開催の共進会(図2-1一一2)が最後となった。  以後、各面区町村で小規模な品評会、畜産、果実、工業等の専門的な 共進会は多数開催されたが、全道各種の生産品を網羅した共進会は、19 06(明治39)年の北海道物産共進会まで中絶することになる。  表2-O-1は、これまでに筆者が収集した博:覧会・共進会の一覧である。 未完の試みであり今後の研究によって、さらに増える可能性は大きいが、 開道五十年記念博覧会より前のものは、いずれも道民の殖産興業に対す る啓発を目的とした物産展の意味が強く、施設設計も地味で、博覧会と いう華々しい名称には程遠いものであった。 ユ:『さっぽろ文庫7 札幌事始』 (北  海道新聞社、1979.1.30) 2 『札幌生活文化史〈大正・昭和戦前  編〉』(札幌市、1986,2.20) 3 『開道五十年記念北海道博覧会事務  報告』 (1920.3.30) 4:『国産振興北海道拓殖博覧會誌』  (1932.8,20) p.11 5:『国産振興北海道拓殖博覧會誌』  p.53 6:1883年に北海道物産共進会と改称、  1887年までほぼ毎年開催されたが、  1892、1906年のi共進会以来は久しく  とだえていた。 一68一 一69一 濫1攣一士自己欝欝灘灘懇i白鷺饗灘懸白白織鱒鱗撫自白i白白白糟罫出山1響・’ “rer- ?三」㌧ぞ一嬢 ~ 卿  溺サ  ,..t ts,、・隈 綬,ρ騨認粋メ 評紙・ 、一 t 臣 「 1 胃 H 臣 ド H 詳 5 ㍊ 書 郵 詠 爵 ’ ‘a_堵‘ 町、η 己 へ t 障 両 ル 謁 、 施 謬 瀞 難牲騨勢・ 》     一 、   n   , 幽輸…藤蛉球脚野ヤ        _us  _ 表2-0-1北海道における戦前期の主な博覧会・共進会一覧 考 備       ]         ] 田   ]   幻             ]       表         表 1     9     1               表       差               年 報       -       報                     ζ }       蟹               撰 「 し     韓       「 し                     士 叩 ]     ] 蕎 「 」 ]       蓋 ]       「 」 ] ]         「 」 「 」 ] [ 「 」                 「 」                                                                                                                                         「 」 1 0 刻 轄 ■ 4 1 0 幻 ■ 臓 ] 刻 4 窺 ] 刻 戴 1 0 財 田 1 0 明 日 剥 切 1 0 引 田 刻 刻 切 切 幻 妃 ] ] 心 田 切 朝 月 釦 田 胡 輔 翼 田 羽 土 製 コ 切 丁 田 ] の ] 切 司 8 コ 日 和 切 刀 7 1 史 年 代 史 更 中 年 史 撰 史 隼 車 室 丁 年 室 史 室 1 吏         1 史 1 1 僅 銭 1 1     1 吏 更       1 年 年       一       ユ     一 1 笑 1 1     更 1 吏 1 1     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〔鋤3]『小樽海港博覧會誌』(S7.4,10)[文被コ7小樽文化史.1(S49.11.3)[韓1]7後志物産共進會報告書』 [報2〕『網走外三判物産共進會報告』(T6.4.7)[93]『大童記念空知外航郡物産共進會報告』(T5.8.15) 臓4]『上川外四刻旭川匠聯合物産共進會報告』(T7.2.25) 臓5]『第三回槍山外五輪物産共進會事務報告』(T12,9.15)隊6]『小樽商品陳列會報告書g(II41.12.23) 騰7]『室蘭外五明物産品評會及第一回室蘭外五郡畜産共進會報告書』(M42.12,28) [戴8]『第二回十勝物産共進會十勝網走聯合馬匹共進會第二回十勝畜牛共進會事務報告』(T6.3,15) [K9]北海道:庁r国産愛用巡回展覧巌々誌』(S6.3.25) [範O]北海道庁経済部商工課『北海道新興商品展覧會々誌』(SIO.3.) [報11]北海道工業試験場r工業資料展覧會報告』(S6.6.30)[塑2]根室県勧業課『北海道物産共進會報告』(M19.2) [轍3]北海道庁『北海道物産共進會報告』(M25.12.28)[報14]『北海道物産共進會報告及審査報告』(M40.9.23) [軽15]日高三業三目『第九回日高國産馬共進會第九回日高物産共進會報告書』(T5.3.10) [報16]日高三業直門『第十回日高國産馬共進巷議十回日高物産共進會報告書』(T6.2.5) ⊂鞄7]『御大典記念檜山外層郡物産馬匹共産會報告』(S4.6.1) 臓18]札幌県『第三回札幌農業仮博覧会報告』(M. 16.3)[報19]札幌県『北海道物産共進會報告』(M17.10) [韓2◎]札幌商業会議所r第三回札幌工業品々評會報告』(T8?) 臓21]札幌商業会議所r第五回札幌工業品々評會報告』(S2.8) 一70一 一71一 豊 藩,1廻:幽幽難曲幽幽1幽幽難難i隠釦難講i難蕪i白塗一白難総{自白順応順順灘螺讃山野・曽響誉ll:讐想望饗騨糠!騨耀蝉灘饗熟鴫ζ態縛頴獄3饗灘鐸叢誌騨難欝蟹馨民謡難欝i羅灘難翼灘懸膿犠磯繊欝i黛騨驚薩 受 、 一 ^ ぎ 、 ㌧ ら ピ欝気酬轡轡脚管w∵〆讐蹄∵讐’搾∴二〕∵ツ∬警∵即嘗ll:ダ解欝欝鰐響霧慧難轟                                      4)覧                                                    L L2 ’.zai.”一;h l t 図2-1-1北海道物産共進会(1886、根室県)(『北海道物産共進會報告』1886)       x 蟻   × 2-1 1906年北海道物産共進会 ” 図2-1-2 北海道物産共進会(1892、札幌)第一館(『北海道物産共進會報告』1892) 敏 喪 魯 ゴ テ 一 翼 婿 5 り 瞑 覧 人 幽 0 ム γ 了 底 煽 ウ 肩 惣 罷 ・ 要 6 観 ● 殿 轡 ロ メ 「 ー ー 噸 i + 響 塞 眉 香 炉 塾 憂 ● 鶴 解 輻 用 【 懸 鯛 ● ■ 亀 漸 鰐 “ ■ 霞 鱈 酪       顯 二 誤 … 講 7 属 倉 7 聡 曾     ’ 峯   庫 O 鱒 喫 亀 ノ  墨 憂 冒 髭 鱒 欄 ノ 賃 昌 ロ 曜 7 偶 蟹 曾 貿 錫 一 翼 婿 F  「 し 納 人 幽 0 底 煽 ゴ 欺 負 實   貸 傘 寓 轟 5  億 菱 寄 犀 下 足 顕 斎 ウ 零 魂 賃 コ 横 馨 剣 工 馨 唖 温 ■ 需 朗 龍 轟 テ 引 起 ! ● 縣 僧 ア 蟹     斎 サ 噛 駒     ほ キ ¢ ピ ↓ 穀 竃 一 匹 饗 簿 / ’ ! ! ! / / /         /       /     /     {s    ノ                を   ノ      ド  ゆむ //二,『雨「㍉ ’触・一b● @凹 ,’;t一「 ” 」“ 一 ’㌧一一一   ゼ ハ ア ロに    わ      へ  ぎ   の     ’∴二:慰 .r ’ ’// / 〆 σ / / ヨ 臼 ヨ }           一 -     ・ ・         テ レ        ロ   量 し 。 。 を     軍 ● ! 呂}p コ   一な }   ××〈llli 。 甲 G          tt一]・申き                     国    ∵白旦:凹  鶴創 。 )一 〇臼二_」3。園’〔コ凹  輪 ’.. k凸 / / / / ’ ’ \         ノ    煮、   沌〕\     ヒ       ね  ロド  ヘ コロロの 図2-1-3 北海道物産共進会(1906、札幌}会場配置図(『北海道物産共進會事務及審査報告』1907)  1906年の北海道物産共進会は、第1回農業仮博覧会から12回目にあた るが、11回目までが開拓使、北海道庁の官設なのに対し、こちらは北海 道農会、北水協会、北海道蚕糸会、北海道畜産協会、北海道林業会・北 海道園芸協会の6団体の共同事業であった。  会場は札幌中島遊園地、期間は1906年9月10日から30日までの21日間 であった。会頭は北海道庁長官園田安賢、副会頭道庁事務官第一部長大 塚貢ならびに札幌農学校長煩海道農会長佐藤昌介が務め、 114名に及ぶ 評議員が関係し、実務は、庶務係、出品係、会場係、会計係、審査係の 5係が担当した。うち陳列館やその他の建築、配置計画などの設計は、 会場係が掌握した(図2-1-3)。  会場係の構成は、係長道庁技師池田音次郎、係長代理藤村信吉や道庁 技手湯浅純彦、小泉粂次郎、菅原庚午郎、江刺家昂、國分茂八、道庁技 術員家田於菟之助、橘高茂一郎、竹越小一郎、坂井菊次郎など総勢17名 であった。  この会で使用した建築物は28棟1,041坪5勺。うち新築は21棟753坪5勺、 在来の建築を修理充当したもの7棟であった。新築建物のうち、最大の 建物でかっ閉会後も永久保存とされ、開道五十年記念博覧会では農業本 館として使用され、1958年6月まで建っていた第一館(図2-1-4)が注目さ れる。  この永久館である第一館の設計大要が、 『北海道物産共進會事務及審 査報告』(1907年9月23日発行)に詳細に収録されている。多少長いが、 建物の概要を示しているので、要約して以下にあげる。 礎 (1)基礎工事:幅3尺5寸、深4尺以上布喫し、栗石、目潰砂利入れ。厚1  尺毎に6◎貫目以上の重量の真棒で突き固め、その上にセメントコンクリ   ートを厚6寸に敷き詰め、上に焼過煉瓦の上等品を長手2枚半ないし1  二半ユ3層積みとし、床下換気窓の上下は硬石。 (2)正面玄関及び各非常出入口の階段:硬石の小叩き仕上げ。据付け土間は   コンクリートで、その上に焼過ぎ煉瓦を網代形に敷き詰め。 (3)中央2階部:梁間7間、桁行9.5間、建坪66.5坪、軒高土台下端より軒桁   上端まで34尺、軒出ユ.3尺、小屋組は「洋式睦屋根形」、方形造(マンサ  ード屋根)、勾配1尺1寸。屋上に幅3間、長さ5.5間の露台を設置、周   囲に高欄を取り付け、床は「ラバロイト」の上、セメントコンクリート敷   き詰め。中央に方ユ0尺隅切形の塔を設置。塔の高さ露台上端より軒桁下  端までユユ尺。屋上避雷針を設け、地上から避雷針先端まで高さ79尺。 (4)左右本家平屋部=各梁間6間桁行6間、左右角家は各梁間6間桁行11間。  合計坪数204坪。軒高は、土台下端より軒桁上端までユ7.5尺。晶出1.25  尺。小屋組「陸屋根形」方形造(マンサード屋根)、勾配1尺1寸、陸屋根  勾配は2寸5分。屋上の所々に半円形または切妻形の屋根窓を設置。 (5)構造:柱5寸角、陸梁5×9寸、合掌5×7’寸。小屋組は5~6分の鉄  ボールト、平鉄で締め付け。 (6)内部:床は1寸板本実矧。壁は木摺5度塗の漆喰。天井は格天井。 図2-1-4 北海道物産i共進会(1906)第一     館(『北海道物産共進會事務及     審査報告』1907) 一72一 一73一 i f 幽幽幽幽幽幽幽幽幽幽自己灘難難一白灘灘旧劇白鍵鷲鷺灘鍮鑛雛欝繍;懲一襲讐難1鷲響驚熱論海鼠轟轟蝋驚護総総無熱論難難 鱗欝難雛灘懸纏懇鱗灘難三1器灘 匁 矯 、 “ 蚊 ” メ く 1 虐 - 唱 弔 一 9 鞠 評 で { 嵐 勾 マ { ⊃ も 《 ! 引 塚 滋 寵 rei R g ・ , ’ 蜂 ば 「 ” 畜 蜂 ,傷ムeLa 馨 鱈 7:『開道五十年記念北海道博覧会事務  報告』P.2 8:1867(慶応3)年岡山県備中国吉備郡  足守町生まれ。1884年県立岡山中学  校退学。鉄道局建築課勤務。東京芝  区攻玉社量地校数学専修科入学。昼  は、英国建築技師ツリビヂックおよ  び工学博士山口半六の教えを得たと  いう。1886年攻玉社卒業、1888年鉄  道局依頼蘇雇、文部省会計局営繕係  雇、1891年文部省依頼解雇、新潟県  土木課勤務、富山県、岡山県、奈良  県、静岡県などに短期奉職後、1902  年北海道庁に勤務。1908年より土木  技師として活躍した。 9:他に属竹内勝次、技手三浦吉四郎  (兼務)、神尾正(同)、高橋正男(同)  らの名がみられる。        しみ 烈1騰灘麟鱗Y〆 げ                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    ド                                                                                                                                                                                              ヤ 晒,1・噛一感 如婦軸幽圃 ・嚢鑛.   沁 F (7)外部:付土台上は厚8分幅8寸の板で、「石目明き6分に」垂直に打ち付   け、入口、窓際は化粧柱、隅は定規柱と柱型で2本とする。軒先は蛇腹  形。 (8)用材:えぞまつ又はとどまつ。鼠色ペンキ3度塗リ。 (9)屋根:6分板張リあわせ、その上に2寸足の土居葺きを施し、さらに亜  鉛引き薄鉄板8ツ切を菱葺き、上にコールタール2度塗リ。 (ユ0)窓1内法3尺、高さ7尺5寸の二連窓。南側は幅3尺、高さ1尺5寸の  欄間を設置し、採光面積を床面積の約ユ/4弱とする。  第一館の建築工事は、大島喜一郎(札幌南4東2)、大倉町土木請:負 部(同学3東2)、阿部久四郎(同寸6西6)、伊藤亀太郎(引回8西2)、 篠原要次郎(同北4西11)、阿部與之助(豊平村)6名の指名入札とし、19 06年4月入札の結果、篠原要次郎に落札し、同年9月竣工している。 2-2 開道五十年記念北海道博覧会  1918(大正7)年、 「明治二年開拓使設置以来既住五十年間」の本道に おける拓地殖民の経過、殖産興業、道路交通並びに経済状態を広く紹介 することと、 「本道五十年間ノ進歩ヲ紹介シ且ツ将来ノ発展ヲ二三スル モノナル以上能フ限り大規模ヲ以テシ本道ノ面目ヲ発揚」7しょうとの目 的で「其ノ規模内容二於テ本道空前ノゴ博覧会が開催された。セセッシ ョン様式を主調とした主要パビリオン数15棟、内国製自転車、改良背鞍、 馬櫨、趣向を凝らしたストーブ、製鋼所の兵器類や、各府県のお国自慢 の優秀品なども出品された。  第1会場に札幌区中島公園(56,772坪45)があてられ、第2会場として 同北!条西4丁目に工業館(元区立女子尋常高等小学校跡:地、1,665坪) が、第3会場小樽区区営第二埋立地(3,500坪)には水族館が建設された。 札幌停車場前には歓迎門が飾られ、期間中の8月12日には馬鉄にかわっ て電車も開通し、博覧会ムードは最好調に達し、8月ユ日より9月19日 までの50日間に入場者数延べ140万入余を集めたという。各館は午後5 時に閉館したが、会場は午後11時まで開放され、北極塔やパビリオンに はイルミネーションが輝いた。  1916年2月博:覧会準備委員が決定し、北海道庁土木部からは、理事官 序野康雄、土木技師家田於下之助8、属浅見子牛の3名が任命された。 同年7月博覧会事務規定が決められ、庶務課、出品課、審査課、経理課、 出納課、工務課、警備課の7課を設置、施設工事担当の工務課職員どし て、工務課長坐野康雄(大正7年5月退職)、同友部泉蔵以下、土木技師 家田於菟之助、技手山崎進、土木技手高野守衛、金垣幸助、佐藤信雄、 和田與、古川龍五郎他sが任命された。 監督に家田技師、第1会場主任 金垣技手、第2会場は山崎技手が主任となつで。・工事がすすめられた・ 設計者と施工者  設計は、1916年5月曽彌中條建築事務所の中條精一郎に顧問を嘱託・ 新人所員の中村順平が担当して、翌1917年1月30日完了した・  第1会場建築工事は同年2月19日札幌区伊藤亀太郎に落札し・2月25 日起工、4月23日地鎮祭を挙行、函館区点越増太郎が請負った第2会場 工業館は、7月7日地鎮祭を行った。10月7日両会場の上棟式を経て、 翌1918年7月31日竣工、8月1日の開会式を迎えた。  設計顧問中條精一郎は、札幌農学校新雨工事(1899~1902)や、博覧会 後の独立教会(1922)の設計など、北海道との由縁もよく知られているが・ 東京大正博:覧会(1914)の設計者でもあり、これに先立っ愛知県(1910)、 富山県(1913)の共進会にも関わってきた。  また、中條のもとで担当した中村順平も東京大正博覧会を経験してお り、新人ながら中條から深く信任を受けていた人である。1910(明治43) 年名古屋高等工業学校建築学科を卒業、同年曽彌中條建築事務所に入所、 27歳の若さで東京大正博:をてがけ、1920年巴里国立最:高美術学院に入学 するまでに、開道五十年博や東京如水会館(1919)などを担当した。  なお出品の陳列装飾には、元東京美術学校教授で、日英大博覧会その 他共進会に経験の深い菅野真G拗まこと)を装飾顧問として嘱託した11。  小樽出血2区埋立地に開設された第3会場は、水族館を除く、演芸場、 売店、歓迎門、橋梁装飾、塔その他の設計は、東京市趣味工業社が担当 12 A1918年2月13日設計図到着’2、工事は松前宗太郎が請け負った13。 配置計画  第1会場にあてられた中島公園は、1886(明治19)年遊園地として札幌 区に編入されたのに始まる。物産共進会や競馬会がおこなわれたり、花 苑・屯田兵招魂碑が設けられ、1908(明治41)~10年には東京市公園技師 長長岡安平設計により公園整備が進められたが、 「その後は予算の不足、 植樹の枯死等で施工に困難を極め、せっかくの設計も実現されないまま に競馬場跡地も広場となり……」14という状況であったらしい。第1会 場の主空間には、この「競馬場跡地」があてられた。  配置計画にあたってのもうひとつ重要な要素は、既設の旧物産陳列場 (1906年)と池および池の中島であり、陳列場と中島を結ぶ一軸はそのま ま博覧会の議論として生かされ、陳列場を農業本館に改装、軸上に奏楽 堂を置き、中島には橋を架けて迎賓館を新話した。  南隣りの競馬場跡地を主広場とするが、この既設の副軸に平行して主 軸が設定された。主軸の奥端にむかって、中央の水産館と左右の林業お よび鉱業館、参考館が馬蹄形に配され、広場の軸上に水産館ドーム、北 10:小樽新聞「道博会場めぐり」(1818.4.  30) 11:小樽新聞「開道記念博覧會◇其内容  と施設(五)」(1918.1.29) 12:小樽新聞f道博第三会場設計図」(19  18. 2. 24) 13:小樽新聞「道博会彙報」(1818.1.20) 14: 蝸?欝鍔札幌市鰍治 一74一 d一@75 一 町罷顎讐}・~ で . 声 “ ’SL @毫 と ’ 議 惑 ジ,、 図2-2-1 脇道五十年記念博第一会揚 (『開道五十年記念北海道博覧會事務報告』1920) \/ \ / ! \ /\ 図2-2-2 罷!   ノ ◇ ク 。 ミ 、 s 1 正門 10 参考館 2 迎賓館 11 土木・交通館 3 奏楽館 12 機械館 4 農業本館 13 京都館 5 拓殖・締衛蜘 14 第二参考館 6 農業別館 15 北極館 7 園芸館 16 動物舎 8 林業及工業館 A 売店・鮫馳区 9 水産館 B 府県・置旧駆 麺Z   N. 〆 ◇                  も、:          、                 ¢  \   ノ      \                    r, x./ ’e一? vx2 ’N                 .O  匠     5 \、                     N. x) “ex ’N,                       [1                               N開道五十年記念’博第一会揚配置図 (『開道五十年記念北海道博覧會事務報告』掲載配置図よリ作成) 表2-2-1 開道五十年記念博 主要施設一覧 施  設  名 構    造 面   積 工  費 [第1会場] (坪) 円 水   産   館 木 造 漆 喰 塗 23,275 16,658 林業及鉱業館 〃 ユ99,380 11,3ユ6 参   考   館 〃 200,000 9,282 土木交通館 〃 100,500 5,077 園   芸   館 〃 100,500 5,077 機   械   館 〃 15◎,000 6,299 農  業  別  館 〃 149,490 7,528 拓殖教育衛生館 木造モルタル塗2階建 253,049 28,765 迎   賓   館 木 造 漆 喰 塗 61,116 3,826 音   楽   堂 〃 8,727 ユ,602 農  業  本 館 木造ペンキ塗り 在来建物 第二参 考館 木 造 漆 喰 塗1 203,000 14,426 北   極   塔 木 造 漆 喰 塗 1基 2,887 郵  便  ,局  舎 〃 23,275 ユ,327 警官救護消防詰万 〃 34,000 1,510 [第2会;場] 工   業   館 木造モルタル塗:2階建 202,247 3L478 [第3会場] 本       館 木 造 漆 喰 塗 56,500 7,827 「 ロ ロ   一 Q - 1 ⊥ T 一76一 1幽幽幽幽羅灘購、. 灘,鑛灘灘灘幽幽一難幽幽白繭難一難鞭羅、 藍、一冨∫”こ’」い;陶 表2-2-2 開道五十年記念博覧会特設館 名称 勝 建設者 東京館 200坪 東京博覧會協會 京都館 100 京都市役所 新潟縣特設館 ユ38 新潟縣 富山縣特設館 ユ26.5 富山縣 石川縣特設館 ユ32 石川縣 帝室林野管理局特設館 50 帝室林野管理局札幌支局 富士製紙株式會社特設館 25 富士製紙株式會社: 三井物産株式會社特設館 24 三井物産株式會社 帝團製麻株式會社特設館 20 帝團製麻株式會社札幌支店 二二商會特設館 13.75 札幌歴北一條:東四丁目九番地 ��驩趙V藤榮吉 堤高會特設館 6.25 函館匪西濱町堤商會 桐山商店特設館 ユ.5 札幌匪北二條東二丁目一番地 ヒ山捨吉 三田銃砲店特設館 6 札幌騒南一條西四丁目三田義正 御園化粧品特設館 70 東京市芝公園内伊藤胡蝶園 レート化品特設館 15 東京市目本橋医馬喰町平尾賛平 ライオン歯磨特設館 20 東京市本所匝外手町小林富次郎 クラブ化粧品特設館 ユ0 大阪市東匪二丁目中山太一 千代田香油特設館 6 東京市目本橋匪馬喰町山岸三之助 金鶴香水特設館 ユ2 東京市日本橋歴藥研堀山川昇太郎 淺沼商店特設篤眞館 30 東京市日本橋医本町淺沼藤吉 岩田兄弟工揚特設館 ユo 東京市神田匠魑住町岩田織清 佐藤製衡所特設館 5 東京市日本橋歴室町 ㍽遭�ミ佐藤製衡所 安部電氣部特設館 6 東京市麹町歴内幸町 タ部幸兵衛商店電氣部 ,淺野スレ「ト株式會社特殻館 ユ2 東京市深川匠東元町 ヌ野スレート株式會社 表2-2-3 開道五十年記念博覧会休憩所、広告塔、掲示場 名称 北海タイムス社休憩所 札幌實業聯合會休憩所 十勝國休憩所 北海道造林合資會社休憩所 北海道農會休憩所 大日本人造肥料株式會社休憩所 朝鮮総督府休憩所 佐渡郡役所休憩所 勝 4坪 28 26 ユ2 32絵 50 ユ5 25 名称 職 戸出物産株式會社休憩所 ユ5.5坪 野田醤油株式會社休憩所 ユ0 青出染工揚休憩所 20 網走外三郡特設塔 10 今井合名會社廣告塔 堀井謄窩堂廣告塔 ユ箇威 安藤井筒堂廣告立像 1基 東京日々新聞社掲示場 1筒 一 77 一 、、.騨羅、.灘難難簿総灘 II一{・iew 、・蟹獺 轡   ξ 櫛 マ . 澱 障 『 噴 内 ♂ 刷 ♂ ・ う へ 、 c : 卜 画 ご 15=『開道五十年記念北海道博覧会事務  報告』 図2-2-3 水産館(『開道五十年記念北海    道博覧曾事務報告』) 池 蒜 「ザ 墾 爾 、 図2-2-4 北極塔(同上) Vl叩1】サ澱鷺翌  ・“鴨’,一《’い   .『 .闘鶏,一・・             F“ 図2-2-5林業及鉱業館(同上) 9甑 図2-2-6 園芸館(同上) 備’?♂幽幽鍵  『饗“ ’t 鱒継日曝糊・ 極塔、花壇が置かれた。  会場内花壇ほか庭園造成に関しては、北海道帝国大学教授農学博士星 野勇造、同助教授農学士前川徳次郎に設計を嘱託し、高橋(正男?)技 手監督のもとに札幌壽仙園主河井茂樹が担当した15。  水産館、林業および鉱業館、参考館ファサードは、広場を囲むタスカ ンオーダーの擬コロネードとされた。この馬蹄形列柱は、東京大正博に おける副軸上の列柱広場の手法を展開したものでもあった。  停車場通り(西4丁目)突き当たりの正門から導入される観衆の流れは、 これら正副の2軸と直交する池前の大通路、農業本館側面および背面の 建物から主広場へ向かうやはり直交軸によってさばかれている。つまり、 平行する正副2軸と、これに直交する2軸によって、会場主要部の配置 が決定されたといえる。 主要施設の概要と意匠  主会場を構成する水産館(図2-2-3)以下の建物は、列柱と低いエンタ ブラァチャーによって統一されている。水産館は中央にセセッション風 のドームをのせ、正面に大アーチをひらいて主軸を強調している。  ドームと主軸上で対峙する北極塔(図2-2-4)は、木造漆喰塗り、高さ 100尺の塔で、先端には北極星を表す星がデザインされ全体としてセセ ッションの色合いが強い意匠とされた。基壇は円形で、段状に重ねた1 段と2段目に彫像の置物を配置し、三身上部に正方形の角板をのせ、さ らに上をすぼめ、円錐の三三が載っている。柱頭の先には北極星輝きを 図象化した星章を飾っていた。  両脇の第1考館、林業及鉱業館(図2-2-5)は水産館の列柱をそのまま 延長し、次の土木交通館、園芸館(図2-2-6)は扁平なピラスター、機械 館は二二と順次ファサードのリズムを押さえる構成である。これらの陳 列館では、建物の水平性を強調するため片流れの緩勾配屋根をかけ陸屋 根にみせているe機械館では屋根を内勾配として、トップライトを設け る試みもみられた。陸屋根のデザインは、他に新潟館、水族館(第3会 場)でも踏襲された。  これらに対し、拓殖教育衛生館がマンサード、農業別館が寄棟屋根と されたのは、会期後の利用を想定したためであろう。拓殖館入口のアー チ、両脇の角塔、壁面のジャイアントピラスターの装飾などは、東京大 正博の美術館ファサードにもみられるものであった。  主要施設の一覧を表2-2-1に示したが、以下主要陳列館の外観の特徴 を中心に紹介しよう。  会場主要部にあたる林業及び鉱業館、水産館、参考館の3館は、水産 館を中心に半円形を描き、陳列室の前面回廊は、前後2列の列柱を並べ、 ほとんど装飾のないエンタブラチュアを載せている。屋根は片流れ、正 面からはコーニスに隠されている。水産館中央部は・球状の大ドームを 載せ、前面は四分の一球の断面をみせる半円アーチで、大きなテルメ窓 の意匠をみせる。半円アーチ左右の塔や大ドーム頂部には壷状の置物を 載せている.  園芸館と土木交通館は、中庭をはさんで対称に配置され、同じデザイ ンでまとめられた。屋根は片流れであるが、正面からはパラペットで隠 され、外観は水平、垂直線でソリッドに構成されている。入口廻りに幾 何学模様の装飾を施し、左右に「園芸」あるいは「土木交通」の装飾的 なレタリング看板を掲げている。中央入口上部にエジプト風の羽飾りを 掲げk園芸館では鍬と鋤、土木交通館はスコップを交差した飾りを付加 し、入口上部陸屋根の徳利状飾りとともに目を引いた。  機械館は、土木交通館の北西側に並ぶ建物で、馬蹄形の端部にあたる。 パラペットに隠れて外観からはわからないが、屋根中央に向かって逆勾 配の屋根で、中央にトップラ’イトを設けた。入口の配色を変えた円形意 匠、コーニス部の縄状模様などが正面を飾る。入口には、 「リベット、 ボイラー、スチームゲージ」1Bの装飾が施されていた。  第2参考館は、参考館の南西に並び、全体に控えめな建物であるが、 正面入口部のみ水平コーニスを櫛形に反らせ、上に成の低い三角ペディ メントを載せる。  拓殖教育衛生館(図2-2-7)は閉会後の利用を目的に建設された。設計 は家田技師、木造鉄網モルタル塗り2階建て「近世式ルネサンス」t7様式 の建物である。基礎はコンクリートで、建坪250坪、間口25間、奥行10 間、軒高32尺18。正面入口左右に高さ50尺’8の角塔を配し、両面を装飾 付き櫛型アーチで結ぶ。この櫛形は、寄棟屋根のドーマー窓の形式にも 採用されている。  外壁はモルタル上を白色の漆喰で上塗りし二8、片蓋柱と窓を交互に配 し、窓枠外側を細く窪ませさらに「鼠色ゴ8で着色してアクセントを付け た。角塔や片蓋柱上にセセッション風の装飾も付加した。屋根は「浅野 スレート」’9で葺き、入口の石段は「八垂別産札幌硬石ゴ8を使用した。  2本の角廃宅は、「電話室、看守控室、物置」’Sなどにあて、1階は拓 殖館、2階左半分は教育館、残りを衛生館として使用したIs。  農業本館は、前述のように1906年の元物産陳列場建物を修繕して使用 したもので、木造下見板張り。2階建ての中央棟と左右平屋の翼棟を平 家の主文が結んでいる。主棟は切妻、中央棟、霊山はマンサード屋根と し、中央棟正面に吹き放しのポーチを突出させ、屋根にパラディアンモ ティーフの盲窓、1、2階に3連アーチの開口をみせる。  農業本館の西前方、第3軸の大通路から中庭に出る角にある農業別館 は、長方形平面に馬蹄形に沿って僅かに突出しをもつL型平面の平家。 正面中央の入口左右に方形の屋根をのせた角塔を立て、左右の入口には 15:小樽新聞「道博会場めぐり」(1918.4.  30) 16:小樽新聞「開道博の大設備」(1917。2,  27) 17:小樽新聞「永久的の建物たる教育衛  生拓殖館」(1918.6,17) 図2-2-7拓殖教育衛生館(『開道五十年    記念北海道博覧會事務報告』) r 一78一 一79一 . 」 垂 愛 『腰t.tAt 。で僅   一 議。撫謡講黙霜 み 鳩 ・ , マ ‘ 引 ㌧ 》 一 愈 ・ r 冥 ・ 」 野 旨 圃 畳 騨 ’        艦 欝ド 『甲「ご ;’“ ’1圃㌘く一胃’t坤「                               写 ’1「一’軍愚匹   ”f’ r t s7. te ,. 19:小樽新聞「開道記念博覧会彙報」(19  17.7. 23) 20:小樽新聞「開道博の大設備」(1917.2.  27) 21:小樽新聞「開道記念博覧曾◇其内容   と施設(四)」(1918.1.25) 22:小樽新聞「博覧会彙報」(1917.4.8) 23:小樽新聞「博覧会の案内寵(上)」G9  18.6. 2) 図2-2-8第二会場工業館(『開道五十年    記念北海道博覧會事務報告』) 24:小樽新聞「水族館の内容」(1918.6.15、  6.16) 25:小樽新聞「道博小樽協賛会」(1918.5.  23) 図2一一2-9 農家住宅模範家屋     (『開道五十年配念北海道博覧    會事務報告』) 千木をのせた急勾配の切妻小屋根をかけている。外壁上部パネルや塔の 上部には縄編み模様や波形の装飾を施している。  農業本館の軸上正面の奏楽堂は、八角形の周囲に双柱を廻らした吹き 放しの建物である。中央にドームをのせ、腰部に円形に欄干を廻らした バロック風の建物であった。  奏楽堂前方の中島にある迎賓館は建坪約60坪、内部は玄関(2坪)、広 間(8坪)、食堂(15坪)、婦人室(6坪)、化粧室(2坪)、厨房(6坪)、露台(9 坪)、手洗場(1.5坪)、便所(2.5坪)、下足場(1坪)、廊下(5坪)外にプラ ットホーム(2.5坪)を張出しIs、ボートの乗り降りに供した。迎賓館に は、名誉橋と命名された白塗の木橋が架けられた20。  ほかに24棟の特設館(表2-2-2)、11棟の休憩所や4基の広告塔、掲示場 (表2-2-3)、演芸館などが併設された。自費建築の特設館の中には、新 潟県特設館のように博覧会工務課に設計を委嘱する21ものもあった。同 様に協賛会主催の「模範的劇場スタイル」を目指した演芸館も博覧会工 務課設計22、請負は売店と共に藪越組23であった。  第2会場の工業館は、閉会後北海道物産陳列場としての使用を目的に 建てたもので、木造モルタル塗2階建ての建物である。建物の隅をがっ しりした角柱で押さえ、正面中央入口の上部には櫛形アーチを載せ、そ の上を石目地を見せるブロークンペディメントとする。外壁は、1階を 石積み風に、2階は平滑に仕上げ、1階窓は半円アーチ、2階はキース トーン付き縦長窓としている。  第3会場の水族館は、第1会場の水産館正面のテルメ山風の意匠を踏 襲し、入口左右に角付け柱をみせ、柱間には水中を描いた壁画をあしら っていた。建坪約72坪、機械室と入口出品陳列室を除いたものが主体で、 長さ12間、幅3間、12間の片側に水槽を12個並べる。本館左右の両翼各 12.5坪部分は淡水水族用で、陳列台に大型や小型の水槽を並べたz4。ほ かに小樽区協賛会の施設として、東京趣味工業会社設計の次のようなも のがあった25。 接待所及案内所】棟(5Y3.5間)、便所2棟、歓迎門ユ基(幅ユ0間、高さ24尺)、 板塀(50間、高さ6尺)、橋梁一式(32尺、長さ115尺)、:事務所1棟(3>(4間)、 宝袋売渡場ユ棟(3.5×4問)、広告応用電灯柱、鯨胎内めぐり(長さユ5間、幅4 聞、高さ3間) 農家住宅模範家屋  この博覧会では、華やかなパビリオンに交じり、御園化粧品、浅野ス レート株式会社など趣向をこらした特設館も建てられたが、中でも北海 道庁土木部建築課出品「農家住宅模範家屋」(図2-2-9)が興味深い。  現在の護国神社に近い位置に建てられた小規模な特設館で、前年1917 年、北海道農友会懸賞募集の当選案を参考に、北海道庁建築課が設計し たものである。元札幌地方裁判所書記斎藤仙悟の遺言による1,0QO円の 寄付提供によって建築された2㌔  木造2階建て、腰折れ柾葺屋根の住宅で、建坪22坪(72・6㎡)・外壁は・ 押縁竪羽目板張り、一部2階妻壁に漆喰腎を見せていた。窓は・1階上 げ下}菰2階引違いガラス窓、内部に障子をはめた2重窓として屋根裏 部屋採光用に屋根窓も備えていた・  屋根裏2階は寝室と養蚕室の8畳2室で構成され、!階は・家族居間・ 台所、食堂、客間などのほか、屋外作業時の便を考慮して、作業服・わ らじ履きのまま食事が出来るよう土間に椅子、テープが採用されていた。 防寒に対する配慮として、ロシア式ペチカの採用、2重張りで中間に木 挽きくずを詰めた床のほか、床高を大きくとって空気の流通をよくする 衛生的配慮もなされていた。  内部には、模範家屋の建築材料の内訳、建築費のほか、オンドルやペ チカの模型も展示されていた2B。  さて前記の懸賞募集は、1917(大正6)年北海道農友会機関紙27『北海 之女皇』第9巻第3号に「五町歩農業経営法懸賞募集」と共に2大懸賞 「農家家屋設計懸賞募集」として発表されたものである。  「本道農家の住宅は、風土気候の関係上、並に衛生及経済上は勿論、 一家品詞休養の場所として、其敏出山だ少なからずを以て、本山は一家 の上より、将又(はたまた)本道拓殖の上より、忽緒(二つし.)に附すべからざる ものあるを認め……本道農家の幸福増進を期待せんが丸め」 「農家改造 の急務を認め」てのコンペである。  募集要項として、 ①本道5町歩経営程度の普通農家に適合したもので、衛生防寒及び作業上最  も都合良く、且つ建築材料を節約して経済的であること。 ②家族数5、6人。 ③設計対象は、甲乙の2種とし、平面図及び設計大要を記すこと。乙は、移  住後土地を成幽して掘立小屋から改築する程度のものとし、甲は、乙に比  べ生活水準が向上し建築費もやや高く、移住後およそ20年前後経過したも  のを想定。 ④審査は、北海道庁に委嘱し、賞金は、1等100円、2等40円、3等ユ5円、  4等5円。 ⑤道庁は、優秀案に則り、もしくは意匠を参酌して模型を製作し、開道五十  年記念博覧会に出展の予定。 ⑥締切は大正6年6月30日。 などが列記された。  さらに、このコンペに道庁が賛同したこともあって、当時の道庁長官 俵孫一が「農家模範家屋の設計に封ずる所感」をr北海之農友』第9巻 第4号(1917年)に寄せている点も見逃せない。  「本道のような寒気凛烈な地では、家屋構造について防寒衛生上講究 を要することは勿論であるが、本道向きの家屋が生まれないのは、構造 研究上の欠如が原因であるためで、本道に適した農家家屋の考究は急務 26:小樽新聞「水族館裏に建てられた本  道の模範農家」(1918。8.8)、小樽新  聞「道博彙報」(1918.8.io)、遠藤明  久「北の事典一続・北海道住:宅五十  話」(Aヒ海道新聞、 1978.2.2) 27:1909年設立。農事の改良発達を図る  ことを目的に結成された団体。月刊  機関紙『北海之農友』を発行のほか、  数:冊の農業書籍も刊行した。 一80一 一81一 蕊・嫁幽幽灘雛雛灘難灘難灘i難i灘_羅欝_婦:羅一顧i 藁灘難山馨ll鱗灘 三三 毒蝉   、 “    騨    “ 、.x・{3t.・        ・t』.泌’.,野」侃 x “、岩脇,難灘熱 望 L 酔 ~ . ’ 28: ソ翁』『吉綴繍言讐募 である。今考案すればただちに理想的なものが出来うるものではないが、 研究を重ねれば、何時かは理想的な設計ができあがると思われる。北海 道人は暖かい府県の家屋になれた移住民であるから、直ちに本道向けの 家屋が考案出来ないのは無理もないが、たとえば満州朝鮮で使われてい るオンドルの構造を北海道的に変更するような案も期待したい。」など、 かなり具体的に住宅問題に触れ、またオンドルの導入を唱えている。  俵長官は、1915(大正4)年8月から1919年4月まで在勤したが、1906(明 治39)年11月から1912年3月号で朝鮮統監府および総督府に勤務しており 29 A韓国勤務の体験をふまえての発言であったが、わざわざ朝鮮オンド ル家屋の構造模型を取り寄せるなど、オンドル導入には並々ならぬ意気 込みが感じられる。  この懸賞設計の結果は、 『北海之農友』第10巻第4号(1918年)に発表 された。応募総数は134件にのぼったが、「何れも低級にして、直に取り て以て模範とすべき程度のものあるを認めず」、4件を比較的優良なる ものとして採択したものの、すべて4等賞とした。しかし、これらも直 ちに模範とするには足らず、 「何れも現在農家の實況を熟知せざるもの 》如く、従って改良上品意見設計等の見るべきものなく、むしろ都市住 宅に類するもの多きを認むるは遺憾とする所なり。……また建築設計に 関する知識、幼稚なるに起因せるものと認めたり」と、手厳しい審査評 である。  審査員は、勧業課技師山田勝伴、同石澤達夫、衛生課警部一色則之、 同小松悟槙、建築課技師家田於西之助、同技手橘高茂一郎ら6名である。 審査員が期待した点として、 ①建坪は甲種30坪内外、乙種20坪内外。 ②3室以上とし、寝室を設けること。 ③屋根裏利用のこと。 ④出来るかぎり小屋構造を簡単にする。 ⑤現況農家の改良すべき次の事項に留意すること。  (イ)南側を利用し、採光を十分とること。(ロ)周囲の壁は土壁又は板張と  し、下張にボール紙や「タールペーパー」を用い、天井張をして、防寒構造  とすること。(ハ)換気方法を適当にすること。(二)現在の住宅にみられる  縁側などを設けることによる面積増大や利用不便な間取リを改善のこと。  (ホ)住宅と作業揚を区別すること。(へ)土間を縮小すること。(ト)薪炭の  経済衛生上、焚火を廃し、ストーブ又はペチカを設備し、煙筒は永久開設  備とする。(チ)建具はなるべく普通障子を廃し、板戸、硝子戸、腰高障子  を用いる。(リ)やむを得ない室以外は畳を廃し、板張リ、敷物を使用する  こと。(ヌ)畜舎、倉庫、作業場等は、勝手口から廊下で接続する。  以上の要件を考慮して応募案を甲乙丙丁の4種、すなわち甲乙丙は再 考の余地のあるもの、丁は全然なきものとして分類した結果、甲なし(0 %)、乙28件、丙25件あわせて53件(39.6%)、丁81件(60.40/・)となった。 1917(大正6)年9月から翌年2月まで数回審査会を開催し、53件に対し て審査を重ねた結果、甲は葛西友幸(旭川区第三区7番地4号)・佐藤信雄 (札幌区苗穂町5番地)、乙は長谷末次(夕張郡登川町第三区)・中村寅吉 (札幌区)の4件が選ばれた。  いずれも在来の農家住宅に比べて格別見るべきものがあるわけではな いが、凍害や暖房まで意識して基礎にまで言及しているのは、『北海之 品品』第10巻第4号(1918年)に掲載されている香西案だけである・掲載 の要旨によれば、寒地住宅故に「庇、下屋等を以て園続し、直接居室等 に外氣の浸入するを遮り」、農家住宅である故「台所、炊事場・平等を 比較的容積を大」きくし、屋根裏2階には雇人室、物置、作業場をとっ て、「冬季聞農家の副業」に備えていること、また降雪耐寒を考慮し、凍 害(シガモリ)(ママ)の猛烈な状況に対し、次の点をあげている。 ①基礎は柱下を鉄筋コンクリート杭打ちとし、布石を配列、切込砂利を入れ  て地形の凍害を予防すること。 ②壁は、外部大壁塗り内部真壁とし、何れも漆喰壁(外部セメント入)仕上げ  とし、外部腰部は積雪の関係上、筋子下見板張りとする。 ③屋根は独逸式小屋組に倣い、鉄板菱葺きペンキ塗仕上げ。 ④床板張リ、畳下は「フェルト」類敷込み、板床は2重張り。 ⑤座敷及び居室は竿縁天井とし、天井上は厚2寸、防寒土塗天井とする。 ⑥暖房装置として、台所は炉、居室は暖炉とする。  こうした応募案の設計要旨と審査員側の理想要件を受け、北海道庁建 築課が新たに設計し直したものが、このモデルハウスであった。 2-3 国産振興博覧会  国産振興博覧会は、北海道における有力紙の一つであった北海タイム ス社(後の北海道新聞社)創立25年を記念する事業として、1926(大正15) 年に開催されたものであるが、総裁に北海道庁長官を擁し、広く道庁や 札幌市、北海道商業会議所聯合会などの協力のもとで、官民一体となっ て開催されたものであった。会場も、開道五十年記念北海道博覧会(19 18年)と同じ、第1会場札幌市中島公園、第2会場札幌市北1条西4丁目 北海道商品陳列所(旧工業館)に定めたが、開道五十年記念博覧会の施 設規模を100余坪も上回る博覧会となった。  以下『国産振興博覧山鼠』(1927年、北海道大学北方資料室所蔵)およ び当時のr北海タイムス』紙を参考に、概要にふれる。 博覧会の意図と開催経過  国産振興博覧会は上述のように、北海タイムス社創立25年の記念事業 の1つとして、1926年8月1日力・ら30日まで開催された。 図2-3-1 国産振興博覧会ポスタ・一一・     (『国産振興博覧會誌』) 翫 頑 . ( 一82一 一83一 瀞1灘灘懸繕鎌灘霧難灘i灘i灘灘灘幽幽幽幽一議痴瓢∴灘鱗灘灘灘一一i灘懸轟欝鷲鞍壷鎌継・綜ゴ 凝 一 7一’1T’T. ’ 蝉、 、 一   29:1927年から20ヵ年の計画期聞を持ち、   昭和恐慌期から太平洋戦争後の1946  年まで続く長期大型拓殖計画。背景   には大正末期の米騒動や植民地米の   流入という食糧聞題と、慢性不況下   の失業、農村の過剰人口の滞留とい   う人口問題などの解決を北海道に担   わせようというねらいがあった。   (北海道大百科事典) 30:『国産振興博覧會誌』(1927.12.20)   p.2 31:1870(明治3)年福井県阪井郡春江村   千部寺生まれ。1881(明治14)年土佐   国高知で大工職徒弟、1888(明治21)  年小樽加藤忠五郎の雇人となる。19  04(明治3の年大虎建築部札幌出張店  主任となる。1907年大虎支店名義で  独立。札幌農科大学科学科教室、札  幌市役所、北海道拓殖銀行旭川、樺  太支店、札幌丸井今井、札幌北門銀  行、王子製紙社宅、帯広日甜工場、   日赤旭川病院のほか、札幌市内の代  表的邸宅をてがけた。1925年北海道  土木建築請負業連合会組合長ほか、  札幌商工会議所議員、札幌区会議員、   自衛消防隊連合会長、札幌実業組合  連合会長などの公職を務め、1945年  没。 (北海道建設新聞社編『風雪の  百年』1970年、『北海道人名僻書』  1923年などによる) t 、 壷 罰 悔   琶 一 ⊥ 璽 岨 図2一一3-L) 、、w司 h. “’一’ ilst. “Fts,i’‘;一:一. 札幌駅前歓迎門 (f国産振興博覧會誌』)  当時は、第1次大戦後の不況と1923年の関東大震災後の全国的な後遺 症がまだ回復していない状況であり、国内産業の開発振興を図り、財界 の回復と国運の隆盛を願うことが当面の課題とされていた。また、人口 や食料問題解決の上から、国内の拓地殖民、天然資源の利用を図ること も急務とされており、北海道はその解決のための根拠地として注目され る位置にあった。折しも、北海道第2期拓殖計画29確立のために調査研 究が開始された時期とも一致し、本道の生産物を陳列することで広く北 海道の実情を紹介し、全国各地の生産品を紹介することで、 「北日本文 化の顯揚と産業の振興とに貢献する所多」30く、国産振興の一助となる ことを確信して開催されたものである。  計画は1926年3月から着手され、同月12日会場敷地や諸規定の起案づ くりを開始、19日北海タイムス紙上に博覧会開催計画が発表され、さら に4月7日には市内東京庵にて博覧会計画披露会、同月10日東京丸の内 鉄道協会にて国産博覧会披露:会、同23日市内旗亭いずみにて奥羽地方商 業会議所代表者招待会が催された。19日の紙上発表以降約6ヵ月の間、 社告や記事によって新聞宣伝が200回にわたってなされ、さらにポスタ ー(図2-3-1)、宣伝ビラ、広告板、電車広告、自動車、飛行機を動員し ての宣伝がくりひろげられた。  使われた装飾自動車5台は、車体に「北海タイムス社主催國産振興博 覧會」と大書した装飾布を付け、7月25日札幌市内を、27、29日には小 樽市で宣伝し、博覧会気分を高揚させた。飛行機は、社機サルムソン式 二A二型第2号機(230馬力、のち北斗号と命名)を使い、会期中8月20日 から会場および札幌市上空、小樽、旭川市および沿道各町村に宣伝ビラ の散布を行った。また東京朝日新聞社の訪欧飛行に使われた「東風」機 も8月5日立川から札幌へ無着陸飛行を果たし、その後22日に離道する までほぼ連日のように札幌、小樽、旭川同付近町村を訪問飛行し、宣伝 ビラの散布に協力した。  博覧会事務所は開催計画発表の3月19日、ひとまず北海タイムス社内 に開設し、6月i日中島公園内事務所に移転した。総裁には北海道庁長 官中川健蔵、副総裁北海道庁内務部長百濟文輔、会長北海タイムス社長 東武、副会長本社理事阿部良夫、本社監事持田謹也らが名を連ねた。  6月29日には、札幌市および札幌商業会議所が事業の協賛、協力を目 的に札幌市協賛会を組織し、事務所を札幌商業会議所内に置いた。会長 は札幌市長高岡直吉、副会長札幌商業会議所会頭大瀧三太郎が務め、庶 務係、接待係、設営係、経理係の4係で組織された。札幌駅前歓迎門(図 2-3。2)や市街の装飾、休憩所設備などを担当した設営係は、係長商業会 議所議員新開新太郎91を筆頭に、副係長札幌市土木課長津田美之助ほか、 市会議員、商業会議所議員ら15名で構成された。  施設のいくつかは5月下旬からすでに着工され、6月8日に地鎮祭を 挙げ、7月末日に竣工L 8月!日の開会式を迎えた・  開会式から30日の閉会式まで、会期三六1会場377・589人・第2会場135・ 462人、計513,051人の入場者を数え、「予想以上の成功を収め」(博覧「會 誌)ることができた。9月11日事務局を北海タイムス社内に移し残務整 理を行う一方、同月7日には第1府県館(後述)、参考館(後述)その他の 建物の一般払下げ入札が行なわれ、特設館その他施設の取壊しは同月中 旬に完了、公園内の道路、樹木等の原状復旧も終了した・ 主要施設の設計と工事経過  博覧会事務局は、庶務部(4)、編纂部(5)、出品部(9、ほかに嘱託委員 11)、経理部(5)、装飾部(11)、営繕部(3)、宣伝部(11)、接待部(9)、余 興部(6>、警備部(2)の10部が事務規定で組織され、ほかに参与の河野常 吉を主任とする歴史部(5)があった。  ()内は、部長を含めた職員数であるが、会場や施設工事を担当すべ き営繕部の職員数が3名と少く、しかも部長以外の2名は、経理部と兼 務である。当初計画では、2会場とも既設建物である拓殖館、農業館、 元式場や北海道商品陳列所を利用し、新築は歴史館、余興場などにとど め、ほかは公私特設館を受け入れる規模で考えていたからと考えられる が、当初から博覧会参与を務める北海道庁建築課長福岡五一ほか道庁建 築課スタッフに依存する予定であったのかもしれない。 公務の余暇を さいて、3ヵ月内外という短期間で設計、工事監督をこなしたのは、19 22年7月土木部建築課長に就任した福岡以下、萩原惇正技師32、技手佐 藤信雄、雇技術員内田寛ら33である。施工は伊藤組が中心に請け負った。       ノ       es“     KwkGdC O滋“  蟹ρ・,D .’@     ≦」  。’}ソ’㌧Qり 恕   o σ ρ )   ←45 . ヤ 、OIEi ’St. Zi・ :…為憾池魯δも        Vtt4/ os 22   魯 ge    ,’濁 。 Bs{ 3・o轡・     l  Cつ  ’t‘‘’・   o  嚇N 野細断1融・礪    練 iヂ。 o 36 o ◎池 麟       2       e2-50       51oo ? @        o  落54 ”(L5’ @pt’一”z rn.crTrv=rT-7res 32:1892(明治25)年静岡県小笠原郡横須  賀生まれ。1911(明治44)年関西商工  学校建築学科卒業、同年河合建築事  務所入所、翌年同所依頼解雇後、宇   治川電気㈱、日本石油㈱建築工事、  大阪税関、官舎新築工事、神戸高等  商船学校などの毅計監督の嘱託を経  て、1923年8月北海道庁土木部建築  課に勤務、1927年8月北海道帝国大  学営繕課長となる。 33:『大正15年北海道庁職員録』によれ   ば、建築課雇技術員は、大場善太、  浅田年、速水マメ、畑山英一、枝元  i秀男、内田寛、建築技師萩原惇正、  建築書記高野守衛、小泉鐵馬、建築  技手小島硯次郎、柏木米藏、佐藤信  雄、日田三二、渡邊音治郎、橘高茂  一郎、永野美光、柿崎信愛、岩佐右  門、館雄二、柳澤金次郎、村田正一、  十日市喜一、西村将賢、高島徳太郎、  鰹木甘粕、高橋辰己、本間永作、岸  軽士藏、阿部謙太郎らの名がみられ   る。        凡     例     1正門24噴水    2事務室25音楽堂    3第一道産館  26揚水機械実験所     4第二道下館  27警嬢救護瑳消防出張所     5余  興 場  28片岡卿名会社特売店     6歴 史 館  29北海タイムス社休憩所     7札幌特設館  30郵便局出張所  ◇   、8宮城特甲唄  31協賛会事務所  0    9東京国産愛用館 32売    店 ゆ。ト調難崇箕郷料1箔 漿      会社特設館 38仏 壇 館 .t(◇8耀灘膿ll鴇欝鷺所 =Lr、..17参 考 館 41北海道水産会休憩所 範 {霧蚕顯欝器灘曇灘鷺所  ◎1?裁湾嬰喫蓋店綴朧鷺     2九 州 館 46サータリン     23上川旭川館     :xusimnd“di -a     o     噸 3声馬・一§ミ 図2-3-3 国産振興博覧会第一会場配置図(『国産振興博覧同誌』掲載配置図に加筆) 一84一 一85一 幽幽幽幽直願繊灘壌馨鞭羅攣籔i毅鷺一難鷺惣一驚白繭r幽幽1懸白繭一締ぞ響、 黙∵◎∵警騨饗隅騨膿響騨響三叉鞭・騰響灘響難燃顎轟湾襟羅購凝議 幽晦額1 34:貸付期間1926年7fi 15日~9月 10日 35:貸付期間1926年6.月1日~9月30日 36:貸付期間1926年5月1日~9.月15日 37:土地建物とも貸付期間1926年6月1日  ~9月30日 図2-3-4 第一府県館     (『国産振興博覧會誌』) 図2-3-5 機械館(同上) 写一 ラ 図2-3-6 参考館(同上) 図2一一3-7歴史館(同上) 図2-3-8旭川上川館(同上) !耳;:r @                       ∴罫到繋察薫灘灘 日干一一一_一一一』一■■幽■一■■■■幽幽幽塑塑騨一門 榊  会場と主要施設の概要  会場は、開道五十年記念博覧会の敷地であり、また利用しうる既存建 物がある中島公園および北海道商品陳列所が候補地とされ、公園34およ び付属拓殖館34および林業館35については1926年2月24日付、同拓殖館 事務所3eについては同年4月8日付で北海道庁長官宛に、中島公園の土 地および元農業館、八角堂、元式場建物37については3月18日付で札幌 市長宛に使用願が提出された。また「子供の国」用に公園隣接の岡田花 園から敷地2,000坪を借り受けた。  既存建物のうち、第2会場の北海道商品陳列所は第二府県館に、拓殖 館は第一道産館、農業館は第二道産館、元式場は一部改造の上演芸館に あてられた。北海道商品陳列所は、開道五十年記念博で工業館として建 築されたもの、拓殖館は同博覧会で拓殖教育衛生館として建築されたも ので、いずれも将来の使用を前提に建設されていたものであった。農業 館は、1906(明治39)年の北海道物産共進会の際に第壱館として建設され、 開道五十年記念博で農業本館として利用されたもの、元式場も物産共進 会第弐館を修理したものであった。  したがって新築された施設は、第一府県館、機械館、参考館、畜産館、 歴史館、演芸館のほか、特設館として、札幌館、小樽館、函館館、旭川 上川館、九州館、宮城県館、新潟県館、札幌聯合館など38棟(表2-3-1)、 休憩所12ヵ所、広告塔20ヵ所などであり、第一府県館など主要施設は「出 来得るだけ拓けゆく北海道をシンボライズする」 「瀟洒な」(福岡五一) ものとされた。  電車停公線(札幌駅前一中島公園)の終点に面し、公園の北東端に位置 する幅24間奥行1聞、「木骨漆喰」軒高20尺の正門からの主要路は、池沿 いまっすぐに「子供の国」入口跨渡門脇の裏門(幅15尺奥行6尺、木骨漆喰、 軒高20尺)と結ばれ、左手手前から第一、第二道産館、歴史館、札幌特 設館が並び、南奥端に第一府県館を中心に大広場を囲むように会場主要 部が形成されていた。  広場の大花壇正面に第一府県館、左右に同一ファサードの機械館、参 考館を配してシンメトリーを意識した主要部は、右手機械館に続き九州 館、旭川上川館を、左手参考館に続き函館市特設館、小樽:市特設館を配 置していた。  第一府県館(図2-3-4)は、間口49間奥行7間、両袖84.6坪、合計427.6 坪「木骨漆喰、屋根便利瓦」の大建築である。正面中央部には段状の持 送りとピラスターを付け、左右の回廊ではピラスター上部に装飾的なア ーキトレーブをみせる単純な形態であるものの、ピラスターには星をあ しらった装飾模様が、中央部の段状屋根には「ダイヤモンド電燈飾」を、 さらに高さ31.5尺の塔屋頂部には「北斗星装飾」を飾っていた。  機械館(図2-3-5)および参考館(図2-3-6)は、間口20間奥行7間、「木骨 漆喰、屋根便利瓦」、軒高22尺の同一意匠の建築で・ 「近世式」を意識 しながらも、開口部やスパンドレル、胴や軒コーニスなど・かなり自在 に装飾的に扱っている。「工場風に堕せぬやう工夫」(福岡)した結果であ ろう。  北海道の拓殖を考えるには過去の北海道も知らねばならないという見 地から開設された歴史館(図2-3-7)は、小さいながらひときわ目を引い た。千木や破風木舞をつけた柾葺きの神社風の屋根と、校倉風の胴部を アレンジした混合様式で、間ロユ0間奥行5間、 「木骨板張ペンキ塗り及 漆喰」、軒高17.8尺の建築であった。  白亜の札幌館や「分離派風クリーム色漆喰壁」の小樽館など、特設館の 意匠は様々な工夫がみられたが、会場主要部の左翼を締める旭川上川館 (図2-3-8)は、旭川市技手倉辻吉次郎3sの設計、同市請負業鶴間礼三3s の施工で建設され、「モダーン式のクリーム色漆喰塗」のパビリオンであ った。隅角部玄関を高さ60尺の高塔および15尺の国旗柱で強調し、側面 30尺の高さから滝を落とし、夜間には5色の投光が施すなどの演出もあ って異彩を放った。こうした演出は内部展示にも発揮され、陳列場中央 に設けられた「百万石上川米」の「米の瀧」は、電気式エレベーターで滝の 米を落下させ、岩石や森林も雑穀やでん粉その他農作物が使用されたと いう。  会場には、建築家田上義也設計の野外ステージも設けられた。会場配 置図では確認出来ず、資料もないので詳細は不明であるが、帰欧したば かりの舞踏家石井漠“。一行が昼夜5日間(8月23日~27日)にわたり上演 し好評を博したという。 表2-3一ユ国産振興博覧会特設館 38:1986(明治29)年大阪府河内郡河内村  生まれ。大阪市立大江尋常小学校、  市立西区第四高等小学校卒業(1910  年)後、!911(明治44)年大阪市立大  阪工業学校建築科入学。1915(大正   4)遺蹟科卒業後満州に渡り建築活  動に従事。1919年一時帰国後、1921  年再度満州に渡り、翌22年自営。19  24年8月から1928年10月まで旭川市  技手として勤務した。 39:1877(明治10)年新潟県猿橋村字中曽  根生まれ。工898(明治31)年来道し、  旭川福田倉吉、酒井治三郎のもとで  修業し、1918年独立。旭川土木建築  請負業組合長(1925~1945年・)、旭川  商工会議所会頭などを務め、1945年  4月死去。(北海道建設新聞社綱『風  雪の百年』1970年) 40= 1890~1962年。 ;4;暗石井忠純。 1911   (明治44)年創設の帝国劇所歌劇部の  第ユ期生。音楽をnンケル、ヴェル   クマイス島上、三浦環に、洋舞をロ  ーシーに学び、帝劇上演のオペラに   出演、芸名を石井林郎といった。19   15年独立、1917年浅草オペラの旗あ   げ公演後、1922年渡欧し4年聞滞欧。  帰国後、1928年石井漠舞踏研究所を  創設。国産振興博覧会公演はこの翌  年である。来札の一行は、石井漢、  石井小波、石井欣子、石井菊子、崔  承喜、松山峯子、石井八重子(舞踏  解説)、松浦旅人(同)、石井五郎(ピ  アニスト)、石井博志(舞台係)。 名    称 P 建  設  者      名    称 A 建  設  者 札幌館 ユ56 札幌実業組合連合会     トバ当館 12 同諄々商店札幌支店 小樽館 ユ35 小樽出品協会        発動機揚水ポンプ 9 札幌市札幌農興商会 函館館 ユ33 函館出品協会        稲扱器藁取器 9 同玉木子三郎 旭川上川館 ユユ8 旭川上川協賛会       発動機揚水ポンプ 4 同福田重助 九州館 ユ2ユ 九州人会         同 5 同川北電気企札幌支社 宮城県特設館 73 宮城県出品協会       機械館 12 同今田福馬 新潟県特設館 68 新潟県出晶協会      発動機揚水ポンプ ユ5 同興農園 札幌特設館 ユユ8 札幌各商店連合代表高橋達一 仏壇館 28 札幌仏壇商代表奥山柳造 ライオン機械館 20 愛知県岡崎市柴田鉄工所   発動機揚水ポンプ 4 同山田商会 三農館 24 山形市農舞土壌肥料研究会  護岸工事模型 27 東京市川崎胴揚 国産愛用館 40 東京市眞子重三郎     パイプハウス 3 同啓正社 国産館 60 同            籾剥機 6 同岩田継清 同付属機械館 28 同            大日本人造肥料特設館 2 大日本人造肥料株式会社 東京特売館 76 同            機械館 4 札幌市本多商店札幌支店 同第二特売館 30 同            発動機館 8 同齋藤栄吉 伊藤組特設館 20 札幌市伊藤亀太郎     種物農用薬品館 4 同尾崎哲之曇 日の丸商会特設館 20 同松本菊次郎       農具機械館 ユ5 同ヤマト種苗農具株式会社 本庄会館 ユ2 同内野太郎        発動機揚水ポンプ ユ 2 同内野太郎 盤岩機 ユ0 同中山商店        畜力発動機館 9 大阪市香西鐡太郎 一 86 一 一一@87 一 鮮  .・・.…,一∴濾議蕪・滋 図2-4-1 国産振興北海道拓殖博覧会ボ     スター(『国産振興北海道拓殖     博覧會誌』) 41:『国産振興北海道拓殖博覧會誌』  (1 932. 8. 20) 42:博覧会を機に臨時の市内大掃除も行  われた。(7月6日~12日) 43:『国産振興北海道拓殖博覧會會誌』  p.11 44:『国産振興北海道拓殖博覧會會誌』  p.169 45:『国産振興北海道拓殖博覧會會誌』  p. 11 2-4 国産振興北海道拓殖博覧会  本節では1931(昭和6)年北海道拓殖博覧会の概要を述べるが、第3会 場として開催された小樽海港博覧会は、当初から小樽独自開催の予定で あり、主催団体や設計主体も異なるため独立してとりあげた。資料とし て1932年発行『国産振興北海道拓殖博覧會誌』を使用している。  北海道庁、札幌市、札幌商工会議所主催の国産振興北海道拓殖博覧会 は、 「優良国産品の愛用奨励」「本道産業の発達及拓殖の進展を図り因っ て以て経済難局打開の一方途たらしめる」4:ことを目的に、第1会場中 島公園、第2会場北海道物産館(北2西4)で開催された。1931年4月23 日地鎮;祭、6月8日上棟式をあ1犬 7月12日開会式を迎え4z、会期は8 月20日までの40日間であった。 第1会場の概況  入場者数延べ650,081名を数えた第1会場(図2-4-2)は、開道50年記念 博覧会と同じ中島公園とされた。68,000坪の敷地に大小160棟、総坪数 6,540坪の建物が設営され、既設の4棟800坪の建物も利用された。図2- 4-3は、配置の概略図である。  主要施設として、260坪の中央府県館(図2-4-4)と間口60問奥行8間480 坪の東西両府県館、中央府県館南側の機械館、池に張出した迎賓館、ア ールデコ様式ともいえる演芸館(280坪)などがあげられる。いずれも「色 漆喰の極めて瀟洒」43なものであった。  迎賓館は、間口8問奥行7間の平家で、ほとんど会場中央にあり、東 北側に池水を眺めるテラスを張出し、食堂、婦人室の接待室2室を設け、 他に厨房、化粧場を備えていた。  場内東南端に建築された演芸館(図2-4-5)は、総延坪276.95坪2階建 て、椅子席定員650名の「近代建築の粋を蒐めたモダンな建築」44であっ た。  正門近くの北海道館は既存建物を利用し、第一は拓殖館、第二は農業 館および元式場の建物に「鮮烈な化粧塗を施した」45ものであった。  府県階前には100尺の飾り塔が、北海道館前に110尺に達する高塔が設 けられた。東西、中央府県館と府県特設館に三方を囲まれた巾24間、奥 行100間余りの広場には花壇がしつらえられ、池中に65尺の大噴水塔、 池畔に高さ9尺の雪洞燈119本をめぐらした。  建築費は総額74,794円50銭(演芸館建築費33,961円42銭は協賛会支弁)、 基本設計料(岡田信一郎)、竣工後の模様替え、倉庫:料など計7,013円!1 銭を加算すると、総工費81,807円61銭を要した。 一88一 甑欝撫蕪講羅灘羅 瀦一_鵜蕪叢四顧蜘藏__漏脚難・警灘譲熱願麟購灘1鞘 主要工事の設計  博覧会事務局は、総務課庶務課出品課、会計課、建築課、土木課 警備課の7課で構成され、会場主要施設は建築課が担当した・パビリオ ンは、 「それ自体一つの出品物として、会の宣伝振作の上にも重大な役 割を演ずる」から、「建築様式は会期終了まで支障なき堅牢さの程度に甘 んじ、その主眼とする処は寧ろ「垢抜けのした建物」と云ふ点に譲るべ き」とされた4B。当祖札幌商工会議所の単独計画で・設計は工学士岡 田信一郎に依規設計図は1931年2月中旬に完成提出されていた4s・  その後、北海道庁、札幌市役所との共催に変更され、建築事務一切は 道庁建築課で主管した。岡田の基本設計は、公園内の立木や地勢にあわ ない点もあり、建築課長福岡五一指揮のもとに、営繕技師三戸義夫・技 手高岡仁三郎、田子秀二郎、佐藤信雄ら47が設計変更に着手した。3月 2日から4月17日までの昼夜にわたる設計作業が続き、第一次に府県館、 事務局の設計を終え、漸次設計の完了をまって起工した。主要施設の建 築概要を、表2-4-1に示した。 表2-4-1拓殖博覧会の主要施設 名  称 工 工 建坪其他 建 築 概 要 中央府県館 4.22 7.5 258,000 中央間口10間奥行10間軒高37尺5寸 両翼間口9間紙行8間軒高25尺3寸前 面6尺毎に高さ16尺の化粧柱並列 東・西府県館 〃 〃 480,OOO 間口60間奥行8間軒高20尺3寸前面6 尺毎に高さ16尺の化粧料並列左端 高50尺の装飾平付 機 械 館 〃 〃 100,OOO 聞口10間奥行10間軒高20尺中央府 県館と化粧柱で連絡 事 務 局 〃 〃 168,165 間口30間奥行5間他に便所休憩所等 左端に正門装飾塔2ヵ所付軒高12尺 3寸 迎 賓 館 5.7 6.24 59,000 間口8間奥行7間縁側付軒高16尺6寸 一部12尺 郵 便 局 〃 〃 15,250 間口5間奥行6間(菱形)軒高17尺正 面装飾塔21尺 演 芸 館 5.9 7.5 正278.950 間口12間奥行18間軒高30尺前面装 飾塔高61尺観覧席一部2階 音 楽 堂 5.20 7.5 30,OOO 間口8間半奥行5間前面32尺5寸後部 12尺5寸四半球帯 塔(府県館前) 〃 〃 (1基) 高さ100尺下部6間角の休憩所付 第一北海道館 ノ ノ 〃 (修繕一式) 建物内外修繕前面装飾門建設 第二北海道館 〃 〃 (修繕一式) 同上 塔(第二継遡前) 6.3 7.11 (1基) 高さ120尺下部30尺に10尺角の化粧 柱建柱高15尺 噴 水 塔 6.24 7.11 (1基) 高さ65尺下部径24尺の台付 46:『国産振興北海道拓殖博覧會誌』  p.53 47:事務局名簿では、建築課長福岡五一、  事務委員として、三浦嘉門、三戸義  夫(営繕技師)、高野守衛(営繕書記)、  齋藤煕(営繕書記)、佐藤信雄(営繕  技手)、兼田健次郎、田子秀二郎(営  繕技手)、佐藤貞二、佐々木五郎、  内田寛、高橋利一郎、久保田金藏   (技手)、三上一郎(技手)、渡辺末治   (技手)、高岡治三郎(営繕技手)、佐  藤満、舗彌之助の名が並ぶ。()内  は、 「昭和六年一月一口現在北海道  庁職員録」に掲載されている官職で   ある。なお鱒彌之助は、1931年5月  から8月まで北海道拓殖博覧会建築  現場に勤務、8月24日小樽市技手に  任じられ、1934年6A4目まで在職   した。 一89一 ・ . 辣 慰 灘 - 盟 藝 z    戯一fi 違 圏唱・ 、 冨 ド 頃 婁 耀響蟹欝欝轡警欝欝1:欝欝密   腎♂葛                               、   一      r     已レ                   旨                       ♂ イ∴∵窓帯罫}㌻濫こ∵\ご∵驚}総繋謙麓難繋二三欝欝 図2-4-2 国産振興北海道拓殖博覧会第一会揚全景(正面中央府県館、右は西府県館に続き特設館、     左は東府県館および特設館)(『国産振興北海道拓殖博覧會誌』) ↓ ● 壱 《 一 ’   1十±つ 恥  |、   榊 醤 門rM 7T, 図2-4-5 演芸館正面図(同前) 一 図2-4-6音楽堂正面図(同前) 2一 曹w 鵯 -                 ロ 。 止 乍 へ こ>y。脚鱒舘 ミ『滋i「璽へ7~“ 一_..・ S緬軍’㌻恥一ノ 23  ロ  / /    b  o 鱗  be.  ’《冷  “7 r .o 口 ◇ へ ζ〉。。づロ。e ・・.        2  L.,L__一し一一,齢一 蝉 も 鯵 〉 . } 「隷 【 石 蟹 \ 、 / IL...」iii!!!,,     葦・ 漏 /¥箔 影‘ミ美 G 噌 __一ノw 秩Er.._ 口         :ノ 、 3 ● ㍉ 4 : k         面 , 。 一 , 三 - 弍 ・   凋 一 ・ ・ 鴨       ・ 」       , 轟 。 }.@7 ”/f’    ・金一一     露 ㊦晴謡 、 号 , ny, 難  凡 魏 魏 麟 難         づ コ 東 迎 京 林 第 馬 事 音 7 8 9 0 1 2 3 4 館 館 館 館 飴 館 館 館           設 城 太 湾 蝉 芸 特 良 知 宮 丁 台 朝 演 札 奈 愛 9 0 1 2 3 4 5 6             1 館 館 館 館 館 懸 路 館 県 山 県 府      械 阪 潟 岡 襲 央 府 府 中 東 西 機 大 新 齢 滴 1 2 3 4 5 6 7 8 回   謬. 糊 論 図2-5-4小樽海港博覧会正面前広揚の景(『小樽海港博覧會誌』) 竈、 図2-4-3 国産振興北海道拓殖博覧会第一会揚配置図     (『国産振興北海道拓殖博覧會誌』掲載配置図よリ作成) Ol乙∵’搬:ご三 O三三三’ E葺…iヨ P四竃コ七’’盤塊= =;三:; c… T凶@   。   φ し 纏…!i!… @,{ 三 i 碁 1 = 鴛 π ‘ 1 ; : : . ; ニ ニ M : 総 … … . 三 説 ・ 臼 鼻 ♂     e ’ 選 Ai炉 駈 二≡…三6 」.汀:; �堰c:蒜 三…i三三 _」  } //\1揃1 葺…モ. 二:ニニニし二日 ! 。:7まニニ .... @       ;;繋鴛… ! ,ll雌 ヨ{:一 1 … 遡 1   一 〔==レ、、 p/  \\i                 i 戟m影[…} 日照[、 [[叩 [ [ 1 : 集 膝 m } 『 } ’搭…… 蛛 @ 禦 モ   i 三 : 三   罵 : 1 巳 l l , 旧1叩  「  量 一          ・             一 図2-4-4中央府県館立面図(『国産振興北海道拓殖博覧會誌』) 陥理口厨隠薦鷹腿こ認躍翫謀誌1£配血 ②⑩⑱㊧轡⑲Φ ⑧,{㊥ ④ の㊧ ⑪⑳⑬ 鰐麗f 麟議,_“紳冒ノ’←総”讐’η}rm’ マγ了1 3, ○ P 図2-5-5正門正面図(同上) 館 蓮 海 ly 旧 館 族 水 館易貿秦産二第一第 l I 「噸  ,     ,R  ‡  セ    1 ㍉   ㌻   1   ●  ,   〆’    齋・ツ5 @   へ 璽 、 」駆噛t= ハト ・し新 { 馬 隊 長 レ馬 ぞ 、ご己勲こ ・ f竃 「 ミ  f   ト         ト ト 一一     炉  墨 ~ 補 { コoq勧09 OPO3口Dα 一     1、 匙r 曹  冒「も書 一 ‘  ‘ 1 」 闘 一ρ 「 」 2 ’ 眠 ’ レ 9 宴」 皿 一   噂   ノ } 、 書 噸 壌 噺 肇 峯 漏 ㌧ . 畷 “ 忍 奮 噛 、 . 、 . 愚 、 釣 、 繕 . ぷ 、 , . 鴇 . 叫 ・ ㍉ . 婆 酒 導 壷 縁 、 げ . 奪 岬 、 内 、 靴 へ 忌 ξ 冷 図2-5-6 水族館・海事海運館・産業貿易館正面図(同上) 一90一 一一@91 一 己幽幽幽幽縫.羅灘繊羅懇欝灘羅灘耀鑛灘灘難灘灘難灘甕灘糠幽幽難騨響照驚難論鱗論義1饗難鍵論義磐驚1欝総論藩論灘騰欝糠繋灘総藻灘糠謙譲灘, 叢 響  》. D L 48:『小樽海港博門門誌』(1932.4.10)  p. 76 49:最高23,837円、最低14,45e円であう  た。 図2-5-1小樽海港博覧会ポスター     (『小樽海港博覧三四』) 図2-5-2 小樽海港博覧会位置図 2-5 小樽海港博覧会  小樽港は、1897(明治30)年の第!期工事に始まり、1921(大正10)年頭 2期工事竣工によって主要港湾としての地位を確立したが、1929年から 第2期拓殖計画(1941年完成)が着工、港湾修築事業は継続された。この 間1922年市営運河式埋立(現小樽運河)の完成、1928年市営第2期埋立工 事が着工している。約3万坪の造成が終了したのは1932年8月であるが、 前年1931年埋立地の一画で小樽海港博覧会が開催された(図2-5-2)。  小樽港の充実を背景に、小樽市と小樽商工会議所が主催する「海事智 識ノ普及発達並二本道産業貿易ノ振興ヲ図ル」48目的の博覧会で、北海 道拓殖博覧会とは独立したものであるが、対外的には「国産振興北海道 拓殖博覧譜第3会場」と称し札幌と連携をとった。  主要建築物の設計は3月中旬に終了、設計完了は4月下旬であった。 主要工事は、4月28日の請負業者指名入札により野上善太(小樽市緑町) が落札“s、埋立地の庭園造成は横浜植木㈱小樽代理店柴野某があたった。  工事監督を技手多田久義が担当し、5月2日地鎮祭、同27日上棟式を 挙げ、7月11日開会式を迎えた。当日、小樽、南小樽:両軸の前には、工 営課設計の壮麗な歓迎門が設置された。会期は8月10日までの41日間、 入場者は延べ474,814名を数えた。 会場の位置と配置  会場敷地は、市営第2期埋立地の一画(現堺町7、8丁目および港町7丁 目付近)約6,300坪を借入れ、ほかに河川敷:地384坪と公有水面4,810坪 を加えた。図2-5-3は、会場の施設配置である。  会場正門両脇に、事務局、宿直室、郵便局を設け、広場を介して正面 中央に高塔付き水族館、左右に海事海運館と産業貿易館が水平に延びて いた。広場中央に音楽堂、周囲に樺太館、ソヴェート館などの特設館や、 売店、無料休憩所を配した。鉄道をはさんだ余興地域へは跨線橋で結ば れ、中央橋のサッポロビール、キリンビールの6、70尺の高い広告塔が、 会場ににぎわいを添えた。余興地域には、遊覧船発着所、水上飛行機 演芸館や、軍艦マストを模した北海タイムス塔などが配置された。 工事設計  博覧会事務局は、総務課、出品課、工無心、経理課の4課で構成され、 会場建設は工営課が担当した。工営課の1ユ名のスタッフは、市の営繕課 を中心に構成され、工営課課長に小樽市技師成田幸一郎、主事に書記水 上泰、村田始一、技手青山寳治、田中六郎、書記に技手中村義英、遠藤 吉次郎、藤原喜七、西尾豊1、技手に小樽市技手多田久義、雇長岐孝之 一92一 幽幽灘鑛灘…鑛鑛…難灘蕪鰹灘灘顧慮驚織灘欝購誌:._ 助らの名が見られる。  課員は、 r建築の様式、色彩の調和、建物の配置」の方針を定め・「昼 夜兼行に設計に没頭し、3月中旬に至って略三略主要建築物の設計を終 わった」5。a成田課長は、内容の整備、外観の意匠ほかの完壁を期すた め、当時開催中の浜松産業博:覧会、東京化学工業博覧会、神戸海港博覧 会跡水族館を視察し4月中旬帰椴さらに補足して4月下旬設計製図を 完了した。 主要施設概要 [正門]起工5月1日起工6月30日(図2-5-5)  梁間6尺桁行52尺、地盤iから軒桁まで高さ30尺の門で、海事思想普及 の意味を込め汽船を意識した意匠とした。陸屋根に防水工事を施し、全 体を漆喰塗り仕上け㌔出入り口上部に高さ9尺のパラペットをかけ、 「浮出金色彫刻文字」を配列した。マストを意識した40尺の高塔には7 色の「ダイヤ硝子」が嵌め込まれ、赤、青の点滅イルミネーションが付 き、屋上には500ワット投光器2基が回転していた。 表2-5-1小樽海港博覧会の主要建物 主要建物名 起 工 竣 工 坪 数 正     門 193ユ年5月ユ日 6月30日 (坪) 内       訳 切符売揚 x備員詰所 V聞記者室 末ア局 X便局出張所 g丁詰所 6.ユ3 T.25 R.50 S3.50 P0.00 U.OO 水  族  館 5月ユ日 7月8日 内 訳 本館 h直室 200.60 P0.50 迎  賓  館 5月ユ0日 7月ユ0日 33.00 事  務  局 5月ユ00 7,月ユ0日 33.00 海事海運館 5,月5日 6月30日 255.00 第一産業貿易館 6,月ユ5日 7月8日 245.00 第二産業貿易館 5,月3日 7月9β 345.00 揚馬売店飲食店 6月ユ5日 7月8日 54.OO 臨時警官派出所 7月3目 7月目0日 ユ0.00 海獣遊泳池 6月20日 7月ユ0日 18.00 便 所(2棟) 6月20日 7月10日 ユ0.00 [水族館・迎賓館・事務局]起工5月!日(迎賓館事務局は10日)竣工7 月8日(同10日目(図2-5-6)  会場の中心的施設である水族館本館は、正面中央に60尺の高塔を付け た木造平家建て。梁間9間桁行13.5間、地盤からパラペット上端まで40 尺、左右に木造2階建の迎賓館、事務局を連続していた。塔を中心に左 右対称の棟は、梁間5.5間桁行6問、軒高26尺、!階をトンネル通路とし た。左右の通路上大壁は黄色、軒蛇腹、庇は燈色の帯状彩色を施し、中 一93一 脇《 ‘鍵 w 轡 “z .一 50: 裾O糀騨誌』q932●4・10)      が_隷轟麟椰灘酒、穏、 垂 範 影 ㌃ 鯖 転 尊 ド ㌻ ゼ 瓢 ㌦ ザ 膨 昨 蔭 ㍉ ∵ 餅 野 ‘ 難 「 一 〔コ 24 9 央入り口周囲は黄色の「サイン球」イルミネーションで飾るなど軽快な意 匠とした。外部漆喰塗り、内部布張り、羽目板張り、床板張り、木部の 見え掛りはペンキ塗りとした。  本館の高塔正面に「水族館」の浮出彫刻文字を配し、先端に20尺の旗竿 を建て、塔上部には5色の「サイン球」355個の径12尺の自動回転式風車 状電飾装置が華やかさを添えた。 [海事海運館]起工5月5日竣工6月30日(図2-5-7)  水族館左手に続く棟で、海軍逓信鉄道各省の出品、北海道庁港湾課出 品本道主要5港(函館、室蘭、釧路、留萌、小樽)の模型(1:2500)や、東 京、新潟、長崎各港などの模型を中心とした展示があった。  梁間10間桁行25.5間、軒高15尺、屋根柾葺クレオソート着色、4寸勾 配の切妻屋根、小屋組はクインポスト丸太小屋組とし、スカイライトを つけていた。外部大壁は黄色仕上げ、腰廻りは榿色、木部はすべて赫錆 色のペンキが塗られた。内部は白布張りで、出品物のディスプレーに自 由度を与えていた。 [産業貿易館]第1館起工6月15日竣工7月8日第2館起工5月3 日竣工7月9日 (図2-5-7)  水族館右手に第2館、西側正門側にL型に第1館が連続していた。第 1館には府県出品、第2館には本道出品物を展示した。第1館は梁間10 間桁行24間、第2館は梁間10間桁行27間に10×7.5間の棟がL字に接続 していた。いずれも軒高15尺、切妻屋根にスカイライトをっけ、第2館 の棟頂部には海運館同様、会旗竿を立てて博覧会ムードを高めていた。 rs fi” o le 海   面 19 4 28                 ロ       ノ    口。  口           []2・                        鳶\  02・                             ロ                         \ 図2-5-3 小樽海港博覧会配置図(『小樽海港博覧倉誌』掲載配置図よリ作成) 6 5 7 11 i’ o 路 有 幌 町 一94一 犠耀難轟自己羅幽幽灘難幽幽剛臆灘懇二一灘騨…欝 ::燗鷺認、 鴛 ...、s 編綴鰻綴議灘灘 2-6 北海道大博覧会  小樽市が国際港として躍進した時期に開催した1937(昭和12)年小樽市 主催北海道大博覧会は、戦前期の最後を飾る博覧会である。北海道第2 期拓殖計画51による櫛形埠頭3群臣の1基の竣工を機会に、 「北日本唯 一の国際港小樽の覇気」と「跳進小樽の面目を強く紹介する」と共に、 産業の振興と貿易の進展を促進し、開道70年の北海道の姿を広く紹介す るとともに、 「道民の平臥を喚起し」「健全なる本道拓殖並に産業の発 達に寄与すること」を意図したもの52であった。同(1937)年7月には日 支事変の導火線となった藍溝橋事件が勃発し、一時中止の気運もあった が実行され、入場者数163万5000余入という記録を作った。  博覧会は、1937年7月7日から8月25日までの50日間、小樽公園と1935 年度来建設中の埠頭埋立の一部を利用した海岸会場の2ヵ所で開催され た。小樽公園は市の中央部花園町にあり、繁華な花園街を控え、小樽、 南小樽、胃内の3駅からも近い上に、前面に石狩湾を隔てて遠く石狩手 塩の連峰を望むことができ、「土地高燥眺望絶景J52の敷地である。天然 の丘陵を巧みに利用することによって、変化に富んだ会場となり、また 博覧会終了後は、公園改良の一部となる一石二鳥の意図も盛り込まれた。  海岸会場は、1931年小樽海港博覧会の開催場所と地続きの埠頭用埋立 地で、単に敷地難からだけでなく、港湾を生命とする小樽市にとって小 樽湾を紹介する有意義な場所であり、水族館のような海水を必要とする 施設の配置や納涼を兼ねる点でも絶好の敷地であった。会場の決定と共 に、1936年7月以来工営部員を動員し敷地の測定を開始したが、公園会 場は起伏高低差が甚だしく平地が少ないため、計画には多大の苦心を要 したという。  本博覧会は、博覧会終了後『小樽:市主催 北海道大博覧會誌』が刊行 される予定であったようで、小樽市立図書館に会誌の200字詰生原稿が 902頁分残されており、本稿はこの資料をもとにしている。 主要施設の設計と工事経過  博覧会事務局は、庶務部、経営離土木部、工岡部、経理部、整備部、 衛生部の8部で組織され、会場主要施設は工四部が担当したe工営部は 市役所営繕課を母体とし、主事成田幸一・・一一一郎(営繕課課長)以下青山明治、 中村義英、野村秀平ら技手など16名53で構成された。  施設計画の完壁を期するために、1931年の海港博覧会も経験している 成田幸一郎と技手中村義英は、1937年4、5月の2回にわたり東京、名 古屋・大阪、福臥富山の各市に博覧会および事務視察調査のために出 張し・その結果を基に建物の配置、様式N色彩の調和等の方針を決定し 51:1927年から1946年までの20ヵ年計画。  小樽港では、副防波堤、接岸荷役に  よる大型埠頭の建設が計画された。 52:編纂委員川口喜八郎寄贈による『小  樽市主催 北海道大博覧會誌』原稿  (1940年力5) 53:ほかに、兼井高春、鎌田正夫、野口  進、山岸鶴三、佐々木甲、事務員松  本秀盛、佐野喜作、倉義雄、小畑イ   ト、磯西政雄、橋本仁三郎、池内健  二郎、嘱託田辺順。 一95一 鷲べ騨騨騰饗鑓 54:早稲田大学1920(大正9)年卒業。   『住宅』誌上に、1922年2月号から  23年4月号まで連続してライト風の  門や住宅作品を発表しているが、経  歴、活動に関しては不明。内田青蔵   (東京工大附属工業高校)氏は、1922、  23年頃あめりか屋技師であったと推  定している。 55:『北海道大博覧會誌』原稿中「工営  概況」 56:『北海道大博覧會誌』原稿中「建築  様式構造の概要」 た。さらに東京から高島司郎54を招へいして建物設計を依頼、 さらに 高島を東京、名古屋両市に出張させ、 「我が国建築界の権威に夫々設計 の査閲を請ふ」52などの万全を期している。  ユ937年3月中旬に主要建物の設計図書が完成、指名競争入札の結果、 主要工事は野上善太、萬伴作、荒巻よしみらの請負となり、4月1日付 けで契約している。4月21日、公園内の樹木花卉その面訴設備の移植移 動を開始、6月下旬終了。5月11日には、小樽公園飛躍塔建設地で地鎮 祭施行、同年5月26日公園会場産業本館で上棟式が行われた。 主要施設の概要  会場の施設配置は、設計図書として唯一小樽市建築課に残る「北海道 大博覧會幽幽配置圖」(図2-6・一1)に示される。 「KI」の署名があるの で、作図は工営部の池内健二郎が担当したものかもしれない。各会場に 建設の主要施設を表2-6-1にまとめた。  博覧会の建築物は、「バラック式の然も急造のもの」55であるが、 「建 築様式は総て新興建築に則り華美煩多を避け、時代精神の具象化に努め ると共に……博覧会建築の一大要素たるへき建築の美術化に就いても特 段の意を用ひ」 「建築様式と色彩と相調和して一見観衆を魅了し興味を 喚起せしめるもので」 「観覧上の便宜を考慮して多数の建築物の配置を 適当に定めねばならぬ」とされた56。  また多数の観覧者を迎え、多くの貴重品を陳列すべき性質上、一時的 にもせよ構造は堅牢を第一の条件とし、採光、通風、雨漏り等について も十分の注意を要し、構造は、木造平家建一一部2階建て、屋根は「隼子 板葺き」5e、内部腰高ラワンベニヤ板張り上部人絹布張り、床は簡易舗 装一部板張り、外部はモルタル仕上げで、その色調も「明快清楚を旨と し」56、地色も5色を以て統一を図った。また用材は、落葉松挽き割を 主材とし、とど、えぞまつを混用した。  設計上特に留意した事項を列記すると、 ユ公園愚息は起伏が著しく平地が極めて僅少であるが、凹地のグランドに集  諭することは避け、雄大であるべき主要館のみ建設し、通路も十分にとり、  館の軒高もパラペット高大体10mを標準とし、屋根も高台からみて見苦し  からぬよう施工し、内樋式として雨漏リに備える。 2館内の採光は天窓式を採用するが、直接光は陳列物を損なうのみならず、  小屋組の露出は「館内の美的調和」56を破るため、総て布越しの間接採光と  する。 3会場が山畑地帯および海岸地帯にある関係から耐風に対しても考慮するが、  控え柱は概観上「面白からざる」56ため、内側あるいは裏側にのみ控えを設  けることを原則とする。やむをえず外観に設ける場合は化粧下とし、外観  を損なわぬよう配慮し、塔にはワイヤーロープを以て控えとする。 など、かなり細かく注意を払ったことが伺える。  公園会場は、公園西側広場(現グランド)に中心施設を配置し、南側 西山、東側東山、北側嵐山の3丘陵に施設を配置した。市役所南西側の 一一@96 一 ’L・ @夢翁韓冒聯幽」一・ 正門(図2-6-2)は、公園入口のセンの巨木と事務局を一’線に結ぶ長さ18 mの門で、上部波形線の中央に小樽市のマーク、左右に菱形文字で「公 園会場」とレタリングし、左上部に北海道地図を掲げた・  正門南側に接続された木造一部2階建て「事務局」は、ガラス開口を十 分前取った外観をみせ、水平性を強調したパラペットの線状模様や2階 ルーバーと、40mの角型塔の対比の美しさがまず入場者を迎えた・  正門からの主要通路は、東山と嵐山に挾まれて中心広場へと導くが・ 観覧者の動線処理を円滑にするため、東山と嵐山とは延長82・50m幅4・5 mの「陸橋」で結ばれた。1型鋼梁の採用などの構造的配慮のほか、詠出 天井や柱型は色モルタルおよび色漆喰塗とされ、手摺りの要所にはライ トボックスが設置されて、会場の美観を損なわぬよう配慮された。  公園広場の中央池には、高さ35mの木造漆喰仕上げの「飛躍塔」がそび え「北海道の開拓に伴う産業文化の進展を祝福」58していた。面積1,098 ㎡、深さ80cmの池には噴水が備えられ、夜には「紅、紫、青、白、黄」 の5色の反射燈が交互に彩り、周囲にはパーゴラや植栽が施され、腰掛 も配されて、納涼、休憩、慰安の場とされた。  池の西側には最も大きな中心施設「産業本館」(図2-6-3)が「新興建築型」 5 ’ aで建てられた。正面入口に25.25mの塔を立て、隣接するスリット状 の曲面副塔「線状型塔」56には、電飾で浮かび上がる「躍進日本」se地図が 掲げられた。白い平滑な壁面には、舷窓に擬した通風採光用の丸窓が並 んでいた。  産業本館の東側には「北海道館」、「近代科学館」、南側に「三菱館」を配 置し、「北海道館」(図2-6-4)は、 「躍進北海道の姿を展開すへき」58主要 建物として設計には多大な苦心が払われた。平面形は北海道の地形「カ スベ型」56をモチーフに、入口上に張出す庇は「櫨型」5sを軽快にデザイ ンし、曲面の隅部にはマスト風の塔を立ち上げていたe  北海道館、近代科学館の裏手の中品地に「拓殖館」が置かれた、三菱館 南側、「第二産業館」をはさんだ高台に「小樽館」が置かれ、小樽館後方西 山中腹の雑木林内に「衛生館」、西山山頂忠魂碑西側に「教育館」、 「大 阪館」が配置された。いずれの施設も、軒高としてパラペット高恩10m を標準とし、屋根面も高台からの眺望を意識し、 「見苦しからぬ様厳重 なる監督の下に」5B施工された。  公園中央部東山には「朝鮮館」や売店、食堂などが並び、北側「台湾 館」の北に陸橋が架けられた。台湾館の北東下「仏教館」は、市公会堂 (1911年、現存)が充当された。  公園北端の嵐山中腹に建設された「迎賓館」(図2-6-5)は、パビリオン の中でも秀作といえるもののひとつで、博覧会終了後も記念建築物とし て戦後まで保存された。階下は応接控室と食堂、厨房、階上は貴賓室と し57、建坪76.27坪、用材は道産材の椴、えぞ松を使用し、外部白セ絵 図2-6-5 迎賓館(小樽市博物館蔵) 57:『北海道大博覧会誌』原稿中「14。迎  賓館」          ・ 一97一 一… ヨ鹸轟惑 騰灘i灘. 』 、 ,       . ご 「 唄 r A 騨 一 転 “ 監 慰 穿 碁 「   評 罫 r一“?.dett t . ’確「’ …∴㌶野”㌧ ?lll歯ご’二叢ご聡灘雛 ・ wwtbta’“n ih t’r,/r 一v” 聴鑑 乱琿  噛 ’喧 1恥噌馬、ぐ一d嶺’ 。 \:計渉;驚’ 帖 一藷 畿      s  一刷儀     ウ 1距魎磁1 λ   紺9} 図2-6-6      ’ 海岸会場正門 ント仕上げ、内部腰高羽目板はベニヤ壁テックス張り、床はフローリン グおよびタイル張り、窓ははめ殺しまたは上げ下げ、両開きの二重窓と した。1階の壁体や屋根の曲面、円形小窓、白セメント仕上げの外観が、 瀟洒な印象を与える作品であった。  迎賓館下の「演藝館」は、梁間23.40m桁行39.60m高さ13m、総面積 1,010㎡の劇場建築で、観覧席は丘陵の自然勾配を利用して固定席を設 けた。  海岸会場では、まず正門(図2-6-6)が目を引く意匠であった。小樽の 樽を型どった直径21.60m、高さ16.85mの円環を13本の柱で支えたもの で、夜間には柱形に組み込まれた5色のネオン管が一層の効果を与えた。  階上の中央に「テレビジョン館」、「オットセイ放飼池」、海側に「国防 館」、陸側(北側)に「海洋館」「交通観光館」を配置したが、中でも軒高 9.80m、面積1,433㎡の国防館(図2-6-7)は、屋上には回転装置の探照燈 を設置し、マストをかたどった塔、喫水線風に塗り分けした外観、舷窓 など、まったく軍艦を想起させる意匠であった。 表2-6-16 北海道大博覧会主要工事一覧表 館  名 面積(寅) 経費(円) 起工 竣工 請負人 [公園会場] 事務局 827.0ユ U,031.39 4月2日 7,月2日 野上善太 正   門 36.58 5.902」7 〃 〃 〃 教 育 館 629.94 5,26ユ.34 〃 〃 〃 衛 生 館 547.97 5,268.22 〃 〃 〃 仏教館山門 56.00 2,342.92 〃 〃 〃 陸   橋 82.48 4,342.08 〃 〃 〃 産業本館 4,446.93 26,944.66 5月30日 6,月30日 萬伴作 同 別館 391.15 4,ユ35.00 〃 〃 〃 北海道館 1,79ユ268 ユ3,944」7 〃 〃 〃 小 樽館 534.60 6,169.99 〃 〃 荒巻よしみ 近代科学館 775.14 6,733.30 4月2日 6.月30日 〃 拓殖館 696.60 7,172.58 〃 〃 〃 中 央 池 1,097.81 2,ユユ4.38 〃 〃 萬伴作 休 憩所 3ユ7.52 2,633.46 〃 〃 〃 中 二三: 高さ35m 7.352」6 〃 〃 〃 売店(49戸) 47628 2,569.50 5月30日 〃 〃 ラジオ館 255.ユ5 2,598.00 5月5日 6月25日 直 営 [海岸会揚] . .・ . , . , o ● ● ● , 噺 」 ●璽 層 ■ ロ璽 o , の 口 り ● ■ , . . ● ・ r ● ● ・ 顧 , . ・ o P● 鰯 ● , - , ■● ● ●o の ■ ● ・ 嚇O ● ●■ , ・ ■ ● o o 圏 ■ o ■ 一 鱒 麟 ・ ,‘● ,o ● , ・ ・ 巳 . ・● . ● ● 璽 9 亀 9 ● 噂 顧 亀 曙 ■ 昌 , 鱒 」 ■ q ■ o ■ , 事務局 507.45 9,516.82 4月2日 6月30日 荒巻よしみ 国 防 館 L433.ユ0 ユ2,828.86 〃 〃 〃 交通観光館 1,137.24 7,878.99 〃 〃 〃 海 洋館 674.05 7,794.22 〃 〃 〃 テレビジョン館 159.30 2,250.00 6月2日 〃 〃 中 央池 一式 ユ,200.OO 〃 〃 〃 売店(32戸) 3ユ1.04 ユ,440.◎0 〃 〃 〃 [会場外]●囑 ● o層。 ■ ■ 噛 曜 ,● ■ 印,■ ■ P 卿, Oo , ■ ・ ● 曾 璽 層 0 9 . ■ . 9 , . ・ . . o . ● ■ ● . o ■ ■ . 昌 騨 匿 . , 噛 昌 卿 冒 o ・ ● . 一 ρ 曾 膨 o 噸 ● ・ ・ o 」 o ・ ■ 雪 薗 . , . 冒 ・ o ● . ■ 胃 . . 一 ■ い , , ■ P‘ . 唖 P . 一 . . . 冨 ・ . ● . り ’1禰歓迎門 高さ29.5 3,704.57 4月2日 5,月30日 野上善太 同案内所 32.40 600.00 6月2日 7月5日 〃 献撫前歓迎門 一基 700.00 〃 6月30日 荒巻よしみ   貞 イ、口 ぬ サ 麹曲ゼ ,二二崖 夢 “一P!EiSg:N11]MI[]:Ei[maon                   wwNyLr       口         臨ユ聾二    ⑤ 、     、轟            へ      を             欝§雫 と、       誌         ρ ・価   q㊤ 笛瓢紳 遠離礎・・ρ。融 /6ti鯛08“⑰鱒8ゾ・o     以 ,,一一”w一}”?’    \                              t「e/     5      ら           マきスつコレ メメ           ゑ                    ずメ  ノ =zifeng=       弓癌 酒 勘 、 ノ 々 7 」 . ’ 犠 凶     ・ 爆   ・       、 、       ワ ノ を ら     ノ ア   ノ           ぬ       璽         山 ミ ヘ へ     ぱ 纂   レ 薗 盛矯”灘菟・・、r.’t  t+ ・           .    a・  」一 図2-6-1 北海道大博覧会会場配置図(一部筆者加筆)(小樽市蔵) 矯    .・,・あ,該,、‘轟ま・ 魯 タ , 1解 響・i? 図2-6-2   一冨齢 公園会場正門 ,eダ◎va 含鷺鷺囑がサ 図2-6-4 北海道館と飛躍塔 図2-6-3産業本館 図2-6-7 国防館 智 玉 凧 { 聖 途 魯 - 争 = 、 望 ミ ’ ・ ㌔ 一 ・ ホ ㌔ 鴨 ^ ㌧ コ ∵ ρ 、 ’ 「 F ・ 一 98 一 一99一 難一轍一一鐸継欝難鞭鳳雛灘灘辮騨灘響鷲鱗鯛讐欝際饗罵罪鑓黙響窒圏蝦1罫罪・,野レ:曽、曝瀞㌶弩弓懇響孚璽・翁忌1耀饗1繋響灘響欝騨欝:三編灘騰謡饗簾灘ぎ織、 { 陰 誕 豪 蔭 貌 碧 罫 城 聾 襲 鯵 第3章 札幌の郊外住宅地と住宅  前章では、北海道の大正、昭和前期をモダニズム期ととらえ、北海道 建築界の動向から、特に目を引く市街地建築の代表としてデパート、映 画館、カフェーなどの商業建築を紹介し、さらに銀行や商社など大規模 な商業施設のほか教会や住宅建築などの設計に道外建築家の活躍がみら れたこと、またこの期の建築界の活動の中心は、北海道庁や主要市部、 北海道帝国大学などの営繕組織や営繕技術者たちであったこと、道外在 住の外国人建築家や在外営繕組織による作品が、少数ではあるがみられ たことなどを指摘し、さらに市民生活に大きな影響を与えたエポックと して博覧会についてとりあげた。  本章では、市民生活により直接的に、より密i接な影響を与えたと考え られる住宅地と住宅建築について札幌市を例としてとりあけ㌔新興住宅 地の開発が中流住宅の建設に拍車をかけたこと、 「モダン住宅」とか 「文化住宅」とか呼ばれる意匠的にも平面的にも目を引く住宅が、建築 家の設計ばかりでなく、施主や棟梁たちの手によっても創造されていっ た点に注目した。建築家設計の住宅のうち、札幌市ではマックス・ヒン デルや田上義也の作品が多数注目されるが、これらについては、第2部、 第3部で扱うこととした。 一 100 一 11. 1#g! IS bem.」;. .,.r 3-1札幌の郊外住宅地  市街地の繁栄・発展は、郊外住宅地の整備をも誘引し・都心部へ通勤 する中流サラリーマンの住宅地として拡大していったことは・多くの都 市でみられた現象であるが、札幌でも大正期以降市街地拡大にともな い周辺に住宅地が開発された。なかでも山鼻、円山住宅地は、規模も大 きく、郊外住宅地として、あるいは文教地区として発展した典型的な地 区といえるものであった。いずれの住宅地も自治組織による自主的な計 画であり、ともに1922(大正11)年以降実施され、前者は1929年、後者は 1927年に完成している。  本節では、これらふたつの住宅地計画の背景、実施過程を中心に、さ らにこれまであまり知られていなかった温泉経営と結び付けた札幌温泉 土地株式会社が経営しようとしたユニークな分譲地についてみていぎだ い。 3-1-1=山鼻地区 ’山居は、1875(明治8)年の屯田兵入殖以来の歴史を持つ地区で、主と して東北地方からの移民を中心に形成された兵村である(図3-1-1)。240 戸の兵屋は、中央に石山道路1(西11丁目通り)をはさみ、約5丁を隔てて 東西両屯田に分けられ、東屯田は南8条から23条に至る間を西8丁目と 9丁目との両側に兵屋が片側60虫ずつ建設され、西屯田は南6条から21 年間、西12丁目と13丁目の両側に、東屯田と同様に、間口20間奥行7.5 間z、150坪を一宅地として片側60戸ずつ建設された。宅地には奥行75間 の耕地が続いていた(図3-1-2)。  両屯田のほぼ中央、現在の南!4条西11丁目には、中隊本部の事務所で ある週番所(1885(明治18)年以降中隊本部と改称された)が置かれ、診療 所が併設(1888年)されたり、1878(明治11)年には隣接して山鼻小学校が 開設されるなど、地区の中心的な役割を果たした。  1902(明治35)年に屯田兵制度が廃止されるが、同時に「屯田兵土地給 与規則」3も廃止され、土地の売買も自由になった。1906年山嶺村と後述 する円山村が合併し藻岩村となり、住居表示は「札幌郡藻岩村大字山漁 村○番地」となったが、この頃には、山畑村の札幌区編入が検討されて おり、1910(明治43)年4月には、豊平町、白石村、苗穂村とあわせて山 導村の旧兵村部分が編入され、山鼻村の中心部のほとんどは藻岩村から 分離されている。  山鼻地区の編入以降、土地区画整理、道路整備に対する住民の強い要 求もあったが、その理由として、山鼻は都市住宅地として発達すべき条 件を持っているが、 「兵農を兼ねた特殊な型体をもって区画し移住させ 1:現在の石山通。札幌の中心街から山  鼻を貫通して石切山、定山渓へと通  ずる国道230号線の通称。開削は18  70(明治3)年。 1872年入垂別で硬石  山を、同年穴の沢に軟石山を発見、  その運搬輸送路として重要性を増し  た。(『札幌地名考(さっぽろ文庫1)』  1977) 2‘『山鼻創価八十一周年記念誌』山鼻  創基81周年記念会(!957.5.29)p.58  ほかには奥行10間とある。当初は、  南北と東西に通じる十宇路をほぼ中  央に敷設し、両側に並行する道路を  通し、ユ区を横200間、縦170間(標  準区画、場所によリ差がある)とし、  その中に裏口が背中合わせになるよ  う2列に住居を10戸ずつ計20戸配置  した。ユ戸分の敷地は間口20聞、奥  行85間で、その内間口20聞、奥行10  間が宅地分(200坪)で、あとは農耕  地(1500坪)にあてられた。ところが  入地してみると、兵屋の表口に面し  て細長い給与地が広がり、背中合せ  の隣家との交際が不便で、日常生活  上支障が多かった。このため1戸あ  たり間口20間、奥行2.5聞の宅地(50  坪)を道路用に醸出した。(札幌市教  育委員会偏『新札幌市史第二巻 通  史二』北海道新聞社(1991.IO.19)  p,343) 3 1890(明治23)年9月法律第79号で公  布。ユ戸あたり約15,000坪の土地を  給与(第一一条)、移住より30年間土地  の譲渡または質入の禁止(第四条)、  屯田地は服役中および満期の年から  10年間(1883年以前については20年  間)国税および地方税を免除(第三、  八条)など、土地制度の一般規則が  定められている。 (伊藤廣『屯田兵  村の百年(下巻)』北海道新聞社(19  79.9.le) pp.249, 250) 一 101 一 誰 聾 腎 国 国 匡 幸 ト ー 脚 酌 艶 で ∬ か 辞 k紬_ ’・ 窿チrl三r.響 ・丹’堺馴附議饗『『鍵盤響饗滑輝繁驚償隅饗群獄響ア糟樽饗響繰離塁欝鞭灘三三灘 伽 r L it ti)t AL-L-1 t; .L fi-JL T SL .t l L . .+ti t .FLLsJ . J )1一 ..a. J s. r一 一. 一“Lt]一 1 .一                           騨勉3種一帽隼■;’                     も一_L____                          二三             \     \一一、  ノ/     \.  S                  NX 図3-1-1 山鼻屯田兵村(北海道行政資料課蔵、『札幌歴史地図〈明治編〉』よリ転載) 7.5間  5闇  7.5間 7珊 ] 裏 L」 西 )屯 田 通 3.5闇 一圏 碧 閣 圏副    弼 宅地 N 年に繭1・条西17丁目に幌西小学校が増設S・at・山鼻地区の西方への 響瓢蹴格1_にはV・つてからV・」ll・ 6・M,. 1931(昭 和6)年札幌第二欝・J・学校(三三学校)が南22条西12丁目に新築隊 1935年には市立札幌欝雛学校(現札幌繍欝学校南14西14)羅 翌1936鞭南小学校(南2Q西5)設置1944年札幌中学校(南9西22纏 などがあげられる㌔ 192。(証9)年12月、札駆会議員の半数改選が行掛細兵村出 身の佐藤善七が当選した.佐㈱山鼻町有志の強い推薦を受け・道路 纏備㈱に訴えてお轍の当選はその実現への足罷りであった・ これを受けて駆臆事業雛母体として山鼻自治会を回する・ 山鼻自治器1921年・月泊主的に道躍備計画案「嶋町齪道 図3-1-2 山鼻屯田兵村一戸あたりの敷地 4:『札幌市史 政治行政編』札幌市役  所(1953.2.20)p.103 5:前掲『山鼻創基入十一周年記念誌』  p.27 た所」なので、「各地主がそのまま宅地分譲をすることになれば、市街は 乱雑となり、将来土地区画整理事業に非常な困難をきたす」恐れがある (札幌市吏政治行政篇つことや、「屯田兵村と東本願寺の間には連絡すべ き道路がなく、山鼻の発展の障害となっていた」(山鼻創基八十一周年記 念誌5)ことが挙げられている。  1918年開道五十周年記念北海道博覧会が中島公園で開催され、公園入 口までの電気軌道も開通して、山鼻地区が良好な郊外住宅地として認め られるようになっていき、土地区画整理事業の必要性が強く訴えられる ようになっていった。  また、いくつかの学校の設立や移転が、文教地区としての発展に拍車 をかけることとなった。1916年札幌工芸学校(現札幌工業学校)が南14条 西12丁目に新設され、1922年7月南18条西6丁目に札幌第1中学校(現札 幌南高校)が北10条西4了目から新築移転、翌年12月には前年設置された 静修女学校の新校舎が南16条西6丁目に新築、1924年には南5条西17丁 大 正 十 年 ’ 月                斐,1雲     口……姜       壬・輩       噸,      ji .・ A、毒勤   }r・.ト   ァ 昏 ,軽羅“」μ嘉    と     コ晶謄鷺♂ 1;  lXlKI言 pa”U ?…P li舞.. 感応 謝哉獲奨解 り    義、己 ‘、 ムずユざ li、晒r鰻 馨・  響 委.・ 峨彰撚一    亀堂L     鶴 串. ツ ● 劔 一 [ . ’ ・。。・一門鶉1    ● 督・14耐  .、’i■し.’摩殉.   #”:; ロド  ゆ  る むモ 難妻藻・ヨ緊       ・寧 塁朧1「ボ   鷹1…三・ じゅげ @るりド   て   ・寡’   畿。を、 尺 度 壷 萬 分 之 壷 4( h ノ 吻 ρ カ ノ ー ,   ・ い 〔 ノ ノ 畠 め首、 圭 ・ . 噛諦, 駒 .嚇U ヒ 一 門 『 ・ ● 節    じ 物 / 9 .     評   ・   「 ψ ! / , , 葦 噛 、 鐸 “・ u一 ヤ 齢 。 日 君 覗   ・ }『 船体見モ まり ロ に ロ 賠 諜 莚 ・ 汁 . 酷. ツ 陶 . μ 難 撫 愉 疑 『 口 汐 ’ ホ . { . 訴 嚢 . . . 醐 一噌 @. U. ・三 ネ 紫 虎. 9 鞘 甕 ←’・いノ/   :tl  [172r./ノ   /  / 山 畠 肝 町 豫 ⊥ 冗 … 蓮 路 一 曹 調 固 図3-1-3   灘  嵩“モ…り, :i1.;鷺   xg 隔 る ,   膚 珂 ⇔ 員 僧 ? 幽 , 梶 量 嵩 ロ モヨ ;≡iヨ, 隷’   詐 F 3 . . 鵠 都 . . . 甲 罰 郭 麟   . ワ 嚇 ド 韓 顧   7 匿 「 r , ミ ,   ・   摺 、 驚 義 錠 “’:罵;一∴・ ツ ミ   もほゆ   ね 、臥三’1埠症、 ㌔集…ゴζi二〆  面恥聯,!   ドi-1・:”’   ’呈 繊/ ダノ. 聲1                        /”㍉・                       ニレユ お 旧邸町豫定道路一所由       ’         ・て_ごボ (北瀦詞書蘇r札幌歴蜘図〈大正編〉・よリ磁) 〔 山 嘉 暫 治 金 一 鋤 奴 6,r山鼻創基入+一周年記念誌』  p.26 7:『山鼻創基八十一周年記念誌』  p.32 一 102 一 一一@103 一 幽幽幽幽幽幽欝. 撚一顧順義嘗欝・劉灘響欝繊論難総論懸盤 論難響蕪縣嬰鱗鞭灘欝難磯1藤織…欝欝灘灘欝総懸耀, き じ き 曇 軒 彰 藪 匿 誕 黙 蚕 8:『円山百年吏』円山百年史編纂委員  会(1977.6.25)p.67 9:『円山百年史』pp.73、74 路一覧圖」を作成し、道路敷地は地主の無償提供によることを決めた。 同年2月の区会には、山面町道路開削の件が建議され、おりしも札幌区 の都市計画法適用を控えた道路整備計画の時期と・一致したこともあって、 この案件は可決された。予算化されたのは、翌1922年2月であった。実 行にあたっての検討のほか、市制の施行(1922年8月)が重なったためで ある。  「山鼻町豫定道路一覧圖」(図3-1-3)による計画案の内容は次のとおり であるが、道路幅員縮小のほかは、ほぼそのまま実施された。 1.旧屯田兵村の大部分を対象とし、面積462町歩(460ha)、道路延長24  里(94.3㎞)である。 2.道路は既存道路を基礎とし、東西道路を旧屯田兵2戸毎の敷地境界   に新設する。 3.道路幅は、石山通リを20間、他の既存道路はユ5間、新設道路は8聞   とした(実施案ではユ5間、8間、6間)。 4.住所表示は「南○条西○丁目」とする。計画案には四丁境いなど詳  細はないが、現在と同じく、およそ80間×80問の中通りのある街区   を1住所としたと考えられる。  道路整備事業は、1922年より7ヵ年を要して完成したが、同年8月市 制が施行され、翌1923年市電山甲線が行啓通まで、1925年7月半は現南 高前まで開通し、住宅地拡大の契機ともなった。 3-1-2:円山地区  1870(明治3)年に開拓使募集の農民が酒田地方などから入植した円山 村は、村道(現西25丁目通り)の両側を耕地とする農村集落であった。こ の道路および敷地割は、大正前期まで基本的に変わらなかった。  1906(明治39)年4月円山村と山鼻村は合併して藻岩村と称したが、前 述したように1910年に札幌区との間で行政区域の大幅な変更が行われ、 山鼻村のうち旧東西屯田兵村部分、つまり中心部分ほとんどが札幌区に 編入されされたのである。この後円山村は藻岩村の本村として発展して いくが、この間1903年に、札幌区は区共同墓地を円山村に設置8したり’、 円山養樹園(御料地)を公園予定地として貸下げを受け、翌1904年から整 備造成に取りかかった8。これが現在の円山公園である。  明治末期から札幌市街の拡大がおよび、地主の住宅誘致の意向は強ま っていったが、大正期には、貸地収入が農業収入を上回るほどSとなっ た。当時の円山の宅地貸地料は、1坪当たり2~3銭で、坪3銭とする と1反当たりで年間100円を超える計算となるsのに対し、農作物の価格 は、大正11年産価格で疏菜平均が73円強9で、しかも粗収入であるから これから種子や肥料代などを考慮すると、畑作収入より宅地貸地のほう がはるかに高収入が得られる計算となり、地主たちが宅地化に積極的に なることもうなずける。  1922(大正11)年、電気軌道の円山延長計画を機に、円山地主全員によ 一 104 一 る地主会が結成され、道路網建設と土地区画事業が計画された・円山地 主会会則第3条10にも、 「東宮殿下の行啓を記念し・円山村の開発進歩 の趨勢に鑑み、大札幌の将来を達観し、適切なる道路網を案出決定し其 囎会員の親睦を図るを目的とする」(アンダーラインは筆者) と、はっきりうたわれている・  円山地主会の発足は、1922年7月5日、 「円山尋常高等小学校ニテ開 会ノ藻岩村大字円山村東宮殿下行啓記念道路網計画二関スル地主会」が 開催された。同年9月第2回地主会では、道路網計画案の承認の件・道 路網計画案実測の件などが議題となったが、結論の出ないまま閉会・11 月の地主会で全体の計画案と事業の協力への合意を得るに至っている・  道路網計画案と考えられる『札幌郡藻岩村大字圓山道路網圖』 (1922 年図3-1-3)やr円山地主会議事録』11、 『円山百年史』によれば計画 内容は以下のようなものであった。  1.山林を除く円山村全城を対象とする。面積約270ha。  2.円出村の共有財産を売却して、うちユ58,000円を市街地区画道路網新    設予算とし、道路用地は地主の寄付による。  3.札幌市の街路が幽界(現西20丁目)まで延長されている北5~南1条は    その街路を延長し、それ以外は札幌市の60間×60間街区を基本とする    が、北5~南1条間の東西道路、西20丁目~25丁目の南北道路は既存    道路に規定されて40~70間間隔と乱れている。  4.既存の敷地境界には規制されず、道路に分断され不整形となる各地主    の土地の交換、整形などの整理は行わない。また旧道路も廃止しない。  5.住所表示は「南/北○条西○丁目」とするが、 「条」は札幌に一致さ    せ、 「丁目」は円山村独自に1丁目(現西20丁目)から定める。  道路建設は、1923(大正12)年から1927(昭和2)年まで円山村により実 施され、これにより南7条以北、北!条以南がほぼ完成した。  円山村の道路網整備事業は、当初から宅地分譲、あるいは貸地による 収益を目的としていたので、1925年円山地主会は円山振興会と改称し、 さらにポスターやチラシを配布して、住宅勧誘の宣伝活動を行った。費 用は、村内の地主により、所有面積に応じた予定額:を定めて寄付を募っ たが、村内を1等地から4等地まで区分し、1等地の所有者には3割増、 2等地には1割増の寄付金を求めている。所有反別と寄付金予定額は、 3町歩以上10円、2町歩以上7円、1町歩以上4円、3反歩以上2円、 3反歩以下1円とし、これ以上の額を希望している12。集まった寄付金 は、次のように予算化された12。 第1回支出見込 宣伝ビラ3万枚印刷 新聞挿入料 ポスター500枚印刷 ポスター広告の送料、謝礼 原稿考案料 新聞記事記者謝礼 雑費 360円 90 30 ユ25 30 20 se 15 一 105 一 範.幽薩・一 ㌦得P・・\ J、べ盤、、パ4邑 10=札幌市資料館所蔵『円山地主会議録』  ほか円山地主会関係書類 11:札幌市資料館所蔵 12:札幌市資料館所蔵『円山振興会寄付  金芳名簿』(1925年) 妬 ず p 動 畿 翫 募 識 臨 欝 い ギ 幽 成 鞄 勢 鐡灘灘懇纏縫麟総総機鍵譲蕪欝 懸灘凋難解欝欝亨」幽院穐憾富耀 論触 逝ダ肇 13:三関ミン所蔵 14:『円山百年史』P.72 15:『円山百年史』pp.80, 81  印刷したポスターは、札幌市内に240枚、箱館、小樽、旭川、室蘭、 岩見沢、滝川、名寄、砂川の各都市に計270枚を、宣伝ビラは、市内の 湯屋、床屋等に14,000枚、市街は上記10市のうち名寄、砂川を除く8市 に計15,500枚を配布するという記録が残されている12。  「札幌郊外円山住宅地 円山十勝」13と題するカラー刷りのポスター (図3-1-5)は、円山を背景に、円山温泉、札幌神社、円山公園、公會堂、 疏菜市場、小学校、村役場など既存の施設を配置した傭緻図と電車路線 図が添えられ、円山十勝として、住宅地としての利便性、快適性を次の ようなコピーで挙げている。 一、円山は北海道総鎮;護札幌神社の御在地なり 二、土性水質は勿論天然の風致並に住宅地として絶好適良なり 三、電車は札幌市の南一條線に連絡して円山公園下迄全通す 四、貸地料の低廉なるは他に類例なし 五、道路は圖面のごとく開盤せられなり 六、學校財産は富饒なり 七、公課金は比較的異なし 八、市場に於ける疏菜の廉価るは定評あり 九、電車終鮎脇に電鉄三社直管の娯樂園あり 十、円山南麓に札幌温泉土地株式會社経管の定山渓温泉浴場あり前者  と共に其設備理想的なリ また藻岩村十二勝として1月から12月までの風物詩も添えられ、 一月札幌神社の初詣 二月雪中登山(札幌市の眺望) 三月円山山麓の福壽草 四月円山公園の新緑 五月札幌神社境内の観櫻 六月藻岩観音の山開  最後に朱書で「地主は皆さんの来住を歓迎して居ます 次ぎを致します」と結ばれ、 「円山振興会 および、取次所として「札幌市外円山 々木小太郎、札幌市大通東1 片岡唯一郎、札幌市外円山 門、中村萬六、三関武治」らの名が連ねていた。  このポスター宣伝がどれほどの効果を発揮したかは不明であるが、道 路網が整備される1923(大正12)年ごろを境に円山村の人口は急増してい る。下に示すように1921(大正10)年から約4年ごとに2倍という速度で 増え、10年後の1931(昭和6)年には1万入を突破し、1922(大正11)年か ら1930(昭和5)年頃にかけての年間人口増加率は、30~40%と最も高く なっている。 ユ920年 192ユ ユ923 ユ924 1925 1927 ユ929 1931  309戸  340  550  629  829 ユ,2ユ5 ユ,678 2,003 ユ,765人14 ユ,85615 2,833i5 3, 15si4 4,ユ9315 6,34gis 8,647i5 10,336i5 七月豊平川の川狩 八月円出の朝市 九.月御料橋の観月 十月藻岩山の紅葉 十一月連山の初雪 十二月札幌温泉岱のスキー           本會は其御取     事務所札幌郡藻岩村役場内」   上田萬平、札幌市南!西3 佐            蒔森武左衛 一 106 一一 蕊ご8解難灘羅覇灘灘鱒撚蒙懸欝難購灘羅1燃灘1欝ゑ無難難魏魏難i響饗:瞥・響響で∵ .’TCrm.,T’一丁’ ”LJT:N. ’A:i r.tr,. 」垢F、  ’凹」HxrI     ’尋i ・恥3世∵∵ソジぐひ’し台 ’ ドト9 ’㌧1  製t ’踏継璽一三、  さらにこの時期の藻岩村の職業別人口構成の中で、目立った変化が見 られるのは、官公吏、会社員、教員、医師産婆をあわせた給与生活者層 の増加である。1929(昭和4)年末の職業別戸数をみると・全体の約3分 の1におよんでいる15。これらの大部分は、村内で就業するものはごく 少数であり、村外つまり札幌へ通勤するものと考えられる・農業人口は ほぼ一定しており、急速に離農が進んでいるわけではないが・農業以外 の人口が急増しているので、有職者全体に対する農業人口の割合は・大 正10年67.7%(393人)16から昭和8年14.3%(360人)IBへと低下しており・ 郊外住宅地化への進展に伴う現象が顕著に現れている。 ..曜甥■■■咽騨剛「 N. r’vl   ロ  へ而 ・、 、      ’ 16:『藻岩村勢一班』 (北海道大学北方  資料室所蔵)による。 し 一米一・   , ’  物    F 虫 ’ 恥 [ ] う 裂 バ 6 - - 旧 譲;ゆ 避 { 岬‘ 笥 ≒ ㌃ 、 暢 . ¶ 鴨     噌 嘩   縛 欄 4 聯 関 甲 / 醐 毒 ’ 「 ! 飛 噸 恥 鴫 ’ 2 、 ほ い ’ “ 二 二 撰毒蠣 . 墜  kw 一 同 郡 藻 岩 村 大 字 圏 山 道 路 綱 .’ 秩h’“ @ ’ 騒’罷心   ・囲ヨ 1 ,適、     蝋誤 偽瓢 “ 、 函 臼 蒙 ド げ ヒ L   ヨ       ノ   サ       ノ ま   ロ ミ ニ ロ   ほ コ   バ ダ u 昌 醤 ㌧ 、 3 . ! ぺ ・ ノ     も       い ~ 夢 Y 、 . ・   k Imaes 嘔 番 r , 「 , 一 も 「 v 舶   弼   例   の     ド   ド ロ 細 糊 畑 3     ’ 》 F 幽 i I ,   「  り 璽。 富 .二 、. 覧 .、{  奪     同一 d 受噌 図3-1-4札幌郡藻岩村大字圓山道路網圖(1922年)(三関ミン蔵)  こうした住宅誘致は、当時は文化住宅地と呼ばれ、円山ばかりでなく 山野や琴似でも類似の誘致宣伝が行われた’7という。新しく建つ住宅は 文化住宅と呼ばれ、 「クレオソート防腐塗装の下見板にトタンぶきの折 れ屋根、上下式や観音開きの出窓がつき、どこか洋風な匂いのする、当 時流行のモダンな建物が多かった」17という。  人口の急増とともに小学校その他公共施設の整備も行われ、円山、八 図3-1-5 円山振興会住宅勧誘宣伝ボス     ター(1925年頃)(三関ミン蔵) 17:『円山百年史』p.81 一 107 一 ゼギ ?零点警1讐素線病識撃讐饗欝}饗讐滋藤羅獲至親葉耀罵:・灘, l  l   卜  1 臥 - 臥 臨 新 暴 ,.灘鰻難難繊蕪雛鐡欝欝縫懲藷継簾蹴懇懲懲灘騒卿’盟鍮鎌継,・確冨亡妻・㌦∴,1細・・,、’ .、 寮 . ¶ 18:『円山百年史』p.205 19:「中央区史探訪4」(広報さっぽろ、19  75年1月号) 20:1928年3月14日付北海タイムス「札幌  温泉と理想的住宅」 21:1926年5月2日付北海タイムス「圓山  の札幌温泉」 垂別、白川各校が増改築され、1924年にはブロック造2階建iての円山公 会堂(日払長吉設計、北1西23)が建設、1926年からは村会議場としても 使用されるようになった。大正12年村消防組の番屋の新設、昭和4年役 場敷地内番屋に鉄骨二二の見櫓建設、1926年藻岩村巡査駐在所新築移転 (北1西25)、1931年藻岩村南巡査駐在所(南5西23)新設、ユ930年には田 上義也設計の円山郵便局(南1西24)も開設されている。 3-1-3=札幌温泉土地株式会社  郊外住宅の分譲の中には、温泉経営と結び付けたユニークなものも札 幌に出現した。現在の旭山記念公園(堺川町)下、養護施設南藻園付近に、 セセッション様式の温泉場(図3-1-7)を新築し、札幌温泉を経営した札 幌温泉土地株式会社である。  同社は1922(大正11)年河原直孝社長を中心に、界川地区を住宅地とし て分譲する目的で設立されだ8。吉野牧場や双子山地帯を買収し、道路 と宅地区画を設定し、1923年から住宅地として売却を開始したが、河原 社長、愛須梅次郎らは宝塚式歓楽郷を夢見て1s、温泉を中心とする住宅 地の開発を計画した。  直接の資料には欠けるが、1928年7月14日付北海タイムス記事「札幌 温泉と理想的住宅地」(図3一ユー6)には、計画の概要が報じられている。記 事によれば、同社分譲予定地のうち7万坪中の3万坪を第1期分とする もので、西に藻岩の連山、北に円山の霊峰を擁し、これら連山の大原始 林を背景に、眼下に札幌市街を一望の下に収め、東には広く石狩平野を 望み、西南の陽光四季を通じて明るく輝き、用水も極めて清洌であると いった自然条件に恵まれた絶好の住宅地であった。  住宅地への交通としては、札幌温泉土地会社の姉妹会社札幌温泉電気 軌道株式会社が、同温泉から市営電車円山3丁目、現在の大通西23丁目 付近に至る温泉軌道を予定し、1928(昭和3)年8月末か9月中に開通す れば(実際の開通は1929年であったが)、中心市街地まで30分弱で到達で きる利便性もうたわれていた。電車停留場は、温泉前幹線道路に設けら れ、温泉場に至る道路の両側には商店旅館向用地、高台には住宅向用地 を設定し、1戸分100坪より200坪まで分譲した。  さらに「二二に商舗事務所を有して繁務に携はる入々はもとより官吏 會社員住宅地として、又本道教育の中心地たる札幌に子女の教育考た安 住の地を定めんとする人々にはこの際何をおってもこの理想的住宅地を 手に入れ一家の資産として子女の為に備へることは最も有利賢明な投資 であろう」z。と投機の有効性さえもうたっている点は興味深い。  この住宅地の中心には、21万円の巨費を投じた一大娯楽場札幌温泉が 建設され営業していた。ユ926年5月開業のこの温泉(図3-1-7)は、定山渓 温泉からコンクリート管で引いた湯を「新式の機関釜」21で原泉に復活さ 。 札 幌 温 泉 と 理 . 想 的 住 宅 地                         上 自 は 分 罎 † る 劃 齢 彼 喝 触 7 麗 瞳 札 幌 温 a r 翻     奇 , “ 亀 , 履ノ鞭鮭, 燃 、 “ 一 ’ ‘ 、譲 、 郡   ず 苧 P 曹 7r    腰 ・ 亀 ㎞ ロ             リ       ぜ     :   ’ ぜ や     ; 襲         ■ 轍   、 騨 ’         ’ 年鑓 硬   一 州 “ ” 」 ひ イ の 災 し 、 ‘ 羅 織 、ゆ } ㌧ 鍵 瀦 気 褥 訂 罫 、 ヤ4 ψ 。 札 幌 西 南 郊 の 理 想   佳 宅 地 匂 ~ 脚 卍● 曙 嬢 継 隠 里 齢 護 一 肺 鐙 。 寒 誌 峯 £ 琳 島 5 二 6 艶 に 照 目 し 瓢 鴨 一 し 邸 の ザ い 即 』 と } 麟 睡 署 貞 白 旧 藤 熱 じ 轍 酵 裡 燕 に ぬ 腔 を 7 一 だ 趣 憾 諏 愚 土 鼓   し み 0 て あ 6 慶 四 角 隊 に 停 、   一 彪 二 」 返 し く 誕 - 重 で も   も ぞ 儒 や 纈 越 か に も 』 よ 9 創 面   耐 墜 よ り 箏 桑 ホ 醜 f 一 一 愛 馨 熟 猷 即 響   な っ て 陣 6 り で る る 慨 亀 湿 一 士 題 尋 藍 ・ 箪 斑   麟 叩 虹 脚 照 躍 “ 距 瞠 6 函 。 箏 乱 し 顧 際 樫 『 い 面 1 2 匙 。 霞 」 犀 て 馨 藤 0 獣 解 憲 暇 賦 嬉 も 蛤 思 れ 乱 輪 1 9 と い 蚤 で は な い O で 轟 も 温 泉 場 の ’ 肚 麗 善 美         虹 に 近 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楓 嘩 羅 の 麟 “ も セ 3 齢 び つ ” ら れ も こ と 」 な O ヨ や 航 を 馴 せ f 暑 磁 9 の 覆 に 箪 し 俸 ら る し 二 と ≦ な っ た O で 為 る 剛 竃 勒 の 皿 曜 に ≧ つ f 国 配 配 縦 鍛 一 駅 み い 塩 駅 野 麟 聖 和 」 た 二 と 一 2 縦 蹴 ℃ あ る 2 無 叫 盤 せ ら れ ん 七 了 る 糧 難 蟄 恥 げ 鋤 肉 麟 靴 い 匡 二 〇 聡 に 上 っ て 猿 灘 即 還 ≧ な つ み 贈 燭 ・ こ の 静 酔 に 躇 , 盗 蟹 0 に 拠 撤 を 徽 み ん 亀 入 み の に 竪 て 舞 昼 し 戎 臣 e あ 聾 尉 ψ に 畑 静 諾 セ 稀 し て 駅 勘 」 団 に る 稗 バ に も と レ 茜 歴 艶 飢 直 崖 。 似 唱 峰 と し て 講 田 癩 O 献 覗 ゆ た る 幅 U に 誰 の 饗 蛾 乳 脚 欝 O 恥 捻 力 ん き 珊 魂 に 1 2 二 〇 騨 峨 セ ” い て も 二 ω 陣 駅 舗 U 嘩 セ “ 」 い “ 一 騨 の 婁 し て 叢 の 誰 に 麟 へ る 二 と 陰 働 毒 ぴ 拠 昏 £ ら う         鞠 る 土 地 礼 鱒 楓 窺 脅 旺 の 6 亟 高 せ ん と † る 腔 竃 喰 ぼ 環 に 碑 費 鴨 と し て 見 て ‘ 路 Ψ に 大 3 勉 員 襲 セ 漏 ◎ さ る へ ◆ 愚 - 嗣 な 土 唾 で あ る 土 厄 の 霞 菖 隅 の も ち 貴 薪 闘 確 買 陰 ら O 纏 会 貞 へ 榔 田 の 儒 に 椴 し て も ★ 脇 鵬 琶 願 O 口 外 億 宅 喧 Σ に を れ 力 富 宮 電 で あ る 吐 ら κ 帆 も 臓 實 な も の で あ る 幽 ◎ 分 膠 ε れ ら ナ 雛 毒 億 竃 羅 口 中 酬 ら ^ 口 躍 聖 刀 〇 六 3 ㍉ 糺 縦 渉 外 O 蘭 き の 舞 四 聖 鴫 で あ し 庫 ら 茜 喬 自 、 欝 飛 目 し て 患 も O で あ る 性 に 糺 り 価 外 電 耶 9 璽 長 で あ ろ 咀 棄 に 両 又 額 塚 に 恥 て 霧 駆 」 購 長 話 鷺 し て 曇 る 景 苗 凶 に 什 ひ 酌 膿 一 層 塾 曙 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設4年足らずの1930年頃には廃業という22。廃業届けは遅れて提出され たらしく、札幌市es一一覧昭和9年号の市内及び附近案内の項に、 「札幌 温泉 藻岩山山麓の高毫に在り、全市を敏下し眺望佳絶遊覧客多く附近 に藻岩温泉、圓山温泉がある(市電圓山三丁目停留場から温泉軌道の便 がある)」と掲載されており、翌10年版からは掲載されていない。  その後北海道拓殖銀行の所有地を経て、1946(昭和21)年無銀行が札幌 市にスキー用地として16万5,000㎡を寄付、さらにその周辺の土地を市 が買収し、1970(昭和45)年9月旭山記念公園が完成している23。 図3-1-7 札幌温泉(札幌市資料館蔵) 22:関秀司・笹木義友共編『ふるさとの  想い出写真集明治大正昭和札幌』   (1979、国書刊行会) 23:札幌市教育委員会編『藻岩・円山   (さっぽろ文庫12)』(1980) 畷 マ ・ ’ 選 一 108 一 一 109 一 嚢鱒海難講鑛灘認響灘灘難羅饗麗麗騰1饗響驚照照1饗欝欝難繊難饗宴:羅エ曝露纂憂・』跨攣汽1「二二懲:~ll;㌶欝1轟坐上饗饗響饗難難鞭饗饗1難難欝騨欝欝露盤i灘馨i羅灘欝隙意 一 「 r - 胃 一 i - ー ー 峠 ー ー 琶 F 計 隔 麗 P 璽 轟 鎖 塾 隅 鱗縫繋灘網螺羅懸鞍懸鯉蝋翻響建蔽㌔惣叩琶諸脇緬繕細建・瓦5・・群実 b覧隔署卸∵1『}1繋縛へ榔〆欄警!懇懇尽難解欝欝聯饗響饗響欝鷲饗響響懲鐙叢叢驚纏i灘鱗 篤  図3一一2一・1小田良治邸     (『建築写真類聚住宅の外観    その二』) 図3-2-2 亀井邸 24:萩原惇正の履歴については、北海道  庁総務部人事課所蔵および北海道大  学庶務部人事課所蔵の履歴書を資料   とした。 図3-2-3杉野目邸西正面 3-2建築家設計の住宅 前述のような新畑宅地には、しばしば「文化住宅」とか「モダン住 宅」と呼ばれるしゃれた洋風住宅腱てられたが・その多くは大学教授・ 医師といった知識人や実業家たちの住宅であった。  現存するものとして、円山地区では、田上義也設計の小熊邸(1927)、 鬼窪邸(1929)誠下露(183・)、*心内邸(1934)などがあり・山銚区でも・ 栗谷川邸(1932、能勢某設計)、杉論旨(1933・萩原惇正●岡略記設 計)などを挙げることができる。  まばらに人家の建ち始めた北11条付近にはヒンデル設計の自邸東光園 円い家(1924)や大野邸(1925)などもみられ、中流住宅の設計に建築家が 積極的に関わるようになった大正末期以降の傾向をよく示している。  それ以前にも、札幌の小田良治邸(1913、J.M.ガーディナー設計、 図3-2-1)、函館の亀井邸(1919、関根要太郎設計、図3-2-2)などのよう に、建築家設計の住宅が見られないわけではないが、ごく少例であり、 田上義也とヒンデルという2人の建築家の出現が、札幌の近代住宅を多 数生み出す原動力となったといっても言い過ぎではないだろう。2人の 住宅作品については、第2部、第3部で詳説するので、ここでは従来か ら北海道の建築界をリードしてきた官庁営繕建築家が関与した住宅作品 の一例として、萩原惇正(北大営繕課)設計による札幌の杉野目高(1933) をとりあげよう。 杉野目邸  杉野目邸は、北海道帝国大学理学部教授(1954年以降学長)杉野目晴貞 (1892~1872)の住宅で、1933(昭和8)年に上棟式をあげ、11月に完成し ている。設計は、北海道大学営繕課長であった萩原惇正と岡田紙凧、施 工は今野某が請け負った。  設計者萩原惇正(1892~?)24については、1-5-3の項でも述べており、 重複するが、やや詳しく補記しておく。1892(明治25)年5月14日静岡県 小笠原郡横須賀生まれ。1911(明治44)年7月30日関西商工学校建i築学科 卒業後、同年7月31日から翌年2月20日まで河合(おそらく大阪の河合 浩蔵)建築事務所に勤め、その後宇田川電氣㈱工務部、大野建築事務所 などを経て、1917年2月~8月まで日本石油株式会社の建築工事設計お よび監督を嘱託され、同年11月からは『建築雑誌』(1920年8月号)には、 「設計監督大蔵省、担当技術者萩原詔旨」とあるように、大阪税関庁 舎新築工事の設計および監督を嘱託された。  大阪税関火災復旧その他新営工事(1918年)を経て、1920年9月から文 部大臣官房建築課に嘱託および出張所長心得として在職し、神戸高等商 船学校創立工事設計監督(1920年)・第二十四高等学校創立工事設計およ び現場監督(1923年)などにたずさわった・  1923年8月北海道庁土木部建築課技師に任官、1926年には北海道庁立 図書館の設計を担当している・1927年6月から1934年4月に退官するま で、北海道帝国大学技師、営繕課長として在任し・理学部(1929年)や農 学部本館(1935年)などを設計した・  理学部や農学部本館の意匠にみられるように・萩原は中世リバイバル スタイルを得意とした建築家で、この杉野目邸でもハーフティンバーや 半円アーチのモティーフを展開しているが・ピクチュアレスクなイメー ジは、教授就任前にイギリス留学(1926~28)した施主からの提案もあっ たど考えられる。萩原画の完成予想図は、淡い色彩のもので・点景のフ ォード車と共に1930年代らしい雰囲気を伝えるもので、現在も居間に飾 られている。  設計者として名のあがる岡田鴻記は、1928年に神戸商工を卒業したば かりの建築家で、のちに岡田建築設計事務所を開設するが、この住宅設 計では助手として関わったものであろう。  木骨煉瓦造一部2階建て、1階78坪、2階13坪、延べ床面積約92坪の建 物は、400坪の敷地に建つ。ハーフティンバーの装飾のある大きな妻面 を南、西、北の3方向に向けた高い切妻屋根の建物で、外壁はモルタル 仕上げとしているが、1階腰部を目地切りとして、石張り風に表現して いる。アプローチをゆったりとった西側正面玄関ポーチは、まわりをス クラッチタイルの半円アーチで縁取られている。玄関内部もゆったりと しており、上がり台脇に、ちょっと腰かけられる小ベンチを備えるなど の細かな配慮もみられる。  1階は、玄関をはさんで応接室と書斎を独立して配置し、食堂兼居間 を囲むように、東側に子供室、子供勉強室、老人室、西に納戸・老人室・ 北側に台所、浴室、内玄関、女中室などが配置される.主棟の南側に突 き出す書斉には、半円アーチの欄間付き両開き窓がみられるが、同様の 半円モティーフは、子供勉強室でも採用されている。  南側に配置された食堂兼居間は、当初から椅子式の使い方をし、当時 のナラ材の食卓が今も使われている。居間の南には勉強室とも通じる温 室があり、テラスに面している。  西側老入室床脇にあたる南側壁面には、幾何学的なサッシュ割を施し た菱形窓がみられ、外壁にランダムにちりばめられたレンガタイルとと もに、外観意匠のアクセントとして機能している・  2階は、客間(8畳)と次間(6畳)の続き間とアティック(8畳)で構成 されている。  内部仕上げは、漆喰壁が主であるが、書斉、応接室、居間兼食堂及び 2階アティックでは、漆喰壁の上に布を張ってさらにペイント仕上げと 一一一P 図3-2-4杉野目邸西立面図     (杉野目家蔵設計図よリ作成) ・一@llO 一一 一 111 騒騒墾欝灘雛懸鍵馨懸難黙黙難欝難i欝騰麟i細螺難聴i紫蘇饗難講i戦i購:辮購讐鷲懇響蟹墨壷霧雲驚灘総額欝難難論難癖響無難蟹懸雄蕊細編鰻難論懸盤灘轟轟i翻1蕪蒸難灘鰯 , , , 、 」 , . 層 、 」 戸 ≒ り 謹 享 ぐ 亭 . 「 “ ン 癌 - 拷 、 沌 卍 7 , , . 箏 嚇 壌 測 “ . 省 。 . 『 マ 「 誌 ㍗ . 外 く だ 薦 諮 ㌦ .   二 難1難欝難繋響1難騨搬離離難鍵繋難灘懇懇難繋i’羅回 している。  暖房は建築時から石炭を燃料とするスチーム暖房が採用され、和室で は地袋にラジエーターをさりげなく収めたりするなどの配慮がみられ、 水洗トイレにも小型の丸形ラジエーターを備えるなど・寒地にふさわし い工夫もみられた。 口 i ・「  、 “ 賄    曝・   蔦   月       l   I 戟@  【  1 p                     } 1 命               1 「 一 一 図3-2-5杉野目邸立面図(1/200)(杉野目家蔵設計図より作成)           帽 飯」 ㍉ , 一 , 一 」 ・ 闇 「 捧 」 紅 嚢 遣=ユ !” 一 .1-v-  1 レ 雨・鴨蟹 所 3-3施主設計の住宅 v 猛場 じ 、ホー山   ;繭戸   etetj 1 } 旨弛之ゼー tt一「二一   1 甲國物  累      li石織薄 鵬α   ボでラーi  知識入の中には、自ら住宅のプランニングや基本設計を手掛ける者も あった。早くには札幌におけるモダン住宅の好例である有島武郎邸(19 13年置をあげることが出来るし・1923年越智卓見邸(札幌下北17西6)・19 27年の古藤猛哉邸(札幌市大通東8)や大原邸(札幌市南6西20)・1939年 の中谷宇吉血温(札幌市南4西16)などはその代表作といえそうである・ 本節では、有島邸、古藤邸、大原邸・中谷宅の4件をとりあげて紹介し ておきたい。       う聾豊  質酔   亀ヒ輪風1’ ll Al 一J-LO        く】 霊壱兼危麟  幽1莞嫉真    番峨勉穐皇,遥皇 1.reAl一              号 5 ス                                               IFl 図3-2-6 杉野目邸平面図(1/200)(杉野目家蔵設計図よリ作成) 3-3-1=有島武郎邸  有島武郎(1878~1923)は、東北帝国大学農科大学(札幌農学校の後進・ のち北海道大学)予科教授在任中の1913(大正2)年・札幌市(現北区)北 12条西3丁目に自邸を建設した。  腰折れ屋根や瀟洒な菱組格子の上げ下げ窓の外観が特徴的な住宅で、 平面では中央階段ホールまわりに諸室を配置し・各室はホールから扉で 入る独立性の高い設計とされるなど洋風志向が強く働いているが、内部 では畳敷きや床の間付き座敷の取合せとなっている。  外観洋風、内部畳敷きという和洋折衷の形態は、北海道では特に珍し いものではなく、例えば明治二二館市街地住宅などにはよく見られるも のである。ただし、いずれも襖、障子を建てこんで続き間とする在来和 風の形式を採っており、この住宅のように独立性の高い部屋構成と畳敷 きの組合せは特異といえるものである。もちろん1873(明治6)年の札幌 の開拓使洋風官舎までさかのぼれば、同様の組合せがなかったとは言い 難いが、この徹底した洋風化はやがて放棄され、1878年以降の官舎では 外観は洋風でありながら和風住宅の平面構成を採用している.明治後期 以降、続き間座敷、洋風応接室からなる中廊下型平面の中流住宅が主流 であったなかで、この住宅のような平面構成は先進的といってよい計画 であった。 創建時の有島武郎邸  有島邸は、札幌市北12条西3丁目の南西隅、約406坪の敷地にあった・ 敷地西側西4丁目通りに門を開き、ここから西向きの正面玄関に入った・  外観は、亜鉛鍍鉄板一文字葺き、木造2階建て腰折れ(マンサード)屋 根の主点を中心に、正面西側には三角ペディメント風の意匠をみせる切 妻2階建て玄関棟を、北側に平家建て切妻屋根の従棟を突出させ・南と 北東に下屋を付けていた。  腰折れ屋根西面に玄関棟をはさんで対称に屋根窓を配置し・東面中央 図3-3-1 旧有島武郎邸(1985年撮影) 一 112 一 一 113 一 点躍灘灘i欝灘灘雛騒騒灘雛灘講劇烈灘劇烈11欝灘畑瀬継繁劇白白白山藤棚 麹暴・・灘灘驚響琴講灘羅灘嚢灘灘醗灘懇懇灘羅鱗…雛萎購灘灘灘灘灘灘灘灘蕪. ’饗灘 け 多 勢 欺 憂 欝 忌 」 翫 騨 ド . ゴ 」 鱒 ゼ ” ア 譲 艶 紙 琉 羨 岡 落 癖 鑓 解 曜耀灘羅繋i擁i懇懇・欝≡灘購饗難欝欝璽饗難i欝i懸欝灘灘雛灘鐡灘灘濃灘雛唱灘 麟璽罵竪』     x 1、強 盛3-3-2竣工当初の有島邸玄関(神尾行    三蔵) 図3-3-3 1957年以前の有島邸(『森本厚    吉』1957) 25:北海タイムス(1925.11.16) 26:昭和初期の管理人新井田脾次郎(19  36年頃死去)の孫、鳥山瑛子氏によ  る。 にも同形の屋根窓がみられる。南側下屋の引違い窓以外の開口部では、 井形と菱組の意匠を組み合わせた繊細なサッシュ割りを施している。  主棟は、梁間30尺、桁行35尺、玄関棟は梁間9尺・桁行6尺・北側回 忌は梁間15.5尺、桁行20.75尺である。主棟の南側に奥行1・5尺幅15尺の 下屋と奥行6尺、幅15尺の下屋が突出し、東側12×12尺の従棟に連続し ている。北側には奥行7.75尺幅20.5尺の下屋を葺きおろしている。  外壁は素木の下見板であった(図3-3-2)が、創建後比較的早い時期に ペイント塗装が施されていたらしい。解体時には隅柱、開口枠とも全て 白色に塗装されていたが、白色塗膜の下層に濃暗赤色の塗膜が残存して おり、下見板の暗赤色と隅柱や窓額縁などのフレームを白色に塗り分け る意匠であったと考えられる。1957年以前の白黒写真にも明度の低い外 壁と白いフレームのコントラストがみられ(図3-3-3)、1950年代までは この色彩を踏襲していたと思われる。  住宅規模は、1階50.04坪(165.1㎡)、2階28.59坪(94,6㎡)、延床面積 78.63坪(259.7㎡)。平面は、中央階段ホール廻りに諸室を配置し、主要 各室はホールから扉で入る設計とされている。  1階は正面玄関に続く中央ホールをはさんで南に3室、西から10畳、 10畳、8畳が並ぶ。北側西には扉脇にサービス用小窓がっく食堂(12×!2 尺)、4畳前室、8畳居室が1列に並び、東側3.5二幅の脇廊下をはさん で、台所(10×14.5尺)がある。台所北側には浴室、洗面所などがあった はずであるが、創建時の姿を復原する手掛かりは発見できない。  南側西端の10畳は、付け長押を廻す表座敷である。南面は地袋棚の上 に3連の上げ下げ窓をみせ、西面は床および床脇違い棚の構えとし、!末 左脇は幅4.5尺ほどのアルコーブがとられ、菱組格子の小窓に内側小障 子を建てこんでいた。北面は木地あらわしのクリア塗装の扉が建てこま れ、東面南端3尺幅の開き戸で東隣の10畳と連絡していた。  中央10畳(図3-3-7、8)は、南側に縁側(「サンポーチ」z5)をもつ家族居 間と思われる。東側8畳と扉で通じており、この部屋が「武郎の書斎」26 との伝聞もあるが、子供室とも考えられる。  食堂は、北西に物入、東面に扉と扉脇サービス用小窓があり、食卓、 椅子を使用していた(図3-3-9)。  北端二棟内の8畳および前室は4枚引き襖で仕切られ、同居学生の居 室に供されたと思われる。  8尺幅のホール東端の折り返し階段は2階に通じている。2階は中央 ホールを中心に、南側2室(15×12尺、10.5×15尺)、北側2室(12×12尺、 12×10.5尺)、西側6畳の5室で構成され、北側2室のみ扉で続いている。 西側6畳および北東端の部屋は真壁構造であるが、他はすべて大壁構造 であり、この2室以外は板敷きの洋室であったのかもしれない。  南側2室は客間にあてられ、北向きに妻安子の部屋または病室があっ 一 よ.、毛≡・、τ幽   ’≡…二T    l ,」一   「 秩@ .rユ     , 1       一  一 .      一一’    ユ 『 無籍       」 一. 1 二 L    一 皿  一 『一’ エ一 コ   一 } @ 一         -     “ ヒ 一 蝶・卍L r 「 一 ≒     τ 1「ユ,二」手擬  i一, @セ  }   卿 黹a゚_} ミ∈≡ 一  一 f丁====    幽f一一O ===== 黶@一 ∈一}一一 一 口 口   、  ≡=≡≡==二___一 @≧≒三一三…= 齠�O≡≡≡三三==一 ≡==≡≡≡≡一一一 =二二====__ 口口 一 一三一‘7一 黶@ 一 一    - @ 一        一 X ,           l                  I     l 勘 図3-3-4有島武郎邸復原西立面図(1/300) 一 - 靴 1 . {A} 1’ 1’ にl    t一) ×  x r’x / / l i l l i j l s e g l l l .醐 }燃1::肝 i i ’ [ i ・ s s i x る 的     引 子   一 - 一 、 ー ー 」  一m一.__za_tav_an にニニへ       趨ナ腸  趨話ミ} 趨 ~ 虻 『 塗 め ぬ ぬ 》 『二1 翫 三 2階 tv i{1}’ I t   「 o                      =l l l l l ト l l } { I l L I l r  1 w   噛 i } 1 欄1 」1 「 11階 ろ . i 」 昇 → ー 臼 「 1 墨    ソコ  ヨ:::::: ・=一X ロへ ロc ..」  ソ くり ¥:}ミ1 ソロこの レ l l v7【ろ1 Ytlい1       粘x・ x…   噛   酪x懸 漁目掘 ‘島‘皇を目をlww尺 図3-3-5 有島邸復原平面図(1/300) 一 114 一 一 115 一  畷懇灘羅灘鑛灘鑛鎌灘懸難難灘灘懇鍵難響講…難灘難醸懸欝難鍵欝鱒i雛鵜購聯縫i購1灘灘灘購懸霧難雛灘i雛鍵灘i難羅灘灘懇灘、 灘鑛灘灘.鍛灘灘戴鐵、 ・ 翼 、 「         ♂ 尾 一 勇 強 ’ . 搾 蝸 齪 臥警1・:灘猿轡!灘叢叢総懸騨馨繋欝欝欝欝驚灘響鷺鷺警難灘灘鞭灘羅i灘.          ’ @一    オ袷重務璽    グ    ===「=一@  一_一 .=  = @‘二二===二=三三一 @  }     琳   一            一  一  一一 一 @    畠Q__          一 一 』一  一  =π 三          ’     _    一 _こπ_一一 一  ’  =二 程  塁こ二一  _ 「一 黶@ 一   一 @ =       曹 5     -- 一      一            一 @    } 一 『==== 二二_二一一      } 一 __二 『      } 一 } _=}}一丁====@    P      一H’轟 @          ==]==   曽@     晶          曹 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心を寄せることがあった。1916(大正5)年4月5日の日記に「夜、英郎 が我孫子に建てる家の設計をして過す」とあるのもその1例であるし、 手帖にも住宅の間取りを考えたらしい数葉のスケッチが散見される(明 治41「手帖七」、明治43~44「手帖十」)。 「手帖七」の間取りスケッチ のあとには、ストーブの考案スケッチも描きつけられ、生活改善への意 欲もうかがえるのである(図3-3-10)。  さらに「手帖十四」(年次についての明確な記入はないが、1911(明治44) 年8月頃までのものと推定される)には、新居関連のメモ、および新居 平面に類似のスケッチがみられる。  メモは、以下の表記である。 斗 勢副   1    卿し  層(こt 図3-3-ll武郎の住宅スケッチ     (「手帳十四」『有島武郎全集第15巻』    筑摩書房、1986)   札幌匪北十二條西三丁目二番地    一、宅地 表口十五間 奥行二十七間    一、坪数 四百五坪    一、一ケ月貸料 三圓五十一菱  住所は新居建設地に相当するが、番地はその後18番地に改められてい る。宅地の表口(間口)奥行、坪数もほぼ正確で、1984年調査では15.06 ×27間と実測され、面積405坪は、1940(昭和15)年10月14日付けで「表示 更正」が行われ、406坪62と更正されている3’。  さらに注目されるのは、そのメモから数頁あとのスケッチ(図3-3-11) であろう。中廊下の左右に部屋を配置する平面は、規模や下屋の有無は 別として、遺構の主棟の平面形によく似ている。スケッチの前には「表 座敷.5裏〃〃.4納戸.6安子室.5武郎室・5行室・4’/・ 女中室.2 丁丁.1風呂場.2’/、嘉所.4」などの書き込みがあり・ 当初は延べ39坪程度の住宅を想定していたこともわかる・有島は・こう したスケッチをもとに自邸=構想を膨らませていったのであろう・  さらに有島自身の設計を裏付ける書簡もいくつかみられる・    ユ9ユ2(大正元)年9月26日付有島武郎両親宛書簡    「農場よリハ八百円程入金有之 其中吉川出札二つき尚入金之儀と存    居候 家は頻り二設計二入念致居候 其中清書供御覧可申候」 27:「病床のありし二階の室」(1915.3.14  付安子宛葉書)「二階北向きのもとの  安子の部屋」(1922.7.19付日記)「二  階の客間の一方」(1914.5.14付有島  生馬宛葉書)などによる。 28=有島武郎の姪暁子(有島生馬娘)が、   1962年9月来札した際の思い出「叔  父(武郎)子の西洋風の文化住宅を新  築したのは大正2年8月のことで、   2階の北向きの部屋を書斎にしたそ   うです。」による。(田中潜『有島武   郎と札幌・四十忌の思い出』(『有島   武郎記念誌2集』1963、5)) 29:佐渡谷重信『評伝有島武郎』(研究   社出版、1978.8) 30:『有島武郎全集』(筑摩書房、1981.   2) 31:『有島寮物語』 (農林中央金庫札幌   支店、1987.1.31) 一 116 一 一一@117 一一 灘灘.灘…縣囎難籐羅灘灘騒騒灘灘灘謬慧懸隔羅騨鑛欝鱗羅臼鐡白血一難自薦器懇願響竃養難1灘灘鑛嚢灘響難響欝灘熱熱獺難鱗纏鱒難難灘、箋欝難i灘灘羅灘講麟灘轟轟.γ b 騒 ti’い  ”濡 、「   td・躍「 32:札幌組合教会。札幌市南大通西ユ丁   目。1913年10月28日竣工。のちの北  光教会。 33:札幌市北2条西6丁目。1913年8月24   日上棟式、同10月17日開館式。 34:「がアデナア氏」はかーデナー氏の誤  記。 35:荒木賢治(1881~1948)は、この時期  ガーディナkeの助手として小田邸の  監理のため来札していた。賢治の3  男、荒木良治氏は東京都目黒区下目  黒2丁目19-2在住。 36:.森本厚吉は1907(明治40)年10月札幌  農学校講師に赴任、北6条西1丁目の  借家に新居を構えていた。 37:佐渡谷重信『評伝有島武郎』(研究  社出版、1978.8) 38:前川公美夫『有島武郎の札幌の家  〈上〉』(北方文芸、1984.12) 39:同借家は「北海道開拓の村」(札幌市  厚別区厚別町小野幌)に移築保存さ  れている。 40:以下書簡は『有島武郎全集第13巻』   (筑摩書房、1984.6) 41:前掲14による。 42:前川公美夫によれば、現在の札幌市  東区北5条東5丁目あたりという。 ・く顎η下灘・、 L9一昏    翌13年7.月31目付有島生馬夫妻宛書簡    「新築は妙なぬえ式のものと相成候得共田舎の事とて新聞にまで歌は    れ旧事気はつかしき極みに御座候。建具が溺たつかず冬寒からぬ丈に    は相成候事と存居候」 などの「家は頻り二丁計二入念致居候」や「新築は妙なぬえ式のものと 相成」という言い回しは、自身の設計に対してこそ合うように思われる。 1912年秋に「独りで小さな所」に引越したのも、同じ敷地内での建築工 事を監督する心づもりだったのであろう。  ところで1913年『北海タイムス』中の記事「古い建築 札幌匠内の家」 に次のような一節がある。  「...小田良治氏や有島武郎氏の住宅又新築の組合教会32エンゼル館33北 二条郵便局など皆東京の技師に設計を頼んだものである」(19ユ3.7.9)  「...専門の設計師に依頼したならモット廉くてモット立派な建築が出来 たに相違ない、此点に於て小田良治下等の遣方溺うまい、今新築中のは日本 で有数の建築技師米人がアデナア氏34(独逸の材木商とは別人)の設計で現 に其部下の荒木賢治氏35が二二して大工どもの遣方を監督して居る、今度の 札幌エンジェル館や組合教会や北二条局の灰殻な建築は寄草部下荒木技師の 設計であるそうな..」(19ユ3.7.10>  上の記事から有島邸は「東京の技師に設計を頼んだ」とあり、後段と あわせると、その技師は荒木賢治であるかのようにも読みとれる。しか し荒木良治氏(賢治3男)に問いあわせたところでは有島邸設計を思わせ るような口承は伝わっていないということであるし、後段の記事も注意 して読めば、有島邸を荒木設計の建築からはずしている。  おそらく有島自身の略設計に対して建築家からなんらかのアドヴァイ スを受けることはあっただろうし、また実施設計図の作成を依頼したこ とがあるかもしれない。その場合札幌滞在中の荒木賢治の可能性も十分 考えられるが、今のところそれらを裏付ける史料はみあたらない。 自邸建設まで  有島は、1896(明治29)年札幌農学校入学、1901(同34)年卒業後、1903 年から3年半にわたりアメリカ留学一ペンシルヴァニア州ハヴァフォー ドカレッジ大学院およびボストンの畔引ヴァード大学専科一とヨーロッ パ遊歴を終え1907年月帰国、同年12月母校の英語講師(1908年6月から 予科教授)の嘱託を受けた。翌1908年正月から森本厚吉宅36の8畳間に 2ヵ月余り同居し、その後1913年の新居建設まで、およそ5度ほど転居 を繰り返している。この間の足跡については、前川公美夫が『有島武郎 の札幌の家』(1987.9.30)で詳説しているので、ここでは個条書きであ げるに留める。 1909(明治41)年1.月ユ6日 北6西ユー3森本厚吉借家宅同居        3月ユ9日 学生監部勤務によリ予科寄宿舎酔臥寮             (1905=明治38年竣工)南寮2階に寄宿37        ユO.月ユ0日 北2東3一一9に移転38 1910(同 43)年5月1日 上白石町2に移転39(5,月15日付書簡40) ユ9ユ1(同 44)年7月頃  北8東2 一一 12に居住(8.月4日付書簡)、            現北8東7栃内元吉借家41 1912(同 45)年5月ユ8日 北3東3第二御料地内42に移転(5.月22            日付書簡) ユ9ユ2(大正元)年秋    北ユ2西3一一3に移転  この間1909年3月神尾安子と結婚、1911年1月長男行光誕生・翌1912 年7月次男敏行が誕生している・  1912年秋、有島は新邸の敷地にあたる北12条西3丁目3番地に転居し た。1912年9月26日付書簡では住所は「北3条東3丁目」であり・新住 所が確認できるのは翌1913年5月20日付書簡であるが・1912年11月13日 付書簡(足助素一宛)に「あまり学校に近く住つた報いで此頃胃が悪く って不愉快だ」という記述がみられ、同月19日付書簡(志賀直哉宛)にも 「僕は又引こして独りで表記の小さな所にゐます」などとあるし・札幌 農学校、東北帝大農科大学札幌同窓会「第二十七回報告」(1912年12月発 行)には、10月末現在の住所が「北十二条西三丁目二番地」とあザ3・10 月末か11月初旬には移っていたと思われる・なお・この「小さな所」は・ 新居竣工後もしばらく残っていたらしく、札幌尋常中学校教師上田寅次 郎一家が「有島家の離れ屋敷を借りて住んでいた...和洋折衷の小さ な平家建て」44が、これにあたると思われる。  この小さな家は、新居の裏、東方に位置していたと考えられる。建物 資料として、 『有島寮物語』(農林中央金庫札幌支店、1987.1)の中に、 !979(昭和34)年に有島邸を売却する際の評価鑑定書があげられている。  記載によると、 「木造亜鉛三三板葺 居宅 一棟 十五坪 此評価額  金三一五、○○○円(坪当り金ニー・、○○○円) 同上付属 木造亜鉛 鍍金綱ママ板葺 物置 一棟 建坪 四坪 此評価額 金二四、○○○円 (坪当り金六、○○○円)」45とあり、この物件が小さな家に相当するも のであろう。  新居の着=〔時期を示す史料はみあたらないが、1913年8月竣工4Bから 逆算すると、遅くとも3月初めには着手していたはずであるが、北国の 条件を考えるとむしろ前年秋、つまり有島がこの敷地に移転する前後の 起工と考える方が無理がないように思われる。  1913年7月9日付書簡(河内完治宛)に初めて新居にふれた個所がみら れる。 「僕ハ今上家之建築をして居る 此五年間毎年移転して借家住ミ をして居た僕が贅沢過ぎる位の建築を始めた心理が一寸可笑しい 先ず 気まぐれの業らしい 其中気が向いたらたたき売る丈けの事だ」・  また、同じ7月9日付前出r北海タイムス』に「民間でも此頃建ちかけ て居る小田良治氏 や有島武郎氏の住宅..・」とあって・市民の耳目 を集める工事であったことがうかがえる。7月31日付書簡(有島生馬夫妻 宛)の「新築は妙なぬえ式のものと相成候得共田舎の事とて新聞にまで歌 はれ候事気はつかしき極みに御座候。」は、こうした新聞記事に対して のものである。  8月10日新居への引越しを済ませ、続いて23日東京から両親が訪れて 9月8日まで滞在している(1913.9.17付原久太郎宛書簡)・ 43:前川公美夫『有島武郎の札幌の家』   (星座の会、1987.9、30)p、61 44:石上玄一郎『札幌の有島邸』 (筑摩  書房、有島武郎全集,月報5、1980.8)  石上玄一郎氏は上田寅次郎の息子。 45:『有島寮物語』 (農林中央金庫札幌  支店、1987.1.31)p.143 46:前掲4に同。 一 118 一 一 119 一                                           ド轟轟i難論撰総懸雛i総論熱熱鐡轟轟懸灘雛灘鐡難難ll驚叢叢 、鞠 引 ■ 適 ・ ・ 」 藤 卜 ㍊ 銭 ・ ■ 伊 生 玄 芝 惇 誕 げ ・ 絞墜 有島武郎離札前後  1913年8月新居に移った家庭には、武郎両親にともなわれて一時東京 へあずけていた次男敏行がもどり、さらに12月23日3男行三が生まれた・ 親子5人そろって平安な正月を迎えた。  しかし、この平安は長くは続かなかった。1914年9月下旬妻安子が肺 結核を発病、11月には療養のため一家をあげて鎌倉へ移る。武郎自身も 翌1915年3月いったん札幌へもどって農科大学に辞表を出し(休職扱い)、 その月末には家財全てをかたずけて札幌を離れることになった。  その後の数年聞、主の去った住宅はひき続き苦学生に一隅が与えられ、 また他の部屋は貸していたらしい。三三直後の1915年4月16日付書簡(松 尾修一宛)に「借又借人有之二二小生宅の一問御使用の儀一向不二倹唯 一っ御注意申上度儀は...本橋君は唯今非常なる窮境に臨み居られ、 学資其他已むを得ざる負債も少なからざる模様にて、...生活食料等 は全然別になされ...別賄の方便宜と存上候。此段御含み被下度候。」 とある。  武郎も、その後何度かの札幌訪問にあたってこの家を使った。19ユ6年 !0月一8月に妻安子を喪ったあと一狩太の農場から札幌へ足をのばし数 日間滞在した。滞在中、定宿弊館に泊まりながら、ほとんど毎日のよう に日中を旧宅で過ごした。 『観想録』と書簡を以下に引く。 (19ユ6年)10,月23日 月曜「(狩太から)汽車:で札幌へ行く。丁度八時に 着く。...旭館に投宿する。」 ユ0月25日 水曜「昼食後、岡田教授の来訪を受けた。それから僕の家 へ行く。,,本橋溺そこで僕を迎える準備をしていた。家は以前と同 じだが、ただ少し汚れている。これまでこんな悲しい思いをしたこと はない。過去のすべてが確実な、怖しい現実として眼前にあるのだ。」 ユ0月26日「五番館へ行き..それから家へ行くと..」10A 27日「午 前、僕の家へ行った。」 10A 28日「家へ行って、今晩しなくてはならない講演の準備を一生懸 命にする。」 10.月26日付足助素一宛書簡「安子が死んでから札幌の荒れ果てた家に 入った時ほど悲しく思った事はなかった。僕は今日も朝から一日其処 で過ごした。..、明日も其処で過ごす、明後日も其処で過ごす。」  1917年11月、1919年7月の来二時には旧宅訪問の記載はみあたらない が、1922年7月19日ここ一この時は森本厚吉宅一に一泊している。翌年 6月9日自殺した有島武郎にとって、最後の訪問となった。日記を引く。 (1922年)7月19日(水曜日)「...札幌に汽車が着くと森本:君其他 が迎へに来てみてくれた。森本君之家に泊る事になる。...此夜二 階北向のもとの安子の部屋で眠る。暑苦しい位なり。」 q7:森本厚吉伝刊行会『森本厚吉』  出出販、1956.12)    森本厚吉の購入     1921年武郎はこの旧宅を「北大に寄付して学費の必要な学生のために (河  役にたててもらいたいと申入れた」“7。大学(同窓会)は、換金のうえで 一 120 一 .ケー1」      m 寄付を受けることとしたため森本厚吉が購入・その代金5・OOO円は「故有 島安子記念奨学金」ほかにあてられ4s・住宅には森本一家が住むことに なった。1922年夏に武郎が一泊したのはこの森本宅である・  1925(大正14)年11月16日r北海タイムス』には「有島さんが去ったあ とを森本さんが引受た 亜米利加仕込の文化生活であの家の内部をスッ カリ洋式に改造して仕舞った」とある・  森本厚吉は、有島武郎、吉野作造らとともに・1922年12月「生活問題 を研究しその科学的知識の増進を基調として、精神的および物質的に文 化の恩恵を民衆に普及する」ことを目的とした・財団法人文化普及会を 設立した。文化普及会は大正15年、東京御茶の水に鉄筋コンクリート造 4階建ての「文化アパートメント」を建設する(ヴォーリズ設計)こと になるが、会の設立にあたって札幌の自邸、つまり有島武郎旧邸をその 基本財産とした。  森本厚吉は、1924年3月北大教授現職のまま東京に転住する(1932年 退官)。札幌邸には来札滞在時の居室を残し、他を外国人教師などに貸 していたらしい。先引r北海タイムス』記事は次のように続いている。 「森本夫妻は例の文化普及会の事業で東京に居ることが多くあの家全体を森 禾さんのみの住宅として置くのも贅澤だといふのでボロダストンといふ亜米 利加の畜産の先生が住まってみたこともあった、其後北大予科英語教師のブ ラウン氏夫妻が住まって森本博士も一緒に住んでいた」  そして森本厚吉は、ブラウン夫妻帰国を機にこの住宅を「上と下とに 仕切ってアパートメント」に改造するつもりであったらしい。記事はブ ラウン夫妻の案内で見せてもらった内部諸学の説明が続く。  「階下の南側の部屋は十畳が二つ並んで、一つは違い棚の床の間が残って みるけれども一寸も不自然ではない、奥の部屋にスピーキングチューブ(話 をする管)があって一つは台所に一つは二階に通じてみる 南にサンポーチ がついてブラウン夫妻はここで朝飯を食べるさうだ、この奥の十畳はアパー トメントになると台所になるさうだが一寸惜い様な気がする 此側(そば)は 前が女中室、後の方が台所に浴揚が続く、アパートメントになるとこの台所 が居室に早変りするのだそうだ 二階は南側に客間とベッドルーム 北面し て居室、主婦室などがある 居室はアパートメントの食堂になり、主婦室は 台所になるのだといふ、二階には浴室も出来るさうだ、.」  昭和初期には、“文化アパート”と呼ばれる高級下宿であったらしいが、 1940年7月農林中央金庫は札幌支社開設にあたり有島邸を購入、職員寮 に転用した。農林中央金庫「有島武郎寮」時代は1959年まで続いた。こ の間、1941年2月には黒沢明監督、森雅之主演の映画「白痴」のロケに 使用されている。 北海道大学「有島寮」  1959年、三井武光4sは農林中央金庫から「有島寮」の土地建物を購入、 いったん1960年6月財団法人北海道大学住宅建i設協会が建i物の寄贈を二 一 121 一 一一■ 黶@一焉一, 48: イ餓翫幣同窓会第四+五 49:北海タイムス重役、北海道教育長、   クレドール興農社長などを歴任。 蒸器 ∴創騨餉剛幽・一一…一nyPtmopt淵圏鱗醐纈幽総懸幽鱒醐鋤鰯■■一騨關一 蓋 し ヰ 歩 ㌧ 1 一 男 . . ㌃ 墾 竹 も 嚢 山 塾 ゲ 円 ㌧   . 多 鹸 50:『北海道大学所属国有財産沿革(増  補)』10冊の内}届 け、職員集会所として北28条東3丁目に移築したうえで・11月あらため て大学へ寄付する形をとった。北海道大学所属国有財産沿革5◎から関係 分を摘記しておく.  「(北海道大学学長宛)寄付を受けようとする理由 ...財団法人北海道大学住宅建設協会は同会所有する本学にゆかり深き故 有島武郎が、永年に亘り居住したる住宅延90坪3ユ2を本学用地内に原形のま ま移築して本学に寄附したいとの申込みがあり、…  学生の私淑する先輩 文豪の遺跡保存の意を含め本建物の寄付を採納いたしたい             昭和35年6月10日             財団法人北海道大学住宅建設協会 「(北海道大学学長宛)引継書 理事長 表記の財産竣工しましたので引継いたします。             記 種目;住宅建  構造;木造2階建 数量:;58坪8ユ2/(延べ)90坪3ユ2 35年11.月ユ5日竣工」 杉野目晴貞」 昭和35年ユ1月ユ5日 名称;職員集会所 価格;2,947,000円  備考;昭和  解体移築工事は、磯部木材(株)の請負で行なわれた。工費は上記建物 本体2,947,000円のほか、電灯設備200,000円、打込ポンプ40,000円、排 水設備60,000円、合計3,247,000円であった。工事監理にあたった当時 の責任者八戸St一一一によれば、 「解体材はトラヅクで運んだ。下見板も全 て番号をふって移動した。板は6~8坪しかとりかえなかった。土台は半 分程とりかえ、ナラの木を使った」というから、一一一応は忠実に再建され たようである。  その後、この旧有島武郎邸は職員集会所、独身男子職員寮、さらに大 学院学生寮として、ユ983年3月の閉寮まで使用されてきた。  1983年7月3日、北海道大学将来計画専門委員会・:施設計画委員会は、 廃寮となった「有島寮」の取り壊しを決定した。これは新聞などで報道 され反響を呼んだ。同月24日市民有志の有島寮見学会が行なわれ、席上 「旧有島武郎邸を保存する会」(代表更科源蔵)が結成された。北海道大 学としての保存は困難であったが、こうした市民運動にこたえて、1984 年3月札幌市が建物を譲り受け保存することとなり、翌1985年「札幌芸 術の森」へ移築修復、1986年7月から有島武郎旧邸として一般公開され ている。 3-3-2=古藤猛毒邸ほか 古藤猛哉邸  豊平川と北1条通にはさまれた大通東7、8丁目の仲通り付近は、大 正末期から昭和初期にかけて大学教授の住宅10軒あまりが集まり、 「大 学村」と呼ばれた区域であった。同村内大通東7丁目にあった古藤邸は、 1927(昭和2)年施主自らが設計し、伊藤組の施工で完成した51。  施主である古藤猛哉(1875~1959)は、北海道帝国大学工学部土木工学 科鉄道工学第一講座教授.操車場や停車場の設計に関する研究を専攻し ていたので、自ら設計したことも十分半なずけるし、また自邸建築直前 の欧米留学の体験も加味されたと思われる。  切妻の大屋根を強調し、黒々と塗装されたドイツ下見板壁と白く塗ら れた開口枠や破風との対比がひときわ目を引く住宅であった。  大島登喜代所蔵の住宅設計図は、縮尺1/100の平面図および立面図を !枚におさめたもので、古藤の自筆と伝えられている。古藤自身「図面 は丹念にひいておられた」52というから可能性は十分あるものの、図面 タイトルは「古藤氏住宅設計図」となっている。自身の設計図に敬称を つけるのは不自然な感じもし、むしろ古藤の意向を受けて建築家が作図 したものと考えたい。  図面には説明書として次のような指示がなされており、古藤の注意深 い性格をよく示している。  一、主要室ノ外部二接スル窓ハニ重窓ニシテ、浴室、台所、便所窓ニハ鉄   棒オ設ケリ  一、板ノ間ノ部分ハ全部二重張りトス  一、井戸深サ五十尺ニシテ自動スイッチ圧力槽ヲ設備シアリ台所、洗面所、   浴室、庭園二給セラレル  一、浴室ノ釜ヲ別二設ケ、其湯ヲ洗面所、台所二導ケリ  一、電燈配線壁中仙「コンジットチコ.一ブ」ヲ使用ス  一、基礎ハ四尺五寸掘下ゲー尺厚、玉石地業トス  一、本工事二使用セル木材ハ坪アタリ平石ニー三斗ヲ要セリ  1階平面は典型的な中廊下型で、続き間はなく、各室は独立し、出入 りは扉による。廊下の南側に手前東側から応接室兼書斉(18×15尺)、寝 室(和室)(10畳)、居室兼茶ノ間和室(8畳)、女中室(4.5畳)と居室部分を すべて南面させ、寝室と茶の間の南側を4尺幅の縁側としている。玄関 広間(9×9尺)の北側に階段室、広間に続く中廊下北側に便所、化粧室、 浴室を配置し、中廊下両端にドラフト(空気の流れ)防止用に扉を設けて いる。廊下の西端は台所(9×15尺)に通じ、台所の北側を4尺幅の土間 としている。東端に釜場を置き、釜場の湯は洗面所、台所にも供給され ていた。土聞西端に下流し(6×6尺)を置き、北側に物置土間、貯炭庫を 付属しており、1973(昭和48)年時にはあったが、10年後の1983年調査で は付属棟は撤去されていた。  図面に記入は無いが、応接室兼書斉と寝室間、茶の間・女中室間には 円形ペチカを採用していたといい、1973年調査時には書斉・寝室間のペ チカのみ遺存していた。寝室の東面押入脇の床にあたる部分に無造作に 突出しており、炊き口も寝室側に面している。和室のしかも床部分に洋 風ペチカが顔をだす様はかなり異様であるが、体裁よりも暖かさをとる という古藤流の住宅改良への強い意欲が感じられる。また各室には当時 51:大島登喜代談。 52:北海道大学工学部名誉教授北郷繁に  よる。 麟 図3-3-12古藤邸北東外観 図3-3-13応接室の円形ペチカ 一122一 一 123 一 纏ざ:ξ凱1耀蕪織灘鑑講義1黙黙繊羅灘麟蕪蕪欝蘭曲磁繋縛羅塁塞繋騨警 E 埠 ド t 獺蟹灘,蟹.懸灘 繍・懇懇難轟灘戯醐隅購 絃綴=軍 .. 恃ユ鷲∵望箔ご蕊羅窟三泌欝欝藪   」蘇葦 一 、             L 璽嚇       へ 一 い t    i! 一一一一 ?t”r 一一’   \ノ   一・一一r    ,ヒ ワ 払     =         迎 応 藷 腰 を 趨 r rv ㌻ 嚢 蒙 誌 r“T    N O ⑩ ∈≡罫一一=→・    一 l r L i一. iFmi-撃奄撃戟h;一1}. .. 一一一一一    し ’鱗 燭 葱β室己・;’           1t    _}二  4      了一 :」…何’一一一重刷     ,   乙一            ㍉マ粕ガ  詐   ゐ睡 1†嚢嵐 、 …砧麹     E-k tr ]O:.d:    @  @” 7 =vmt一一一 r’Ltls.== 小 珊 珊 悔 一一 SQロ置 押 入 , - ・ ↓ .35;一 125 .¢O.   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図3-3-16古藤邸南立面図(1/200) (『古藤氏住宅設計図』よリ作成) 図3一一3-21大原邸食堂 夢 一 124 一 一 125 一 「 層、r ’Nt     x 馨羅羅灘灘醗灘灘1灘雛灘鑛灘灘懸懇                                                                     L 綴灘灘難叢灘縫覇灘饗欝辮難嚢響欝欝欝欝1難灘難雛難1灘縫灘灘灘講灘灘羅灘i羅灘1難 幅 顧 嬰 s , 53:大原逮談。 図3-3-22大原邸南側外観(北海道大学建    築工学科住居地計画学講座蔵) 珍しかったコンセントや台所に通じるベルが備えられたという。  2階は、南側客間(10畳)と次之間(8畳)、北側寝室(12.5×12.5尺)で あり、3室とも続き問である。客間の南側に4尺幅の縁側があり、二重 戸を建て込んでいる。客間の西面は床、違い棚、床脇書院の座敷構えを みせている。寝室には小屋裏物置への入口があった。  1938年古藤教授の退官離札後、北海道大学教授守屋美賀雄(理学部数 学科当時助教授)が入居、1950年9月守屋教授転勤により、大島信(1975 年死去)が購入入居した。225坪の敷地は、1963年頃地主足達シンジ(漢 字不明)より購入している。大学村に唯一残る洋館であったが、1988年 8月取り壊された。 大原卯吉邸  100坪を超える広大な敷地に建つ延べ面積約150坪の大邸宅である。  1925(大正ユ4)年から3年間にわたる工事を指導監督したのは、建築に 旺盛な興味を持った施主の医師大原卯吉であり、小島与一の請負で1927 年に完成した。 「英国のホテルを範として」53計画されたというが、大 きな半切妻の屋根は、あたかもフロックコートを着た英国紳士のようで ある。  1階を灰色系、2階を薄茶系のモルタルで仕上げた木造2階建てで、 西側を切妻、北側は半切妻屋根の妻面をみせ、南側に温室や座敷、2階 の展望室などを張出して表情豊かな外観を作り出している。  1階は、玄関ホールの南側に応接室、食堂、座敷(8畳)が並び、西か ら北にかけて台所、ボイラー室、便所などが配されている。食堂前には 広縁がとられ、西の座敷と東の温室を結んでいる。温室は、もとは屋根 もガラス葺きであったという。2階の居室も南面し、主寝室、子供室な どが並び、さらに藻岩山を望む六角形の展望室が張出している。  当初から石炭ボイラーの温水暖房が採用され、ホール、廊下、階段、 温室に至るまで放熱器が設置され、応接室では飾りの付いた鏡付き暖炉 風に、ホールや食堂では天板付きの暖炉風アルコーブに納めるなどの工 夫も見られる。 中谷宇吉郎住宅   「雪は天から送られた手紙である」と物理現象を詩的に表現した名言 を残し、また人工雪の研究者として世界的に知られる中谷宇吉郎は、物 理学者としての科学的業績はもちろん、多くの随筆や余技の墨絵でもす ばらしいものを残している。  宇吉郎が英国留学を終え、北海道帝国大学に赴任したのは1930年、30 歳の時である.1936(昭和11)年肝臓ジストマのため家族とともに伊豆の 伊東温泉で療養生活を2年間続け、その聞に書いた随筆を収録したのが 最初の随筆集『冬の華』(甲鳥書林、1941年)である。  伊東の生活ですっかり健康体に戻った宇吉郎は、 「三年間の伊豆の生 活で折角蓄積した、自分や家族たちの健康を、札幌の冬の間に失はない」 5“ スめに、また北海道の資源開発関係のインフレのあおりで、適当な借 家も見つからないこともあって、自ら南4条西16丁目に防寒住宅を設計 したのである。  この住宅についてはr生活の実験』(r続冬の華』)に詳しいが、また 当時の北海道住宅の問題点についても鋭く言及している。  「冷気の侵入は、硝子面を通して、傳導で熱が逃げるのが主な原因で あるが、多くの北海道の人々は、それを隙間風のせみと考へてるるらし い。そして窓や戸の隙間に目張りをしてそれを防がうとする」55「床か ら畳の隙間を通って侵入して来る暗い空気と、畳や床を通しての畔編に よる熱の損失とによって、暖房設備から放散される熱は、大部分その回 外へ逃げている」55「ストーブを眞赤に焚いて、曲った空気を天井に逃 がし、難い空気を床下から吸ひ込んで、まるで住宅に風洞の役目をさせ てみるやうな場合もある。」56  こうした点を踏まえ、次のような条件を設定した。  1.寒国の生活に適したフレキシブルな畳式住宅とする。  2.室内の温度分布、埃の問題から、石炭ストーブではなくペチカを採用    する。北海道のペチカは、外側の鉄板を例外なく銀色に塗ってあるが、    白い光った面は熱線の輻射には最悪であるから黒く塗る。  3.熱の散逸を極度に防ぐため、家の外気に接する面を出来るだけ小さく    する。それには円い家が一番良いが、真四角な家で我慢する。  4.廊下は、家全体を均一な温度に保たない限り、煙突を横にしたような    役目となり、家内に対流が起きて熱の散逸を助けるので全廃する。  5.廊下なしで各部屋を独立に使うため、台所を広くとり、流し台と調理    台を真中に置くアイランド型とし、周りを廊下がわりに使う。  6.間取り、方位は家族の注文により決定。ペチカを中心に、10畳3つと    8畳の4室とし、南側に寝室兼居間、座敷、北側に茶の聞、台所、風    二二を配する。  7.南側を全部硝子戸にし、内側に雨戸をいれる。雨戸は、保温と体裁と    の両方を兼ねて、外側ベニア板、内側布張りの襖で、断熱戸的工夫で    ある。  こうした条件によってひいた簡単な図をもとに、友人の紹介で、札幌 では「進歩的な」seO君という若い建築家に依頼した。0君は遠藤明久 博士によれば奥野修造であるという。博士が奥野から直接聴いた話しで は、中谷説の半分ほどは奥野説とのことである。この辺の真偽はともか く、 「金をかけないわりにはなかなか上等」57な住宅は、1939(昭和14) 年8月に完成した。完成してから半年間の住みごこちはどうであったの だろう。  宇吉郎は次のように書いている。  「日光の方も通風の方も申し分なくいって、子供たちが一度も病気をしな かったところを見ると、先ず及第である。十一月になってペチカに火を入れ 54:「生活の実験」(中谷宇吉郎『績冬の  華』 1940.7.5) p.362 55:「生活の実験」pp.358、359 56:「生活の実験」p.373 57;「生活の実験」pp.376、377 i 一 126 一 一 127 一 撫. 慰    。i.隷’慧舷 、.一白辮i灘一白難1難響驚濃懸,雛1繊羅羅鍵1灘li野守饗蟹…饗一二繋照臨∴饗・ 、”紬,    一廻㌧こ 影,N _一i賦_ 翫::鋼』一一一灘鋼醐醐圏圏醐醐醐幽醐i鋤醐醐欝欝關騨剛騨卿一 ’ 隊 爵       騒 ・ 58:「生活の実験」pp.377、378 59:「生活の実験」p.381 60:「生活の実験」p.380 図3-4-1 庄司宅北西外観(1993年撮影) だした(略)黒く塗ったペチカの姿が畳の部屋によく調和し、それから出る ほのかな暖かみが、四部屋即ち家の大部分を均整に暖めてくれた。(略)石炭 を炭箱に一杯半宛朝夕二回焚きだしたが、外気が零下五度程度では、それで 充分であることが分かった。一日中の室温の最高と最低との差が約五度くら いであった。」58  「今度の家の装備では、室内の温度分布の不均整を、従来の家の揚合の二 分の一及至三分の一にすること溝できた」59  「日当たりの良い部屋の気持の良さ暖かさが、如何に萬遍なく家を暖めて くれる日光に負ふところが多いかs.よく分った。」60  実験は成功であった。設計条件や実験結果を読むと、近年のソーラー ハウスや省エネルギー住宅と基本的な考え方は同じであったといえるで あろう。この小住宅は1975年春に取り壊されている。 3-4 棟梁設計の洋風住宅  知識入たちの住宅に代表される文化住宅は、庶民には手の届かないご く少数派にすぎなかったが、北国にふさわしい新しい住宅として新聞紙 上にとりあげられものもあって、理想の住まいへの憧れとして、庶民の 関心を呼ぶことにもなった。もちろん、一般の市街地住宅は、大工棟梁 の手に委ねられることのほうが多かったが、棟梁の設計施工で建てられ た洋風住宅の中にも、注目されるものが少なくなかった。1983(昭和58) 年に実施した「札幌における大正・昭和初期の住宅遺構調査」で、多く の興味深い住宅を採取したので、うち4件ほど紹介しておきたい。 庄司藤吉住宅  札幌市中央区の北1条通と豊平川左岸通にはさまれた大通東10丁目の 仲通りに西面して建っていたこの住宅は、1922(大正11)年建設のもので ある。外観洋風内部和風の簡素な住宅で、札幌における平均的な庶民 住宅として、また棟梁自らが設計施工した住宅の一例として挙げておき たい.この住宅の建つ周辺は、かって古い木造の長屋が建ち並び庶民的 な下町といった雰囲気が残っていた一画であったが、1983年調査時には この住宅が残るだけとなっており、1993(平成5)年にはこの住宅も取り 壊されている。  この住宅は、大工棟梁であった庄司藤i吉(1886~1960、竣工当時36歳) が自ら設計施工したものである。一・部2階建てであるが、これは1933年 の増築で、竣工時には平家建て切妻屋根柾葺き、基礎は束石であった。 1933年の改造時に、コンクリート製布基礎に、屋根をトタン葺きとした。 2階はもっぱら顧客に開放したショールーム的な性格の部屋であったと いう。1953年には東側浴室部分の増築を行なっている。  下見板張りのごく平均的な市街地住宅で、窓廻りもアルミサッシュに 変更されるなど当初の面影はかなり失われているが、外壁から3尺ほど 突きだした玄関には切妻屋根をかけ、引違い戸左右に漆喰小壁をみせ・ 欄間上の妻壁は漆喰壁梁や束型を表す意匠が目を引く。  1933年頃の平面は、西側正面中央の玄関を入ると9尺四方の玄関土間 で、3尺幅の廊下越しに8畳の茶の間があり、南側の主座敷8畳と続き 間となっていた。主座敷の南面に床と仏壇が設けられている。続き間の 東側は1間幅の縁側となっているが、当初は3尺幅の縁側で、庭に面し ていた。この庭はかつて藤吉が仕事用の材木置場、作業場として使用し、 常時いた2~3名の職人たち61もまた縁側から出入りしたという。  玄関北脇は、かつての応接間兼事務室(12×12尺)である。北面の上げ 下げ窓は内側に両開き戸を建てこむ2重窓としている。奥行の深い物入 の壁は、当時の新聞の紙型を張って仕上げている。茶の間の北側は、3 尺幅の廊下をはさんで出窓付きの事務室、旧食堂(9×12尺)であるが、 当初は茶の間北側の間仕切壁はなく、廊下と旧食堂まで畳を敷き、大き な広間として使うこともできたという。事務室の東側は、階段をはさん で食堂と台所(12×12尺)であるが、当初は東端流し部分の幅1間ほどは 土間であったという。  増築された2階は、北側に廊下を置き、東側和室6畳に続き、西側が 床と違い棚を構えた和室8畳である。仕事の見本として造作した部屋と いわれ、材料を吟味し、念入りに施工されたという。  庄司藤吉は、札幌市内の田上義也設計の太秦邸(10-5-5参照)の請負業 者として知られており、昭和初期から戦後にかけて札幌で活躍した棟梁 である。1886(明治19)年山形県鶴岡湯田川村の米穀商の家で生まれ、札 幌の斎藤製材業に嫁いでいた姉を頼って渡慨したようで、弟喜一郎(42 歳で死去)も大工であった。 一Σ. 2 UP 台 所 @堂食 」 1 居 間一 床 卍  o ィ 置 事務室 玄関 1階             A 図3-4-2 庄司宅復原平面図(1/200) 61:庄司博喜による。 床 N D 2階 一 128 一 一 129 一 叢  麟 _灘灘鍵盤鱒灘灘灘難難灘灘i灘幽幽灘一白白糠馨鱗灘講糠蝦l!辮鍵難響攣懇願轡磯難響騨・。転1欝饗讐撫二一囎1攣.’ge“” 鍾 図3-4-3 富樫別邸南西外観  藤吉は設計も得意とし、弟が棟梁として施工することも多かったとい う。職人気質の強い人で、現場ではだめ工事部分の材料をはがすなどの 一徹さもあり、設計者とはいつも喧嘩が絶えなかったという81。藤i吉に は子供がなかったため、喜一郎の4人の子供、正喜、重喜、直喜、博喜 のうち、博喜を養子にした。  1944(昭和18)年設立の北海道大工業組合連合会の初代組合長を務めた が、同連合会は翌年には北海道大工工事業統制組合に改組、さらに同23 年には北海道建築工業協同組合に改組されている。 富樫長吉別邸  札幌市中央区北3条西16丁目にあるこの住宅は、札幌の海産物加工販 売業富樫商店の初代富樫長吉(当時58歳)の別邸として建てられた。富樫 家は南2条西1丁目に店をもち、本宅として居住していたが、1928年加 工工場(現住宅の北隣、愛育病院敷地)隣地に、接客用別宅として建てた ものである。敷地はゆったりとして庭木が繁茂し、西側庭園(造園は集 楽園)には池が掘られ、かつては南の知事公館敷地の湧水を引いていた。  建物は内外とも原形をほぼ残しており、半切妻屋根のポーチ、ベイウ ィンドウ、軒先の菱形タイル、屋根窓など、様々な外観デザイン要素を 展開し、白い外壁と隅柱や開口枠の暗い赤褐色の塗り分けが、実に楽し げに調和している。  正面5.5間、奥行5間ほどのほぼ正方形平面の寄棟屋根の住宅主棟は、 南側正面と西面の外観意匠が目を引く。軒下から窓枠上まで黒っぽいモ ルタル壁を廻し、南側正面は窓枠縦がまち位置に白いスティック(棒状 装飾)を伸ばし、中央に菱形タイルをはめて軒廻りを引き締める。2階 には欄間と引違いガラス戸をはめた縦長窓を等間隔に並べ、1階東端に 半切妻屋根の玄関ポーチ、西側にベイウィンドウ、さらに西端に上げ下 げ窓を配置している。  ポーチの二面は、モルタル壁に白い3本の持送りとスティックの装飾 をみせている。ベイウィンドウの正面欄間部分には、菱形の黄色の色ガ ラスを嵌めている。部分的に色ガラスをはめこむ手法は、階段昇り口小 窓や便所窓、浴室前室など随所にみられる。  西面2階は、軒下モルタル壁の下に引違いガラス戸8枚を建てこむ欄 間付き連窓で、窓上部左右に正面と同じ菱形タイルを嵌めこんでいる。  1階は、二棟幅いっぱいの縁側であったが、現在は南側一部を張り出 してサンルーム風に改造している。二棟東面は2階北側に上げ下げ2連 窓、南側に階段室採光用の引違い窓を付け、1階は1950年改修の応接室 部分が張り出している。  無塗装の2階建て下見板張りの北側従棟は、1950年の増築部分で、主 棟と同じ棟梁小島与市が手掛けたが、戦後まもない経済状況を反映して か、質はあまり高くなく、維持状態もあまりよくない。  病棟の平面は、洋風の外観とは対照的に、和室の組み合わせとなって いる。南東側玄関部分(15×15尺)は、3尺幅の階段室、奥行6尺の土間、 3尺の式台、4枚引きガラス戸をはさんで6尺のホールで構成されてい る。竣工時にはホール正面、現応接室部分は8畳和室、玄関左手に10畳 の続き間が並ぶ。南側は寝室、北側は茶の間で、茶の間にはかつて炉が 切られ、自在鍵が天井から下がっていた。続き間西側を縁側とし、茶の 間境に下間障子、寝室境に雪見障子を建込み、上部を竪桟に菱形組子を デザインした障子欄間としている。  2階はi接客用で、南側と西側にL字型に廊下を周し、西側に10畳2間、 東側に南から8畳、6畳、納戸(4畳半)を並べている。西側北座敷は付 け書院、床、棚を備え、東側の6畳と4畳半は納戸として使用した。西 側和室は、時には隣の8畳も含め、広間として宴会や結婚式などに利用 されたという。  設計者の棟梁小島与市は、富樫家の初代長吉の妻キシに可愛がられ、 よく富樫家に出入りし、富樫家の借家の仕事なども手掛けていた。  小島与市の長男幸治(調査時北大農学部林産科教授)によれば、与市は 物 置 oso 口 [コ i巻豊 間上. 0 創  .女博覧r 二\ 台所暴会9 x, 邑舞季ロ ぐ 一寝#一 。=} 圭閥 図3-4-4 富樫別邸平面図(1/200) A !F ÷ 2F 一 130 一 一一@131 一 品陣三三醐∵ ’耀緊懸灘幽幽鐵幽幽自励欝:響灘響鱗一驚羅灘難一山灘灘響.、∵懸鐸聾黙黙羅鑛鑛鐵1灘灘・離調懸幽幽一曲輪舞灘難聴懸隔 國 睡 眠 匿 , “ 騰 ^ で熱 図3-4-5 斎藤懸垂外観 62:秀雄夫人、斎藤初恵による。 現在の山形県温海市で1895(明治28)年に生まれた。父の与惣治(1871=明 治4年~1930=昭和5年。59歳で没)も大工棟梁であった。山形県の高等小 学校卒業後、先に渡道していた父を追って16~17歳のころに来道し、父 のもとで大工仕事を手伝うかたわら、札幌区立商工補修学校(夜学、現 二階商業)で、設計製図などの基礎を学んだという。  与市の仕事は主に住宅が多く、現存する大原邸(1927年、3-3・・3参照) や斎藤邸(ユ934年)などが知られているほか、南大通西4にあった木造3 階建て「札幌ホテル」などの仕事も知られる。与市は、趣味にもモダン なところがあって、1921年頃から写真に興味をもち、ドイツ製カメラを 手にいれたり、展覧会に出品、入賞したこともあったという。北海道大 工工事業統制組合の西支部長(当時与市は南5西10に居住)を務めたこと もあって、組合長であった庄司藤吉とも親交があったと聞く。戦後も仕 事を続け、1975年11月80歳で生涯を閉じている。 斎藤秀雄邸  大通西28丁目の仲通り附近にはアメリカ領事館や市長公館もあり、円 山公園の東に接する閑静な住宅街ということができる。この住宅地の一 画、250坪(825㎡)の敷地に建っているこの住宅は、昭和初期のモダンデ ザインをよく表現した住宅である。  1934年、味噌醤油醸造販売業斉藤i甚之助(当時51歳)が新婚間もない娘 夫婦のために建てたものである。婿養子に入った秀男(旧姓磯谷占い、 当時29歳)は京都の公家出身で、この新居は秀雄と親交のあった京都の 筆屋・熊谷鳩居堂をモデルにしたという。鳩居堂は「洋館と和風が「緒 になった建物」e2といわれるが、取り壊されて確認できない。設計・施 工は、富樫邸と同じく大工棟梁小島与市であった。  外壁はモルタルに淡い栗色のペンキ塗り、腰は正面まわり玄関・居間 兼応接室にかけては黄褐色のスクラッチタイル貼り、他は下見板張りで、 淡い緑色に塗装されている。屋根は一部一文字葺きに変わっているが、 もとは全面瓦棒葺きであった。寄棟屋根の軒天井を水平に廻し、正面は 切妻で頂端部を折り下げている。ここに四分円形のポーチが張り出し、 扇状の緩勾配屋根をかけている。ポーチ袖壁も円弧状に湾曲し、二二の アーチ風開口としている。  正面ポーチ周りや2階にはアーチ小窓や円窓が多用され、外観に表情 豊かな変化を与えている。玄関室南側のアーチ欄間付き嵌め殺し窓は、 中央に葡萄房をあしらい、青と黄色の色ガラスで構成されたステンドグ ラスである・ホール正面の円窓は、花瓶に活けられた花のモティーフ、 階段踊り場の矩形窓は亀甲型に青と黄の色ガラスのステンドグラスとさ れている。  内部のうち・ホール、居間応接室、階段室は原形を保っているが、他 は1945年から’51年まで進駐軍の接収時に大幅に改変されている。平面 は中廊下型を基本とし、ホール南側に大きく張り出してベイウィンドー 付きの居間応接室がとられている。壁、天井は漆喰で仕上げられ、天井 中央にメダイオンがあり、当初からの照明器具が下がっている。かつて はダンスなどにも利用された部屋という。ホール西側に洋室の食堂があ り、6、4.5、10畳の座敷が西に連続していたが、食堂から4.5畳までが 1室の大きな居間に改造され、10畳奥座敷も洋室に変えられている。食 堂と、6畳、4.5畳前の縁側はそのまま残されている。廊下北側には、台 所、浴室、便所のサービス部分が並ぶ。2階は、南側に縁廊下をもつ、 6、8畳の続き間であったが、これも洋室に改変されている。  棟梁小島与市(1895~1975)については前項で述べたが、父与惣治は北 7条西25丁目の第1鳥居前にあったという斉藤甚之助邸(1948年焼失。木 造平家で300坪の床面積があったという)を請け負っており、その縁でこ の住宅を手掛けることになったという。  棟梁のほか工事関係者は以下の通りであるa3。 管 官 配 左 建具(内廻り)   障子・襖  ペンキ  洋塗内装 建設費は、 山中ポンプ 古市権作 森木建具 中沢馬車屋 木村塗工店 太田塗工店 庭      高重庭師 屋根トタン  松崎建具 柾葺    新田葺屋 土工     川野倉太郎 障子     中沢養斎堂 畳      ノ」熊幸四郎       12,789円10銭、室内家具は、当時開店したばかりの三越百 貨店(1931年開店)に、カーテンは丸井百貨店に揃えさせたという。 大島信旧邸(旧カトリック札幌司教館)  北1条東6丁目、カトリック北!条教会敷地の東側にあるこの住宅は、 1937(昭和12)年11月、大島信(竣工時42歳)邸として新築された。  この敷地には、それ以前ローランドという米人宣教師が住み、セピア 色の木造2階建ての洋館で、幼稚園や英会話教室などを開いていたとい う。!936年、北2条東8丁目で酒造販売業を営んでいた大島信は、ロー ランドからこの土地を購入し、洋館を取壊し、親しかった宮大工棟梁吉 井繁太郎(1904~)64に新居の建i設を依頼した。間取りは大島の希望が大 きく取り入れられ、「明るく、暖かい家」35を目指したという。南側に大 きく開口部をとった平面計画であるほか、2重窓や外壁の間に建築紙や オガクズを入れるなどの工夫がなされているというBS。  外観はほとんど当時のままの姿を伝えている。2階では寄棟屋根の軒 天井をそろえて水平に廻し、階高を低く抑えて上げ下げ窓を壁の高さ一 杯にあけ、スクラッチタイルの外壁仕上げとあいまって、水平性の強い のびのびとした意匠をみせている。2階の南側連窓の両脇と西面には円 形の嵌め殺し窓が配され、昭和初期的なデザインをみせていた。 一 132 一 一 133 一 ・纒 “寄裏… 灘 」 へ腿 63:URB建築研究所圓山彬雄調査によ  る。 64:1982年調査時 65:登喜代夫人による。 66:吉井繁太郎による。 ,?nv 魯 寒 ’ 夢 1 襲 一・・b・’i馳∫澱藍 ゴヤ∴ノ}㌔F轍四強   ,      脅  v      一ぐ一」鮎  {              真 難欝∴鷲讐㌧∴調:鑑総懸繕”wo 図3-4-7 旧大島邸南外観  1階は、一部南側でスクラッチタイル仕上げとする以外は、白ペイン ト仕上げの下見板張りである。  設計図が遺されており、竣工当初の姿がわかる(図3-4-8)。西側の玄 関を入ると、右(南)側に応接室、正面に中廊下と階段、左に文庫蔵への 渡り廊下が続いていた。廊下の南側に8、8、10(茶の間)畳の和室の続 き間が縁側に面して並び、北側に便所、女中室、勝手口をまとめている。 廊下は東側突き当たりから右に折れて、南北に廊下が伸びている。廊下 の東側には、北から台所、食堂、和室(8畳)が並んでいる。2階は、南 側の縁廊下に面して寝室(8畳)と座敷(10畳)が並ぶが、2室は廊下で分 断されている。縁廊下は東側で鉤の手にまわり、10畳、8畳の続き間と 結ばれていた。  大島信は、1950年旧古藤邸(3-3-2参照)に移り、この住宅はカトリッ ク司教館にかわり、1954年頃瀬野勇の設計施工で、表座敷、縁側を広間 β DN 1 !l   l一         1  } 1 1  1          1 g} 『 コ   } h    I 2階 9 N 物置1 洗面所 浴室 台 所 ; 一 / UP ! } 1 1 1 } t ホール l l 1一 ト  ・  1 黹 R / :・   1H 堂  [ 〉・1玄関くノ   , @   〃1 「・」 /  しR 1 1 ノ 居 間 1階 (会議室)に変更するなどの改造が行われている。  棟梁吉井繁i太郎は、1904(明治37)年生まれ。新潟県三島郡片貝村の出 身で、家は代々の堂宮大工s7であった。祖父は京都東本願寺の修復に新 潟から招聴されたという伝八(6代目)で、父親は伝八の6男の繁治。繁 太郎は繁治の長男として生まれた。  1913(大正2)年繁太郎10歳の年に、旭川妙法寺工事のため渡道する父 親に家族と共に同行した。1919年3月15歳の年に旭川町立中央尋常高等 学校を卒業後、同年4月から父が手がけていた札幌大覚寺山門建築工事 に大工見習として参加した。この仕事で大島信の父、金造と知りあい、 以後大島家の知遇を得たという。1923年頃から本格的に大工としての仕 事を始め、1925年4月からは創成商工学校の夜学にも通うが、父の死去、 仕事の多忙さで、翌年中退している。  本格的な社寺建i築の仕事は、1929年の当別禅寺全久寺からで、以後社 寺建築が仕事の中心となったという。1964年に61歳で廃業するまでに、 小品も含めれば社寺だけで30以上もある。代表作として、札幌諏訪神社 (1934年)、小樽宝泉寺(1937年)、札幌北大寺(1945年)などがある。  以下吉井繁太郎の仕事を一覧しておこう。 図3-4-6 斎藤邸平面図(1/200)     (北海道工業大学住谷研究室調査図面よリ作成)   名    称 大覚寺山門 定山渓鉄道ホテル 松沢宅 柏野宅 定山渓鉄道石山駅 定山渓鉄道藤の沢駅 豊田宅 大覚寺五百羅漢堂・納骨堂 相沢宅 島田自転車屋 全払寺(禅寺) 丹羽宅 (十勝の山奥の学校) 真正門 柱寺 光明寺 文教寺 法運寺 諏訪神社 遠藤上 江南神社 大成寺・鐘堂 宝泉寺 烈々布神社 伊夜日子神社 大島宅 大覚寺・納骨堂 覚王寺 某神社 氷川神社 俊教寺 北大寺 某寺 不当 開法寺本堂増築及四ツ足門 札幌 札幌 札幌 札幌(大通) 当別 札幌 厚真 滝川 江部乙 当別 芽室 札幌 札幌(篠路) 当別 小樽 札幌 札幌 札幌 札幌 上湧別 月形 新冠 池田 札幌 北見(相の内) 上湧別 根室  所在 地 竣工年 札幌(北10東11) 1920        1921 札幌      1922 札幌      1924        1926        1926        1927        1927        1928        1928        1929        1929        1930        1931        1931        1932        1933        1933        1934 札幌(南3西17) 1934        1935        1935        1937        1937        1937        1937        1938        1940        194e        1941        1943 1945 1948 1948 1949  備  考 大工見習 大工見習 1935年設計 1936年設計 1936年設計 1936年設計 1937年設計 1939年毅計 1941年設計 改築工事一時中断 1942年設計 67:吉井越後源重行の名で請負記録渉あ   るという。 134 一 一 135 一 、噸讐幽幽饗幽幽慰顔幽幽1難1難懸灘織灘一山自由購蟻麟二二縫雛麟鱗’饗鷲欝魏魏羅騨i灘繕騨融融灘1饗i饗難熊襲鰹罪熱論1る誓∵羅白山灘欝 ・臥, 習略剛鵬甥幹贋琴響門1・節   、環、 遡 灘   名    称 法運寺・二重塔 札幌光星高校修繕工事 法勝寺 某寺 広延寺 妙覚寺 開法寺増築 高桑宅 吉川宅 井上宅 全龍一 斉肥州 開法寺・庫裏 柿田宅 自宅  所 在 地 芽室 札幌 御影 御影 芽蜜 清水 根室 札幌 札幌 札幌 茂尻 札幌 根室 札幌 札幌 竣工年 1950 1950 1951 1952 1953 1954 1955 1956 1957 1958 196e 1961 1961 1962 1963 考 三 一   二 三   年 年 備 4 9 5 0   1 9 1 91953年設計 1959年設計 .趣    トコ , l lli畿…i …Plil           ,i11ii繭  1…li}1;…{                            」・ピ[                             酢い…・ 脚t 浴@1 2階 1し y 1 一       ト             一     」                                       ,   p     炉                                                         } !                                                                                                                                                                                                               噛 「 ! 1   . ■   . r 囎 庫 文       ・ 所 台 噛 ㎜ r l I                         幽 “ P ≡ 一     「 三 文 囲 唱 d ㍑ い ’ 二 二 8   「   5   塵 一 室 士 女 ,               一   一                     」   一 三 , 甲 バ 配 1 1 円 伽 ∴ 睡           1       1 1 O     l 一, (卜 j 1 踏 」 t - 口 勝 1   , 一 印       F   } 厨 り ・ 一 牙   . 一 口 川 距 「 楠 層 田 巨 1 - f l 一 田 型 - 照 口 庫 文 P 初 m -                                       1 一     一 0 目 頃 田.  胆 州 ! 室 接 応 5 !                           1 ‘   ヒ 鵜 図3-4-8 旧大島邸平面図(大島家蔵『大島氏住宅之平面図』よリ作成) N ム ⊥ T 3-5近郊農家住宅  市街地の住宅ほど目立たつことはなかったが、近郊の酪農家でも、斬 新な洋風住宅を建てるものが現われている。札幌近郊に建つ旧出納家住 宅(1925年)や高倉左輔住宅(1933年)などは、理想的農家住宅のモデルと して注目されるものであった。 旧出納家住宅  札幌市厚別区上野幌の雪印種苗株式会社「ヌ・ポ・ロ・ファーム」内 には、石造サイロと旧製酪所(雪印バター誕生記念館)および木造3階 建ての住宅が遺されている。いずれもデンマーク農業の紹介者として知 られる出納陽一が、デンマーク農法のモデル経営を実行した、宇納農場 (のち出納牧場)の中心施設である。  腰折れ屋根の外観が特徴的な住宅では、室内すべてを板問としたり、 酪農食(またはデンマーク食)と呼んだ洋式食生活を実践するなど、デ ンマークの生活様式を強く意識した生活様式88を展開する中心的役割を になった建物である。住宅には、実習生や家事見習の若い女性も同居し、 出納夫婦は若い男女に、デンマーク農業やチーズの製造、デンマーク風 の調理や家事の生活指導の場として家庭を開放し、人造りにも尽力した のであった。  木造3階建て一部平家の遺構は、上部で5/10、黒部で12/10の急勾配 の腰折れ屋根や、木地に防腐剤を塗った黒褐色の下見板張り外壁と白色 ペイント仕上げの破風板や各階境の平帯、開口部額縁、付土台などのコ ントラストが印象的な建物である。また幅広の欄間下に親子扉を建てこ んだT字型の白い額縁をみせる東面玄関の入口開口の意匠も特徴的な意 匠の一つとして挙げることができる。  腰折れ屋根をかけた梁間5間、桁行5間半の主棟は、南側に切妻屋根 の玄関(9×6尺)を突出し、北側に平家の従棟(15×21尺+15×15.5尺)を のばしているが、創建時の白蓮部は、東側に桁行2間、梁間2間半程度 突出していたと思われる。  主棟の上げ下げ窓は、額縁に笠木と窓台を付けた形式であるが、東西 面の2階窓は同形式の窓を屋根上まで突き出し、6寸勾配の小庇をつけ ている。西面では、さらに3階採光用の屋根窓も2つみられる。3階両 親面の2つの小窓は、両内開きである。また主脳1階の東面には、窓台 と4段重ねの重厚な笠木を備えた2っの嵌殺し小窓がみられるが、創建 時には縦軸回転窓であったという。同様の小窓は西面にもみられた。こ のように全体は洋風窓の意匠を主としているが、!階東西両面では、2 つの引違い2重窓の出窓が、まったく対称的に配されている.           薪 鐙 一 潮 瀞 薗 講 蟹 , ・ 、 .   rイtpgort・   駈画 }. ’rk’ m一 !”!一geNm si     _瀞触 ら ・騒繧 …墾v/1 沁ご無 襲繕 図3-5-1 旧出納家住宅南西外観 68:『出納陽一氏の面影』(同刊行会、   1977. 5) 一 136 一 一 137 一 獅轍灘慰灘懸盤蕪、 鱒灘鍵 騨灘難難山1灘白鍵灘難灘懸幽幽一 一『・’机マ  、N一・’7■’いve・醒・ tvtpt“r’;” ’t “ み 「 夕 》 が 吟 蒙 趣 , 畿 営 酵 ド ’ 臨 ・ 顎 眺 69:出納明子(出納陽一4女、1927年生ま  れ)および旧写真による。   裾広がりのコンクリート製布基礎のうち、主棟の東西面で北端部付近  で基礎が切れて煉瓦積みとしている部分が見られる。旧写真でも確認す  ることが出来るが、かつて地下室への採光用窓のあった部分であるとい  う。   内部は、看貫部の一部については不明であるものの、主棟部分につい  ては概略復原することできる(図3-5-2)。 ここでは現状をふまえながら、 創建時の復原平面について概説することにする。   遺構は1階44.200坪(145.86㎡)、2階27.500坪(90.75㎡)、3階23.375坪  (77.14㎡)、延べ床面積95.075坪(313.75㎡)の規模である。   間口5間奥行5間際の主棟の南側中央に、幅1間奥行!間半の正面玄 関を突出させた1階は、北東側に厨房、食料庫、洗面所を含む従棟(15 ×21尺)と、北西側に便所と北玄関を含む(15×15.5尺)の従棟を接続し ている。  正面玄関は、天井板張りで廻り縁をまわし、壁は漆喰仕上げ。北面に 同形の片開き戸を2ヵ所建てこみ、西側は閉ざされ、東側は食堂に続く。 食堂(ユ5×33尺)は現在1室であるが、南側から2間の位置に袖壁が付き、 さらに南側から4間の位置に6寸角程度の柱が立ち、創建時に間仕切が 存在したことを示している。  食堂の西側室(現「1号室」)も現在1室(15×24尺)であるが、やはり 南側から2間の位置に袖壁が遺存する。同形の2室であったが、北側室 には階段が1間ほど食い込んでいる。食堂と西側室の間には円形ペチカ が組み込まれており、創建時には同じ広さ(15×12尺)の4室が円形ペチ カを中心に田の字型に配置され、東側は南から応接室と食堂、西側はい ずれも予備室であった。北側の予備室ではチーズの梱包が行われたとい う。  食堂の西側北寄りの入口は廊下に通じ、さらに西側現τ2号室」(10.5 ×9尺)は食料庫として使用された。食堂北側、現状で独立柱が立つ付近 から台所(15×9尺)で、台所の南面、食堂寄りに造り付けの大きな食器 棚があった6s。  食堂北側の従棟部分には、厨房と食料庫(6×6尺)および食料庫背面に は洗面所が収容されているが、創建時の従棟(15×12尺)には、土間、脱 衣所、風呂が収められていた。  食堂と「2号室」の間の廊下付近には、裏口から直接3階への直通階 段と、地下室への折り返し階段があったという。したがって、廊下北側 の裏玄関(9×15.5尺)や西側便所部分は創建時とはかなり違っている部 分であるが、階段や裏玄関の大きさ、取り付き位置などはっきりせず、 復原略平面図では省略している。  地下室は、食料貯蔵用で、外観でも述べたように、東西面北寄りに地 下室への採光用窓があったBS。 1        レ 戟^ll 測’曹 o 崖 }       響  ,   , 一「’「 @   工{~一.   マ曽一  一   一-一一  曜魍   ’一一即, ?  _一 ; i , 1! C 1 目i}  ・ 一一=∞e一二@_∵’= ======= _二=== ==二==’一 「 ㌧    曹   _   一 一 一   一        口 檜  .    o      一  噛  一 一 曾  璽   一     ■ 一   . 一     . 一_ 3階 「 1 } i l ! i 川 / l   咄 艦 寝 室子 供 室 l/lll/川 i お 手 伝 い お手伝い お手伝い 「 2階 土 間     l i 台 i i 所 i i 食 堂     ; i 応接室 { 予備室 予備室 予備室 1階 図3-5-2 旧出納家住宅復原略平面図 M 3f e 3  12尺 = 混融 一じ  、  ‘                            コ     _ 盤箒簗叢 一 コ=三…≡  一=   一 @  一@    曽 ■   一 T _≡≡≡≡ 一 i…i 一 __          =_===     二=二=一噌 一一二 「 1 一        藁____    __一一三≡_ 一∴3一 } 1  卜 粋f===== 一   一 一 8 __一_____≡              一黶@     一  一                                                                                                 一こ一 ?ー    一     一 一 一  一h黶 ;=一…メc≧三…一. ≡…_ ;=≡一 一 一          =三三=≡i≡ ≡≡→ ネ≡≡≡≡≡≡     一一              一                              一…i…≡些 一書垂 量 一≡≡=;≡_≡≡≡ ≡≡≡≡=≡ __=≡ }一O三≡__=三』{㎜ @ 蓬≡}曹 =ニニ=二二二π二ご=一一 一.一一.     =_二.=_一                    一  一 } _           一≡≡_..             一”石7コTτ’π].罫β   ==二‘ ,    一 ,_≡……==『 @_=  _ 口0口冒 己廼 図3-5-3 旧出納家住宅南立面図 図3-5-4 旧出納家住宅東立面図 一 138 一 ・一@139 一 「㈲ぞ蜥’卜 「『聯〔丁撫?. r・撃・・ ワ’ 黹M’ @    ・♪~鵡㌧へ= 嵐銚 .鐙轟轟 、ぜ 謙縣 面一’   璽軍粥1 IZ:OO r    ,  , □ 一 罵 亀   ; ,一 ,  ,・, ・ @   9一一  一騨  , 噂                  嘱r,一 囎} 3階       りこぎ  「=:一遍・一∵一’一詞 1『 6¢}■匿 廓rF } 一   一嶋 1           「           ー ー   i       [                     1   l @lll @幽融1 i l I    7 りL- o ξ     き @       5「}竃 @3 ■劉∫ @ ノ =_ w     }  , Q階 eo:oe frus“一r-marS“M-r   33 00                    _聰 聰鬼自■卿P ¶麿騨喝口 卿■臓露 9qレ竃 o 二 6ひコ臨 LMasLi 1階 ~__⊥_』鯉__L__遭凹≧___L_」幽d   」 「 ー 図3-5-5 旧出納家住宅現状平面図  2階への階段とは別に3階直通階段が備えられたのは、実習生と家族 や家事見習の男女が一つ屋根の下に生活することを最初から考慮しての 設計と考えられる。  2階は、階段室、廊下、集合煙突を含むホール(9×12尺)を中心に、 南側「5号室」(15×12尺)、西側「3号室」(10.5×12尺)、北側「7号室」(9 ×30尺)と、東側L型の「6号室」(15×12尺+10.5×12尺)が囲んでいる。  「3および5号室」は「家事見習い」室、 「6号室」は寝室であった。 寝室には、北寄り廊下側に、太い額縁(幅164㎜)を廻した嵌殺しの小窓 を開けている。中廊下への採光を考えたものとも思えず、用途にっいて は不明である。「7号室」は創建時には2室に分かれ、西は「家事見習い」 室、東は子供室(ともに15×9尺)であった。いずれも壁、天井は紙張り、 床は現在畳敷きであるが、創建時はすべて板間であった6s。  3階は、中央階段ホールをはさんで、南側2室(12.75×9尺)、北側2室 (12.75×12尺)に間仕切られているが、当初は間仕切のない1室であり実 習生用の部屋であった。部屋上部には垂木構造の小屋組が露出し、垂木 間隔は概ね1.5尺、屋根窓部分では2尺とし、南側で1尺、北側2尺と調整 している。小屋組の部材寸法は、垂木120×48㎜(成×幅、以下同)、棟 木120×48㎜、腰折れ部を厚さ17㎜の方杖板で補強し、棟木下で左右の 垂木をっなぎ材(120×48㎜)で固定している。  出納陽一(1890=明治23~1976二昭和51年)は、1890年9月大分県南海郡 上野村(現弥生町)で生まれ、1910(明治43)年9月札幌農科大学予科に入 学、1913(大正2)年同大畜産科を経て、1916年卒業後東京下板橋の愛光 舎牧場に就職した。1918年宇都宮琴子と結婚、1921年1月デンマークに 留学し、酪農経営と機械類、バター・チーズ製造の実習にあたった。1 年半ほど遅れて琴子夫人もデンマークに渡り、料理や家事全般の実習に あたった88。この時の経験が牧場経営の基盤となっているが、帰国後も 徹底的にデンマーク風の生活様式を固執し、まだあわせてr丁抹の農業』 (ユ924年)や『デンマーク復興の偉人グルドドビー』(1949年)などの著書 や講演会、講習会を通じて、デンマーク農業の普及に努めたのである。  1924年4月に帰国後、義父でもあり、またデンマーク農業導入の提唱 者でもあった宇都宮仙太郎(1866=慶応2~1940=昭和15)と共に、上野津 幌815番地(1927年以降の出納牧場)と933番地(1927年以降の宇都宮牧 場の中心地)を併せた38ha余りの土地70で宇納牧場を開設する。同場は、 1937年に北海道製酪販売組合連合会(雪印乳業㈱の前身)に譲渡されるが、 以後出納は酪農経営の指導に専念するようになった。1941年には満州拓 殖公社の招きで渡満、開拓および酪農指導にあたったが、1946年8月終 戦により帰国、翌1947年佐賀酪農塾長として九州の酪農人養成にあたっ た。1949年に退任後、1953年から酪農学園短期大学教授兼野幌機農高校 講師、野幌高等酪農学校講師を勤め、その後学園理事(1955~1963年)、 70:『上野幌百年のあゆみ 拓魂』上野  幌開基百年記念事業協賛会編集部  (1985. 9) 一 140 一 一 141 一 欝 灘灘灘 羅 灘灘.灘灘購灘懸難鍵i購1鑛懸嚇鵜鱗難灘麟耀翻・講、 獲騨.i灘灘羅灘灘難難1灘灘灘縫灘灘鍵灘灘雛灘灘難購 陰 舜 一 旨 ド 賦 餌 銑 融 ge”1ersAvf,  鎌 劉 讐   、 壼 『 h イ 範 訪凪、、 :隈誌補・ 同評議員(1959~1964年)、同大学教授(1964~1969年)等を経て、1976年  5月他界した。  ユ925年竣工の住宅は、ユ937年に北海道製酪販売組合連合会に譲られる まで、1、2階は出納家(夫妻と娘4人)と「家事見習い」が居住し、3 階には前述のように実習生を収容した。  当時の生活ぶりや食生活の様子は、『出納陽一氏の面影』中に多数収 録されているが、出納家では昭和に入ってから当時わが国では珍しかっ たプロセスチーズの製造に着手し、風車印の商標で販売し、包装は専ら 琴子夫人の手で行われたという。また当時の食事は酪農食と呼ばれ、朝 はビスケ(赤星印の小麦粉に若干の麸ふすまを加えた焼きパン)にオートミ ル、昼はシチューやスープ、馬鈴薯の料理のほか、ポテトカレーや自家 産の豚肉、鶏卵、牛乳、瓶詰め果実や試作チーズが並んだという。  住宅と共に畜舎も完成しes、さらに製酪所も建設中であったが、ちょ うどその年創立した酪聯(有限責任北海道製酪販売組合、翌年北海道製 酪販売組合連合会。雪印乳業㈱の前身)が製酪所を無償で借り受けるこ とになり、同年7月から製酪事業を開始した68が、この製酪所が現在の 「雪印バター誕生記念館」にあたる。同建物は1925(大正14)年7月から 翌ユ926年10月まで、有限責任北海道製酪販売組合のバター製造所および 技術員養成所(2階)として使用され、また1950年~1980年に雪印種苗㈱ 上野幌育種所事務所として引き継がれ、1980年4月雪印乳業㈱が記念家 屋として譲り受け、翌1981年12月記念館復原工事が完成し現在に至って いる。  宇納牧場は、1927年宇都宮仙太郎の長男勤がアメリカ留学を終えて帰 国し、宇都宮牧場(もとの本拠は上白石)を開設した際に分離し、以後 出納牧場として独立している。出納牧場の経営概況として1933年のもの が残されているので以下に列記したB8。 土地面積17ha 作物別面積 弊  畜 建  物 ゲントコーン 燕麦(牧草混播) 乾燥用牧草 乳牛総数 耕  馬 豚総数 鶏(成鶏) 住 宅 農具舎 鶏 舎 製酪所 尿 溜 延ベエ00坪  3ha  家畜ビート   2ha 2.5ha 青刈リ牧草 2.5ha  5ha    i薫li麦           2ha 60頭(搾乳牛35頭,育成牛25頭)  4頭 40頭(繁殖豚3頭,育成豚37頭) 50羽      牛 舎  ユ35坪 45坪   豚 舎   ユ8坪 ユ5坪   堆肥舎   20坪 30坪   サイロ  ユ50トン 200石  出納牧場および建物施設の一切は、1937年に酪聯が譲り受け、農場 は酪農義塾(二野がユ934年に開設。現酪農学園大学の前身)の実習農場 として活用された。旧出納住宅は、1階は講師住宅、2階は講義室と助 手室、3階は学生寮として使用された7:が、1942年酪農義塾が文部省令 に基づく甲種農業学校興農義塾野幌機農学校となった際に、農場は興農 公社の種苗部に移管され、住宅の方は藍建公社「青雲寮」として1979年 まで使用され、この時期に平家部分の増築や内部の改修(3階間仕切壁 の取付け、階段の変更など)などが行なわれた。  農場は、1950年種苗部が独立して雪印種苗株式会社になってからも研 究農場として活用されたが、1979年同社の長沼移転により、跡地を園芸 センター・緑地帯・雪印スケートセンターなどを含む「ヌ、ポ、ロ、フ ァーム」として整備された。住宅は、1979年に雪印乳業株式会社所有と なり、1984、85年に補修が施され、1986年合宿所に改修され、現在に至 っている。 高倉左輔住宅  札幌市豊平区北野6条4丁目にある酪農経営者高倉左輔の住宅は、戦 前の北海道農家住宅の理想像のひとつといわれた。高倉面輔が現在地に 入植したのは1924(大正13)年のことで、入植当初は丸太を組合せた12坪 (39.6㎡)ほどの土間式の拝み小屋であった。1927年の木造住宅(24坪)を 経て、このユニークな住宅を建設するのは1933年のことである。  農家であればこそ、「都会入から羨まれるような生活が出来るゴ2とい う高倉の夢を実現したこの2階建ての「明るい農村文化住宅」73や農業 生活については、1953年出版の『高倉さんの楽しい農業生活設計』 (酪 農学園通信教育出版部)に詳しい。  著者川村秀男は、まえがきに「高倉さんの農業生活を、多くの農人諸 君に知っていただくことは、現在の農村生活に明るい希望を持たせるも のだと考えて、この書を刊行することにした」と動機を述べているが、 確かにこの書からは、軟石造の耐寒住宅、明るい茶の間と台所、コンク リート土間に机と椅子の食堂、茶の間と台所に続く花いっぱいの温室、 冬を知らないペーチカの採暖、自給自足による動物性蛋白質の豊かな酪 農食、機械化による労力緩和の農場経営など、高倉家の楽しい農業生活 の雰囲気が実に生き生きと伝わってくる。  住宅は、4間×5間の矩形平面で、南北に妻をみせる腰折れ屋根の総 2階建て。西に玄関(2.25坪)、南に温室(6坪)を突き出し、東に加工・貯 蔵室と便所を付属した形態である。1階は有明産の軟石造で、厚さ8寸 (24㎝)ほどの軟石を基礎上から2階桁下までユ0尺の高さまで積み上げた。  軟石を選んだのは、もちろん耐寒、耐火、耐久性を考慮したものだろ うが、高倉がこの材料を選んだのは、まず近くで軟石が切り出されてい たからでもある。 「耐寒建築材は重いので、運賃で高いものになる。農 家の冬は割合ひまになるから、コツコツ馬頭で運べば、ほんの安いもの になって材料が入手出来る」74点と、耐寒住宅の材料は「郷土に即した 一 142 一 一 143 一 航 撃触拶 写 71:中曽根徳治(元酪農義塾講師、現酪  農学園大学教授。1937年から1944年  まで遺構に居住)および元井力治(酪  農義塾第8期、1942年卒)からの聞き  取り。 1 :Nl!: 図3-5-6 『高倉さんの楽しい農業生活    設計』表紙 72:『高倉さんの楽しい農業生活設計』   (酪農学園通信教育出版部、1953.1.  20) p.3 73:『高倉さんの楽しい農業生活設計』  p.14 74:『高倉さんの楽しい農業生活設計』  pp.28, 29 t“ L一.eT.sf..T一一 : 覇瀦醐騨灘騨灘羅懇. 繍『 @wn艦権      ”t’” 溢 軽 ゴ コ 野 き ・ レ ル . 」 . ’ 一 . 」 ー ー 「 『 ゴ 図3-5-7 高倉左輔住宅南外観 75:遠藤明久『北の事典「続・北海道住宅  五十話」43』北海道新聞(1978.3.13) 76:遠藤明久『北の事典「続・北海道住宅  五十話」17』北海道新聞(1978.2.9) 77:『高倉さんの楽しい農業生活設計』  p. 44 喚岬・=s.}’=’N’?      門  ’・・ドPl 舞灘灘臨纏翫...脇、 ㌧」 ロM り 靴     な 驚 △ 郷土色の豊かなもので建てることが望ましい」74という点が、選択の理 由でもあった。軟石住宅の構想に、親戚たちからは「倉庫ならともかく、 第一他邦に笑われますよ。どこの世界に軟石づくりの住宅なんていうも のがありますか。苦労して貯えた金が泣きますよ」74という反対もあっ たが、 「その地方、それぞれの特徴あるものが、自らの工夫で考えられ なければなりません。北海道の農村で、神代杉のもく目の天井や、黒柿 の床柱を誇るようでは、何もほめたことではないと思います」74という 考えから、断固として初心を貫いた。  防寒凍上にも細かな配慮が行き届き、コンクリート製布基礎の工事 は、地下2.5尺掘り下げ、玉石を5寸厚さに小羽立に敷き、上に切込み バラスを2~3寸敷き、さらによくっいて、1尺幅の布コンクリートを 打った。!階天井は、暖まった空気が逃げないように、下地に建築紙を 張り、隙間なく厚板を打ち上げた天井とし、ペンキ仕上げとした。窓は 2重窓で、北面の窓は最小限に止め、西に面した夫人室の窓は出窓式を 採用することで、熱損失を抑えている。  木造の2階は、土壁下地の下見板張り75、床は2重板張りの上に畳敷 きとし、天井・窓は下階と同様の仕上げで、子供部屋東面の窓も出旧式 である。  主屋部の中心に宮崎雪丸ペーチカを置き、田の字型に主婦室、居間兼 寝室、茶の間、台所を配置した。茶の間と台所の南側前面に設けられた 温室は、むしろ茶の間と台所と一体化している。年中花と共生するとい う理想の実現化である。  丸ペーチカは、北海道ではほとんどが宮崎式で、横島ペーチカ商会が 独占的に施工していた。高倉家のペーチカも横島ペーチカ商会の施工で ある。大正期から昭和初期までの宮崎式ペーチカの設置者名簿には、橋 本左五郎、高岡熊雄ら北大教授や医師、北海道庁のお偉方など、札幌の 名士たちが並ぶが、札幌に限らずこの年代の道内の上層階級の住宅には、 この丸型ペーチカがよく使われた7B。一種のステータスシンボルともい える存在であったが、高倉の場合はむしろ冬の暖かさや給湯の便利さ、 燃料の経済性などに着目した合理性に裏打ちされた選択であった。  平面の特徴としては、まず台所と茶の間に重点が置かれていることだ ろう。 「台所は、主婦の天国にしてやりたい」77という趣旨から、南面 させ、さらに温室と一体化することで、明るい台所が実現した。床は、 コンクリート土間にすることで、常に水を流して洗うことができて清潔 であること、農繁期に主婦が外から直接土足のまま入室出来たり、家族 が土足のままテーブルと椅子で食事が出来るという点も考慮された。冬 は冷えるので、板敷きにする工夫もなされていた。  水は、牛舎の一画に備えられた動力ポンプが汲み上げk畜舎2階の大 タンクから、台所の流し、湯沸かしタンク、浴場などに供給され、すべ てコックをひねるだけで水を使用することが出来た。  さらに主婦の天国化への工夫として、ペーチカの熱を利用した湯沸か しタンクも工夫した。流しの上に木製タンクを置き、2本の鉄製パイプ をペーチカに導く循環釜式の温水システムである。コックをひねりさえ ずればいつでもお湯が使えるわけである。また、主婦労働の省力化のた めに、ペーチカの温熱を利用した蒸気タンクを取付け、蒸気利用の炊飯 タンクと2重釜を考案した。鉄製炊飯タンクは、高さ3尺、横1尺6寸、 奥行き1尺2寸の箱型で、内部に6段の棚が設けられ、これに鍋代用の 舷螂引きの容器が納まるようになっていた。汁でも、馬鈴薯でも、豆で も、御飯でも同時にわずか20分以内で完成したという。また2重釜は、 「径1尺深さ7寸の小型の鍋で、内部は銅に白メッキとし、外部は鉄製 で間に蒸気を導いて調理するもの」78である。主婦の労力のかからない、 しつのの )SeF’ 押   A ,\ 鴎  をq @ λ.A霊‘ �@  晒 国 国 一 騨 噂 b 倉 ・ ■ 9 ゆ 一 一 卿 》   豪 雨 .   ‘ 3 鱒 ゆ     島 @  ノ主二藍,’亨え 禽 `るり ・   G      ’・        ,ら    り ぎ 愛 6 一, 片 ぐ 9 臼繍, 金     ・ 蚤 ・   槽 」 . . 愚 コ { 三 ] 9 , 舜 栽8輪 ネ9難 幽  ‘傘’勘 C 懲 →師 ‘-  「’⊃ @   β @   ご @  _写    5 .’ 國 竃篠外ロ @ ;弓亀   臨   じ   ‘脅6 9  「り e舞叫” (よ写。’ 岬 」L工・ ッ η,’ 押  《℃ 夢’, 仙 ュ 78:『高倉さんの楽しい農業生活設計』  P.51 図3-5-8 高倉左輔住宅平面図(『高倉さんの楽しい農業生活設計』) 一 144 一 一 145 一 を tN’.r rv“! ,繍鰭継轍麟縫,難灘灘灘螺灘灘鰹灘灘一白白白 認 鑑 楽しく働ける台所として、至れり尽くせりの施設である。  茶の間は、一家団樂の食堂であり、親しい友入が集まる談話室でもあ った。床はコンクリート土間で、南に大テーブルが置かれ、椅子が配さ れている。茶の間の西向きの玄関から、土足のまま入室することができ た。  茶の間の北側は夫人室で、子供の勉強用のテーブルと椅子も置かれて いた。ミシン掛けなど夫人の家事室であるが、また夕食後のひと時を、 家族が思い思いにくつろぎ、新聞を読み、ラジオを聞く部屋であった。 茶の間寄りの半分は土足用に板張り、北側半分は2重板張りの上にリノ リューム敷きとした。  夫人室と台所のいつれにもつづく東北隅の部屋は、居間兼寝室である。 2重の板張りで、リノリュームが敷かれているが、時には畳敷きにも出 来るようになっていた。  温室の隅にはもっぱら冬季間に使用された「花見風呂」が設けられ、 温室の花を眺めながらの風雅な入浴が楽しめた。夏に利用しないのは、 屋外に設けた大釜に枝や根株をたいて湯を沸かす行水方式の方がむしろ 爽快であるためである。  2階は、中廊下をはさんだ2室とも8畳の畳敷きで、寝室として使わ れたが、南側は床、違い棚を構えて客室としても利用された。加工貯蔵 室上にあたる部分に子供室(4坪)が配されている。  1階全体に徹底した椅子式生活を導入した合理性は、現在も含めてき わめて異例といえるし、温室を通しての日光の享受とペーチカをうまく 使いこなして、 「長い本道の冬をのびのびとの暮らせる家」 「朝起きる と湯があり余るほど沸いている楽しい酪農生活」といった楽しく暮らし やすい空間の理想を求めた結果は、現在の省エネルギー住宅に先行する ものでもあった。 第2部 マックス・ヒンデル 一 146 一 二蝉柳『”一tt”一r’”V「t『’留辮野 撚.c  撚駕.難灘灘鑛覇慧 灘灘灘灘灘灘磯』 灘灘羅灘i幽幽i綴1幽幽1幽幽.㈱ ・ 監 酷 悪 ド l i l , Y / T i . l l i Y 聾、r, 塾 輩 影 轟 経 } 駄 臨 珂 一二一 ・メΨ。. 溝鱒〔:灘∴綴蚤認・詑 第4章 マックス・ヒンデルの経歴と作品活動 4-1来日以前の経歴と家系 ユ:Hinderはヒンダーと表記する方が一   般的であるし、交遊関係のあった人   々も「ヒンダーさん」と呼んでいる   が、1925年12月13日からの連載記事   の暑名では「ヒンデル」とあり、ま   た自身の事務所印やサインはすべて   「ヒンデル」と記載しているので、  本論文ではそれに従った。 2:1899~1991。1918年F.:L.ライト設  計の帝国ホテルの設計事務所に勤務  後、1923年の関東大震災を契機に北  海道へ渡る。戦前期の作品数約160  件のうち半数以上が住宅である。製  作姿勢にはライトの建築精神を生か   しっっ、意識的にライト風から脱却   し、独自の作風を見出す努力がみら  れる。 3:拙稿『建築家マックス・ヒンデルに  ついて』 (日本建築学会大会学術梗  概集、1978)、『建築家マックス・   ヒンデル猷XHIM)ERの経歴につい  て』(北海道大学工学部研究報告第  83号1977)など。 4:拙稿『建築家マックス・ヒンデル  撚XHINDER一 3一名古屋南山中学校  について一(日本建築学会北海道支  部研究報告集M50、1979) 『建築家  マックス・ヒンデルMAX HINDER 3  つのSki HUtteについて』(日本建築  学会大会学術梗概集、1980)、 『北  星学養女教師館(大正15年越について』  (同前、1981)、 『宇都宮カトリック  教会(1932)について』(同前、1982)  ほか。 5:1909~。マックス・ヒンデルの先妻  マリア夫人との間に生まれた子息。  1928年から1930年にかけて、上智大  学の設計・監理に従事したが、父マ  ックスと過ごしたのは在日のユ年間  だけであったという。 6:1923年5月1日『カトリックタ・イムス』  として創刊。1931年7.月5日『日本カ   トリック新聞』と改称。  マックス・ヒンデル1Max H:inder(1887-1963)は、大正末から昭和 初期にかけて札幌市に滞在したスイス人建築家である。1924年来道、3 年半の札幌市滞在後、横浜市に移住し、1935年事務所解散まで在日外国 人建築家として活躍した。ヒンデルが札幌で活躍した頃の北海道建築界 は、北海道庁や主要都市、北海道帝国大学など、官庁営繕組織や営繕技 術者達が主流を占め、加えて大規模な商業施設などに道外の建築家や建 築事務所の作品が見られたが、一方で田上義也2など、組織に属さず、 かっ職能に自覚的な自営建築家が潮道し、北海道に根をおろした時期で もあった。  第2部は、北海道における自営建築家の黎明期に活躍した建築家の一 人であるヒンデルをとりあげ、その経歴と作品活動について論じたもの である。これまで経歴概要3や個々の作品については断片的に報告4して いるが、来日以前の経歴や家系については子息ハンス・ヒンデルHans Hinder5の教示により、また来日以降の作品活動については、ヒンデ ル直筆の裏書き付き写真(ハンス氏所蔵)を基本史料に、関係者からの聞 き取り、遺存設計図書、契約書による確認、カトリック新聞B記事調査 などを根拠とした。 図4-1-1来札当時(1924年)のヒンデル(岡部洋子蔵)  ヒンデルは、1887年1月20日、スイスのフルンテルンFluntern自治区 のZUrichbergstrasse104で生まれた。フルンテルンは、1894年にチュ ーリッヒ市の一部となったが、当時はチューリッヒ近隣の自治区selb- standige Nachbargemeindeであったという7。  父は、ルドルフRudolf Hinder(1864-1943)、母はエミリー・シェーネ ンベルガーEmilie Sch6nennberger(!863-1900)、3人兄妹の長男とし て誕生し、マックス・ルドルフ・ヒンデルMax Rudolf Hinderと命名さ れた。2入の妹は、エミリーEmilieとルイーズLouise(1891-1985)と いった。ルイーズは、のち北海道大学予科ドイツ語教授ハンス・コラー 8Hans Koller夫人となった人であり、ヒンデルに札幌行を勧めた人で ある。  ヒンデル家は、15世紀以来、トゥールガウThurgau州の小村ヴィレン Wilenで代々農業を営んでいたが、祖父グレゴール・パンクランツGre- gor Pankranz Hinder I]/(1833-1878)の時代、1845年にチューリッヒへ 移転し商人となった。父のルドルフは、教師務めの後、チューリッヒ市 の社会福祉局FUrsorgeamt上級公務員となった人である7。  母方も、チューリッヒ湖に近いヘルリベルグHerrlibergという町で 18世紀まで農家を営んできた家系であった。ヒンデルは、こうした素性 を恥じ、「父は、南ドイツの貴族出身、母はフランス旧家の出身」との 虚言すら創作したという。もちろん一族からは、趣味の悪い冗談と、大 いにひんしゅくをかった7が、自分の出生を飾りたてようとするヒンデ ルの見栄張りな性格の一面を示すエピソードといえる。  図4-1一一2は、ハンスHans Hinder(1909年生まれ)が作成したヒンデル 家の家系で、17世紀までたどることができる。  マックスは、1887年チューリヅヒの小学校に入学、1903年16歳で下級 ギムナジウムUntergymnasium卒業後、チューリッヒのBischef&Wan- dele、チロンChilonのSchmidt&Rossetgのもとで、4年間製図訓練 Bauzeichnerlehreを受けた。  当時、建築教育を特別受けずに建築家をめざす者は、一般には最初の 数年間Bauzeichnerlehreを修得し、その後事務所を巡って技術を習得す る過程をたどっだ。。著名な建築家のもとには、多くの人間が集まり、 競技設計Wettbewerbeに参加するなどして腕を磨いたのである。競技設 計で成功した者は、建築家“Architekt”として独立したわけで、必ずし も建築教育を受ける必要はなかったし、この名称にしても明確な基準が あったわけではなかった’e。一方で“Diplom-Architekt”という称号が ある。大学で建築教育Architekturstudiumを10-12semesters(学期)終了 し、卒業試験Diplom-AbschluBprUfungに合格した者である1。。ヒンデル 7:ハンス・ヒンデル1988年4月14目付け  書簡による。 8:1881。10.4-1925。1.29。1908年より  1925年まで、北海道帝國大学予科ド  イツ語教師として在勤。 9:ハンス・ヒンデル1976年4月13日付け  書簡に“Bauzeichnerlehre bei Sch皿  id & Rosset in Chilon und bei Bi  sh。f&Weidele in ZUrich”とある  が、個人名か会社名か不明のため、  本論ではそのまま使用した。 10:ハンス・ヒンデル1976年3月13日付け  書簡による。 一 148 一 一 149 一 :欝i難灘繊懸i欝騨欝灘山繭購羅鞭羅轡鞭i麟白蝶白白織麟鰻驚1纐 欝i醗雛.繍澱i竃叢墨鼠嶺幽幽灘南白白羅1鰯一白際ピ・纐・ s. ’刀@T.n 一y1T. rN.F ’““r“ ピ 害 , ξ 悪 臣 軋 . 、 馨 … ptt. Jtt t=[ 4.,t」. t t.t Tt yTt 履く‘ E懸盤疑 『q」  1ギ    、㌧己.’  w’ 才山f帥   @ 牟 ド . ド 霞 一 11:山崎春雄「ヘルヴェチアヒュッテの  建設(承前)」(『山とスキー』第79号  1928年)では、「世界大戦に填国士官   として従軍し負傷……」とあるが、  ここでは前掲資料10によった。 12:山崎春雄「ヘルヴェチアヒュッテの  建設」(『山とスキー』第79号 1928  年) 13言北海タイムス1925年12月13目記事   『新しく家を建てる人々へ』に、   「北海道を永遠の住家と定めて」と  ある。 14:柳壮一の妻福子書簡1976年3E 5日付  けによる。 の場合は、前者の過程を経て建築家として独立したわけである。  1907年から14年に兵役につくまでの7年間は、さらにヨーロッパ各地 の事務所を巡る修業時代であった。チューリッヒを皮切りに、ロールシ ャッハRorschach、アーラウAarau、クールChur、サン・モリツツ、ミ ュンヘン、ベルリン、パリ、ブリュッセルなど各地を放浪し、多くの競 技設計で成功したと伝えられるユ。。ドイツ工作連盟の結成(1907)やドイ ツの建築家P。ベーレンスの活躍、ベルリンでF.L.ライトの最初の作 品集の出版(ユ910)などがあった時代である。  この間1909年には、ハンス誕生まもなくマリアMaria Brennwald夫人 (1884-1909)が他界している。  第1次世界大戦中、2年間スイス軍技術将校として兵役後11、1916年 チューリッヒで設計事務所を開設。作品としてはエブリAebli邸などが あるという10。翌年ウィーンへ移って4年間過ごし、銀行などを手がけ だ2。1921年から2年間オーストリアのチロル地方に滞在し、ランデッ クLandeck近郊のグリンGrinsに独立住宅を設計したり、“Liceum Alpi- num” フためのプロジェクトを発表するなどした10。  1924年1月ハンス・コラー夫妻のすすめもあって、北海道に永住13する 決心で、アニーAnny夫人を伴いマルセイユから乗船した。日本へ到着し たのは同年3月であった。この船には、後に施主となる柳壮一夫妻も偶 然同乗していた14という。 4-2 札幌時代(1924-27)  北海道永住の決意は、わずか3年半でくっがえされることになるが、 札幌市での滞在期間中、柳壮一や、山崎春雄、大野三七、アーノルド・ グブラーArnold Gubユerら北海道大学教授連と交わり、彼らのバトロネ つok56」δn■ bf叩Ofξ1797 Heh望℃dr gOob コ。hRこdlloq鮮 T6駆 ・1696 ‘u5.帽9‘鵯・ ハOnn r騨,8 〒 u50noo51Gr (・e・glci・he〔言置了。ld 1,rリelζ.hq“凹甲d良監A5zond.des6rξ9.Pαnk織            工Cn~h6、卜,αbe・剛m¢hゆ。㌃enJ w‘』Ofod“ `崩●1「h●騒bOf 穿磁器垂勇異袈              塗ヨ≧門P @             藝票目 H‘h5もhbn¢n。 b?rgGrtれ5弓5 5u∫.髄qαb P78‘● 助,(on鴫Eg、1 Pdト ・3乙O H.u.陥d巴‘09曜 p6‘τ一¶75、 つok.8r凹m璽r �|9乙 ♂◎   一           一 し】i5ε∈gl‘ A8レ蒔・、895 H瓢‘。邸ε9、1 磨@二。 》Or. Hoob 麻}42・1825 りr・~uq *mw~6’ Aqnq 搏エ5ドnqc甲 Eml、に~d隔6。 獅Urい1900 へRΩdl‘oqeず 。700・¶7ら 毒嵩P貿_ 訳u δ:監 昌窮P 書判 rCg7禰・1圭 ∋a“ド{‘品6雇 麹一噛8“も。. 二●.患9も播三 製?6蟄一194 毒三三;意…・.9三 墜7・葛5歯8羨蛭         噌cヨ石熔爆彊罎烈……濫至電:8三t5二 真鯉驕謬 量・b㌃!些巴竃ム5宅一一耀も9弐堪二9 一   響 窒淘?1直9.5≡ Hαr’α5r. {9嶋91009 L】i鷲PlbrGr T曾55舳、曾7ろ 1‘翫 Oh因q》Grh.博09 Anno 翌盾?ga膠セn解 50「』.ho面 P663一,743 掩断」色【肥r A‘uレ・170G Brenn憎dd H¶.つ4ヒobof曾巴r● ζ:』riも}.HOfb or ェ 1717 Sp貼k  5「hCr’vebqr A5ZENDENZ冒Ouf$㌃dgend Rrd“5戚5・ 試」“b¢r℃唱f    ぎ1・ド  )  . 図4-1-2 ヒンデル家家系図(ハンス・ヒンデル作成) 一 〇 リ ド ひ δ 一 ” 『 9傑膿 一ジを受けながら、精力的に設計活動を行なった。  札幌市内では、札幌藤i高等女学校(1924)、白星女学校女教師館(1926)、 ヘルヴェチアヒュッテ(1927)などの現存作品をはじめ、パラダイスヒュ ッテ(1926、1994年倒壊)、札幌藤i高等女学校寄宿舎(1927)、北星女学校 寄宿舎(1926)、聖フランシスコ修道院(1925)、フランシスコ会神学校 (1926)や住宅作品(7棟)などがある。函館天使の聖母トラピスチヌ修道 院(1927)、新潟カトリック教会(1927)、日本基督教会札幌教会案(1927)、 上智大学基本案(1927)などもこの期のものである。  来札当初、コラー家に身を寄せたが、その年札幌市北ユ1条東1丁目に 自邸「東光園円い家」15(図4-2-1)と呼ぶ16角形平面の木造2階建て住宅 を建設し、事務所を併設した。札幌における設計活動の第1歩である。 屋根頂部に風見をつけ、こけら張り外壁のこの住宅は、 「北海道建築に ひとつのヒントを与えるもの」’6として評価され、新聞にもとりあげら れたユ6。ここでは、日本入所員楽間利一郎、書生、女中を雇用していた。  同年札幌藤高等女学校(図4-2-2)を設計、切妻大屋根を強調する意匠 や、裾広がりの急勾配屋根が特徴的で、破風に小さな小屋裏採光用丸窓 をみせる。その後の作品によく登場する意匠のひとつであった。主棟中 央の小田もヒンデル好みのモティーフの一つで、北星女学校案(1928)や 上智大学案(1927)などの基本設計でもみられた。  翌1925年「円い家」のすぐ北側に2番目の自邸(図4-2-3)を建設した。 同年来札したグブラーに「円い家」を売却したためであるが、ヒンデル 自身満足できる作品ではなかった17という。この年、柳邸(図4-2-4)、 大野邸、山崎邸(図4-2-5)、林邸など、一連の木造住宅を設計した。イ チイなどの丸太杭9尺程度のものを10数本も地面に打ち込むといった慎 齦Z 図4-Z-1東光園円い家(右から1人おいてヒンデル、アニー夫人) 一 150 一 一 151 一 鶴難麟撫鰹灘灘:難難欝顧慮灘i藤島白繭幽幽白白白糠灘白山欝饗灘 li, :1-4・ “tv-M. 轟燃誇胴輪賜懸塞一口懸難灘一一欝 15:北西女学校寄宿舎設計図には「札幌  市東光園円イ家建築家ヒンデル」の  印がある。 16:北海タイムス1925年10月30日~31日  記事『雪國に相旙しい新しい建築』 17:ハンス提供の写真裏書のヒンデル直  筆の文による。 図4-2-2 札幌藤高等女学校 縦 図4-2-3 自邸(二次) 図4-2-4柳邸(山崎家蔵) ・x, 7 亀   り ( 図4-2-5 山崎邸(山崎家蔵) 一i’高=h’ ’F 靭呼”. 帆 18:柳壮一の妻福子書簡1976年3月5日付  による。 19:1925年12ノヨ13日~20日。 20:日本基督教会札幌北一条教会役員井   口政治郎談。 図4-2-6奥田歯科診療所 図4-2-7パラダイスヒュッテ  :配π需   ttt t 鴛齢、_ト 、〕.甘穐 職匪藤i羅; f可馨嗣曜.  鴨 S“Si:itini psSge” 図4-2一一8 ジュネーブ国際聯盟会館競技    設計案 図4-2-9 札幌藤高等女学校寄宿舎 重な構造的配慮、外壁をこけら張りや亜鉛鉄板張りとする独特の防寒処 理、引き戸や引き違い窓といった和風建具の採用、通風換気の工夫とし ての床下開放、フレアードルーフ(屋根勾配を軒近くで緩勾配とする裾 広がりの屋根)など、共通の特徴がみられる。  平面でも、居間・食堂・台所・ユーティリティの一連なりの空間処理、 南面するサロン・居間など団らんの場の重視、主婦室や居間における主 婦空間の確保、個室群の確立など、近代住宅思想が展開されていた。  設計・管理に言葉の障害のあったことは想像に難くないが、 「札幌の 材料を思いがけぬことに使うので、その道の人はおどろいた」18ことな ど、大工との間の意志疎通にも苦労が伴ったことであろう。  気短かな性格であったというが、建築家としての使命感と固い信念を 持っていたことは、小論『新らしく家を建てる人々へ』エ9からもうかが うことができる。建築家の職能の未確立、同職能への一般の無理解とい った当時の状況をふまえると、 「建築に関する計画及監督は建築家に一 任すべきである」と結論し、住宅を建てる際の施主の心構えや、 「建築 家は、医師・裁判官・社会学者と同一である」 「医師と同様建築家を信 頼せよ」 「真の建築家は又金銭さえ貰えば如何なる要求にも応ずる奴僕 ではない」など、建築家の職能について一般読者への啓蒙に努めたこと は特筆すべきことであろう。  設計についても、自邸円い家が『呼野に相応しい新しい建築』16とし て取材された際に語った記事によれば、建築には樹木をとり入れること が建築の生命であること、日本の伝統的な住宅は北海道の冬には適さな いため、屋根を簡単で急傾斜のものとし、日を甫から入れるようにする など、北国の設計条件を入れた北海道向きの建築をつくるべきであるこ とを唱えている。鬼門などの家相を戒める一方で、当時の日本建築界に おける「コンクリートの函が頻に建つ」z6傾向を「洵に心ない業ですゴ6 と憂い、 「何故日本建築のいい所をとり入れて日本独特の建築を造らな いかゴ6と「模倣好きの日本人に対して」16疑問を投げかけている。  この年にはまた、日本基督教会札幌教会の設計を、北海道大学農学部 林学科教授新島善直を通じて依頼された。同時に北大水産専門部主事佐 々茂雄の紹介で、若い田上義也にも依頼されたもので、いわば二者指名 の競技設計といえるものである。ヒンデル案は残されていないが、A-1 版程の額1枚に透視図を描いたもので、木造切妻平家建ての簡単なもの であった2。。設計費2,000円ということで教会側が難色を示し、結局田 上案が採用されることになる。  1926年には、北星女学校寄宿舎・同勢教師館、奥田歯科診療所(図4-2 -6)、パラダイス・ヒュッテなどの作品がある。子星女学校の寄宿舎、教 師館は、1923年付けヴォーリズの基本案を受けての設計であったが、教 師館の平面こそ酷似しているものの、外壁をからし色の鉄板張りとし、 藤高等女学校やフランシスコ修道院、大野邸などと類似のヒンデル風と いえる仕上げとしている。  奥田歯科診療所は、木造3階建て、3階上部に4つのイオニア風の柱 頭飾りを付けて正面性を強く意識した様式的な建築である。柱頭飾り上 には、三角ペディメント、アーキトレーブもみせている。1階に半円ア ーチの開口部、2階に出窓、3階に手摺りをまわした窓先棚付き引き違 い窓とし、外壁はトタン張り、ペンキ塗装の上に、砂を吹き付けて、一一 見石造風であったという2=。  パラダイスヒュッテ(図4-2-7)は、北大スキー部15周年事業として計 画されたもので、ヒンデルも無償で協力した。日本初のスイス式山小屋 ともいわれる22ログキャビンである。のちのヘルヴェチア(1927)、秩父 宮殿下ヒュッテ(1928)と並ぶスキーヒュッテ3部作の第1号であり、そ の後の札幌近郊のスキーヒュッテブームに大きな影響を与えるものであ った。  この年にはまた、1926年7月25日を期して全世界の連盟国の建築家に 対して呼びかけられ、翌27年!月25日を締切期限とするジュネーブ国際 聯盟会館競技設計への応募案(図4-2-8)も残されている。透視図と配置 図写真が残るのみであるが、透視図は総会会議場を描いたものと考えら れる。半円アーチ窓をみせるルスチカ仕上げの下層部と上部4層とで構 成し、彫りの深い軒コーニスが頭部を引き締める古典的な意匠で、二棟 の中央頂部には手をつないだ入型彫像を掲げている。  翌1927年、天使の聖母トラピスチヌ修道院(函館市湯川)、新潟カトリ ック教会などの宗教建築や札幌藤女学校寄宿舎(図4-2-9)、ノートン記 念館(図4-2-10)、ヘルヴェチア・ヒュッテを中心に、上智大学の基本設 計も始まった。  ヘルヴェチアヒュッテ(図4-2-11)は、ヒンデルとグブラーの共同出資 により建てられた。ヘルヴェチアHelvetiaは両者の命名で、スイスの古 名、スイスを代表する女神の名でもある23。8坪の小さなログキャビン で、外壁を柾張り仕上げとした小屋であるが、札幌時代の最後を飾る作 品で、ヒンデル自らが「王宮を建てたよりも一ヘルヴェチアヒュッテの 建設が自分には深い喜悦であった」23と述べている。 4-3=横浜時代(1927・一40)以降  1927年10月、ヒンデルは、現在の横浜市中区本牧満坂253で設計事務 所を開設した。この自邸兼事務所は、ドイツ人弁護士邸として現存(図4 -3-1)し、当初のこけら張り外壁から下見板張りへの変更を受けている ものの、木造2階建ての概形はよく保たれており、居間部分への採光配 21:奥田良雄談。 22:大野精工博士(1885.8.17~1978.9.5)  談。 β 貰 図4-2-10ノートン記念田 図4-2-11ヘルヴェチアヒュッテ(山崎家    蔵) 23:山崎春雄「ヘルヴェチアヒュッテの  建設」(『山とスキー』第78号、1928) 図4-3-1横浜自邸 一 152 一 一 153 一 一職 P灘懲総懸讐∴幽幽懇欝警騨幽幽一難白白白山難山難騨自門轡鷹欝論叢轡。鷲二丁∴驚聡毒簸議灘灘蒸鍵欝欝難山鎌難山 k17 守 卜           「 1 ・ 『 馬 三 , ■ 一 “ 』 醒 屯 盟 誌 }て一丁 岡 D・」 冥 凸 へ ヘロ ハ            図4-3-2 新潟カトリック教会絵葉書 24:堀勇良博±による1985年12月26日実  施の川喜田一雄聞き取りメモによる。 図4-3-3旭シルク㈱住宅 慮、ヒンデル好みの引違い建具の採用など、札幌時代の住宅作品との共 通点がみられる。  北海道永住の志を捨て、移転を決心した動機には、25年1月29日のコ ラーの死去や、同年3月頃のコラー未亡人スイス帰国などがあげられる が、より広い活動領域を求めての転出とも考えられる。  新潟カトリック教会堂は、ヒンデルの横浜移転と同年の1927年9月18 日献堂式を挙げるが、竣工絵葉書の全景写真(図4-3-2)の下には、「マッ クスヒンデル建築設計(横浜.札幌)」とあり、すでに横浜転出の準備が 行われていたことがうかがえる。  横浜事務所では、札幌事務所開設以来のチーフ陰間利一郎、札幌から 転居した竹内一・次のほか、鈴木熊襲、川喜田一雄らが勤めていた24。川 喜田(1903.12.20-1988.7.23)は、1921年県立神奈川工業学校卒業後、 同年横浜市技手補として勤務、1924年神奈川県庁警察部で建築申請事務 を扱っていた24が、1929年!月から所員として、事務所解散(1935年)ま で勤めた一人である。  この期には、札幌の北星女学校校舎(1929)、秩父宮殿下ヒュッテ(現 三寸小屋、1928)、横浜の旭シルク㈱住宅(司令官ハウス、ユ927、図4-3- 3)、名古屋の熱田天主公教会(1929)、恵方町天主公教会(1931)、岐阜天 主公教会(1929)、同幼稚園(1930)、金沢聖霊修道院三位一体聖堂(1931) などの木造建築のほか、東京の聖母病院(1931)、上智大学(1932、図4-3 -4)、名古屋南山中学校本館(1932、図4-3-5)、宇都宮天主公教会(1932、 図4-3-6)などRC造の作品がみられる。これらRC造の作品は、シャー プなデザインを意識しながらも、どことなく重く、部分的に装飾的な扱 いを見せるなど、ヒンデルの作風の一端を見る上で注目される作品群と いうことができる。  この期の作品活動では、新潟教会の設計を通じて出会ったドイツ入ラ イネルスJoseph Reiners(1874-1945)神父の存在を無視できない。ライ ネルスは、1912年新潟教区長に就任、1922年から臨時名古屋教区長を兼 任、1926年名古屋区教区長に就任した入物であり、南山中学校のほか、 熱田、恵方町、岐阜、金扇の会堂建設の際に、いずれもヒンデルを起用 している。  ヒンデルの教会堂は、宇都宮天主公教会に代表されるように、双塔な いし単塔を擁したロマネスク風意匠のものが多く、内部にも半円アーチ の多用、彫刻を施した方円柱頭飾りの採用などがみられるが、宇都宮で は大谷石の採用、金沢聖霊修道院三位一体聖堂では内部柱に黒漆塗りを 採用するなど、地域性を考慮した部分もみられる。クリアストーリーに 見られる円窓は、ヒンデルが好んで採用したもので、熱田、恵方町、岐 阜、金沢などの会堂で共通してみられるものであった。  1929年にはOAG会館改築の計画(図4-3-7)を無償でてがけ25、1933年10 月8日には、同年1月から建築が開始されていた大森(現東京都大田区) のドイツ学園(図4-3-8)が落成式をむかえたe6a学校、幼稚園、講堂の 3棟からなる施設で、敷地が大森の住宅地という点で、周囲の環境との 調和が考慮され、木造2階建てで計画された2B。同校は、新校舎建設の ため1966年11月26日から翌67年1月14日にかけて解体されている。  設計活動のほか、1927年11月にはドイツ東洋文化研究協会(OAG:Deu- tsche Gesel!shaft fifr Natur und VOIkerkunde Ostasiens)の新会員と なり27、翌年からは新委員29として活動し、OAG便り“Nachrichten der OAG”にもしばしば名前がみられたという25。  1929年1月のOAGにおける講演では、“Japanische Bausitten”(日本の 建築風習)2Sと題し、家相から地鎮祭、地曳之式、新初之式、上棟之式 など建築に関わる風習や祭事について言及しており、日本文化を深く理 e 図4-3-6 宇都宮天主公教会(吉田勝夫蔵) 25:アーノルド・グブラー1976年4月14   日付け書簡 26:“70 Jahre Deutsche Tokyo” (1974.   10) pp25 27 :NACHR I CHTEN M 12(1927.!!.5),NcL 13   (1927.12.15)のNeu eingetreten欄   産こ  「Hinder,Max.Architekt.P.0.Box  90Y。k。hama」とある。 28:NACHRICHTEN MI4(1928.2.15)から  は、Neu Mitgliederとなっている。 29:社団法人OAGドイツ東洋文化研究  協会会報第22号(1931)掲載。翻訳は、  北海道大学文学部文学科独文学講座  藤本純子助手の協力を得た。 P , ㍉ ノ ℃ △ ▼ r 身 「 . ㍊ ・ ! † コ     巽   、   !   ♂   ● h 陰 ぞ‘璽’ 飛隠一ll縄ド 図4-3-4 上智大学 図4-3-5 南山中学校本館(南山学園蔵) 甲 志 峯 峯 1隣~騨欝醐難聴▽鷺7「興業tぬ 欝瀞へ. 識糖‘.  一,!樽!  D, vaoeth■u 詔牽閉 ・㌔・  ゆ獣一漬・㌧ 矯・ 嬉葱・ 、       、    r  悩「 鱗舞講箋論評 、 図4-3-8 ドイツ学園(東京横浜ドイツ学     園蔵) .一  妻  ド  ≡ ε鵯膿膨   ’。i畿、繭_  ㈹dBuro● ヱやゆ じ   !    ク’ 透    ノ廼Buchtrei   、 、   . θ   “ . 馴 ♂ 凡 彪 。 ㎎ ル ぐ . ・ ^ . へ 菰 ゴ 珊 々 麟 菊 ・ … 螺 .         { 覆 語「’ し ず ρ   φ 蟷 監亀   喚 錨 .、 ㌦. ^ 芝 . 辮 饗 、 , 〆 獅〆 , 一  舜ch6      {   , 。 珍・   蟹\、・診    ノ       、(ぐ\    (凶 図4-3-70AG会館(ヒンデルのサイン入りスケッチ)     〈“Die Geschichte der OAG’1873 bis 1980一”)     t’ @i弓      頗 竪 懸 鮨 ま 君 考 繋 写 宅 鼎 百 り 出 物 苞 饗 ㌻ ・ ・ 一 瑠 聖 壇 離 離 鍵 耀 薯 霧 豪 徽 右 潅 姦 脚 み 必 . 嚢 甕 蕃 篭 等 馨 響    @  @  @  @  @  @  @  藩 響 驚 混 教 蓑 平 身 二 度 訂 纂 畑 笥 諸 点 嚢 ・ 牲 葺 9 影 響 彦 代 硯 L , 轟 三 監 堵 看 号 レ 蕾 フ 7 り 痘 看 瀞 歯 エ 事 ふ 従 壱 ’ 毒 鴬 ・ 7 掌 熱 重 直 萱 及     棚 悪 仏 ・ 表 空 蝉 L 電 詐 常 痛 暑 ゆ 嘗 姦 と 斗                                   廻 孟 讐 斤 東 京 工 智 兆 謁 ア 瓦 幽 翠 「 即 ・ 餐 髭 乗 京 ス 森 瑠 逸 細 謹 賛 嚇 唖 蝉 軽 縫 野 壷 臨   賄 荊 † 手 五 目 三 民 。                   」         吏 心 墨 窪 寸 止 篭 皇 書   騨 ぐ . 響 . 護 融 ヲ ー 華 綿辣 鞍    ’竸6・ 図4-3-9 ヒンデルが川喜田一雄に与えた「謹」(川喜田敬忠蔵)                窺       ス薮尚      L  ,                ,   傷物与田                      著一       夢匪 。.’ ~               監 宅虜乙 剛紐@   づ象              ヶ生      ・侵’・ ・  \..t,二盤一  .5或 急 噺噛倉     s..;pt pa 4-3一!O離日前(1939年)のヒンデル     (山崎英男蔵) 一 154 一 一 155 一 灘懸灘灘灘灘i織i難難難灘灘灘難凝鱗鐡1襲灘白白幽幽幽幽白白白鍵白白羅灘饗鱒難灘難難鎌蕪繕羅灘羅羅鎌鑛羅鱒雛灘羅灘縣…一一一驚灘白糠一難 ア  ’羅5 騨一㌃  ?、 30:アー・・ノルド・グブラー一 1976年4月14   日付け書簡 31:注記30資料によるが、どのよう関係   の記念祭かは、今のところ不詳。 32:ハンス1976年3月13日付け書簡 33:1984年9月現地調査による。 図4-3-11レーゲンの共同墓地      (1984.9撮影) 懇懇難ご1灘慧搬        v] 磯欝1守鱗鶴舞》隠譲獄瑠 解しようとしたヒンデルの一面をうかがうことができる。   1935年5月31日、ヒンデルは事務所を解散する。事務所解散にあたり、 1929年1月31日から所員として勤務した川喜田一雄に与えた証明書r謹』 (図4-3-9)が、㈱川喜田建築設計事務所川喜田敬忠のもとに保存されて いる。事務所解散後の所員の再就職または独立を懸念して記したものと 考えられ、「事務所解散二至ルマデ最後ノー人トシテ勤務セリ」から始ま り、事務所で携わった仕事内容、上智大学建築工事監督などに従事した ことなどを挙げ、 「技能優秀ニシテ着実誠意ノ建築家タル事ヲ讃シ大方 ノ工事関係者諸氏二推薦スルモノナリ」と結んでいる。この証明書のヒ ンデル建築事務所の住所は、「東京都麹町区平河町弐丁目七番地」とあり、 事務所解散時には横浜から東京に本拠を移していたと考えられるが、こ の点については現在のところ確認されていない。  1936年4月1日にはOAGを脱会30、1938年12月22日横浜での記念祭 に出席31し、翌1939年最後のヘルヴェチア行のために割札し、1940年第 2次世界大戦まっただ中のドイツへと出発した。   ドイツ、バイエルン地方レーゲンRegenを最後の郷里と決め、!年間 実業学校の教師を務めたこと以外、この期についての詳細は不明である。 1963年1月末、レーゲンで76歳の生涯を閉じ32、同地の共同墓地(図4-3 -10)の一画に埋葬された。ヒンデルにふさわしい素朴な木製十字架の墓 標(図4-3-11)には、「20.1.1887/M.R. HINDER/ARCHITEKT」33と言己さ れている。 図4-3-12ヒンデルの墓Pt(1984.9撮影) 一 156 一 表4・・一3-lM.ヒンデル年譜 品 年 疏 一                     カ  リック     量  1887 セ治20  ●    ,  ・ 層’丁893 セ冶26’.fgo∫ セ治36 奄b純u セ冶40 シ1忌14 蜷 ウ 3   ■     P                         , ’ 1 9 1 6 大 正 5 i g ゴ ブ 大 正 6 層 1 葛 セ 1 ’ ” 大 正 l o 1 ⇔ 2 4 … 大 正 1 3 i 喜 2 5 大 正 1 4 ” i g 藝 6 一 : 大 正 1 5 曹 1 9 2 ラ … 塵 昭 和 2 i g 2 8 脾 昭 和 3 ● i g 9 9 … 昭 和 4 0       ,                 ,           6   塵 1 9 3 0 昭 和 5 曹 i g ぎ i り 昭 和 6   .           ,       ,   F 1 9 3 2 昭 和 7 , 0 ●     噛   ,     .   巳 ◎ ・ 1 9 3 3 昭 和 8   「                     o   . 1 9 3 4 昭 和 9 b i 百 ぎ ぎ ’ . 昭 和 1 0 ・ ・ 9 ひ     曾 ● 顧   o 圃   . 1 9 3 6 昭 和 正 1 ● 1 忌 3 § … 昭 和 1 4 章 ,     ,           ¶ 璽   g   r 1 9 4 0 昭 和 1 5 ●                 r             , 1 9 6 3 昭 和 3 8 ■ o ■   魯 . の @6 h丁ボ w至σ● 噤f [ブ’ f2ゴ cヨσ’. h34 h冨ブ h3ボ O39.’ 汲X Sσ” Sゴ’ X● ー曹 f4ぎ’ 怐f Sイ’ h亘ゴ 閧W S6” h4ヴ” h4ぢ” ソ’ Sゼ f幽 タゴ” D       , 9    層 @53 v や ● .   ・ , . @76  L20チューリンヒで誕生 @”の…チ三=リジピあ二二摂ス學…….’ 層 h…. aΣごりリピめ¥級翠云チジヴム終? @  チューリッヒのBISCHEF&UANDEU…, @  チロンのSCHMIDT&ROSSETのもとで @  BAしZEICHHNERLEHRE(製図訓練)”o・圃,・oo噛      P  ,  辱。.          ,甲 7                  ■  ●  o●●響  曹●響 7■     .   チューリッヒ,ロールシャッハ,アーラ @  ウ,クール,サンモリッツ,ミュンヘン, @  ベルリン,パリ,ブリュッセルなど放浪 @  (~1914) @  この間、多く伽ettbeりerbe(設計競技) @  で成功…”ヌイヌ卑技術士官どUぞ眞後(冨讐1白i6) c’…諠`三=’り’ッビ罎設言干事務所開設……’… f……狽x=ニジに沸姓て㌶丁9曜乏1)…’一’ ’…’ c……痺jズトリ’ブ”:ヂ己ル地方滞在曹…”’ X          曜       甲 , . o .      o   響     卿 .       ・   ●               璽 7   , 7 璽 ,   ●   , .       噌 ‘     . ・ o 曹   ● 齢 P.一マルセイユ出発 R.一横浜到着 S2;i3 f薪’じく家「を建ぞるノベ々.へ」 (北海ニダ≧’. @  ムス)12.20まで5回にわたり連載 B . . ・ , . 齢 . o ・ ●   層 曝 o . 7   .     , - , 脅 , ● ロ   「   . 璽     ○ , ● ,      璽     .   ・   ● マ 響     , ・   , o ・ ● , 璽 甲   , E層  ,  ◎o ● ,冒 璽 “ 7 ■ ● ● ,  ●    ●o  冒  gg r, ,  7■ ,  ,  , 冒。 ▼一 ▽  , 曽, ● ,  o    o  ,o    曹  ・曹,δ P0.一横浜市本牧満坂253へ移転 D_一.峯郵所開雌....___.....__ fr石.下マジ棄痒支化研究協会6蓋~批冨げ’ @  る講演‘‘Japan■sche BausitteゴP(日本 @  の建築風習) X・,         匿臨,,,o  o  ワ   噛。軍,  , 7,■■  , ,●●●9● ■  ■   ・      .  ρ  . 「  ,  ◎9  , C  ..7曹,9曾暫.7●冒  ・  .響8  .r7 0か●o‘7噛●    o  ●曽  ●脚     冨。富噂   ゆ7●・   幽oo .. b   層甲  8   ,0  噛  ●  ■●,¶  ,  7          0  0  ,ρ■  r r       .o   ,●9●○σ  o・ 秩@9・ 量。璽昌。,7 .9..匿●9 .●.ooo,●P ・ ,.・◎響7, ・.rr冒・o噸■ゆ,■甲.圃9 噂9 曜. ψ, ィ。,   ■・oo幽g    r7 ,   卿ρ●・胴,o■,噸●rり ■■■,  -o,噌の■  ,  ・,9甲   go・. ,, 怩T丁3了曹事務繭轍騨…”一’…L…“’.……’’” f…… ムπ~ぎあ萎貰回路腿…’…“…ロ7’ …’ f石7’ぎ天ル澱芋ヲヒごうヂ酵じ醐テy行” … c…’ h才ッ守門1’フζぞ…ピル~・地ガヲ=穿シ @ 二二二業学校麺二三興鵬φゑ.層了7’蒙レ=㊧ンにで没 ● ▼,p  o」   ,  ●●  ・ 曾●  曹讐       9,ゆ  7,  ワ     ▼,▼○ワ,,Ψ,,■  撃7  , r  曾¶   ,7u,   g r   ▼ @曾   7        0 P や , ,     甲   , 曾          , 曾        …          ▼ 7     ,   ・ ■ ○     ○ ■ ・   ■ o ◎   … @嘘-  ・.◆曾曹齢        ●  ●     ■嚇   b    ,■●ψ97●      ,   P     ,7, ,,          ,冒←頓り。 @,  璽▼ g  o, ・  ・     巳曹       ■  o  ・     尊  ■ ●曹  ← , 79  , P 9 璽  ,    , e  ● 9 ,  , P ■ o● ・  . . ・ 巳 ●  ・ D o 「 ・ , ひ 「                     ・      曾 醇   , ◎ .              ・ , ● c   , ■ ・ ・ 7 P ■ , . 7 ・ ,      .   7   ・ , ● o     ● @  矩BL工邸 @7    …             o    ,     ,● ρ7  い F  ▼    , 璽       . P    ,       ■    ● 胃 r, ,    騨            ・    響 @  ㍉‘L∫蕊伽痘薩δu飢レ」めだあのプロジェ @  クト アのギ自邸r東尭薗円い象∫ぐん1白6ブ.宏」:只札鰯 @  市北11東1)☆ 怩V... R 概ド『ミ士一邸(二二1尊ゲ1頃丁ぐ*L幌〒寺ヲ』ヒ4西f5)  ▼. @  施工ε長谷川清四郎他○☆ P1.15山崎春雄邸(~1973)(札幌市北4西15) @  棟梁:佐々木某○ ア卿 大野精七邸(~1960)(札幌市北12東2) @  施工1沖津組(監理,林清)☆ @  自邸(2次,札幌市北11東1)☆ @  林邸(札幌市)☆ @  日本基聲教会札幌教会案’百:二男由歯科診療所(ん1§46箕札幌帝南4西4y’ @  棟梁:長谷川溝四郎 P1,22パラダイスヒュッテ(~1994)(札幌市手 @  山)0 P2.21准北星女挙校女教師館(札幌市南5西17) @  施工:松川三浦工務所☆ ア解 ジュネーブ国際聯盟会館競技設計案☆’1:了ぎ●ゴヒ星女寧…校寄宿舎献堂式ぐ一」1974.ii=)’ζ審’ @  幌市南5西17)施工:松川三浦工務所0 X.13*ヘルヴェチアヒュッテ(札幌市)請負;水 @  小判治,大工:田頭 ア解 ノートン記念館(札幌川南15西8)☆ @ *横浜自邸(現ゾンデルホフ邸〉(横浜市中 @  本牧満坂253)☆’4;∵ヨ彊女癖校稜舎案℃””..…軸●囎’…”’ P0.27旭シルク㈱住宅(司令官ハウス)(横浜市 @  区本牧123)☆ P2。10*秩父宮殿下ヒュッテ(現空沼小屋)(札幌 @  市)辱6:短δAd会館改築起土で巽東:景府麹町区三両i. @  町)1930.夏竣工 P2.2至愚女学校校舎工事終了式(~1963)(札 @.._.車南5酉.1Z}..施エ:一覧緯.p,..._..._ O7    曹   ●り、 7   99,?・・   齢6 ・」 畠 昌  ,・り暫●層.り,●.昌,,o.の響  o   ,    b畠・  曾   噂 ク9-     ,              ■■Oe■  脚,, ‘‘  ・   のわ●,,,   ▼  .・.  76    甲    「7  ●,..●○曾 Pσ;’9’ドマジ學園1落祓:式て~∫9召前ζ東京都天‘… @  田区山王2).9や・鹸。,璽  r●  F戸,  虞●9 ■◎●P 響  ■の,,   .-  60  0「 ●  ●噂,,o  . 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O , O O 脚   O ρ n」 ◎  . . ●         ・  ・ o ■ ・     ,  齢 か● ■ ● ,      P電  P ■  ・ 0 9・  ・      噂 ψ 幽 ◎ P ,    卿 o■      o  ■ 7 9 ■ *現存作品 ○設計図書,契約書などで特定できるもの ☆ハンス氏提供写真のあるもの 一 157 一 , 懸嚢白白翻鱒醗響蟷 蟹灘灘鍵灘i灘難鱗縷    も        り 羅1一白 し蠣疋、 酬、、 幽幽灘難一難i幽幽白山,難籔懲白白白白鷲澱難灘・… 、一@「w静一一ヤ●et-rX一’ 影’ 第5章 札幌時代の作品 1:「東光園」は、本来「東皐園」と書かれ   るべきであるが、北星学園寄宿舎設  計図に「札幌市東光白雨イ家建築家   ヒンデル」と捺印されてあるので、  ここではそれにしたがった。 2:1925年10月30日、31日付。ほかにシ   リーズとして、田上義也の「小樽高  田氏邸」(11月5、6日付)と「有島武郎  邸」(11月16日付)が紹介された。 3 :Arnold Gubler(1897.6.7-1982. 12.  15)。1925年~1932年北海道帝国大  学予科ドイツ語教師として在任。 4:『北海道人名辞書』(1923。9.30)  p. 53 図5-1-1東光園円い家西側外観     (竣工当初)  本章では、1924年に札幌で設計活動を開始してから、1927年10月に横 浜に移転するまでの約3年半にかけててがけた作品から、住宅建築、学 校建築、宗教建築などの建築種別ごとにとりあげ、さらにスキーヒュッ テとジュネーブ国際聯盟会館案についてふれる。 5-1 住宅建築 5-1-1=東光園円い家工 札幌市北11条東1丁目 1924年竣工1967年2月取壊し  ヒンデル来札(1924年)直後の作品で、事務所併用の自邸である。円 形平面(正確には16角形)のユニークな住宅で、当時の北海タイムス紙 上『雪国に相磨しい新しい建築』2では、「北海道建築に、ひとつのヒン トを与えるもの」として紹介されている。1925年グブラー3に売却され、 3年後児玉作左衛門(北海道帝国大学医学部教授)所有となり、後何度 か所有を変えて1967年取壊された。  敷地は、1878(明治11)年にこの付近1万坪の土地貸付を受けた、札幌 の花園の元祖といわれる上島正の土地であった。字東耕と呼ばれていた ところがら、1885(明治17)年「東耕園」と命名され、後に「東皐園」と 改称されたところである。花しょうぶの美しく咲く、風流人達の集まる 場所でもあっだという。  外観を特徴づけるこけら葺の円錐屋根頂部には、魚をモチーフとする 長さ1,084㎜(実測値)の鉄製“風見”が異国風の趣を添え、屋根すそは スイス・ドイツ地方の民家同様、緩勾配で折れるフレアードルーフを採 用している。こけら板で外壁を葺き、腰部分でわずかに反り、床下は換 気用に吹放される。1、2階の間に廻る小庇もこけら葺で、壁面と一一体 に扱われている。窓はすべて引違い窓で、竣工当初の写真(図5・一1-1)か ら、少なくとも2階は2重窓であったと思われる。外側は12枚入りの細 かなサッシュ割りの建具とし、内側の建具は4枚分割のサッシュ割とし ている。サッシュは、白く塗装されていたようにもみえる。この引違い 窓は、上げ下げ窓や開き窓に比べ、 「ガタガタいわずに良い」5、隙間風 が入りにくい、日本的手法である、などの理由から、ヒンデルが好んで 採用したモティーフのひとつであった。  平面は16角形で、1階21.44坪、2階20.94坪である。1925年10月31日の 北海タイムス紙掲載の平面図で、おおよその構成を知ることができる。 吹放ちの「ポーチ」から玄関に入ると、右手は「小応接」である。訪問者と 家人との玄関先での応対の際の防寒を考慮したものである。1階は、八 角形の「物置」を中心に、「浴室」「女中室」「仕事室」が囲む。「小応接」や 「女中室」には、0.5㎡程度の小さな三角形の押入が付設する。収納スペ ースとしては小さすぎるが、保湿や隙間風防止上から、外壁とのクッシ ョンとされている。同様の押入は、2階では、各室に設けられる。便所 は、階段室踊場に設置され、両階からの利便性が考慮されている。  2階は、八角形の「客室」を中心に、「台所」「食堂」「書斎」「寝室」「談話室」 から構成される。中央「客室」と周囲の部屋との間は引違戸であり、一室 としての利用も可能である。「台所」「客室」間にはストーブが置かれ、在 来の裏方的な寒い台所の改善や、「客室」とハッチで結ばれた「主婦室」な ど、主婦に対する細かな配慮もみられる。  残された史料から、外観・平面についてふれたが、補足史料として 『大正14年度傭外国人教師二号官舎』設計図書(北海道大学施設部蔵)を あげることができる。設計は営繕課とあり、モルタル仕上の外観も様相 を異にするが、平面構成(図5-1-6)、平面寸法など多くの類似点を指摘 することができる。ヒンデルが何らかの形で関与したか、「円い家」がモ デルとされたと考えられるのである。 5:『雪國に相億しい新しい建築』 (北  海タイムス 1925,10.30~31記事) 図5-1-2 円い家北側外観     (1950年代撮影) 図5-1-4 二号官舎西側外観 , 〃 仕事室 啓中室 物 置   x” 浴 二 一ト . 一1.L 小応接 一 一Yr一一 i 日 1 t! 0 3 6  12  18尺 図5-1-3 東光園円い家平面図(「北海タイムス1925.10.31」より作成)     一,F唱1  メひり       ロ ノ書  食堂        一トー        室   +      1コ 寝 室  一L-tV h 残乱 、 》     台 \ \    さ《~ 日』 脳 室 ◇     話 冶 談 ン     ト 一 158 一一 一 159 一 曲.弾}締整畔暦ザ @;  「r 鑛灘灘灘i灘灘灘難懸鯛灘購鑛灘幽幽一白白駒鐡’懸一白白白購雛i難’ 認識難灘羅雛蕪蒸i難講織灘懇纏 鱗欝欝灘騨、叢濃糟 醜灘鑑蕪灘離礁躍鱗懸瀧・識4」練 ・綿・・ 論難■■醐繍懇懇醐醐醐騨騨醐圏日1■嗣關騨騨闘’一}} 田 艶 喧 盆 謬 t 釜 、 欝 軍  二号官舎(図5-1-5)は、札幌市北11条西3丁目に、1925年8月8日起 工され、1966年6月15日取壊された。床面積は50.539坪で「円い家」より もわずかに大きい。  1階は、吹放しの「車寄」から玄関に入ると、左手は「取次」で「円い家」 の「小応接」に相当する。八角形の「食堂」を中心に、 「子供室」「台所」「浴 室」が囲み、「女中部屋」「物置」が下屋として付属する。中央「食堂」の天 井高は8.6尺、周囲で8.0尺である。2階は、「客室」を中心に、「寝室」2 室、「化粧室」「夫人室」「応接室」「書斎」で囲まれ、「客室」と他室間の建具 は、「円い家」と同様に引違戸とされ、「腰付石目硝子障子」とある。中央 「客室」の天井高は、12.5尺と高く、周囲の室(8.0尺)との差による天井 裏は、収納スペースとして利用されるが、 「円い家」でも同様の扱いで あったという。出入口、押入、窓の内法寸法は、次表に示す如くである (符号は図5-1-6に対応)。 /ノ / / / 藍 『 % 一 i 一 灘〕綴「「1:   ,1 ・’_一幽 図5-1-5 二号官舎正面図(1/200) 出入口,押入等ノ部 符ロ 名 称 高尺 ランマ高 巾尺 台数 備      考 ① 腰付両開 6.5 .7尺 5.0 2 階上ランマナシ 石目硝子入 ② 引 寄襖 6.5 一 6.7 7 三枚建内一枚嵌殺 ③ 引違腰付 6.5 .6 5.0 13 石目硝子入 ④ 片引平戸 6.5 一 2.5 4 二枚建内一枚嵌殺 鏡板ベニヤ ⑤ 片引遣戸 6.O 一 2.5 5 鏡板ベニヤ(一枚建) ⑥ 腰付硝子戸 6.0 一 2.3 3 摺硝子入 二階ノ分板戸 ⑦ 腰付片開 6.5 一 2.5 1 自由蝶番石目硝子入- ⑧ 片引唐戸 4.2 一 2.0 1 踊場下 ⑨ 引違板戸 6.0 一 5.0 1 階下物置ノ分六本桟 ⑩ 押入 襖 6.5 一 4.3 8 引違押入 ⑪ 引違宇戸 6.5 一 3.8 1 二段四枚建 ⑫ 引 違 襖 6.5 一 7.0 2 三枚建二階押入 ⑬ 引違板戸 6.5 一 2.2 2 中空四枚建 ⑭ 引 一州 6.0 一 2.5 1 中棚付 ⑮ 引物板戸 6.0 } 2.0 (空禰) 女中便所 ⑯ 引片板戸 6.0 一 2.0 (空橿) 中極付 窓ノ部 イ 二 重 窓 4.1 一 5.0 13 外開内引違 口 引 違窓 4.1 一 5.O 1 物置(階下) ハ 引 違窓 2.5 一 3.0 1 女中室 二 嵌殺 窓 2.O 一 1.5 1 勝手口 ホ 引 違 窓 3.0 一 2.0 2 物置(階上) へ 片 上 窓 1.2 一 .8 2 台所指出口 iltriii 「汲          一=..  一_.__ へ         コ     ロ ご  \、  \          、    _曹 _,一一一. 。       __  」L_ Nz4rte一     物 鐙 ④ ◎ 告 ン台 御 轟 屋 ⑤  翼 翼 \ ・ 頃 , N 一 一_皿L  ・蛭_ P 蝋 望価犠 帆 碧 0 未 正 笛 .   ’益、 、蕎蔓 〔コ   lt @,gY@  ic1) ’LIレ 便所は「大正便所」とあり、「円い家」同様踊場に付設される。 小屋は、ほぼ南北方向に4寸×7寸の梁を平行に2本架け、直交して梁 to  へ r㊦o     食   ・ ・宣3     @ri  取  ・、 3 ie}’sspttC(A SQ’,7N   l。 1蘭     o 1イ装④i. @A            車 .一び・砦・1階  図5-1-6二号官舎平面図     (原設計図をトレース) 「 罫 「 ! 一 - 一 ほ  購     一         l   I     I       l . Tl.v’v.“,.Q 幾絵ダ 」t,,ΩE つ4 / .ezthzaka“==“lxLSH /   ”,,51   1    i 蝕 襖 讐 … q h ,    @  、2」Lユ_ 海盃_ 丑楓1 雌 璽嵐楯 i’ @8 の 閃 ,ぷ.」 111 ・爵  ・セ賦__     鵠 P ts .4.t; l C ㌔ 0   1  2          5億 ”’一”’”一i,.,,一t’ 図5-1-7 二号官舎断面詳細図(原設計図をトレース) 一 160 一 一 161 一 烈響灘雛鍵羅灘繊灘灘灘鑛翻麟灘灘灘難懇雛辮il騰熱熱轍幽幽餅灘欝:「』慧一、1、、 響響鍵灘焦1懇願鍵簸鍮難灘鍵灘灘劇烈羅一鶴 遭■齢随姻■■圏1脚闘騨総懸圃一ロー一騨騨’一’}}  臨 門 龍 “ 譜 蟹 総 煎 蕪 敏 難 欝 図5-1-8柳邸南東外観 02 6 tMINt-iMNM, 図5-1-11千手平面図     (Baujournalよリ作成) 冗二: ...J56 v. ..一 一一.一一  ウ 管, な 吋 + 恥 γ ミ 翫 お偽 驚 驚 簑 描 “ , 島 拶阿一 .導 e’難i鍵一 ;;・qlg m-f十・t ;7e-aat. 1, fpa“t+h‘・Ym; to      マ ?…’一      一.     つ に    @  竅C 蓬 伽 驚 四 ゆ 画 、                               の       一 - 等     い て 斗 - い ユ 苅 義 … 曜 畔 恥    譜:.こ_t__  _iW:        . t,_; 図5-1-10柳邸Baujourna1の内容の一部 は屋根裏部屋部分 印, 馳 浴室 一 ④ 物 置 便所 o } 女中室  ,  幽  畠 鴨黹潟tト玉≡≡≡…≡     一  一 ,  一  一     一 一一  一  一 一 }  一  一 i 曹 k幅騨冒 ,ひ一,齢ロ騨一画8--一, 草カ室 f   一   一   一   一 リフ陛≡藝 黶@               一  寝室 Q  卿  一  一  一   一       一  轄 @   O ロ     勝 手 口 食器棚 甲 一 ・ 赤一ル 8 1 i  i櫻 1  脚 関 ト  コ ○ □ 0 ヴァルコニ 台所 □ ___」 … 4_÷一 L 一 一  一  一        一       一 @    ___一一一一響弓  i T一・仕事室 @ L L .   1   O @O   O 戟B O O   O c 食 堂 @   ○ …   I i i ⊥超攣       ; i     i 仕事室 i来客用寝室) ⊥   」 !   O TロンL   し @  口 …嘘寝室「… m{  i i一.__⊥_よ_  ●鴻bジア 2尺 テラス 1階 2階 ばさみ(5×6寸)を架け、中心に5寸角の束を立てる。束からは、十字に 大垂木(4寸角)を7寸勾配で架け、それらを垂木受(4寸角)が緊結する。 大垂木間には3本ずつ合計12本の垂木(2×4寸)が放射状に架かる(図5-1 -7)。「円い家」でも同様の小屋組架構であったと推測される。  いずれにしても円形住宅では、天井高の高い食堂や客室など人の集ま る場を中心に構成され、「夫人室」「主婦室」といった主婦空間の確立、 「取次」「小応接」など独特な応対室の設定や、寒い台所の改善、保温・隙 間風防止を考慮しての外壁の仕上、開口部建具の選択などが特徴といえ よう。なお同類の円形平面は、1925(大正14)年12月竣工の「小樽高等商 業学校傭外国人官舎二号」にもみられ、北海道大学二号官舎との類似点 が多いことも指摘しておきたい。 5+2=柳壮一邸 札幌市北4条西15丁目 1925年7月3日上棟 C.1971年取壊  施主は、北海道帝国大学医学部外科学第二講座教授の柳壮一博士(18 90-1956)である。柳博士は、1916(大正5)年東京帝国大学医学科卒業 後、同科付属病院助手、慶応義塾大学医学部講師を経て、1922(大正11) 年!月医学部助教授となり、文部省在外研究員としてヨーロッパに2年 間留学、帰国後の大正14年4月教授として札幌に赴任8した。この留学 からの帰途で、畑道するヒンデルと同じ船に乗り合わせる偶然も重なり、 住宅の設計をヒンデルに依頼、翌年この住宅が完成した。  この住宅では、ヒンデル直筆のドイツ語による建築日誌Baujoumal (図5-1-9)が残されている。平面や仕様、仕事の経過、施主と請負、建 築家間の規約も記され、現在の請負や設計契約と同種のとり決めが交わ されていた。  規約では、 「1.総ての職人に対する承認は書面にておこなうこと。 2.支払は請求額の9割以上とはせず、残り1割は補償金として保留し、 最後の決算で支払うこと。3.日雇労働者に対しては、労働時間に対し て支払うこと。日曜日は無休だが、三大節と1日、16日はこの限りでな い。8.建築心内では決して裸火を使用せざること。」など、請負との 契約をはじめ、 「4.施主は個々の職人にではなく建築家や職人の親方 またはその代理人に委託すること。5.プランの修正は、不都合のない 限りできるだけさけること。6.施主は、設計図のすべてのコピーを受 け取り、閲覧し、サインをして返すこと。設計図はあらかじめすべてが 完成していなくとも構わない。9.建築家または代理人は、少なくとも 週3回現場監理を行い、建築日誌に記入されていることを確認すること。 その際施主も同行のこと。10.建築日誌は、施主の希望により週3回は 家に持参のこと。」など、建築家と施主間の契約も記載されている。  規約の1、2、3、8については、職人の了解を得たとして記名、捺 6:『北大医学部五十年史』(1974nyi)、   『五十年の歩み 斗楡』(1976,3.31)  による。 図5-1-9Baujournal表紙(柳福子蔵) 一 162 一 一 163 一 漕■墜甑醐幽■圏i醐騨騨瀕醐■一■■■■■.v”r’ 墜 窓 口 野 ド 竪 駐 慧 監 野 議   欝 験 } ド 齢 印があり、 「札幌市豊平町拾七番地 柾製造業 鶴巻新平 ㊥、札幌市 北八条西一丁目一番地 竹藤三之助 札幌市北八条西十丁目一番地 長 谷川清四郎 ㊥、札幌郡琴似市字発寒 松澤永吉 ㊥、札幌市北十二条 東一・丁目 高田幸太郎 ㊥」らの名がみえる。  さらに、①2階和室の内部造作、西側和室、書生部屋の天井 ②カー ペット、カーテン、家具、電灯のかさ、メーター ③浴室用湯沸器、浴 槽、釜 ④塀、門、庭などすべての外構 ⑤追加注文の仕事 a)タン クと電気ポンプ b)屋根裏部屋の板張と壁紙張 及び1925年5月6日 以降発注されたものや仕様に含まれぬものは、建築費には含まれず別計 算であることも明示されている。建築費は1,500円程度であった。  設計は、1925年5月6日から開始され、工事は垣根(5月9日一28日)、 井戸(6月1日終了)、垣根、門などの塗装、樹木の移植(5月21日)など の外構から始まり、並行して施主との問で平面や詳細が決定されていっ た。上棟(Aufgerichtet)は7月3日で、屋根葺きも始まった。  屋根は亜鉛鍍鉄板葺の東面に妻をみせる半切妻形で、南側に「ロッジ ア」をもつ大きな屋根窓を突き出す。屋根すそを緩勾配で折るフレアー ドルーフは、住宅以外の作品でもよく使ったヒンデル好みの扱いである。 屋根からは、暖炉用のレンガ造煙突が3本突き出る。外壁は、タール紙 上にウロコ型のこけら板を1/2ずつ重ね合わせ、釘留めされている。腰 付近でわずかに反り、床下は地上より2尺程度の高さで吹放して、床下 換気用としている。  南面する二三いっぱいの開口は、仕事室、食堂、サロンで、2階はロ ッジァ付き和室である。東側玄関上部は、トタン張りのバルコニーで、 夫婦寝室に付属する。窓はいずれも引違窓であるが、北側ではスリガラ ス入で、女中室や化粧室同様、格子を嵌めている。  床束は、おんこ(水松)の丸太で、地中4.5フィートの(玉?)石上に立ち、 オーフェン(ストーブ)下の基礎はコンクリートである。  床面積は、1階38.25坪、2階48.50坪。1階南側に「サロン」「食堂」「仕事 室」が並ぶ。「食堂」と「サロン」間は、木製引戸で、一室としての使用も 可能である。「サロン」の北東、1坪程度の部分は、応接コーナーとして 計画されたものであろうが、実際には蓄音機や飾戸棚で占められてしま った。「サロン」の南側は張出し窓とされ、三方から陽が入る様工夫され、 「食堂」からは直接テラスへの出入も可能である。中央の「台所」「ホール」 「玄関」をはさんで、北側には「物置」「浴室」「化粧室」「和風便所」「女中室」 などがほぼ一列に並ぶ。「台所」「ホール」間には、2っの階段が並ぶ。い ずれもナラ製で、一つは客・主人用表階段、他方はサービス用裏階段と して利用されたものであろう。  「食堂」「仕事室」間、「ホール」「サロン」間、「台所」ではレンガ造オーフ ェンが設置され、仕事室、ホールを除いて仕上げは、真鍮びょう留めの 彩陶タイルである。「サロン」では黄色、「居間」緑色、「台所」クリーム色 で、色決定は柳博士にまかされた。  1階天井高は、10フィートで、各室の床、壁の仕上は、次のとおりで ある。 室 玄 関 ホール サロン 食 堂 仕事室 化粧 所 床 壁 コンクリート Xナカベ  タモ tィートまで搬 iセン)  タモ Vラカベ澱3フィ gまで臓(セン) ?,出窓紛搬  タモ 寘bウまで搬 iセンベニヤ) マツ(畳) @マツ タモ }ツ タモ. }ツ. 室 台月 浴 物置 化粧室 和風便所 女中室 勝手口 床 壁 タモ }ツ タモ Xナカベ コンクリート Xナカベ  タモ Xナカベ  タモ Xナカベ マツ(畳) Xナカベ  一 Xナカベ  2階は、設計当初2っの階段を中心に、東側「仕事室」「書斎」「寝室」、 西側「書生室」「和室(7畳)」、北側「化粧室」「便所」で構成される。和室は、 床、障子などの造作や西側2室の天井、壁面などは未造作のままであっ た。南面客室(和室8畳)には「ロッジア」が付属していた。東側主寝室の 八角部分はバルコニー付きの夫婦の居間的空間で、3室は夫婦のゾーン として、どん帳で仕切るだけの一体化した使われ方をするはずであった が、実施段階では、「寝室」の八角部分は書斎に、「仕事室」は来客用寝室 (板間)とされて板戸が建て込まれ、南の「和室」でも1間半のトコが西側 和室に付くなどの変更があった。  東側「仕事室」「寝室」間には暖炉が備えられ、下階と同様「寝室」側に真 鍮びょう留めの青色タイルが張られていた。廊下には、サービス用のリ フトや屋根裏部屋に昇可動ハシゴを収納する落込戸棚なども備えられて いた。  各室の天井高は、9フィートで、床・壁仕上は次表の通りである。 室 来額寝室 客室 和室 書斉 書生室 寝室 化粧室 廊下 四 壁 タモ }ツ マツ(畳) }ツ マツ(畳) }ツ タモ }ツ タモ? }ツ タモ }ツ タモ }ツ タモ }ツ  屋根裏部屋は、東西に引違い窓を持ち、2型幅で木造床が張られる。 壁は紙張である。ここには、亜鉛鍍鉄板で内張りした水槽が置かれ、電 気ポンプで井戸から揚水した水が溜められていた。凍結を防ぐためであ ったが結果は思わしくなく、使用は中止されたという。 5-1-3=山崎春雄邸 札幌市北2条西23丁目(旧円山村北2条西23丁目)1925年11月15日竣工 C.1973年取壊  この住宅の施主も北海道帝国大学医学部教授である。1919(大正8)年 北大医学部新設に伴い教授に内定した山崎春雄(1910年東大卒)は、1921 年5月から解剖学第一講座を担当、1948(昭和23)年に退官している。 図5-1-12山崎邸北側外観(山崎家蔵) 一 164 一一 165 一 盤、.一..町議欝飯1灘難灘鑛鱗.、無難継雛雛購磁照顧白鍵白白s ・{一 チや轡戦構㌶. 難継灘轟搬麟藁議灘il購難1難一白轟癬 .遭難醐鱒圏騨欝欝醐醐鱒鯛■■■關國騨■■闘一}一一” ご 》 ヒ 舜 零 ニ 灘iw  L♪ ■ †L 図5-1-15山崎邸玄関ホール(山崎家蔵) 7:山崎康雄夫人による。 図5-H6山崎邸居間南西面(山崎家蔵)  山崎邸では、基本図、一部詳細をフリーハンドで描いたA2版の図面 が1枚(図5-1-13)保存されている。独語による書き込みやサインのある ヒンデル直筆のものではあるが、相当ラフなものである。他の建築作品 の例力・らみて、もっときっちりとした実施図面があったとも考えられる が、案外住宅クラスではこの程度の図面ですすめられ、詳細は現場指示 や口頭によることが多かったのかもしれない。  南北に妻をみせる切妻の大屋根に交差して、西に2間巾の屋根窓、東 に切妻屋根が貫入する。屋根すそは、柳邸同様、緩勾配で折れる。弓隠 しの端は、熊の顔を型どるが、スイス地方民家でおこなわれる魔除けで あるという。  屋根の西面棟近くに立つレンガ造煙突は、暖炉用であるが、東側の1 本は、1933年頃の増築の際に取り付けられたペチカ用のものである。壁 面は腰までこけら葺で、1、2階の開口部上小庇も壁面と一体に扱われ る。竣工当時、こけら板は明るい黄色を帯び、白く塗られた窓枠やドァ と調和した美しい外観をみせ、1939(昭和14)年山本薩夫監督の東宝映画  「リボンを結ぶ夫人」の一場面にも登場したという7。  南側二面には、1旧約1.4尺の菱形の小窓が3ヶ所嵌め込まれ、アクセ ントとなっているが、屋根裏・2階収納スペースへの採光用であろう。 この小窓モチーフは、丁丁学園教師館や同寄宿舎(1926)などにも使われ る。窓は、引違窓を主とする。写真(図4-2-5)では、東側翼部に屋根窓 がみえるが、後補のものである。  他の作品同様、地面からほぼ2尺の高さの腰部分は、床下換気のため 仕上げはなく、床束も柳邸同様、オンコの丸太である。  床面積は、1階35.17坪、2階24.0坪。1階は、南側に玄関、ホール、 居間が並び、北側は、台所、浴室、便所などの水廻り部分、東側は和室 (8畳)2室である。ホールの玄関脇は、取次コーナー(図5-1一ユ5)として イス、テーブルが置かれる。  居間では、南側を柳邸と同様張出し応i接部とし、北西側は、主婦・家 族を中心とする団らんの場である。L型に、木製長椅子が造り付けられ るが、座部は上げぶた式の収納スペースとされている。L型隅角部奥は、 およそ日本的といい難い神棚用小祠であった(図5-1-17)。神棚下には、 台所側から米などを収納していた。居間、台所間にはオーフェンが設置 されるが、居間側は柳邸同様、緑色の真鍮びょう留めタイルで仕上げら れていた(図5-1-18)。居間・台所間の棚はハッチ式で、台所側からのサ ービス用として利用される。各室の天井高は、8.5尺である。  2階は、ホールを囲んで、書斎、女中室、来客用和室、子供室から構 成される。南面する書斎では、廻し縁には草飾模様が彫られ、天井は、 頂部で7.0尺のくし型ヴォールトとしていた。  1931年頃の東側2間の増築では、1階に和室(8畳)2室が増設され、 和室4室の中心には円形ペチカが設置された。  山崎邸では、椅子、机、ランプシェードなどのデザインもヒンデル自 らが手がけている。細かな装飾は、日本人やアイヌ人の職人に彫らせ、 鳥獣・人面・植物・アイヌ紋様などバラエティに富んでいる(図5-1-19)。 これらのいくつかは、山崎邸ばかりでなく、グブラー所有のもの(図5-1 -20)も残されており、ヒンデルの多才な面をみせている。 働 1◇ム猷臓i e b i 「ト▼’ 図5-1-13山崎邸設計図(山崎家蔵)   のへ り ♪ ‘ μ 一 166 一 一 167 一 蕪蒸、擁騒騒羅欝灘羅羅鱗灘i灘雛鑛羅i翻1繊購灘一儲難羅羅一 纏   態 「 、.…篇∴轡:饗饗鷺鞭轟羅1照顧瓢灘轡鞭1灘覧讐一白 .・ ン灘鞭鱗鱗顯醸欝欝羅羅鞠 亨。隻r ’餓夢 饗 婿 ∵ ・ ㍗ { ”9’tt’1’,『 @ハ1蓬唱鼻・、・IIト’,バ’,=・∴樋  ト幽stt  棚下 石炭庫 回 便所 君夏置1 i後補); 浴 室 O o 一    一 台 所_ i ヨ  i  l ロ 荘 一   ;       i   l     i   旨   … る 醤・一 居 間 物 置 ;≦茎ii望  一≡三三:三三≡ ゚一一霞≡≡≡一玄関  ’一≧≡≡ ’一G一 1階 02 6  12尺 「・一回一一 トTレ{ト  ロ  @  ほ   ト   来客用 コ’  1…’”1”{ 女中室 い一+ 引 /  り ._1_1    … 1本棚 書  斉 . i i . 一 - 図5-H4山崎邸平面図(山崎家蔵設計図よリ作成) 順鞘’ 図5-1-17山崎邸居間北面と神棚(山崎家蔵) tL,Wtr , 階     算 . 図5-1-19山崎家所蔵椅子 愈、 ._._.ヨ  2階 ∴乙こ謁1 【タ 図5-1-18山崎邸居間のオーフェン(山崎家蔵) 図5-1-20グブラー所有椅子 5-1-4:ネ榔 札幌市 C・1925年 忌竣工当時の写真(図5-1-22)一葉を除いては、詳細は不明であるが、柳 邸や山崎邸などと一連の作品とみなすことができる。  ウロコ型のこけら板で外壁を葺き、腰付近でわずかに反り、床下は換 気用に吹放されている。引違窓や屋根すその折れなども同様の手法であ る。屋根交差部のレンガ造煙突は、暖炉用であろうか。切妻屋根方向の 妻には、小屋根採光用の菱形小窓が付くなどの同様のモチーフがみられ るが、2階の三連引違窓は太い枠で縁どり、中央に半円形の欄間を付け てパラディアンモチーフともとれる扱いをみせている。 5+5=大野精留邸 札幌市北12条東2丁目 1925年竣工 1985年頃取壊し  南北に出面をみせる急勾配の大屋根、西側正面の裾広がりの屋根窓な ど、ヒンデル流の作風をよく示す小品の一つである。緑に囲まれて黄色 い鉄板張りの外壁が目を引く作品で、1982年取り壊しの聖フランシスコ 修道院(5-3一一1.参照)や、現存する藤高等女学校(キノルド館、5-2-1参照) などと同様の外壁仕上げである。防寒防火上の配慮であった。  西面中央には細やかに縁取りされた半円形の小屋根が控えめに突出し、 入口まわりを軽やかに飾っていた。玄関を入ると、正面に居間、南側に 応接室がホールをL型に囲む。6坪(19.8㎡)の板敷きの居間には当初暖 炉が付設され、時折、蓄音機を鳴らして大黒薫教授S夫人マチルド、木 下良順S夫人やクレンプ教授1。ら外国人を交えてダンスを楽しむことが あったという11。居間を中心に東側に和室2室、北側にハッチ式の戸棚 をはさんで、ダイニングキッチンが並ぶ。台所の西側は、浴室、便所、 東側は女中室、勝手口が並ぶ。  2階は中央ホールをはさんで南北に2室、東西た2室が十字形に配置 されていたと思われる。               ’  建築面積は付属の物置も含めて41坪(135.3㎡)程度であった。  大野精七博士(1885 一 1979)は、1921(大正10)年5月北大助教授を拝命、 同年11月末ドイツ留学に出発、翌11年4月から南ドイツフライブルグ大 学病理学教室ルドルフ・アショフ教授のもとで約2年間留学、帰朝した のは1924(大正13)年3月、同年4月北海道帝国大学産婦人科学講座教授 として札幌に赴任しだ2。来歯したのはヒンデルとほぼ同じころである が、両人の出会いには同じ北大のドイツ語教師コーラーの仲介があった ものと考えられる。翌年の1925年夏にこの住宅は竣工したが、設計は無 償であった’3。  現場監督は沖津組、林清一が請け負った。沖津組、沖津熊次郎(?~19 47)は小樽の大虎加藤忠五郎につながる人脈の一人で、大虎の札幌店が 一 168 一 一 169 一 叢暴露難懸i鰻灘灘1諜灘懇懇灘灘灘鑛綴織1雛灘難購灘鳳雛幽幽幽幽灘 IA N .t 図5-1-21林邸 嬬 . ξ セ   ,・礁貌劔~ 図5-1-22大野邸 ・’厲ヌ門窃 8:北海道大学医学部医科学教授(前掲   『医学部五十年史』による) 9:北海道大学医学部病理学第二講座教  授。1937年大阪大学病理学教授に転  任。 10:Willy KremP北海道大学予科ドイツ  語教師として、1923年8月一1930年   6月、1935年4月一19458月在任。 11:大野精七博士談。 12:前掲『医学部五十年史』による。 13:大野精七博士談。 灘灘一一白山一一       緊 .         藤 wnyT. 慧.1鰹獲燃灘1欝欝雛灘,激撫灘警灘鱗i灘騨 …’ o 輔 - 14:『風雪の百年 北海道建設業界史』  (北海道建設新聞社、198e)p.187 15:日本聖公会北海道教区歴史編纂委員  会『教区九十年吏一日本聖公会北海  道教区』(1966.3.20)p.222 16:札幌キリスト教会歴史編纂委員会編   『日本聖公会札幌キリスト教会百年  の歩み』(1993,4.10)p.35 17:『教区九十年史一日本聖公会北海道  教区』P.351 18:前川眞二郎著/向山道子編『前川眞  二郎歌集一福音の喜びの使者として  一一一』(詩医文学刊行会、1991.12.13)  p. 149 図5-1-23ノートン記念館南西側外観 あった時代には新開新太郎と協力して事業をすすめた。1918(大正7)年 南1条に丸沖・沖津組として独立、北大本部(1937)、由仁小学校、八雲 中学校(1944年目、札幌競馬場、琴似結核診療所、札幌時計台改修(1933 か)、丸ヨ北の誉工場(1934)、同社長本宅、ムイネヒュッテ(1931)など を手がけている14。 ドtt 図5-1-24ノートン記念館玄関部 5-1-6=ノートン記念館 札幌市南15条西8丁目 1927年竣工  ハンス・ヒンデル所蔵写真の中に、同一の建物を撮影した3枚の写真 が残されている。1枚は南西側から撮影したもので、裏にrMiss North- ons Hauser(1inks 2 zum Vermieten, rechts ihr Wohnhaus)」(図5-1-23) とあり、もう1枚は「Houseingang der Miss Northon」と裏書された玄関 部(図5-1-24)、3枚目はrDie Stube in Miss Northon’sHaus」と書かれ た居間内部(図5-1-25)の写真である。  rMiss Northon」とは、 CMS(英国聖公会の宣教団体The Nissionary Society)の婦入宣教師、ミス・ノートン(Norton, Edith Lonsia Beatr- ice)のことである。明治、大正、昭和の3世代にわたって約40年間、札 幌聖公会の育成のため、また多くの青年たちに英語の聖書講義を通じて 伝道し、 「バチラー博士が札幌教会の生みの父なら、ノートン師は確か に母の役を勤められた、いわば育ての親である。」15どまでいわれた人 であった。  1870(明治3)年ごろ英国ミデンハムで生まれ、1900(明治33)年CMS の宣教師となり、同年10月長崎において宣教活動を開始した。1903年函 館に赴任し、翌1904年から伝道開始、1908(明治41)年からは札幌に居を 移し、伝道をすすめた。婦人への伝道強化、英語クラスの開催、聖書研 究会などの活発な働きを続け、また青年層にも大きな影響を与えた。19 24(大正13)年退職が決定し、一時休暇のため英国に帰国するが、1927年 再び札幌に帰任した。この年、札幌山鼻(南15条西8丁目)にノートン記 念館が建てられた。この住宅が、前述の写真の建物である。ノートンの 25年間の奉仕を記念して、信者から捧げられたもので、退職後も宣教師 として奉仕したノートンの活動の中心となったところである。  1931(昭和6)年休暇のため一時帰国、翌32年帰任するが、1933年日本 を離れ16、1952(昭和27)年、英国で死去した。享年82歳であった17。  その後この建物では、1937(昭和12)年の聖職按手式の執行などが行わ れ、1941年前川眞二郎牧師が教区監督に就任し、10月15日仙台より移住、 1943年9月27日郷里である茨城県笠間に転居18するまで居住したが、そ の後ノートン記念館は売却されることになった。  この住宅に関する写真資料として、ミス・ノートン所蔵アルバム『R- EMEMBRANCE』(日本聖公会北海道教区所蔵)に、ハンス所蔵写真と同一の 3枚の写真のほか、東側外観の一部を撮影した写真(図5-1-26)が収録さ れている。さらに小林三樹北大衛生工学科助教授の所蔵する複写写真の 中に、ノートン記念館での記念写真4葉(芥川司祭所蔵アルバムおよび 須田家所蔵写真からの複写)が残されている。  内外の概要について詳しく覚えている人はわずかであるが、この住宅 に居住した経験のある前川監督3女である林清子北海道女子短期大学講 師が、略平面を記憶していた。この略平面と林講師からの聞き取りに加 え、上記写真を参考にして、住宅の概要を推測することができる。  それによれば、ノートン邸は木造一部2階建て、柾葺きの寄棟屋根で、 外壁はヒンデルお得意の柾葺きとし、1、2階とも南東、南西二部にや はりヒンデルお気にいりの引違い2重窓を配した簡素な住宅で、写真裏 書にあるように玄関の平家部を突出し、その上に中2階をおいている。 外回りの建具は、当初素木であったと思われるが、ノートン所蔵アルバ ム東側外観写真や他の記念写真では白く塗装されており、竣工まもなく 塗られものであろう。  3×3.5間の2階建て主棟部分の北側に、間口3間、奥行7間の細長い平 家従面部を付属し、手前2.5問は台所、風呂などサービス部を含む住宅 部分、さらに北側4.5聞部分は集会室として利用された。主棟の西側に 突出するのが玄関棟である。  主面の1階部分南側が煉瓦造の暖炉をもつ6坪程度の居間で、南東お よび南西部乳虎を引違い2重窓としていた。居間の北側は食堂で、庭に 出入りできる欄間付き引違いガラス戸を建てこんでいる。食堂北側はハ ッチ付きの台所と風呂で、東側前面は!画幅の廊下、廊下には戸袋付き 4枚引き戸がみられる。  2階は、南側に6畳、押入付き4.5畳の和室を配置し、!階同様南東お よび南西部隅部は引違い2重窓とし、外側に窓耐乏を造り付けていた。 北側は6畳相当の洋室である。玄関上部の中2階は1林講師の記憶では納 戸的な部屋というが、むしろ階段室踊り場であったとも考えられる。  平家北側の集会室は、西側の2間幅の入口から出入りし、8畳相当お よび10畳相当の板間2室は、婦人会の集会やクリスマス祝会19、聖職按 手式2。などに使用された。  ヒンデルの作品の中で、秀作とは言い難い簡素な住宅であるが、外壁 のこけら張りと引違い建具の採用、床下換気への配慮、内部での引き戸 の採用など、ヒンデルの住宅に共通する特徴を有した作品の一つである。 ≦論夢ン 図5-1-25ノートン記念:館居間 図5-1-26ノートン記念館東側外観     (右側がミス・ノートン)     (日本聖公会北海道教区蔵) 19:前掲『教区九十年史一日本聖公会北  海道教区』p.159 20:前掲『教区九十年史一日本聖公会北  海道教区』 p.178 一 170 一一 一 171 灘∴講罐騨難懇懇灘灘繕灘鱗離職灘蕪灘難熱願灘灘i劇論1白白饗辮馨霧騨 脚:Pt’ x メ mp磯灘撫彰概譜蝋鱗藻 ’蕗、. 匡 ド 多 マ タ “ 急 鳶 垂 ㌃ 罫 ㌦ 却 」 」 . 一 ㌧ 一 蒙 軋 熱 蛭 払 紅 》 「 モ b こ } 、灘畿羅婁鍵鐸騨鱗響饗護嶺蟻溌纏縫癒撰鐘嵐脳耀観”堅繊  角     ‘鞠輪一閲嫁_ゴ           __ ∴1、『悪認 21:フランシスコ会の北海道布教につい  ては、5-3-1:聖フランシスコ修道院  を参照。 22:『わたしの北海道(1)クサベラ・レ  ーメさん』(朝日新聞、1976.1.13) 23:1871~1952年。1907年来札、1915年  札幌教区長、1929年司教。 24:注2の朝日新聞では8,月14日。 25:同上では18目。 26:1881~1925。1908年より1925年まで  北海道帝国大学予科ドイツ語敏師と   して在勤。 27:拙稿『建築家マックス・ヒンデル  MAX HlNDER-2』 (日本建築学会北  海道支部研究報告集Na491978.3) 5-2学校建築 5-2-1=札幌藤高等女学校(現札幌藤学園キノルド館) 札幌市北16条西2丁目1924年竣工  札幌藤高等女学校は、ドイツの聖ゲオルギオのフランシスコ修女会21 によって創設された。 「玉ネギ塔」22としてまた「キノルド館」として親 しまれているこの校舎は、大正期札幌における代表的な建物の1っであ り、ヒンデルが在日設計活動の第1歩を踏みだした作品でもあった。  ヒンデルの設計図は残らないが、藤学園には『昭和29年11月30日作成 平面図』(1:400)と現状平面図(1:200)が所蔵されている。198!年7月主 に立面図作成の目的で実施した実測調査結果とあわせ、校舎の沿革、建 物概要とおよび1932年火災復旧工事についてふれておきたい。 校舎の沿革  ヴェンセスラウス・キノルド司教z3は、布教活動の一環として女子教 育推進のため、ドイツから修道女を招いた。1920(大正9)年5月、クサ ベラ・レーメ他2名の修女はドイツを出発、8月10日24横浜に上陸、同 15日25札幌に到着した。同年札幌に修女会の支部設置、カトリック精神 に基づく教育事業を行うことになった。  学校建設の計画は、国内の物価高、ドイツ敗戦によるインフレの影響 などで建設資金も不足がちであったが、アメリカのカトリック信者から の寄付などによって、地所の購入と建築資金がまかなわれた。  修女会の藻塩(マリア院〉も校舎隣接敷地内で、1923(大正12)年から 起工したが、その完成を待たずに高等女学校校舎の建築準備が開始され た。校長ヨンナ・ベルクマン修女は他の修女と共に、その年の5月、約 1ヵ月かげて東京その他のカトリック学校の設備・経営状況を見学して いる。  ヒンデルが来札する1924年3月頃迄には、学校の方針・概要などもほ ぼ決定していたと思われる。ヒンデルは、腰札後ただちに設計を依頼さ れたことになるが、義弟コラー26などの推薦があったものと想像される。 5-1-1で前述したように東光園内に事務所27を建築し、設計活動を開始 したわけだが、上棟式が同年9月28日であることを考えると、設計には かなりの速さを要求されたに違いない。  施工は北11条東3丁目の三浦建築工務所(三浦才三)が請負った。その 後もヒンデルの作品のいくつかを手がけており、彼が札幌を離れたあと も藤学園付近を中心にヒンデル風の住宅を設計している。仕事を通じて、 ヒンデルの住宅設計の手法を三浦なりに学びとっていったのであろう。  1924年12月24B、高等女学校令により5年制の札幌藤高等女学校が認 可され、翌年4月8日に第1回入学式が行われた。同年10月11日付『カ トリックタイムス』には、次のように報じられている。   「札幌の北十六條西二丁目に、三階バロック風まがひの建築がそびえ てみるが、これがこの四月から開設された藤高等女学校である。(略)こ の四月三百数十名の志願者の中から百五十名28を入学させたばかりで、 職員数十一、教室数十四で、校舎の敷地は千八百坪あり、……寄宿舎も 校舎裏にある。門の柱には「み・つく」の彫刻があり、これは深く考へ よといふ意味をあらはしたものださうである。」  校舎主屋の北側には、生徒昇降口の廊下に続いて、東西に延びる平家 が付属していた。東側には割烹室、家事室2s、便所が並び、西側には職 員便所、理化室などが続いていた。下見板の外壁の簡素なデザインで、 主屋部とはかなり異なっている。第1回入学式が理化室で挙行された3。 というから、主屋部と同時期に竣工したものであろうが、この部分につ いてはヒンデルの関与はなかったのかもしれない。  1925年には、校舎低層部西側に建坪204坪の2階建校舎が増築された (図5-2-1)。1階は図書室31、地理標本室32、作法室33、教室、2階は体 操場であった。東西の1階入口廻りをアーチで縁どるなどのモダンさも あり、2階に体操場を設ける平面は北山女学校でも見られるが、ヒンデ ルの関与については不明である。  1932(昭和7)年2月2日午前1時45分、3階音楽室屋根裏から出火、 3階163坪を焼失し同3時に鎮火した34(図5-2-2)。損害は7,000円、出 火原因は、集合煙突に使われた下水用土管の亀裂であったらしい。ヒン デルの材料選択の誤りというべきだが、日本の建築材料への不慣れさゆ えの失点でもあった。後述の復旧工事報告書の中で三浦才三は、 「…構 造とは設計及施工の二つに区別されますが、普通の場合施工者は設計に 従わなければなりませんので不注意の点が仮にあったとしても、決して 不正工事等の如きは絶対ありません。元来下水用土管は素焼土管と異な り煙突には絶対不適当であります……内部に粘着せし煤火が燃焼する際、 過熱の為め亀裂を生ずるのでありますから長年月の内には危険が有り得 るのであります」と指摘している。  焼失個所は3階であったが、放水で凍氷被害を受け各階とも内外装補 修を要することになった。復旧工事は2月2日に開始、外観はほぼ原設 計通りすすめられ、3月5日ほぼ工事終了という早いペースで竣工した (図5-2-3)。またこの機会に、主屋東北部に図画室(1階)、音楽室(2階) に充てる2階建て建坪28坪の校舎が増築された。主屋と同一の意匠で、 3月末に竣工している。  1947年本道初の専門学校として、藤女子専門学校が設置された。校舎 は、高等女学校主屋の東:翼部の1、2階と1932年増築部の1階を利用し、 家政科教室、国文科教室にあてた。屋内運動場西端には、建坪36坪2階 建4教室が増築され、校舎北側の調理室、家事室、物象室(理化室)・裁 28:『記念誌 藤女子短期大学30年、藤  女子大学20年』(1980)では167名。 29:注28前掲書 30:前田光子藤女子中・高校畏による。 31:『光明附録』(1957)による。 32:注30に同じ。 33:『昭和29年11月30日制作平面図』に  よる。 34:カトリックタイムス(1932.2.28) 図5-2-2 焼失した藤高等女学校本館     (札幌藤学園蔵) k・ ・」ゐゲ s     乞.   .s一 、、 アニ2  t-r’     ヤ悔顯し 図5-2-3 復旧工事中の本館     (札幌藤学風蔵) 一 172 一 一 173 一 讐醗灘鞍懸灘i暴露i灘議簸鑛懇蕪議灘黙黙灘灘灘饗li欝灘i欝血鎌欝1∵驚灘詳驚撃鷺欝鷺開脚警1鷲憲1山頭轟議自由羅一団白白一難二三繊 馨: 臨 〒   圏 騒 葦 f’ S・1 鍛難i灘織i欝li’羅露懇懇雛醗融撫熱 誉働讃 野押℃ 偲r3乏ξ 「,1幽 縫室(2階)、屋内運動場と音楽室は、高等女学校と共用した。  1950年藤女子短期大学が設置され、校舎北側一部門専門学校用に増築 の4教室が使われた。1961年中学・高等女学校校舎新築に伴い、主屋北 側部分は取壊された。同年4月道内初の私立4年制女子大学が発足、残 された高等女学校旧主屋部を使用した。  1968(昭和43)年大学校舎新築に伴い、高等女学校主屋部は「キノルド 館」と命名され、同窓会、クラブ部室などに使用され現在に至っている。 1932年復旧工事  1932年の火災については前述したが、復旧工事に関してはr藤高等女 学校復興記念工事報告書並内容案内』に詳細に述べられている。記念出 版物の発行は、三浦才三の発案である。札幌禁酒会会員として1924年頃 から禁酒禁煙を実行し、上棟、竣工式の際には飲食せず、禁酒衿天、禁 酒手拭などの配布に替えたといい、このパンフレットの配布も同様の趣 旨からであった。  復旧工事と仮教室応急処置の着手は2月2日、6日には被災部分の取 壊しが始まった。10日中央家建前、11日西翼下建前、12日東翼家建前を あげ、15日には屋根柾葺、外部建具の建込みを終了した。翌日は大雪で 工事に支障をきたしたが、28日には外部ペンキ塗りも終え足代も取り除 かれた。3月5日には大工、その他の工事も終了し、11日には3階で5 年生の授業も開始された。13日内部ペンキ、ワニス及び床塗装を終了、 14、15日には新教室で入学試験が行われている。16日、黒板の取付け、 ガラス掃除を終了し、19日の卒業式に間に合うことができた。また同時 に、音楽、図画両教室の増築工事も進められ、2月25日基礎工事着手、 3月10、13日建前、14日屋根柾葺終了、簡単な上;陳式をあげ、3月末日 に完成した。  こうした工程の途中で、「施工関係者の精神的向上」のため、宇都宮仙 太郎i禁酒会長及び三浦幹事の講i話(2月13日)、ルカ神父の講話(2月17日目、 中村禁酒会副会長、西丸下野教諭の講話(3月5日)、西田少佐の講演(3月 10日陸軍記念日〉などに時間を割いており、当時の施工業界において特 異な存在であったと思われる。  外観はヒンデルの原設計通りほぼ復旧されたが、翼部の屋根勾配は当 初の1:1からやや緩やか(40度)にされている。また中央塔には、電気 時計とマークが付加された。内部は部分的に間仕切の変更も行われ、仕 様は次のように変えられた。 ①床板 楢二二乾燥材で改造。天井板と床板の間には防音、防寒の目的で炭  殻を充填。 ②壁 在来(漆喰壁)を取壊し新規に「トマテヅクス1等を張り、塗装。 ③腰羽目 ベニヤ雨晒を用い、一・’部在来にならい青木板を使用、高さその他  を変更。 ④天井 ベニヤ板、 「トマテックス」 「ヒノマルテッキス」を用い塗装。⑤ 図5十11933年頃の札幌藤高等女学校(札幌藤学園蔵)     一 . ム (       聴織, 図5-2-4復旧工事終了(1932年)の本館(札幌藤学園蔵)                 r 図5-2-6札幌藤高等女学校南立面図(1981年調査時) 卍 ’-一1 麗 , 一 174 一一 一 175 一 LV.v?..,.:v,f∴饗舞雛灘懇懇鞍懸縫難欝藤織灘i魏魏撒餐難購顧慮幽幽難難馨騨譲劉罵難螺獅 》警.顧慮羅繍鎌繧鷲饗灘 ざ s   縢 .樋.灘…灘獺、瀦 ,轟. v  箏 1 5 10M   ノノ /N・」 7 裁縫室 擁の 職員室 ll ? 図5-2-7札幌藤高等女学校本館復原断面図(西翼部)(1/300)(一部推定) ド〒旧並ヨ「㎜一一並   1ゴ _ζ迫一_   1?’一IT一一11 - t 3階 o o r 裁縫室 教室 教室 コ  」  ロ                                                                                 に    .一一「   .』__一『r 「 音楽室 S9’ 教室 黶@        一   ,   一- 1 - 一L-oF「==■■r・ @教室  卿              ,   噌 w 「     -   一 F ● 一 @教室   教室 @ 丁 ㍗ d吊 l l La.一L一一 教室 1悔「 「 教室 _さ ⇒ 一 教室 教室 2階 1 Y一 一   教 室 」1 一                     一  『 @  一   静養 @   、@   〉唱’ ウ室 『  教室 校長室 教室 一 心   一 1.一i2」 .一 3Q一.一L 一 L a4’一±一?7’ .j iali 図5-2-8 札幌藤高等女学校本館復原平面図(1/500) 1階 司 ー ー 」 一 176 一 纏騨 灘灘離離灘1灘雛羅懇一画・難難灘騎 灘  梁包み梁は当初むきだしであったが、ベニヤ板で包み塗装。 ⑥建具・入口戸 在来の鉄レールを木レールとし、教室全部に欄間新設。  窓は在来金具を止め、「バネ弾マv」に変更。 ⑦室内の換気孔 新設 ⑧塗装 内外全部ペンキ及びワニス塗装 ⑨煙突 内径1尺の浅野パイプ煙筒の外側を煉瓦で包み、その聞をコンタ  リート充填。横口差込は同パイプ及び軟石使用。煉瓦の外はセメントモ  ルタル3回塗リ。木部との接合には「アスベスト」及びスレート板使用。 ⑲電気工事 漏電を防ぐため「チューブ」入れ。 建物概要  現存建物は、1932年復旧時の姿を維持しているわけだが、ここではで きる限り創建時の姿に復しながら建物概要に触れておきたい。  木造3階建て校舎は、中央主棟の東西に翼部を張り出し、南面に大き な妻破風をみせている。創建時の写真としては、南側から撮影したもの (図5-2-5)が残されているが、ヒンデルが最も力を入れたのも南側のデ ザインであったと思われる。  主棟中央に立つ中央小面は、ヒンデル好みのモティーフの1つでもあ った。実現したものは少ないが、北星女子校案(1928年)や上智大学案 (1927年)などの基本設計にもみられる。ヒンデルのこうした塔への執着 が、やがて新潟教会(1927年)や宇都宮教会(1931年)の心添デザインなど に結実していったと考えたい。  切妻大屋根を強調するデザインや、裾広がりの急勾配屋根が特徴的で、 大きな破風面には小屋裏採光用丸窓がみられ、破風には母屋鼻を隠すた めの控え目な装飾板が付く。翼玉東西面にはそれぞれ大きな屋根窓が突 出するが、3階大教室への採光用である。主棟と翼部屋根との接合部に も屋根窓を付けるが、3階階段室踊場への採光用であろう。復旧工事の 際に復原されなかった部分である。  素話屋根には、小屋裏採光用の小さな半円形屋根窓(窓枠で半径31~ 38㎝と実測された)が5っ並んでいる。復旧時には復原されたが、1967 (昭和42)年頃の屋根葺替え工事の際に取りはずされている。煙突位置は 現状と変わらないが、高さは低く抑えられている。煙道に土管を使用し たことは触れたが、外装材については不明である。  外壁の鉄板張りは、木造建物にありがちな隙間風の問題解決といった 防寒への配慮のほか、簡易耐火的な工夫でもあろう。この期の他の作品 (フランシスコ修道院、大野邸、藤学園寄宿舎など)でも多用されており、 ヒンデル好みの外装材であった。窓はすべて上げ下げ窓である。  西面には教職員用入口が張り出し、2階はバルコニーである。北側背 面については、旧状を知る史料はないが、ほぼ現状通りであったと想像 される。ただ現状で、上げ下げ窓の形状の異なる部分があるが、西側部 分は生徒昇降口を含む2階建校舎の接合部、東側部分は北側校舎に通じ る吹き放しの渡り廊下のあった位置を示している。 一 177 一 白一山、e 図5-2-5 創建時の本館 ,、,、・.,騨灘、縷灘 灘 鍾 曝露: 35:前田光子藤女子中・高校長による。  平面の第1の特徴は、主屋部と翼部をスキップフロアとしている点で あろう。この手法は、1929年竣工の北星女学校校舎にも適用されている。  1階は、西翼部一職員用、中央棟一生徒教室、束翼六一寄宿室、童貞 用室の3っの区域に分けられていた35。西側の入口を入ると、9尺巾の 廊下をはさみ、左(南)側に職員室(24×39尺)、右(北)側に事務室、応接 室などが並んでいた。  紫藍は翼部から約4尺下がり、北側片廊下(9尺巾)、南側に教室(24× 30尺)が2室並ぶ。東翼部は、北側に童貞の部屋(18×30尺)、静養i室(18 ×9尺)、南側に寄宿室的に使われた部屋が2室(24×24尺及び24×27尺) 35 ?る。  主棟の西階段寄りには、北側校舎に通じる廊下への入口が2ヵ所並び、 東階段寄りには吹き放しの渡り廊下への引違い戸が付いていた。  翼部!階から約7尺上ると主棟2階である。2階東西翼部では、廊下 をはさんで北側1教室(18×39尺)、南側2教室(ユ8×27尺及び18×24尺) で、西側の玄関上をバルコニーとしていた。中央棟廊下の西階段寄りに は、北側に渡り廊下への引違い戸が2ヵ所あった。  3階は翼部を大教室とし、東側は音楽室、西側は裁縫室であった。東 側音楽室は、1932年復旧工事の際に二分された。東西両室とも、小屋裏 部分を収納空間としているが、空間を有効に利用するヒンデルらしいと ころである。各教室とも梁が露出していたというが、階高を抑えながら も、できる限り高い天井高を確保するための工夫であろう。  小屋組は、復旧工事で取り替えられている。キングポストトラス構造 で、主棟では6尺間隔、翼部では9、9、7.5、7.5、9、9尺間隔である。 部材寸法は、以下のように実測されている。         ト 木 掌 束 杖 ル 棟 合 真 方 ボ 約90×118㎜ 約235×120 約150×120 90t-92×118tv 120 直径20 陸梁   約235×120㎜ 母屋   90~91×116~118 垂木   約53×58 屋根板  約12×17 5-2-2=北星女学校女教師館(現北星学園百年記念館)  北山学園は、札幌における女子高等教育機関の草分けといえる。遺愛 女学校(1882年、函館)、聖保禄女学校(1886年、函館)に次いで、1887 (明治20)年スミス女史によって創設された。当校の沿革については、 『北星学園八十年誌稿』(1967)に詳しいので、改めて述べることはない が、ここでは施設の略歴について触れておきたい。  スミス女史は、1887年1月15日、札幌市北1条西6丁目通称赤官邸の 厩舎を北海道庁から借り受け、一部を3畳、6畳に改修し、Girl’ s Bo- arding Schoo!of the Presbyterian Mission, SapPoro(札幌長老派伝 道教会女史寄宿学校)を開校した。北面学園創立の日である。  キリスト教主義の女学校は1886(明治19)年頃から増加したといわれ、 1987年には全国の高等女学校は、官立ユ、公立6(栃木県、京都府、大 阪府、山口県、徳島県、高知県の各女学校)に対し、ミッションスクー ルは35を数えたというSB。本校もこうした全国的風潮の中で設立された。  創設年の夏、北海道庁長官岩村通俊は、さらに建坪18坪(59.4㎡)の2 階建校舎(1階礼拝堂、教室、2階裁縫室、寝室)を官邸構内に新築、貸 与した。  1889(明治22)年官立の札幌女子小学校が開設されたため「スミス女学 校」と改称。1894(同27)年校舎の借用期限が切れたため、北4条西1丁 目(現共済ビル)の土地と北海英語学校の校舎を買収、移転と同時に「北 星女学校」と改称した。その後、敷地の増設や増改築を重ね37たが、19 24年現在地の南4、5条西17丁目に5,984坪(19,747㎡)を購入した。  1926(大正15)年7月10日、教師館、寄宿舎の定礎式を挙行、12月21日 ほぼ竣工し、外人教師の教師館移転が完了した。翌1927年は創立40周忌 にあたり、1月15日寄宿舎落:成移転献堂式が行なわれた。施工は、ヒン デルの作品を多く手がけた三浦工務所である。  1928年には校舎移転も許可され、翌1929年5月28日校舎起工式が挙げ られ、8月14日上棟式、12月2日工:事終二二を終えた。同月24日工事竣 工届、学校移転届も出され、1930年1月22日献堂式を挙げた。施工は、 美深日本基督教会員でもあった松浦周太郎(松浦組)、工事費は39万円余 であったという。  3つの建物は、図5-2-9のような配置で建設されたが、寄宿舎は1974 (昭和49)年11月取り壊され、校舎は1963年12月4日焼失している。 36:櫻井役『女子教育史』(1943,2) 37:1901(明治35)年隣…接地900坪購入、  校舎増改築。1910年教室改修、増改  築。1914年寄宿舎改修、増改築。 ”N ヴォーリズの設計案  学園に保存されている設計図書の中に、ヴォーリズSSの基本設計案が 含まれていた。寄宿舎と教師館に対する以下のタイトルの4枚である。 (iDPROPOSED ・ OF ・ DORM I TORY ・ OF 一 HOKUSEI ・ J OGAKKO 一 SAPPORO s k e t c h  #720立面図、 平面図 @TEACHER’S・RES I DENCE・for・HOKUSE I・JOGAKKO’SAPPORO s k e t c h  #852立面図、 平面図  いずれも縮尺は1:100で、W.M.Vories&Co. ARCHITECTS・OMIHACHI- MAN’JAPANのサインがある。日付は、①はAug.27th-23、②はSept.10th. 1923と記入がある。ヒンデルの来札(1924年)以前に、基本設計がすすめ られていたことを示している。  ヴォーリズは、1910(明治43)年ヴォーリズ合名会社設立以来、1922 (大正11)年までに教会72、ミッション系学校773sを手がけたというか ら、本道キリスト教関係者の間にも、その名はよく知られていたに違い ない。  ヒンデルへの設計依頼変更の経緯は明らかではないが、札幌藤高等女 .一壁エ_璽」 勘+ハ丁圃ζ甲喚穴闇} 囲   昌 昌 圏 國 一 慣 湿 ㌔     }・官・r」μ・r @     」    .曹、’.引, @曽魯● ユ       尾外目唖場   唱L●曝       b       ●●◎嘱    3 X 望9 @幡 魎 曹 耐 二     のぐくアコ くゆのケ ぼひ 二三“一可i「蛎「一一  盈画 図5-2-9 北星女学校配置図 38:William MerTell Vories(1880pt   1964)。1905年滋賀県近江八幡に英  語教師として赴任したアメリカ人伝  道師。1911年近江ミッション(近江  基督教傳道圏)を設立し、建築活動  を同団の事業の一つとした。1941年  帰化し、一柳米来留と改姓。代表作   として、明治学院礼拝堂(1916)、神  戸女学院(1933)、旧下村邸(1932)、  大阪大丸百貨店(1923)など。  詳しくは、山形政昭『ウィリアム・  メレル・ヴ]hv一一リズの建築をめぐる  研究』(私家版、1993.2)ほか一連の  研究がある。 38:山形政昭『近江兄弟社を中心に残る  W.M.ヴォーリズの建築活動資料の調  査報告』 (日本建築学会東海大会梗  概集1976.10) 図5-2-10ヴォ・一リズ案教師館立面図     (図5-2一ユ0~13は陰画を反転し    た)(北星学平蔵) 一ユ78一 一 179 一 編鳳雛鍛灘獄欝欝難癖難驚難糠灘懸灘灘羅羅1雛鑛灘醗灘灘響 献二溺騰 1塾・: 讐 ’ 、 毎 ’ 箪 ㎡ 7’: 襲 懸   、 照 顧 叢緊 ’与」随出 、 P幽幽… 澱 ’”繍・、臓 ・騨一蕪 ・騰 麟翻曲醐闘■■■■■■■■■闘■騨騨剛開暉嗣一一}一… 40:1925年10月30、31日付北海タイムス   「雪国に相鷹しい新しい建築」でヒ   ンデルの自邸が紹介された。 41:大同生命札幌支社が1933年に竣工し  ている。 学校が1924年9月上棟式をあげ、翌年9月28日には竣工しているので、 北星女学校関係者がこの校舎を実際に見聞した上で、身近な設計者を選 んだとも考えられる。もちろん新聞40を通じて、ヒンデルについて多少 の知識は持ち合わせていたのだろう。またヴォーリズ側もこの期には、 活動の場を本道まで拡充する段階ではなかったのかもしれない41。仙台 に宮城女学校を設計するのが1917(大正6)年だが、この付近を北限とし ていたのだろうか。  教師館のヴォーリズ案は、スレート葺き、スタッコ仕上のスペイン・ コロニアルとも呼ぶべき外観デザインである(図5-2-10)。  平面は、54.5’X31.5’(単位は尺)の長方形平面に、表玄関(東側)と裏 玄関(北西側)の下屋を東西に付属する(図5-2-12)。1階は、rest(前室) とHallを中心に、北側RECEPTION ROOM(9’×15’)、(表)階段、南側LIV- ING ROOM(15’X25’)、 DINING ROOM(15’×19’)を配し、西側に6MATS(畳)、 4MATS(畳)、 LAUNDRY&BATHなどのサービス空間のほか、 KITCHEN(9’× 14’)、PANTRY、(裏)階段が並び、 LAUNDRYは裏玄関へ通じている。  2階は、北側の階段室、W.C.とBATHをU字型に囲むようにして、東西 をCHAMBER(12’×12.5’)、 STUDY(12.5’×19’)、南側をCHAMBER(9’X15’)、 STUDY(15’×15.5’)の組部屋を3組配し、3階は南側に組部屋1、北側を GUEST ROOM(12’×12.5’)、 BATH ROOMとし、東西は屋根窓付きのSTORAGE としている。  こうした平面処理は、後述するヒンデルの平面と酷似していることか ら、ヒンデルには学校側から、ヴォーリズ案を活かすよう強い要求があ ったとも考えられる。  寄宿舎(図5-2-11、一13)は、36’×55’(単位は尺)の伊野に、LAUNDRY、 SERVANTS ROOM(6MATS)、 MONOOK Iを含む12’×34’の下屋を北側に付属す るコンパクトな計画である。南側正面は、1階外壁を入造石張りとし、 屋根裏階にはパラディアン窓をみせる。  1階は、南端部に玄関ホール、左右のGETA ROO}(、トイレ、階段室を 置き、STUDY(15’×24’)、 RECEPTION ROOM(12’×15’)、 DINING ROOM(15’ X36’)、 K ITCHEN(15’×15’)、 MATR-ONS R顔8MATS)(寮母室8畳)および裏 階段が順に並ぶ。2、3階は、南側をLAVATORY、階段室、中央6尺幅の ホールをはさみ、ユ0畳(クローゼットも含め15’×15’)を東西に3っずつ 並べる。屋根裏階は、10畳とGAME ROOM OR DRYING ROOMと呼ぶ18’×35’ の大部屋とする計画であった。 .!“ 寸 .                    割 ゆゆ一書畑臼繭施聡4_一一禦覧.4 図5-2-11ヴォーリズ案寄宿舎立面図(北星学園蔵) キ \     ii ii    ・」うNl・↑しoρレPLtl’ 量 冒 置 1 ■ 璽 腫 匿 雪 葺 、 \三 図5-2-12 ヴォーリズ案教師館平面図(北野学園蔵) ・s’・・.潭『 . L 、 ㌧ 寸 冊 ¶   のらしこ 馴「. F 12・i‘・.†Loo ;t ’‘’P ’i’灘’  1-t一・” 、 ノセロロネ 1”1” : 謡1[ ‘ i r ! 〆  L   L -   P墨 4 r一門・ {葺瓢「  P! .一!  ,、                                   1 ’重。.醐’ C‘  ,   ,   ’ 「       酢   ・ aE葛‘曾; @ P     1 e 9 ・噺ノ }     , ・ rΨ p ム ’   ㌧ 、     り 殉 ず       , 一 ヤ   9 ’  , 瞥 @lo・甑亀’ @   P黶e‘6 1曾’ = 十 , ノ ,o・躍亀t’ f 8’8†’ prr一 e● @一      . C r D曇:ρ↓.. , 口 ; 書 .穆’漁1ρ・韻ン,. 一 』晒”,る‘ 9 ●奪’ 妻 . ‘ 〃 璽冷 ! ’,ρ @・ ыd � D鎧墜≒ o,旧庵.‘’こ  ε   一     .  1ゥ 卜P■ ? ・ り 」1 P》.1ギ ソ ’! ,.@   へ し ㌦ ・ 5     , ■ ウ 郎 . 砿・,  1   b Cやジ @ ’  ≒ご「 轣C山 R“ @覧「 ..ご憩、_. w謙、㌶  ・・〆喫・・み      ’》  、,2蜘幻 1・ J熟’ E謙搾ξ解・ ト 「   r     、 , レ 三 1 ! を i 1 1    t  ;r:!,  二{ 55 絜ゥ PLV」い匹〃翼  趨亀’f   t’ .の  哩  5弓     閣 Ψ     ・   = 一 〒 睾 .爵・三・1’ 一’Gワ 図5-2-13ヴォーリズ案寄宿舎平面図(北星学園蔵) ノ O ・ ● 己   四  一     9 1 γ 」 鞠 「 層 翌 」 御         げ ,         1   」 Z16 磁 i .tl r, . 鬼 PU鵡・■’,  241 一 180 一 一 181 一 ,凝一灘, 磯灘灘羅灘1灘鐡1織1灘欝騨響義・ 饗欝饗鐸捲轟…灘 ・ ・ 慰 ・ 藪 ・           難 駈         戴 難 、愛ニダー rsc. 聾’ J 郵 撚.懇懇畑’.膠 3戸 一 HOUSE |KEεPER 口BAT}三          ‘【 STORAGE 、o BED SITT工NG }!AID ’2b     ’o    z’o    ’ρ    ’z㊨ pa一 ZF BED 判 BATH J” BED SITTING   il sエTTエNGl pED II,   ;t SITTエNGゆ}“     さ1黛 12to o / ro      , 2.’ ’ θ fo にニごコニ{ i 網  △ 〈 〉 IF N 一 △ 平 KrTCI:EN BBEAKFAST DIN1NG LIV工NG 2re SPARE 署器 t会。 ,。 、’。 。。 、.b       ‘s・ro 図5-2-17女教師館復原平面図 図5-2-18女教師館南立面図 rf2so 図5-2-19女教師館南北断面図 1/250 一 182 一 難..鐵翻羅灘灘、灘灘鑛1灘灘雛鑛羅灘1鑛幽幽難i麺 “’ 刀f‘疹→一売 ’t’“: 女教師館  1941(昭和16)年太平洋戦争が勃発すると外人教師はアメリカへ帰国し、 教師館は一時音楽室として使用された。1945年10月25日米国進駐軍の接 収を受けたが、翌年5月9日に退去、1947年戦争終結と共に外人教師は 帰任し、再び住居として使用されたが、1961年中高校校舎新築工事に伴 い、教師館は旧位置から北側に引き家された42。以後、短期大学の研究 室、図書室およびクラブ室として使用されたが、昭和62年の創立100周 年の記:念事業の一環として、中庭整備と記念館の改修移転が話題となり、 60年記念館検討委員会が発足、平成元年9月~11月に移転改修工事が修 了し、旧位置よりさらに北側に移転し、外壁や建具の色も復原された。 1階ライラック色、2、3階からし色の外壁に、濃緑色の窓枠と薄い緑 色のサッシュの取り合わせば強烈で、誰いうことなく「カボチャ館」の愛 称がつけられている。  からし色と緑色の組合せはヒンデル好みとしても、!階の色使いには 他の作品に見られない明るい軽さがある・ライラック色は・学園を象徴 する花の色であることから、おそらく学園側から強い希望があったのだ ろう。創立者スミス女史は、札幌にライラックを伝えたことで知られる し、明治期の北4条旧校舎(西ユ丁目)にはライラックの垣根があったと 聞く。  修復士事前の同年6月には「さっぽろ・ふるさと文化百選」にも選出 され、1991年9月~10月に中庭整備工事を実施、あわせて記念館内部の 展示を終えて、11月6日「北星学園創立百年記念館」開館式が行なわれた。  女教師館については、設計図書などが残されていないこともあって、 1980年7月基本図作成を目的に実測調査を実施した。また、ハンス・ヒ ンデル提供の写真3葉が、竣工時の外観および居間、食堂などの内部に ついて概要を伝えてくれる。  図5-2-14は、西側から撮影の写真である。裏にζ“Wohn Haus der Ho・一 kusei Lehrerinen(Der Kamin ist nachtragl hOher gemacht!)”とヒン デルの書きつけがあり、竣工時の姿を伝えている。調査時の外観にほと んど一致するが、主棟西側に9×9尺程度の下屋が付属すること、屋根中 央のレンガ造集合煙突がかなり高くされ、さらに煙突から煙道用円筒が 10本程突出するなどの相違点がある。現在は3ヵ所に暖炉が残るが、当 初はもっと暖炉の数が多かったのかもしれない。  調査時には、1階外壁はモルタル塗り緑色系ペイント仕上げで腰付近 にわずかな反りがあり、2、3階はからし色の鉄板張りであった。鉄板 張りはヒンデル得意の手法で、現存する藤学園女学校のほか、大野邸な どの住宅やフランシスコ修道院などでも同様の仕上が見られる。  東西に大きな破風を見せる主屋根は急勾配(1:1)で、これに交叉して 大きな屋根窓が南北に張り出している。主屋根の裾は、他の作品に比べ 42:M.R.ブラウン女史(1953年から在職)  による。女史は1953年から5年間居  住した。 図5-2-14女教師館西側外観 183 一 駿,鞭繕鞭 虹 む 亀 或 塞 き レ M 融覇 羅讐駿.欝懸 蠣灘懇懇無難、葦購糠難灘奪灘綴織灘藩雄♂1身鱒   醸∫一1’11ilニゴ  z一;、)一,・.,:, ’t一〇 43:ハンス・ヒンデル提供の内部写真裏  書きによる。 図5-2-15女教師館居間 図5-2-16女教師賠居間・食:堂 ると控えめだが、緩勾配で広がっている。  西側破風には、中央引違い窓をはさみ左右に1辺約2尺(60cm)の菱形 窓がみられる。3階納戸への採光用小窓である。ヒンデル好みの壁面ア クセントで、同様な意匠(時に円形、八角形)は他の作品にも必ずとい ってよいほど使われている。  1階南側、居間・食堂、東西面1、2階の張出し窓(東側1階は玄関) は、旧邸(1925年)、山崎邸(同)など他の住宅作品のサロンや居間でも使 われている。採光量を考慮した以上に、ヒンデルの好んだ空間モティー フの一つといえよう。  北側は、南側張出し窓に対応するかのように、2つの階段室が4.5尺 (1.36m)突出する。両階段室の間に並ぶ窓は、上げ下げ窓で、好んで使 う引違い窓でないのは、ユーテリティー部分だからかもしれない。  山回りの処理で興味深いのは、2重窓の外側窓台の両端近くに彫られ た溝である。吹き込んだ雨水などの排出か、結露水などの処理用の工夫 と考えられるが、内側の敷居付近に同様の溝や穴があけられている。場 所によって、細工がまちまちであるのは、大工が意味を理解せずに形態 だけを仕上げたせいかもしれない。実際にどれほどの効果があったか疑 問であるが、細かな部分にまでゆき届いた配慮をみせたヒンデルの一面 を示すものとして興味深い。  次に内部をみてみよう。1階東側張出し部は玄関であるが、ガラス引 違い戸が1重であることと、ホール中央に下がり壁が下りていることな どから、ここにさらに引違い戸が建てこまれ、風除室的な造りになって いたのかもしれない。玄関北側室の用途は不明であるが、1954年から5 年間在職したM.R.ブラウン女史の時代には、予備室であったという。現 在は、スミス女史愛用の机やスタンドが展示されている。南側は、他の 住宅作品の平面構成から考えると、応接室として使われたものであろう。 玄関ホールと引き戸で仕切られた廊下の北側は、2っの階段室とそれら にはさまれたランドリーらしき空間とが並ぶ。  廊下南側は、張出窓を持つ食堂Speisezimmer43、居間Living-Room43 である。壁は建具の唐戸と同意匠で鴨居の高さ(実測値2,172㎜)まで板 張りとし上の小壁と天井は漆喰仕上である。室内写真(図5-2-15、一16) によれば、両室間の6尺(1.8m)幅の中の間の北側に暖炉が設置され、南 側にはアップライトピアノが収められていた。両室いずれ側にも袖壁内 に引き込む板戸を建てこんでいたが、修理工事では復原されていない。  南側袖壁のピアノ用の小さな壁灯は省略されているが、食堂の変形楕 円状の浅いメダイオンから吊られた2っのチェーンペンダントは旧状に あわせて復原されている。居間、食堂の造り付け書棚と戸棚は当初から のものである。  食堂の東側は、庭側へ二重戸を建てこむ朝食室Breakfas t Room‘2、二 一 184 一 編灘灘灘懸灘灘雛懇難綴雛購灘購灘灘灘雛i灘饗講i難難欝欝 宿 望1’翻  ㍗餌『d “““”’ ,rt; 出し窓を持つ台所が並ぶ・台所北側の小部屋は、廊下と4.5畳程度の部 屋だったと考えられるが、裏玄関的な付属屋に通じていたらしい。  2階は、北側の階段室、浴室、便所、廊下をU型に囲むように、居間 Sitting Room” 2と寝室Bed Room4zの組部屋が4組配されている。東西 の張出し窓付き居間には、レンガ造暖炉が現存する。南側の2っの居間 には明確な痕跡は確認されなかったが、廊下側隅部にあったとも考えら れる。  3階は、南側中央居間Sitting Roomと寝室Bed Roomの組部屋1っを中 心に、ブラウン女史の時代には、西側は家政婦の寝室、居間の東出は若 いメイド室、東側の大きな空間は物置として使われたといゲ2。  高さ関係の実測値は、1階床高GLより220㎜、1階階高3,432㎜(11.3 尺)、廊下天井高3,172㎜(10.5尺)、居間で3,121㎜、2階階高2,660㎜(8, 8尺)、天井高2,400㎜(8尺)、3階天井高2,426㎜(8尺)(東西室では2,592 ㎜)である。1階床高が異常に低いのは引き家が原因で、当初は2~3尺 (60~90cm)あげて、床下換気口も備えていた。  小屋裏には北側浴室上部付近に、鉄製水槽が遺存していた。約52 2の 貯水が可能44で、井戸から揚水し水圧を上げて給水したのであろう。  小屋構造は和小屋である。教師館程度の住宅の場合、大工の裁:量にま かされたのかもしれないが、ヒンデルがむしろ積極的に伝統的構造を採 用したとも考えられる。  小屋束には番付が墨書され、東西方向は、端部を除き東側から三~十 八(四、七、十三は欠)で、小屋組は三~十まで6、6、4、4、3尺間隔に 組まれ、十番を中心に対称に配置されている。南北方向は、南から「ろ」 ~「る」(「は」欠)で、「と」を中心に左右3、4、4.5、4.5尺間隔で対称的に 母屋を架けていた。  部材寸法は、棟木、母屋約118×119(単位は㎜m、約4寸角)、束111~ 119×117、振止99~106×約22、軒桁112~118×約233、陸梁陸続118× 233、棟木約60×47@1.5尺と実測されている。 5-2-3=北星女学校寄宿舎  校地の南西側にあった寄宿舎は、女教師館と同じ1926(大正15)年7月 10日の定礎式を経て、翌1927年1月15日落成移転献堂式を挙げた。1964 (昭和39)年に取り壊されている。  建物関連資料として、以下に掲げるものが北星学園に保存されている・ 1北星ユ926No 2,北星女学校寄宿舎設計圖 壱階平面図1:100  設計マヅクス.ヒンデル.建築設計所㊥r札幌市東光園円イ家建築家ヒンデル」 21926北星No3.二二女学校寄宿舎設計圖 二階平面図1:IOO  設計マックス.ヒンデル.建築設計所㊥r札幌市東光園円イ家建築家ヒンデル」 31926北星No 4.北星女学校寄宿舎設計図 三階平面図ユ:100  設計マックス.ヒンデル.建築設計所㊥「札幌市東光園円イ家建築家ヒンデル」 4北星ユ926No9.北星女学校寄宿舎設計圖 断面図ユ:50 44:外形寸法で765x975x845㎜ 一 185 一 鰭幽騰・ k 蕪 鍵 鯵 翫 麹 糠 遭難… ’ sc.gww驚灘購鷲雛灘懇懇鷺懇懇灘講灘懸瀞糠囎爆鞭糞‘舳’お鞭備                ,di niみ 幽T 『野離熱熱艶㌧e“ 、 , 翌 , ~ 出 図5-2-20寄宿舎西側外観中央部     (1974年撮影)  設計マックス.ヒンデル.建築設計所㊥「札幌市東光園円イ家建築家ヒン  デル」 5ユ926北星NolO北星女学校寄宿舎設計圖 断面図ユ:50  設計ヒンデル建築設計部㊥「札幌市東光園円イ家建築家ヒンデル」 61926.北星No 11。北星女学校寄宿舎設計圖 断面ユ:50  設計ヒンデル建築設計所㊥「札幌市東光園円イ家建築家ヒンデル」 7ユ926北星No 13北星女学校寄宿舎設計圖 正面1:100  設計ヒンデル建築設計部㊥「札幌市東光園円イ家建築家ヒンデル」 81926.北星No 14:ユ5.三星女学校寄宿舎設計圖 側面及背面ユ:ユ00  設計ヒンデル建築設計部㊥「札幌市東光園円イ家建築家ヒンデル」 9ユ926.No.北星1.一2.北星女学校寄宿舎設計図 地形伏図及梁伏図ユ:100  ㊥「札幌市東光園円イ家建築家ヒンデル」 10ユ926.北星No3.一4,北星女学校寄宿舎設計図 地形伏図及梁伏図ユ:ユ00  設計マックス.ヒンデル建築設計所 ユ1 1926.No.北星4.北星女学校寄宿舎設計図 断面1:50  ㊥「札幌市東光園円イ家建築家ヒンデル」 ユ21926No北星ユ6一ユ等星女学校寄宿舎設計図 筋違配置基準図ユ:40  設計㊥「札幌市東光園円イ家建築家ヒンデル」 ユ3ユ926No北星ユ6-2北星女学校寄宿舎設計図 階段詳細ユ:20  設計㊥「札幌市東光園円イ家建築家ヒンデル」 14No早早ユ6-3 男星女学校寄宿舎設計図 各部詳細ユ;20  1926設計㊥「札幌市東光園円イ家建築家ヒンデル」 ユ5No北口16-4.北星女学校寄宿舎設計図耐火建築部詳細ユ:20  ㊥「札幌市東光園円イ家建築家ヒンデル」 16 HOKUSEI GIRLS SCHooL, PlmuS ION SAPPORO 2ND & 3RD FLooR P LAN  Sept。13 ユ926 ユ:ユ00  PIPING(?) CONSULTING ENGIN:EER 1〔町  竣工建物関連の資料がほとんど残らないので、詳しい検証はできない が、現存旧写真などと較べると、図面と実際に建設されたものとでは、 細部でかなり異なっているようである。計画案ではコリント風の大オー ダーに支持された三角ペディメント(破風)をいただく中央棟をわずかに 突出させ、左右対象に翼棟をのばしている。左右棟それぞれに玄関を設 置し、玄関真上の3階に同形の屋根窓をみせている。屋根窓は、中央に 引違いの連窓をみせる差し掛け屋根と左右のベル型ペディメントをのせ た窓を組み合わせた意匠であった(図5-2-22)。  結局中央棟部分と南棟のみが実現され、中央棟を強調した正面意匠も、 ペディメント中央上部の紐飾りや4ヵ所の引違い窓上下の曲線飾りが、 半円アーチの小窓を3っ並べる簡素な意匠に変更されている。さらにオ ーダーで垂直に分節された意匠も、南棟と同じスタイルの水平小庇で1、 2階を分節する意匠に変更された(図5-2-21)。  背面西面には、中央やや北寄りに八角形の三辺を張出した階段室塔が 突出し、北側中央棟にあたる部分では3階の円窓をつけた切妻小破風と その下の中央棟のほぼ幅一杯36尺、床面から7.15尺(2,145㎜)の高さの 大きな開口部が目を引く。洗濯室前の廊下を乾燥室として使用するため の工夫であった。  中央棟のみ「耐火建築部」(資料15による)、つまりRCと煉瓦の混構造 とする指示があり、断面図には同構造の区分指示などが記載されている。 一’}   ¶ 一 一一  7} 似Gマ}『一〒 @  ‘ 0        70 ・一斗. 一・ w ら一一一一一一一一  一一一_  _ 一 調1∫ご二 卜、 一 ・〔1コ 葦 P J 酷 ㌔ } ,K ,一一 H拝忙_=一二二三 藍轟一㍉ 一. P二∴土: 〔コ蝕  噛.ρ  環、, 、費   u_」拶謁ニー;ひ’   一 幽 図5-2-22寄宿舎計画案正面図(資料7)(北星学園蔵) コ三 一 、 {”5●切ノ「齢鱒 虎   P =㌦  一     .          引 -∴ギ「三 玉。  一    ,   一,ど.1!   、   1 一 添 ジ呪   「      一 一 「 ,富鴨 マ愚四.・.{蒲一三 口;〔1 圓 鱒 口 1 〔 1   巳 囲 圏 凹     臼 - lL二 @1    「   ↑v±L止里.   __  .一凱脚 、欝憎憎四配・   1畠  丁  唱 �C辻_轟 ㌦一き第 rニ=====_距離;;” @  「剛■■融                               r咽一・噛馳 蓋 }…一一一ト一り   勢・一 図5-2-21寄宿舎東側外観     (『北星学園目でみる100年18     87-1987S 〉     ’C,『 @轟 1’こココ   9 u =コ国口冒 t  { 1  狸 ・『 f   ヨ __げ=蕩 一凸卜一一一■脚Ψ一「F   願   鱒・;   い一 、  ・; @ 一中㌔      ’ Q          ,  _           〔】 図5-2-23寄宿舎側面、背面設計図(資料8)(北星学園蔵) 馳・ ・)L4…f轡れキお日日商圏   t情平面ロ   も尺蚤←・し    It 瓢耀魎 竃 ♪ ~ ,         6 ;     襯     ち ㌔ ‘ 」 し } 奮   書   醒 O 藝 、 - 憶 r ’ 禰 広     噂 乳 過 脅       ・ ,   ● .   含 隔   量 .   も 略 へ     ’ 辱   ト’ ( ’ ¶ 、     5 吟     一 馬 一 摩 1   、 σ 凱   や       つ   贋       ∵ 姻 6 鷲 ψ ぜ 一 , ’ 雌 亀 ⊆ ’ 漕 吻     ゐ 畠 ‘ 「 、 用 ノ 「 ● 5 ? 桝 い 軒   も     辱   昼       冨 ● ÷ 、 講 騨 J J   噌 猛 .     ‘       Q ρ 腎 「 、 雪 ■ 鱒 沖   電   鰯 暉 噛 鳳 乳 ● 弓         」 伽 ㌻ 、 ρ 葱 図5-2-24寄宿舎1階平面図(資料1)(左)(北星学堅蔵) 図5-2-25寄宿舎2階平面図(資料2)(右上)(同上) 図5-2-26寄宿舎3階平面図(資料3)(右下)(同上) SSt9翼4卿 ”c d ・と4薫炉÷毒塁塞†咽   二丁亭匂剛   葡ぺで魁む    一廊十       ,  }“樹墜鞍ひ・               チロ      [       \ごノ 凋。・ 1   一  一『 @  竃 竃 ,◆   ◎フ 言 亨ξ ~ 6蓼     奪 妙 3 殉  用 ’ 言 二り引 .悔. 一                 一 ‘辱 一   一 冒 ’ 一 186 一 一 187 一 薯欝雛羅購灘灘灘灘鑛・灘難灘難灘灘灘懸灘1難i懸雛幽幽灘繋騨戦薫灘欝饗響懲葦饗慰物慰撫灘饗饗顔出肇励磁議i灘懸隔藤i幾!灘欝}饗1酒 」 } 嘉 趣 く 歪 鰍t 一 縫 - 懸羅・遠?蟹i灘難難雛羅難懇懇獲1離離欝欝離離鱗 外装は、女教師館や後の校舎と同様、鉄板張りとされた。  内部平面は当初から左右対称を意識したものとみえ、平面図は片側棟 のみ記入されている。設計図では、北棟部分が記載されているが、実際 には南棟部分が完成した。平面に関してはこれらの設計図類以外にはほ とんど資料が残らないので、ここでは平面図で南北を読みかえながら、 平面計画の概要について概略ふれておきたい。  西面中央やや北寄りに八角形の三辺を張出した階段室が付属している。  中央棟の西面は軒を中央で折り上げた小さなペディメントとしている。 計画案では、中央棟の屋根が一段高くなっているが、実際には飾り棟を 揃えているので、単調な印象を与える。  中央棟1階は、39×21.5尺(外形寸法)の厨房と西側6尺幅の「渡り廊 下」で構成され、中央棟の南に93尺×36尺の翼棟をのばし、二棟の西側 に36尺×12尺の付属物置棟を接続していた。  翼棟は、東側「玄関ポーチ」を入ると「コンクリート土間」(12×3尺) と玄関ホール(12×9尺)。玄関ホールには下足箱と外套掛けらしきもの が記入されている。玄関ホールの西側に階段ホール(18×12尺)が続き、 南側に6尺幅の中廊下、北側に食堂(30×21尺)、東南側に「応接間」(12 ×12尺)、西側に階段室を配している。食堂の西側6尺幅の位置に柱(6 尺間隔)を配置して通路空間とし、北側端の中央棟境の廊下と結んでい る。  階段ホール境に両開き戸を建てこんだ中廊下の西側には、続き間(12 ×12尺、9×12尺)と独立室(9×15尺)の「舎監室」3室が並び、南端に「生 徒室」(12×15尺、押入含む)を置いた。廊下の東側は、「応接間」(12×!5 尺(押入含む)、12×12尺)、「客間」(12×15尺、押入含む)である。玄関 ホール脇の応接間には、棚、床、押入を構え、客間は床、棚を北面に、 南面には押入、棚、押入を並べた。資料14の各部詳細には、押入と棚、 床と違い棚の詳細などがみられ、各図に印の見られる所員「楽間」によ る補助が大いにあったと思われる。  食堂の西側、押入、戸棚を介して並ぶ続き間の「病室」3室(北から9× 12尺2室、12×12尺)は、階段室北側の前室から出入りし、さらに階段踊 り場下には便所を配置した。  2階中央棟は、中央に「浴場」、南北に洗面所を配置し、浴場の洗い場 の東側「浴槽」(内法で11×6.1尺)寄りに集合煙突と、地下のボイラー室 から3階まで結ぶ「エレベーター」が2基みられる。おそらく地下ボイ ラー室から石炭を運ぶためのリフト装置であろう。  翼棟2階は、生徒寄宿部分である。階段室ホールの西側に「生徒室」 (12×15尺)、南北両側の中廊下境に両開き戸を建てこんでいる。南側は、 中廊下をはさんで両側に3室ずつ「生徒室」(12×15尺)を、北側は、西側 「生徒室」2室と便所、東側「生徒室」と「学生監室」(9×12尺、12×12 尺の続き間)を並べ・中廊下で中央塔の洗面所と通じている。  中央棟3階は、中央東寄りに「水槽」、煙突、「エレベーター」を並べ、 両側に「洗濯場」と「屋根裏物置」を、西側に「廊下(乾燥場)」を配置する。  翼棟3階は、「音楽室」と「広間」からなり、階段室東側に「音楽室」 6室(北から6×15、12×15、6×15、6×15、12×12、6×9尺)、南側に 「広間」(42×18尺)、北側に「乾燥室」(12×18尺)を配置し、西側小屋裏 は、物置として利用することが示されている。  結局北側部分には増築されなかったため、対称形の外観は日の目をみ なかったし、内外のデザインそれ自身も、特に眼を引くような秀作とは 言い難いが、外壁の鉄板張り仕上1菰大屋根や小庇などの裾広がりのス タイル、階段室塔の張出し部分や3階音楽室採光用屋根窓のベル型屋根 などにヒンデル好みが表現され、また中央煙突座上の装飾的な避雷針の 扱いなどは、ほほえましい印象さえ受けるものであった。 5-2-4;北星女学校校舎  1927年1月の寄宿舎落成移転献堂式終了後、翌1928年12月28日校舎の 移転建築が許可され、1929年5月28日の起工式、8月14日の上棟式を経 て、12月2日工事終了式が行われた。同月24日工事竣工届並びに学校移 転届を終え、1930年1月22日献堂式を挙げている。延床面積1,303坪、 工事費39万日余、小中学校では初めてのスチーム暖房を採用し、水洗便 所も設置されていた。正面玄関の植樹や庭園は、宮部金吾博士の造園計 画によっだ5。  竣工した校舎は、東側正面中央3階上に大きなペディメントをみせ、 中央玄関部はバルコニー付きの半円形ポーチを張出していた。破風のテ インパヌムには上部に三星の星型校章が、下に「北星女学校」の名称がレ タリングされていた。半円ポーチはのち改造され(1948年頃の写真では まだ確認される)、1950年代には三角ペディメントの玄関ポーチに変更 されだ6。外壁全体は、藤女学校や女教師館同様鉄板葺き仕上げとされ た。 正面各階の一般窓は縦長の引違い欄間付きの引違い窓としていたが、 主棟西面は欄間付き引違い窓2連窓、北西棟運動場部は引違い窓を3段 鴨 。 鯉.       つ ;璽 烽ク’峯乱〒ぎ嵐自声振噸蝋冒』’∠し. 図5-2-27北星女学校(左から寄宿舎、女教師館、校舎)(北星学園蔵) 一 188 一一 一 189 一 騒騒灘灘雛灘灘灘羅灘1轟轟懸懸1難雛灘購欝難警灘i灘欝デ 灘 盈疎賢卵 謄 .:“高≠rF ’へ鎌打鍵浄. ∂’ ≒’・ 図5-2-28北星女学校校舎(『北星学園目    でみる100年1887-1987』) 45:『北星学園八十年誌稿』(1967.10.1) 46:『北星学園目で見る100年 1887-19  87』(1987年)掲載「大学開学当時の  南5条校地仮校舎(昭和37年)」写真  による。 ’幽Y鷹■騨幽謝■■■■■■■■闘剛■■■一脚騨騨’『騨一一一一覧 薯 臥 占 爵 積み上げた縦長窓を配していた。  外観写真の多くが南東側からの撮影であるため、他の面についてはあ まり明らかではないが、南面は2階まで葺きおろした大きな寄棟屋根に 3階に相当する屋根窓を突き出し、さらに屋根窓中央に三角破風を付け、 下には大屋根の軒先を突き破るように立ち上げた張出し部をみせるなど、 複雑な構成をとっている。  中間階に付く張出し部中央の半円形のファンライト付き窓は、ロマネ スク建築への傾倒がみられるヒンデルが多用した意匠の一つでもあった。 1階を4連の櫛形アーチとし、東側2連は吹き放ち、西側2連はアーチ 内を引違い窓と小壁で埋めていた。  1963(昭和38)年12月4日、校舎の2階北西側棟のアトリエ付近から出 火し、3階の読書室や教室群など1,200㎡を焼失している。  校舎の1929年新築工事実施までには、何度か設計変更があったことは 推測されるが、敷地東側の西17丁目道路に正面を向ける構成は共通して いる。学園に残されていた設計図書は、大きく3っの設計案に分類され るが、一つは左右対称形とした逆T字形平面案(A案)、二つめは実施 案に近い逆L字平面案(B案)、三つめは実施案に近いと考えられるもの (C案)である。  A案に関しては、他の2案に比べ14枚と一番多く設計図書が残されて いる。設計年月日の記載は無いが、配置図には寄宿舎(南半分)と教師館 が既存建物として表示されている。両建物がほぼ竣工するのは1926年12 月21日、寄宿舎移転献堂式は1927年1月15日であり、B案以前と考えら れるので、1927年ごろの計画であろう。  B案は、1928年3月付けの図面、平面、立面、断面図の4枚が残され ている。図面には、1928.一33.一1~一4.の一連番号が付記されている。  C案は、“Max Hinder, April 1928”のサイン入りA4版セクション ペーパーに色鉛筆で書いたラフスケッチから始められたらしい。ヒンデ ルは、1927年10月に横浜市へ移転しているが、翌年3月にはB案の設計 が終わり、さらに4月のスケッチ案に基づき、ほぼ!ヵ月ほどで詳細図 等も含めてまとめられたようである。この案の平面図は保存されていな いが、立面図や詳細図および『三星学園百年史 資料編』(1990)中の校 舎見取図などから平面の概略は推測できる。  校舎の起工式は、前述のように1929年5月28日に行われている。設計 からほぼ1年の検討期間があるから、途中の変更等もかなりあったと思 われる。さらに『北星学園八十年史稿』には、起工式後、一部設計変更 のため、許可申請をしたところ6月25日、同月18日付学教1606号指令で 認可されたとの記述が見られるし、さらに8月14日の上棟式後、設計変 更を10月14日付三教第2549号で認可を受けている。 A案について  さて、校舎の設計過程をA案から順にみていこう。A案関連図書は、 次の14枚である・ ユ三星学校々舎新築設計図 建物配置図1:300 2北星女学校々舎設計図 壱階平面図1;ユ00 3首星女学校々舎設計図 弐階平面図ユ:100 4二言女学校々舎設計図 参階平面図ユ:ユ00 5北星女学校々舎新築設計図 正面図ユ:ユ00設計ヒンデル建築事務所 6北星女学校:々舎新築設計図 背面図1:100設計ヒンデル建築事務所 7北山女学校々舎新築設計図 南及北側面図1:100設計ヒンデル建築事務所 8三星女学校々舎新築設計図 小屋梁伏図・参階床梁及屋内運動場小屋梁配置図  ユ:100設計ヒンデル建築事務所 9北星女学校々舎新築設計図 屋根伏図・小屋伏図ユ:ユ00設計ヒンデル建築事  務所 10北星女学校々舎新築設計図 A-B断面ユ:50設計ヒンデル建築事務所 11斗星女学校々舎新築設計図 C-D断面1:50設計ヒンデル建築事務所 ユ2北星女学校々舎新築設計図 E-F断面1:50設計ヒンデル建築事:務所 13六二女学校々舎新築設計図 F-G断面ユ:50設計ヒンデル建築事務所 ユ4北星女学校々舎設計図 鉄筋床版平面図他  A案は、木造3階建て一部地階付き。二棟の半地下部分のみ鉄筋コン クリート造としている。中央に時計塔をのせた二棟部から、幅60尺奥行 12尺分を突出させて、南北を翼部とする。二棟の屋根は8寸勾配、3階 屋根窓および翼部の屋根はヒンデル得意の矩勾配で、翼部の屋根は、南 北両端で2階まで、中央部昇降口側で1階まで葺きおろし、小屋裏階の 妻部には半円アーチのファンライト付き2連窓をみせている。時計回や 翼部の屋根の扱いなど、すでに竣工している藤高等女学校の南側立面と 非常に良く似ている。背面に延びる付属棟は5寸勾配の屋根とし、2階 の運動場上部には大きな釣り鐘状の丸屋根をつけた換気塔をみせている (図5-2-29、30)。  1階床面積457.5坪、2階433.5坪、3階226坪、延づ面積1,117坪(3,686 ㎡)の規模の計画で、1階は、中央事務室をはさんで左右に「昇降口」が っき、北側2教室、南側事務室、特別教室3室、中央廊下をはさんで北 側職員室、宿直室、南側特別教室3室が並び、廊下南北端に昇降口と便 所を配置している。1階床高は、中央廊下で地盤面より6尺高くし、南 側廊下はさらに2尺床高をあげているため、昇降口にはいずれも階段室 を付属する。  一棟中央背面には棟と直角に従棟がつき、半階分4.5尺下がって、中 央に「食堂」と「割烹室」が並び、その南側に東から「作法室」「応接室」「階 段室」「食事作法室」「物置」、北側に「洗面場」「着換室」「履物置場」「音楽自 習室」(8室)が並ぶ。  2階は、主棟東側南北に各2教室(30×24尺)、西側に北和室(51×21 尺)と南和室(3Q×21尺)を置く。従棟は講壇(奥行12尺)をはさんで講堂 (48×54尺)と「運動場」(48×72尺)である。 一 190 一 一 191 一 1灘灘灘鑛i灘鑛懸i蒙灘灘灘羅一顧i灘間口1 響欝暴露猛鳥 蕪 閣 畿 る 熱 瞥 嘉 鍵 ゼ 算 翻 鋤 急 蜂 図5-2-29A案正面図(資料A-5)(北星学園蔵) 図5-2-31.A案1階平面図(資料A-2)(北星学三蔵) 図5-2-30A案側面図(資料A-7)(北海学園蔵) 図5-2-32A案2階平面図僚料A-3)(北星学園蔵) l i / 図5-2-33A案3階平面図(資料A-4)(昏晦学園蔵) 3階は中央に2教室(30×21尺)、北側に3教室(30×21、33×21、24×27 尺)、南側に裁縫教室2室を配し、西側従棟は「図書閲覧室」(48×51尺) としている。  階高は、主犯中央部で地階9.0尺、1階12.0尺、2階11.O尺、3階(陸 梁上端まで)12.0尺、翼部では地階12.O尺、1階10.0尺、2階11.O尺、3 階(同上)12.0尺・従棟部1階10・5尺、2階運動場部17.O尺、3階(同上> 11.6尺としている。  小屋組は、クイーンポストトラスで、棟瓦下で二重梁と陸(小屋梁)を 釣ボールト(φ1寸)で緊結し、合掌尻を踏止めボールト(φ3/4寸)で結ん でいる。構造材寸法は以下の通りである。 合掌 母屋 棟木 隅棟 雛束 対束 方杖 挾士官 野地垂木 O.7XO.4 0.5×O.35 0.5×O.35 0.5XO.4 0.7XO.4 0.7XO.4 0.4XO.4 0.4XO.2 0.2XO.2 小屋梁 二重梁 方形要梁 火打星 野止め 敷桁 桁 1.OXO.4 1.OXO.4 LOXO.4 0.6XO.4 0.5×O.35 0.6XO.4 0.5XO.4 (寸法は尺) B案について  B案に関しては以下の4枚の図面が残されている。逆L型平面の基本 形は、実施案に近いC案に踏襲されていくと考えられるが、塔屋が無い 点や正面性の薄い点をC案では中央部の正面性を強調するデザインへと 変更することになる。 ユ1928.一33.一1.札幌市北星女学校々舎設計図 壱階、地下室平面図1:ユ00  昭和三年三月 21928.一33.一2.札幌市弟嫁女学校々舎設計図 弐階、参階平面図1:ユ00  昭和三年三月 31928.一33.一3.札幌市北星女学校々舎設計図 姿図.1:ユOO昭和三年三A 4ユ928.一33.一4.札幌市北星女学校々舎設計図 断面図1:100昭和三年三月  東側正面の北側に三角破風の屋根をみせ、南側の翼棟には寄棟屋根、 主棟には切妻屋根をかける。主棟3階北面はヒンデル流の三角破風をみ せ、いずれの破風にも藤女学校にみられるような円窓を配している。  西側に延びる従棟の屋根は寄棟で、釣鐘型屋根をかけた換気塔を2基 載せるが、後の聖母病院(1932年)の塔屋などに共通してみられるモチー フであった。西側翼棟の寄棟屋根には地下のボイラー室用の煙突を立ち 上げている。いずれの屋根の裾もヒンデル流のフレアード屋根とし・A 案に類似の棟端飾りをつけた屋根は、脚高を増刷、主棟、強剛と屋根窓 というようにわずかずつ低くして、外観にアクセントをつけている・  1階北側の連続アーチで支えられた吹き放ちの生徒用玄関ポーチが・ 単調な外観に軽やかさを与えており、A案のような左右対称の固さがと れているものの、全体にはヒンデルらしさを十分発揮できない外観とな 一 192 一 一 193 一 ’難 .懸・・雛難,譲 熟懇鑛灘欝懸購難無難灘1鐵灘1欝難無難叢叢難灘難灘1難灘灘鐵鑛i灘畿難1鐡懸離幽幽幽幽騨翻一山ll騨 ,・・㌧を騨    ・t・一、.’e   ・、騨∬ 蕊 婁 ~ 亀 嬉 ゼ 溝 囲 ポ 窺 . 畜 観 無 晒 奪 オ 栂 餐 っている(図5-2-34)。  平面は、150×51尺の主棟の南端に36×90尺の翼棟を東西に張出し、 北側西に向けて48×108尺の従棟を逆L型に付属している(図5-2-35)。  1階は、北側玄関ポーチに続くホール(18×48尺)の東側に「雨具置場」 を配置し、ホールに続く廊下(幅9尺)の両側に「理化学実験室」等「特別 教室」を10室並べ、南側翼棟は職員用の入口を中心に「職員室」(24×30 尺)、「宿直室」(12×18尺)、「事務室」(同)4室など管理諸室が並ぶ。  北西側従棟は、主棟部の床より5尺下がるスキップフロアとしている。 この構成はA案からすでに発想されており、藤女学校などにもみられる ヒンデル得意の空間手法であった。ここでは2階に天井高の高い屋内運 動場を得るための手段ともなっている。  従tw 1階に「割烹実習室」「音楽自習室」「大食堂」が配されている点はA 案と同様であるが、ほかに「水浴室」(シャワー室か)が設けられている。  2階は教室群で、南翼棟に3室(いずれも24×30尺)、主導廊下両側に 6室(21×30尺)、北端東側に「作法教室」(21×60尺)が並ぶ。主棟から 二棟にかけて「大講堂」(48×54尺)、中央ステージ(30×12尺)と左右前室 (9×12尺)、「屋内運動場」(48×72尺)が並ぶ構成はA案と同一である。 3階も2階同様南翼棟:に3室、主棟廊下両側に6室(21×30尺、うちひと つは21×42尺)の教室群で占められ、北端部は「図書閲覧室」(48×39尺一・ 部gx12尺は小屋裏)としている。  南開棟には地下室を置き、「暖房汽罐室」(36×60尺)と廊下、「文書庫」 (36×24尺)を予定していた。       み.一 一一・一      L @     び\  1 @        一日日王ヨ 一田顛  一  _ 一                                                   }    咽.∈Eビ日E臼ヨ卍巳巳』hご 日四丁 1’          _虹        加四一峨 C    辮撫隅一・ 獅磐 @  ・一,舜一喜\鯛 @               \ @         ’5丁了・r’一n r 1一’』 喧  芭『 @一’「F『} ’/華遊      貝   ,鋳、壱型 P    ‘.._         尺          \ ゚   巳旦日{照日巳巳{ヨ日   目白ピー臼’自rE丑∋曹自   一二ニ茜 夢L刷 .日一 i墾碧器器野i         l ゴ\    貰“ 」L趣L ヤ ー に  ’‘9 ’♂ρ  7  P{繍ひr, 1 ニー.身 解 囎 ’●’」 ’“色     暫 . ’θ∂.   , _    負2磯‘ 十崩9 o冨ク        _ 皿 ■]二_ _劃に乙 レ . 1 .孤dL , 1  1u曹 鴨                 ● 沖一工  : ≧ 、 , 1 、 碁 「 ’ 幽饅 齢 . 」質噌し 門 」【彼 . 砲」{   脅!’ C ・       一÷ @    もみミ 1 噺. ‘ 一  _隅⊥ 黶@     ’‘夢 ,r     J倶。 ネ 伽’.. ノ♂. i    l       l・L    ヴ9   んノ醐    しア L ・認・十{・ l一.. s ) ミ 亨 ,.re’ ざ 図5-2-34B案立面図(資料B-3)(北星学園蔵) 用   し ヒ ili・e suzae AL 細ぜ 臨 飽 p   一 、 ・ [31! ’ノfr 査4 . vt4 一一一 ’さ   7 ー ミ F - F 一 , 卜 . さ 一 - 、 乱 F - 1 一 ! 一 一 t.一 1ts}一 tr i      ら 焼亡1一 一一 g・’ rliii!.[ ノ至ny rs b璽 :A Y, l lr’=∵ ”∵覧り 鐙篤出:::㎜L出:圃 “牒,冊溜副三搬1  ノ!.陸黛  M.”r”“ 需器r譜1 ,{距灘 1マ鷲艦 C案について  C案については、1928年4月のラフスケッチ(図5-2-36)をはじめとし て以下の8葉の図面が保存されている。平面図関係は残されていないが、 『北野学園百年史 資料編』中の「南五条所在北野女学校当時校舎図」 や立面、詳細図等から判断すると、基本的にはB案の逆L型平面を踏襲 しながら実施平面が決定されたと考えられる。断面図によると主棟の地 階と1階のみRC造とする計画であった。  1H。kusei-Gakko(正面図スケッチ)Max Hinder. April 1928  2北星女学校校舎新築設計圖見取其他図1:600  3北星女学校校舎新築設計配置並見取図ユ:600  4北星女学校々舎設計図小屋及参階梁伏図ユ:100横濱市ヒンデル建築事  務所設計  5北星女学校々舎設計図25.一3.姿図ユ:200昭和参年五月横濱』市ヒンデ  ル建築事務所設計 6品詞女学校々舎設計図25.一4.A.一B.断面ユ:50昭和参年五月横濱  市ヒンデル建築事務所設計  7北星女学校々舎設計図C.一D.断面図1:50 昭和参年五月横濱市ヒン  デル建築事務所設計  8無題 断面図1:20 図5-2-36正面図スケッチ(資料C-1)(北星学園蔵) - 燈 竃  ”” t’ 擢職 1‘t 冬 , ’ 、 } 、 , 斗 亀 、 十 喝 、 し ノOg    一し一     ’”  ノ曜、一三_■ “山O 伽 ’μμ融昭㍑吟titvq  一帽”一{     ’ ~紹槽蟹サ mui pa一.ab 1“.一x v,tut一 !購刺ユ ”ITi1’Tll ii・ ( コ ヒ バ ロ と 訓 駆 噺 、演糠 篠難旺〔⊥」∫, 図5-2-35B案平面図(北星学船蔵) りの}ロゆ £二L J幅_一L 隠留H、買一↓- . 暢 隔 、 ・ ↓ 噂 亀 ー ユ ℃       の ヒ ド   二 . [ コ   し メ   ロ 馨 r . 叶 艇 . 袖 . 州 覗 ㌣ , 『 , . 「 蓬 ,そ n 撮 し .__/叫湾ニニ臨.副浬ご=・拡rば虫∫ ・       ミ ー ・ ミ 邑 ミ ー ミ ’ ー ミ ー ー - 一 194 一 一 195 一 難懸懸灘灘’騨難鍵購懇懇鷲饗響讐灘懸欝轟轟灘瀞鷺灘叢職’.蕊灘欝愁欝¥驚鎌鎌繕鱗魏魏穂懸灘難蝉欝雛織灘 撫, ? tM, f 鑛蝋.与’ レ 「’・ 簿薦灘雛WWx, 一購難灘難懸難 醗灘護諾欝欝欝欝濾欝 灘懇懇…欝擁醸欝欝難懇灘響欝欝雛欝諜警轡難難麟、                                                   ’4謬穿一馬 豊鱈 1歪’・te』必’(ξ憩こ鴨・ト、櫨研潮懸”tt’)’欝欝      tL l 噴「.s 誇 .     ’  一癌『‘、 一驚3竣轟ト仙ヨ昂’;’f  中央上部に三角ペディメントをみせる古典的な意匠を採用した東側正 面は、1階に半円形ポーチ(半径9尺程度)を張り出し、また主棟頂部に はペディメントの棟から34.5尺の高さまで立ち上げた時計塔が中心性を いっそう強調していた(図5-2-37)。実施にあたってこの時計塔は実現し なかったので、中央のモニュメント性はかなり失われている。  鉄筋コンクリート造の地階基壇上に建つ木造校舎は、寄棟の大屋根を 2階まで葺きおろし、3階を屋根窓風に扱っている。  三角ペディメントをみせる中央部は大オーダーの二二4本で分節し、 2階外壁も柱型で分節して、柱間に窓を配置する意匠としていたが、実 際には鉄板葺きの外壁仕上げとして平滑な意匠となっている。  1階左右の昇降口に半円アーチのアーケードをみせ、北側は5連アー チ、南は4連アーチの予定であったが、南側2連は実施段階で欄間付き 引違い窓で埋められたので軽快な感じはやや薄れている。  5連アーチのアーケードをみせる北面は、西側にA、B両案同様階高 の高い運動場を収容する棟部分で、引違いを3段に重ねた縦長の窓を並 べ、一部3階建て部分の屋根窓を寄棟大屋根から突きだしている。二棟 の西側半分運動場部分の屋根の換気塔はA、B案とは対照的に、南北両 面に付く控え目な三角小屋根に変更されている。  正面のペディメント、ポーチとともに意匠的に目を引くのは主棟の南 面である。1階は4連アーチのアーケードで、中央の三角屋根を載せた 張り出し窓が寄棟屋根の軒をつき破って突出し、張出し部には大振りな 半円欄間付きの引違い開口部が付いていた。北西乙部の南側にも三角ペ ディメント付きの玄関棟が突出し、入口廻りは女教師館の主玄関に対応 するかのように張出し窓風にしつらえている。  平面は、 『北星学園百年史 資料編』中の「南五条所在北星女学校当 時校舎図」(図5-2-39)から概略を知ることができる。  180×54尺の三三の北端に48×114尺の二棟を西側に張出し、1階は、 北端を5連アーチの吹き放ちアーケードの「高女科昇降口」(9×39尺)と 「守衛室」(9×12尺)、 「高女科雨具室」(48×30尺)、南端を4連アーチ の「専攻科昇降口」(9×36尺)アーケドと「雨具室」(6×21尺)とし、中央 玄関の右(北)に「事務室」、左(南)に「校長室」「電話室(控室)」「教科準備 室」(いずれも12×15尺)を配置し、中央ホール(60×18尺)と中廊下をは さんで「専攻科普通教室」(15×21尺6室、12×21尺1室)7室と「洗面所、 化粧室」(18×21尺)が並ぶ。  東側事務領域の北側は「理科準備室」(12×24尺)、「理科教室」(42×24 尺)、「理科家事実習室」(18×24尺)、南側は「教員室」(39×24尺)と「教師 休養室」(9×24尺)である。  北西側従棟は、1階は主棟部の床よりおよそ5.5尺上がり、地階は5尺 下がるスキップフロアとしているが、この構成はA案からすでに発想さ れている。  従棟地階は・西端中央に「割烹教室」(24×42尺)、北側に廊下をはさん で「器楽練:習室」8室(9×6尺)・南側に「器楽練:習室」2室(12×12尺)「試食 食堂」(12×18尺)を配置し・中央に「大食堂」(36×54尺+12×36尺)、東 側に「更衣室」(36×18尺)と「器楽練習室」4室(9×6尺)を配していた。  2階は教室群で・主棟廊下の西側は普通教室3室(30×21尺)、東側は 北から「唱歌教室」(60×24尺)、普通教室(30×24尺)、「作法実習室」(12 ×24尺)、「作法室(控室)」(48×21尺)が並び、西教室群の北側に「生徒休 養室」(12×21尺)、階段室が、南側に「化粧室、洗面所」(18×21尺)が配 されていた。廊下の南端は踊り場を張り出した階段室である。  2階従棟部は、主棟から従棟にかけての「講i堂」(48×72尺)と「室内体 操場」(48×72尺)が並び、「講堂」西端に「講壇」(幅24尺)と左右の「控室」 (12×12尺)を備えていた。  3階は、9尺幅の主訴廊下の西側に「図画習字室」(42×21尺)、普通教 室(30×21尺)2室、廊下東側は普通教室群4室(30×24尺、24×24尺各2 室)、北側に「(高女科)裁縫室」(48×24尺)、「準備室」(12×12尺)を配置 し、主棟北端から従棟部にかけて「(専攻科)裁縫室」(48×36尺)と「図書 閲覧室」(48×36尺)を配していた。  正面にみられる一般窓は、引違いの欄間を付けた引違い窓で、内法高 6.2尺(欄間を含む)、北西棟1階の縦長窓の内法は10.3尺の計画であった。  主棟の天井高は地階9尺、1階10尺(玄関部分)、2階9.5尺、3階9.2尺と 表示され、小屋組はクイーンポストトラスである。構造材の寸法が以下 のように記載されている。 小屋梁 I t 二重梁 I J 合掌 O.8 ×O.5 (屋内運動揚) ユ・0 ×0・5    O.8 XO. 45 (屋内運動岩) ユ.0 ×0.45    0. 5 XO. 45 (× 2) 真東及左右束0.8×0.45 方杖類 挾釣魚 O. 45 ×O. 45 0.45×e,2 山形筋違 行間振止め 水平筋違 棟木 母屋 軒桁 屋根橿 野地板 O. 45×O. 35 0.5 XO. 35 0.5 XO.35 0. 45×O. 45 0.5 XO.35 0. 45×O. 45 0.2 XO,2  厚 O.05 (寸法は尺) 一 196 一 一 197 一 灘灘灘鑛難縫懸難雛灘i懇懇』脳灘灘灘.難一馨欝灘灘難一 撚二灘無難1懸翻籔  へ 騰誕購縫.・ ゾ’「 醗灘懸繍 離婁一議1離灘撮綾羅灘羅難磯謡1灘纏轡雛繕磯幽畿攣懇懇擁欝響 嘩 鞍懸讃濃 難 ・ ’滋 蠣 澱 ’ ♪ ,藻 茜 攣 『 瞬 諏 ‘ 噛」{ ’ 融 . 、 蟹躍  翌鼠  編戸」義甑一’一’磐 血 一  r                            {  ヤ _ム ノ} ・一 , f    ‘ 一、 Yへ・㌔麟働瓢一、団 墨 ⑳罎蝕 , じ づ 義 置 伊   餌 ,涯曜曜L_ 2σ一’ チ’働鱒 k9門  _4励 N ム静幽,一 o       ■ \ 〈A<< げ   ‘ ’ 9 rコじ」};二「‘「 31自運日 、 「門ヨ…ヨ臼ア’ネ【-.、 礫難糞躍旦母即蕊        」 口口Uロロ「コ〔】〔⊃〔コロ【コ91田田[コロ 7  』 ” 1   ,          ム労鋼    孟 @               籔 ノ 隔 ]     i  頑サ四. @ み一 一 ^森\   、    ,    一陣廻_ @  へ � 黶 @ 「 φ一ブ’ }  一ρ …@・旧円頃野田 田 .  一  『,,   「-制 @匿臨型  一  』        P  -一 d田囲田鼠田田Eヨ田ヨ団団,ヨ!盟面。. 日田B田田Ei田田田田田日田田 図5-2-37C案立面図(資料C-3)(北星学園蔵) 1               1      》 @    ↓ @    二}一、 @    吏 @    ト     マ        ニ』唾.壷L   ・・  φ          ’「一’…{… @        1                                     ・ 」 ■   、 貞 「   ’  四幅噸搾 μ肉N壱 @4屡噌朔 k         _,一       r- 送ヨ  凋鱒餓鍔  ’貞昆粥       豊匹 一 圃 ワ i , 雪 「 } 噛 曇 斜 柚 ψ ■ 『 ._’ 1 . 雪 ,曾一 P ノ 匿9 P 1 亘 ,■、、 「 T   「 i   「  垂 @1 @軸 @: ← @キ V一, @導 @マ ¶ 1 鷺 1       伽 @→一一・’一喚』R ∂hσ,甲 . 縮 一  5 } → ♂脚L   ρ @ 参 どヨだ…二幽=ゴー・=「…獣一一一…匁 尺協 5-3宗教建築 5-3-1=聖フランシス=1修道院  本項では、札幌聖フランシスコ修道院竣工前後までのフランシスコ会 の沿革について概略ふれ、あわせて1970年度竹中育英会建築研究助成に よる文献調査と1982年実施の実測調査結果をもとに、本修道院の建物概 要について述べる。 陵国廟 鞠 蟹 拐 寓 躍 蟹 窟   一 蟹 實 實 五 割 烹 大 食 跳 最 鰻 習 竃 一     q     魍 鮪 占 繍 蟹 竃 ー 図5一・2-38C案断面図{北星学園.蔵) 室醐  にtty 通 霊、i 脚獺照 騨 喰 腐 轟 島 0         レ 敏 N 竃 箪 夢 駐 蜜 爵 心 腰 展 童 O 瞭 饗 } 竃 描 夏 ■ 員 哩 9 4 鵬 口 塞 理 科 教 室 , ● 定   君 履 ” 興 図5-2-39校舎間取図(『北星学園百年史資料編』) 《 園 口 園 闇 ] 、 フランシスコ会の北海道布教  フランシスコ会の北海道布教史は、1957年発行r光明附録』(ゲルハ ルド・フーベル著)に詳しいが、ここでは、1925(大正14)年の修道院竣 工までの間の、主に建築関連事項を中心に略述しておきたい。  日本におけるフランシスコ会の布教開始は、1592(文禄1)年、ペドロ・ バプテイスタらルソン使節の来朝によるという。その後、秀吉による禁 制、二十六聖人の殉教(1597年)を経て一一担壊滅。徳川家康時代にも布教 が展開(1599年)されたが、同和年間には迫害が激しさを増し、1628年頃 には全滅状態、奥州山間に潜入の3名の宣教師の殉教(1638=寛永15年)を 最後にとだえている4?。  1907(明治40)年1月19日、ドイツのテユーリンゲン管区の会士2名が 札幌市に到着、日本布教再開の記念すべき日となった。布教再開の動機 は、函館司教アレクサンドル・ベルリオー師が、1905(同38)年渡欧の船 中で、ローマのマリア宣教者フランシスコ修道女会に娘のいるフランス 人紳士との偶然の出会いであったという。師は、広大な司教区4sを援助 してくれる人の確保と、布教資金を集めるための旅の途中であった。  同年12月、ローマのフランシスコ会の本部修道院を訪問、札幌に修道 女会の修院設置を許され、またフランス人司祭マルナ師49にフランシス コ会員を札幌に呼ぶことをすすめられ、1906年サンアントニオのフラン シスコ修道院会総長ディオジニア・シューレ師によって3人の司祭派遣 が承諾された。当時札幌では、外国語教授が要望されていた事情もあっ て、ベルリオー師は、ドイツ語、フランス語、英語のそれぞれ三ヵ国出 身の司祭を派遣するよう依頼していたが、1907年1月ドイツ語担当・ヴ ェンセスラウス・キノルド師、フランス語担当、モーリス・ペルタン師・ 遅れて6月カナダから英語担当のペトロ・ゴーチェ神父とガブリエル・ ゴットブー修士が到着した。  当初、北1条東6丁目の教会(1898年建設)の客間住いをしたが・1907 年4月中頃、北1条東3丁目に2戸建住宅(図5-3-1)を地所つき2・000円 で購入。移転数ヵ月後週2晩2時間の語学教室を開始した・生徒の多 くは大学教授、医師、学生達といわれ、当時の札幌における欧米文化摂 47:『キリスト教大事典』 (教文館、19  63. 6. 30) 48:当時函館教区は、東北6件、新潟県、  北海道及び付属諸島を含み、最大の  教区であった。 49=H本布教に熱烈な好意を寄せていた  聖フランシスコの熱心な会員。艮く   日本を旅行、 r日本に復活したイエ   ズスの御教』を残す。 (フランシス   コ会北海道布教小史(一))  雌漣触蕊. 図5-3-1札幌北1東3仮修道院     (『光明附録』) 一 198 一 一 199 一 ヱニと                ゐ  灘灘・購 t錘・ 灘鍵鷺羅1欝鍵難響難繋馨灘雛灘鱒騨難欝圏 懇.難雛欝懇灘1響羅饗駕ぎ礪麟醗欝議講灘難し灘難麟・寒灘購灘鍵灘灘翼灘 ・ 驚         譲 距 載         ・ 藍 裟 脳           叢 げ 緊 “ 醗、懇 懇灘懸灘灘難灘羅鐡黙雛 無難盤醤欝欝畿騰1嬉∴驚蹴懸畿犠:1懇懇懸聯糟糠難麺…’ 騨聡諜姪婁叢1 黙          、、響.一 図5-3-2 札幌北15条修道院     (『光明附録』) 50:「フランシスコ会北海道布教小史  (二)」 『光明附録』第1174号(1957.  1. 20) 51:天使幼稚園鈴木園長による。 解・・,it 械惣1㌧、・・p 図5-3一一3 , 魔 翻 隅 、 調 剛 ’ .;t’  ,、.演_卑・、、軌・苧H閣 フランシスコ修道院北西外観 図5十4フランシスコ修道院神学校 取の中心的な役割を担ったともいえる。  この年にはまた、北15条東1丁目に、3,000坪を超える地所を購入、 翌1908(明治41)年春から修道院を着工、11月12日に奉献式をあげている。  図5-3-2のような、端正な木造下見板張りの2階建てで、「できるだけ 金をかけずに簡素に仕上げた」5。という。建築費は6,000円であった。写 真は南西側からの撮影と思われるが、写真左側、上げ下げのアーチ窓を つけたバシリカ風部分が礼拝堂で、右側は修道院部分であろう。  1階は、引違い連続窓が並ぶガラス面積の大きな明るい部屋のようで、 図書室、食堂など集会室的なものが並んでいたのだろう。2階には上げ 下げ窓が6ヵ所みられる。屋根には集合煙突が5ヵ所確認できる。  この年、北3条東3丁目には、女子修道院の仮修道院も建てられ、ま たキノルド師が正式に布教地区の長に認定されている。  1909(明治42)年司祭2名、修士3名が到着したが、この中に、北1条 教会(1916年)の設計でも知られるフランツ・フェルゴット師も含まれて いた。この年フランシスコ会は、亀田教会(1909年7月14日祝別式)と室 蘭教会(1910年5月増改築)の両教会を担当することになる。  1911年フルダ管区に編入されたが、この年には、白老教会(1915年秋 閉鎖)、倶知安教会を設立、また修道院敷地内には学生寄宿舎を建設し た。9月には、北12条東3丁目に患者約25名収容の女子修道院の病院が 竣工(9月14日門別式)したが、修女用には小屋裏に質素な部屋があてら れた。これが天使病院の始まりであるが、後1914年に、同一敷地内南側 に修院と小聖堂を建設している。  1913年には、広島村教会設立、岩見沢教会と樺i太:豊原教会を引き継い だ1915年、函館司教区から独立、札幌知牧区が開設されたが、この年亀 田教会は函館司教区に編入、札幌北1条教会、旭川教会、小樽教会を引 き継いだ。翌年札幌北!条教会竣工(1916年10月8日献堂式)、1920年春 には北11条東2丁目に教区長骨を建設した。  1922(大正11)年7月末、北15条修道院の付属聖堂が狭隙化し、また道 路にかかることもあって、北11条東2丁目に本聖堂が建った際集会所と して使う予定の仮聖堂を、4,000円で竣工した。この年天使病院も増改 築を施している。1924(同13)四聖ゲオルグのフランシスコ修女会の修院 (マリア院)と藤女学校も完成した。  1925(同14)年11月19日51、北11条東2丁目のフランシスコ修道院(図5- 3-3)の落成式が挙行された。翌年、敷地内に神学校(図5-3-4)も建設さ れた。現北11条教会新築のため1960年頃取壊された51というこの建物に ついて詳細は不明であるが、写真を見る限りヒンデルの作風によく合致 しており、全体のデザインも修道院とよく似ている。  外壁を鉄板張りとする木造3階建の建物であり、屋根裾を緩勾配とし、 南側に大きく屋根窓を張り出す。小屋裏採光の窓は、国側を2連アーチ、 南側を円窓とし・他の窓開口は・蘭間付引違窓を採用している。こうし たヒンデル的モチーフからみて、ヒンデルの作品として間違いはないで あろう。 修道院は、1973年6月から翌年2月まで、ファッションドレスメーカ ー女学院として使われ、1975年2月から天使幼稚園として利用、1982年 8月取り壊された。 建物概要  修道院という建物の性格のためか、全体としてやや固い印象を受ける が、反面落ち着いた安定感のある建物であった。ヒンデルのデザインに 共通してみられる特徴の一つは、切妻の急勾配の大屋根であるが、この 作品でも東西に妻をみせる大屋根が使われ、屋根裾もやはり緩勾配で折 れたフレアードルーフを採用し、大屋根と交差して北側に間口9尺の屋 根窓が張り出している。また竣工三三には東西に十字架を掲げていた。  半地下部をレンガ造とした木造3階建てで、外壁は鉄板張りである。 外壁鉄板は、各階窓の庇先まで連続している。  北側正面には玄関部と礼拝堂脇の小部屋が張り出し、各々の屋根も大 屋根と同じく裾で勾配を変える。張出した脇小部屋の北側外壁中央には、 AとMの文字(アヴェ・マリアを意味するという)を図案化したものがみ られる。こうした装飾デザインも、ヒンデルの得意とする一面であった。 ただ全体としては装飾が極めて少なく、礼拝堂や脇小部屋の窓に飾りサ ッシュを用いる程度であった。  東側には「便所」、南西部には「台所」 「食料庫」を張り出し、変化 をみせている。  半地下部はイギリス積みレンガ造であり、窓台より上を普通レンガ、 下の部分は多少黒味がかった光沢のある紬薬レンガが使われていた。防 水を考慮してのことだろう。壁厚が木造壁のほぼ2倍あるが、1階外壁 下端のフレアによってうまく処理されている。このフレアは雨仕舞を考 慮しての工夫でもあろうが、建物に安定感を与える要素のひとつとなっ ている。  窓は半地下、便所、玄関を除きすべて上下げ窓であったが、3階妻面・ 北側屋根窓、礼拝堂の他は2連窓である。  3階小屋裏階は旧状のままであったが、1、2階部分は幼稚園に転用 する際大幅に改造され、窓枠や小庇も取りはずされ、アルミサッシュの 引き違い窓に変えられていた。特に礼拝堂部分は、開口が広げられてい る。当初は復原北立面図(図5-3-5)に見られるように、菱形の装飾組子 を施した上げ下げ窓であった。  玄関ポーチの柱上部には、菱形の連続した彫刻が施されている・前述 の礼拝堂窓にも同じ形が使われており、他の作品にもみられることから 一 200 一 一 201 一 1灘灘灘欝欝翻懸・灘i鑛灘灘轟轟黙黙難羅灘轟轟灘灘鑛霜露謬1灘膿 欝騨 雛・ “  書’凱鰹   触  髄’ Ul.“冊  翼 灘縫灘1灘縫三白灘奪繋鹸 灘欝 tt轍 ” .S k. k ’馨賊難.、 灘懸盤難懇懇灘懸1撚赫・ 懸盤糠響謬灘畿灘1饗蟹羅灘野灘総,”響醗難灘,・難糊鎌継野黙騨ee ww’n’“’ 蛹恃ユ響繍  図5-3-5復原北立面図 5F L皇L1一」」z⊥旦」 「 , 、 『 ヨ ヨ ー 回 」  「 」、l」一  e一 m皿_・_ 1 13 tS i 12 15    むに ・・   雪 ・× 書斎 寝璽 「 望 回 」  匝⊥」2.]~L匝、地地 91一”一一一... 75’ 6  9 15’ 27’ i5’ 9 ua-LmLs 12’ 1 21 図5-3-6復原東立面図 ヒンデル好みの意匠の一つといってよいだろう。  内部は、建具、間仕切りが幼稚園転用時に大きく改装されたが、園舎 としては1、2階が主として使われ、3階は竣工時の状態をほぼ継承し ていたので、旧状を概略知ることができる。竣工時の平面は、図5-3-8 のように復原されるが、1階は主に集会用に計画されており、2、3階 は個室群としている。  1階北東部の張り出しは玄関で、土間の東側には来客用の便所が設け られていたという。ホールと廊下の間には引戸が設けられており、一般 者の立入りを禁ずるいわば聖俗の結界となっていた。ホール右手に「礼 拝堂」があり、北側に張り出した脇小部屋に続いて奥に「仕度部屋」と「香 部屋」がある。礼拝堂は当初1、2階吹き抜けであったが、1973年ファ ッションドレスメーカー女学院に転用される際に床を張り、教室とした らしい。幼稚園時代は、1階を園児室、2階を音楽室に使用した。  2階音楽室西端には、装飾柱や半円部分と格子状に組んだ板壁が残さ れており、壮麗な祭壇(図5-3-9)をもつ礼拝堂の名残であった。また主 祭壇とは別に、廊下側壁面に2ヵ所、脇小部屋に1ヵ所副祭壇が設けら れていたという51。天井は格天井で、細かな繰形のついた格縁が組まれ ていた。同様の格縁は、玄関ホールの一部、食堂、図書室にもみられる。 礼拝堂2階は東側1スパン分をギャラリーとし、2階からも出入りがで きた51。  ホール左手に応接間が2室あった。廊下の南側には、東から「図書室」 「玄関番の部屋」 「食堂」と続き、南西部には「台所」と「食料庫」棟が続い ていた。廊下東側に階段室があり、踊り場に便所を設けている。西端に は水くみ場があり、地下から各階に水道管が通されていたという。調査 時にも立ち上がり管がそのままになっていた。  2階は修道士達の居室で、北東、北西および南東の部屋は寝室と書斎 が続く組部屋となっている。その他の部屋も居室に使われたと思われる が詳しいことは不明である。  階段室踊り場部分には1階と同様、便所が付属していた。内部仕上げ は、廊下、室内共に大和張り(あるいは綾目張り)の腰壁と天井であり・ 壁上部は漆喰塗りになっている。これは3階も同様である。  3階は調査時ほとんど使用しておらず、建具、窓も旧記を残していた。 復原平面でわかるように廊下をはさんで細かく仕切られた部屋が並ぶ・ 2階と同じく修道士の個室や、来訪者の寝室として使われたという5㌔ 北側中央の3部屋は、3×2尺のはめ殺し窓が屋根面に設けられているが・ 竣工時の写真では見あたらない。間仕切り(3階平面図中の点線部)も後 補のようで、当初の用途は不明である。修道士の人数が増えたために間 仕切りや窓をつけて個室にかえたのであろうか。  各室ドアの鴨居部分に部屋番号として、北東部屋の「23」から左回りに 図5-3-9 礼拝堂:・祭壇 図5-3-7 復原断面図 図5-3-8復原平面図 一 202 一 一 203 一 ’灘灘・罷灘灘灘灘騨磯騨叢叢蕪i灘騒騒1羅灘難暴露・灘灘馨聾翼i階          ヨロ   饗 麟撒叢叢繋響1驚欝講鷲, .灘騒騒 縫謹懇難灘愚慮灘欝欝難羅臼雛灘礪 鑛 灘総懸雛難業懸醗灘鍵欝欝鞭㍗認ゴ虚麟聾{:妙画剛∴潔蝋f弩1耀講評1」 第四纏縫・’恐  ご∵’』一ゼー翼」へ・一編 蝦固” 52:『北海道大百科事典〈下〉』(198工年、  北海道新聞社) 53:天使の聖母トラビスチヌ修道院によ   る。 54:『函館市誌』(1935年、函館日々新  聞社)p.924およびトラピスチヌ修道  院による。 55:カトリックタイムス(1925年11月 11   日付)記事 56:カトリックタイムス(1925年8月1   日付)記事 鰯_硬“・.㍉.. 図5-3-10トラピスチヌ修道院     (1960年撮影) 連続し南東の「36」で終わっていたが、当初のものか不明である。  小屋裏にあたる東西端部は、収納庫として隅まで使用できるようにな っている。ヒンデルの平面計画の特徴とも言えるものである。廊下の西 側端部には避難口が設けられている。  レンガ造の半地下も中廊下をはさみ南北に部屋が並ぶ。北側に東から 「酒蔵」「物置」「裁縫室」、南側に「石炭庫」「浴室」がある。南側中央3室は しっくい仕上げがしてあり居室として使われたというが、居住環境から 考えると、長期間の使用はなかったと思われる。南西突出部には台所へ の直結階段があり、食料貯蔵用に使われたのかもしれない。天井は梁、 根太がむき出しになっている。  小屋裏は床を張り、北側には押入を備え、物置として使用している。 東西妻面に採光用の2連窓がそれぞれついている。  小屋組はクイーンポスト・トラス構造であるが、やや異形とも思われ る部分が残る。施工者の不慣れさのためだろうか。部材寸法は、棟木・ 束約150×150㎜、母屋約118×118~120㎜、方杖約72×84㎜、合掌約 236×150㎜、垂木約75×46㎜と実測されている。 5-3-2=天使の聖母トラピスチヌ修道院  函館市上湯の川346にある「厳律シトー会天使の聖母大修道院」は、 上磯町にある男子トラピスト修道院と同じシトー会に属する女子修道院 で、男子修道院より!年数ヵ月遅れの1898(明治31)年、フランスのウベ クシにある聖ヨゼフ聖母修道院から派遣された8人の修道女により創立 された5z。明治末期にレンガ造本館が建設され53、1913(大正2)年まで に園内の庭園、畜舎、製酪場や司祭館などが完成した54。  1925(大正14)年10月16日55、原因不明の出火で、聖堂、司祭館、新築 中の建物を残して、レンガ造本館のほとんどが焼け落ちた55。!925年11 月11日付け『カトリックタイムス』は、次のように報じている。  「寝室と食堂にあてられる新館が建築中で、もう二三週間で落成する という所であったので、そのために来てみた大工等が非常なる熱意をも って二階と下のものは大抵はこび出した。……新館と院外聖堂、司祭館、 台所を残して本館は皆焼け、地下室も燃えてしまった。(略)」  本館部の第1次再建は1927年に完成し、同年7月5日56献堂式が挙行 された。修道女の中には前年入ったばかりの川田龍吉男爵の令嬢もおり、 男爵が献堂式に参列したことが知られている5B。  1925年竣工予定の新館部分の設計者は不詳であるが、再建部分は1927 ~30年にかけてヒンデルが担当した。焼け残ったレンガ外壁を生かし、 また当初のデザインを踏襲して、正面南西棟、北西側聖堂棟(1927年)、 北東棟(1930年)が完成した。南東食堂棟は前述のように火災前から着工 していたもので、設計者不詳部分である。  口型平面の本館の北西側に付属する建物は、被災を免れた司祭館(19 13年竣工)である・本館の南西側下手、南西棟と結ばれた(地下通路か) 2階建ての建物は応接室棟で、ヒンデル設計で1930年に竣工した。  関連史料としては、A『契約書』、Br大正拾五年六月九日 トラピ スト修道院工事契約書』、C『建築工事請負契約書』のほか、以下の6 葉の断片的な図面が残るのみである(図面番号は便宜上つけたもの)。 Tユトラピスト修道院設計図断面縮尺四拾分ノー一㊥「札幌市東光園円イ家  建築家ヒンデル」 T2トラピスト修道院設計図御堂内部壁寵之図壱縮尺二十分ノ壱 T3トラピスト修道院設計図断面図縮尺二十分ノ壱 T4トラピスト修道院詳細圖縮尺二十分之一 T52.湯ノ川トラピスト修道院増築工事設計図壱百分之壱姿図昭和四年  七月㊥「横濱市ヒンデル建築事務所設計/無断複製謄罵轄載発行其他公  表厳禁」 T65湯ノ川トラピスト修道院増築工事設計図五拾分之壱及弐拾分之壱断面  及詳細図昭和四年七月 図5十11トラビスチヌ修道院平面図下から1、2、3階(『はこだての文化財』) 一 204 一 一 205 一 購i灘灘灘難灘灘藻鑛灘1騨羅黙認灘鱗羅懸隔野饗難難聴灘灘叢難 t ヌ ■ 1 一 卍 魎 鄭   舳 角 雪 蓮 轟             ホ 一     ・懇醗、1。罵    ‘’賢’  酷葺 雛醗鷲灘糠欝 欝懇懇号㌃身嚇黛? 昏1占 }   ㌔町饗韓∵r勤よア「一   サ - 罫 ・   一 鄭 鰻 ” 図5-3-12トラビスチヌ修道院聖堂部断     面(図面Tl)(天使の聖母トラ     ピスチヌ修道院蔵)  史料Aは、修道院と「北海道札幌市北十一条東一丁目建築設計者マッ クス、ヒンデル」との「トラピストクロスター新築設計」契約であるが、 契約内容については残念ながら入手できず、詳細は不詳である。  史料Bは、1927年建設時の請負工事契約書と考えられる。施工業者と して、 「函館市湯ノ川通十七、川原石太郎の名が確認できるが、契約書 そのものの書式は、標準契約書の形式をなしており、第弐條。契約請負 金額、第参條。工事竣工期限などは「別紙二記載ス」とあって具体的な 記載はない。  契約書の内容としては、第壱條。契約の目的物件、第弐、参議は前述、 第四條。契約保証金、第五條。請負契約金額の支藩、第6條。強制虚置、 第七條。契約解除などについて述べられているほか、第八條。請負入の 契約の履行や契約によって生ずる債権を施主の許可無く第三者には譲渡 できないこと、第九条。請負業者の代理人は工事現場に常駐し、工事監 督員と打合せすること、工事監督員が素行技術の面で不適当と認めた職 工、人夫は工事場より退去させることができること、第拾條。契約書や 工事仕様書に「工事監督員」とあるのは、設計者及びその代理者として 施主よりその権利を委託されたもの、第十一條。契約書には工事仕様書 及び図面(枚数の記載なし)を付属することなどが記載され、契約の証 として3通をそれぞれ甲施主、乙請負業者、工事設計者が所有すること をうたっている。  史料Cは、1930年建設部分の契約書である。やはり表書きのみの提供 で、内容については不明であるが、付せん紙に「注意 見積書提出期日  昭和四年七月二十五日午後二時三十分、見積書提出場所 亀田郡上湯 川村天使園(トラピスト修道院)、改札立會ノ為當事務所主任三間利一郎 ヲ出張セシム 七月二十四日午後十時函館桟橋着(一此ノ間キト宮沢旅館 県域イテ不明ノ点アレバ御説明スベシ 七月二十五日正刷出□湯川天使 直行キ」という一文がある。さらに㊥「横濱市ヒンデル建築事務所/MAX HINDER/本牧町満坂一八五一一一一一/私書函横濱直弟〇番/電話(2)一3400」と いう事務所印と札幌事務所時代からの主任所員であった楽間の印が押さ れている。  ヒンデルは、1927年10月には札幌から横浜に事務所を移しており、19 27年竣工の正面南西棟と北西聖堂棟は札幌事務所で、北東棟と応接室棟 を横浜事務所で設計したことになる。そのことは保存されている図面に 残された事務所印からも判断できるが、上に挙げた図面のうち、1~4が 札幌事務所で、5、6が横浜事務所で描かれたと考えられる。  図面T1(図5-3-12)は聖堂部分の断面図で、中央吹き抜けの聖堂部の左 右に廊下を付属してバシリ沼風の断面を示している。聖堂部のレンガ壁 体をRC造の柱が補助し、さらに壁体上部を梁とスラブが緊結し、その 上に木造小屋組を架けている。左右廊下の差し臨け屋根部もRC造の表 現がなされ・木造床面もRC基礎で支持されている。図面T4は、その廊 下部の詳細断面を示している。  図面T2(図5-3-13)は、聖堂内の1柱間の内壁展開詳細であるが、腰の 飾りパネル、方円柱頭風の飾りを付けた木製角付け柱や組紐模様の山型 帯装飾、上部半円高窓などに、ヒンデルのロマネスク好みが表われてい るように思える。  図面T3(図5-3-14)は断面図で、図面ではRC造の外壁、2階床スラブ および梁、基礎と木造の1階床まわり、小屋組を組み合わせた混構造と している。半円欄間付き上げ下げ窓の「南側窓詳細」の意匠などが正面 棟に類似しており、!階の間仕切位置なども正面棟とほぼ合致するが、 焼け残った煉瓦壁面を生かした外観とはなっていない点では、実現案と 決定的に異なっている。  図面T4とT5は、1916(大正5)年竣工の北東棟の側面図と断面、および 2階の窓回り部分詳細図である。RC造煉瓦積み構造で、1階床とキン グポストトラスの小屋組は木造である。半円欄間付き引違い窓の意匠が 昭和2年完成部分とは異なり、またRC造の柱型を強調する意匠もこの 棟の特徴である。図面上では柱型に煉瓦タイルを施すことになっていた が、実施段階ではRCの柱型をそのまま露出させている。欄間部も図面 でのはめ殺しが、回転窓に変更され、引違い窓も図面では上下二分して いるものを、類似のサッシュ割りとした引違い建具をはめこんでいる。 細部で改変は見られるが、大枠では、この図面通りに実現したものと考 えられる。  一般の人が煉瓦造の塀越しに望める正面棟は、焼失前の姿をほぼ踏襲 して復原したことになるが、煉瓦壁体の落ち着いた色調と、半円アーチ の開口部や尖塔アーチの破風を付けた小屋根の妻、小壁寵の聖母や天使 像などの清楚な白い色調の取合せが、厳しい雰囲気の中に柔らかな優し さを漂わせている。聖堂内陣部の上に立ち上がる白い木製の小さな八角 尖塔は、当初の意匠にはなくヒンデルが付加した意匠と考えられる。  1930年竣工の応接室棟は、寄棟屋根2階建て、棟中央に集合煙突を立 ち上げた小規模な建物である。RC造煉瓦積みと推測できるが、これと いって特徴的な部分が目立っ建物ではないが、煉瓦の胴蛇腹で上下階分 節したり、窓回りの楯と窓台で石の色をわずかに変えたり、1・2階壁 面を赤黄色の煉瓦で仕上げるのに対し、基礎部は黒っぽい焼き過ぎ煉瓦 とするなどの控えめな扱いがみられる。屋根の裾をフレアードルーフと する手法や玄関棟頂部の床下換気口の菱形模様のグリルなどは・ヒンデ ル好みの部分である。 一 206 一 一一@207 一 冒灘 裴i灘灘難 灘灘灘灘繋累1灘灘灘難難縁懸灘騰鱗灘…灘難懸、 鞠1・9 図5-3-13トラビスチヌ修道院聖堂内部    詳細図(図面T2)(天使の聖母     トラビスチヌ修道院蔵) 図5-3-14トラピスチヌ修道院断面     (図面T3)(天使の聖母トラピ    スチヌ修道院蔵) ・ 鑑 〔 . 葦 一 半 貸 や 虻 聡 門 郵 覧 嘉 紅 声 嬉 馨 ・ 1 」 嚢 緋 fi8geS ’墾懇懇欝醗難蕊耀:欝欝脚粥補職 継継議二鼻一・認幽1’d’.・重罪一纏騨田,T./謡講哩鎌継鞭「難聴壷’聾・諜魏9L’…「’一’LS… 齢鞭        .ti  1㌃ ’t 争 鼠      I  d!」’撃臥,1 橘唱荘 煙蝿}  、…      i、t「itlk; 、1月㌧円1.い:1一・、」’i”tl:u 図5-3-16新潟カトリヅク教会聖堂     絵葉書(ハンス・ヒンデル蔵)  轟吻・溺繭4引4蜘〃i               1  伽,          i                    吻r・吻’,nt.tthe-1’               1 函5舟二∫ブニ多オ斥ルス宛の葉書     {南山学園蔵) 撰 図5-3-15トラビスチヌ修道院中庭(絵葉書『天使園』)     (左側正面棟、中央聖堂棟は1927年、右側棟は1930年増築) 5-3-3=新潟カトリック教会  新潟市東畑通1番地656に現存する同教会は、正面の双三が特徴的な木 造平家一部2階建て、間口7間、奥行13間(玄関部3尺、アプス9.5尺分 を除く)の建物である。  竣工時の記念絵葉書(図5-3-16)が残されているが、全景写真下に「新 潟カトリック教會 聖堂全景/マックスヒンデル建築設計(横濱.札 幌)/MAX HINDER ARCHITEKT YOKOHAMA 一 SAPPORO」という説明がある。 同教会は、1927(昭和2)年9月5日竣工、同18日に献堂式を挙げるが、 同年10月にはヒンデルは横浜に事務所を開設することになる。とはいえ、 札幌とまったく関係がなくなったわけではなく、同年10月には札幌藤女 学校寄宿舎が、翌1928年12月には秩父宮殿下ヒュッテ、1929年12月には 北星女学校校舎工事終了などと、札幌での仕事は続くことになる。こう した状況から、札幌と横浜の両市に事務所があるかのような表現をとっ たものであろうし、絵葉書を設計事務所の広報手段の一つとして利用し たものであろう。  同じ絵葉書を使用した「昭和3年12月24日」消印のライネルス宛の葉 書が南山学園に保存されている。葉書の表書きには「名古屋市東区主税 町三丁目天主公教会 ライメルス様ママ」rFrdliche Weinachten und ein gesegnetes Neues Jahr wUnschen lhnen. Max u. Anny Hinder」(クリス マスおめでとうございます、そして祝福された新年となりますように。 マックスおよびアニー ヒンデル)とあり、ヒンデル夫妻からの横浜力、 らの便りとなっている。  ライネルス(ユ874-1945)は、名古屋南山中学校を設立(1932年)した神 父として知られ、1909(明治42)年に来日し、1912(大正元)年11月新潟教 区長に就任、1922年から臨時名古屋教区長兼任して、1926年6月新潟教 区長を退任し名古屋教区長に就任した人物である。新潟教会の建設を通, じ、ヒンヂルとの交流が深まり、以後1928~29年置かけての名古屋教区 内での多くの教会設計の依頼や南山中学校の設計依頼へとつながってい ったものと思われる・ 教会の沿革と新聖堂  新潟地方にキリスト教宣教師が最初に来摂したのは、1869(明治2)年 のことであるが、翌1870年にはプチジャン司教57は、函館在住のアンブ ルステ神父に新潟の状況視察を命じている。4年には新潟教会の最初の 主任司祭としてエヴェラル神父が赴任し、片原の八間小路にあった渡辺 喜兵衛宅2階に最初の布教所を開設した58。その後市内の土地を転居し ながら、現在地に移転したのは1921(大正10)年である。 「新潟名所十二 景」の「異人池」5sに沿った敷地で、教会堂も移築され、一一部は司祭舘 として現存している。  1926年12月3日、「柾谷小路の突き出し高等学校下の池畔」s。の新聖堂 建設用地が祝別され着工、竣工は1927年9月5日、9月18日に献堂式を 挙げた。教会所蔵のスクラップブックには、当時の新聞記事の切り抜き が整理されており、新潟新聞、新潟民報、新潟時事新聞、新潟毎日新聞、 東京日日新聞などに報じられた竣工ま近い会堂の紹介や献堂式の様子な どを知ることができる。各紙ともほとんど内容は同じで、カトリックタ イムス紙61でも1927年9月11日記事は、新潟新聞の同年8月26日記事と 同一内容、同年10月11日、21日記事は献堂式の様子を2回にわけて連載 している。  新潟新聞(!927.8.26)によれば、建築概要として、「言口七間奥行十四 間B2建坪九十八坪の木造平屋建で地盤線より屋上迄三十三尺前面の鐘楼 は五層よりなり上端まで七十五尺、建築様式はローマン、ルネサンスの 折衷式外部は堅牢耐火の金網ロックスタック塗り」「内部は正面に大祭壇、 左右に副祭壇を設け中央には祭壇へ向ふ通路、その両側は約五百人を楽 に収容し得る座席、後の階上は聖歌隊の席になってみる、天井丸窓の色 ガラスを透して入る光線は祭壇の上に美しい影を作り高い白天井、クリ ーム色の壁などよく調和して落着いた気分を出してみる」と報じている。 この内容は同じ日付け新潟時々新聞、さらに8月28日付け新潟毎日新聞、 新潟民報、新潟毎日新聞、東京日日新聞とも同一である。  教会堂建設と同時に、伝導舘兼愛児幼稚園舎が新築された.聖堂の西 側に現存する教区長舘は、旧陸軍の将校クラブの払い下げを受けて・19 28年以降移築したものという63。その奥の「聖ヴィアンネー小神学校」 (通称ヴイアンネ舘)、「ベビーホーム天使園」「シスターの修道院」は・19 33年(昭和8)頃建てられたもの63で、ヒンデルの関与についてはどこに もふれられていない。教会に残された資料でも確認出来なかったが・ヴ ィアンネ舘は屋根中央に塔屋を立て、半円の屋根窓をみせ、屋根の裾を わずかに緩勾配とするヒンデル風の意匠がみられるし、隣の天使園(現 保育園)の屋根裾の扱いも同様で、ヒンデル風といえるものである・推 57:1829年フランス生まれ。1859年バリ  外国宣教会に入会、翌60年日本布教  のため派遺された。琉球、横浜を経  た後、1863年長崎へ行く。大浦天主  堂建築を手伝いながら、長崎奉行の  依頼で語学所のフランス語教授にも  たずさわった。1865年2月19日の献  堂式に統いて、3月17日いわゆる「信  者発見」に遭遇した。1866年日本代  牧に任命され、翌67年ローマで教皇   ビオ9世に日本の状況を報告、1869  年、1876年にもロー一・vを訪れた。18  84年長崎で死去。(H.チースリク訳   『宜教師の見た明治の頃』(1968.11.  3、キリシタン文化研究会)p.58によ   る。) 58:小野忠亮『北日本カトリック教会史』   (1970.3.18、中央出版社)p.224 59:新潟毎日新聞(1927.9.3) 60:新潟新聞(1927.9.19) 61:1923年1月1日発行『公教青年時報』   (月2回)を前身とする新聞で、同年5  、目1日『カトリックタイムス』 (月3  回)が創刊した(第9号)。1931年7.月5   日(第299号)から『日本カトリック  新聞』と改題した。現カトリック新  聞社に保存されている。 62:玄関部3尺とアブス部9.5尺の突出部  分を足した概数で、いずれの新聞も  奥行14間としている。 63:佐藤敬一新潟司教からの書簡(1994.  6.30)による。 一 208 一 一 209 一 鑛灘灘灘雛灘雛灘・魏魏羅総灘灘1辮驚灘辮蓬1載灘 灘灘・騨1難磯鴫    唱麟慕灘鷲 灘糧 ミ     魯 轍 錐 霧 消 愚 慰細 螺 灘 凝繍無轍簸礁猟       難, 藝.      ue    ,残 ,xop#ff, vm.nvnk=ni’t”一LW. Xlbe“”mp”’“”’F’IC?.一?a; D y.’. @t4 幽 襲 弊 璽 詣 馨 襲 爵 霧   轟 卸 霧 灘奮鱗籔灘購璽叢錨謬攣難醤灘灘藍鎌雛難懇懇難ll・ll響燭難響難罐避難鍵盤翠議饗鱒難齢灘卍 L・■5、}、諭’ vn㌦ダ ”・ F1田 図5-3-18新潟カトリック教会遠景(カトリック新潟教会蔵)     (左からヴィアンネ舘、教区長門、聖堂) 詞 図5-3-19新潟カトリック教会聖堂内陣(戦前期)     (カトリック新潟教会蔵) 口 修道院 天使園 ロヴイアンネ館 教 区 長 館 聖堂 幼稚園 図5-3-20新潟カトリック教会配置図(1980年頃) 騨 麹 齢 酵 副蝉犠蝦鴛     才  ・ヂ・ 糖 L,,瀾,よ‘ 黒・‘“、 1ギ 考禽3執tt バ  :1 1 ”搾噂軌 藝 ∵ ヅ     、 . 饗 を r 3 臨 ド 臨 鮪 園 」 貯 3 . 9 轡 ノ 潮 . 伽 ツ 華 .       λ 一     概学士・11t騰          ㍗・や      自        →. や噸φ ぷ     ぎ     セ  ロ           ら 藪璽§騨鞠難    ㌧、’i・㌔颪 ・1・、      ‘とし..締函_,φ碑自.   一 レ ζ 一 』 } 一 路 西 ㍗ や … ㍉     》 」 ト レ .嘩 一 \ F ひ ぬ - 強 麟 ρ 篇躍 自   Ψ O” 師 L ■ 、 φ 血 幽 宝 垂 凋 「 、 律 や 聞 ,、 壷 、 ノ へ て   ト 廟脳』吻冒 ・い    }   ’唖覧    .鳶勘竺㌔. ’“ 1 繁 , 1 毒 瀞 、 曙 露                  、;...船.ht        .ム」む匹ン   ec し箪ぺ忌幽、し」色: 図5-3-21新潟カトリック教会設計図(図面1)(カトリック新潟教会蔵) 測の域をでないが・ヒンデルの関与があったとも考えられる建築群であ る。  伝導舘兼愛児幼稚園舎は・教会堂の前にある建物で、 「間口十二間判 下五間の総ガラス張り」・また敷地の表入口に築かれた6寸角の御影石 の門ど塀は、「明治十五年第四銀行時代からの由緒ある」(引用はいずれ も新潟新聞(1927.8.26))ものが、第四銀行から寄贈された。  9月18日の献堂式は、新潟新聞(1927.9.19)には「荘厳に行はれたカト リック教会献堂式/多数名士を迎へて異人池々畔に挙行」とあるa東京 駐在ローマ法王使節ジャルディニー大司教を迎え、午前9時から挙行さ れ、来賓として藤沼県知事、金澤内務部長、澤田医大学長をはじめ、各 学校長、市会議員、実業家など多数の名士が参列した。  献堂式は、11時半に終了し、引き続き新築の伝道舘で祝賀会が催され 午後1時散会。午後3時からは聖堂内で御聖体降福式があり、午後7時 からは伝道舘で、講演会や聖丁丁が催された。  教会には「聖堂祝別証明書」が保存されていて、ラテン語で「主であ るイエス・キリストを名称として、聖マリアを保護者として1927年祝等 した」とあり69、新潟教区長アントニオ・チェスカと名古屋教区長ヨゼ フ・ライネルズが参列したことが記されている。  教会堂の竣工にあたり、新潟県庁に名称変更届を提出(県庁昭和2.10. 4受付新潟市役所経由)している。それに(新潟県指令社兵第8-89号)よる と、「新潟カトリック教会」名称変更の件許可す、新潟県知事 藤沼庄平」 とある。欄外に鉛筆で「明治9年」認可とあり、「天主堂」の名称は、1876 年の認可と思われる85。  その後、1928年2月19日鐘塔の鐘が祝別された。この鐘はドイツの熱 心な信者達から寄贈されたもので、 「目方八十貫独逸フウムベルト、ブ リロン会社」86で鋳造された。1929年5月ドイツ製パイプオルガン設置・ 1933年7月には長谷川工務店(新潟市東大畑1番地)の施工で会堂の外壁塗 替工事をしている。  外壁塗替工事を担当した長谷川工務店長谷川龍雄の履歴書が教会に残 されており、それによれば1929年5月工務店開設、土木建築工事一般施 行並設計監督に従事した。工務店開設以来の主な工事は・ 表5-3-1にま とめた。 表5-3-1長谷川工務店主要工事等一覧 63:畔柳武司、角幸博『新潟カトリック  教会堂について』(日本建築学会東  海支部研究報告、1982.2) 64:前掲『新潟カトリック教会堂につい  て』による。 65:新潟新聞(1928.2.20) 工  事  名 構   造 着工及び竣工 工事費 新津町桂邸新築工事設計並びに施工 木造 1929,7~29.10 12,000円 新潟市小黒館新築工事設計並びに施工 一部木造一部RC造 1930.3~30.7 73,000円 新潟市村田医院新築工事設計並びに施工 木造 1930.3~30.7 14,500円 五泉町佐藤医院新築工事設計並びに施工 木造 1931.3~31.9 7,300円 新潟市中野邸設計並びに施工 木造 1931.7~1932.3 14,000円 新潟市安達病院新築工事施工 木造 1933.6~1934.3 43,000円 白根町白根役場改築工事設計並びに入札請負 RC造一部木造 1933.6~1934。3 43,500円 新潟大学附属医院洗濯場その他工事入札請:負 RC造 1933。9~33,12 M,700円 一 210 一 一一@211 一 灘鑛鍵灘灘灘購難購灘難雛講懇灘灘欝灘灘難響懸1攣黙灘饗鐸耀難懸!難難難難黙黙驚攣黙認聴講灘i慰撫欝灘難欝繹騨鰻i白麹iis,ki鰹餓騨 ∴適醐圏m幽麟圏鎌継薗醐醐幽剛醐騨醐騰噸脚騨剛■騨騨關嗣 藤 ,      総 懸 転         嘉 一 灘㌧ 籍・ 醗, 錐 ? ? 欄 轡 」 》 駕 ・ ・ ぐ   . . - 隷   ハ         か δ 噸 計 二 ■ ・ r 噛 . ・ 擁 鮎 麺     騨 窄 ; 嚇 “ 蕊 奮 震  1964(昭和39)年6月16日の新潟大地震で被害を受け・その直後より補 修を始め、翌1965年6月聖堂中央入口の屋根に聖心像を設置した・さら に、1981年ローマ教皇の来日を記念して・聖堂北側に小聖堂が増築され ている。 》訟’v 欝 ヨ ! 、 、 ≠        滋 f“tt’:S}ikc!li[Yll,IN一.’ast・ew  な一, ,,纏唖 遡 翔 , 些一 ` 「 ・ ・ 鶴 、 葺  勧ー ヒ .F・ 熾“ ヂフ’一M 図5-3-22新潟カトリック赦会堂般計図    ①塔及階農詳細図(図面N4)     (カトリック新潟教会蔵) 史料と建築概要  教会には、ヒンデルの設計図と考えられる以下の図面がA1版4枚の 青焼で保存されている(図面番号は筆者が便宜上つけた)。 N1新潟教會設計図縮尺百分之壱㊥「札幌市東光園円イ家建築家ヒンデル」 N2新潟平筆設計圖縮尺百分之壱弐階平面圖気先割小屋伏圖弐階床伏 N3新潟幽幽設計図詳細図縮尺弐拾分之壱 地形平面床平面縮尺百分三三 N4新潟雪下堂設計図①塔及階段詳細断面図縮尺五拾分之壱  図面N1は、ヒンデルの事務所印があるもので・正面図・背面図・側面 図と1階平面図を含んでいる。平面寸法は尺貫単位で記入されており・ 部分的にドイツ語の説明が付加されている。  図面N2は、下段に2階平面と小屋伏を配置し、上段に軸組と2階床伏 を書き込んでいる。  図面N3は、下段に基礎伏図と1階床伏図を並べ、上段に正面入口の立 断面詳細と脇入口(非常口)の立断面詳細が描かれている.  図面N4(図5・一3-22)は、 A 1版を縦位置で使用し、主棟断面のほか塔屋 部の縦断面、小屋組、各階床伏などを描いたものである。  細かな点を除けば、現存する会堂は、竣工時の姿をよく維持しており、 設計図とも合致している。正面に立ち上げた双塔が特徴的な聖堂で、ヒ ンデルが得意とするロマネスク様式を基調としており、それらは主棟中 央のボルタイユ(主入口)まわりの扱いやバラ窓などの表現に端的に表わ れている。ラテン十字形平面で、身廊と側廊の幅比が5:1のバシリカ 形式をとり、幅の狭い側廊部の側面は、交差廊の張出し部までトスカナ 式角柱を付けた半円アーチを7連みせ、内陣部では脇入口と2っの窓を 結ぶ3連アーチとしている。  身三部高窓は、側廊部の開口とも呼応し、半円欄間付きの引違い窓で、 窓間には斜め控え柱をみせている。同様の控え柱は、アプス張出し部で もみられる。講評および内陣、アプス部の高窓で特徴的なのは、半円縦 長窓と交互に配置された丸窓であろう。ヒンデル好みの窓意匠といえる もので、札幌藤高等女学校(1924年)の小屋裏採光小窓を手始めに、名古 屋の熱田天主公教会(1928年)、御器所天主公教会(1931年)、金沢聖霊修 道院三位一体聖堂(1931年)などでも見られた。  交差廊中央の棟の小尖塔も、教会建築の定型という以上にヒンデル好 みの意匠といえる。ヒンデルの関与を推測した聖堂後方のヴィアンネ舘 にも見られるが、札幌藤高等女学校での使用や上智大学案(1927年)や北 星女子校案(1928年)などでもみられる。こうした塔への執着が、新潟教 一 212 一 会や宇都宮教会(1931年)の双塔デザインに結実したことはすでに触れた 通りである。  図面N4によれば、正面双晶の高さは地上から66.5尺、十字架頂部まで は72尺(21.8m)と、新聞報道の75尺とはやや異なっている。9尺角の正 方形平面で、向かって左側塔屋部には、「打鐘室」、「時鐘室」・「展望室」 をおさめていた。  外壁は、木構造の上に「堅牢耐火の金網ロックスタック塗り」仕上げと した。主峯の高さは地上33尺(10m)、コンクリート製布基礎は2尺と・ 図面から読み取ることができる。  内部は、広い身廊部の左右に幅6尺の側廊をもち、天井は平天井、身 廊部の天井高は21尺、正面アプス前の幅18尺と左右の袖廊部幅12尺に半 円アーチの垂れ壁をみせている。正面の大アーチの高さは・18・7尺であ る。身廊部には現在長椅子が備えられているが、竣工当初は板床の上に 薄縁を敷いて、床座式の礼拝を行った。身北部やアプスの高窓や丸窓の 色ガラスを透して入る光線が、明るい堂内を演出し、現在は天井、壁と も白漆喰であるが、当初は「白天井、クリーム色の壁」s7であったという。  工事請負は、コンフリート工業株式会社(新潟市東田通り二番地 代 表者 和田岩一)が担当した。教会には、 『天主公教新潟教骨堂新築工 費明細書』、 『新潟天主公教會堂新築工事請負契約書』、 『新潟教會堂 新i築工事工費内謁書』、『天主堂床板張工事変更費用調書書』、『両袖 祭壇見積書』、 『本祭壇見積書』、 『請求書』、 『天主堂工事費清算書』 などの書類が残されている。  それらによれば、教会堂新築工事の請負契約は、1927年4月13日に交 わされている。請負契約金28,700円、工事竣工期限は「昭和2年7月31日 まで」とある。『天主堂工事費清算書』によると、本堂のほか、幼稚園、 保母宿舎、雑工事を含め、総額37,658円91銭が、コンフリート工業株式 会社に支払われている。1928年4月発行の『請求書』・によれば、1回目 3,104円43銭、2回目33,209円25銭、3回目1,345円23銭とあった。上述 の『天主堂工事費清算書』には工事別に工事費が記載されているので下 にあげておく。 工 事名 事 項 金 額(円) 本     堂 請負金 28,700.00 幼  稚  園 同  上 7,220.00 本堂模様替 増工事 665.16 保 一宿 舎 実  費 478.00 表石塀工事 同 431.44 鉄條柵及排水 同 35.76 構内整理費 同 210.84 雑役人夫及雑品 同 146.67 釣鐘工事費 同 65.18 繍工事納変更瀬分 294.1看 差引合計金 37,658.91 一 213 一   鴨壇lll .こ』ミ鼠 晦’ 副 図5-3-23新潟カトリック教会正面     (1982年撮影) 67:新潟新聞(1927.8.26) ρ , b 零 考 莞 ノ 、 」 よ 冒 雪 」 ㌔ 幽 ノ 短 与 ”   当 P ㌧ 、 , 弔 り 哩 声 唱 。 「盤,_亀、  聾 !難懇懇響騨灘鍵盤1欝饗灘辮鑛難鑛難平1灘懸li懸i懸懇諭鍵露盤灘懸勲1 雛藩i嚢繕嘗物i織灘幽幽雛白痴1欝一曲∵∵∵_.一二 運磯 「■ x.1P’㌔1、{鴨♂  ♂ γ’黒表蝦“’ f㌍ 謔煤ft一  ・  ・荊・…          L,,miiiNti噸脚幽騨幽幽一脚一一一一凸 ∴」溢しメ  珈議 .”一 昏 ∵ 至 発 ㌃ 聾 轡 量 韓 轍 群 メ メ 、 鯵 6S:Henry Hoek “Der Ski”(1911)  M.Zdarsky “Alpen(Lilienfe]der)  Ski-fahrtechnik”(1911) 69:瓜生卓造『スキv・・風土記』、熊谷隆   「北大とスキー一その実践の奇跡一」   (『えるむ』第20号、1977.2.25) 70:『北大百年史部局史』(1980) 71:『さっぽろ文庫61農学校物語』(北  海道新聞社、1992,6.24)p.106 72:北海道大学工学部建築工学科1951年  度卒業論文。 73:中山ヒュッテ(1928)、朝里ヒュッテ   (1929)、奥手稲山の家(1930)、無意  根山小屋(19 31)、余市ヒュッテ(19  4Dなど、毎年建設されていった。 5-4 スキーヒュッテ  北海道に近代スキーが伝わるのは・1908(明治4ユ)年・7月に命を受け たスイス入ハンス・コラーHans Koller(1881~1925)は・札幌農科大 学ドイツ語教師として9月赴任、会話教本として2冊のスキー書B8紹介 した。翌年12月、本国に注文した1台のストックなしのノルウェースキ _を予科生に試させたのが本道での初滑り69で・このスキーを見本に・ 予科生達は馬高屋で試作し、学内の斜面で練習を始めることになつだ。・ コラーは、ヒンデルの妹婿で、1925年夫人と子供3人を残して他界する ・i ェ、ヒンデルの二道(1924年)は夫妻のすすめによるものであることは・ 第4章でも述べた。  スキー登山を目的の山小屋は、Berg:Htitteに対しSki H:utteと呼 ばれる。本道の山小屋は、ほとんどがSki Hiftteであるが、大正期ま では本格的なものはなかった。営林局の山野林巡視小屋、造林造材小屋 が登山者のためにわずかに需要を満たしていた状態であり、パラダイス ヒュッテは、本道初の山小屋であった。  森本光彦『Berg HiftteとSki HUtteに就いて』72(1951年)によれば、 ベルクヒュッテの古いものでは、八海山小屋(御岳山黒澤)や弘法小屋 (富山県立山)などのように1913(大正2)年までさかのぼることができる という。また、スキー登山の拓けた立山の「五色小屋」は1923年頃、北 アルプスの「猿倉小屋」も1919年の建設であるが、いずれも夏山客を対 象としていたものを、スキー登山客が入り込むようになったため、途中 から冬山客も対象とする小屋としたものであった。在来のベルクヒュッ テをスキーシーズン中に利用する程度であったため、乾燥設備や積雪に 対する考慮もほとんどなされていない不完全なものであった。  スキーヒュッテとして専用小屋を新設する機運は1929~30年以降であ り、1930年に山スキーの大家ハンネス・シュナイダーが来朝したことが 一層拍車をかけることになるが、パラダイスは、こうした機運の盛り上 がる以前のものであり、Ski HUtteとしては、わが国最初のものとさ れている。  パラダイス建設から始まったヒンデルの一連のヒュッテ作品は、いず れも札幌に現存しており、その後のSki Hiftte建設に大きな影響を与 えた7Sが、ヒンデルの作品の中では、いずれも小規模なものである。ス イスでHUtte Lebenの経験を持つ者であれば、容易にまとめることが できたであろうし、デザインを展開するほどのものではなかったかもし れないが、のびやかに、楽しげに腕をふるっている。  本節では、札幌から横浜に活動の拠点を移した転換期を飾る代表的な 作品群としても位置づけられるパラダイス(1926年)、ヘルヴェチア(19 一 214 一 27年)、空沼小屋(1928年)の3ヒュッテについて概観する。 5+1=テイネパラダイスヒュッテ  建物は、札幌市手稲山、滝の沢上流、旧北海道造林会社所有地(現王 子緑化所有地)内借地に位置していた。北海道帝国大学文武会スキー部 15周年記念事業として、1926(大正15)年7月10日74起工、同年11月2日・ 2,946円94銭75で竣工した。  1925年5月のスキー部幹事会でスキーヒュッテの建設が決まり、6月 14日大野精七部長宅で設計および費用に関する懇談、建設地は予科教師 グブラーArnold Gubler(在任1925~’32)が教示、ヒンデルも無償で設 計協力、建具を寄付している。テイネパラダイスヒュッテの命名は・ス キー部長大野精七博:士による。1928年2月には秩父宮、翌年1月には高 松宮が一泊されたこともあった。  周辺環境との調和、プロポーションの良さ、1階「広間」(Aufenthalts- raum)や2階通路の腰掛や板張り寝台などののびやかで楽しげな扱いなど、 素朴な中にもスイス人建築家のいかにも手なれた作風を読み取ることが できる作品である。 またヒンデル直筆の原設計図76(図5-4-4)が、札幌 市冬のスポーツ博物館に残されている点でも貴重な例の一つといえる。  丸太材のトドマツ191本(末口径8寸~4寸、66石)は、北海道造林会 社所有地から伐採し、!926年2月立木調査、造材は軽石の山下勤之助が 1本80銭で請け負っている。途中4寸丸太180本が不足し、落葉松丸太 (末口4寸~5寸)を追加したという。ヒンデルとの言葉の行き違いから の誤算であったという77。板材、角材等は、大島製材所から購入、大工 はヒンデル紹介の藤川万吉が600円で契約したが、途中で絶縁し、留目 熊吉が引き継いでいる77。  5間×3間の校倉造2階建。1階は、玄関・薪置場(旧救護室)を除き 一室空間であるが、創建時には北西側に広間(Aufenthaltsraum)、南 東側に玄関、階段ホール、台所、救護室を一列に並べていた77。  広間は、壁際に造付け腰掛(Wandbank)を廻し、東西に食卓を置く。 広間、台所間には、ストーブと煙突(土管を積上げ\周囲を亜鉛鉄板張 りの板で囲む)7eを置くe玄関はスキー置場を兼ねた。救護室は、外部 の戸に鍵をかけず、担架などを備え、薪置場も兼ねた。  2階は約30名収容の寝室である。中央通路の南北は、板張り寝台で、 当初通路側に8度ほど傾斜させていたが、後に水平床に変更されている。 通路側にはリュック置場を兼ねた腰掛を備えている。  5寸勾配の屋根は、当初2尺×3寸の6分板葺きとし、上に丸太を並べて 石置きの予定であったが、工事費の不足から柾葺きに変更された7㌔  1931(昭和6)年秋に煙突の不備から屋根を半焼した以外は、大きな改 修はなく、1928年秩父宮殿下来訪に備え室内に便所を設置、1931年床板、 一 215 一 図5-4-1建設中のパラダイスヒュッテ     (酒井隆太郎蔵『酒井隆吉アル     バム』) 74:佐々木政吉「新設記念ヒュッテに就  て」(『北海道帝国大学文武会スキー  部創立拾五周年記念』 (1926.12.10)   による。「;菖いHdt ten-B uchから」   (『山と雪』3号、1931)p.121および、   向井四郎「テイネパラダイスヒュッ  テのことども」 (北大スキー部々報   1933)p。168では起工7月11日とある。 75:「薔いHUtten-Buchから」(『山と  雪』3号、1931)p.121および、向井   四郎「テイネパラダイスヒュッテの   ことども」(北大スキー直々報1933)  p.168による。 『大野精七の歩み』   (1981)p.122では、2,960円94銭とあ   る。 76:ヒンデル作“G1undrisse der Ski-  HUtte am Tene Berg” 77:佐々木政吉「新設記念ヒュッテに就  てJ(『北海道帝国大学文武会スキー  部創立拾五周分記念』 (1926) 78:1931年煙突の不備から屋根を半焼し  ている。 懇懇獺轟轟鱗鎌鎌鐡灘難磁議1講謙灘繋灘難灘羅轟獄丁継驚購響灘騨灘難聴灘懸鍵潔癖灘購曝露!欝難灘難難三瀬こ1「騨 LILinVi“EhSLtd-s;o一“..)tlt=rut“a-“;.IL a. 載 整 備 ” 一 娯ヂ・ 磯 鮮, 難      畷 図5-4-21951年ごろのパラダイスヒュ     ッテ(『Berg HUtteとSki     Hthtteに就いて』)         冒     2g’ ts ストーブ、窓などの修理、1934年土台、屋根の改修、1946年土台上げ、 1950、51、53年に屋根などを含めた修理、ユ955年に土台、柱、便所、ベ ッドの修理、1969年ストーブ、煙突とりかえ、1970年屋根修理、北西側 土台補強、西側支え、便所新設が行われるなど、部分的に手を加えなが ら使用されたが、1978年7月に閉鎖された。  1994年4月には倒壊し解体されたが、同年2月に発足した手稲パラダ イスヒュッテ再建期成会(会長有江幹男北海道工業大学長)により、旧ヒ ュッテの約400m西の敷地に外観復原がおこなわれ、ヒンデルの原設計 図をもとに山本幹雄理事が設計、本間組建工施工により同年12月新「手 稲パラダイスヒュッテ」が竣工している。 幽 驚’ 町回 eza”of一 JRua r一一一一一一?.;一Hpt=ny !        o eし”4静’ 動殉駒鳶脚  、 イ…  Hl   I   i    ま   _レ ===_二=工X一==二_=コ===}T-t 導〉\ i’ ・ミ\    瀞\     , N)・?X..,,    一一  糞錦   wwrfu-s. 図5-4-3パラダイスヒュッテ正面図(1/150) 79:北海道帝国大学医学部教授。1886  (明治19)年群馬県前橋市曲輪町生ま  れ。1911(同44)年東京帝国大学医科  大学卒業、1913(大正2)年から1918  年まで熊本医学専門学校医授。米仏  スイス留学後、1921年北海道大学医  学部に解剖学講座開設。第3代(1929  ~1931)、8代(1937~1939)医学部長  歴任。1949年定年。 ’  . ゆ         メ ㌧ へ β   ω     こゑノうみ  ゆ 十「際一r一十      一   ]   壷   叢   図5-4-4 パラダイスヒュッテ設計図(札幌市冬のスキー博物館蔵) 5-4-2=ヘルヴェチアヒュッテ  道々小樽定山渓線沿い、股下山下小樽内川の上流の白樺林にある。3 間×2間4尺、平家建約8坪、12人程度収容の小品で、ヒンデルとグブ ラーの共同出資および山崎春雄7S名義の個人ヒュッテであった。 「ヘル ヴェチア」Helvetiaは、スイスを象徴する女神であり、スイスの古、名 である。  1927年2月頃から構想が練:られ、帝室林野局支局との交渉などの実務 面は山崎がおこなった。帝室林野局からの敷地の貸し下げや用材の払い 下げは、山崎春雄名義で許可され、5月29日敷地選定、7月8、9日に 用材調査を実施した。用材は、設計によると6~7寸の丸太延長3,200 尺、立木数100本以上、その他藩材で、うち白材は、土台、窓下、棟木、 母屋などに用い、短材は2~3本継ぎとし、上下を白襲で固定された。 ㍊、 y         轍       . 鳩    」 礁     が ユ 時 制     慧 ハ   燃 “ ㌦ 魯 一 216 一             講照隠灘轍『灘鰹溝,          簿 ’  碍 ,                  踏       ,  1927年5月20日着工、同年9月13日竣工、請負は、掬いざリ(現恵庭市漁 村)の水本小判治。千歳川上流から江別付近で丸木舟造りの名人として 知られた。途中、銭函の大工田頭でんどうも雇用された。  工事中ヒンデルも共に山で暮らし、大工に指示し、時にモデルで説明 したという8。eヒュッテのカッセー(金庫)の細工や棟木の彫刻はヒンデ ル自らが腕をふるった。  スキー・靴置場を兼ねた玄関(1坪)と引違い板戸で隔てられた室内に は、ストーブを囲み、4隅に上下2段の寝台がある。左右寝台間には・ 一部(50cm)折畳み自在の食卓と腰掛を造付てある。丸太から削出した 流しの左側は、床下への開口である。床は、地上から約4尺上げ・床下 を薪置場とする。コンクリート製束基礎は、当初トドマツやタモであっ た。四丁として径1尺5寸のトドマツ2本、建築用丸太材は、6~8寸 のシラカバ141本が用意されたという80。校木の隙間にはコケを充填し たというが、現在は、丸太表面にアスファルト紙下地のこけら張である。 床の一部にはヤナギ、机にタモ、流し、木舞板、扉、雨戸等は、トドマ ツである。  5寸勾配の屋根は、2重葺きとし、下層を3尺長柾、表層を短柾で葺 いたという80。トドマツ製の雨戸・入口扉は白く着色され、赤い放射状 パターンのデザインは斬新である。扉は多雪時に備え、上下2分されて いる。棟木の木口には、前述のヒンデル作の魔除けの人面彫刻が彫られ、 下面には竣工年「1927」と刻まれている。  ヒンデルはこの年10月には横浜へ転居するので、在札中最後の作品で あり、 「王宮を建てたよりも…深い喜悦であった」8。と述べるほど、力 を注いだ作品であった。  1934年北海道大学に寄贈され、以来北大学生部の委託により、同大山 岳部が維持管理している。  1985年8月、改修工事が施され、外観では、屋根はアスファルトシン グル葺き、水切り銅板葺きに、外壁は、グラスウールによる断熱改修の 上、耐水ベニァ張り、とど松手坊令で張り替え、ポーチ部の増設、丸太 80:山崎春雄「ヘルヴェチアヒュッテの  建設」(『山とスキー』第78号、第79  号、1927) 図5-4-5 改修後のヘルヴェチアヒュッ テ(1986年撮影)  〆,’/イ額’ 一  榮t } 吻薦腿. ● 写 ◎ 喝 ギ 塾 丁 攣   」 り 」 ㌧ 「 畔 .?)i[,,r e E暴    』。 _的一... ._」興㊥   ゆ                コ お 図5-4-7ヘルヴェチアヒュヅテ平面図        図5-4-9 醒諸灘.融舳幽詔 図5-4-6建設中のヘルヴェチアヒュッ     テ(『山とスキー』、1927) 卜 獄 戯 タ 轟 デ 〆 OO ユ ー 肥 薩 →                   ノ     一 . 書 婆 ( r ㌦ 辱 図5-4-8 ヘルヴェチアヒュッテ東立面 図 一 217 一 ヘルヴェチアヒュッテ断面図 自 「 蜀 「 一 邑 一 「 ・ 灘灘黙黙畿羅羅繋累黙黙1欝i難騨}響灘i鍵螺饗懸驚耀雛購灘購灘讐鎌灘難難曲灘難難灘羅1難白磁i繕舗r 引 蓄 ナ ー ・ 1 , し 璽 子   奏 い 、 ’ ㌦ } ・ . 墾 齢 鯉欝懸螺囎 81:北海道大学山岳二部報国3号(1990) 図5-4-10秩父官殿下ヒュッテ(『Berg    HtttteとSki Htttteに幽い    て』) 82:小川玄一「秩父宮殿下ヒュッテの竣  工に當って」(『山とスキー』第89号、  1929. 1. 1) 83:森本光彦『Berg HUtteとSki  HUtteに就いて』(1951) 一 一 一1 L ,   一 曜曹 ” 噸  「 l Iト ; 1 」二===9 7盟 塗 _.一了 ; 1 ρ 1 l ii 二==二二二=む @1: 』瓢瀟養 , ’一.’・’・}   一    『 C一- 「 一 }      一  _一   一 幽 hl 1 1 } 一 7 :1 塵  一 『 一 人  一一一     _ _  ___一 9 1. 置 一  曽 材の防腐剤処理などがおこなわれた。斬新なパターンデザインの入口扉、 窓板戸は復原新設、ステンレス製煙突も新設である。内部では、床は断 熱処理のうえナラフローリングに全面張替え、流しの復原造りかえ、収 納庫新設、テーブル作り替えなどがおこなわれたが、当初のイメージを ほぼ忠実に伝えている。同年10月6日、改修完成披露式が行われたs’。 5-4-3:秩父宮殿下ヒュッテ(空汁小屋)  札幌市空沼岳、万計沼北側湖畔に所在する。1928年2月秩父宮殿下か らヒュッテ建設の希望があり、7月末プラン作成終了、8月初旬大野精 七博士が上京して宮家へ報告、8月25日宮家から工事一切を北大にて司 るよう下命を受けた。9月10日ヒンデル来忙し建設地検分、同28日着工、 10月17日地鎮;祭、11月16日上棟式を経て、12月10日竣工。施工は、伊藤 組が請け負った82。地鎮祭には、北大総長代理根本事務官、大野精七、 山崎春雄、萩原惇正営繕課長、帝室林野局沖野技師、工事請負伊藤豊次 らが参集した。  4間X3.5間の主屋に奥行4尺の下屋を付属した校倉造2階建で、壁は 角材、軒下3段までの庭木小口に鼻隠板が、装飾的に付加する。ガラス を中央に入れた桟戸風雨戸の丁番金物も、装飾的に扱われている。1階 は、下屋東側を薪置場、西側を玄関とし、扉を隔てて台所、東側は小屋 糸面である。当初、玄関部を物置、小屋守室側を前室としていた83。広 間は、ストーブを囲み、東西に寝台と造付けの腰掛・食卓が並び、南西 正面にはコの字型に腰掛が造付けてある。  2階は、中央の吹き抜け(6.5尺×13尺)と通路をはさみ、通路側に約 3.5度の勾配をもつパラダイス式の寝台であった。  1929年!月高松宮が宿泊された際、 「空沼小屋」と命名され、翌年2 月11日から一般開放され、1947年北大に寄贈された。 e 量 噛 § i ri一一t””一”=Ul :コ  O o・ tr P■・.zL」rでt[: 鼻 g §§ e 図5-4-12秩父宮殿下ヒュッテ平面図 一ew, Q 一 218 一 灘懇懇灘懇懇灘灘1,、ww, ,,,、$. Sl.IPSEItrE 鋤ξノ捧{}麺痴氏_ _β.}朝.PR塑C月ICH〔BU・ ● 鉢 懸 ewamF-osmaX4 W話丁5ElrrE.. 犠。”∴tt“…」_r廓8. 一    一 難 羅 ト  ㌔ 簾 繍                     躍 ma,DES mu に」’ [コ.ρロロロ., 一 一 一 @吟   ; ⊂ 】 ・ l i o [ = : ・ 1 撃 電 7 1 1 1 1 1 ・ 1 一 1 齢 一F 等 」 :   一 じ b一馴一一6押一 ,一一鴨曜祠一嘲幽己 __」」       ぶ 図5十11秩父宮殿下ヒュッテ設計図(『山とスキー』第89号、1929) 図5-4-13秩父宮殿下ヒェッテ北立面図 一      一  一 ■ 一} 一 一  一 ●                     ● 〟@                       o 怐@                    ● 幽    一  『 一           ■ D                     鰯 怐@                    ,   一 ○ 図5-4-15秩父宮殿下ヒュッテ断面図 一 219 一 図5-4-14秩父宮殿下ヒュッテ南立面図 ・F,一・,一・.L,一・+一v・.一,“v一’. ’ 馨 藝 騨 三 三 ピ レ 農 ジ 悔 舞 鈷 薩 慰 項 識 蒙 一 藩 灘騨懸灘欝懇懇:三灘鎌撫雛識{惣懇諭論曝ふ~蕪認許耀繋響離離騨”’ Ψ・マr∫羽驚鞭葱t””” ?    サ 84:『新訂建築学体系6近代建築史』  (彰国社、1968.7。1第2刷)p.188 85:ペーター・ブレイク/田中正男、奥平  耕造訳『現代建築の巨匠一20世紀の  空間を創造した人びと一』(彰国社、  1963.8.10)p.84 86:S.ギーディオン/太田實訳『空聞・  時間・建築2』(丸善㈱、1955.5.25)  p. 555 5-5 ジュネーブ国際聯盟会館案 ≡≡≡≡卿層    、’1記、,..t.、i      毒・謬     。、募、    彰   、繋    ぼ       ナ    、’・ t一 携            駄     ’〆へ  ・ぐ ’;   ㌧ 野〆        熱  t“A戸 一一ョ:ユ・  多多 二  /、 図5-5ヨ   ル・コルビュジェが「近代建築の一つの規範を確立した」8“といわれ、  また最も「近代的な」85内容をもちながらも採用されなかった事情を有す  る「国際聯盟会館建築設計競技」Architectural Competition for the   erection of a League of Nations Building at Genevaは、「官庁  建物の設計において、始めて現代の建築家がアカデミー一の慣例に挑戦し  た」8B「現代建築史におけるもっとも輝かしい挿話」86のひとつとなった  国際競技設計であった。   ヒンデル案については、透視図(図5-5-2)と配置図(図5-5-3)の写真が  残るのみで、詳細は不明であるが、古典主義的な建築であったことはみ  ての通りである。6つの翼廊と2ヵ所の連絡通路を張り出した円形建物  のパースは、総会会議場を描いたものと考えられる。   会議場は、半円アーチ窓をみせたルスチカ仕上げの下層部と上4層と  で構成され、主簿の中央頂部には16体ほどの手をつないだ人型彫像を掲  げた古典的な建物である。おそらく中央部円形平面部分に、総会会議場  を配置しているのであろう。   主棟から張出した8っの翼廊部分では円柱柱型を4層部分まで通し、  柱間をスパンドレルと窓とで構成し、張出し部にはさまれた主二部の外  壁は、2層目を成の低い角柱とエンタブラチュアーで引き締め、3層目  から上を張出し部と同様の意匠としている。彫りの深い軒コーニスが、  5層目頭部全体にまわっている。 壽 . 1’1彰総rt                     のちニニ       響芦≡三 . ジュネーーブ国際聯盟会館ル・コルビュジェ案(Charles Jencks “Le Corbusier and the Tragic Viev of Architecture”1973) 一 220 一  会議場北側に接続する建物は、3っの中庭を囲い込んだ対称形平面の 事務局棟と思われる。これだけでは評価できないが、おそらく古典的デ ザインを基調とした外観意匠であったと考えられる。  ここで、競技設計の過程と綱領、結果について、概説しておきたい。  競技設計の募集は、1926(大正15)年7月25日に開始され、締切期限は、 翌1927年1月25日とされた。  建築雑誌第488号(1926年)掲載の1926年4月7日付け「ジュネーブ國 際聯盟会館建築設計競技綱領蛇に規定」(訳文)によれば、敷地は総面積 66,406㎡、西はローザンヌ街道に面し、東はジュネーブ湖に接し、南は モン・ルポー公園、北はバルトン氏の地所に隣接している。バルトン氏 地所は、建設予定敷地と国際労働事務局との聞に位置し、後日連盟所有 の敷地となるはずの部分であった。  建物は、2つの主要部分からなり、2っは回廊(ギャラリー)または柱 廊(コロネード)によって連絡する別々の建物にするか、または控室(ロ ビー)、回廊(ギャラリー)などを有する単一の建物とし、1っは「総会会  PAiA15 DES NATIONS PERPSPECrlxf M 図5-5-2 ジュネーブ国際聯盟会館ヒンデル案透視図 PL▲N oεSヨτUAT寡㎝  GROUNO PLAN Ima r.di!.auaue  vL“ewaL f 図5-5-3 ’♪ 毎 、 譲 斜 煎 豆 、 h . 一 世 . ℃ 4     曜   7 ㌦   ・ 翫   二 一 ! .一   ’ → r , 識.撫.獲     コ       メ        ラ ギ ち し コ   ロ 4ie        }”  sifres l:IISIEilllll$iiS))’;iC. Gsiit〈ti        INIIII ジュネーブ国際聯盟会館ヒンデル案配置図 一一@221 一 難難蟻姦悪黙黙慰撫鑛灘喫緊灘灘i難灘縷鱗1繍雛響雛響醤難響鷲i響騨懇…難聴灘幽幽幽幽白白二一 ぎ      ほ 一 悶羅罵灘遭 難 郵 断       畿 - ゑ . 鯵 撃 購 丁 緊鯵 ・ “一  ’‘,L .. ,’.t ’C;:t’Lr” 1’ 圏鼎固・“媚’ 議室」、 「理事会室」、付属室、他の1っは事務局である・  事務局は、事務総長のもとに480名の職員から構成され、次の諸室を 必要としたa 事務総長および事務次長室、国際事務局部、政治部、法律顧問室、 行政委員会及び少数民族問題部、軍備縮少部、経済財政部、保健部、情報部、 委任統治部、社会問題及び阿片売買部、交通通過部、会計部、 ラテンアメリカ局の部局、総務課、議事録編纂・出版・販売課、 通訳及び翻訳課、記録課、配布課速記タイピスト溜り、騰詮索、図書館、他  総会会議室は、400名の代表者席を設け、それらを階段的、または傾 斜的に配置し、正面には議長、事務総長、通訳が座る高座を設け、左右 に事務局員(各10名)中席を、議長跨下に演説及び投票のためのプラット フォームを必要とした。ほかに新聞記者席、約1000名収容の公衆席など が要求された。理事会関係室として、 120名の公衆用ギャラリーを備え た公開会議室、議長室、秘密会用室、新聞記者室、湖水に面する食堂な どが条件とされている。  ほかに付属建物として、自動車25台、自転車約100台のガレージ、運 転手控室、さらに約75台の自動車用差しかけ屋根または、ギャラリーを 設けることなどが記載されていた。  応募者が提出すべき設計図および書類として、次のものが要求された。 (a)建物及び庭園を含む配置図一縮尺500分のユ (b)地階及び他の初国(地下室及びガレージを含む)の平面図一縮尺200分の1 (c)立面図(三方)一縮尺200分の1 (d)湖に面する立面図一縮尺ユ00分のユ (e)縦横四断面図一縮尺200分のユ (f)wa会会議室詳細図、平面図一、断面図ニー縮尺50分の1 (g)透視図二、うち一は鳥瞼図 (h)応募者に配布した価格表及び見積書見本に基いて作成した見積書 (i)設計の概要及び構造、暖房装置並びに換気法説明書  注意として、図面はストレッチャー(画布台)又は厚いボール紙に糊張 りすること、インディアン・インクで書くか、又はポーシェ(poches)を 施すこと、断面図及び立面図は、線仕上げ、または単彩仕上げとするこ と、透視図の仕上げは応募者の随意とし、単位はすべてメートル法によ ることが記載されている。  審査員は、H.P.Berlage(ヘーグ)、 Sir.J.Burnet(ロンドン)、 Charles Gato(マドリッド)、 Joseph Hoffmann(ウイーン)、 Victor Horta(ブリュ ッセル、委員長)、Carles Lemaresquier(パリ)、 Karl Moser(チューリ ッヒ)、Attilio Muggia(ボロニア)、 Ivar Tengbom(ストックホルム)の 9名で、補欠審査員として、卿.Kromhout(レンクム・アルンハイム)、 H, S.Goodhart-Rendel(ロンドン)、 Pascual Bravo(マドリッド)、 Eugene Steinhof(ウイーン)、 Franz de Veste1(ブリュッセル)、 Gabriel He- raud(パリ)、 Ca皿ille Martin(ジュネーブ)、 G.B.Milani(ローマ)、 Erik La!lerstedt(ストックホルム)らが名をつらねていた。 一 222 一 審査員の事務実行は聯盟事務総長が準備し、審査員の義務として、 (a)募集綱領を起案すること (b)図案を審査し、所定の条件に最も適し且つ美術的実用的見地よリ最も満  足すべきものと認むる図案を選択すること (c)賞金及び選外賞金の振当てをなすこと (d)応募の結果に基月、実施すべき図案を決定すること (e)事務総長より聯盟各国政府に送付すべき報告を作成すること (f>応募者の氏名が外部に漏れざる方法を講ずること 以上があげられた。  この競技設計の募集規定について、長野宇平治が1926年9月16日の日 本建築学会通常会で評論している。その内容を要約すると、 ①国際建築士大会IRternational Congress of Architectsの1906年第7  回大会で決めた国際建築競技の規定Regulations lor International  Archltectural ComPetitionsにほぼ従っていること。 ②設計すべき建物については、所要室は延べ5,343坪、それに予備室や廊下、  ホールなどの面積を加えると約8,000坪の大きさになるが、日本の相場で  考えると示された工費ではかなり困難な建築で、応募者は余程考えなけれ  ばならない。 ③総会会議揚の議員席配置はゆったりしており、膨大な面積となって設計者  にとっては苦痛なところで、また設計の優劣の分かれるところである。 ④予算総額はユ,300万フランときめられており、主な材料の単価、工賃も記  されているが、予算編成は苦痛かもしれない。 ⑤競技者のため文書は十分なほどの量が配布されているが、ジュネーブの建  築法規というものが掲げられておらず、おそらく建築法規適用の除外地区  と推量できること。 ⑥賞金総額ユ65, OOOフランは、建築費1300万フランのユ00分のユ.269にあたり、  少し少ないように思われること。 などをあげている。  締切りは、1927年1月25日を期限とされ、65回にわたる87審査会の末、 同年5月5日gsの最終審査結果が6日に公表された8s.応募総数は377 点89、優良9点賞金12,000フラン、佳作1級9点賞金3,800フラン、佳 作2級9点2,500フラン、計27点の入選作が発表された。「其の大半は募 集規則に合わせざる故に所定の等級を附せず優等一・等及二等各九を選び 最後の決定を聯盟総出に委すること・せり各等を通じ本邦人の入選なし 磨募圖案の展覧は六月末の豫定なり」89と、国際聯盟東京支局から通知 されている。  審査会の経緯については、 『現代建築の巨匠一20世紀の空間を創造し た人びと一』中のル・コルビュジェの節に詳しいが、コルビュジェの計 画案をベルラーへ、ホフマン、モーゼルら「新建築のための真摯な闘い の真只中に」soある人物たちが支持し、ジョン・バー一一ネット卿、レマレ スキェら新建築運動反対派やアカデミー派の人物たちは反対した。  近代精神による作品の選考に賛同するグループは、委員長オルタの支 持を受けることによって過半数を構成するはずであったが、オルタが伝 統主義者側に加わることによって、反アカデミック案が選ばれることが 一223一 87:前掲『現代建築の巨匠一20世紀の空   間を創造した人びと一』p.85 88:『建築雑誌』(M497、1927)p.150 89:『建築雑誌』(M497、】927)p.149 90:前掲『空間・時間・建築2』p.561 1at.一 蕪灘灘懇懇繋懇灘灘鍵灘強灘藏灘鱗論難濤繕諭滋峨翻懇懇翫’樺樫 灘囎ぎ’羅1∵丁岬’ 91 『建築雑誌』(th506、1928)p.194 92:前掲『空間・時間・建築2』p.651およ  び前掲『現代建築の巨匠一20世紀の  空間を創造した人びと一』p.87によ  る。 不可能となり、ル・コルビュジェ案を含む9っの1等賞を決めることに よって表決に到達し、9人の受賞者から聯盟本部の仕事を受け持つ建築 家1人を選ぶことは、聯盟の政治的手腕に委ねられることになったので あった87。  1928年1月19日付け国際聯盟事務局東京支局のコミュニケ第58号s’に よれば、第8回聯盟総会では、安達大使を委員長として、オススキー(チ ェコスロバキア)、ポリスチ(ギリシャ)、ウルチア(コロンビア)、サー・ エドワード・ヒルトン・ヤング(イギリス)の4名からなる委員会を設け、 9案を審査し、最も実際的並びに審美的要求を充たすと認められた1案 を、必要があれば修正を加えて選定することが決められた。この委員会 は、1927年11月及び12月19日から22日までジュネーブに会し、次のよう に決議した。 ユ.委員会が不十分ながらも要求を充たしているとするのは、387号H.P.ネ  ノーとJ.フレーゲンハイメルの合作案である。 2.委員会では本(387号)設計図案に不満の点があるので、これに修正を加  える。新設計図案は、387号ネノー(パリ)、フレーゲンハイメル(ジュネ  ーブ)両名と、n7号プロツギ、ヴツカロ、フランツチ(ローマ)、 ユ43号  ルフェーブル(パリ)、43ユ号ヴァゴー(ローマ)の5名および国際聯盟事務  局の協力を得て作成する。 3.基本案の作者及び上記協力者は委員会の提案する修正を容れた新図案を  作成すべし。委員会は先ず其の新図案を審査し、しかる後これを承認す  る。 4.ジョーン・デイ・ロックフエラー(子息)が国際聯盟図書館の建設並びに  財団として提供する寄付金を考慮に入れ、基本案の図書室設計は取消し、  新図書館に対して別の設計図案を作ること。 5.会館の新設計図案と図書館の設計図案の建築工事費は建築家に対する報  酬を加えて、国際聯盟会館に対してはユ,950万スイスフラン、図書館に  対しては約400万スイスフランを超えてはならない。 6.略 7.委員会では建物がモンブランに面する様に設計されるよう、且つ湖岸の  樹木をできるだけ多く保存するため、湖岸よりなるべく奥に引っ込んで  建てるよう設計腐ること。 8.新設計図案はその作成に当たって協力した建築家全員の署名を要する。  こうして競技設計が実施されてから10年後の1937年になってやっと会 館建物が使用されるようになったが、その日から聯盟の複雑な機能に対 処できないことが判明したのであった92。実施案はまったくの失敗であ った。 一 224 一 触 図5-5-4 387号ネノー、フレーゲンハイメル案     (『建築雑誌』1927.11) .一一一一一.一.一ttt ’L . in      lト  r一:r;tL, ・ . 』部∫㍉・轟i騰亀 t-NIGSNve’“z・ 匿睦㎜ 曹 ∴囎        ___瑠罪 図5-5-5 117号プロツギ、ヴツカロ、フランツチ案     (同左) ●唱圃嶋脆晒■叫唱薦b胤脚り齢 幽!蝉闇闇嚇’.即『融鴨 嘱幽臨x融血圧隅L月齢嘱 V 監 ,鑑,    ロム  tSJ pcr・【E・Ct側55CE⊂_♪●●・茸ボ6七一⊃ 胴  ャ適  「レ 聾至  酬譜  幽 か曄 隔 白噺一…』や bラ・・帯事肛τユ=L瑛卿ロm覆工1」         Lf.s 毛一塗’           ’e et A 図5-5-6 143号ルフェv..ブル案(同上) 一 225 一      6     疇 ’置 �S :F一  ∫ つ’ 抵~    Il        レ  =’     愚勤・     … 図5-5-7431号ヴァゴーL案(同上)       {鴇       謂  ヨ顧て】磁 一‡一{詰コ5iτ}璃肖      トユトモ 4一㌦ @[111 離灘欝欝雛叢難繋饗饗1灘灘鍵欝蜀酸灘懸灘辮醤 .禦 購鰹鎌灘魑羅欝欝離離麟羅灘癒糠灘茜融灘熱・ 第6章 横浜時代の作品 図6-1-1 旧ヒンデル邸南東側外観 x 図6-1-2 旧ヒンデル邸居間南東面  第4章でも述べたように、ヒンデルは、1927(昭和2)年10月横浜に活 動の拠点を移した。1935年に設計事務所を解散するまでの8年間にてが けた作品として、名古屋、岐阜、金沢、十和田、宇都宮などのカトリッ ク教会及び幼稚園、上智大学(東京)、南山中学校(名古屋)、聖母病院 (東京)、ドイツ学園(東京)など教育、医療施設のほか、自邸を含む横浜 の住宅建築を2っ明らかにすることができた。本章では、住宅、宗教建 築のほか、南山中学校、上智大学、聖母病院など、横浜事務所時代の作 品を通覧しておきたい。 6-1住宅建築 6-1-1=ヒンデル邸  1927年10月にヒンデルが設計事務所を開設したとされる横浜市本牧満 坂には、旧ヒンデル邸が現存している。現住所は、中区本牧満坂253に あたる。おそらく、札幌同様、当初は事務所併用住宅として使用された ものであろう。  現在は、ドイツ人弁護士ゾンデルホフ邸となっているが、所有者の変 遷などの経緯については不詳である。  高低差のある敷地の北西側の高台に建つ木造2階建て下見板張りの住 宅であるが、当初は、うろこ形のこけら張り仕上げであった(図6-1一一6)。 金属板瓦棒葺きの屋根はヒンデル好みらしい裾広がりのフレアードルー フ、棟端飾りは、函館のトラピスチヌ修道院応接室棟(1930年)の玄関部 屋根にみられるものと酷似している。  現居住者の意向で、平面等の調査は実施していないが、内外とも維持 状態は非常に良い。現居住者が取得後、長い期間同一の設計事務所を通 して、模様替えや維持管理を行っている結果であり、特にインテリアに 関しては家具にいたるまで現居住者のこだわりが感じられる。従って、 内部意匠、造作に関しては、ヒンデル設計のオリジナル部分が残ってい 一 226 一 躍羅臼灘、 る部分は少ないように思われるが、南東の庭側に突出した平家部分の居 間のように、三方に窓を配した明るい空間は、札幌時代からの住宅作品 にみられる共有空間への採光面での配慮に通じるものである。また、上 下2段に分割した窓開口も、できるだけ大きな開口部をとろうとする手 法で、各所で上下とも引違い窓としており、ヒンデルが好んで採用した 日本的なもののひとつである。  正方形平面に近い居間は、円形天井とし、4隅にできる曲面三角形部 分(図6-1-5)には、擦りガラスをいれて天井照明としている。円形天井 の梁部は細い円柱で支えられ、円弧上に8本立つようになるが、北北東 隅部の1本は、開口位置の関係から部屋隅部に配置し、浅い収納庫の両 側を飾る付け柱風の扱いとしている。南東庭側の4本は独立円柱、北西 側では付け柱が曲面三角形の両頂点を挾む位置にそれぞれ2本ずつ立っ ている。北側の隣室との間の開口は現在建具が取り払われているが、引 違い板戸であったと考えられる。  曲面三角形部分の天井照明の方法は、小屋裏に玉石をバランスウェイ トとした白熱球を下げ、照度調整は、白熱球の高さを変えることによっ てコントロールするといった工夫がなされている(図6-1-5)。  2階子供室などに見られる8角形小窓は、札幌藤女学校(1924年)の妻 部にみられる円形小窓、北星女教師館(1926年)や山崎邸(1925年)にみら れる菱形小窓といった幾何学的形態の小窓の延長上にある意匠というこ とができる。 図6-1-6竣工後まもないヒンデル邸 図6-1-3 旧ヒンデル邸居間北面  ▼一tt     磐            ゴ 轄  イ ベ 図6-1-4 旧ヒンデル邸居間天井隅部           ×            N 図6-1-5 旧ヒンデル邸小屋裏(バランス    ウェイトの玉石がみられる) /溝. 図6-1-7 旭シルク㈱住宅外観 一 227 一 灘霧響歪穆璽1灘一顧欝1幽幽欝欝雛騨二三 鱒 讐署1『鱒蝿鞭こ iin ユニ横浜開港資料館堀勇良博士による横  浜防衛施設局調査 2:元朝日シルク株式会社取締役藤林佐  太郎書簡(1988年4月18日付)による。 3:堀勇良博士による土地台帳調査。 4:ここでは、横浜防衛施設局調査の数  宇によったが、「昭和28年7,月31日受  付第19020号保存登記」によれば、   「建坪69.5坪、外2階5坪、地下5坪」  とある。 6-1-2=旭シルク株式会社住宅  横浜市中区荒井123にあった木造瓦葺き平家一部2階建ての住宅は、 旭シルク株式会社住宅として1928(昭和3)年10月27日1建築された。ハ ンス・ヒンデル所蔵の外観写真が2枚残るのみで、詳細は不明であった が、横浜開港資料館堀勇良博士による、建物登記簿調査、土地台帳調査、 横浜防衛施設局調査、および元旭シルク株式会社取締役藤林佐太郎氏の 教示によって、多少概要が判明した。  本建物は、輸出用生糸の検査官としてアメリカから派遣されたクーパ ーCooper一家の宿所用貸家として旭シルク㈱が建設したもの2で、土 地は1928年5月23日、同社が渋谷徳蔵から購入した3。  小屋裏階への採光用屋根窓をみせた成の高い寄棟屋根の主棟の両側に 袖翼のばした住宅で、!階は「客間兼食堂、居間、寝室3(うち浴室付き 2)、使用人室3、厨房、その他(WC、外套室、食器室)」、2階は「屋根 裏部屋」、地階は「倉庫、使用人室(WC付き)」1などで構成されていた。 主屋の屋根は、瓦葺きではあるが、はっきりと裾広がりの意匠を採用し ており、白い外壁とのコントラストがシャープである。窓開口は、開窓 き風に見えるが、外側に両開きの鎧戸を建てこんでいる。  写真手前の翼部には、戸袋とガラス戸、ガラス戸越しに竪額入障子も みえ、縁側付きの和室群が並んでいる。主棟との間に櫛形アーチをかけ た吹き放ちの土間部分がみえる。  戦時中は空家となり、接収以降は、賃貸借契約により米軍に供され、 通称「司令官ハウス」と呼ばれた。1954(昭和29)年3月31日1、200万円2で 買収されて国有財産となり、土地447坪、建物延べ99坪(1階83坪、2階5. 4坪、地階10.8坪)4は、総理府の所有となった。  1982年頃取り壊されている。 図6+8旭シルク㈱住宅遠望 一 228 一 閃 難 蟄 蜘 鴨 脚 欝 鰯 粥   き 聾 暖 蛇   響    だ ゆ 灘騒騒灘黙黙i灘1灘群 6-2宗教建築 6-2-1=熱田天主公教会(1928)  名古屋市熱田区図書町1-11(旧南区豊門町3丁目11)にあった教会 で、1928年2月15日献堂式をあげた5。瓦葺き木造一部2階建て、開口部 の一周りを白くし、外壁を黒っぽく仕上げている。モルタル仕上げと想 像され、竣工まもないカトリックタイムス(1928年5月11日)掲載の外観 写真をはじめ、 r素顔の名古屋教区』(1968年)には同様の写真(図6-2-1) が掲載されている。瓦葺き木造2階建て司祭館も、聖堂と同時に完成し ている。いずれも1945年5月17日の空襲で全焼した。  次節に述べる岐阜教会と意匠的によく似たバシリカ形式を採用し、屋 根は裾広がりの瓦葺き、畑鼠中央には鐘塔を立ちあげている。この小塔 には、1929年10月27日教皇使節マリオ・ジャルデニー閣下により二二さ れた釣鐘が納められたe。この鐘塔のほか、交差廊両側面上部、アプス 部両側面にはヒンデル好みというべき円窓をみせ、アプス中央や外陣側 面にはロマネスクに傾倒するヒンデルが好んで採用する半円欄間付き縦 長窓がみられる。いずれも色ガラスを建てこんでいたと思われる。  なおこの教会の外観写真と考えられる写真2葉が、南山学園に所蔵さ れている。外壁を白っぽい横羽目下見板張り、開口部枠はやや黒っぽい 色のツートンカラーとしており、写真隅に写るルルド(1932年11月26白 祝別)や司祭館はまぎれもなくこの熱田教会である。いっ頃の写真か判 然としないが、1枚には「S・11・10シェプラ師銀祝記念」との記載が ある。最初のSは、5とも読めるが、『素顔の名古屋教区』掲載の1932 (昭和7)年11月26日ルルドの祝別写真では黒い外観であるので、1930年 とは考えがたく、ここでは1936(昭和11)年10月撮影写真としたものの、 なお疑問の残るところである。 6-2-2=岐阜天主公教会(1929)と付属幼稚園(1930)  岐阜市青柳町3丁目(旧西野町6)に建てられたこの教会は、1929年2 月28日献堂式をあげた7。  『カトリックタイムス 第200号』(1928.12.21)によれば、1926(大正 15)年7月岐阜市長住町3丁目の普通住宅に設置された天主公教会は、19 28年4月、岐阜市内西野町6丁目に約500坪の土地を購入、8月着工、 年末には外観がほとんど完成した。 「県庁公会堂と共に岐阜新名門(ママ) の一つに数えられるようになった」8という。  ヒンデルについては、「ジェネブ(ママ)の国際会議場9をはじめ新潟教会、 熱田教会等を設計せる其界の権威独逸人(ママ)ヒンデル技師」8と紹介し、 請負は「熱田教会其他で腕を鍛へし岩永伊勢松氏の率ゆる浦上信徒の一    ミ ・響謬難i 一 229 一 5:『素顔の名古屋教区』(1968.10.15) 6:『カトリックタイムス第233一号』  (1929.11.21) 図6-2-1 k 熱田天主公教会聖堂と司祭館 (『素顔の名古屋教区』) 図6-2-2熱田天主公教会聖堂回廊部     (1936年頃か)(南山学園蔵) 7:『カトリックタイムス第209号』  (1929.3.21> 8:『カトリックタイムス第200号』  (1928. 12. 21) 9:1926年実施のジュネーブ国際聯盟競  技設計でヒンデルの応募案が知られ  ている。 磯難!騨一睡幽幽欝謹二三醗 w慰71 懸懇懇難蟹野懇懇恥一・ 轟鮒 ㌧饗『1 10:『カトリックタイムス第200号』  (1928.12.21) 11:『カトリックタイムス第209・号』  (1 929. 3. 21) 図6十3岐阜天主公教会聖堂と司祭館     (神言神学院蔵) At r= 図6-2-4岐阜天主公教会聖堂    内陣と側廊(神言神学院蔵) 団」8と報じている。  教会は、間口5間半、奥行10間、建坪55坪の木造平屋で、地盤iから屋 上まで35尺、前面の鐘楼は4層から成り上端まで70尺、バシリカ様式を 採用して、外部は「美麗なる」3人造石で仕上げられていた。側廊の半円 欄間付き引き違い窓に対応するように、身廊のクリアストーリーは、半 円縦長小窓を二連ずつ配置している。  内部は、中央通路の左右を畳敷きとする坐式の会堂とし、入り口側の ギャラリーは、聖歌隊席である。回廊と側廊とは、方円柱頭付き木造円 柱をつなぐ半円アーチ開口の「白色」下がり壁が分節している。下がり 壁のアーチは、アプス部分を半円状に回りこんで連続するが、全体にや や重苦しさを与えている。  側廊両面の開口部や豆汁部のクリアストーリーは、半円アーチの欄間 付き窓を並べ、聖堂内部に十分な明るさを提供していたようである。聖 壇前面交差廊の妻壁には、ヒンデル好みの円窓もみられる。いずれも色 ガラスをはめ「ステンドグラスを透して流れ込む光は美しい綾を織り、 セピア色の碁(ママ)(格か)天井、白色の壁と共によく調和して神秘な気分 を起させゴ。る効果であった。内部正面の大祭壇は、ウィーンの「美術の 泰斗フレベル博士の設計監督」10で製作された。  同時に建てられた教会堂前の牧師館は、木造2階建て18坪の住宅で、 2階正面には聖母子忌を飾り、外壁は会堂同様に人造石仕上げであった。 入口の石門、石塀も同時に完備された。  工事は1929年2月に完成し、28日に献堂式をあげている。参列者300 数十名の盛大なもので、金沢知事、同夫人、徳川好敏、同紙入、松尾市 長、野々村商工会議所会頭、税務署長、岐阜駅長ら11の来賓が参加した。 『岐阜日日新聞』では、 「夕日に輝く十字架の聖堂」と題して250行か らなる記事を2日間連載し、発行部数第一の『新愛知』でも教会の全景 を紹介するなど1、中部地方において大いに注目された会堂であった。  1929年10月29日、教会塔屋内に熱田教会と同様ジャルディー二教皇使 節により祝別された「アンジェルスの鐘」が設置された。 「ドイツ、ド リーボルヒのフランシスコ・ザベリオ高等学校生徒がまこころこめて贈 遡1里襲蟹1慶 議 図6-2-5 岐阜天主公教会外観(神言神学院蔵) kww 輌 璽. 図6-2-6 岐阜天主公教会聖堂内部(神言神学院蔵) 一 230 一 って呉れた」12ものである。翌1930年には、内陣部正面の壁に「日本カト リヅク画壇の双攣黒澤、佐々木両画伯ゴ3により、「ペンテコステの壁画」 ユ3 ェ描かれた。  また1929年5月1日、併設の木造2階建て総坪数23坪の天使幼稚園が開 園式をあげた。聖堂に隣接した敷地の南側に運動場を、北側に園舎を配 し、階下に遊技室、保育室、保母室を置き、80名の園児を収容したIs。 「独逸幼稚園の粋をとり入れ、換気に採光に保温にすべてが理想的に完 備」13したもので、ヒンデルの日頃の主張をよく反映した作品の一つで あった。  1945年7月9日空襲により、聖堂、司祭館、幼稚園など敷地内のすべ ての建物を焼失している。 6-2-3=御器所天主公教会(カトリック恵方町教会)(1931)  当教会については、名城大学理工学部畔柳武司の調査、研究14がある ので、本:節では簡単に触れておきたい。畔柳の1989年調査では、ヒンデ ル関連資料として「名古屋市ごきそ天主公教会設計図」と題する「昭和 五年拾壱月」付けのAl版図面7枚が確認され、筆者も部分コピーを資 料として使用したが、改めて筆者による1994年調査では、教会でも所在 が不明で現物を確認することはできなかった。ほかにも仕様書や1930年 12月19日付けの建築申請書、玄関部増改築および塔屋図書(1949年1月 12日)などの資料もあったというが、これらも同様に不明である。新聖 堂、新司祭館が1985年3月に竣工し、旧聖堂は重度身体障害者の福祉団 体「ATU自立の家」の事務所兼権作丁丁として転用後、1989年9月2 日に解体されたことや、司祭の交代などが重なったためと思われる。ヒ ンデル資料として貴重なものだけに所在の確認が課題として残されてい る。  さて本教会は、ライネルス教区長が1928年当時教皇長使節として在下 していた後のピオ十二世に寄付を請い、その浄財を基礎に、その後ベル リンのカトリック新聞社社長ローレンツ・ツアッハ博士が中心となって 建設資金が集められた15。1931年2月22日定礎式15、6月21日献堂式15 を挙げたが、施工は名古屋市中区新栄町2丁目8保坂工務所が担当し、 建築申請書では同年2月24日起工、竣工は同年10月30日とある。  1945年5月名古屋空襲の折に焼夷弾により被災し、内陣の一一部を破損 している14。設立当初から通称桜山教会あるいは御器所教会と呼称され 15 A1948年10月25日恵方町教会と改称された14。!949年1月12日、北川 建設株式会社(名古屋市西区牛島町106)により玄関部を改築し塔屋を増 築、1954年ベルリンから鐘が送られ鐘塔に取付けられだ4。1974年8月 聖堂内の畳敷きが板張りじゅうたん敷きとされている14。1985年新聖堂、 司祭館が竣工し、旧聖堂は前述のように福祉団体の事務所兼作業室に転 一 231 一 難黙認鱗灘難灘羅懸撫議懇頃日四号議灘雛熱羅1墨謙遜 12:『カトリックタイムス第233号』  (1929. 11. 21) 13:『カトリックタイムス第246号』  (1930, 4. 1)            需 訓6-2-7岐阜天主公教会司祭館     (神言神学三蔵) 14:畔柳武司『恵方町カトリック教会堂  建築について』名城大学理工学部研  究報告(1990) 15:『カトリック恵方町教会五十周年記  念誌』(1981.6.21)p.15 停 軋 甕 図6-2-8 恵方町教会南側遠望     (玄関・鐘楼は1969年増築)(恵    方町教会蔵) 図6-2-9 竣工時の御器所天主公教会     (『恵方の馬糞19』1967) ’ 鴫 評 豊 伽 筆 p 、 凸 、,驚霧繊麗羅懇懇笥∵箪誓謡態灘窯製r 唱脚㌔瞥甲 L 一一’ @一一n一’一一VF.‘X 奄撃yVI ”’     N 図6-2一 le 1974年以前の恵方町教会(畔柳    武司提供) 16 ヒンデルの図面では金澤天主公教會  とあるが、本論では峻工時の名称に  従った。 17’畔柳武司、角幸博『金沢聖霊病院附  属礼拝堂について』日本建築学会大  会梗概集(北陸)(1983.9) 18 『南山学園の歩み』 (南山学園、19  64.11. 1) 用後、1989年9月2日解体された。  聖堂は、木造一部2階建て、南側に木造2階建ての司祭館を併設して いた。内陣部分を一段高くし方形屋根を架け(内陣塔と呼ぶ)、上に鐘 塔を掲げる。外陣部分は寄棟屋根である。外壁は、腰部を横羽目板張り、 上部を竪羽目板張りとし、各ベイごとにドーリック風の付け柱をみせ、 半円欄間付き上げ下げ窓のほか、南北告解室の張り出し部上部に丸窓を みせる。半円欄間および丸窓頂部にはキーストン風の装飾を付ける。内 陣塔の高窓も半円アーチ窓とするが、アーチの起格点下にはコリント式 オーダーを模した小さな付け柱を付ける。ヒンデルの他の教会同様ロマ ネスクを意識しているのは明らかである。  平面は堂廊形式で、東側ナルテックス部分(33×9尺)に玄関と客室を 納め、間口21尺、奥行45尺の外陣、21尺角の方形内陣部とからなる。内 陣部の北側に袖廊部(10.5×9尺)と納戸(同)とを張り出し、南側袖廊に 当たる部分の納戸を介して司祭館が続く。司祭館は、2階建て主棟と西 側平家部とで構成され、主棟1階は玄関、応接室、食堂、台所、2階に 居間、寝室、客室など、平家部は居間、台所などが配置されていた。  外陣の天井は格子平天井、内陣は、亀甲模様の天井でともにワニス塗 りとされた:4。内陣中央の天蓋付き主祭壇は、岐阜天主公教会同様、ド イツ美術協会会員フレーベルの設計15によるのものであった。 6-2-4=金沢聖霊修道院三位一休聖堂1s(1931)  北陸地方でのカトリックの布教は、1880年伝教師見習水田若吉が金沢 市片町に講義所を創設したことに始まる。1900年代に入ると布教活動は 停滞状態になり、神言会がその任に着き、1911年ライネルス(ユ874.3.20 -1945.8.28)が担当、同年新潟教区長に任命された17。彼の布教精神で ある「病院は目の前に苦しんでいる人を救い、学校は将来社会に役立っ 人をつくる」18に基づいて、1914年聖霊病院を設置し、その拡充に専念 するが、1926年名古屋教区長に就任し、以後東海地方の学校や宗教施設 の建設に努めることになる。ライネルスとヒンデルとの出会いは、新潟 教会堂建設の時と推測されるが、以後名古屋に移ってもヒンデルに設計 を多く依頼することになった。ドイツ人であるライネルスが、ドイツ語 を巧みに話す建築家を便利に思うのは当然とも思われるが、この出会い が、北海道、関東に並び、中部地方に作品圏を形成する重要な機会とな っていった。  ライネルスが担当した代表的な建築のうちヒンデル設計のものは金沢 聖霊病院付属聖堂のほか、新潟教会(1927年、現存、5-3-3参照)、熱田 教会(1928年)、岐阜教会(1929年)、同付属幼稚園(1930年)、名古屋恵方 町教会(1931年)、南山中学校本館(1932年、6-4参照)などがあげられる。 一一@232 一 奪 〈 図6-2-11御器所天主公教会1階平面図(畔柳武司提供) 西fP五両脚_v.。=u_.    キ    嘗  ぜ             ぞ ’函・    》 パニ皐 @ ㌔       」 、協   . 一㌦㌣,  「咲騨}一”一一   一  一一 . . 、 繁    @  @  @【 g - 塾 図6-2-12御器所天主公教会2階平面図(畔柳武司提供) 憲離愁禦鰻蕪:ご許愚説1二… 夢 転 e  ご旨・.職ツ、が・ン    もげ        ヰ            の り  」坐さ、’,箪一溺認         チ 1㌧ {“灘 鼎 ・ レ ’l L;: ぺ          }        ←       し       執                 一専二r 一 P: 図6-2-13御器所天主公教会北立面図(畔柳武司提供)     ・「経匹 嚇 総 讐蟄羅転蜘 図6-2-14御器所天主公教会南立面図(畔柳武司提供) 一 233 一 、 塾 ㌔ ・・1、駿 図6-2-15御器所天主公教会西立面図(畔柳武司提供) 灘鱗麟i灘雛懇懇鷺喫緊鵜日岡欄:同門糀糖瀞i熱∫四二=曜響騨鑓欝凹凹欝難難響讐響響難劇団耀騨搬・ 黒 叱 p   一 醗 議 翼 驚 ド 聯 罫 義 欝 霧 蓼 縣織灘鷲雛鷲轡ll弊1欝醤鎌継麗綴・賜一’∵ ,、 コ:難読→機織鰐∵ず 脅い⊃「一 r騨D   ㌦瓶 一A t.= 19:『社会福祉法人聖霊病院のおいたち』   (1 983) 20:畔柳、角幸博『金沢聖霊病院附属礼  拝堂について』 21:金沢聖霊修道院法人台帳および各代  修道院長記録簿「グローニッタ」によ   る。 22:『カトリックタイムス第319号』   (1931.11.22) 23:『金澤天主公教会増築設計図』よリ。 24:畔柳、角『金沢聖霊病院附属礼拝堂  について』 25:『石川の近代建築25金沢聖霊修道  院聖堂』朝日新聞石川版(1980. 10.  16) ぐ 図6-2-16金沢聖霊修道院三位一体聖堂    南策外観(南山学園蔵) 図6-2-17三位一体聖堂内部(竣工時)     (金沢聖霊修道院蔵) 図6-2-181941年以降の三位一体聖堂内     陣(カトリック新潟教会蔵)  1914(大正3)年7月ライネルスは、現在地の金沢市長町!-5に約2000坪 の敷地を購入し、院舎を建築、聖霊会の修道女にその経営を委託した’s。 秋田からセシリアーナ修道女を長とする4名が到着、医師2名、ベッド 数32で開院された2。。1930年には、小室工務所により木造2階建洋風の 病院本館が増築された20。  本節にとりあげた聖堂建築は、この病院の附属聖堂と金沢布教所を兼 ねた教会堂として計画され、1931年7月4日起工、同年8月30日建築認 可となる。9月4日測試が完成し21、同年11月12日献堂式を挙げた22。 ライネルス名古屋教区長、チェスカ新潟教区長らを含め、約200人参加 の盛大な式であったという。   rカトリックタイムス第319号』(1931.ユ1.22)は、設計者「スヰス人 ヒンデル技師」、施工は熱田教会、岐阜教会同様、名古屋教区信徒岩永 伊勢松が担当したことを報じている。。  金管聖霊修道院には1931年6月付けの設計図2葉が所蔵されている。 『金澤天主公教会増築設計図 百分才望 平面、姿図、断面図昭和六年六月』 『金澤天主公教会増築設計図 百分之壱 姿図及断面図 昭和六年六月』 と題するもので、図面には「横浜市ヒンデル建築事務所」の丸印がおさ れている。  木造下見板張りのあっさりした作品であるが、 「間口野間半奥行十二 間高さ三十五尺(ママ)堂々たるもので赤銅色の屋根と卵色の外観、六十尺 の鐘楼上には金の十字架が燦欄として輝いて」22いた。手樽の棟高28尺 23 A鐘楼の屋根頂部までの高さは51尺23、屋根部14.5尺23、基部31尺ま では9尺角の角塔23、屋根部は八角錐の尖塔その上に金箔張りの十字 架を掲げている。現在は、尖塔の屋根は緑色、主屋根を赤色、外壁は白 色に塗られているが、竣工時の姿はよく維持されている。  隅角部の付け柱や窓枠は、こげ茶色で引き締め、半円アーチ欄間付き の縦長窓を、妻壁では下層5連、上層3連、両側面では1ベイあたり2 連ごとに5ベイ分、および内陣部下層に並べる。窓は、2枚に分割した ほぼ正方形の回転窓である。クリアストーリーは、ヒンデル好みの円窓 で、木製サッシュの割り付けば、熱田や岐阜の天主公教会と共通してい る。  窓に色ガラスを入れるが、 「ドイツのステンドグラス」22は、 「アン ジエルスの鐘」22と共に献堂式には間にあわず、1931年12月6日到着24 した。近年修道院の物置で、ドイツから送られた色ガラスの10枚入りの 古い梱包が発見された25というが、おそらくこの時のものであろう。  内部は三献式のバシリカ形式で、間口39尺、奥行63尺の矩形平面から 9尺分アプスを突き出し、広い身廊(巾21尺)の左右に身廊巾の半分程 の側廊(巾9尺)を配する。身廊部よりも一段低い側廊部の天井は、交 差ヴォールト天井、身廊部は左右の円柱を横断アーチでむすび、半円形 一 234 一 ヴォールト天井としている。身廊部の天井高22.5尺(設計寸法)、側廊部 は11尺(同)である。  円柱は、ロマネスク様式特有の彫刻を施した方円柱頭をもち、黒漆塗 りで仕上げられた美しいものである。伝統的な工芸の漆の採用は、ヒン デルの持論とする伝統との調和の積極的な展開であり、それがみごとに 成功した「北陸の一一角(ママ)に異彩を放つ」22秀作のひとつといえる。  天井、壁とも当初は「白亜」22であったが、現在は天井を祭室部を除 きアイボリーに塗り、壁は淡いブルーで統一され、アーケード列の連続 アーチとアプス部の横断アーチは鮮やかな群青が塗られ、さらに金色で 縁取られている。  内陣部の壁画は、1941年(昭和16)5月、病院付司祭であったマチヨク によって付加された2sもので、この際内陣の一部が増改築されている。 アーチの群青や縁取りの金色は、この際の改装と思われる。ヒンデルの 黒漆の起用と、金沢特有の鮮やかな群青のとりあわせが、この聖堂空聞 の魅力を一層ひきたたせている。 図6-2-19金沢三位一体聖堂簾立面図(1/400陰画を反転)     (金沢聖霊修道院蔵) ・府 llド巨卿縮読縮 鉱 一1 塞 、、 1 ノ 監 E.塗~↓ 象逐簗(; 1 } く ミ 幽一 ■ ト ’ ‘i事 , 廟 i i 斗  1� P 、 , 毒 ∬ d ; ギ i 、 = ; 難 ↓ し l        l    し 療一ユ六L- 1 ’ サ鑑1 ナ i 痴××il)~ 旛 ■「.一 二曹 , .〉’∵」 ョ 1 書 ~  } ノ 二 本 「         r           レ 泓譲川・1L議・・  ‘ ミ ・       ψ @; 図6-2-21金沢三位一体聖堂平面図(1/400陰画を反転)     (金沢聖霊修道院蔵) 一 235 一 26:前掲『素顔の名古屋教区』 図6-2-20金沢三位一体聖堂北立面図(1/400陰画を反転)     (金沢聖霊修道院蔵) 灘.雛   暴等 1罪饗騎 魅・ 6-2-5=三本木天主公教会(現カトリック十和田教会)(1932)  十和田市稲生町12-24に所在するカトリック十和田教会は、三本木天 主公教会として、1932年に竣工した。1954年(昭和29)三本木町が十和田 市と改称するのに伴い、同教会も1956年10月十和田カトリック教会と改 称した。  教会には、「昭和六年拾二月」付け「三本木天主公四型設計図 百分ノ ー 姿圖及断面圖」と題したA1版設計図(図6-2-24)が!枚残っている。 ヒンデルの印やサインは見られないが、図面タイトル欄の様式は、ヒン デル作の北星女学校や南山中学校の図面のそれと共通のもので、ヒンデ ル事務所の作としてよいであろう。  この図面と創建時の写真(図6-2-22)をもとに、同教会付属幼稚園所蔵 年代不明「カトリック幼稚園平面図」を参考にして、竣工時における教 会堂、園舎、司祭館の配置関係や外観のあらましを多少知ることができ る。なお「カトリック幼稚園平面図」は、幼稚園が新築される1964年以 前の姿を示したものと考えられ、園舎部分は創建時に比べかなり増築さ れている。  教会施設は、611.59坪(2,022.12㎡)のほぼ長方形の敷地に建ち、北東 奥に聖堂を配置し、聖堂の南東に園舎、西南に司祭館を接続しており、 他のヒンデルの作品にはみられない複合施設となっている。  司祭館は、木造寄棟2階建て一部平家、南東側正面やや西春リに玄関 を置き、2階には2ヵ所の屋根窓を見せる。梁間約21尺の下階に対し、 2階は梁間約12尺と狭く、2階外壁から南北両側に葺きおろした屋根は、 ゆるやかな曲線を描くフレアード屋根となっている。屋根窓以外の窓は、 上下2段の引違い窓を採用し、できるだけ大きく開口し南側採光をとろ うとする意図がみられる。 ,rll聾『物嚢 ’竃. 図6-2-22創建時の三本木天主公教会(カトリック十和田教会蔵) 一 236 一 ご凝回 覧 謬 鞠  園舎は、 「幼児教育を一歩先取りしたような」27建物で、木造2階建 て半切妻屋根、2階の東西に大きく切妻屋根窓を張出し、大屋根から東 西に葺きおろした屋根も司祭館同様、曲線を描いたフレアード屋根とし ていた。1階は21×36尺の矩形平面で、西側中庭に面して、司祭館同様 上下2段の引違い窓で大きく開口している。  幼稚園の玄関ホールは、聖堂前室を兼ねており、浅い袖垣をもつ三廊 式の平面の聖堂と連絡していた。間口24尺、奥行66尺の聖堂の回廊部は、 当初金沢聖霊病院附属聖堂などと同様に、中央通路をはさんで左右を畳 敷きの床としていた。創建時の内部写真(図6-2-23)によれば、暖房には ストーブを採用している。  袖廊および内陣部は、側壁を隅切りにしてクロバー型にし、内陣と袖 廊境はアーチ型の垂れ壁としている。内部は白漆喰仕上げで、身廊部は 平天井、袖細部は4分ヴォールトとしている。  身廊部と側廊部とは半円アーチで分節され、アーチを支持する木製円 柱はワニス塗り、円柱柱頭部には、金沢聖霊病院附属聖堂や字都宮教会 瀞 離 脚 譲 徹舩 面 明 断 糾 孜 雪          八         み,㌧    一側一面{軍“ ノ駕一陣 正_颪=班二 , e k 1  ノ   \ 噺 み 脱 『 1{凄》     玉   一.v.一一 ’T-fi .rt=’=’r.ff一=:”一L     ,     隣: 面 厨 ■ 専 ’ 鴇「 弓   Y , 畢 翼 ・ r ・ 響 づ で 「 卜 トみ コ1: 」・ ÷㌃r『 図6-2-24三本木天主公教会設計図(カトリック十和田教会蔵) 一 237 一 27:小野忠亮『青森県とカトリヅク』   (百年史出版委員会、1982.9)p.257 i l [ /              LA 図6-2-23創建時の三本木天主公教会内    部(カトリック十和田教会蔵) 置 、 翫           鐸 ・蒙噛 騰・謹霧難騨饗襟欝欝欝嬉難難蜘1画ナ㌧・柵瀞  紀寡∴欝燃’讐←”黙・ キモし @ロて ロダ          お  ”・一v  ℃   1・『     喝、 28:畔柳武司「建築家マックス・ヒンデル   とカトリック十和田教会堂建築につ  いて」(『カトリック十和団教会堂の  建築光を受けて』) 29:「十和田教会のあゆみ」(カトリック  十和田教会リーフレット) 30:『建築工事請負契約書』(1932.1.16) 31:岡田義治『栃木の建築文化カトリ   ック松が峰教会』(1986.1L8) などでも採用された、彫刻を施した方円の柱頭飾りがみられる。側廊上 部と身廊部入口上部に、コの字型にギャラリーをまわし、入口側聖歌隊 席は当初園児席として利用された。  木造平家、棟高30尺2sの切妻屋根の聖堂は、前面に園舎が付属してい たので、正面の意匠は表にあらわれないことになるが、正面妻面には新 潟教会と類似の円窓が付いており、入口側上部に小鐘塔を立ちあげてい る。高さ50尺の鐘塔は、8尺の角塔の基部に八角錐の尖塔屋根を架け、 その上に十字架を掲げている29。  下見板張りの外壁に、側面では、上げ下げ窓と半円形の高窓を上下に 規則正しく配列し、窓の組子は正方形を組み合わせ、それに緑雨、黄 色の色ガラスを配した意匠としている。  「三本木天主公教会及附属建物新築工事JS。は、1932(昭和7)年!.月開 始、7月末に完成し、同年8月4日、聖堂、司祭館、幼稚園の献堂式、 落成式が行なわれた。教会所蔵『建築工事請負契約書』 (1932年1月16 日)によれば、当初は1932年5月26日竣工引き渡しの予定であった。同 契約書には、建築主「北海道函館市元町三拾七番地 三本木天主公教會 代表者デウマス、アンドレイ」(デュマスDumas教区長)、請負人「横浜 市中区本牧町台二五三番地 宮内初太郎」、立会人マックス・ヒンデルの 署名がある。工費は教会堂、園舎などを含み、11,100円であった30。  施工者宮内初太郎(1892・一一 1957)は、横浜を中心に多くの近代建築を建 設した技術者である。宮内初太郎および宮内建築事務所については、岡 田義治(栃木県立真岡工業高等学校教諭)の詳しい研究31があv)、それに よれば、1892(明治25)年横浜生まれ、1900(明治33)年初太郎が8歳のと きに父半太郎が宮内建築事務所を創立している。初太郎は19U(明治44) 年県立横浜第一中学校卒業後東京高等工業学校(現東京工業大学)建築科 に入学し、1914年卒業後幅京市建築主営繕課技師となり、1917年には蔵 前工業専修学校講師も勤めた。1920年東京市技師を退職、同年宮内、西 山建築事務所を設立した。1924年同事務所を解散し、父の設立した宮内 建築事務所を継承、初仕事は横浜紅蘭女学校の設計であった。ヒンデル の作品ではこの三本木天主公教会のほか、宇都宮天主公教会(1932年)な どを手i掛けている。  契約書には工事仕様書が添えられており、それによれば、1階建坪101. 36坪、2階建坪33.57坪、ギャラリー及び塔屋建坪15.36坪。工事の構造 概要として、以下のような項目が記載されている。 (1)基礎:側廻リ及び主要間仕切リ下は布コンクリート、床大引下はコンタ   リート基礎。 (2)構造木材:土台は桧、梁類は桧または米松を使用し、その他は杉、桧、  米栂を使用。 (3)屋根:野地板の上に「日ノ田印」建築用紙一号三二号品を重ね3寸以上で  心張りし、上葺きは亜鉛引平板28番を「リブ型」に葺き納める。雨樋鼻は  光明丹3回塗りの上「オイルペイント」3回塗リ。 一 238 一 (4)外壁:下板エゾ、「日ノ出印」建築用紙二号品を重ねて3寸以上に張り  廻し、上板として向上並4分志念2寸を見え掛り1寸で下見板張りとし、  軒天井は板張リ、「オイルペイント」3回塗り、基礎コンクリート表面  は、セメントモルタル塗りニ刷毛引仕上げ。 (5)内壁:御堂、住宅は、漆喰仕上げ、集会所及び集会首上の日本居間、台  所、便所等は、「日本漆喰真壁造リ」「色」仕上げ。浴室は「セメントモル   タル」塗りに刷毛引き仕上げ、腰羽目板張り。 (6)床:御堂は、楢正目板厚6分幅2寸長さ4尺5寸以上で実矧ぎ張り、ワ   ックス磨き。住宅並びに廊下、台所床は、杉厚6分幅2寸長さ4尺5寸  以上で実矧ぎ張り。御堂の一部、教室、集会所、集会所上の日本居間は、   「機械締メ十四通シ床二」「小松引通シ表ヲ使用シ」た畳敷きとし、下板は  エゾ松板割材で表面荒鉋仕上げのものを合決リに張り、玄関浴室はコン   クリート3寸仕上げに表面セメントモルタル塗り。 (7)天井:御堂、住宅は、 「下地小舞ヲ継手乱二空間五分乃至六分二釘板巾  二本打チトナシ葭簾ヲ針金五寸間隔胴張リ上ゲU型亜鉛鍍金釘ニテ止」  漆喰大面塗り仕上げ。日本居間及び集会所、教室は、無節杉材板厚「並  四分巾八寸以上羽重ネ八分以上」の竿縁天井。台所、廊下、便所、浴室  は、 「正三分巾五寸羽重ネ六分以上杉巾揃無節ヲ以テ面取大和張り」。 (8)造作用木材:外部用は桧、内部用は杉、衿回、米栂等を指示に従って使  用。表面はすべて砥粉2回塗りのうえ、布磨き。 (9)窓:御堂部分は、分胴付き上下げ窓及び回転窓とし、色ガラスを指示に  従い取付け。窓枠窓桟は、桧製。 (10)建具:腰付きガラス戸または「パネル」戸。日本居間押入は襖、廊下と   日本居間境は、廊下側「パネル」戸、居間側障子戸。ギャラリー手摺、  階段手摺の材料は、杉または米山、階段板、入口靴摺は桧。 (11)取付造作物:登壇台は巾9尺長8尺蹴上五寸踏面1尺のもの1個、巾7  尺長6尺蹴上5寸のもの1個。祭壇古手摺出5尺1個。ほかに食器棚、  流し、手洗い流し、下駄箱や和風青色大便器4個、同小便器5個など。. (12)煙突:浅野または朝日煙突4寸、見え掛周囲は「パネル」箱型に施工。 〈13)排水工事:建物4周および台所前に1尺5寸平方のふた付きマンホール  作製。 (14)便所:汲取便所。 (15)電気設備:御堂祭壇前アーチに間接照明。中央部2灯は、エナメル塗り   1インチパイプを天井よリ約8尺下げ朝顔形器具を3個の割合で取付け。  ブラケット4個、5インチ直付けユ0個。  1955年12月園舎の物置部分を焼失、さらに1964年3月保育室から出火 し園舎焼失、同年7月に新園舎の改築工事を終えた。この際に聖堂と司 祭館を曳き家し、補修している。1968年5月十勝沖地震で聖堂が大被害 を受け改修工事を実施、1979年には聖堂の改修と、正面の改築がおこな われ32、現在のような聖堂の正面意匠が表わされた姿に変更されている。 6-2-6=宇都宮天主公教会(現カトリック松が峰教会) (1932)  当教会については、岡田義治r栃木の建築文化 カトリック松が峰教 会』(日本建築学会関東支部栃木支所、1986.11.8)の詳細な報告がある が、筆者も1979年4月関係者からの聞き取り、古写真の収集など事前調 査、同年8月実測調査を実施し、実測図を作成する機会を得たので、19 79年調査結果を基に上記報告書を参考に論考した。 一 239 一 図6-2-25カトリック十和田教会正面現     状            ’tt             Iewr 曙 IEeiiisweiY 図6-2-26カトリック十和田教会内部境     状 32:「十和田教会のあゆみJ(カトリック  十和田教会リーフレット) 一 響 騰騰 》 り’㌃漏’t’ v  j・間r魯蟹離職が’一,圃 訴  @・ ・二『壽瞥 ・「ム 」,lX 33:登記簿コピーによる(船渡川武四郎  氏蔵) 34:田中美智子『歩く宣教師イポリト・  ルイ・カディヤック』(1978年) 35:カトリックタイムス(1928,4.11付) 36:岡田義治『栃木の建築文化 カトリ  ック松が峰教会』p.68 37:信者高木省一談。 38:前掲『栃木の建築文化 カトリック  松が峰教会』p.69。本書p.116によ  れば、安野は1872(明治5)年三川村  江境論生まれ。この教会のほか宇都  宮商工会議所(1928年)などの施工で  も知られる。1951年没。 39:カトリック新聞(1932.11.6付) 癒 ノ 図6-2-27カトリック松が峰教会正面外    観(1979年撮影) 図6-2-28宇都宮天主公教会創漣時正面    外観(山根寛吉蔵)  1873(明治6)年の切支丹禁令の解除以来、関東地方の布教には2、3 名の宣教師が巡回していた。1883年、北関東一帯担当のヴィグルス神父 の助任として、松ケ峰教会の創立者カディヤック神父が赴任した。カデ ィヤック神父は、1888(明治21)年川向町に土地建物を購入、最初の教会 と伝導用学校を開設し、1905(明治38)年頃には松ケ峰町に約1,450坪を 購入33して司祭館を建設、1910年には聖堂も建設したが、神父は「よそ から人が見にくるような」 「ルルドのような」34聖堂を建てることを一 生の念願としたという。  カディヤック神父は1930年に他界したが、1928年には「フランスから の輸入パイプ鉄材も到着」35していたというから、新聖堂の設計は生存 中からすすめられていたのであろう。  新聖堂は、1931年7月着工38、翌年11月20日竣工36、同11月23日聖別 式が挙げられた。聖堂建設寄付金の積立総額は、8,885円41銭で、建築 費は53,000余円aBであった。設計料は、総工費の15%程度という37。  施工は三画面教会と同様、横浜市本牧の宮内建築事務所(宮内初太郎) が請け負い38、大谷石の納入、出石・石垣工事は、宇都宮市小幡町 安 野半吾が請負った3S。大谷から石の切出しを担当したのは三枝伊佐男、 現場で石の加工、石張りは、越後生まれの石工、江部留吉、新野常吉ら 10名ほどが関わったss。 聖別式  聖堂の竣工については、『下野新聞(1932.8.20)』に「宮の名物=天主 公教会出来上る」、 『日本カトリック新聞(1932.10.30)』に「壮麗なる石 造殿宇都宮聖堂竣工」の記事がみられ、 『カトリック新聞』では「……壮 麗さは東京地区の諸聖堂中其の右に出るものなかるべし……広さは東京 大司教座たる関口聖堂と同様なるのみか……市の中央に位置せる高台二 千坪の構内に屹立して居る為め市の何慮よりも望見し得べし」と報じて いる。聖別式は、1932年11月23日であったが、それに先だち信者の団体 参列募集3Sも呼びかけられている。  式当日の様子は、『カトリック新聞(1932.12.4)』に詳しい。「日本最 初の聖別式に教皇使節大阪札幌二司教以下数十名の教区長修道会長及び 東京信者両名参列/……十時半荘厳ミサはメーラン師の=補佐、ファビエ、 ブレンギェ両師の名誉助祭副助祭、今村、松下両氏(ママ)の助祭副助祭で 東京大司教によって挙げられ……イエズス会ドミニコ会、フランシスコ 会、神言会、マリア赤泊各修道会の代表者や教区長、諸教会主任司祭、 上智大学々長大神学校長以下……五百を算し、流石に横回心半(ママ)十五 間の大聖堂も一杯であった。……午後二時半地下応接室に於いて…一・・一 般献堂祝賀式が開かれ、……午後四時教皇使節閣下の盛大なる聖体降福 祭があって同三十分無事式を了した」と報じられ、各界から多くの入を 一 240 一 集めたこの聖堂の竣工が、当時のカトリック界にあって大きな出来事の 一つであったことを伝えている。 建物概要  教会は、東武宇都宮駅近く、宇都宮市松ケ峰一丁目一一番地に位置して いる。高さ約24.3mの双塔を持つ東側を正面とし、双塔上には厚い金箔 を張った40という十字架を上げる。間口50尺奥行80尺(アプス、聖具室 を除く)、鉄筋コンクリート造の内外両面に白目大谷石を張る。r日本 カトリック新聞(!932.10.30)』には、 「外部と内面全体を大谷石を以て 覆ひ内外両面の間四、五寸を鉄筋コンクリート造とせる厚さ数尺(ママ)の 竪牢無比なる石造」とある。野駆には、松杭を2本くらい連結し、1丈 3尺程の深さに打ちこんだ41。  !三目(地階)の外壁はルスティカ仕上で、ビレット(切り棒状飾り縁) で縁どられた正面地階入口のティンパヌムには、組紐模様と竣工年であ る「1932」を刻む。1981年にアルミ製建具に変更されるまでは、小さな 菱形窓や菱形ノブのいかにもヒンデルらしい木製戸を建込んでいた。正 面左右の階段を上ると吹き放しのポーチから聖堂入ロへ通じる。ポーチ のアーチ下面には、細かな幾何学文様がみられる。  2層目(1階)の外壁は、びしゃん仕上げの整羅切石積みで、軒下にロ ンバルド帯を廻して外観を引き締めている。付柱で分節された4ベイの 身廊部は切妻屋根で、創建時には半円形の屋根窓が4か所、ベイに対応 して付設していた。軒コーニスと屋根裾間には横樋が走り、縦樋は付柱 に1っおきに埋めこんでいる。  窓開口部はいずれも鉄製サッシュで、聖堂部は半円形欄間付突出し窓 で、色ガラスを入れている。  地階は集会用ホール、1階は三千式の聖堂部分である。西側にアプス と聖具室を突出させる。身廊は平天井、側廊は柱間を交叉ヴォールトと する。創建時、身廊は畳敷き、側廊は椅子式とした。左右4本の円柱の 方円柱頭には、組紐文様がみられる。アプス側の角柱間には横断アーチ がかかり、アプス部のアーチ縁部には、当初金文字のラテン文が記され ていた。  正面左右の祭壇、入口脇の聖水盤も大谷石製の造り付けであり、細か な幾何的装飾が施されている。ナルテックス上部はギャラリー、塔屋北 側は、階段室及び鐘楼として使われた。  1943年秋、教会名物のフランス製アンジェラスの鐘42を供出している。 1945年7月12日、空襲による焼夷弾で屋根、内部を被災、1947年4月6 日にほぼ旧状どおり復旧された。  1970年大谷石造の祭壇:を白大理石の祭壇に変更、1976年祭壇を改修し 4s A1978年には創立90周年を記念してパイプオルガンを設置した。1980 嚢覧∴蕊瀦鋤_讐義甲ll:i轡驚劉罐響難聾ざ㌦ 驚 一 241 一 図6-2-29宇都宮天主公教会創連時北側    外観(山根寛吉蔵) .一曝A 図6-2-30宇都宮天主公教会創建時内部     (吉閏博蔵) 40:信者高木省一一SU。 41:信者小林定安及び高木省一談。 42:高木省一によれば、輸入当時150円  であったという。 43:前掲『栃木の建築文化  松が峰教会』p.13 カトリック         鵠 t 灘 酔 穫 藝 - 降 . 邸 一’P騨i讐羅羅脳護懇懇潔雛無煮蕪’e・一畿謡一燕癌一一灘轟灘鐙騨灘懸 樵驚一7橋8π∵: Ψ 年聖堂大屋根を銅板に葺きかえ、翌81年夏、地階中央の木製戸をアルミ 製に変更、左右の壁灯を新設し、1986年双塔の八角屋根の修理と塔上部 の十字架を塗り替えている。  本教会は、ヒンデルの数多い教会作品の中で、代表格ともいうべきも のである。規模の大きさばかりでなく、良い石工に恵まれたことにもよ るのだろうが、得意とする装飾デザインが細部に至るまで良く実現され ており、教会に関する彼の素養が、遺憾なく発揮された作品であった。  ロマネスク様式の採用も、カディヤック神父の希望ばかりでなく、重 厚なモニュメントを造ろうとしたヒンデルにとっては、これまで手掛け た教会建築の集大成として有効な表現法の1っであったと思われる。 傘 図6-2-31宇都宮天主公教会正面図(東面)(1/400) 且 ∋ 合 図6一一2-32宇都宮天主公教会背面図(西面)(1/400) 図6-2-33宇都宮天主公教会側面図(南面)(1/400) 一 242 一 U h 票 腎 口 ○ o o o =ttL-H 一 1 1 1 「 【 ㌧ 麟 2階 図6-2-34宇都宮天主公教会平面図(1/400) 一 243 一 灘 1階 地階    灘鑛} 『 諜 灘灘騨羅灘鰭雛鐡麟 燃1’蟻瀧惣饗覆讐欝欝劉駈1欝喋,灘蒙,, 44:聖母病院50年史編集委員会『聖母病  院50年のあゆみ』(1982.12.21)  p.14 45:『聖母病院50年のあゆみ』p.21 46:『聖母病院50年のあゆみ』p.20 47:『聖母病院50年のあゆみ』p,14 6-3聖母病院  東京都新宿区中落合2-5(旧東京府豊多摩郡落合町大字下落合670、19 32年地名変更で東京市淀橋区下落合2丁目670)44に現存する聖母病院本 館は、1930(昭和5)年5月24日、アレキシス・シャンボン大司教により 礎石戸別式があげられた。 「病院の敷地の中央に設けられた式場に、二 尺四方の花商岩の真中に直径三寸程の穴を穿った礎石が用意されて前以 って大司教閣下始め幽霊父外交団の署名された祝別文を円筒に入れ礎石 の中に大司教閣下が納め」(カトリックタイムス1930.6.1)祝別された。  病院に残されている「昭和五年四月拾五日」付け『聖母病院新築工事 仕様書』によれば、建築主は「東京府豊多摩郡落合町大字下落合毫○番 地/聖母病院/代表者マリー・センジヤン・キリゾストン」、請負は宮 内初太郎、請負金額287,000円である。「本工事ハ昭和五年四月弐拾日迄 二起工シ昭和六年四月弐拾日迄二竣工引キ渡シヲナスベキ」とあるが、 着工竣工ともに当初予定より遅れたのかもしれない。仕様書に書かれた 建築主キリゾストンとは、病院建設を準備していたマリアの宣教師フラ ンシスコ会のクリゾストム管区長である45。  聖母病院創立の話がもち上がったのは、1925年医学博士でもある戸塚 文卿神父(初代病院長)が司祭に叙階されて帰朝したときであるといゲ6。 「博愛と奉仕、科学的治療と精神的慰安を病める人々に与える」4?ことを 目的とする病院開設の必要性は、アレキシス・シャンボン大司教を通じ てローマのフランシスコ会総長に伝えられ、1928年4月4日付けで病院 経営承諾の通知が届けられた。戸塚神父はさっそく準備に着手、同年6 月現在地にあたる落合の広大な土地を購入している。  1931年「来たる十二月八日落成挙行の予定」(カトリック新聞1931.11.  べう し遺御 鼠9狛合嬢トツグ・鼠下ごに駆r冒闘擁鴛 丁一へAi取下9f院鯛母聖   鼻 ・ 」 醒繋雛遊£ ・! 1ン 囑避蹴’ 軸!嚇醸こご∴’細嘱 図6-3-1聖母病院正面外観(『聖母病院50年のあゆみ』) 一 244 一 ど ■ 均 轟 巳 鳳 幽    ` 覇 尋 舞 22)のところ「十五日に日延べ」(同1931.11.29)となり、12月15日祝別な らびに開院式が行われた。同日午後、 「同院の屋上、極めて見晴よきバ ルコニー」(同1932.1.3)で落成の大祝賀会が開かれ、来賓500余名が参集 した。創立記念日は、役所の認可がおりた12月21日とされている48。建 築費は、約330,000円であったという4s。  当時の辺りの様子を『聖母病院50年のあゆみ』では、 「一帯は一面の 雑木林と野原であり、両側の高台を除いては病院から下落合駅付近まで 家はまばら、目自通りにやっとバスが通っていた程度。近くに西武新宿 線が昭和2年に開通していたが、最寄駅の「下落合」は野原の中にポツ ンと建っていた。」4sと記述している。  病院は「四千坪の敷地を有し、鉄筋コンクリート六階建八百坪、内外 共近代的設備が完全せる(ママ)優秀なるもの」(カトリック新聞1932.1.3) で、屋上からは「帝都の北端より甲唄四方を眺め得、且富士の英姿を仰 ぎ得る眺望絶佳の好位置」(同前)にあった。  紙上で6階建てとあるのは、地下1階地上3階一部4階部分にさら に塔屋部を含めての階数である。  1933年11月には、第1期増築工事にあたる木造平家病棟と渡り廊下、 付属防火壁2ヵ所の工事が着工した。病院所蔵『昭和八年拾壱月国際聖 母病院第壱期増築工事仕様書』には、ヒンデル事務所の丸印がおされ、 「請負入 東京市淀橋区東大久保弐丁目弐百参拾弐番地 山村力松」の 名が見られ、請負金額、病棟と渡り廊下で6,500円、付属防火壁900円と ある。1933年11月30日までに起工、1934年2月20日迄に竣工引き渡しす ることが記載されている。この工事は、『聖母病院50年のあゆみ』中の 「昭和8年11月ベネディクト病棟(結核病棟)完成」にあたる部分と考え られ、仕様書と『あゆみ』に記載の年代の相違は、着工と竣工期の取り 違いとも考えられる。 「白いしょうしゃな建物で、聖母病院の新しい名 所」50であったという(図6-3-2)。  1934年4月頃には、「看護婦室第弐期工事」が竣工した。やはり「マッ クスヒンデル建築事務所」名入りの病院所蔵r昭和八年拾弐月国際聖母 病院増築工事仕様書 看護婦室第弐期工事』には、「請負人 山村力松・ 松本敏之」とあり、1934年1月30日までに起工し、同年4月30日までに 竣工引き渡しを行うべきことが記載されている。  さて聖母病院本館に関する設計図書として、次のものが病院に残され ている。A~Dの分類は、内容によって筆者が便宜上つけたものである。 Aユ.(各階平面図)東京府下下落合フランシス病院設計図   弐百分面一(米突)昭和四年拾月 A2欠 A3.(姿図)(タイトルー部破損)ンシスコ病院設計図 A4欠 A5.東京府下下落合フランシスコ病院新築設計図 一 245 一 48:『聖母病院50年のあゆみ』p.16 49:『聖母病院50年のあゆみ』p.17 50:『聖母病院50年のあゆみ』p,19 漿欝灘白繭蠣灘白山 轟、     瀟  蒙灘・、   肺,、 ,、.   ,・礁騨轍 醜齢観羅齢憾    弐百分之一伏図昭和四年十一月  A6.東京府下下落合フランシスコ病院新築設計図    弐百分之一飛配置図昭和四年十一月  A7.東京府下下落合フランシスコ病院新築設計図    百分之一基礎伏図昭和四年十一月  A8.東京府下下落合フランシスコ病院新築設計図    弐拾分之一構造図昭和四年十一月  A9.東京府下落合フランシスコ病院新築設計図    弐拾分之一構造図昭和四年十一月 置A10.東京府下下落合フランシスコ病院新築設計図    弐拾分之一スラブ詳細図昭和四年十一月  A1ユ.東京府下下落合フランシスコ病院新築設計図    弐拾分之一スラブ詳細図昭和四年十一月  Aユ2.東京府下下落合フランシスコ病院新築設計図    弐拾分之一梁昭和四年十一月  Aユ3.東京府下下落合フランシスコ病院新築設計図    弐拾分之一柱昭和四年十一月  A14.東京府下下落合フランシスコ病院新築設計図    弐拾分之一三昭和四年十一月  Aユ5.東京府下下落合フランシスコ病院新築設計図    弐拾分之一基礎昭和四年十一月  Bユ.東京府下下落合聖母病院新築設計図    百分之壱平面図(弐階平面図)昭和五年六月  C1.国際聖母病院各階平面図 縮尺弐百分之壱    La Plan de Construction Principal. Echelle du 1/200    Unite metre. Copie Et Inspection. S. Hayakawa Le 20 Nov. 1934  ほかに、A.P.TETENS, CONSULTING ENGINEERから、ヒンデルあての 「ESTEMATE/DRAWINGS for St.Francis Hospital」(見積書)では、暖房 バイブ蒸気パイプ経路、給湯経路、ラジエーターなどを記載した図面 が残されている。 一) ’N 図6-3-2病院本館とベネディクト病棟(『聖母病院50年のあゆみ』) 一 246 一 Dユ.BASEMENT P LAN/FRANCES HOSP I TAL TOK:YO/ユ:100/JULY 12.ユ930  /3748 D2.FIRST FLOOR PLAN/FRANCES HOSPITAL TOKYO/1:ユ00/JULY 12.ユ930  /3749 D3.SECOND FLOOR PLAN/FRA:NCES HOSP ITAL TOKYO/ユ:ユ00/JULY 12.1930  /3750 D4. THIRD FLOOR P LAN. FOURTH FLOOR PLAN. F I F”rH FLOOR PLAN.  /FRANC:ES HOSPITAL TOKYO/ユ:ユ00/JULY ユ2.ユ930/375ユ D5.PIPE CHANNEL FOR H]EAING P IPE ON BASEMENT./ST. FRANC I S HOSPITAL  /CHANN:EL DETAI L/ユ:20, エ:50/J111y 27.30/3783  C1の平面図は、図面に記:載のように1934年11月20日付けで複写された もので、この資料によって竣工当初の平面を知ることができる。A系お よびB系の図面は、柱芯で寸法を記入し、C1では、柱芯寸法と柱芯一壁 面寸法とが混在しているが、複写の際の食違いと考えたい。  B系の図面は1枚しか残されていないが、記載日付は、礎石祝別式の 5月24日よりもあとの6月になっており、着工後もぎりぎりまで設計が 行われていたことを示している。A系の図面とB、 C系の図面とでは、 建物規模、部屋配置などの大要はほとんど変わらないが、部分的に実施 段階で変更のあったことを知ることができる。  平面図A1(図6-3-3)とC1(図6-3-4)との大きな違いのひとつは、1階の アプローチ部分で、A1では、正門の左右、対称形に「守衛住宅」と「庭 師住宅」とが配置されているのが、C1では正門右手「庭師住宅」のかわ りに、同じ平面の「門衛住宅」1棟に変更されている点である。  「門衛住宅」は、4×8mの長方形平面の左上端(南東)部を隅切りした 形態で、玄関、居間2室、台所で構成され、背面に押入と便所(いずれ も1㎡)を突出させた32㎡の小住宅であるf,  病院本館は逆L字型平面で、南棟、西棟にあたる両翼、幅8m長さ35 m(柱芯)の交差部に階段室、便所、昇降機などを配置している。1階は 外来診察室で、便所、浴室、階段室にはさまれた二四部中央に、庇を大 きく張出した玄関を配置し、南棟では各室を3m幅廊下の南側に配置し、 幅4mの外来待合室(図6-3-6)の左(東)側は応接室、二三光線室、 X光線 室、控室、診察室、右(西)側は事務室、薬局とし、東西廊下の東端は医 員宿直室、西端は非常口としていた。西棟では、廊下の西側に看護婦室、 試験室、診察室(4室)、処置室などが並び、北端部は待合室およびバル コニー付きポーチを張出した出入り口である。建築面積は、649.4㎡と ある。  2階は、病室階で、南棟には東から病室[1]~[12](9は欠番〉が並び、 東端に配置された[2]室には奥行2rn幅4 mのバルコニーを、また南側病 室前にも奥行1.5m長さ32.5mのバルコニーを付属していた。廊下西端 は非常口とし、外側に奥行1.5m幅7mのバルコニーと外階段を付属して いた。西棟は北端に奥行2m幅4mのバルコニーをもつ大部屋の病室[13]、 ほかに手術室(2室)、消毒室、看護婦室などが並ぶ。床面積は627.44㎡。 一 247 一 声  1㎞   L 「 野 麹 二 …螺鱗i麟鍵黛懲繋躍摂欝欝訣郵鎌蕪盛騙蕊蜘些罫甑1澱鳶凝一や職律鶯蟹轡飢二17’“ 7 }や成   雛   ” 噸 , 澱 ・         擁 翫 」       、5隔 @       弔    リド・・臨旧り ”5騨        ,3風 S・ ,一 49  5鳳  噂一 弓吟  ,一  ‘嘔 一     ■伽ρ   7・凹 卲ヤ  oρ       昌り’ l  魅_劇]【 _→ 鼠_温榑          “       亀●F 卿頃 セ脚「「” v1 」し 」L @ 甲        一 Z   罐  鳴          冗 @、           門 も                         LA一    A                祠L 輔齢3「 h経 @ひ 噸碧 冝 。 学 φ 穿」」鱈‘ ¥● ▼ r噂 9  ’ ハ2・ ー●一 6一 曹       胃, ● {阜笈【  專 r 薯 1 鴎 r一一 一”一ヤーート ” 胸〇一                          脚 ハ 口  ,」臨  ロ フ 一 且馴」L X》一  碑 噂.’ Y{ @8夢 の T   { 鑓 匹     隔 @、 1  乃 頼�I【 @l l 齦翌 ` 唖   1 9■1 鳳 己 零 重   ・ 怩V■ ’ 弓一 チ霞r「【 下 刷   4 . も 9       一 ㌣ ■ρ ケ’ c ,   1 、 聾3‘2噛 @       ,も : 、 挫 饗 」 エ 臼 8 一 =:・ 陶冒 齢  ’ 塔 ハ     槻 茸雷 f嶋 ●0 2 P ,        ,・ N 蓋甑聾 昌 鴨   掴隔一一 昌 @   § マ       噌 晦 霊 顔 ■� ホ   虞 塩 ●   唖 重 曳。》    「1‘ P鵬 U曇 1 ▼ 製 一■  乳L6  ・ 噌 , 「 ・ 嘲 垂 ゴ 泌 の ●● b躍 量. 蝕 1 畠 ~   藁 } 瓢 亀 穴  9_ ,」 岬 黷S●よ ド →戚  6 @裏 R㌻一 C・   ,購 ズ ほ       1   -       b       亀 圃  曝 v翠塞 〕しワ 葺 『 鰍 4 亀     專 層 ‘ 一    醤撚」 @     囎) ゥア7窮7,〃丙鷺山 �`製ぞ襯♪ h抑樹 @        ,ヨら @   」亀 ●輪 ゴ  ,、 】・r,一   1 C‘ 6畠 曽 @■dl k喝 調一  ,        き 柄               痛 @        喜 _    , e己 ま,    P亀         , A 卿 ミ 三         _ 一     ← 蕃             , ,        穿1三 靭腸 Dア騙  4鞠フ 9¶ 4鵯 レ晒   9畠   嫡 @   1 @ ‘覇   1                                         3一 に‘ 秩怐 E , 癌跡 @4L` 占   , 二 噌 〔 , 、   ユ ・ ξ,齢 ’鴫       ,b  4鱒 {τ‘ Q三_≧ ツ晦 @‘棚 β ,〆4 覧 一 一  1 駈 13 ,P    一管    ,凸 薗 面 ,ら Q垂馳 感 電 ム鐸傷. “榮◎ , 増 麟 噂 一 針 ゆ   o ’ り一 烽 秩 @ . 6一 v ら , ▼ . ‘ ・ か ∩     ’ 騒 , 封 〒 “ r ぬ 」 P “ 8 ; 線 “ 4 , 亀 チ . ② 曳 ス〆P r 9 ④ ㌦a」   μ @・   、噛q〆 苓 禽 ■ ら も ・ 一 冨 “ 亀 ◎ 」 の ざ ・▲』L  為」L ラ6’弓   ’幽 。,腰 fA鴇 .副 ]     口 喆ハ多一 福k〕‘ ト コ ・            々 ’一’「 o i の∬‘二 ・   」』.._τ_   亀” む 1 姓、一 類虞、 臣R 「甲卜「 @じ   r・・ド    芝 @     醐 〒隔      魯 n        ,          ら @     P ,噛  4繭  4 翼り       去 黶Y一不… 秩 @         へ 1 一 ’ 盤 の @裂 艇 @三 ・ 一 冒  ノ z6「 ’ 暫   ゆ f ヤ L 織 馬 , め t   襲 L ㌻ レし  」1  富プ㌧ ,陶 @      一 o 、 勲“嘲 韓 C止 @曙v員●胴X P   ・ 齬J碁◎ ・¶醐 δ_ A,L鼻二 o        亀 垂P-6‘卿弘 ,一 ”浩 C桶塁, 』ψ卜酬L!’      ‘’      ・軟  5 A 露   畝  馬 q     6 妻・賦  . :・融、’1ノ @ξ    亀 .踊!露._ 巳叫鮒 f風 fり‘oo   一霊牌  ↓ @        去 C._鉱..鰍 噂 下 喝     齢 ド , 鵜   唱,一噌‘し巳,員@毒白1亀曜1 @  曹・ I @   l   罐 @ 一  一 @β瞑腹ゑ 黶E 諱 @ ム   ミ     論         ■   2 鴫 ・  ド・   ‘‘d ‘4h‘ 刀 @       .   4 ヘ ー し 謙 卿   ・  唄   , @Q   , ‘・〆曳ぐ啓置       1    ♂ 図6-3-3 A1.1929年設計平面図(聖母病院蔵)      コド        へ り ψ・・・… @一 一ξ一・・ …一」 瓢 搬, , 巴 酔 噛 尋   唖 , 争 ■ 1 兀  藩翫鮎嗣 三ぞ鳥    ヰ  ヘ キ          5i鞠駄 乱し 幡●   L 一 Jxv j一一 r;;=1 ゆはの 盛  ‘9辱  齢8 雫    「      P   ざ         ト へ びい@      し  ロ 撫弊L髄  一・城 」7“Y‘一e 釦q榊1 ・.一i=一L“H あ」    蝕山L    惚つ,ド   09一 、鷹 慧 瑚瞭ぜ・母病沈射饗手新適_      SSL翫・’こ亀 猷班虎c9島船齢伽〃・・;n・y;…e.       ムgPtde“ノ』醍       蹴《  繊.  雷                          ℃,馬  Ft一“ ’iM i’r ‘’ MT夢 S . 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  t -g ノ )w#   c“ m) ツレAコ痛現敵翻 ) 図6-3-5 立面図(聖母病院蔵)  3階も病室階であるが、西棟部分は竣工当初修道院として使われた50。 この頃の使われ方は、A1資料の3階平面に示されたようなものであった ろう。南棟西端に幅6m奥行10mの「講堂」が配置されているが、北側を わずかにふくらませて内陣風にしており、聖堂として使用したものと思 われる。西側にバルコニーで外階段と結ぶ非常口が設けられている(図6 -3-7)o  続いて北側に「食堂」、 「職員居室」、中廊下をはさんで左右に「職員 寝室」(4室)、北端に大部屋の「職員寝室」の室名記載があり、修道女た ちの居住部分と考えられる。この部分がC1資料では、病室に変更されて おり、 「講堂」は病室[35]と廊下、宿直室、北端大部屋の「職員寝室」は 中廊下型の病室4室に変わっている。病院南側に木造平家の修道院が建 てられた後の変更である。  3階南棟には、[14]~[23]、[35]の10病室を置き、2階同様東端病室 [15]にはバルコニー、講堂改造後の廊下西端は非常口で、前述のバルコ ニー付き外階段に結ばれていた。西棟は[24]~[34]の10病室とされてい る。床面積は、628.4㎡とある。  逆L字の隅角部は、昇降機、地下ボイラー煙突を囲むように、1階で は物置、守衛室、玄関、2階では配膳室、物置、厨房、3階では配膳室、 厨房、看護婦室、バルコニーとし、北東側正面は各階とも両側の3連窓 一 249 一 図6-3-6 外来待合室(『聖母病院50年の     あゆみ』 灘、.購.三囲難灘 灘懸灘騨饗鐵i灘驚灘鐵灘魏難難繍1盤鞠:{欝:鷲撚纏縫艇熱 闘灘濯・騨 、 静 難 欝 欝 図6-3-7 西棟西面南側のバルコニーと    外階段(『聖母病院50年のあ    ゆみ』) の階段室をゆるやかな曲面壁で結び、さらに両脇を便所、浴室コアの無 窓壁で抑えている。  4階は階段室塔屋と休憩室、ベランダを含んで床面積85.86㎡、5階 塔屋部は、4×3mの矩計の4隅をO.5mずつ隅切りした8角形の2塔で、 床面積23㎡とある。  地階は床面積613㎡。南棟にあたる部分の南側は、事務室、従業員宿 直室、食堂を並べ南側にドライエリア「採光室」をとり、北側は浴室、 屍室、暖房汽罐室など、西棟にあたる部分は、厨房、氷室、アイロン室、 洗濯室などが収容されていた。 「採光室」は、南側のほか、西棟の東西 両側、南棟北側、南棟東側非常口部分にとられていた。  外観で特徴的なのは、茶系のスクラッチタイル仕上げの外壁と、粗石 張りの地階の組み合わせ、スチールパイプの手摺をめぐらした軽快な扱 いのバルコニー、それと階段室塔屋頂部の釣鐘型の屋根であろう。とく に釣鐘型の屋根は、北星学園校舎1928年案(B案、5-2。4参照)の換気塔 などにも見られるヒンデル好みのモチーフのひとつといえるものである。  また平面図には、各室ごとに採光面積の記載がある。病室への配慮と いう点ではあたりまえのことかもしれないが、札幌時代の初期作品から 常にヒンデルが意識してきた点でもあった。  窓開口部は、現在アルミサッシュに変更されているが、当初はスチー ルサッシュで、すべて上下2亡した押出し窓であった。1、2階と隅角 部の窓の単純な矩形に対し、3階では半円形欄間のアーチ窓がくりかえ され、北面と西面では、上身にX状紐飾りをつけたトスカナ式の付け角 柱をみせる。  角柱はすべてのアーチ窓に付くのでなく、西棟東面では、左右2連ア ーチ窓の真中に2本、中央3連アーチ窓の中央窓両側と左右窓片側とい う風に立て、両側の対応する部分の柱は省略している。このアーチ窓の 単位は、窓台を連続することでも強調されて、バランスを保っている。 同様の扱いは南棟北面でもみられ、立面図(図6-3-5)とは異なるが、8ヵ 所の窓を2連窓ずつの単位とし、真中に2本の付け角柱を立て両側は省 略といった扱いをみせている。  外観の正面性をさりげなく強調する工夫の一つとも思えるが、ロマネ スク風の意匠を解体することによって、新たな表現の可能性を求めたヒ ンデルの試みのひとつといえるかもしれない。 一 250 一 6-4 名古屋市南山中学校校舎(現南山学園本館)  名古屋市内に現存する旧南山中学校校舎は、鉄:筋コンクリート(以下 RC)造による上智大学(1932年)、聖母病院(1931年)などの作品と同一 線上にあるものと見ることができ、この頃のヒンデルの作風を示す貴重 な遺構である。本節では、この中学校校舎とあわせて、本館の東北側、 運動場を隔てた低地に建設された中学校付属教師住宅(1934年)がヒンデ ルの作風に酷似している点にふれた。  1926(大正15)年、名古屋教区長にライネルスが就任した。ライネルス は宣教師の陣容を増強し諸教会を新設すると共に、ローマ教皇庁布教聖 省の要請に従い名古屋市に男女中学校を設立することを決意し、1928年 4月より1年の予定で欧米諸国を巡歴、学園設立募金運動をすすめた。  前年の3月頃から我国では金融恐慌がはじまり、また1929年10月のニ ューヨーク株式暴落は世界大恐慌に波及し、不況の時代に入りつつある 頃である。そのあおりを受けて国内の学校では、中途退学者や授業料滞 納者も増加し、廃校に直面するものも少なくなく、文部省では実業学校 は別として公私立中学校新設は、容易に許可しない方針をとっていた。  そのような困難な状況の中で1930(昭和5)年10月16日、ライネルスは 名古屋市との売買契約により中区広路町字五軒屋(1937年10月昭和区五 軒屋に改称)に、6,994坪の学校敷地を手にいれた’”’。  この頃にはヒンデルによる設計もすすんでいたのであろう。ヒンデル はすでに新潟カトリック教会(1927年)、熱田教会(1928年目、岐阜天主公 教会(1929年)などを手がけており、ライネルス師の信望も厚かったに違 いない。南山学園に遺存する設計図書の中に『名古屋市南山中学校新築 設計図 地階平面図 昭和五年十二月』という実施図面前の図面が見ら れる。中央棟の間口が実施図より3尺広いことや、階段室に便所がない ことなど細部で若干異なるが、全体の平面構成は実施図とまったく同じ である。  校舎は1931年7月25日建築許可δzを得て、 「設計者神奈川県横浜市本 牧満坂町1851マツクスヒンデル」53「工事監督者東京府東京市本郷区 馬込町923鈴木面作」53とした。  「建築工事請負 愛知県名古屋市中区新柳町6丁目住友ビル内大倉土 木株式会社名古屋出張所川辺清之助」53により起工された。 「昭和六年 十月七日」付けで愛知県知事香坂昌康に提出されたr水槽便所設置申請 書』には本建築の申請書類が添付され、 「起工昭和六年七月十三日 竣 功昭和六年十二月二十六日」とあるが、 r南山学園の歩み』では、竣工 1932(昭和7)年2月28日、引渡しは翌日完了としている。  財団法人南山中学校設立と南山中学校設置の許可は、1932年1月21日 一 251 一    \へ      IN N a,ti]l        XN 緋姦曜ミ鴫 ぎ 。 ・ご鵜;;二軍         ヤ諮∵こ・.  ..一一.一・’一・r訟鳴し∴♂.三’~     ttt  P. 図6-4-1 南山中学校校舎南正面(南山学    園蔵) 図6-4-2 南山中学校教室前廊下 51:(学校法人南山学園、1964.11。1)  p.12 52:学園史編纂委員松風誠人による。 53:南山学園蔵『水槽便所設置申請書』 “ 除 勲 墾 響 “ 籍 寒 い 夢 那 謬 , 瀞 や 毒 轟 島 勢 ご 巨 軸 馨 蹴鐡難羅灘灘灘灘鍵li窯黛二姿鰭雛勲懇懇泌必轟撚;難羅懸鷺鷺L へ舞 ・ ヤ 暮 隻 、 ’ . φ ㌦ ゴ ㌔ t r ・ 蘇 ン   乱 ア 哩 . 轡 騨 駄 「煩 , 54:『南山学園の歩み』p.16 55:『南山学園の歩み』p.20 56=『名古屋南山中学校新築工事設計仕  様一覧表』(南山学園蔵) 壼 付54で行われているが、校名「なんざん」は付近の山林地の呼称「みなみ やま」からの命名であるという55。  RC造3階建てのこの建物は、南側を正面とし、中央6間巾の玄関部 を中心に左右対称のデザインである。玄関部を3尺突出し、1階は4本 の円柱の並ぶポーチとしている。正面東隅には、定礎式に祝された「19 31」の年号を浮彫りした石板がはめこまれている。  外壁は、 「人造石洗出仕上トシ基礎梁下ヨリ扶壁上端迄外壁面全般二 防水セメントモルヲ以弐回塗厚弐糎以上二班直シ下塗ヲ施工シタル後目 地付キ石造洗出仕上ゲ」56とされている。7.5尺の柱間全面を、1階では 腰壁上から庇下をガラス窓とし、2階腰壁上は、ガラス窓一パネルーガ ラス窓とする。窓はスチールサッシュで、当初の仕様では5.5尺×2.0尺 の回転窓3枚としている(図6-4-6)が、実施段階では写真(図6-4-1)のよ うに上下をはめ殺し、中央を押出し窓としている。各階の窓開口の大き さはすべて同一であるが現状はアルミサッシュ引違い窓とされ、当初の 繊細なサッシュ割りは失われている。  地上よりパラペット上端までの高さは、玄関部のみ41.8尺、他は40.5 尺である。パラペットは、軒庇(コーニス)上端より4.6尺(玄関部では5. 9尺)とし、柱間と同数の五角形の開口を並べる。パラペット部の重量感 ご ド =:’ua=ms is〈uavauaN〈v ザ 葦 ,タダ  zae ノ / ・ 忘 触ζ禰ノ rf n 図6-4-3 しゃ  o   一一 e :“一    .x y  t   〆 、 〆 砂 、 蛎 ・ / 菱 . 蓼 /   ヴ   ノ \ 測   . 多   ゲ ノ   ア ド             び   る               ノ ハ         / ,       漉           - , 轟             い 多 セロロ  ツ ロ リ 1 。 一「 聲    。    1 ギー一一一、 南山中学校配置図(南山学園蔵) 論 7 / ク / 、 ζ [離 t 〆 / ℃ ・    /へ 寿 古 渥 . 軍 中 直 五 彰 衷 町     茜 瓜 質 測 面 擁 入 疹 畜 ↑ 葱   聞 ヲ 冬 ト 口 恥 せ る 裟 ^   翫 入 寸 漁 単 ρ 7 X ト ^   阻 庵 第 ハ ワ 鴻 泉 幽 董 鬼 箪 気   瑚 ∀ o f 茎 勲 あ イ 私 ム ’ 強 官 - 孟               噛 Pkegu痢節 し勉ぐρ曜謡一編/ ,..一”      嚇吻吻晦ワーeWelnddale         加ノeS}一4za晦rjua         嫡.■:う、。。 一 252 一 、 一 ド 図6-4-4南山中学校校舎南立面図(南山学園蔵) ゼ 恥 卜 h 誤   卜 適 ノ 3 1 : ’ . 旨 ξ ユ ぢ も ロ ト ロ ネ   ぜ も ヌ チ 査       。 - 五 「 6 : ’ :   ト 「 ξ し マ を サ く ヒ ワ   の で ニ き 淑       一 - f ~ ひ : キ   . 一 γ p 撃 紅 コ も で な   げ や ニ   を 罫圧出’}∵1淫} 一 均 箏 謙 裕 釦 罫 4 5 、へ     「         一   f ~ 5 }           O ・ ζ レ ; ひ   」 3 ? 5 } ( ご ← ÷ 二 ●   、 1 ◎ . . ζ 一 敷     ,   f 身 6 : ト ・ \㎜ 〆 } ・ し 既 、,黶 f ! 」 「 t ピ ー 」     N   躍 . ∴   風 5 1 ・ - P 住 樽   h ㌶ 轟   罷 .   P ● ほド . 昌 曹 卜 「 . 菖 一 戸祥 ’ 一     φ 拝 し , 重 脚   O 一         .     」 「 : ,       「 「     ん   の コ ア     コ ロ し ヒ へ     一 [     . 〈   τ     ・ r : ▼ ” F ・ } 亜 ’ へ   ,   の     し 「 蕉 算 ・ . r 79, 鍾 』 』 轟 昏 弓 4 ’   詳   串   ・ - 二 鷲峯 二 戸6-4-5 南山中学校校舎北立面図(南山学園蔵) []iD   :’,纏甦蜂蝋働興,    ㌦.綴ミ雛μ一. t. Jt-s. . K.) 駿・}「  一 一1 ;「 P1・ヒ ◎ 一「 一 T 一 「 一 一 : 繭 島 「 舅 L脚。」一 図6-4-6 南山中学校校舎矩計図(南山学園蔵設計図を浄書) 一 253 一 μ 罵 ‘ 夢 裳 熱 ぐ之 馨 購霧灘難欝繋難饗灘翌欝魏魏鑛姦麟蟷撫熱郵熱き㌶撫懇懇離職蟹i{ご笥冬譜警鍔ぞ叢叢讐総噸灘                                                          nK’ 9     ● ● 亀 儀 , 剣 0 』 嚇 ●● 略 噸 賂 ■ ■ ● も h   ・   q 、   “ の , 6     ◎ 伽 ■・ ・ ● o     ● .     ● 」   ■ ●9 帰 ● Ψ 胴 「 b 一■ ◎ , 4 . 殉 一         噺 鴨 ● 馬 覧 唱 ● 剣   一 嘱 軸   O       . } .             ゆ .   .            羅携舳ひ認欄               f・  ■ 」 タ 4 賃 助 唇  ぴヨ               ・.  卜 ‘ 色「1 し 。    のマ              ね                    ヤド              なしエポ マゆぼ おルづ              ぴ         わビ へけヤ               ニ . .陰.畠               ヒ   ロ         ほ               ニ   れ     さト ニn〔邑・・田一・甘看噸セ。,5L?’一・’一’u+廿十三幽か噛       の                にを フ.  ?s-1「・ ;ト「“F・1「1⊥一一.二野”ト嘱1   ~ 鵠・・口・為胴日ト i,,、,、,月 ハ」』~L ts二1一]”’“=;.N iM-at  、 \ 一 「    . . ψ の ・ ひ ・  } りい ’室’   7s ■0 懲 彦 lee ,;e.: 二hS’ ’ ∵一” 1 “s rr一rF「[F一丁     二摂 ↑・ ゆロξL ヒレ }旧’        るMV琵穆亀肺懸押r    皐傷璽 一一?  ll輔垂 ?:    .L」口自「』      ヤ、   { り\  :      ≡i   ・∴…燕D     ‘1岬       ら写畠。.。・に・。昌『1同 制ヰ獅’㌍《 重.嶽一・!一・鋸引                      ロ ぐ  サ        ロ  ド                コ サ へ τ’瑳.草’ご   エゑ   は .き1    ,  脅 繁 箭 藍 皿 - 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  艦   1 雲_._1 § b ,即 L,________r - , くット「 向 f 戦 娼 君 爆 「響一} 室 2 属 置 2 F: PLAN } 9 一____L_」 鯉 食 燈 含 こ 孚 口 片 皇 窒 t 一 口 事卿 二= , ム再 讐 == 阜 くッド o l l引 6 図6-4-8 中学校付属教師住宅平面・断面図(南山学園蔵設計図を浄書)  ・尋癌 へさし ’鐙1 説め、rl・  駁 くい  ●1も 似・一 。懸壁、 あぢゆけ     タ 犠 ぎ ’・ヘヘへAへ、   1.11. 甲司・噛 や 腹 蟹 磯 観 勘・〆   尺 ごt’lt tLl .“ ““ glL“’A .     pt’.A“.AA,xex 繭 1塑       ’ /    語 む、 礁 い 箪 ご 臼’ サ ㌣ 〆 ハ ず ・ ~   「 売 ㍉ . 謎 冨 》 ド ・ 、 ㌧ 蛎         瓢 , 曜 . ゑ   へ 」   ゐ 露 ’ .       墨 駄 ー . . ・ 旛 界 ピ ♂ み         繭 得」・轟い・・ 』、li,」♂4、Ll臼ム:..一4・一 一謹璽菌→輔 麟騒獣  竃      「t’: 巴 鳳1あ塔пA孚や、「 蜜新ψ一               」 v. #1鴨.〃”輯’伽嶋 {一 ●:t               ゆね    や ロ のロのけウごロ ゴユダ  コ               伽・刷醒画’嚇し’”喫伽‘7ごt・’・ 図6団一9 南山中学校全体計画透視図(『南山学園の歩み』) ぱs ・ 一 257 一           ’ 、 ,   ; . Ψ , . 諺 , , 弧 t . { . ‘ ぴ そ , 、 ℃ 皐 藏 頭 愛 風   虐 統 、 ㌧ 、                 . う = t       む           ナ 縛 し ,難灘欝羅欝1灘懸懇懇t一 弊≠ 図6-5-1 1914年校舎(『上智大学創立式    拾五年記念』) 59:『上智大学五十年史』(1963。11,1)  p. 29 6-5 上智大学校舎(現上智大学1号館)  1932(昭和7)年落成の上智大学1号館は、ヒンデルがまだ札幌に滞在 中の1927年から基本設計を開始した建物であった。本節では、まず同大 学の沿革を、r上智大権 創立薫拾五年記念』(1938年)、 『上智大学五 十年史』(1963年)を参考に1963年ごろまでについて概説し、続いてヒン デル設計の校舎(現1号館)建物の設計過程、学校側とヒンデルとの契 約内容、建築概要等について論考しておきたい。 沿革  カトリック修道会の一つイエズス会のフランシスコ・ザビエルが鹿児 島に上陸して、わが国に初めてキリスト教を伝えたのは1549(天文18)年 であったが、それから数えて364年の長い年月を経て、はじめて日本に カトリックの大学が誕生した。1913(大正2)年4月に開校した上智大学 である。  ローマ教皇ピウス10世は、日露戦争後の日本の平和克服を慶賀し、同 時に戦争中日本および中国、特に戦場となった満州において日本がカト リック教会をよく保護してくれたことに対して感謝するため、1905(明 治38)年10月、日本との友好関係の最も厚いアメリカのオコネル司教を 特使として日本に派遣した。同司教はアメリカのカトリックを代表する 有力者であり、のちボストン大司教枢機卿を務めた人物である。司教は 同月31日から帝国ホテルに投宿し、11月10日明治天皇に拝謁し、教皇の 親書を奉呈した5S。  当時の有識者は、これを契機にカトリックの高等教育機関設立を希望 藤 騨 繍         噛 , 糧 脚 臨       軋 .       、 雛 桜 璽 懸 細 騨 饗 繍 璽 藏 = τ 」     ’ 灘 襲     撒 層 為 菰 糠 叢 噛 ‘ 職 ら ;     r ’ 欄 一 ? . に 一 」 縛 澤 “.@ , . 魏   ,     一 へ , 一   簡 図6-5-2 ヤン・レツェル建築事務所設計1914年校舎立面図(『建築世界』第8巻第1号口絵) 一 258 一 し、また日刊紙r日本』の社説で主筆三宅雄二郎博士が掲げた使節歓迎 の辞のように、日本布教を有力ならしめんとするなら、高等教育を目的 とする学校を設立することが必要であることを力説するなどの動きもあ った59。  オコネル使節を通じてその進言を受け入れた教皇は、男子の高等教育 のため早速各国のイエズス会員の協力を仰ぎ、1908年最初の教授団一行 ドイツ入ダールマン博士(Joseph Dahlmann)、フランス人ブーシェ教 授(Henri B oucher)、アメリカ人ロックリフ博士(James Rockliff) らが来日した。  1910年には初代学長となる前ファルケンブルク大学哲学教授ホフマン 博:士(H:ermann H offmann)や、同じく創立者の一人アメリカ人ゲッテル マン博士(Victor Gettelmann)らも来日しているBo。  翌191!(明治44)年に大学の母体となる財団法人上智学院が設立され、 1912年3月麹町区紀尾井町現在の大学敷地が購入された。元陸軍大臣高 島丁丁助子爵邸敷地のほか、隣接の陸軍大将大島久直子爵邸、赤星鉄馬 邸、田中武兵衛邸敷地をあわせ、4,400坪(14,520㎡)の土地と、2階建 て日本家屋や新築したばかりの大島久直子爵邸など数棟を含め、売買価 格は43万円であったという6㌔  1913年3月専門学校令による上智大学の設立が認可され、同年4月大 島旧邸を仮校舎に授業が開始された。  最初の新校舎はヤン・レツェル62建築事務所の設計監督8sで、1913年 12月8日定礎式をあげ翌1914年秋に竣工した。建築面積232坪(765.6㎡)、 延べ面積750坪(2,475㎡)の木骨煉瓦造3階建ての建物で、教室数12、大 講堂2を擁していた。屋上庭園をもち階段室塔を強調したルネサンス様 式の堂々たる校舎で、パラペットのバトルメントが城塞風の印象を与え、 外壁の赤い煉瓦と階層毎に走らせた白い横帯や大きな白い窓枠のコント ラストが美しい建物であった(図6-5-!、一2)。  当時の四谷駅付近は、まだ平家建ての民家が多く、また濠や土手の松 の木が特徴的な地区であっただけに、この見なれぬ煉瓦造校舎の出現は、 様々な景観論議を呼んだという。永井荷風などは、せっかくの松と濠の 美しさを汚すと非難したし、戯曲作家鈴木泉太郎は、むしろ古い美を一 層美しくすると擁護しているB4。  この校舎は、1923(大正12)年9月1日の関東大震災で被害をこうむり、 倒壊寸前の危険な状態となったため、2、3階の全部を取壊し、新たに 木造2階を増築して修繕補強の手を加えられ、仮校舎として再使用され ることになった。  1927年新私立大学令(1918年)による規程供託金を文部省に納めること が出来、翌1928年大学令による上智大学として認可された。その供託金 は、ドイツカトリック信者の犠牲的な努力により集められたものである。 一 259 一 難黙黙灘灘灘懇灘灘暴露馨繊灘欝難蕪暴論緊緊繊雛綴噛玉響 60:『上智大學創立威拾五年記念』(19  38. IL 1) p.3 61:『上智大黒  p.4 創立威拾五年記念』 62:1908(明治41)年ごろ来日し、デ・ラ  ランデの配下として働く。ラランデ  没後は、その後を受けて仕事を続け  た。(坂本勝比古『明治の異人館』) 63:『建築世界第8巻』第1、2、3号(19  14) 64:『上智大学五十年史』p.50 櫨 .鍛懇懇醗舞懇懇懇懇マ響欝1響欝欝難編礁糊臨ア旛類、み爵三∴翫.デ… ’f’”’ぞJ” if“’一騨綿端:es,L’”嚇灘蟹- 65:1928年6.月11日付『カトリックタイ  ムス』記事 ゴ ’k 刀D. ’ le 6 コ     x一    獅 図6一一4-3 1932年新校舎 66:『上智大学資料集 第3集(1928~19  48)2 (1985.3.30} 67二『上智大学資料集 第3集(1928~19  48)S p.193 68:『上智大学五十年史』p.158  このころ大学当局は大学移転問題を考えており、当時のカトリックタ イムス紙によれば「小田原電鉄沿線豊多摩郡千歳村(現世田谷区千歳船 橋)に一一万五千坪の広大な」65土地買収を終えて、1928年中には「近世独 訓話大学建築の粋を採った鉄筋コンフリート三階建の校舎」65を建築し、 翌1929年中には移転する予定であった。  結局大学移転は行われずヒンデル設計による鉄筋コンクリート4階 建ての新校舎(図6-5-3)は、1930(昭和5)年に起工し1932年6月落成、同 月14日落成式を挙げ、翌15日から19日にかけて、記念講演会や学生によ る英語劇、ドイツ語劇、麹町子供会のための集いや運動会など多彩な行 事で落成祝賀祭が続けられた。  1945年4月13、14日の四谷、麹町方面の空襲は上智大学にも被害をも たらし、新校舎ができるまで仮校舎として使用された木造煉瓦造2階建 て482坪の旧校舎は全焼したが、1,366坪の新校舎は講i堂と2教室の計186 坪の被災にとどまったB8。焼失を免れた新校舎には、同月23日教育総監 部が移転してきたが8月21日には転出している。  戦後の大学の再建はめざましく、1946年2月初めには朝霞米軍キャン プから、終戦まで日本旧陸軍予科士官学校兵舎であった木造2階建て82 坪1棟が移築67され、また翌1947年には新校舎北側の三角形の土地7,300 余坪(約24,000㎡)が所有者板谷商事社長板谷宮吉から購入68され、現在 の上智大学敷地の概形がほぼ出来上がった。  新校地には、1948年に学生寮ボッシュ・タウンが誕生した。米軍払下 げのグリーンのカマボコ兵舎6棟を購入し、1棟を集会所、残りを学生 寮にあてたもので、舎監フランツ・ボッシュにちなんでの愛称である。 また1949年4月17日には聖イグナチオ教会が献堂式を挙}菰1951年!月 には図書館および大学院校舎が着工、翌年7月完成、9月22日に鉄筋コ ンクリート造3階建て建物の落成式がおこなわれた。  いずれも新校舎を監督したグロッパー修士の設計で、戦後の大学施設 建設の出発点ともなる建築であった。  続いて1956(昭和31)年2月学生寮併設の上智会館、1957年5月には法 学部校舎、1962年4月ドイツ・クルップ社寄付の実験工場、同年9月理 工学部本校舎などが建設され、創立50周年を迎えることになるのである。 現1号館  上智大学には42葉の断片的な設計図類が保管されており、うち3葉に は「設計 マックス.ヒンデル 昭和二年九月於札幌市」の署名があっ て、新校舎(現1号館)の基本設計がヒンデル在札幌時代から開始され ていたことを示している。  遺された設計図類は以下のもので、設計図書の年代順に筆者が1~9 系に分け、便宜上整理番号をつけている。 一 260 一 ユーユ.(Blatt7)『上智大学校舎新築設計図 在東京 西正面』   設計マックス.ヒンデル.昭和二年九月於札幌市   [PROJ EKT FOR D I E NEUBAUTEN DER UN I VERS I TAT DER PATRES V. D,S.J.   IN TOKIO. ANSICH P DER WESTSEITE(SCHULFRONT)コSEPT ユ927 MAX HINDER   ARCHITEKT.ユ:200(図6-5-4) 1-2。(BIatt8)『東京 上智大学校舎新築設計図 並及三階平面』   設計マックス.ヒンデル.昭和二年九月於札幌市   [PROJ EKrr DER NEUBAUTEN FOR D I E UN I VERS ITIAT D. PATRES V.D.S.J. I N   TOK I O. GRUNDRISS DES OBERSTEN GESCHOSSES〈B I BLIO’IIHEK)] ARCHT MAX   HINDER. SEPT.ユ927 ユ:200 1-3.(Blatt9)『東京 上智大学校舎新築設計図 家根伏』   設計マックス.ヒンデル.昭和二年九月於札幌市   [PROJEKT DER NEUBAUTEN FOR D I E UN IVERS I TAT D. PATRES V.D. S.J. I N   TOK I O. GRUNDR I SS DES DACHES u. SCHN I’1’T A一一B.] ARCHT MAX H INDER.   SEPT.1927ユ:200(図6-5一一5) 2-1.(Bei!. 4) [Jochi-Daigaku. Tokio KELLER. ユ:600]   MAX H I NDER-ARCH I TEKT. YOKOHAMA.P.O. BOX 90. 2-2.(BeiI. 5) 口)arterre. ユ:600]   ㎜HINDER-ARCH I TEKT. YOKOHAMA. P.0. BOX 90.(図6-5-6) 2-3.(Beil. 6) [IObergeschoss. llObergesehoss.] MAX HIi)NIDER一・ARCHITEKT.   YOKOHAMA. P.O.BOX 90, 2-4.(Beil. 7) [FACADENSKIZZE DER SODFRONT. SCHNI’1’r SKIZZE]   MAX H INDER-ARCHITEKT. YOKOHAMA.P.0.BOX gO.(図6-5-7) 3一ユ.(Beil. 8) [Parterre。 ユ:600] MAX HINDER-A:RCHITEKT, YOK:OHAMA.   P.0.BOX 90.(図6-5一一8) 3-2.(Beil. 9) [Obergeschoss. ユ:600] ㎜ HINDER-ARCHITEKT.   YOKOHAMA. P.O.BOX 90. 3-3.(Beil。ユ0) [KeIIer, 3.Stock] MAX HIND:ER-ARCHIT:EKT. YOKOHAMA.   P.O.BOX 90. 4-1.(BeiL11)[JOCHI DAIGAKU,TOKYO. PROJEKT-SKIZZE B N.2.コ   YOKOHAMA.顧RZユ928. Max Hinder.Archt.(図6-5-9) 5-1.(BeiI.12)[J㏄HI DAIGAKU TOKYO TIEFPARTERRE 1:500](図6-5-10) 5-2. (Beil.13) [JocHI DAIGAKU roKrYO HOCHPARTERRE 1:500] 5-3.(Be i l.14) [J㏄HI DAIGAKU TOKYO ユ.STOCK& ZWISCHENSTOCK ユ:500] 5-4. (Beil.15) [JocHI DAIGAKU TOKYO (2・・一5STOCK) 1:500] 6-1.[NEUBAUTEN DER J OCH I DA I GAKU TOKYO. PRO J EKT I N ARM I ERTEM   BETON. 一Architekt Max Hinder,一Yokohama. GRUNDRISS DES TIEFP   -ARTERRES.] ユ:200 6-2.[NEUBAUTEN DER J OCHI DA I GAKU TOKYO. PRO J EKT I N ARM I ERTEM   BETON. 一Architekt Max Hinder,一Yokohama. GRUNDRISS DERS HocH   -PARTERRES.]ユ:200(図6-5-11) 6-3,DhlEUBAUTEN DER J OCH I DA I GA]KU TOKYO. PROJEKT I N ARM I ERTEM   BETON. 一’Architekt Max Hinder,‘’Yokohama. GRUNDRISS DES ERSTEN   STOCKES.] 1:200 6-4.[NEUBAUT’EN DER J OCHI DA I GAKU TOKYO. PRO J EKT I N A RM I ERTEM   BETON. ’Architekt Max Hinder,一’Yokohama. GRUNI)RISS DES ZWEITEN   STOCKES.] ユ:200 6-5.[NEUBAUTEN DER J OCHI DA I GAKU TOKYO. PROJEKT I N ARM I ERTEM   BETON. 一Architekt Max Hinder,一Yokohama, ANSICHT VON NORDEN.]   1;200 6-6.[NEUBAU’rEN DER J OCH I DA I GAKU TOKYO. PRO J EKT I N Asw I ERTEM   BETON. ’Architekt Max HindeT,一Yokohama. ANSICHT VON SODEN.]   ユ:200(図6-5一ユ2) 6-7.[NEUBAUTEN DER J eCHI DA I GAKU TOKY O. PROjEKT I N ARM I ERTEM   BETON. 一Architekt Max Hinder,一Yokohama. ANSICHT VON WESTEN.コ   ユ:200 6一一8. [NEUBAUTEN DER J OCH I DA I(lth[KU TOKYO. PROJEKT I N ARM I ERTEM   BETON. 一Architekt Max Hinder,一Yokohama. LANGSSCHN’ITT.]   1:ユ00 6-9.ENEUBAUTEN DER J OCH I DA I GA}〈(IU TOKYO. PRO J EKT I N ARM I ERTEM   BE’roN. 一Architekt Max Hinder,一Yokohama. QUERSCHNITT MIT HOFANSI   tHT.]ユ:100(図6-5-13) 7-1.(BLATT.2)[J.D. KOJ I MACH I UNIVERS ITATS一一NEUBAU,S.j. GRUNDRISS   DES UNTERGESCHOSSES.  1:200コ M.Hinder Aug.ユ929 7-2.〈BLATT.4)[j.D. KO J I MACH I U[N I VERS I TATS-NEUBALT.S.J. GRUINIDRISS 一 261 一 L>三1 pRgs. ’聾・   DES ERSTEN OBERGESCHOSSES. 1:200] M.Hinder Au g.ユ929 7一一3.(BLATT.5)[J.D. KOJ I MACH I UN I VERS I T.ag’rs-NIEUBAU. S. J. GRUNDRISs   DES Z’WE I TEN OBERGESCHosSES. 1:200] M. H i n d e r Au g.1929 7一一4.(BLAT’r.6)[J.D. KOJ I MACH I UN I VERS I TA’TS-NEUBAU. S. J. GRUNDRISs   DES DRI’!”rEN OBERGESCHosSES. 1:200] M. Hindei Au g.1929 7-5.[J.D. KOJ I}dA(H I UN I VERS I TATS-NIEUBAU. S.J. LISNGERSCHNITT M IT   QUERSCHN I’IT D. AULA(BOHNE.) 1:200] M. H i n d e r Au g.1929 7-6.[JOCH I DA I GAKU/TOKYO/PERSPECTIVE. ARCH. M.HINDER/’YOKOHAMAコ   (図6-5一ユ4) 8一ユ.「上智大學校舎新築設計図 縮尺百分二一 マックス.ヒンデル建   築事務所 地下室平面図』 8-2.「上智大學校舎新築設計図 縮尺百分之一 マックス.ヒンデル建   築事務所 壱階平面図』(図6-5一ユ5) 8-3.「上智大學校舎新築設計図 縮尺百分之一 マックス.ヒンデル建   築事務所 弐階平面図』(図6-5一ユ6) 8-4.r上智大學校舎新築設計図 縮尺百分之一 マックス.ヒンデル建   築事務所 参階平面図』(図6-5一ユ7) 8-5.r上智大學校舎新築設計図 縮尺百分之一 マックス.ヒンデル建   築事務所 四階平面図』(図6-5一ユ8) 8-6、r上智大學校舎新築設計図 縮尺百分之一 マックス.ヒンデル建   築事務所 屋上平面図』 8-7.「上智大學校敷地内各種付帯設備配管及配線図 縮尺弐百分之一   マックス.ヒンデル建築事務所』 8-8.r右側面図 左側面図 背面図』(図6-5-19) 9-1.「3.東京上智大學校々舎増築工事設計図 弐百分之一 姿図 昭   和五年一月 正面図 背面図』 9-2.「上智大學校々舎増築工事設計図 百分之一 姿図 昭和五年四月』 9-3.r東京上智大學校々舎増築設計図 煎拾分之一 表玄関詳細図 昭   和五年九月』 9-4.r東京上智大門校門舎新築設計図 K拾分之一 正面哲学詳細図   昭和六年弐月』 1系案  ヒンデルが横浜に移転するま近かの「昭和二年九月」のサインのある 基本設計は、札幌の事務所で設計された作品のほぼ最後を飾るものと言 うことができる。黒門中央にややスケールオーバーとも思えるような八 角塔と玉ねぎ形ドームを立ち上げた木造校舎のその意匠は、札幌の藤学 園校舎や北星学園校舎の基本設計に見られる小さな塔とは比べ物になら ぬくらい大きなもので、大学校舎のモニュメンタリティーの表現として、 ・:.・r’”i噸鐸      レぞ.    uTIM r!   ・■ ●   “ ・細      1 …謡螢Lr…      図6-5-5        颯 窄喝 島j『,.“ y4爾^=    “  £ 義羅難綴 図6-5-4 1系案正面図(資料1-1)(上智大学蔵) 一 262 一           1具案屋根伏断面図(資料1-3)(上智大学蔵) 意識的に採用したものであろう。  平面構成は、保存史料では分からないが、東西に2っの逆コ字型の2 階建て校舎を置き、2校舎のブロックを東西に長い図書室棟が結んでい るようである。この図書室棟中央に、前述の塔屋が建つ計画である。西 正面図(図6-5-4)では、中央やや南寄りに学生用玄関を1階に持つ図書室 棟の外観をみせ、背後には尖塔までの高さ129尺の塔屋が描かれている。 校舎棟の裾広がりの寄棟屋根や、1、2階腰部の裾広がりのデザインな ど、ヒンデルが得意とした手法も展開されている。  東棟北側では主梁間45尺のうち東側18尺を3層として、階高10、9、9 尺の廊下と教室、西側27尺は1階を天井高15尺のホール、2階は礼拝堂 (アーチ天井の頂上まで14尺)とする予定であった。図書室棟北側の中庭 にはコロネードが廻り、さらに北側校舎棟が連絡している。  図書室棟北側で校舎の西、再割を切断した断面図(図6-5-5)で、わず かに全体の空間構成を知ることができる。  2っ目の案は横浜事務所で制作されたもので、鉄筋コンクリート造の 計画である。2系のスケッチから、3系、4-1案を経て、5系の平面 スケッチのあと、セセッション風の球体を掲げた塔屋を持つ左右対称の 6系の図面が提案されたが、最終的には規模が半分程度となり、外観を 特徴づける中央塔屋や球体シンボル、フレアーードルーフなどをすべて取 り払った陸屋根の極めてシャープなデザインに収敏し、7系案以下でほ ぼ実施図に結び付いていくことになる。 2事案  2系のスケッチは、「MAX HINDER-ARCHITEKT. YOKOHAMA.P.0.BOX 90. TELEGR. ADRESSE:HINDER YOKOHAMA.」と事務所名入りのA-4サイズ程 の用箋に、1:600の縮尺でフリーハンドで書かれたものである。随所に 室名や空間構成がドイツ語で書き込まれ、 「1KEN・=6FUB,20KEN=36.36 m」など尺寸法の書き込みなどもみられる。立、断面図には、中央に大 きなドームが計画されている(図6-5-7)。  平面は、南北で高低差のある土地の南側に中庭を囲むようにオープン アーケードOFFENE GANGEを周し、講堂(西側)と聖堂K IRCHE(東側)を配し、 北側の高い敷地の方には、南北軸と45度傾けた軸線に乗せたコ字型の2 棟を東西に配置している。  1階(Parterre、以下ドイツ語は図面に記載のもの)は、南側の講堂と 聖堂の2層レベルと通りを挾んで連絡し、北側西棟が校舎、東棟が宿舎 (修院)で、この構成は6系案まで踏襲されることになる。校舎は、玄関 を入って、西に2教室、学生控室、東に談話室、教官室などを並べ、西 棟の北翼部を寄宿舎としている。将来はさらに北側に同じ軸線システム で寄宿舎の増築が予定されていたらしく、寄宿舎増築後は学生室に変更 一 263 一 灘灘灘魏灘・二二 白帯 翻 “ 瀧 鞍 野 麹 響 繕 鮮 撫 議ゾ冨.   幽 .、・ P・麟蕪、購慰撫 一議難欝緊緊騰難醗1灘騨1購幽幽灘幽幽i幽幽懸欝籔灘織i蕪白白一白一山凱 藝 灘鑓灘勤・帆 触 .弦害瓶な.・嬢’. 、S 1: tl: 蝋㎜一霞α闘nn.  鳳嘲隔甑,,し隅篇 聰闇鳥纈■隔.爾■闘■し み との記入もある。東側宿舎棟には、食堂、居間、談話室等がV字型に並 び、北側翼部に将来図書館に転用される2教室、仮遊技室が配置され、 必要に応じて増築する旨のことが記載されている。  2階(10bergeschos s)は、8教室をL型に並べ、北側翼は1階同様寄 宿舎(将来学生室)棟である。宿舎棟はL型に16の小室を並べ、さらに上 階中3階にも同様の小室を重ね、北側翼の図書館棟とでコ字型に構成し ている。  3階(ll Obergeschoss)も西側に8教室をL型に並べ、北側の寄宿舎棟 には8室を背中合わせに並べた16小室を収容し、将来3教室に変更予定 の部分として予定されている。  校舎棟の地階(Keller)には大食堂、厨房、ボイラー室など、宿舎棟に は台所、ワイン庫、貯蔵庫などを予定し、前者は大講堂の、後者は会堂 の周りを巡るアーケードと連絡していた。大講堂、会堂棟の東西には運 動場(SPIELPLATZ)、南側には大運動場(GROSSER SPIELPLATZ)を予定して いた。           ん ノ / 序 、 斜 脚 ご ・NdZ   71 霧 硫 一  \ 7「ソノ\ ノ覇’ ら ◎ ワ ’ ,, 輝隔醐 舶野 R 蜘9 「9一■鱒鴫 } ノ  ノT 蟹脹《5■邑 ゆ’劇●鱒1轡饗馬鱈繭旧剣悶亀馳噂、 ●口鷺剛鴨幅 臨 一一 h齢開 齧 1、 、 . 6卜卜図 。!ノ ・t 狽ニ璽 紬 (  蔵       . 嬢 .Re,’r. ・   \ 、 〃 2系案1階平面スケッチ(資料2-2)(上智大学蔵)    o 器    @瀞 r  f,・・7一’ 州冒用5∫冒‘4・白書6●o・ 『陽鯛磁z戦  四K  SOb ・ a ts,H i一,T : SK;’ ta aNW・・{塾一触 噛 図6-5-72系案立面スケッチ(資料2一の(上智大学蔵) 3系案  3系のスケッチは、2系案の北側棟の軸線を南北軸に合わせたもので、 東宿舎、西校舎の棟構成はほぼ前門と同じである。やはり事務所名入り の用箋に、1:600の縮尺でフリーハンドで書かれている。  1階は、中央北側の食堂、厨房を中心に、西にコ字型の校舎、東に逆 コ字型の宿舎、寄宿舎棟を配置している(図6-5-8)。東側北翼の寄宿舎 一 264 一 懇    櫨κ 離羅誉擁・   ・遠離鰹囎Ut 鱗鑛灘 撚、 h 棟は、2名室1、個室3、4人室5、食堂などで構成しているが、この 部分は各平面とも大きく×印が付けられている。  校舎棟は、1階では北側に4室、南西側に4室の教室を置き、事務室、 応接室(Empfangs Salon)、教官室などを並べ、2階では9教室、ゼミ室 3室などを並べている。  寄宿舎棟を省いた逆L型の宿舎棟は、1階は食堂、居間、談話室のほ か、南側に面して談話室や郵便局、個室など同じ面積の小室を13室ほど 並べ、2階は病室、客室のほか16個室群を配置している。3階は16室の 修道士室と礼拝堂を収容し、北側食堂棟にあたる部分は図書室である。 食堂棟2階には閲覧室(Lese-Saal)を配し、東西棟と北側1階食堂棟で 囲まれた中庭は花園(Zier-Garten)である。 1t 鞘 蹴 認 臨盛聾 1 「凶“   ・ 嚇脳 L,●” 面甑 愈判        幽 榊 ‘亨 層  帽 「 ご一         魎酬鵬 靹  画6-5-S3系案1階平面スケジチ(資料3-1)(上智大学蔵) 4-1案  2、3系のスケッチを整理し展開した案が、5、6系案といえるが、 その間にグラフ用紙1枚に書きつけた平面スケッチ「4-1案」(図6-5- 9)がある。1928年3月の日付入りの案で、講堂、会堂部分には変更がな いためか、主に道路を隔てた北側(図には方位の記入無し)の校舎棟と、 宿舎棟についての基本スケッチである。  地階は、中央に食堂と厨房を置き、東に石炭庫およびボイラー室、西 にワイン庫、食料庫を並べる。  地上階(ERDGESCHOSS)は、教官室、談話室のある中央棟を中心に、東 翼に3教室、2ゼミ室、西翼に宿舎の居間、食堂、台所を充てている。  1階は、東校舎四国に5教室や閲覧室、西宿舎棟に図書室、9個室な どを置き、2階校舎に8教室、宿舎部に祈祷所(Haus-KAPELLE)や9個室 (No.10一 18)を配している。2階東側校舎翼を4から3教室へ変更のヴァ リエーションも書き込まれている。宿舎棟の中2階は省略され、9個室 (Nα19-27)の指示がある。 一 265 一  幽幽殿灘騨驚灘雛響欝1攣難蒙翼 撫 織 ”.。1漁礁鐵難騨攣霧聡1蕪欝灘樵鷺購鱗懇蕪搬1熱尉嬬 ’・鴛ぎ醒離郷響ぞ冤轡贈死馳凱’ 避欝瀦麓二嘱 噸蹴盛、  3階は中央棟のみで、東に4教室、西に7個室(No.28一一34)を配してい る。 :酬τ蓼『塾嗣=野鴨廻E晒轡q       ei+si !一ptri  噸写噂3        勘解帥ロ撃  隙 塩亀嚇」s‘}鞠咽 9 ヲ         堕  尋+r一 搬』__一_       ,. @..⊥∴1 ..「   i l l l寸一+!一 一・  り》s 属ゆ‘eハ の ぼ ら の  の り る 轟り..、     ●勾 画 ‘曾弗匂 6轟1 紳の9潮 4 角  4凶? 」             転ギ 図6-5-9 4-1案平面スケッチ(上智大学蔵) 5、6系案  4-1のスケッチの棟構成をだいたい守りながらまとめたのが、5、 6系案である。地上4階地下1階の北側主棟の東西に3層の棟を延ばし、 南側東西に2層の翼部を付属した構成で、全体に平滑な意匠の申で、主 棟中央には第1案同様塔屋部が強調され、セセッション風意匠の球体が 頂部に載せられている。ほかにヒンデル流の扱いとして、裾広がりの屋 根、地階の半円欄間付き窓や、ロマネスク風アーチを付けたオープンア ーケードなどがみられる(図6-5一一12、一13)。  地階は、主棟部分に学生用レストラン、厨房を置き、西側棟に同窓会 室(Alt-herren Verband)やボイラー室、ボイラーマン住宅を、東側棟に は印刷室や貯蔵庫、樽貯蔵庫、びん貯蔵庫、被服洗濯室などを収容した。 西側翼部は演壇付き大講堂、東翼部は礼拝堂である。主棟と翼部で囲わ れた中庭の南端に屋外体操場(offene Turnhalle)を配置している。中庭 には半円アーチを架けたオープンアーケード(offener Laubengang)も廻 す計画であった。  1階は、北側主棟中央に円形屋根を架けた玄関を置き、西側を学生ゾ ーン、東側を宿舎(修道院)ゾーンと2分し、学生ゾーンには、教官室、 事務室、予科学生室(Vorbereilungs-Schule)、大講義室などを並べ、西 一 266 一 側翼部は大講堂上のギャラリーおよび吹抜部分である。宿舎部分は、食 堂、居間、応接室、裁縫室(Schneiderei)、談話室などで構成し、東側 翼部は礼拝堂ギャラリーと吹抜部分である。  2階は、主棟中央から東側が宿舎(修道院)部分で、図書館や病院部門 を収容し、さらに中3画面司祭室(Patres)や客室である。西側は閲覧室、 講義室、実験室、本科学生控室(Vorbeitungsschule obere Abteilung)、 大講義室などが並ぶ。  3階は主棟中央に大講義室を置き、東側はチャペル(Mittkapelle)、香 部屋、司祭室、西側は商科(Handelsabteilung)関連の講義室、ゼミ室を 置く。  4階は一棟の一部東側に司祭室を設け、西側大部分は文哲科(Litera- turableitung)である。  塔屋部にあたる5、6階は、5階をレスリング室Ring Saal、6階を フェンシング室にあてている。  6系の図面は、5系の単線プラン(1:500)を1:200~1:100の縮尺にま とめたもので、寸法はメートル法で記入されている。  中央棟は59.4×8.8m(長さ×奥行、以下同)、東西棟50.6×8.8mうち 東西端部翼13.2×11。Om、東西の総長138.6mの規模である。断面図の 記載によれば、主棟の階高は、地階5.4m、1~4階4m、5、6階3.5m、 塔屋8.5m、塔屋軒より球体頂部の針状飾り先端まで10.4m、軒上から 大屋根頂部まで5.6m、東駅の階高は地階3.5m、1階3.45m、2~4階3m などである。  図面には鉛筆や万年筆で多くの書き込みがあり、学校側でかなりの検 討がおこなわれたことを示しているが、最終的に半分程度の規模となり、 ヒンデル側では外観を特徴づける中央塔屋や球体シンボル、ドーリック オーダーの中央玄関、フレアードルーフの大屋根などすべてを取り払っ た極めてシャープな作品を提示した。 JecUl DAKaAKU TOKYe       了1 M多ニニ」麟 図6-5-105系案1階平面図(資料5-1)(上智大学蔵) 一 267 一 図6-5-116系案1階平面図(資料6-2)(上智大学蔵) 撚 猛鍵灘:難 灘,鰹勲,鷺蝦繋欝鐸購膿灘隅讐灘欝欝撚羅親許禽騨揖聡縄簾悉轟轟蓼麟鷺㍉壽騨解照野馬∵ 耀耀:騨饗獺継継“      裡    一 図6-5-126系案南立面図(資料6-6)(上智大学蔵) 69:『上智大学資料集 第3集』pp.12、   13 図6-5-136系案主棟断面・中庭立面図(資料6-9)(上智大学蔵) 7~9系案  1929年8月の日付のある7系の図面は、8系案以降の最終設計図に至 る最終スケッチと思われる。ヒンデルのサインとともに、平面の室名や 図面名などはドイツ語で記載されている。7系案と8系案以降とでは、 寸法や間仕切構成などで微妙な違いはあるものの、東西約55mの二棟の 西側に翼棟を南側に張り出した逆L字平面や、敷地の東端、旧校舎の北 側配置などは一貫している。  8系案の平面図は、後述する大学資料集第3集掲載の「新校舎大観」 の「各室用途並二配置」とも合致しているので、最終平面構成をこの図 面をもとにみてみよう。  1階(図6-5-15)は、主棟の東西に階段室と便所を配置し、主棟よりも 北側に4.4m(田々寸法)張り出している。幅員2.68m(内法)の廊下の南 側は、西から「閲覧室」(7.08×18.40m、以下単位はm)、「図書室」3室 (7.08×9.20)、「図書館事務室」(7.08×9.20)である。西翼棟は、南側に 表玄関と「学生通路」(玄関ホール)、「守衛室」(5.80×3.54)、「部長室」 (3.00×3.54)を配置し、「学生通路」の北側「広間」(5.60×17.7)の西側に 「事務室」(5.80×7.08)、「幹事室」(5.80×3.54)、「第一応接室」(同)、 「学長室」(同)、東側に「第二応接室」(3.00×3.54)、「予備室」(同)、「金 庫室」(同)のほか、北側に小「玄関」(貴賓専用玄関)などを配置した。  2階(図6-5-16)は、三門部に教室4室(7.08×9.20)、「軍事教官室」(7. 08×4,60)、「教室」(同)、「教授室」(7.08×9.20)、西三三は吹き抜けの 舞台付き講堂である。  3階(図6-5-17)は、主棟部に教室6室(7.08×9.20)、西翼棟の講i堂上 部は、東側に幅3mのギャラリー「講堂中二階」を、南端部に「映写室」を 置く。  4階(図6一・5-18)は、主調部中央に「合併教室」(9.76×18.4)、左右に教 室2室(7.08×9.20)を置き、西翼棟は片廊下(幅員3.00)の西側に大「教 室」2室(8.4×10.62および8.4×10.62+1.50×7.08)を配置する。  屋上は、タンク室や休憩室の他は、遊歩biB 3としている。  主棟部の地階には、「台所」(5.60×4.60)、「食堂」(7.08×18.40)、「機 関室」(7.08×9.20)、「配電室」(7.08×2.30)、「浴室」(7.08×4.60)、「更 一 268 一 『 蔓 顕 耀い.   エロ▼齢肘噸管 遜: 漕璽’1   ヘ         ロ                                ユ 痺華一1二.ボ 一一t「ゴ 一“一一一 :Y 産一、一←・・㍍,∵㍑買一・…     ロロ  ウ い   か   か  ゆ   ツ ロ のロじ 蝉ぎ1、欝._、薫、誠    一一r曜 _           1   11      鴫 幽  【7 甲、 g 瀞 . 軸 冨 闘 瓢   メ 罵 「帯 ; 倒 し 」簑垂ヒ匪   ヨ ぶ   て ゑ tN   づ  .ii 轡.㌧8 ~減1“  藍 蒐}一  、 図6-5-147系案透視図(資料卜6)(上智大学蔵) 一 町 h 一 静 鱒     -   躍         “ り h り 墾 三 七 濁 餐 了 y 罠   駈   ” ヤ ㍗ 」 ℃ L 6   翰         轟 、       、 ご 塗 響   、 一 引 す 一 。   ● 9 r k   機鐸 気 . 鯛 、 圃 レ 、 鯉 .   , .   型 紙     み じ   、 亀 跡 恕 、         君   ♪   嶋   ・   夢   耐     ・ 遷 一   卸         脚       恥 算       ・ ザ         ? 、 t 四 ー ー . 註         酵 り     ●       ‘ ざ 、       占 悟       ・   に         甲   .       三 し   i 一 , ‘   」   魯       ♂ 垂 診 し 風 レ r ド 撫 … 施 国 1 [ パ ㎝ r 、 『 , 電   解 ヤ } 4 轟   為 “ , 填 耐 罰 尋 → モ し 軸 濠 一 毫 一   薯 」 彗 ’ 罫 “ ・ ボ ㌦ 、 製 ’ ロ   一 印 . ㌧ ’ ・     ! ㌃ 搾   ● 二   号 、 縫 図6-5-168系案2階平面図(資料8-3)(上智大学蔵) 図6-5-188高畠4階平面図(資料8-5)(上智大学蔵) 図6-5-158系案1階平面図(資料8-2)(上智大学蔵) 図6・一5-178系案3階平面図(資料8-4)(上智大学蔵) 図6-5-198系案側面図、南立面図(資料8-8)(上智大学蔵) 衣室」(同)、「書籍:倉庫」(同)のほか、「銃架室」(2.78×9.82)などが配置 され、地下2階には「石炭庫」(4.40×13.80)が設けられた。  主棟と西翼棟とは、半響町スキップしたヒンデル好みの空間構成とし、 地階の床は道路より1.2mさがっている。階高は、地階のみ3.4mと低く、 隅棟部、翼棟ともすべて3.6mとしている。  竣工時に近い外観は、図面資料7-6透視図(図6-5-14)や、8-8背面、側 面図(図6-5-19)、9-1正面、背面図、9-2正面図(図6-5-20)によく表現さ 一 269 一 一 ぺ岬,溜 れている。地階と1階腰部分まで石貼りとし、1階窓台から上はタイル 貼り仕上げとし、窓台、二上楯、パラペット押えなどの水平帯が全体を 引き締めている。1階部分では、開口とテラコッタ製装飾パネルを交互 に配置し、東西の階段室棟の張出し部分では、1階窓上に外灯を4個な らべ、また正面中央や西面玄関二二上部に青銅製の旗台を配するなどの アクセントもみられる。  図面ではわからないが、実際の外壁では、2階二上までやや赤みがか ったタイル、その上を晶系のタイルで仕上げ」人造石やテラコッタなど の白っぽい水平帯とのコントラストが、外観に変化を与え、階高の差や 段状に後退するエッジとあいまって、固くなりがちなデザインに豊かな 表情を与えている。南側背面のボイラー用煙突も同様の表面仕上げを施 している。  外壁よりもわずかに突出した「表玄関」(図6-5-21)は、詳細図(図面資 料9-3)によれば、線刻を施した花蓋石の柱で成の高いエンタブラチュァ ーを支え、エンタブラチュアーの中には電灯を組み込み、 「上智大学」 と文字入れした4っの8稜星形小窓を背面から照らす工夫がなされてい た。詳細図には、柱やエンタブラチュアー部分に「現寸図参照」の書き 込みがあり、より詳細な図面があったことを示している。 , セ野叉。薮:t汽辱覧,「.1 図6-5-209系案北立面図(資料9-2)(上智大学蔵) 70:『上智大学資料集第3集』p.14 契約書VERTRAG  こうした経緯で計画された新校舎は1930年6月15日起工70されたが、 ヒンデルとの契約は、1929年7月15日付けでかわされた。契約書の内容 は、『上智大学史資料集第3集』に原文(独文)と訳文とが収録されてい るので、ここでは概略とりあげてみよう。  まず前文で、施主たる「上智学院」は、横浜在住のマックス・ヒンデ ルに上智大学の講義館、講堂、受付、学生寄宿舎の建設に関し、その施 工及び監理を以下の条件で委任し、設計者はこれを請け負うことがうた 一 270 一 われ、15条に及ぶ項目が続く。 第1条 施主は工事に関連する技術上、芸術上の事項に関して、施主の権限     の代理権を設計者に与えること。 第2条 設計者は、作業員及び芸術家の選定に関して、提案権、拒否権を有     すること。設計作品の作成者として、すべての設計図及びこれに類     するものの著作権を有し、施主や第三者は設計者の精神的所有権を     直接、間接に他の工事の施工に利用したリ、原著者の承諾なしに公     表できないこと。 第3条 工事指揮の統一をはかるため、施主は職人と直接契約を締結せず、     設計者は職人に、設計者または工事監督者との聞に締結された契約     及び命令のみが法的効果を有することを徹底させること。 第4条 設計変更や工事見積書の建築費総額を根本的に上回る変更または補     充は、施主の要求で、かつ報酬が支払われる限りは遂行されるが、     これによって当初計画の建築上の構成がゆがめられるような話合は     この限りではない、と設計者の著作者人格権が明示されている。 第5条 設計者が根本的な変更補充溺適切と判断した工合は、その実行にあ     たり施主の承諾が必要なこと。 第6条設計者が病気や事故、長期不在、死亡によって、工事を契約通リ遂     行できず、しかも作業内容が工事監督者が自己の判断で処理できな     い揚合は、設計者は施主の承諾する代理人を任命し、それまでに実     施した作業の最終段階の報酬に相応する補償を、本人または相続人     に対し行うこと。施主は任・命した代理人を拒否し、他の設計者に工     事の完成を委任する権限を有すること。契約締結以降1年以内に工     事が着手されず、または期間内に設計者の責任によらず工事が中止     される出合は、それまでに行われたすべての作業に支払われるべき     報酬額の20%増しで支払う。設計者が自己の義務を履行しない場合     には、この報酬の請求権は失うこと。 第7条 契約に関する紛争について、オーーストリア領事館に提訴し、その判     決に両当事者は従うこと。 第8条 段階に応じた設計者の作業内容   1.A 計画決定等を目的とする協議。建設用地の視察。 B 建築工事     の主要理念を設定したユ/500の概略図作成。C 同ユ/200の概略工作    成。   2.A ユ/200の基本設計図の作成一面積あたりの工事見積概算溺可能     な寸法記入のあるもの。B 浄書したユ/200の設計図の作成。   3.A ユ/ユ00の実施図面の作成一必要な平面図、’断面図、側面図の鉛    筆仕上げ。B 同、青写真用浄書図面。 C ユ/50製作図と1/100鉛    筆仕上げのコンクリート図面。D 同、青写真用浄書図面。     E 確認申請用と工費見積書用および工事の最の建築資材、施工方    式に関する基本的問題を解決するために、B図とC図を添付した設    計仕様書。   4.施工段階     A 建築契約。B 確認申請。 C 構造上及び芸術上の詳細図。     D 基礎工:事開始までの設計監理。E 最下階工事開始までの設計    監理。F 二階工事開始までの設計監理。 G 以下同様に、各階工    事開始までの設計監理。H 最終決算書の作成。これによって設計    者の義務が遂行されたものとみなされる。 第9条 設計報酬     ユ929年3月20日付書簡による提案および同年7A 12日の口頭の協定に     よる決定内容に従い、     A 建物全景の基本設計(正面、側面、背面図)には、別途報酬を    支払うものとし、建築委託に含まれていない建物(聖堂、図書館、    現居住建物の増築工事)1坪につき1円。 一 271 一 ,・砒 難 、鰹 ’ 、L:1輪舞響欝欝『騨磐讐!碑饗驚癩        百. 71:『上智大学資料集 第3集』p.11 第ユ0条 第1ユ条 第ユ2条 第ユ3条   1 2 3 4 条       1 4       第 第15条 B 建築委託に含まれる建物は、260, OOO円(1929年3月提出の設計 概要見積工費)までは、その3%、工費260,000円を上回る部分に関 しては、日本でのカトリックミッション工事に適用される割合、す なわち4%。権利関係の調整、現存建物及び土地の測量に関する等 設計者の手数に関する報酬は別途。 測量、地質調査等、建築工事に必要な資料は、施主が設計者に提供 もしくはその費用を負担し、諸税、印紙税、取次手数料は施主の負 担。 当初の計画範囲内の変更は報酬対象としないが、建築費総額が増大 するような大幅変更または追加工事の場合は、報酬も増額とする。 設計報酬算定基準は、最終建築決算書が提出されない揚合には工費 見積書演、工費見積書がない場合は、建築延坪また建坪に応じた費 用概算とする(日本では床面積1坪につき、木造建物200円、コンフ リー・ト建物300円)。 設計報酬の支払方式 報酬総額の30%が、基本設計作成開始の際、第8条の作業1A~C に対して。 報酬総額の30%が、作業2A~Bに対して。 工事開始時点に報酬総額の30%が、作業3A~Eに対して。 報酬の100/・rbS遅くとも最終決算書の提出時に支払われる。 確認申請及び工事請負業者による積算が可能となる程度に設計図が 作成されながら工事中止の場合の設計報酬は、総工費260,000円ま でのコンクリート建物の場合は坪ユ2円、木造は坪8円。家具設計と 壁画のスケッチは、報酬総額に含まれない。 工事監督者 工費がユ00,000円を超える揚合は、施工工事監督者を求め、設計者 はその者の提案権、拒否権を有する。設計者は週1回施工監理を行 ない、工事監督者及び請負業者は、設計者の指示に従うことが義務 づけられる。施主の要望、疑義は、設計者又はその代理人に対して のみ表明できること。建築現量には建築日誌をおき、これに工事監 督者が記入すること。日誌には、毎日の進捗状況、天候、作業員数、 受付文書、報告及び回答を記入。施主、設計者は現場訪問ごとに、 建築日誌に署名し、その際建築に関するコメントを書き添えること も可。  以上の内容の後に、ヘルマン・ホフマンHerm. Hoffmann、マックス・ ヒンデルMax Hinderの署名があるこの契約書では、建築家の著作権や 人権の保護が明示され、また設計料について段階ごとにかなり細かく規 定されていること、当時の設計料算定基準などを知ることができるなど 興味深い資料である。  さらに1930年6月4日付けで「建築工事請負契約書」が施主と「東京 市神田区淡路町2丁目14番地木田保造」との問でかわされた。  請負金額は376,120円、工事竣成期限は「昭和五年六月拾日」から「昭 和六年六月拾日まで(北側A部建物ハ昭和六年四月三日西面竣工引キ渡 シ)」とし、同契約書にはヘルマン・ホフマン、木田保造の署名に並んで 立会人としてマックス.ヒンデルの署名もある71。  工事は1930年6月15日に起工され、同年7月29日頃ペトロ・パウロの 祝日に、ベルギー、ドイツ、イタリー各大使、帝大入澤博士、高田早大 総長ら臨席のもとに定礎式が行なわれた。礎石には、定礎証書のほか、 一 272 一 藤難暴露暴露雛  擬繍離  響翼講  ・獣腿    ’,鶴鍵.’ セ ま ヨ  サ 懇灘懸盤騨獺,、灘’,.,. ・灘一一  鞭 講   、照霧灘懇,騨蔓…_繊聯欝欝 旧校舎の定礎証書(1913年12月8日付け)と設計図、教職員及び本館イエ ズス会士名簿、教皇ピオ10世の銀メダル、枢機卿オコンネルのメダル、 日本の新硬貨などが埋められた72。  木田組請負で工事延人員47,436人を投入して1932年6月12日に竣工し た新校舎は、総面積4,579.512㎡(地階619.712㎡、!階1,038,893㎡、 2階1,027.518㎡、3階912.824㎡、4階847.688㎡、屋階59.829㎡)の 規模74であった。各階の部屋構成は、前述の8系案設計図の説明と重な るが、次のとおりであった73。 地下2階 石炭庫、変圧室 地階 調理室、付属室、予備室、食:堂、暖房及び機罐室、配電室、学生浴    室、更衣室、図書館用物置、兵器庫、物置、便所、廊下 1階 西翼 表玄関、玄関ホール、受付、事務室、幹事室、第一応接室、    学長室、貴賓専用玄関、金庫室、予備室、部長室、第二応接室    主屋 図書閲覧室、図書貸出室、書庫、図書館=事務室、付属室、便    所、廊下 2階 西翼 講堂、舞台、付属室    主屋 教授室、配属将校室、教室5、付属室、便所、廊下 3階 西翠 講堂中2階、映写機室、非常階段    主屋 教室6、付属室、便所、廊下 4階 西翼 大教室2、廊下    主屋 合併大教室、教室4、廊下 屋上 昇降機械室、水槽、換気機関室、屋上遊歩場及び休憩室  主棟の西端に設けられた昇降機は、オーチス・エレベーター会社製。 暖房は温水暖房で、ボイラーはドイツデラス会社製、放熱器も同社製 施工はエーピー・テーテンス会社が手掛けた。浴室などへの温水供給装 置も同社の施工である。  給水設備は、市の上水道より給水を受け、 「モートルタービンポンプ」 で屋上に揚水し便所、手洗所などに自動送水した。各階には消火栓設備 が2ヵ所あり、5馬力モーターで毎分10立方フィートの水量を噴出する 能力の直結消火ポンプが配備されていた73という。・ 一 273 一 72:『上智大学資料集 第3集』pp.1~5 73:『上智大学資料集 第3集』pp.12~   15 図6-5-21表玄関外観(山崎家蔵) 図6-5-22屋上工事中の景(川喜田敬忠蔵) 図6-5-231階西翼事務室前ホール(山崎     家蔵) 図6-5-242階西翼講堂(山崎家薇) ち藏鯵{臨調, 灘1難灘三白欝藤白白欝二二顯 醗簸ご黛・・嘉∴一 鳳、険難    k  ,,兜凱・ .e.晦._羅痙∫1灘騨灘警鞭奪罪鷹葺野でllこ1議案: 第7章 ヒンデルの建築観 ユ:ハンス・ヒンデル1976年3月 13日付  書簡 2:スピロ・コストフ編/棋文彦監訳『建  築家一職能の歴史』(日経マグロウ  ヒル社、lq.81.10.20)p.208  ヒンデルの作品活動を大きく札幌時代と横浜時代にわけて概観してき た。横浜時代に比べ、滞在期間の短い札幌時代を重点的にふれた感があ るが、その理由として、まず第一に本論の目的が北海道近代建築史上に おけるヒンデルの業績を明らかにしょうとした点にあることに加え、北 海道大学教授連との交流を通じてヒンデルの入物像が横浜時代に比べて よく伝えられていること、スイスに似た札幌の気候風土を意識した住宅 作品が多いこと、ヒンデル自身が残した建築家の職能に関する小論の新 聞への投稿があることなど、ヒンデルの建築観、建築家観をみていく上 で重要と考えたからである。 7-1 「新しく家を建てる人々へ」にみられる建築家観  来日以前の経歴(4-1参照)で述べたように、ヒンデルは専門の建築教 育を受けたわけではなく、16歳で下級ギムナジウムを卒業後、製図訓練 を経て7年間の修業時代を積み上げた、いわばたたきあげの建築家であ った。  ヒンデルが父方、母方とも農業を営んできた家系であることを隠し、 「父は南ドイツの貴族出身、母はフランス旧家の出身ゴという虚言を創 作することさえあったということは、ヒンデルの見栄っばりな性格の一 面を伝えていることもあろうが、当時は建築家が社会的地位を確立する ためには、まだ家柄のよさといったいったものが、関係していたのかも しれないし、また社会的尊敬を獲得する2ための方便であったと考える ことはできないであろうか。  いずれにしても、建築家として固い信念をもっていたことは、来札の 翌年1925年12月13日から20日にかけて5回にわって北海タイムス紙に連 載した投稿記事「新しく家を建てる人々へ」(山崎春雄訳)から知ること ができる。  この「新しく家を建てる人々へ」で言わんとしたところは、副題にあ 一 274 一 るように「建築に関する計画と監督は建築家にまかせよ」、つまり「建 築聞題を解決するは(ママ)建築家に一任せよ 自ら解決せんとする勿れ」 ということである。建築家の職能について格別目新しいことを主張して いるわけではないが、個入建築主が住宅などを建築家に設計を依頼する ことのほうが少数派であった時代に、新聞を通じて建築家の職能につい ての理解を一般読者に呼び掛けたこの試みは、北の地で設計活動を進め るにあたっての、ヒンデルの所信表明といった印象も受ける。 以下、論説の順に従って内容にふれながら、ヒンデルの建築家観を見 てみよう。  まず一般的な住宅建設プロセスとして、建築主が「亜米利加の建築雑 誌、新式住宅建築法、組立家屋、郊外住宅、建築上の特許的物件に関す る書籍を手当り次第」3に買い込み、妻君は台所廻りを、主人は成金然た る客間とか書陵部分を中心に理想の間取りを何度も線引きしたり、新築 した友人宅を歴訪したりするうちに予定の建築着手期がせまり、具体的 な設計案が出来上がらぬうちに建築請負業者に依頼するケースをあげる。 請負業者は配下の建築師に設計させるが、 「平面図はいつれ何かのコピ ーかさ無くとも時間不足の結果十分な考案を凝らしたもので無い事は理 の当然です。外観図は矢張り何かの原図をごまかしたものでなくば花嫁 然と飾り立てたもの」3と、ヒンデルの評価は手厳しい。  ここで「請負者にあらず請負者の奴僕にもあらぬ独立の建築家」3につ いて言及し、建築家は建築主から相当の報酬を得るが、建築家の誠意あ る周到な研究や正直な工事監督によって建築主が節約できる額に比べれ ば些細なものである点を強調し、建築が専門職であることを「時計師や 裁縫師」4同様「専心的習練」4を必要とするほかに、医師同様献身的な 天職としての努力を要すること。建築家の社会的地位は、芸術的技術方 面を別にすれば、医師、裁判官、社会学者などと並ぶものであり、さら に一般社会と建築依頼者、建築主と請負業者との間1ご立つ「自由なる判 官」4として、十分な権威が賦与されなければならないと主張する。  次に建築家に対する建築主の心構えとして、 1。建築依頼者はまず建築に必要な諸条件を詳しく個条書きしたものと、自  分たちの生活様式、習慣、それに関する意見を正直にいう意志を以て、  できるだけ早く建築家を訪問すべきこと 2.建築家を訪問する人は、商店に買物に入るつもりではなく、医師を訪れ   る気持であるべきで、かっ医師同様に素直に信頼する気持が成功への条  件であること 3.最良の建築家といえども魔術師ではないので、物が良ければ値段が高い  のも当然で、バラック建築の費用で宮殿級のものを設計せよというのは  不可能であること 4.真の建築家は金銭さえもらえば如何なる要求にも応ずる奴僕ではないこ   と などをあげ、さらに建築家の職能について、 一 275 一 3:北海タイムス1925.12.13付記事。 4:北海タイムス1925,12,19付記事。 蕪 h         よぼ  に に     ヒが  ヒ鰍 ・灘灘  鱗鱗痕灘 騨糠灘e‘ 灘.。.騰灘轟_黙黙灘鑛i騨・.1馨黙認韓欝饗鍔饗欝羅肇山隠講藏蓋藻熱聯饗繋懲巡 幽 養 幽 ・ 謬 . . 払 無 傘 欺 き 響 ; 層 墨 鮮 藷 ト 象 i £ 御 恥 躯 . 晦 繋 灘 羅     トゆ  ほ コ .灘羅 厭  郵翼こ鵬瀞無・一.聡で 5:北海タイムス1925,12,20付記事 6:北海タイムス1925,10.30-31記事 w{eif. .鷺爲.8.  .い      _s,.t 1.建築家は、請負業者を兼ねることはありえず、大工や左官、図工等が自   ら建築家と名乗ることは許しがたいこと。また才能ある専門家といえど   も自ら請負業者を兼ねるものは、建築家の称号を与えるべきではない、  建築家という称号は医師や弁護士同様、法律で保証されるべきと、建築  家の立揚、地位を強調している。 2.正当の日本風住宅の設計には外国の建築家は、なんら交渉をもたないが、  西洋風住宅の設計には西洋の建築家の方がかなっていること 3.札幌と東京の建築家に双方の気候条件を共に良く理解せよというのは無  理で、北国の建築には北国の建築家が適っていると、自身のPRも忘れ  てはいない。  さらに、住宅は、外観にその品格を表わすもので、道行く人に喜びを 与えるようなものや、見るものの「品性向上の一助たる方が望まし」4い といった美的条件や景観問題も、費用や坪数同様重要であり、営業上利 益の採算を第一義に考えざるをえない請負業者や大工とは異なり、こう した点にまで配慮できるのが建築家であり、単に個人住宅に限らず、す べての公共建築、学校、教会などの建築にもあてはまるとし、 「建築問 題を解決するは、建築家に一任せよ 自ら解決せんとする勿れ」5と結ん でいる。  専門誌などは別として、建築家の職能をこれほどまでにはっきりと語 った新聞記事は、筆者の管見するところ、北海道では例をみないものと いえる。絶対的な自信をもってのこの発言は、当時の知識階級にも好感 をもって迎えられたのではなかろうか。それが、短期間ながらも、札幌 で近代建築思想を反映した大学教授連の住宅や学校建築などの設計を実 現させる原動力のひとつとなったと考えたい。 7-2 ヒンデルと日本建築  上述したように、ヒンデルは、日本風住宅の設計には積極的には関与 しようとはせず、当時しきりに建てられるようになった文化住宅とかモ ダン住宅とか呼ばれた中流知識階級の洋風住宅の設計には「西洋の建築 家の方がかなっている」いるとして設計を進めたが、日本的なものを決 して排除したわけではなかった。  引き戸や引き違い窓といった和風建具を積極的に採用したし、生活様 式によって必要であれば畳室も取り込んだし、当時の日本建築界におけ る「コンクリートの函が頻に建つ」B傾向を憂い、日本の建築家は日本建 築の良いところを採り入れて日本独特の建築を造るべきと警鐘を投げか けるなど、風土伝統を意識して創作活動すべきという立場をとった。  ヒンデルが日本建築や日本文化を積極的に理解しようとした態度の二 一 276 一 れの一つとして、興味深い講演がある。横浜時代の1929年1月8日に東 京のOAG東洋文化研究協会でおこなったもので、「Japanische Bausi- tten(日本の建築風習)」と題するものである。北海道大学文学部文学科 独文学講座藤本純子助手の協力で講演内容は訳出7されているが、在日 5年そこそこで関連文献をよみこなし、これだけの講演内容にまとめあ げた点は驚異的でもある。当時すでに形骸化していたり、現在では建築 関係者ですら知ることのない儀式にいたるまで、ヒンデルはじつに明解 に説明しており、ヒンデルが日本理解に傾けたすさまじいほどのエネル ギーの一一端を感じとることができる。  講演内容の概要を筆者なりに解釈しながらふれておくと、導入部分で は、当時ですら希少になってきている建築儀式を、 「希少になればなる ほど、知る価値も高まるというものです。」 「このような風習から、日 本の建築習慣のみならず私たちが日頃あまり伺い知ることのできない日 本的な思考形式についても実に多くのことがわかる」とし、話は、自分 たちが施主の一人になつたっもりで具体的に追体験するようにすすめら れた。  番匠の位を持つ棟梁に依頼して作成された間取図を家相家に鑑定して もらうまでの過程、家相家による「九分法(井田八宅之法)」による敷地 分割、家相による諸勢の配置や庭木の可否などが述べられ、設計変更後 の契約日を迎える。次に契約日の内容と工匠(番匠に次ぐ位)である老 職人が語る普請にまつわる神話が続く。  普請などしらぬ神話世界の人間に「天目一箇命」(アマノマヒトツノミ コト)が道具を作り、「手置帆負命」(テオキオオイノミコト)と「彦狭知 命」(ピコサチノミコト)が森の木を加工し、日本の家の原型を作ったこ と、この神々が人間に墨打糸、欽(チョウナ)、斧、鋸などの使い方を教 えた結果、大工の守り神となったと古事記、日本書紀が経緯を伝えてい ること。占星術をもちこんだ神官による混乱を避けるため、聖徳太子は 大工に対して冠位十二階位を制定し、上位三位の者に対し、神官装束を 身に着けて、建物祓い浄めの七種の儀式を執り行う権限を授けた。が、 太子は家相家の権限を委ねなかったので、普請設計にも門外漢の手が入 り込むようになった。 「占いは、百害あって一利なし、それどころか邪 法之禁厭(ジャホウノマジナイ)、これさえなければ工事はもっと楽に首 尾よく進むのに」と老大工の言葉として紹介しているが、ヒンデルにと っても同感だったであろう。  次からは、地鎮祭、地曳之式、地下之式(イシズエノシキ)、針初之式 (チョウナハジメノシキ)、清鉋解式(キヨカンナノシキ)、立国棚式(タ チバシラノシキ)、上棟一式の7っの建築祭式および家堅(ヤガタメ)祭 について、式の内容、祭式の祭壇飾りなどについて説明している。 一 277 一 7:『ノルデン第30号』(1933,lD 籔. 欝襲.羅一 り伽・ 難. 鐸 , 講 懸盤ご礪∴一. .infi.rtbD錨蝿准・…。.1’ Z隷鰍。_論藁。漁 羅.:一1欝懇懇鰐驚綴織・離離機_  最後に、邪法之禁厭(ジャホウノマジナイ)、つまり迷信や格言のサン プルをいくつか紹介しながら、中には案外真理が隠されている場合もあ るとしながらも、自身の関与した例として、ある医者の家で、易者によ って台所の位置を変えねば奥さんが病気になるおそれがあるといわれ、 後に台所の移設を要求されたこと、またある高名な学者の家では完成し た家の出窓が不吉だというので取り壊させたことなどを、おそらくなん の効果もなかったろうと述べながら講演を結んだ。  当時の日本人でも難解な建築儀式を、どのような聴衆を対象に、また どのような語り口で講演したのだろうか。今となっては想像するしかな いが、よほど饒舌でなければ、耳新しい神の名や、儀式の細かな中身な どが次々と展開するこのような内容を、具体的に理解させることは困難 な気がするのである。最初に述べたように、ヒンデルは、外国入から見 れば、時間と費用を余計にかける建築プロセスに好奇の眼差しを向けな がらも、実に冷静に報告している。日本での仕事を通じ、建築に従事す るものにとっては避けることの出来ない日本の建築儀式は、ヒンデルに とって日本文化理解へのひとつの橋掛かりとして位置付けたのだろう。 講演抄録の最後に、使用した日本の文献として以下のものが並べられて いる。 『神代巻(日本書紀一..Lノニ)』三保十年(1726)(個人蔵) クロ’イタ・K.『ヤマトフミ』(1928) コウダ・N.『古事記』(1928) 『暦家故実録』丁丁三年(1803)文化五年(ユ809)の版(早稲田図書館) 『野地準則』安政六年(1859)大正ユ5年版(鶴見寺院図書館) トツザワ・Sh、『運命三世相』〈1928) トツザワ・Sh.『家相方位図解秘事』(1928) 『本暦』昭和4年版(1929) 『和漢年契』寛政八年(ユ796)(個人蔵) 『新撰回暦便覧』貞亨乙丑七,月く1685年)版による亨保十七年(ユ732)の復刊( 個人蔵)  これらの文献理解に、建築職入や日本人所員などの助言を受けたこと は想像に難くないが、文献名を見るにつけ、入門書的なものは見当らず、 何事にも真剣に立ち向かうヒンデルの生真面目さといったものが伝わっ てくる。 一 278 一 7-3 ヒンデルの作風  5章、6章で見てきたように、ヒンデルの作品には外観からみてヒン デル作と推定できる、いくつかの作風要素が認められる。  住宅作品では、日本的なものに引かれながらも、日本風住宅を外国人 建築家が設計することには否定的であり、また北国の建築には北国の建 築家がかなっていると述べるように、北の建築条件を考慮に入れた住宅 作品を展開していったe横浜時代の住宅作品が少なく、北海道の作品と の比較を必ずしも明解にはできないが、横浜自邸や旭シルク㈱住宅を見 るかぎりでは、札幌時代の作風を踏襲しているように思われる。以下、 住宅におけるヒンデルの作風を個条書きにあげた。 1。急勾配で裾広がりのフレアード屋根:ドイツなどの住宅にも見られる   意匠であり、雪処理の容易さと、最上階の開口部面積の確保を意識し   たもので、住宅ばかりでなく、学校建築や、聖フランシスコ修道院と   いった住宅以外の作品でもみられる。ト5上智大学校舎の設計過程で   も、陸屋根の最終案直前まで大屋根への固執をみることができる。 2.外壁の防寒処理:外壁をこけら張りとする外観は、円い家、並肉、山  崎邸、林邸、ノートン記念館などのほか横浜自邸でも試みられた。亜  鉛鉄板張リは、簡易耐火的な意味もこめられたようで、大野邸のほか、  藤女学校寄宿舎、北星女学校女教師館、聖フランシスコ修道院や、藤  女学校校舎、北星女学校校舎などでも採用された。 3.引き戸、引違い窓の採用:ヒンデルがとくに好んで使用した建具で、,   円い家を皮切リに、ほとんどすべての住宅で採用した。次の採光面積   の確保とも関係あるが、大きく開口するために、横浜自邸のように引  違い窓を上下2段に組み合わせる手法も採用された。 4.南側採光の確保:平面計画とも関係するが、日照時間の短い北国の建  築では、南からの採光は不可欠のものであり、できるだけ開口面積を  確保する工夫がなされた。蟻食の1階が好例といえ、南面する壁面す  べてをガラス開口としている。 5.外壁アクセントとしての小窓:山崎邸の南側画面にみられるような菱  形小窓は、屋根裏部屋や収納スペースへの採光用としての機能以上に、  壁面意匠のアクセントとして好んで採用された。林邸や北星女学校女  教師館のほか、藤女学校校舎では丸窓、横浜自邸では八角形の小窓が  みられた。 6.団らんの場と主婦空間の重視:サロン、居間などの団らん空間を南面  に確保することのほか、円い家では主婦室、柳邸では南面する主婦用  仕事室、山崎邸では主婦室兼居間など、積極的に主婦空間が確保され  ている。  ヒンデルが古典主義的であることは、ジュネーブ国際聯盟会館案(5-5 参照)などに示されてと思われるが、住宅以外の作品を概観すると、宗 教建築を中心に、ロマネスク様式への顕著な傾倒をみることができる。 また、住宅作品にも通じるフレアードルーフの大屋根の扱い、小塔、鐘 塔、尖塔の付加など、共通の意匠、作風を指摘することが出来る。  小塔、尖塔は、ヒンデル好みのモチーフの一つである。建築のモニュ メンタリティ一一を表現する上で、塔のデザインは欠かせないものであっ 一 279 一  ロ は 讃響灘雛羅霧鑛灘..欝1講購騨籔                                てこ  麟.趨_翻鎌轟轟離蹴灘繍灘繋累野饗1響難劇画順順辮繋懸難灘二心騨1響鱗螢鶴・ 灘 ,灘・詩ゆ轡髄  9n・・協r勃・タ・e,・一 ., ?..、,熱es懇懇戴講難鍮_,、、、.罎.繍、 n、羅灘難嚢購黎欝響騨難響露難.                   ・ンニ:・鵬1一._蹴.描.認 ’昌欝・懇懇灘購灘羅 鑛,__. たのだろう。藤女学校校舎(ユ924年)を初めとして、天使の聖母トラピス チヌ修道院(1927~1930年)、北星女学校案(1928年)や上智大学校舎案 (1927年差などにみることができる。  とくに上智大学では、第1系案から6系案に至るまで、中央に大きな 塔屋が計画された。1謡曲では玉ねぎ型ドームをたちあ1美2系案から は鉄筋コンクリート造に大屋根をのせて中央にドームと尖塔をデザイン し、6系案ではセセッション風意匠の球体をのせた塔屋部を強調してい る。  こうした塔への執着は、新潟教会(1927年)や宇都宮教会(1931年)など 精神性の象徴としての宗教建築では遺憾なく発揮され、単塔のほか双三 デザインとして表現することができたといえる。外見上はロマネスク様 式ではあるが、ヒンデルにとっては様式の単なる咀疇以上に意味を持つ 表現と考えたい。  塔屋とともにヒンデルが好んだ表現のひとつがロマネスク風デザイン である。教会堂建築に限らず、ヒンデルの作品から受ける重さと固さの 印象は、北国で育った彼の入間性や精神性の表象ともいえる気がするが、 おそらくロマネスクへの傾倒もその線上で理解できるものであろう。ロ マネスク建築における地域固有の材料の使用や安定感ある半円アーチの 多用、装飾における幻想的、抽象的な文様や図画の展開などは、彼の嗜 好に合致するものであった。  ロマネスク様式を採用した教会堂作品は、木造下見板張り、木造「金 網ロックスタック」仕上げ、鉄筋コンクリート造大谷石張りなど、表現 は多様であるが、目を引く意匠の一つとして丸窓の多用が挙げられる。 丸窓の使用は札幌藤女学校(1924年)の小屋裏採光用を手始めとするが、 教会堂では内陣や袖廊、身廊の高窓採光用に配置され、新潟カトリック 教会(1927年)、熱田教会(1928年目、金沢三位一体聖堂(193ユ年)、御器所 天主公教会(1931年)などで使用された。  また住宅作品においてみられるような、鼻隠し端部の熊の顔のシルエ ット(山崎邸)や棟木端部の人面装飾(ヘルベチアヒュヅテ)、椅子の背の アイヌ文様や悪魔面など(山崎邸)、たくみに装飾を施したヒンデルにと っては、建築装飾も建築表現に不可欠のものであった。その代表格であ る宇都宮教会では、ビレット(切り棒状飾り縁)で縁取られた正面入口、 テインパヌムの組紐模様、ポーチのアーチ下面の幾何学模様、聖堂内部 の円柱の方円柱頭の組紐模様、聖水盤の幾何学装飾など、細部に至るま で建築装飾が施されている。聖堂内部の独立円柱も、宇都宮教会では大 谷石張りであるが、金沢三位一一体聖堂では黒漆塗りと、地域固有の材料 の使用や伝統との調和を意識している。これもまたロマネスクに通じる ものであろう。  木造建築を主として手掛けてきたヒンデルの在日活動の最後期を飾る 一 280 一 のは、1930年代の聖母病院(1931年)、南山中学校校舎(1932年)、上智大 学(!932年)といった一連の鉄筋コンクリート造の作品である。それまで の大屋根デザインからの大転換であるが、聖母病院では塔屋に北星女学 校校舎1928年B案の換気塔などにも見られた釣り鐘型屋根の意匠がみら れるし、南山中学校では装飾的に三角開口を配列したパラペットの高い 立ち上げがみられる。上智大学のようなモダニズムデザインを意識した 作品に至るヒンデルの試行や迷いとも受け取れるが、この上智大学にし ても、外観はロマネスク風の印象を受けるし、玄関廻りには紐状装飾を つけた柱が認められ、講堂内部では末細りの柱や段状梁などのアールデ コ風の扱いなど豊穰な装飾を展開している。横浜時代の作品のすべてが 明らかになっている訳ではないが、これら3作品を見るかぎり、ヒンデ ルの作風には積極的なモダニズムへの移行はなかったといえるであろう。 一 281 一 曲 嵐   線織   撫 鍍 誌 鱗 灘 謹 灘 ,驚 』暴き     鑑、 ヒ 幹 藁 灘灘 聾 , 蟻 繊 鹸 麟 灘灘繋一顧幽幽鑛灘灘麟灘1 懸白白一白難山欝一二灘 “,v.V 第3部 田上義也 藁灘, 雛難鑛灘纏縫∴雛欝懇懇灘 ’謹一講懸灘…灘欝欝響雛で∵讐繕鍵1灘懸盤瓢藁灘 ’ 第8章 田上義也の経歴と作品活動  1991年8月17日92歳で他界した建築家田上義也の経歴については、蝦 名賢造r北方のビジョン/地域開発における人間研究』(らいらっく書房、 1966)、rわたしの道』(北海タイムス社、1974)、小山一男r北のまれ びとくエゾライト・田上義也〉』(現代出版社、1977)、田上義也r私と 北海道の建物』 (月刊住宅ライフ連載1983.3~1984.3)、r私のなかの 歴史3』(北海道新聞社、1984)、 r受賞に輝く人々(昭和五十三年)』(北 海道、1979.3.29)などに詳しい。あらためて補足する点は少ないが、そ の後の筆者の調査による新たな知見を加えながら、1945年頃までの第1 期制作期を中心に概説しておこう。 8-1 早稲田工手学校時代まで  田上吉也(義也の本名)は、1899(明治32)年5月5日、栃木県那須野 原開拓地で生れた。父貞質は、鹿児島県種子島出身の軍人、西南の役で 薩摩軍に加担し、官軍に敗れたあと、薩摩を離れ米沢に逃れ、ここで母 かねと結婚。吉也の生まれる前年の1898年、栃木県令三島通庸のすすめ 灘魏魏編綴騒騒灘曝露馨灘 図8-1-1早稲田時代の田上義也 一 284 一 累累一∵纂 もあって、那須野原に入殖したばかりであった。母かねは、吉也を産ん でまもなく胸をわずらい米沢の実家に帰っていたが、1901年に他界して しまった。  父は、日清、日露戦争出兵後、那須野に帰らず、西南戦争で行方不明 となっていた薩摩時代の妻と再会し、東京麻布材木町の軍人邸に住んで いた。吉也が狩野小学校高等科!年終了のころ、東京の父からの便りで 上京し初めて再会、継母や腹違いの姉と同居することになる。さらに、 父の意向で、陸軍幼年学校を受験するが、軍人教育は自身に合わないこ とを自覚、半年後には退学届を出している。  1913(大正2)年、父に無断で青山学院中等科に入学した。月謝は出し てくれたものの、本代、小遣いは与えられず、那須野の叔母悦子がこっ そり援助してくれた。母が他界してからずっと母親代わりに吉也が慕っ ていた人である。  学院時代、父の干渉から逃れるために、たまたま友人で学院長の息子 高木の遊学であくことになった下宿に住むことにした。下宿の主人は、 北村透谷未直入美那子女史で、1894(明治27)年透谷が自殺後渡米し、帰 国後津田英学塾で教鞭をとっており、学院で英語の成績が良かった吉也 は、下宿では女史に英会話を学ぶことができた。女史の下宿には、島崎 藤村、秋田雨雀、戸川秋骨、荒畑寒村や有島武郎らが出入りしており、 彼らの新鮮な話は、文学的表現や評論的表現に強い関心を示す刺激とも なった。  吉也が建築に興味をもつようになったのは、早稲田大学理工科のいと こ田上耕之助(1915年第3回卒業生)の影響である。学院中等科3年の時 に、夜間の早稲田工手学校に入学、昼は青山、夜は早稲田に通い、1916 (大正5)年7月第8回生として卒業後、恩師内藤多仲教授の意もあって、 夜は早稲田高等学院に通いながら、昼は逓信大臣官房経理課営繕係で建 築助手として、高輪、神戸の電話局、福島、浅草の郵便局などの現場で 実務経験を積むことになる。 8-2 F.Lライトとの出会い  田上とF.L.ライトの出会いは、1918(大正7)年のジャパンタイムズ 掲載広告「英語を話せる若い建築家もとむ一ライト」がきっかけという1 が、上司渡辺仁技師の勧めもあり、念願の早稲田大学理工科の合格通知 を受け取ったものの、ライトに学ぶ方を選択したのである。  当時ライトはまだ帝国ホテルの現場事務所に来所しておらずZ、事務 一285一 ユ:小山一男『北のまれびとくエゾライ  ト・田上義也〉(上巻)』(現代出版社、  1977)p.2e 2:ライトの初来日は1905(明治39)年2  ~6月、2度目は1916(大正5)年、  1919年には日米聞を往復したが、19  19(大正8)年12月31日ライトとマダ  ム・ノエル、レイモンド夫妻が横浜  に着いた。 (谷川正己『日本の建築  〔明治大正昭和]9ライトの遺産』年  譜P.174)     ゆ 薩簸窺認繍雛じ磯欝織白山・白総灘劇論灘灘白白 藤 」  蹴孕 一∂  ロ        ’難  }磯 図8-2-1大竹邸(『婦人画報』、1922.7) 3:『北のまれびとくエゾライト・田上義  也〉(上巻)』p.25 4:『北のまれびとくエゾライト・国上義  也〉(上巻)』p.26 5:『日本の建築[明治大正昭和コ9ライ  トの遺産』年譜p.175 6:『北のまれびとくエゾライト・田上義  也〉(上巻)』p.131 7:『日本の建築[明治大正昭和コ9ライ  トの遺産』年譜p.176 8 『婦人画報』(Na201)(1922.7) 灘灘難懸懸灘繕、 隈; サ聾:樹∵瓶『 「T, 所には、ライトの片腕で構造担当のポール・ミュラー、息子ラルフ、ス ミス、設備担当のミルズの4人と遠藤新ら日本人スタッフが2、3人いた3。 田上の初めての仕事は、大谷石のストーンリストを作ることと、アメリ カから送られてきた図面を仕分けすることなどであったという。  田上がライトと初めて会うのは、1919(大正8)年12月3ユ日のこと4であ る。ライトは1921年4月ホテルの完成を見ずに帰国5するので、わずか! 年4ヵ月ほどの付き合いであったが、通訳として、また日常生活を通じ て、ライトから建築家のプロクェッションについて学んだ。また、ライ トと共に来日したレーモンド夫妻からも、多くを学ぶことができた。週 末になると、夫妻は田上を伴って、武蔵野、湘南、鎌倉へと出かけ、民 家や社寺の空間構成や日本の美について、講釈してくれたのである。  音楽好きのミュラーは、田上に音楽学校教授のクローンに師事するよ うすすめてくれた。田上が本格的にバイオリンの演奏法を修得したのは クローンからである。クローンはまた指揮法も教えてくれた。クローン のもとには3年間通ったという6。 この経験が後の北海道での生活に大 いに役立つことになる。  兄弟子遠藤i新はライトの帰国後、1922年12月遠藤i新建築創作所を開設 した7。帝国ホテルのスタッフの多くがそのまま移行したと伝えられる。 事務所開設前の1920年には遠藤設計の桜楓会アパートメントハウスが起 工しているので、帝国ホテルの現場事務所時代に設計をすすめたことに なる。この時期、田上も処女作と考えられる大竹虎雄別邸(10-1参照)を 設計した。1922年7月から11月頃に工事を完了した住宅作品で、当時の 『婦人画報』では「ライト式建築」8と紹介している。同記事には、同じ 様式の建築として、ライトの帝国ホテル、自由学園(1922年には中央棟、 西教室棟竣工)、林愛作邸(1917年設計)や遠藤iの桜楓会アパートメント ハウス(1921年竣工)、犬養邸(1922年竣工)のほか、田上の大竹邸(図8-2 -1)と伝通院ポプラをあげている。  帝国ホテルの完成披露式は、1923(大正12)年9月1日午後から予定さ れていたが、午前11時58分大地震が突然襲った。帝国ホテルは無事であ ったものの、東京は焦土と化してしまったが、この関東大震災によって、 田上はまた人生の転換期を迎えることになる。レーモンドや遠藤新らか らアメリカ留学を奨められ、悩んだ田上は、旅に出てこれからの自ら生 きる道を求めようと、同年11月バイオリンを教えてくれた青山学院時代 の友人で江別出身の前島実や下宿で会ったことのある有島武郎の農場の ことを思い出し、北海道行きを決心したのである。 一 286 一 8-3 建築家田上義也の誕生  北海道行きの車中では、田上が日頃口癖の「人生は出会い」の言葉通 り、ジョン・バチェラー博士と出会い、札幌行きを勧められる。これが 機縁で北の大地に腰を落ち着けることになる。札幌駅に到着したのは、 1923年11月18日sのことであるが、そのままバチェラー邸の2階に居候 することになった。  バチェラー邸(図8-3-1)は、札幌市北3条西7丁目にあった1898(明治 31)年建設の木造2階建て住宅である。玄関左右にベイウィンドゥがある ほかは飾り気のない簡素な洋風住宅で、1962年に北海道大学農学部付属 植物園内に移築されている。  居候中、アイヌの子女にバイオリンを教え、時にはバチェラーのお供 で、アイヌ部落をまわることもあったが、いつまでも居候するわけにも いかず、吉也は札幌近郊の円山で借家し、数人の生徒にバイオリンを教 えることにした。さらに富貴堂の一隅を教室として借りたが、ここで豊 平館のマネジャー杉山安治と出会い、1924年12月24日のクリスマスパー ティーでの独奏を依頼された。この会場で、帝国ホテルのボーイを勤め ていた青年に声をかけられ、初めて建築家としての吉也が知られること となったのである。吉也が「きちゃっこ」と愛称されるのを嫌い、北海道 での心機一転を願って「義也」と改名したのも、ちょうどこの頃である。’  1924(大正13)年4月、画家の橋浦泰ts1 oの誘いを受け、橋浦の従弟の いる名寄から稚内、留萌、増毛さらに、北見、網走、根室と道東まで足 をのばし、さらに爺爺(チャチャ)岳のある国後島へわたり、終点根室 に戻ったのは5月1日のことである11。橋浦も大震災後、札幌にいる実 兄、市会議員になったばかりの小谷義雄のもとに身を寄せ、ここで田上 を紹介されたのである。根室に戻った翌日、橋浦と別れた田上は、根釧 原野に向い、開拓民が貧しい粗末な住まいを本拠に、理想に燃えて過酷 な自然と戦う姿に感動し啓発されて、北海道で建築活動を開始する決意 を固め、札幌に戻った11。  同年9月には、橋浦と共に岩内遊楽舘で、岩内白水會と北海タイムス 岩内支局主催のバイオリン演奏会を開催し、橋浦作歌、田上作曲の「岩 内」が披露された12。当時の新聞は、「ヴァイオリニスト田上義也氏の独 奏會」13と報じており、建築家としての田上はまだ世に知られていない ことを示している。  この年にはまた、飯田実(セロ)、小川隆子(ピアノ)らと「北光トリオ」 (ピアノトリオ)を結成、「第一回大演奏會」14を10月17日豊平館で開催12、 翌1925年10月10日小樽市堺小学校大講堂で「二回北光トリオ大演奏會」15 をひらくなど、音楽活動への情熱も同時にもち続けた。 一287一 畿喫緊灘灘同門繋累蕪繰三層驚畿纒!,一一 灘、 藤 愉 魂瓢ぎ踊 臨 ∴鑑自選. g:田上義也談。 図8-3-1バチェラー邸(1972年撮影) 10:1888~1979。函家、民俗学者、社会  運動家。1924年田上と道北、道東、  国後を遍歴。田上が北海道定住を決  意するきっかけとなった。 11:『北のまれびとくエゾライト・田上  義也〉(上巻)』pp.85-96 121田上義也スクラップブック。歌は、  鎌田羊花夫妻が合唱。会費は30銭で  あった。1933年7,月発行『岩内町郷  土誌』 (北海道岩内郡岩内尋常高等  小学校)に「岩内の歌」として収録さ  れている。   岩内の歌          作歌 橋浦泰雄          作曲 田上義也   千里の怒涛 逆巻き返し   玉と砕くる 雷電の   黒き巌に たS’一人   ひねもす吾はもの思ふ。   人の命の 定めなく   消えてはかなき うたかたの   人の情けは 深きかな。   熱き血汐と 清純の   涙に海も なごみつS   しばしはさゆる ,月今宵   直なき鳥の 哺きしきる。 13=田上義也スクラップブック「田上氏  独奏会」(新聞名不明、1924年、月日  不明) 14:「北光トリオ第一回大演奏倉」パンフ  レット 15:「第二回北光トリオ大演奏倉」パンフ  レット 難燃 購欝欝聾辮歎躯…ボ’・ ∵一、・1乏虻・.,一。ジ u“ Dn”’一 d,:T’”’一’7一=’.. ”一.T 図8-3-2 北光トリオ第2回演奏会プログ     ラム 図8-3-3 小熊邸 図8-3一一4 田上自邸アトリエ 図8-3-5 豊平館食堂 16;『北大50周年記念式典会場』スケッ  チ 17:『北大百年史 通説』(1982.7.25)  p. 220  1924年の秋、バチェラーに依頼されてアイヌ保護学園(後のバチェラ ー学園)を設計。これが北海道における建築作品第一号となった。財政 の豊かでない同学園の建設資金集めに、田上はチャリティーのバイオリ ン独奏会を開くなど積極的に協力した。  さて田上の本格的な建築家としてのデビューは、1925(大正14)年4月 札幌時計台で開催した「田上義也建築作品展覧会」といえよう。  北海道初ともいえる建築展の反響は大きく、初日の入場者数500名、 有料の講演会にも北大教授や学生、市民など300名も聴衆が集まり、こ れを機に関場博士邸などの設計依頼があり、まず住宅建築家としての田 上が知られることになった。  翌1926年には、札幌市南3条西13丁目北海道大学水産科教授西村真琴 の家の納屋続きに、5坪強のアトリエを持つことが出来た。この作品を 見た小熊博士は、自邸(図8-3-3)を依頼することになる。大きなガラス 開口をもつ明るい片流れ屋根の小品で、わずか100円の改築であった。  「さ・やかな中にも建築家の偉大さを思わせる」「木の香も新しい建物 が路行く人に何かを囁く如くすくっとたってみる」と、小樽:新聞(1926, 4.13)でもとりあげたが、田上を「建築家であり音楽家」と紹介している。 このアトリエで、2人の助手と共に、翌年ヒンデルと設計を争うことに なる日本基督教会北一一条教会の設計などを手掛けていた。この年にはさ らに念願のアトリエ付き自邸(図8-3-4)を、南12条西13丁目に持つこと が出来た。水平性を強調したいかにも田上らしい作品である。  1926年8月開催の国産振興博覧会では、野外ステージのほかに「HOHEI- KWAN GRILL ROOM」(豊平館食堂)(図8-3-5)の設計もてがけた。豊平館食 堂は、バタフライ屋根、スリット飾りを付けた柱型、パーゴラ、幾何学 的な自在扉などが特徴的な軽快なデザインの仮設建築であった。  建築以外では、同年5月14日に開催された北海道帝国大学創出五十か 年記念式典式場がある。現理学部正面西側の雨天体操場を飾り付けたも ので、内部ディスプレーのスケッチ(図8-3一一6)と内部写真が残っている。 『北大百年史 通説』(1982)には、 「青白紫茶色などのまん幕および布 をもって天井画柱を飾り、場内には布で飾った十数個の電燈を点じ、正 面壇上には鉢植の椋椙及び松を飾り、この大式典にふさわしい会場であ った」と記載されている。スケッチでは、天井に白い布、中央通路の天 井、床に白、中央通路天井左右に黄色の蝶模様を並べ、梁から下がる垂 れ飾りは「ミドリ」16色の先に銀で装飾したもの(材質不明)、三角形の柱 型装飾には「沃野」IBを表現する「グリーン」’eを主調に、柱型基部を「開 拓荒野」IBを象徴する「セピア」IB色とし、柱型中央には「太陽ゴ8をイメ ージする赤い円形装飾を配している。簡素な雨天体操場が見事に変身し たことだろう。入場者は来賓約1,000名、職員約400名、学生約2,000名、 計3,400名が、東西13間、南北30間の会場を埋めた1?。 一 288 一 ’ 図8-3-6 北海道帝国大学旧基五十周年記念式典三門スケッチ  1928(昭和3)年には、第2回田上義也建築作品展と講演会「雪国的造 型」を札幌今井記念館で開催18、1930年には日本琴似野山會主催、北海 タイムス社後援第3回「田上義也建築作品展」を4月25日~29日にカ・け て札幌今井記念館で、また7月24日~28日にかけて旭川今井呉服店で開 催した。札幌では『雪國生活に即せる新精神の家』、旭川では『北國建 築に就いて』と題して講演もおこなっている。この3回目の展覧會は、 翌年発行の『田上建築牛田』の宣伝効果も考慮されたものと考えられる。  前年には『芸術学研究第一一輯』(東京第一書房刊)に「建築論」を発 表、ひき続き第二輯(1930年)、第四輯(同)に連載、1931年には『新芸術 学叢書6田上義也建築画集』(日本芸術学会編、建設社)を出版、その後 の1、2年を含めたこの時期は、最も充実した初期黄金時代ともいえる。  第3回作品展を開催した1930年には、バチェラー博士のアイヌ保護学 園財団法諺化を後援する「バチェラー学園後援会」が設立され、前北海 道庁内務部長得能佳吉や新渡部稲造らが、基金募金運動を開始した。田 上もこの運動に加わり、同年10月11日、司会田上あかし、ピアノ小川隆 子、ソプラノ笹仲子、鈴木清太郎指揮、札幌混声合唱団らの賛助出演を 得て「バチェラー翁に捧ぐる。田上義也提琴独奏会」(図8-3-8)を豊平館 で開催した。  1931年開催の国産振興北海道拓殖博覧会では、第一会場の府県館前の 大広場に石井莫のための野外舞台を設計した。大きな1本の楡と2本の 楓を取り込んだスクリーン2枚の簡単なものであったというIs。  1930年代に入ると、 『田上義也建築画集』の「建築論」で提示した「雪 国的造型意図」が作品活動で大きく展開された。それは、1920年代の作 品に見られるライト風の影響からの意識的な離脱過程でもあった。また 一 289 一 図8-3-7 北海道帝国大学創基五十周年    記念式典会場 18=『北のまれびとくエゾライト・田上義  也〉(下巻)』年表 19:田上義也スクラップブック記事(新  聞名、日付不明) 鳶 - 徽灘魏懇懇 .:./;懲麟遭騨懸鎌継鍔財・雪「詔甑 1FA㌦詳1 露’         ノD匹D璽㎝罷mR㌔ D1厩囮 粛 陀 託 鮫 & 曇 』 夢「 2‘ 曜 耀 鰯 配 ”. ㌧ 。 』 抱 勲 蜜 。 欝 略 図8-3-8 田上義也提琴独奏会ポスタv一・ 20:『北のまれびとくエゾライト。田上義  也〉(上巻)』p.140 21:前川公美夫『北海道音楽史』(1992.  6.5)p.321 22:『北海道音楽史』pp.326、327 23:『北海道音楽史』p.323 それまでの住宅作品を主とする活動から、市街地内のカフェーや喫茶店 などの風俗建築や商業建築、ホテル建築などの作品の割合が増加した。  活動の場も札幌を中心としながらも、1928年頃から旭川、さらに1932 年頃からは道東方面にも広がった。弟子屈・白水ホテル(1932)、釧路・ キャピタル(1932)、音更・十勝川温泉ホテル(1933)や1935年着工の網走 ・観光ホテル、郷土博物館などの現場監理が続く中、工事中の網走ホテ ルの火災(1935年12月5日)や石狩海濱ホテルなどの設計料未払いなどの 心労がたたり、暮れには上京先で倒れてしまう。翌1936年1ヵ月程静養 し、3月には帰札するが、この頃から仕事にも恵まれず、設計活動は激 減した。困窮の日々も続く、失意の時期である。  1937(昭和12)年の北ノ王鉱山や1944年国産航空株式会社落部工場など の産業施設をてがけたものの、戦後1951(昭和26)年の再出発まで建築家 としてはまったくのブランク期ともいえる期間である。この間、田上は 音楽活動によって、自分自身の運命を切り拓く決意をし20、これまでの 建築への情熱を札幌新交響楽団設立に注ぐのであった。  1937年5月31日札幌松竹座で札幌新交響楽団創立記念演奏会「楽聖ベ ートーヴェンのタベ」が開かれた2t。指揮者は田上義也、副指揮者鈴木 清太郎がピアノを独奏した。その後同年11月6日「試演会」(:豊平館)、第 1回定期演奏会1939年12月9日(札幌市公会堂)、第2回1940年12月13日 (同)、第3回41年6月11日(同)、第4回41年12月9日(同)、第5回1942 年11月28日(同)と続いたが、戦局が深まり、第5回を最:後に活動停止状 態となった22。この間1938年7月9日には札幌音楽協会ほかが主催して 札幌公会堂で開いた「バチェラー翁に捧ぐ音楽のタベ」でバイオリンを 独奏するなどの活動もみられた23。 図8-3-9 1930年代の田上義也 一 290 一 8-4 戦後の活動  1943年帝国産金興業会社の子会社帝産航空株式会社が創設され、田上 設計の新工場が完成した。同時に石川博資社長の申し出で、取締役工場 長として経営の一翼を担うことになった(1944年6月~1947年3月a“)。会 社は木製飛行機に使用するベニヤ単板の製造工場であったが、1947年終 戦と同時に閉鎖、帝産航空株式会社は解体し進駐軍への自動車サービス を行う面諭オート会社が設立された。田上は引き続き同社の取締役札幌 支店長名義(1947年5月~1951年3月24)となったが、結局同社の負債を一 身に負うことになった。返済完了までに5ヵ年を要したという2%  帝産オート会社を整理し終わった1951年8月、田上は建築界に復帰し た。田上建築制作事務所としての活動期の始まりである。1958年6月有 限会社、1964年2月株式会社へと発展した。  この期の田上にカを与えたのは、北海道銀行頭取島本融との出会いで ある。島本は田上設計の旧小熊邸を銀行社宅として買い取り居住してい た。島本との出会いは、島本邸(旧小熊邸)増築、さらに北海道銀行支店 の設計へとつながつた。1953年豊平、北見両支店、1955年旭川支店、19 56年東京、当別、南一条、羽幌、利尻、伊達、琴似の8支店を設計し、 1962年~1964年にかけて山下寿郎設計事務所と共同で本店を完成させて いる。  戦前の第1期制作期が住宅を中心としたのに対し、戦後は銀行や事務 所建築、ホテル、のほかユースホステル、学校、博物館、美術館など幅 広く活動範囲が広がった。  1964年日本ユースホステル協会建築功労賞を受賞し、1971年北海道ユ ースホステル協会長となった田上は、札幌宮ヶ丘(1960)、支笏湖(同)、 網走玉川(1961)、北湯沢(1962)、美幌(⊥965)、富良野q司)、定山渓(19 67)、標津(1969)、小清水中山記念館(1970)、室蘭(1971)、インサイダ ー大沼(1972)、摩周湖(同)、留辺蘂(1974)などのユースホステルを設計 している。  設計活動だけでなく公職も増大した。1941年北海道建築士審査会委員 を初めとして、北海道建築士会理事(1958)、北海道百年記念塔協議設計 審査委員(1968)、北海道新聞野外音楽堂競技設計審査委員長(1969)、北 海学園大学工学部教授(同~1973)、日本建築家協会北海道支部長(1972 ~1974)、北海道美術館建設委員会委員(同)、北海道建築設計事務所協 会会長(1976)などの建築界関係、北海道文化賞審査委員(1969)、北海道 国際文化協会会長(1970)、北海道文化振興協議会委員(同)、北海道芸術 祭実行委員長(同)、ライオンズクラブ国際協会ガバナー(1971)、北海道 青少年育成推進協議会会長(1972)、札幌市民芸術賞ならびに文化奨励賞 一 291 一 24:『受賞に輝く人々(昭和五十三年)』  p,65 25;『北のまれぴとくエゾライト・田上義  也〉(上巻)』pp.151~156 協懸一灘.鑛難欝・翻麟雛繍i麟難麗麗響熟議欝麟瞭一戦蟻 順順撫隠隠灘白白白白二二難讐 b ’ 影 鑛難謙譲騨懇懇膿灘麺繕総謙期蝋翻瀟献一・1∵∴1’:舗難欝欝壁織雛獄\爵’1‘懸野瀧轡ゴ1灘’ 26:『北のまれびとくエゾライト・田上義  也〉(上巻)』pp.166~167 選考委員長(1973)など文化面でも活躍した2e。  建築のみならず北海道の地域文化向上に貢献した田上にたいし、1963 年北海道総合開発功労者知事賞、北海道総合開発道民大会賞、1965年北 海道文化賞(芸術部門)、1971年勲四等瑞宝賞、1977年札幌市芸術功労賞、 1978年北海道開発功労賞、1982年北海道新聞社会文化賞などが贈られて いる2B。  1991年8月17日92歳で永眠した田上の葬儀は、8月19日山前祈会、20日 葬儀式と、自身が設計の日本キリスト教会札幌北一条教会新会堂(1979) で行われた。1927年竣工の旧会堂も田上の設計で、市民にも愛され「北 一条教会堂を保存する会」も結成されたものの1979年解体されている。 かわって別の敷地に建設されたのがこの新会堂であるが、 「北の建築の 使徒」として孤軍奮闘した若き日の作品の方に筆者は軍配を挙げたい。 本論が戦前の第1期を中心テーマにとりあげるのもこのへんの理由によ るが、それとともにフーリーアーキテクトとしての田上自身の個性がよ り明解に表われていると思われるからである。 8-5 戦前期の作品活動  表8-5-1は、1922(大正11)年から設計活動の中断する1940(昭和15)年 までの設計作品を、竣工年順にまとめたものである。田上義也から寄託 された500枚以上に及ぶ設計図類や竣工写真125点ほどを整理し、さらに 文献、聞き取り、現地調査を実施した結果である。  代表作品個々については、10章以降で扱うので、ここでは作品全体の 傾向についてのみ述べよう。これまでに明らかとなった戦前期の作品数 は、計画案も含め、住宅88件、住宅以外79件、合計167件である。  住宅作品では、札幌44件、小樽13件、他道内9件、道外5件、不明17件 と、圧倒的に札幌に作品が集中している。このうち現存の確認されたも のは、14件である。  住宅以外の作品を建築種別でみると、カフェー・レストラン14件、ホ テル・旅館・会館11件、店舗11件、劇場・舞台9件、病院・診療所6件、宗 教建築4件、工場・鉱山4件、事務所3件、学校、墓各2件、博物館、 派出所、郵便局、市場各1件、その他9件で、現存は2件のみ確認され た。  地域別では、札幌27件、旭川6件、小樽2件、帯広2件、網走2件、 釧路2件、他道内13件、道外4件、不明21件と、住宅同様札幌に作品が 多い。 一 292 一 表8-5-1 田上義也初期作品一覧 住      宅 非  住   宅 年 建築名 (現名称) 建築名 (現名称) 1922 大竹虎雄別邸(東京都港区芝白金三光町) ☆ 1924 バチェラー学園(札幌市北3西7) ☆* 1925 高田治作(現江口修)(小樽市富岡1-26) ○ * フナミヤ食堂改造2(小樽市) ☆ 高松泰造邸計画案 西谷工場2 △☆ アパートメントハウス計画案 小林農場2 △ 斎藤 北都に建つホテル計画案 1926 横川(小樽市) 北大五十年祭記念装飾(札幌市北大構内) ☆ 島野一二(小樽市永井町1) 国産振興博覧会豊平館食堂(札幌市中島公園) △☆ 関場別荘観海荘2(小樽市銭函) 国産振興博覧会野外舞台(札幌市中島公園) △ 百円の家(西村真琴宅改築)(札幌市南3西13)△☆ 札幌第一農園1(札幌市南2西13) * 田町以信男2(札幌市北2東2) △ 札幌市医師会館(札幌市南1西19) ☆* 関場不二彦(札幌市北1西1) △☆* 水野眼鏡店1(小樽市銭函) 田上自邸・アトリエ(札幌市南12西13) ☆* 希望寮改造2 ☆ 伊藤2 △ 1927 小熊桿(現道銀円山クラブ)(札幌市南1西20)○☆* 日本基督教会北一条教会(札幌市北1西6) ☆* 高田寿作 延命園1(札幌) △ 坂牛直太郎(現坂牛正志)(小樽市入船町5-8)○☆* 愛隣館(札幌市豊平) ☆* 金子実(札幌市北17東7) ☆* 眞人圓2(札幌) △ 板敏男(現坂輝彦)(小樽市見晴289) ○☆* 上田寿久1(小樽市) △ 佐中直1(小樽市) △ 白雲山荘(札幌市琴似) △☆ 友松雪隠2(札幌市) 1928 小川義雄2(和寒) 松岡農場事務所(和寒町宇西町36) ☆ 織仁三郎2(和寒) 亀屋本店(札幌市南4酉の 吉田角次(現袴塚厚三)(札幌市北16西4) ○☆* 小川隆子(札幌市) ☆* 佐田作郎(現小熊徹)(函館市元町32-10) ○☆* 白浜潔計画案(札幌市) 唯是健彦 城生(札幌市) 櫻田(小樽市) * 鈴木清太郎(札幌市) ☆* 澤枝重雄(札幌市北2西22) * 東武別邸(旭川市了一13) ☆* 島二佐衛門(小樽市) 上田久寿子(現MOA小樽布教所)(小樽市入船 ○☆* 5-8) 小金井(札幌市) 青地(札幌市) 岡本二二2(函館市) △ 1929 里見勝蔵・アトリエ(東京市外井萩町下井草) * 亀屋支店(札幌市南1西3) ☆* 外山卯三郎(東京市外井萩町下井草) ☆* 三条ビル1 △ 深澤靖弘(札幌市) アポQ(旭川市4-8) ☆ 西村勇(札幌市) 佐々木座(旭川市1条6) 本間紹夫 秋野 鬼窪重作(札幌市北1西26) o * 大和閏一アトリエ2(札幌市) △ 相川正義(札幌市) 遠藤1(札幌市) △ 小谷義男1(札幌市) △ 秋葉幸作1(札幌市) 1930 後藤惣作(札幌市大通西27) ☆* 中島温泉(札幌市南10西2) ☆* 安部信明(札幌市) ☆* 札幌第一農園皿(札幌市南1西24) 桜庭ロ治・借家(小樽市) 円山郵便局(札幌市南1西24) ☆* 城下良平(現城下一夫)(札幌市南5西21) ○☆* 富貴堂改修(札幌市南1西3) ☆ 安部信明増築(札幌市) マリヤ手芸店改修(札幌市北2西3) △☆ 桜庭二二(小樽市) 浅野炭山病院(沼田町浅野地区) * 小島増築(函館市元町32-10) ○△ 岩城新聞店(旭川市2-7) 瀬川山羊(現西村和男) ○△ 幌西巡査派出所(札幌市南11西14) ☆ ヤマニ(旭川市4-8) ☆ 斎藤家累代之墓(旭川市神居町) ☆ 札幌クリスチャンサービスセンター2(札幌市) 一 293 一 .嶽_漏嚇画轟雛議融!潅、彊,読.漁1二,此 ;,・/f.liEilil.,..s,, ,, ’i’i,Xji’il・: 住      宅 非  住   宅 年 建築名 (現名称) 建築名 (現名称) 】931 太泰康光(札幌市南1西21)        ☆ 山下紅療院(札幌市南1西9)        ○ ストレートラインタイプ計画案 カフェー三條(札幌市南3西3)       △☆ 小川隆子増築(札幌市) 国産振興北海道拓殖博覧会野外舞台3(札幌市 立原・借家(札幌市) 中島公園) 国吉(札幌市) 西尾(札幌市) 大塚謙三(札幌市) 大津山弘(札幌市) 原忠平(秋田市) 1932 クラタ氏の住宅 小笠原商店卸部(札幌市北3西2) 千秋庵本店改築1             ☆ 紀文茶屋(札幌市南5西の 近水ホテル(弟子屈町字弟子屈120)     ☆ 高等芸術学院 函館毎日新聞社(函館市鶴岡町1)施工;木田組 ☆ キャピタル(釧路市末広町2-11)       ☆ 高木堂本店(小笠原楠彌)1 1933 白浜潔計画案(札幌市) パリジャンクラブ(旭川市4-7) 千秋庵帯広支店(帯広市西2南9) 池田病院(札幌市南2西4) 十勝川温泉ホテル(音更町十勝川温泉南13)  ☆ 近水ホテル増築(弟子屈町字弟子屈120)   ☆ 白雲荘(鹿追町然別湖畔温泉) 1934 相内(現大谷哲也商店事務所)(札幌市南1西28)○ 帯広観月園(音更町十勝川温泉)       ☆ 吉田1(帯広市)            △ 共同魚菜市揚(釧路市) 豊田1(劒1路市)             △ 志田病院(帯広市西2南8)         ☆ 佐々木ロシア総領事1(東京)      ○ ハリストス正教会計画案(札幌市) 石井漠のための円形野外舞台ユ      ム 1935 吉町太郎一(現認町晃一)(札幌市宮の森2-7)○△ カネシマ呉服店1 小熊・別宅1(札幌市)         △ 宇喜代(岩内町字万代29)         ☆ 1936 鬼窪・借家(札幌市) 網走観光ホテル(網走市南2西1)施工:三井組 ☆ 北見郷土館(軍国走博物館)(網走市桂ヶ岡公○☆ 園)施工:宍戸組 青騎手1(生田原町)           △ 1937 北の王鉱山(生田原町)           ☆ 是安小児科 石狩海浜ホテル(石狩町弁天町)施工;増田鍬平☆ 1938 民衆会社ボーディングハウス(札幌) 1939 青森文芸館1             △ 弘前新光キネマ 能代国民劇揚1             △ 盛岡国民劇揚1             △☆ 1940 西村増改築(旭川市) 仏舎利本殿計画案 宮崎増改築 政揚別宅 1944 帝産航空落部工場(落部町) 不明 菅原借家(札幌市) 松竹座計画案(札幌市) 国吉借家(札幌市) 組合教会記念会館 中村信似(札幌市) 本間家累代之墓 岡本 三条会館特設館 佐藤(札幌市) 青少年会館 倉田清純 月水鯖ホテル 是安 スタジオポプラ 報恩学園洗濯工場 くりはら氏のレストランと撞球場 右翼エンカイ揚 不明は、年代不明の図面資料分 *:『田上建築蚕集』(1931)掲載作品 ○:現存 ☆:竣工時の写真資料が残るもの △:設計図書が保存されていないもの 注1:『北のまれびと(下巻)』年譜による 注2:『田上義也建築作品展覧会目録』(1930)による 注3:田上義也スクラップブック添付記事 一 294 一 躍欝欝灘i騒騒黙黙絵難照照1灘繋購溝鞭醜論:漣ど欝響‘’” ]’ 第9章 田上義也建築作品展と建築壷集  田上義也の北海道における本格的な建築家としてのデビューは、1923 年11月の来道後1年間のブランクを経た1925年4月、札幌時計台で開催 した「田上義也建築作品展覧會」である。日本近代における最初の建築 展としては、1920(大正9)年の分離派建築会展覧会がよく知られている が、個展としては1925年1月日比谷の「世帯の会」事務所で開催した遠 藤新の建築展が知られるくらいで、田上のこの作品展は個人展として、 わが国ではかなり早い試みであるように思われるユ。 2日間という会期 にもかかわらず、北海道:初ともいえるこの建築展は注目を浴び、初日の 講演会には北海道帝国大学の今裕総長はじめ、西村、柳、関場教授や学 生、市民など300名ほども集まった2。  その後も1928年、1930年4月、7月と3回の作品展を開催したが、こ れらの作品展の内容については、これまでほとんどふれられることがな かった。  本章では、残された作品展のパンフレットや当時の新聞記事3などを 資料に、作品展の概要や新聞評、講演内容および初めての作革集である 『田上義也建築書集』についてふれ、田上義也の初期活動期における設 計理念や制作姿勢をみていぎだい。 9-1 田上義也建築作品展覧会(1925)  前述のように、北海道で初めての建築展は、1925(大正14)年4月26(日 曜)、27(月曜)日の2日間にわたり、札幌時計台で開かれた。  26歳の青年が、北の建築創造へのビジョンや建築への熱い想いをぶつ けた実施案や計画案20数点を並べたその展覧会は、 「準備の整はない点 もあった」4が、初日の入場者数は500名を数えた。青年建築家の熱き想 いは、残されているポスター(図9-1-1)からも伝わってくる。470×580 ㎜ほどの紙に、太陽や人を線刻した黒地と「田上義也建築展覧会」と線 刻した赤地とを組み合わせた版画で、下に日時や会場がなぐり書きされ ている。建築展開催は決めたものの会場や会期などが直前になって決ま 一 295 一 it“’ 3.,,, .劃胴乱 1:遠藤新生誕百周年記念事業委員会編   『建築家遠藤新作品集』G991年9月  25日)。山口廣『解説・近代建築史年  表』(1968年)および、『日本の建築  「明治大正昭和」1~10』を参照した  ところでは、図集としては1904(明  治37)年以前に発行の『山口博士建  築図集』が早いが、建築展としては  1920年の分離派建築会展覧会を最初  とするグループ展が多い。 2:小山一男『北のまれびとくエゾライ   ト・田上義也〉』(現代出版社、1977  年) 3:新聞記事は、田上義也氏所蔵のスク  ラップブックに収録のものを利用し  た。現在筆者に寄託されており、氏  の寄稿や作品について報じた記事、  雑誌の切り抜きなどをA-4判125ペ  ージにスクラップしている。1921年  頃から35年頃までの記事が多い。託  事掲載の年A日がほとんど未記入の  ため、原則として元記事にあたった  が、確認できないものもあり、スク  ラップ記事そのものを資料とした。 4:北海タイムス(1925.4.27)「建築展は  盛況」 《   講  ny 一H   1》凱’ 西 .欝縫騨欝欝纒譲蕪癒≧灘懇懇麟瀞轍欝欝飽 離郷撫r藤野剛搾野苛L騨‘弾マ1・∴∵ダ 舞難 望 ㌔ ロ     ヨ 搾野際、 一   ・   」 轟 隅 器i罠 ・     ヨ    .騨 1: id li t i ’ , ,・lili ヒ. s  Lh 図9-1一一1 1 ・ i i l l i l  1 バ餐 l i l l i i i l i / l l I I I I i i l i i l ・ぐ〆・,.窮讐二一,鹸 P25ユ謡      ’ 貌’;露 9 瑚 「 . 7 5 + 九 琳 白 四 ” 塩 圧 “ 型 日   塾 し 鱒 第1回建築作品展ポスター    IU 辣附1 炉黍 …紛@球 ,k v}答 寵 ◇ 建 簗 鶴 一 ー ハ ー ー 侮 仮 一 争 よ り 羅 ㎜ 灘 塞 P 一 段 目 1 一 師 一 劃 5:第8章注10参照。 6:「田上義也建築作品展覧曾」パンフレ  ット 7:北海タイムス(1925.4.26)「春を彩る  建築展/今明日時計Eにて/本日は建  築講演會」 図9-1-2第1回建築作品展パンフレット表紙 つたためなのかも知れないが、青い絵具の筆の走りが、かえって社会に 向けての青年の気負いを感じさせる。  賛助作品として、共に道東を旅した橋浦泰雄5の小品17点や、先妻田 上あかしのテーブルクロス、クッション、壁掛けなどのテキスタイルの 「造型美術小品」6も出展された。  北海タイムズは、「各作品を通じて芸術的に洗練された新鮮な線と色 彩との交錯が自ら作者の柔らかな三三さを語ってみて同設計圖でも彼の 機械的で固い世俗的な作品とはかうも異なるものかと痛切に感じさせ」、 「鋭敏で正確な作者の建築に封ずる基礎が各作品に一貫し横溢してみる」 と高く評している。  作品は以下のものが出展されたが、そのうちのいくっかは新聞評7で も取り上げられた。 1バチェラー博士に贈られた寄宿舎。 2アパートメント、ハウス。 3銭箱山の上に建つ小林氏農場。 4劇揚を可ねた公會堂。 5教心良の草案。 6音樂堂の草案。 7北都に建つホテル。設計。 8レストランと喫茶店と。 9雪國の為の建築。 10人間共同生活に封ずる建築的表現。 11査家のアトリエ習作。  (a)日本査家の為に(b)洋査家の為に 12子供中心の家。  (a)寝室、勉強室(b)外部全景、 13正しく空間を利用せられた家。 ユ4住居を兼ねた商店建築。  (a)毛塚食料品店、(b)ストウジオポプラ、 15住宅設計。  (a)九坪よリ五十坪迄の家のスケッチ(b)小谷氏邸  (c)小川氏邸(d)高松氏邸(e)高田氏邸(f)木田兄に贈るアトリエ、 16室内家具の設計。 一 296 一 ’ 4戸 叱 1 じ 一 一一 } ず ヤ 曽 4 〆 ’ 一 ’ 一 一 M 図9-1-3バチェラー学園 り ㎝   “ 鞍   鯛 、 鰍 焔 α 夢   . ∴ ㌦ ・     Y ㎞ , . 虞 摂 蓬 稗 ㍗               ア                   ●             コ               一 滋 【 ◇     凌       婿       汎 r 4 一 薫 、 、 嬢 〆         「       乙 .     蝋 惣   一 亀 、 」     「   障     け 一 、 監 製 P}   u   〔 擾 屡 .     亀     「     」 ’ 跡 齢 難   ♂ 、 ・ 一 ‘ 鴛 夕       }       凱 騨 ,     日     o O     掃 。 6       ,   難 “   「     も     森 蕪 銀 劉 ボ 立 ひ   だ   ・ 勇     ノ ~ 図9-1-4アパートメントハウスの基本設計 図9-1-5北都に建つホテル r‘一p一一一一一一一       の ピ ぬ ㌔μ 顛   零 ; 虻 9 し 峰 図9-1-6 高松邸 図9-1-7高田邸  新聞評では、1のバチェラー8博士に贈られた寄宿舎(バチェラー学園) は「健ママ牢で質實な黙に優れてみる」、2のアパートメントハウスについ ては「在来の貧弱な長屋建ての世界を全く脱し切ってみる。此虚に住む 人々は自ら温かい人間味に手をつなぎ合なくてはなるまい」、3のよう な「山の孤寂な農場にもかくてこそ親しみ深い人の安息所は建つ」と感想 を述べ、7北都に建つホテルは「僅少な地面とその上層の空間とが完全 に活用された嵩に於いて模範的」とし、9雪國の為の建築では「人もか 一 297 一 8:近年ではバチラーと記述することが  多いが、ここでは当時の呼称に統一  した。 灘蕪難羅一 、繧 9:仁多見巌訳編『ジョン・バチェラー  の手紙』(山本書店、1965年) 10:小樽新聞1924年10月3、4、5日(前掲   『ジョン・バチェラーの手紙』) Il:小樽新聞(1925.6.16~6.17)「正しい  建築(上)、(下)」 12:北海タイムス(1925.4.26)「春を彩る  建築展/今明日時計姦にて/本日は建  築講演會」 13:北海タイムス(1925.1L6)「雪國に相  磨しい新しい建築」(下) 14:『田上建築輩集』(1931年) ・る建築に住み得る程度に開放され・ば愉快である」という。12の子供 中心の家では「ブルヂヨアの子弟でなくてはか・る完全なホームに住む ことが出来ぬと云ふのは建築の罪ではなくてたしかに社則の罪」とし、 15の住宅設計では「正しい生活の様式と健全な趣味性とを充分に味あは せる」 「浮薄で無駄の多い所謂文化住宅に飽き飽きした吾々は此等に似 て非なる」作品を知ることができ、 「和洋二重生活の門門に堪へ切れな い現代に」多くの解決をもたらすであろうと結んでいる。  1のバチェラー博士に贈られた寄宿舎(図9-1-3)は、1925年7月着工s、 同年9月置完成した北海道における建築作品第1号である。アイヌ保護 学園(バチェラー学園の前身)の寄宿寮として建てられた木造2階建て の寄宿舎である。詳細については、11-1バチェラー学園でとりあげたが、 1924年10月の小樽新聞には3日間にわたり記事10が連載され、 「札幌に 生まれた珍しい建物」「通風と採光に苦心した建築家/母に抱かれたよう な温か味」「勝手の違った建築に大工も驚く/安価な材料で堅牢な建物」 などの見出しでとりあげられた。  2のアパートメントハウスは、ケント紙に色鉛筆で着早した1925年3 月付けの図面(図9-1-4)が残されている。当時のアパートに対し、あま りにも「孤立的で」「社交性も成長の可能も見られ」11ず、住民生活不在の 状況であると批判的であった田上が提言した「温かい人間味」12ある「手 をつなぎ合う」12アパート案である。軒高を抑え水平性を強調した2階建 て建物で、隅棟中央、背後のパーゴラに続く中央通路は、腰掛や机を置 いたコミュニティースペース、通路左右に階段室と居室群を配置する計 画である。  7北都に建つホテルは、正面図と1階平面とを1枚に収めたケント紙 (540×760㎜)の着色図面(図9-1-5)である。中央部のみ5層とした4階 建ての建物で、4、5階の開口部に半円アーチをみせるややクラシカル な意匠の建物であるが、中央玄関廻りや2階バルコニーの柱型の装飾や 内部の柱型や平面表現にはライト風の影響がみられる。  15の住宅建築のうち図面資料が残るのは、高松邸と高田邸である。高 松邸は、B3版程度(342×469㎜)のトレーシングペーパーの下に2階を 描いた紙片を張り付け、色鉛筆で着即した図面(図9-1-6)が残る。高田 邸の図面(図9-1-7)は、外観パースとフリーハンドの1、2階平面が、 B4版より一回り大きい美濃紙(271×392m)に縦位置でバランスよく収 められている。10-2で述べるように、北海道における住宅作品第1号と して実現したもので、1階各室は「唐紙で仕切られ、広くも小さくもする ことができゴ3、 田上の住宅作品に共通するゆったりとした玄関ホール がみられる。「大空を望む」14階段室隅窓も特徴的で、洋間の南のベラン ダからは小樽の全景や石狩の海を望むことができ、 「小さい地面と小さ い建坪を生かすは自然を庭にすることである」Isとの主張をよく表現し 一 298 一 醗黙黙懇懇黙黙懸1麟黙劇麗!簸麟魏離起黒黒1轍_。 ている。ベランダ上のパーゴラは、大気との「デリケートな」13交歓を 意識したもので、住宅作品では多用されたモチーフの一つであった。  展覧会のパンフレットには、 「建築に就いて」と題する田上の一文が ある。 「正しい建築は生きている。強い並木の様に弾力がある。人間は 建築と共に成長する。正しく建築を建てよ、そして生活の基礎を正しく 開け。全一なる建築は……美に即した有機的相関である。」と述べ、当 時の建築に対し、 「いたずらに西洋文明の残澤をとり入れ、且ては美の 完壁であった古代日本建築の幽香を毒している」と批判的である。  「自分のめざす仕事は拙い。粗暴であり未完成である」が、 「正直に 自分自身の墾で極れる建築を刻んで行きたい」と決意を表明している。  初日の午後!時からの講演は、この小論をさらに展開させたものであ った。 「會券二十銭」12の有料にもかかわらず300余名の聴衆が集まり、 竹内武夫北海タイムス記者の開会の挨拶後、橋浦泰雄が『美と建築』、 田上が『建築と自分』と題し講演を行った。  田上の講演は、 『正しい建築』と題して新聞11にも掲載された。その 要旨は、我々は、生まれ落ちてから葬られるまでの一生を「建築の懐に いだかれ」11、人間と密接な深い関係にありながら、建築に対して「どれ 丈の正しい理解と情味を」11持っているだろうか。また、建築から受け る影響が、深くて大きいことを自覚している人もどれほどいるだろうと、 建築への一般の理解を喚起し、 「正しい建築」というのは、入間の生活 の真に必要なものに立脚してのみはじめて生まれ得ると語る。  さらに設計者の態度に関し、多くの設計者が注文者の要求をあまりに も無反省に受け入れすぎ、注文者の気紛れ、偶然性によってのみ建てら れていく危険性を秘めていると警告し、注文者の要求を聞くが、その要 求を受け入れるか否かは、設計者の側にまかされている。医師の処置に 対して、素人が口をはさむことができないように、 「建築も建築家のみ があっかり得る独舞台である」11とも断言する。  住宅について、 「窓でも棚でも椅子でもが緯錦の建築全体から芽生え 生まれて来るもの」11でなければ、「如何に一寸目には美しくても實は醜 悪」11極まるもので、家具といえども「建築全体と脈絡あり血を分けあっ たものでなければならない」11。美しい眺望を優先した結果、主婦のた めの台所その他が犠牲となった住宅は、どこかに犠牲を負わせる社会生 活と同じく、正しいものとは思えないという。  さらにアパートにも言及し、あまりにも「孤立的でゴ1「社交性も成 長の可能も見られ」11ず、 「処罰からはた・“不自然な感じのみ受ける。 文化生活だ現代生活だと云っている間に貴い人間生活はすっかり埋没さ れてしまう。」11「呼吸し赤い血の脈搏つ建築のみがはじめてアパートメ ントの土壼となりうる。」11と、住民生活不在のアパート建設に一石投 じている。 一 299 一 ぐヂ 臨讐◎黛鑑}, 登 乍 ㌻ 灘、af羅欝欝鍵懲羅羅黒漁謁必麟綾羅磯髄諏聖〆短 ・㌔㌧ ・=門’謂一 ’”,£.・’冒座一ttエ’上 灘㌻し弩饗円い瀕へぎ寺 s5ら 鱒t 図9-2-1第3回建築作品展ポスター 15:田上義也建築作品展覧会目録  構造や材料にもふれ、「建築の堅牢は材料のマス其のもの」11にあるの ではなく、それを如何に用いるかにある。強い建築は、五重塔のように 弾力を有し自然力に対抗できるものでなければならず、この点で木造建 築が優れている。木造建築を正当に扱うことによって、住宅建築は十分 に解決される。要するに建築は実用である。美も実用に即してのみはじ めて美であると結んだ。  この講i演や展覧会の反響は大きく、やがて関場博士邸(1926年)や小熊 邸(1926年)など代表作の設計依頼につながり、田上の華々しい活躍のき っかけとなるのである。 9-2 第3回田上義也建築作品展展覧会(1930)  1928年に開催された作品展については、『北のまれびとくエゾラ’イト・ 田上義也〉(下巻)』年譜に、今井記念会館にて展覧会と講演会「雪国的造 型」を開催との記載があるが、関連資料が見出せず詳細は不明である。 かって筆者は、『田上義也建築作品展について(田上義也研究4)』(日本 建築学会北海道支部研究報告集No66、1993.3)で、第2回展の資料として 田上所蔵スクラップの年代不祥新聞記事をあげたが、その後の調査で、 田上所蔵資料の中から後述の第3回札幌展の目録に、会期、会場と講演 題目を旭川版に訂正印刷した帯紙を貼った目録が発見され、第3回展は、 札幌会場で4月、旭川会場で7月に開催されたことがわかった。改めて 訂正しておきたい。日本藝術學協會主催であることから、翌年2月出版 の『田上建築豊集』の販売宣伝も兼ねていたものと推察される。  2度の作品展を経験済みの田上は1930年4月、札幌移住6年を回顧し て、3度目の作品展を開催した。日本藝術學協會主催、北海タイムス社 後援のこの展覧会は、札幌時計台講堂を会場に、4月25日~29日の5日 間の会期で行なわれた。  3回展の縦長(646×520㎜)ポスター「田上義也作品発表展200」(図9- 2-1)は、赤と黒と地の紙の色とでたくみに構成し、展覧会名や会場、会 期なども丁寧にレタリングされ、テーマとして「雪国建築」がうたわれ ている。  会期の最終日29日には、18時30分から丸井記念館(札幌市南1西1)で 「建築のタゴ5を開催した。講演は、服部光平r生活の機械的構成』、佐 野四満美r歪める建築風景』、菅野利助r田上の家』、福岡伍ママーr住 宅建築に就いて』、大黒薫『人体の建築と家の建築』、田上義也『雪國 生活に即せる新精神の建築』15の順に行なわれた。 一 300 一 日   晒 キ 三 宍 臼 ( 『 ) 謀 ヒ 略 蟻W @   一 二 州 耐 役 所 臼 ↓ 演 麺 及 講 師     凶 暴 の 蜜     類 生 と 6 墨 ( 研 汎 も λ 鳳 賎 潟 り       圭 催 後 擬 向 貞 糾 巽 田 上 概 也 丘 沼 崎 皿 早 氏 郵 術 學 協 會 旭 川 市 役 . 所 北 藻 タ イ ム ス 旭 川 支 局 ’   ゆむロ 講鴛1 店蕎下 饗.一一弊i鷺隠と       随 第 十 . 三 回 、 市 民 講 座 建 築 展 講 演 祠 』 一駈 ●曹  ’Y一一 尋細 磁纂のタ @            風 鶴 £ 亭団5 縛一 Rき くり鯛剛齢凶日虞 ュ3)彊。櫨扇風景一一一  一一一}一一鶴費口腫鍋風 A叢。 (・⊃瞬よの竃       一噌 厨 喫 輪“ oの¢唱醒鱗に鵬て          唱 質 鱗 r縄 嫡購茜 ・懸 戟 恃 ?     鮎 」 (.,胴噂ξ灘紳一一一一. iの㎜騨じ6蟹葡糊一陣…一一旧 毒 5 醐薦 @一魯讐轟齢鶴8韓・”臓9・8の」トー 「 主催  日*噛術畢協食 図9-2-2 第3回建築作品展畑ll展の案内記事        後縁r一一北海タイムス亘と  ロ し              もウぬハセぬいみやルめコ ゆくコロ 図9-2-3 第3回建築作品展臼録  同展はさらに7月24日から28日までの5日間、日本藝術學協會主催、 北海タイムス社旭川支局、丸井呉服店後援で、「丸井呉服店槙上」16を会 場に開催、建築図面のほか、写真や石膏模型などが出展された。  26日(土曜)の午後7時から、「旭川市役所櫻上」16講堂を会場に、同協 會主催、旭川市役所、北海タイムス旭川支局後援で「建築講演會」を開催。 入場無料の同講演会は、第13回旭川市民講座を兼ねていた。当日は、猪 野二二の開会の辞に続き、竹内武夫が『田上の家』と題して田上の建築 業績について紹介、沼崎重平向井病院長は『衛生と建築』で、建築と湿 度並びに採光の関係について衛生上から述べ、田上が『北國建築に就い て』と題して、「正忌に即せる新精神の建築に就てゴ7語った。10時に散 会したが、聴衆には「四谷博士夫妻、原市議、飯島西村組支配人など」IS 文化人、政治家、建築関係者など多数集まったという。  日本藝術學協會(東京外ママ外回荻町1,100)、田上建i築制作あとりえ(札 幌市南12西13)連名で発行された「田上義也建築作品展覧会目録Les Ar- chitekt(ママ)Nouveau」(図9-3-2)には、外山卯三郎の序言、1927年作品 「二二に建つ新精神の家(1)」(筆者注一門三三無料診療所)写真、作品目 録、1927年作品「雪國生活に即せる新精神の家(2)」(筆者注一小熊邸)写 真、建築小論の順に収録している。  作品目録は、以下に挙げるように、1924年~29年の6年間に竣工した 作品65点を一覧している。このうち○印をつけた25点(書集は29作品を 収録している)が、翌年出版のr田上義也建築董集』に再録されている。 1924 ユ925 1926 (1)アイヌ保護學園…………………建設○ (2)高田氏住宅・……… (3)フナミヤ食堂・…… (4)小林農場………・… (5)西谷工揚・………… ・………・……嚼ン○ …………・・… ?造 ……・……・…嚼ン ・岬・・… @。・… 。…  〃 (6)島野氏住宅………………………建設 1926 一 301 一 16:田上義也スクラップブック「第十三  回市民講座、’建築展と講演」(北海タ  イムス旭川版か。1930.7.記事) 17:田上義也スクラップブック「田上氏  の建築講演」(北海タイムス旭川版か。  1930.7.記事)。旭川版目録では、   『雪國に即せる新精神の家』とある。 (7)観海荘(関場氏別荘)・……・…・…建設 (8)関揚氏住宅………………・・…・・ 〃 ○ (9)田町氏住宅……………・…・・……〃 (ユ0)北大五十年祭記念装飾…………〃 (1ユ)馨師旧館・……・…………・……… 〃 (12)札幌第一農園…・……………・・…〃 ○ (13)希望寮……………………………改造 く14)田上アトリエ…………・……・・…〃 灘繋激職ll罐膿鑛蕨漁欝欝露撫ゴー謡 9 戸・轡響1謹嚇ギ獣嬰傾’=E「潤即圏”『 甲, x∵,『㌶童;融ぐ醗 ユ926 1927 ユ928 (15)西村眞琴氏書齋・…    …・・改造 (16)田上の家・……・… (17)伊藤氏住宅……・・ (18)同原案・……・…… ・・@  …・・建設○ .”.”.”.”...‘… rl O 一一一一一一一一一一一一一t一一i一一 rl (19)日本キリスト教會堂……………建設○ (2ω眞人圓……………………………” (2ユ)小熊氏住宅・……………・…・……〃 ○ (22)白雲山荘…・……………・…・……〃 (23)阪氏住宅………………・・……・…〃 ○ (24)友松氏書齋・………………・……・〃 (25)金子氏住宅……………・…・……・建設 (26)愛隣會無料診療所………………〃 ○ (27)坂手氏住宅18…・……………・・…〃 ○ (28)坂田氏住宅・…・……………・……〃 (29)豊平館パーラー1 9一……………・〃 (30)松岡農場……………・…・・………建設 (3ユ)小川義雄氏住宅…………・……・・〃 (32)綾仁氏住宅……………………… 〃 (33)小川夫人住宅20………………… 〃 (34)吉田夫人住宅・………………・・…〃 ○ (35)輻屋ティーサロン21……………〃 ○ (36)鈴木氏住宅…・・……………・……〃 ○ (37)二二氏住宅とアトリエ…………〃 ○ (38)城門住宅…………・……・………建設 (39)水野氏住宅………………………〃 18:坂牛氏住宅の間違い。雪雲でも同じ   く違うている。 19:1926年開催国産振興博覧会会場に出  展の豊平館食堂と思われる。 20;書集では1927年作品。 21:鍵集では1929年作品。 22:書集では勝蔵。 23:『田上建築作品展覧会目録』による。  以下の「 」は、いずれも同目録に  よる。 1928 ユ929 (40)島氏住宅・・……… (41)櫻田氏住宅……・・ (42)東武氏住宅・……・ (43)上田氏住宅…・・… (44)岡本氏住宅…・・… ……………一嚼ン .”.......“....…@n O ..“”.”.“.”.一・@n O .”.“.”.”..””・@1 O 一一一一一-一i一一一一一t一一一一一 11 (45)外山氏住宅………・………・…・…建設○ (46)里美勝造22w氏アトリエ………〃 (47)大和田氏アトリエ・…………・・…未設 (48)本間氏住宅………………・・…・…建設 (49)白濱氏住宅………一……・…・…未設 (50)鬼窪氏住宅・………………・……・建設○ (51)深澤氏住宅………………・・…・…〃 (52)西村勇氏住宅……………………〃 (53)佐々木座………………・・……・…未設 (54)竈屋支店…・・……………・………改造 (55)相川氏住宅……………・…・…・…建設 (56)三条…一…………・…・…………改造 (57)秋野氏住宅……・…………・・……建設 (58)アポQ………………・……・…・…改造 (59)遠藤氏住宅……………・…・…・…建設 (60)中島温泉…………・…・…・………〃 ○ (6ユ)小島氏住宅・…・……・……・・…・…改造 (62)後藤惣作氏住宅………………建設中○ (63)阿部氏住宅…………・……・…・…〃 ○ (64)札幌クリスチン.サービス.げ一……………〃 (65)浅野炭磧病院…………・……・…・〃 ○  外山は序言で、田上義也は6年前「新しき力の吹き来る雪國」23の「刻一・ 刻と気短に変化してゆく大自然の新鮮なる節奏分割、その創造の真剣さ」 に触れることによって、「雪國的造形意図」への「衝動」がおき、この「衝 動」によって「如何にしたならば北方的形体ママ構成を遂行し得るかを考え」 「本格的造型意図構成の為に」「雪國の吹雪の中に踏止まった」と語る。  さらに、「困苦の追及とにがい内的闘争の四年間」に作品60同点を制作 したが、それは単に「表面をなでまはした皮相」の計画ではなく、「深く その根を雪國におろした北方生活の核体に突き当た」るものであって、 「内面的生活の把握により」咲き出た「荒野の花」にたとえている。  雪国の「健康なる文化の建設こそ他よりの借り物ではいけない 北方 独自の必然的芸術によって雪國生活は育てられるべきである」と結ぶこ の序文は、田上が一貫して「雪國生活」に適した「雪國独自の形態」を 追及する制作姿勢を高く評価している。  この序に呼応するように、後半の「建築小論」では、田上の建築論が 展開する。  我々が建築に深い関心を寄せるのは、 「生活自体をより正直に更に純 粋に形の世界に換號せしめ、これによって新しく生活可能の方向を十分 に追及しようとする衝動にある」。従って建築とは、「生活の反映ではな 一 302 一 く、生活の発映であらねばならぬ。生活を強く生き生きと新鮮に発映せ しめんとする形体であらねばならぬ。こ・では傳流の追及を必要としな い。」と言い切るeまた、20世紀が建築に明るい希望と深い関心を有す る理由は、 「實生活と物質による内面的に切迫せる今日の事情が、いか なる型に轄生し、いかなる方向に、精神の自由を得て進みゆくか」とい う一点に要約されており、建築家は、この問題を解決するという任務を 帯びて「新しき時代の尖端」を歩んでいくのだという。  雪国の建築は「独自の形態があるべき」で、「暖国の文化の中途半端な 焼直しや欧米の溢血帖の模倣には決して北方生活の解決はあり得ない」。 「未だ十分に生活快適の實が完成されない」のは、まず「生活の創造に無 関心であるから」で、 「生活の正しい認識」こそ「新形態発生」の源で あるとも語る。  プランと外観について、 「土地の正しい認識」なしでは「間取りは産 めない。土地に即して間取りが産まれ、間取りに即して外観が産まれる。 よい間取りは必ずつ・ましき、たたずまいの外観を産む。間取りの生命 は整然たる秩序の分割である。」と述べ、「防寒保温、すがもり」など 技術的解決の「ヅート彼方に最も大切なことは「平面のリズム」」である という。  さらに「単純で軽い構造が大切」、自重を軽:減して外力(雪、風圧、地 震)に耐えること、「弾力を有する樹木の如き」強さをもっこと。材料の 「利かせ方」は、「力の相互扶助を」正しく考慮し、「強い構造は材料の マス(量)」ではなく「力の経済的組立」にあるなど、構造や材料について も述べ、近代建築が「構造の美」を有する点にも言及している。  当時の貧相な住環境にたいして、衣食よりも「基礎を固め窓を厳重に し、分厚い屋根を持ち、何丈の雪下にもビクともしない建築を造る」こ とが急務であるとし、 「建築は生活に即して産れる」「環境は個性を形成 する」「雪國建築は最善でなくとも健康にして凡ゆる特色を形態化したと ころに素晴らしい建築が生るべきことを確信する」「雪國における生活改 善の前提として新興の精神にみなぎり渡る雪國建築の具現によって吾等 の生命と生活を守りたい」と結んでいる。  第1回の建築展を通じて、建築や建築家の正しい在り方を社会に問い かけた若き建築家の主張は、さらに雪国の生活にあった北方建築の造型 の追及という目標に向けて結実していった。3つの展覧会は、田上義也 の作品を世に紹介するためだけのものではなく、一般市民の建築への関 心や意識を高めるための啓蒙活動的な意味合いが強かったが、同時に自 らの設計理念の実現を、2、3年忌きに自己点検するために、意識的に 開催したものとも位置づけられるように思われる。こうした自己目標の 到達点の節目として集大成したのが、第3回展の翌年1931年2月発行の 『田上義也建築壷集』であったと考えたい。 一 303 一 欝即  幽 ,灘購灘費・…叢 ..編蕪  “1 磯’i“ご’@』‘、㌦ 一重 9-3 田上義也建築豊集  1931(昭和6)年2月23日発行の日本相術學協細編『田上義也建築輩集』 は、新藝術家叢書第6巻として、東京建設社から出版された。東京新し き村印刷所で印刷された同書は、菊鹿、総アート紙、111頁、箱入りで、 札幌亀屋支店の写真を配した箱は、群青、赤茶色、黒で平面分割され、 群青に白抜きでrLESARTISTES NOUVEAUX 6」、丸みを帯びた黒文字で、 「田上義也建築壷集」、下段に赤茶色のレタリング「1931KENSETSUCHAS VERLAG TOKio」とあり、グラフィカルな構成を意識した美しい装丁(図 9-3-1)となっている。  叢集の完成前に作られたと思われる宣伝用ポスター一(図9-3-2)では、 rLes Artistes Nouveau 6 田上建築画集/二百部限定版・内容/篤旧版 40枚平面図20葉/建築論田上義也/田上の建築外山卯三郎/田上の弓術 里見勝蔵/純フランス装/雪国建築の権威/直接申込以外には配布せず/ 画集2円申込所/日本藝術學協會/東京市外井萩町井草1,100」とある。実 際には、写真44枚、図版25葉、29作品が収録され、定価も2円80銭とな っている。  フランス製本されたクリーム色の表紙には、黒文字で「LES ARTISTES NouvEAu 6,1931 EDITIoNs KENsETsusHA ToKio」と、大きめの赤文字で 「田上建築董集」とある。  扉には、恩師F.L.ライトが日本からアメリカへ帰る船中から田上に 寄せた書翰写真が載り、建築論から始まって、1924~30年までの29の 聡 ▲ 図9-3-1 細上義也建築査集tlの箱表紙 一 304 一    二百部限定版・内宍  爲眞版40放平面圖20禁  建築論田上義也  田上の建築外山卯三郎  田上の藝衛里見勝藏    擁 フ ラ ンス駄 雪国謹築②権威   直接申a込y)〈9i’には配布せず ・」 @  画纂2円申1込所   日本藝術直面會    東県嚇弁叢町下笄草Zlea ,/s一, ,A 、 國9-3-2 {揃 f田上建築蚕集』宣伝ポスター 建築作品が紹介され、評論として里見勝蔵r田上君』、竹内武夫r田上 君と私』、菅野利助『田上の藝術』、外山卯三郎rアルヒテクト・タノ ウエ』と4名の親しい友人らが寄稿している。  同年3月22日夜には、 「田上建築壷集出版記念會」z4が、田上設計の 「札幌十字街亀屋支店模上」24で開かれた。この会については、櫻田某 が、北海タイムス紙上に「雪國建築への使徒 青年建築家田上君建築豊 集出版記念會に臨んで」25と題して投稿している。  当日午後6時から催されたこの記念会は、関場不二彦、小熊揮らが発 起人となり、田上夫妻を主賓に、北海タイムス旭川支局長竹内武夫が司 会をつとめ、発起人の関場博:士が、医師会集会のため欠席した以外は関 係者が集まったが、 「小熊博士、安部子爵、北大医科の相川、服部、菅 野三助教授、亀屋主人高橋、櫻田」25ら7名参加の小会食会であった。 東京朝日新聞北海樺i太版(1931年3月27日)には、当日の様子を写真いり で報じている。  デザートに入って、司会者が記念会開催の趣旨を述べ、田上の建築に 対する感想を述べたあと、田上が北海道向けの建築に何等かの貢献をし たいと挨拶し、続いて参会者が各々感想を述べた。  小熊博士は、 「自分が田上君の建築を知ったのは西村君(筆者注:西村 眞琴博士)を訪ふて其隣りに建てられてあったアトリエを見た時で、其 全く風の攣はった構造を見てすっかり驚き、早速西村君に誰が設計した のか聞いてみると田上という青年がやったといふことであった」2eと馴 れ染めを披露し、さらに「家屋と云ふものは、輩に實用的であるといふ 経濟本位からのみ考へらるべきではない」26と述べ、 「フランスの新進 建築家コルビジェ」2Bに対し「雪避建築」26を研究し、フラットルーフ によって「雪を外側に落さず家の中央を通して落すことにしたので、暖 気によって自然に始末される」 「雪と氷から蒙る惨害を完全に防ぐこと に成功した」2Bと評価するものの、 「家屋をもってリヴィングマシン即 ち生活の機械」z6としている考えには賛成できないし、これは田上も同 感であろうとし、 「田上君は高い天分を持ってみる人である。田上君は 田上君としてコルビジェとは士別の境地を開拓されること・思ふ」28と 結んだ。  また櫻田は、 「田上君が北海道に来たと云ふことは一つの天命である 日本の領土において特殊の環境にある北海道の為に遣はされた建築家で あると思ふ、我北海道の建築を研究して完成する人として田上君以上の 人物があるとは私は考えない響くば田上君がますます精進して其天命を 蓋くし偉大なる建築家となって雪年建築を完成し北海道人の為に幸福を もたらして貰ひたい」28と田上青年の前途に希望を託した。  さらに安部は、田上設計の住宅に住んで非常に幸福感を得たと喜びを 語り、菅野、服部助教授らののち、田上夫妻の挨拶があって集会は終了 一 305 一 24:東京朝日新聞北海樺太版(1931.3.27)  記事 25:田上義也スクラップブック資料。19  31年3月後半の記事と考えられるが、  新聞紙名など不祥。 26:「雪國建築への使徒青年作家田上君」  (田上義也スクラップブック) 侃, 灘鍵  ・ 艇∴_.、, 鞭 \ t  彗議 v 、(、轟感 瀦. 27:「雪國に調和した建築設計の粋『田  上建築董集』」北海タイムス、1931.  3. 30) 28:「建築叢集田上義也氏著」(田上義也  スクラップブック資料)北海タイム  スと同時期の記事と考えられるが、  該当記事は現在のところ不祥。 した。  この豊集については、地元の北海タイムスのほか、東京朝日新聞など でも書評が掲載された。  北海タイムスでは、 「ライトの偉大さに田上としての豊かな天才的藝 術とメロディーとを加へた、そして半歳雪にうもれる北國のカラーに外 観内容ともシックリと調和するように考へ出したのが田上式建築法であ る」2?「太い線と多角形なそして変化に富んだ建築を見る毎に一種の強い 響きを即する絵三一の家だと思ってみる」27「従来著者が建築設計した幾 千のものNの中から二心のものを選んで収録したが文字や窩眞で見ると 更に其巧みな設計が判る建築家は勿論住宅に關心を持つ人々の好参考書 であり又箪に余興として篤野帳として眺めても美しい」27本と評され、 東京朝日新聞では「親しくライト氏に師事した建築家だが、むしろ藝術 家である、数十枚の作品の篤眞と・もにその建築論は聴くに値するもの」 2e ニしている。  壷集に掲載された作品は、1924年~30年に建った以下の29点である。 作品名はすべて豊集によった。 1 1927年作品札  幌 2ユ926年作品札  幌 31924年作品札  幌 4ユ927年作品札  幌 51927年作品札  幌 6ユ926年作品札  幌 71928年作品小  樽 8ユ928年作品札  幌 9ユ925年作品小  樽 101926年作品札  幌 ユ1ユ928年作品札  幌 12ユ927年作品小  樽 131927年作品札  幌 14ユ930年作品札  幌 151928年作品小  樽 ユ61926年作品札  幌 17ユ928年作品札  幌 181928年作品旭  川 ユ9ユ928年作品函  館 20ユ930年作品札  幌 21 1929年作品東京郊外 22ユ929年作品東京郊外 23ユ927年作品札幌近郊 24ユ930年作品札  幌 25ユ929年作品札  幌 26ユ930年作品雨  龍 271930年作品札  幌 28ユ929年作品札  幌 29ユ930年作品札幌郊外 日本キリスト教會堂 農園(筆者注:第一農園) バチェラー学園 住宅(小熊邸) 住宅(小川夫人の家) 住宅(田上の家) 小住宅(櫻田氏の家) 住宅(吉田夫人と子供達の家) 住宅(高田氏の家) 母と娘の小住宅(伊藤氏の家) ピアニストの小住宅(鈴木氏の家) 大家族集團の家(坂牛氏の家) 愛隣會無料診療所 住宅(後藤氏の家) 住宅(上田氏の家) 住宅(関揚氏の家) 壼家の住宅及側室(総噸氏の家) 政治家の家(東武氏の家) 住宅(佐田氏の家) 住宅(城下氏の家) 蓋家の住宅及董室(里見勝蔵氏の家) 住宅(外山氏の家) 海水浴地住宅(阪氏の家) 小住宅(安部氏の家) 住宅(鬼窪氏の家) 病院(浅野炭山病院) 浴揚物レストラン(中島温泉) 店舗(難屋) 三等i郵便局(圓山郵便局) さて、壷集の巻頭に展開する田上のr建築論』は、詩的な文体で行変 一 306 一 えも多く、表現に飛躍もあって、わかりにくい部分もあるが、かえって 若き建築家の熱っぽい情感をよく伝えている。前年の田上義也建築作品 展のリーフレットに掲載の「建築小論」をさらに発展させたものと考えら れるが、全体は3っの部分に分け、1は「新鮮なる成形は生活を反映す る。/フレシュなる生活は純粋なる成形創造を換発する。」というフレ ーズで熱っぽく始まる、建築総論的な作家論および有機的建築論。2は 建築的形体構成、3は「雪國的造形意圖」について、躍動感あふれる文 章で建築論を展開している。  2の建築的形態構成は、さらに「1用と形体に封ずる建築的直観、2 純粋平面計董、3純粋立体計董」と3分節されている。  1では、前論の内容と一部重複するが、建築家は「豊穰にして弾力に 充てる想念。直裁なる判断と透徹せる理念。」「人間生活のあらゆる相、 社会的組織の精細なる観察と、これ等あらゆる領域に封ずる正しい体験 と洞察。」を持って、「建築的直感」で「形体発生の法則を、純粋と、経済 と、均衡との関聯に於いて、正確に学理」しなければならないと述べる。  2は、主に平面について述べ、平面計画に関係する要素は、土地の大 小、形に対する生理的、光学的関係、地勢、敷地の起伏などであるが、 単に土地にあわせて計画するのでなく、土地の性格リアルを観取し、土地 と平面との有機二分割が正しく成されていることであり、さらに単に生 活の目的にかない、平面の機能と成形とが美しいというばかりではなく、 さらに平面的本質への精細な観察による正しい解釈が必要である。プラ ンの創造に於いて、随所に犠牲が見られる状態は見苦しい「病症」であり、 平面の秩序は、部分と全体とが「相助け、相融合」し、「有機的相関」で統 一されていることである。さらに平面は、建築の基本的リズムであり、 無限への変化と生き生きした「律動的調和」がなければならない。平面分 割は、遠心的でなければならないというが、ここでいう遠心性は、開放 性と読み変えてもいいかもしれない。平面はまた、立面にも表象されな ければならず、平面の総合的操作は、 「立体への均整と、偽りなき空間 分割の衝動を、発生、規定するものである。」としている。  3では、空間の在り方、空間軸をとりあげ、 「立体の空間に於ける交 響性」では、空間を明確に意識しつつ、部分より全体へ、全体より部分 へと自然に「浪費な」く移行できる空間構成を「ヴォリューメンジムフオ ーニイVolumensymphoneママ」と命名する。さらに内部空間の水平基準線 として床と天井の関係について述べ、「天井と床との近きは足元を安ら かに落ち付かしめ」、「低き天井の表面は、軽快にしつらへ、床は重々し く安定の感じを出すならば天井は均勢に浮動し、床は天井に向って柔 らかく華昇的感性を漂はす。天井は_.床の上層空間に隙間なく埋め、 遥に軸を突抜けて、スカイラインの涯まで、水平なる理念を拡げ」、こ の水平線は、壁体、面、開口などの垂直要素から構成される軸と関連し 一 307 一 響灘懸1難籔轟黙黙蕪藏緊緊緊緊鼠撫轍護鱗蕪親野ヤ1ゴ. 欝、 凸   聲 母 鰐 鱗懇懇 懸灘懇懇i灘懇懇羅ii灘難懸 て、空間の「アウトライン」を規定し、新鮮なフォルムを生み出すとする。  「雪國的造形意圖」では、 「凡ゆる雪國的要求は、一切が建築的創造 の手を経ねば、厳しい自然の弾圧から奪還出来ない。」とし、 「國際建 築。組立家屋。定型化。」という当時の建築界の姿勢に対し、自然と郷 土と人間生活の本質の正しい理解を通じて、北国の新しい建築条件に適 した雪國的造形が発見されなければならないとし、この雪國的造形が 「整然と組立られた、水々しい体型を発映せしむならば、北方こそ新し き世界の根元となるであろう。」と結んでいる。 ’耀懇懇i灘灘鑛t_。,:_懸 一 308 一 面10章 住宅作品 10-0住宅作品に見られるライト風スタイルからの離脱  田上義也がライトの制作姿勢や思想から大きな影響を受けたことはよ く知られる。北海道で展開した住宅作品のうち1929年頃までの作品では、 「ライト風」モチーフが大きな役割を果たしていることが認められる。 あるいは、ライト風デザインを借りながら、北海道の風土へ適合するデ ザイン手法の模索が大きな課題であったといえるかもしれない。  この課題にひとつの解決を与えたのが、1930年頃からしきりに展開す る「雪国的造型」というデザインであった。そこには厳しい北国の気候、 風土を背景に、水平性よりもむしろ垂直性の強調や、インターナショナ ルスタイルの影響さえ認められる。  この点については田上自身も語っている。北方文化研究会編『田上義 也建築抄』 (らいらっく書房、1966.5.1)に収録されている座談会「田 上義也と北方建築」での田上の発言を引用しよう。 「私の作品がライト の影響を受けていることは確かだと思うのですが、私の作品の方向は、 ライトの精神を土台にし、雪国的なリアルなものを追及して、その中に 私自身のイメージを作りたいと願っていますので、ライトの作風をその ままコッピーすることは意味をなさない訳です。」「むしろ師の作風から 抜け出そうとしています。」(アンダーラインは筆者)と、はっきりと言 及している。 「「私の真似をするな。お前の師は日本だよ。私は君の国 から教えられるものが多かった。日本のサクラになるんだね。サクラの 花とサクランボをつけたまえ。」と、よくライトから言われましたが、 この言葉が今も私の脳裏から離れません。」とも語り、ライトが自分の 模倣をしても自分以上にはなれぬこと、 「百の模倣より一つの創造」1で あること、日本の古典こそがすばらしい師となることなど、ライトの教 えがライト風からの脱却を示唆していたことを伝えている。  ライト的なスタイルから脱却して独自の作風を求める田上の姿勢の萌 芽は、すでに渡道前の作品大竹虎雄別邸(1922年)などにみることができ るが、その解答の一つが、 「雪国的造型」住宅であった。積雪寒冷の風 土に対する住宅として、雪国の屋根は単純で力強いこと、構造の軽快な こと、より防寒的であること、南からの採光を大量に摂取すること・平 面はコンパクトに(.て保温性を保ち、平面構成はエントランスホールを ,、、、,灘難’騒騒麗麗懸i灘羅欝騨難灘灘幽幽羅譲白白 一 309 一 ユ:『北のまれびとくエゾライト・田上義  也〉(上巻)』P.73 講灘灘鱒白白灘白山i鑛鑛購二三翻 一籔灘.羅 撰1豊: 量!ξ礎噺町ぐ ,t, ”, ..,, …;・シ’=弼「㍗r・..1}㍉     s 2:『田上義也建築蚕集』 p.52 3:田上義也所蔵のもので、現在筆者に  寄託されている。 4:1893(明治26)年会津藩士で工学博士  の大竹多気の長男として出生。1917  (大正6)年文官高等試験に合格、翌  年東京帝大経済科を卒業、大蔵省勤  務。甲府豊橋各税務暑長、産業組合  中央金庫監理官預金部考査課長、大  臣官房財政経済調査課長、大阪東京  各地方専売局長を歴任、1940年退官  とともに東京市財務局長を務めた。   (『第十三版人事興信録』人事興信  所、1941) 5:『建築画報』第13巻11号(1922) 6:『東京市芝囁地籍i帳』内山模型製  圏社出版部(「昭和五年八月版」)およ  び『縮尺五千分の一 東京市各匿別  地図』内山模型製圖社出版部(1930。  8,5発行)による。 7:長島和夫氏談。 8:『婦人画報』7月号(M20 1、1922)。  以下「 」付きの語句は、すべて同  誌による。 中心に、書斉応接室部分、茶の間など和室部、北側設備部分の3つに分 割される。さらに北海道的な造型として、ダイナミックな大風山のよ うな吹溜り、零下30度の切られるような寒気に対抗して、「豪健にして、 智的なる体型を意図」2すべきとし、軒先まで1、2階を通してすくっと 立ち上がる柱型形状、この柱型から北側へ葺きおろされる屋根表現、階 段室隅の垂直なはしご窓など、高さや垂直性が表現された。  本章では、田上の処女作であり、独自の作風を求めた萌芽と考えられ る大竹虎雄別邸、北海道における作品として2番目、住宅作品では実現 第1号であり、ライト風の中にもすでに雪国的造型への模索がみられる 高田治作邸(1925年)のほか、代表的な住宅作品を、ライトの影響を強く 受けているライト風住宅、独自の作風を求める過程としての片流れと陸 屋根住宅、田上的作風として確立した「雪国的造型」住宅に分類し個々 の作品を通じて田上の設計姿勢、建築観を考察する一助としたい。 10-1大竹虎雄別邸(1922)mmau区芝四三鯛  田上資料のスクラップブック3中に貼りこんだ雑誌記事に、自身が「最 初の作品」と書き込んだ住宅作品である。この記事は、1922(大正11)年 『婦人画報』7月号(No.201)掲載のもので、 『婦人画報』では、大谷富 子なる人物が「新趣味と實用を兼備へたライト式建築」の見だしでこの 住宅を紹介し、さらに外観、玄関、内部階段室の写真を添えている。  同年のr建築画報』11月号(Vol.13、 No.11)グラビアに外観と応接間さ らに記事ページに「軽い感じの階段」写真が紹介されているこの住宅は、 大蔵省役入大竹虎雄4の別邸であった。上記の雑誌記事や掲載写真のほ か、1941年からの所有者長島和夫氏からの聞き取り、子息長島孝一氏の 記憶による略平面図などから概要を知ることができる。  大竹虎雄別邸は、 「新しい田園都市住宅」5が建ち並び始めた東京市芝 皐月金三光町254-2(現東京都港区白金台5丁目!1付近)eの一画、大正初 期に開発されたという日東坂西側の200坪58(661.91㎡)の敷地6に建設 された。r昭和九年刊 東京市芝匠地籍毫帳』では、「地価273円12土 地賃貸価格682円80所有者大竹虎雄」の記載がみられる。  その後1941年12月初め頃、長島和夫氏が大竹虎雄未亡人より購入、採 光が得られないためただちに家の向きを90度変え、一部改築した7。19 66年6月頃取り壊されている7。  「電気燈や家具も加えて」約!万円で完成した建坪37坪(122.1㎡)の下 酒な住宅は、木造寄棟瓦葺漆喰塗り一部2階建て、 r婦人画報』8では 一 310 一 懸 緊  ・ 潟 ㌔ 島 躍離騰 図10-1-1大竹別邸南東外観(『建i築画報』V。1.13 1922) 図10-1・一2 1966年頃の大竹別邸(長島孝一蔵) 「有名なライト式建築」と紹介している。同記事には、同じ様式の建築 として、ライトの帝国ホテル、自由学園、林愛作邸や遠藤新の「目白の 女子大学アパトメント」(日本女子大学桜蘭会アパート)、犬養邸、そし て田上のこの大竹邸と伝通院のポプラなどをあげ、ライトおよびライト につながる建築家たちの作品を総称して、 「ライト式」という単語を使 用している。  外観の白漆喰仕上げや縦長窓の配置など、全体の印象として、後の田 上の作品よりも、ずっとライト風のモチーフは少ないように思えるが、 内外で使用された大谷石や平家部分の切妻破風に見られる幾何的な装飾、 低く抑えられた軒高や天井高、さらに人を迎え入れるようなアプローチ の扱いなどは、ライトに通じるものといえるだろう。天井高の低さは、 「或床しみと楽しさを人々に與へるばかりでなく、材料の節約という点 も含まれて」いた。  敷地には特別に門などはなく、道路から幅の広い階段を数段上ると、 「三和土た越」の道が屈折して玄関まで続く。両側の低く続く袖壁=一ビン グは、大谷石の基礎の上にスクラッチタイルと思われる仕上げで腰を張 り、上部にまた「花や樹木の花台」を兼ねた平らな大谷石を載せたもの で、 「さながら双手をさし伸べて来る人を掻き抱く様な」アプローチと された。  『婦人画報』に掲載の外観写真(図10-1-1)では、道路脇の擁壁の大 谷石積みや造園工事が途中であるが、『建i築画報』では外構工事が完成 している(図10-1-2)ので、工事完了は1922年7月から11月頃の間と考え られる。  玄関の左側が小応接室、右手に張り出した棟は大応接室であろう。大 応接室妻上部に施した斜めの押縁装飾は、後の住宅作品の応接室に見ら れる欄間の亀甲形組子意匠への過渡的なものと、とらえることができる。  室数は全体で10室、掲載記事では、応接間大小2室、食堂寝室居間な どに使用の4室、化粧室、女中部屋、納戸をあげている。ほかに「廊下 に面した三尺の押入れ」3、便所3ヵ所、玄関、台所、風呂場などで構 一 311 一 図10-1-3 大竹別邸玄関(『婦人爾報』     M2el) 灘難灘鎌縷欝欝懇熱捲鎌継灘簸翻藏1濡照・ 榔彫τ叢叢購鰭響7翼際贋 ” ・「∵㌧岡蟹 図10-1-4食堂(『建築画報』Vo 1,13 1922) 成されていたという。  食堂には大谷石を張った暖炉がしつらえられており、食堂隣の「ポー チ」(テラス)は、 「二十畳ほどの広さ」で、藤蔓をからませるパーゴラ を備えていた。パーゴラは、時にはルーバーとして形を変えながらも、 後の多くの住宅作品で使用された田上好みの意匠要素の一つである。  「ポーチ」は、住宅左端の小応接室とまっすぐな廊下で結ばれ、応接 室からも「ポーチ」の緑を望むことが出来た。その「突き抜いたやうな 感じは恰も家が呼吸してみる事を意味している」と田上は語ったという。  アプローチの袖壁にも使われた「穴の多いざらざらした大谷石」は、 内部でも玄関の石段や花台、応接間の暖炉に使用されたが、 「耐火の目 的の外に簡素な心易さを現はす為に有効」な材料として選ばれた。  照明も、「火屋ホヤや綱。.ドをむき出しにせず、天井そのもの、壁その ものが柔らかく光る」間接照明とし、 「旅人が森の中の灯影に吸ひ寄せ られる様な」効果を演出していたという。  またインテリアの特色のひとつに、 「糟の支ヘピクチ..rk一ルド」があった。 額面を架けるため、玄関や各室の長押にあたる部分に渡された細い木で ある。空間の連続性を強調したり、室内空間を引き締める主要なモチー フとして後の住宅作品でも多用され、旧小熊邸(1927年、札幌市)など に見られるように、壁面を斜めに走らせてグラフィカルな空間を演出す る装飾としても使われたものであった。  以上述べたように、田上の作品活動の極初期を飾るものとして、また 処女作に近い作品という点で、興味深い作品であるが、後の住宅作品よ りもライト風というより、国際様式を意識した堅い印象を受ける。23歳 の若い時代の作品ということもいえるが、むしろライトを意識しながら も、独自の作風を求めようと模索した後年の姿勢の萌芽としてとらえて おきたい。 一 312 一 10-2 高田治作邸(現江口修邸)(1925)小WMEN1.26囎  小樽市議会議員高田治作の住宅で、北海道における竣工住宅作品の第 1号であり、北海タイムス「雪國に相応しい新しい建築」の1つにもと りあげられた(1925.11.5、6)作品である。その後、松橋某(1961年小樽 市住宅明細図)、折橋某(小樽石炭社長)、北村正司宅(1982年住宅地図)、 山岸宅を経て、1989年11月江口修が購入、翌1990年春入居し、屋根、塀、 ペンキ塗装などの改修を行っている。山岸時代に内装をかなり変更して いる。  北海タイムス紙では、 「一寸見ると坪あたり百数十圓もかかった様な かッしりした家だが、実際は六十鯨圓しかか・ってみないさうだ」3、 「崖の上に立ってみて僅少な地面を充分に活用し地面から生えぬいてゐ ~ rr一一一一一一丁一一一一一一一一一一.一.一M.一ri..一一 , ~ ・   二 : ’ 貞             ρ ● 0 9 ¢ 9:北海タイムス(1925.11.6) ●り C ’酒興   て ▼ 酒 ” ポ ・   {~   働 病 矯硬 か 一 」           「 . , ・ 3 一 ・ 酒 ’ . ば 仁 丁   λ 。 、 ・     ^ ア つ う . 一 .   」 { コ 臥 じ . 一   溌 嵐 ,… o 口 壷 陶 9 、 凶 i“i,lii,1 1i if ’ 蘇 ハ 犠   争 」一 呪 , 愚 曳 ヲ 回ア/   彩 ・   ’ 一   。 耽 r 7, 。 誇 9 一 勾 「 ∴ ぞ 1 忌   【 」 ダ “ ! 」 ~ ぐ 、 劃 。i磐 峯一 }  イ乳7Pi pi)・)r’ty’;t 穿・ 9む   1 一 i・   i      l        tl   1 n.   ![囲 図1e-2-1高田邸スケッチ  1 1t 二●輝  …i韓  b「筆  .ア章  蓼  ;三  一. =1 こ  ←一一一『    ’     リ アムヘ オ  一: ’   1      1      1      【 一 313 一 k’“L-mbA;tF,at/kew 熱轍, 嚢・ ,v・、   、、跳 10:『田上義也建築喪集』 p.43 る様な力強さを示す」3などと評され、また田上の「正しい建築に人間は 住むべきである」s、 「病人の聲師に信頼する如く、一切を建築家に委せ よ」Sという主張をとりあげている。  現存する図面は、第!回作品展に出品したものと考えられ、背景の木 々まで書き込んだ外観パースと、フリーハンドの1、2階平面図が、A 3版程度(270×396㎜)の美濃紙に縦位置でバランスよく収められ、ライ トの図面手法によく似た描き方をみせている。  壼集掲載の図面(図10-2-2)と比べて、敷地形状、外構iに池が計画され ていること、パーゴラ下のバルコンの形状が異なるなど以外、平面構成 にほとんど差異はない。外観は、腰部分のみ横羽目下見板張りとする漆 喰仕上げの意匠を意図したようであり、また後の「雪国的造型」住宅デ ザインのプロトタイプのひとつとなる垂直の柱型を東面にみせていた。 実際には後述するように、外壁全体が横羽目目板張りとされ、東面のデ ザインも出窓の枠を引き締める程度の細目の柱型形式に変更されている。  豊集によれば、「背に北山の崖を控ヘゴ。「東南に海を展開せる」1。敷地 の左隅(南西)に主棟である「胴ゴ。を置き、西と北に低層部を、南東にパ ーゴラを伸ばすが、バルコンやパーゴラの実現については不明である。  主棟は、「母の部屋」(8畳)、「茶の間」(6畳)、「応接」と2階の「アト リエ」(4畳)、「客間」(7畳)、 「寝室」(6畳)で構成10され、北側平家に 「けんそんに人と応接する書生の部屋」s(3畳)、風呂、台所、 「トアレ ット」、「エントランス」1。を置く。「海風に対峙する低き構への大屋根の 下」10に、他の住宅作品にも共通する幅1間の豊かなホールがみられる。  洋室の応接問、茶の間、母の部屋は、 「純日本式ゴ。唐紙で仕切られ、 広くも小さくもすることがでぎ。、日本間の床は応接間よりも一段高く されている。洋間の南にベランダが置かれ、ベランダからは小樽全風景、     ig’賊8            11t’:’! 笛 」 溺 、 蔭噂1賦 6 ら ”凶 vt ・’ P : κ貼”v 鼎. 窪 ε○ 、  槍蒔~、     εし「コ  評∫ ニレレつレみほ コル .   」重愈 〈ig ”・ G =一一“一.HL ‘ .一一一. rtt tt 7 愈 凡 fi1 痴. ロ_一::獄’ ・ ”ぐ ”. v一“L 荘 「 臣 庫   eL 醤ρ   ’ f/ 嘗廟  ’ 脚 ヒ 臨 f ⊥ \ / , 図10-2-2 高田邸平面図(『田上義也建築書集』) 一 314 一 さらには遠く石狩の海を広々と「自分の庭とするゴ。ことができ、 「小さ い地面と小さい建坪を生かすは自然を庭にすることである」10との主張 をよく表現している。ベランダの上は、「パゴラ」1。になって、さらに大 気との「デリケートなゴ。交歓も意識されていた。  横羽目目板張りの茶褐色の外壁と、白く着色された窓枠や軒天井の対 比が美しく、「大空を望む」1。階段室三二も特徴的であり、軒天井の換気 口などの形態を含め、隅々にまで細かな配慮の見られる住宅である。 10-3 ライト風住宅  ライト風とは、文字通り形態やモチーフにライトの影響がみられる住 宅作品のことである。ライトが確立した草原住宅(プレーリー・ハウス) から、自然と融合する水平性の強調や十字形平面の採用などの直接的な 影響が認められる。  十字形平面は、直角に交わる2本の軸によるプランニングで、T型や L型としても使われたが、この平面形を田上は「直線体系」と命名した。 水平性の強調は、水平に延びる深い軒を持つ屋根で表現され、緩勾配の 寄棟や破れ破風の切妻屋根が採用されている。壁面は、腰壁を横羽目自 板張りで水平線を強調し、上部は漆喰仕上げ、亀甲模様や幾何模様のサ ッシュ割りを施した窓が表情をつくるなど、共通の特徴をみいだすこと ができる作品群である。  また内部空間から大きく開かれた開口部、パーゴラで覆われたテラス を介して、庭園の外部空間へ連なり、さらに自然にまで融合する空間の 連続性なども特徴的といえるであろう。 10-3-1=高松泰造邸(1925) 計画案  第!回作品展に出品の一つで、図面(図10-3-1)は、南立面、平面(上 が北)を収め、色鉛筆で着彩している。  1階21坪、2階11坪、延べ42坪の住宅で、西側の南面壁が寄棟大屋根 を突き抜けるように立ち挙げた表現は垂直性が強いが、東側に延びた平 家部の水平性と微妙なバランスを保っている。  平面は、十字形平面を東西に接続したような形態で、日本間(6畳)、 食堂・広間(5.75坪)、書斎(3.5坪)を1列に並べた胴部の南側に・玄関・ 広縁、子供室を配し、主棟西側を2階建てとする.西側1階子供室は共 有勉強室、2階は子供寝室及び主寝室としている。  ロ レ 1猷響響i欝麗麗1灘騒騒藻灘黙黙緊緊騨蟻蚕繊繍騰_∴,黛ば 一 315 一 図10-2-3 高田邸(1983年撮影) 艶. ㌦bl”撒 一 1謬騨潮懸讐罵 欝號罵 ~ L 、  主棟北側に半間幅の廊下をはさみ、女中室と台所を東西に置き、間に 風呂場、洗面所、便所といったサニタリースペースを配置している。  食堂と日本間、子供勉強室の3室及び2階寝室の真中に円形ペチカが 置かれ、書斎と広間間には集合煙突の記入があり、暖炉も計画されてい たかもしれない。2階寝室は、円形ペチカと本棚で間仕切られるものの、 南側のソファー前で、両寝室は連絡しているが、ソファー上部には、外 観にアクセントをもたらす高窓も設けられ、明るい休養スペースが緩衝 帯として置かれることになる。1階の共用勉強室といい、この寝室形態 といい、田上の理想を追及した平面といえるが、さすがに施主側には不 評であったらしい。  1925年11月の高田邸記事(北海タイムス)にもこの住宅のことが一部と りあげられ、田上の妥協を許さぬ頑固さを「高松夫人が之では勝手が悪 いからと田上君に注文しても必然性をぶちこはすことになるからといっ て何としても其要求を容れない、ドクトルも之には閉口して今秋建る筈 の住宅建築が来春に延びたそうだ」と報じている。第2回作品展のリー フレットには掲載されていないので、実現しなかったものと思われる。 鵡 rr一一一一=一M 一  を 総伽 図10-3-1 高松邸計画案 一 316 一 =轟L 10-3-2=関場不二彦邸(1926) 札幌市北1条西1丁目 施工:初代地崎宇三郎  北辰病院長、初代北海道医師会会長を務めた関場不二彦(1865-1939) の住宅。1925年の田上義也建築作品展覧会で田上を知り、設計を依頼し たという。総工費3万円であった。この作品の設計料で、田上がアトリ エ兼自邸を建てることが出来たという。  1942年から歴代の日銀札幌支店長役宅として、1960年まで使用された。  15×26間11の南北に長い長方形敷地の北側に寄せて、既設のRC造書 庫を基点に、東西一直線状に野望を配置し、ほぼ中央にあるホールは、 東に「バルコン」12、西に「大玄関」12を備えた開放的な「プ演壇ナードゴ2 と連絡し、南の八角形の応接間と主簿を連結する。  中央ホールの西には、広縁を廻す「主人室」12(10畳)と「夫入室」12(10 畳)が並び、 「レストスペースゴ2を介して、「書庫ゴ2、「ライブラリー」 12 ニ連絡する。ホール東は、食堂、台所、「メードルームゴ2のほか、東 端に茶室を兼ねた「ゲストルーム」12を置き、「テレス」12を介して後庭を 「抱えるゴ1ように「食堂」’aと結ばれていた。  2階は、子供室が3室(「ルーム!~3」12)南面して並び、東の「ス ペアルームゴ2との間のホールから「プロメナード」上に設けられた八角 形の「望楼」12に、西の「バルコン」12からは、書庫上の「ルーフガーデン」 12 ノ連絡していた。  !、2階とも、「鉄筋コンクリート」11造の角柱の柱形を1間間隔で配 置することによって、内外の緩衝空間としての柱列を強調する。開口部 は柱列から後退して、「外光を豊かにそそぎ入れる」11ために、「雨戸式」 Uの連窓とされている。  床はオガクズを石灰で練り二重床とし13、屋根は柾葺きの上にアスフ ァルトを流して青銅板瓦棒葺き、軒は3尺張り出し、端隠し先端も銅板 で彫刻しだ3。暖房は集中暖房で、地下室にスチームボイラーが設備さ れていた「3。  この工事で田上は一つの失敗をおかした。内部天井に換気孔をとった ため、暖気が天井裏に抜け、軒先に換気孔をとったものの、すがもり現 象を誘発した13。室内と屋根裏を完全に断熱し、小屋裏を冷却する必要 を身をもって教えられたのである13。 10-3-3:田上自邸(1926) 札幌市南12条西13丁目  関場邸の設計料(3,000円13)の1/3、約1,000円をかけて作られたアト リエ併設の自邸(「ホーム」14)である。  1階床面積38.045坪(125.55㎡)、2階面積7,5坪(24.75㎡)、延べ45.545 坪(150.30㎡)の住宅で、 「テレス」14部分を含めると1階45.67坪、延べ 一 317 一 11:『田上義也建築蚕集』p.57 ユ2:『田上義也建築蚕集』pp.58、59掲  載平面による。 図10-3-2 関場邸バルコン(左手は応接     間) 図10-3-3 関場邸食堂内部 13:『北のまれびとくエゾライト・田上義  也(上巻)〉』 p.107 図10-3-4 関場邸ブnムナード(正面は     応接聞入口) 14:『田上義也建築蚕集』 p.38 @一、1継縫白白讐白白図嚢二二二二三一. 灘灘灘欝糠灘欝灘騨i灘鎌継総藻懇懇編欝マ懇懇灘聯鰐難欝讐轡硝’亘轟欄黙窟欝F噸1霞継 脊 一 伽鍔 ウ 己 [ ㌧ ・ ’ ~ ロ ロ 墾窟 ノ   。 ’ ρ 〃 %、 黷 Q 2 ㌘     ρ 9 ρ   0 ’ ρ ”ぐ3 ,~ 一←螂躯 婦  一_ ひニ     とニ 廟・ ζ= _ ll三 ,k7rr”i:1:;i;}:{:1: ....・?f/IZ///.14」2.i’i/t;’      .1        11既             i一;411¥.t‘:1;t:iil..1filiilitiwtl」{tlil}lii71EilEIIIIII!1:’ltL..{i I”1g-lt・・一{’”{ri         ljNV N-h一一一.一一.一 図IO-3-5 関場邸スケッチ(『田上義也建築書集』) 一一一一一一一一一一一 :働堀彪/e2フゲ些響狸一. ヨ 〕 “ h r 口 .t B ii #,, 、 ・1 炉 「 ‘紳▼ 、 響 /趨 蟹 影狐 ノ 齢 V 噸一距 婁 。 P r ’夢 ←         轟       』 ) ↓ 亡 レ O 0 2 5 ワ 」 憶 鱒曾 一 5 磁 (     眺 爆 ㎞ 累 一一i II 1 こ つ 茸   Ni: H卜’P’ 。ミ    @ 螢     秘ゾ ∫’㌧ 一 1 こ.v’ 秩@        _L  ノ            ぢ ヘノガ     { ’     とイ      一.し「   , 岬 塞 僧 麟   .s ‘ , t 7 2 1 8 ノ 「   噂 ㌻ ξ エ ξ 一 怠                                         ノ 篭 q 一 ~ 一 至 」 剛“     ≧ { 憺 - 著 - 覧 当 、 蔚 昌 湾 犀 レ 竪 , 気 轟 ゐ 嘗 傷 ん   暫 車 …剛9           ノ(へ       .,;,一,  1.           、、  」・、L/ r--. 、乙公 ワ馳鶴コ拠 ?・「つ  愚 ≦   ユ     ゆおげ  トぐ 陶’… @下     …〒 与\!・6               ロ 、一・・ _・牽、・       ,諒 ∫   l        」1.i・ ±incg/”’“tc=i ・1        ゲ       ’        l    l        !      1        } 1 図10-3-6 関場邸1、2階平面図(『田上義也建築蚕集』) 確 轟ぐPp1レr隔 ”一7ガ頓,’レ 図10-3-7 田上自邸北側正面  イw  【コ リお  隔℃《》ド _藷ザ冒  £,. 網r」」 翼  賞1 {・一 曾 縛 図10-3-8 田上自邸南東側外観 一 318 一 図10-3-9 田上自邸エントランス 53.17坪ある。  食堂、居間、寝室を結ぶ「ホーム」の南北軸と「アトリエ」 「ホール」 「バス」1“を結ぶ東西軸を階段室ホールで交差させた十字形平面(r田上 壷集』では「直線体系」と呼ぶ)の住宅で、2階は「ホームとアトリエの中 心線の交黙上に正しく配置されてるる」14。  エントランスホールは、南北に入口を開き、アトリエと住居部分を明 確に区分すると同時に、南北の庭を関連づけ、北側玄関前とホール南側 には、ルーバー(ないしはパーゴラ)で覆った「テレス」を置いて、外部空 間との緩衝帯を設けている。  住居部は、 「寒風への衝壁」「不純なる西陽の直射ゴ4への抵抗を意図 し、「西に背を向け」’4る形で、台所やユーテリィティーを配置し、また 最低限の開口部をもつ壁面で遮蔽している。  2階「ゲストルームゴ4(4坪)の東には「サンルーム」14、西に「バルコ ン」14を置く設計であったが、実際にはバルコンは実現せず、サンルー ムも開口部分の少ない閉鎖的な部屋とされた。  外観は、アトリエが付属する分東西に長く、他の住宅作品に比べて、 より水平性が強調された作品となっている。  外壁全体を下見板目板打ち仕上げとし、北側の食堂に2本の柱型で支 えられた大きな破れ破風を見せ、軒天まで届く幾何学的なサッシュ割を 施した大きな開口は、書斎やゲストルームなどに多用されたモチーフで あった。  2階は、意匠的にはまだまとまりきれていない印象を受け、田上の作 品にしては扱いもそっけない。原設計と異なり開口部が著しく減少され、 片開きないし嵌め殺しの小窓を縦に重ねた縦長窓の開口量が、壁面に対 備一 書・・   t り伽γ伽「: P  ひ  9  ‘ し   } 、 ム   摂 - ノ ー 1 魅 陸 ㎏ 一 4るひ,かAひ一鳳  ,r:t 1    sテ しz 響 ⇔ 顧  Z t”’ 薯 ’kV/>・ 鴫 レ ロ 一 Rー ド 弓 鬼 川1櫻.』   ニ 、, ?   「一1 s旧 しロ ク≡≧ 一一 脳 E:一一”’ 図10-3-le田上自邸平面図(『田上義也建築書集』) T 一 319 一 ,懸灘禦灘   @』、 島、 図10一一3-11建設中の小熊邸 15:『さっぽろ文庫61農学校物語』(北  海道新聞社、1992.6.24)p.110 16:柳壮一夫人福子氏による。 図10-3-12小熊邸南東外観 17:『田上義也建築書集』 p.31 して少なすぎるせいかもしれない。ただ、西側妻面には、後に多用され る2本の柱型が見られ、サンルームのフラットルーフは、後の太秦邸な どで開花する手法であった。  「テレス」のルーバーを支える柱も、外壁同様目板打ちの仕上げである が、出目地仕上げの石造柱を想起させるが、これも田上が好んで使用し た手法の一つであった。 10+4=小熊桿邸(現北海道銀行円山クラブ)(1927) 札幌市南1条西20丁目 現存  北海道帝国大学農学部教授小熊拝(1885-1971)の住宅である。  動物組織学、応用動物学を担当していた小熊博士は、1930年には理学 部創設のため転出するが、初代理学部長や低温科学研究所長を務め、19 48年に退官した。後に初代国立三島遺伝研究所所長に転任するまでの30 有余年をこの住宅で過ごし、茅誠二、中谷宇吉郎をはじめ、北海道大学 教授、文化人、芸術家らと交友を深めた。北海道大学の黒百合会は、19 08(明治41)年有島武郎が指導者となって発足した美術団体であるが、そ の創立当初のメンバーでもある。黒百合会の名称は小熊の発案という15。  フランスから帰国したばかりの小熊助教授は、1926(大正15)年竣工の 関場不二彦邸をみて、フランス風の住宅を創ってくれるよう田上に依頼 した。関場邸ではすべてをまかされた田上だが、小熊助教授は田上案を なかなか受け入れず、論争もしばしばであったという。最終的には田上 案が実施されたわけだが、この作品を通じて、田上は、施主に自分のデ ザインを誠意をもって納得してもらう必要性と設計に対しては確固たる 信念を持たねばならぬことを痛感したのである。  小熊博士のあと、北海道大学医学部教授柳壮一が数年入居したエ6とい う。1925年竣工のヒンデル設計の自邸に住んでいた柳博士は、二人のパ イオニア的近代建築家の住空間を体験し得たわけである。  1951年北海道銀行頭取島本融の邸宅として購入、1956年木造低層部を 増築、1968年には南側の鉄筋コンクリート部分を増築している。いずれ の改修にも田上が関与しており、建築家として理想的な作品とのつなが りであった。1975年から北海道銀行円山クラブとなっている。  241.05坪(795.47㎡)の敷地の北側に建つ住宅の平面は、客聞、玄関ホ ール、応接間の南北軸と、玄関・書斎兼リビング、寝室の東西軸を十字 に交差した形を基本とし、北側にメード室、台所、風呂、便所を並べ、 北に走る電車の騒音の緩衝帯とし、リビングの南側にサンルームを配し て南庭と「融合せしめゴ7ていた。『芸術学研究第二輯』(1930.5.1)の建 築論では、 「十字腱系のモティーフを明らかに此の家で発見した」と語 っている。  建築面積は37.5坪(123.75㎡)、2階5坪(16.5㎡)であったが、後に敷 一 320 一 地76.92坪(253.84㎡)を買収し、64.!7坪(211.76㎡)を増築して現在の姿 になっている18。  構造はバルーンフレームとした。2階の屋根までとどく長尺の間柱の 骨組に、下見板を釘打ちで固定して、仕上げ外板と一体となって初めて 固まる構法である。仕口には柄を用いない。後のツーバイフォー構法の 基本になったものである。  ゆるい勾配の切妻屋根には“ころび”をっけ、妻面は破れ破風とする。 谷の多い屋根はすがもりを防止するため、小熊博士の提案もあり、まさ 葺きの上にアスファルトを塗りこみ19、谷にも同様の工法で補い’9、亜 鉛鉄板瓦棒葺きとしている。  外壁は腰部分を横羽目目板張りとし、上部は漆喰仕上げである。低く 抑えられた階高、高く張り出した軒先、軒先に上端をそろえた窓、外壁 の同コーニスや横羽目板などが水平性を強調することに役立っている。  2階の西妻面や南側応接間の大きな開口は、幾何学的パターンのサッ シュ割りとなっており、この建物を特徴づけている。  応接間は南側を大きなガラス面とするが、かって欄間部は植物文様の ステンドグラスとなっていた。内部は漆喰仕上げであるが、長押(ピク チャーホールド)や斜めに走る細い木製の押縁がグラフィカルに飾って いる。造り付けの長椅子や階段踊場側に付く菱形小窓なども含めて、非 常にモダンな明るい室内空間である。  2階のアトリエでも、漆喰仕上げの天井面は架構材をグラフィカルに 「 ー ー ノ q 鐙 ご 18:北海道銀行による。 19:『北のまれびとくエゾライト・田上義  也〉(上巻)』 p,110 ・ ㌧ ’ 紫 ♪ 龍 図10-3-13小熊邸応接間南面 贋・       唾 ・…一 @L且 lkjl 屯 と ア 亀 曙 ‘腫 物 謝     な                          レ        し     》           ㌔、ソ     溜     τ              ,     ⊥__________               で 図10-3-15小熊邸平面図(『田上義也建築蚕集』) 一 321 一 図10-3-14小熊邸応接間北面 懲綴騒騒黙黙懇懇暴露籔灘羅難繋累暴露灘緊緊欝 欝磁騰i雛.「講 白白犠白繭纏三一諜白白一二嚢二三難翫 図10-3-16坂牛邸北西外観 20:小樽新聞(1915.2,8) 21:坂牛直太郎氏談。 , 薪 、 ㌶ 臥 置 。 図10-3-17坂牛邸階段 22:『田上義也建築登集』 p.46 蓼 装飾化して軽快に処理されており、東面上部の菱形小窓や四角錐の壁灯 などの幾何学形態も空間によくマッチしている。  また書斎兼リビングでは、こうした斜め線を使うかわりに、水平垂直 材だけの落ち着いた空間をつくりだしている。  暖房は当初から地下にボイラーを置く温水暖房であったという。 10+5=坂牛直太郎邸(現坂牛正志邸)(1927) 小樽市入船町5-8 施工:丸藤留治 現存  小樽新聞者重役坂牛直太郎の住宅。直太郎は、1917(大正6)年東京帝 大法科卒業後、三井物産を経て1922年小樽新聞社に入社、同社を経営し ていた岳父上田重良の没(1915年2月5日20)後を受けて上田寿久子未亡 人を中心に重役として同社の経営にあたり、1930年退社後この住宅で弁 護士事務所を開業していた。  新築前、富岡町1丁目20に住んでいた直太郎のもとへ、突然田上が訪 れたのは1924年のことという。すぐ近くの高田邸の現場に通う際に立ち 寄ったものであろうが、以来親交が始まることになる21。  1927年夏着工、竣工は12月5日、工費は家具別で8,000円であった。  小樽花園公園の南側、美しい白樺林に面した角地に建ち、L形平面の 隅角部に2階を置き、さらに八角形の5辺を張り出す応接間を突出させ ている。薄緑色の横羽目目板打ちの腰壁と白漆喰との対比、平面分割さ れたサッシュの連窓と軒の深い屋根が、田上特有の低く抑えた外観に効 果をあげているが、2階北面には後の住宅デザインの主要な垂直モティ ーフの一つともなる固形の表現をわずかに見せる。  竣工時、夫婦、両親、5人の子供、女中という大家族であったが、「各 自のインディヴィジュアルを充分に尊重して然も、相互の自由なる関連」 Z2 �lえた平面は、階段ホールを中心に玄関横西側に応接・書斎、北側 に舎弟、女中室、風呂、台所、東側に食堂および縁を廻した老人室(10 畳)を置き、南側翼部には子供の領域をまとめ、ペチカを囲むように子 供勉強室と同運動室、寝室を配置している。子供室の東、庭側に設けら れた「テレス」22は、勉強室や食堂から直接出入り出来、庭との関連を強 く意識している。  「交通に対する離散に重き」2色を置いたホールや階段廻りのスペースは、 ゆったりととられており、このゆとりは、他の住宅にも共通して見られ る。家具なども、多くは田上デザインのもので、書斎の重厚な机や椅子、 丁台なども残されている。  住宅の南隣りの敷地の現MOA世界救世教北海道地区本部小樽布教所 の建物は、翌1928年に田上設計で完成したもので、当初坂牛夫人の母堂 上田久寿子の住宅(10-3-9)であった。坂牛邸とは庭続きであって、子供 の何人かも、こちらの住宅に移り住んだという。 一 322 一 as 一   「, D 三 潮 ㌧ ・ 『鑑 ロ ー ン   ri i,   由   撃 ….一r::1一     ∵溢     :宰 ,,,   _霊嚢 」・.   ド    守 吻て「 +ll「   : 円、 ? 蝋71 票 、 浩F翌   に 図10-3-18液面邸平面図(『田上義也建築組討』) 二, e,”I, 1/ T, > X. .,i’ 1 、F・、藷〒 噂し, 10-3-6=金子実邸(1927) 札幌市北17条東7丁目  鉄道員であった金子実はヴァイオリンを通じて田上を知り、設計を依 頼したという。  T字型に近い十字平面の小住宅で、長軸の東西軸と短軸の南北軸が玄 関ホールで交差し、交点上に2階がのる。1階床面積25.25坪(83.325㎡)、 図10-3-19金子邸平面図 一 323 一 図10-3-20金子邸南外観 騰諺… ・擁・ 図10-3-21金子邸応接間 灘鰯轟轟1騨暴露灘鑛灘,灘懸黙黙i鎌暴露搬簸灘雛欝黒黒 .。_麟…一 議欝藩轟灘一応i難灘灘白白難山山霧白山二二二三講1馨灘鑛 繕羅難鍵灘騨蠣 灘驚継皇欝欝駄灘斌露紹^∵’1’ ’L‘ワい ’こ脇畢写…1堅鍔ぐ雪∴㌃解・ 糠璽 励〆鞠構 ・   ・ 23:『金子邸新築設計図 階上階下平面  姿図詳細』 24:『金子邸新築設計詳細図一レッスン  ルーム切断図』 25:『田上義也建築査集』 p.55 図10-3-22坂邸(創建時) 26:歌志内市史編纂委員会『歌志内市史』  (1964.11.10) . 捻 懐     餐 ’ べ繁 繰 識 図IO-3-23坂邸(1987年撮影) 図10-3-24坂邸居間(1986年撮影) 2階4.45坪(14.685㎡)、延べ29.7坪(98.01㎡)ほどである。  玄関ホールの右に「応接兼書斎」23(レッスンルーム24)、左に台所を置 き、東側に炉を切った「茶の間」(6畳)と「本間」(8畳)の続き間、その南側 に縁側と小室を配している。書斎は、屋根勾配より緩い4寸勾配程度の 傾斜天井とし、両脚には床から7。7尺(棚上端まで)の高さに、水平の棚 「はち台」24を据え、南側には、勾配天井面まで達した6角形と2つの台 形を組合せた幾何モティーフのサッシ割りを施す嵌め殺しの「亀甲型大 耳」25を開口している。いずれも田上が好んで使用した意匠である。  外観は、図面では布コンクリートの上にレンガを一段積み、上を下見 板張りとし、1階軒高9尺、2階軒高20尺とある。正面ポーチや南北両 翼妻面の転びをつけた破れ破風 2階のシックイの柱型、書斎の破風を 突き抜けた5角形の開口部など、特徴的なデザイン要素を展開しながら も、全体にごろっとした印象を受ける。規模が小さく、翼部の延びが足 りないためであろうが、後の「雪国的造型」住宅デザインへの模索期の 表現といえるかもしれない。 10-3-7=坂敏男邸(1927) 小樽市見晴289現存  歌志内の住友坂炭破㈱経営の坂敏男が、1927年に別邸として建てたも のである。敏男は、炭鉱経営の2代目。東京の家で育てられ、慶応義塾 大学を卒業後、炭鉱経営にあたっていた。  父市太郎は、札幌農学校学生時代に、日本の地質学、鉱山探査の父と もいえるベンジャミン・スミス・ライマンの空知方面調査団に助手として 参加、その後1888(明治21>年、懇請され北海道庁技師となった市太郎は、 ライマンの志を継いで、夕張空知炭田の鉱床調査を実施1894(同27)年 には鉱区出願、翌年石狩石炭㈱が起業したが不振のため、1913(大正2) 年から独立経営を始めた。1917年に坂炭破株式会社経営、1924年に住友 合資会社と共同経営、翌1925年に住友埋炭磧株式会社と改称し、1930年 住友炭破株式会社となった28。  敷地は国道5号線脇の郡上にあり、銭函市街や石狩湾を望むことがで きる。当初は、坂を登って山を背景に家を眺めながらのアプローチであ ったが、現在は家の裏側から敷地内に入る。歌志内に本宅を構えた敏男 は、ここに農園構想を持ちこみ、牧場や果樹、花を小作人に作らせるな どし、なかでもダリヤの栽培にカをいれた。39歳の若さで他界し、一家 は1931(昭和6)年に東京へ転居したが、その後1944年に疎開を兼ねて住 宅として使われ現在に至っている。  海洋(街側)からの見え方も考慮にいれたという建物は、薄いピンク 系に塗られた横羽目目板打の外壁、十字形の平面に合わせた赤い切妻屋 根の外観から、竣工時から「赤別荘」と呼ばれたという。切妻屋根のこ 一 324 一 登1‘          i Dξへll E.徹     一     鳥’レ l l ; [ b     美 1     ‘     q 参 ミ   , 」     ;;    撫し。 ?竃。 qΩ  4詣 〃 @’ @ト    馳岬A @督 一  r o τ墨‘晴’ Q _5 @   桑=     ___   解 .   , 曜 %  曽一        「 一 @ 匹 @ 窒 fミ幣㌔  . 輩 酢   … @q    o 卿 @(】   Dr     oo @噂 奮匿 4凧 @二 @ ? ←    全ゆ      ・ P「  L  霊 1.、w   1 @蟻 b ミ o 吹A ム」質. か ㌻ ラ       騨 一 す        婆 @       塾  箪 x・誓 図10-3-25坂邸原案(1937.3.10) α二 L gen .49 鱒5 ゲ鳳卜三一自 N 識 レ し 図10-3-26鄭重平面図(『田上義也建築蚕集』) 一 325 一 一【j ・^」・・難燃 畢、蟹 27:『二三邸新築設計図平面図(階下)』  (1 927. 3. le) 28:『田上義也建築査集』p.79掲載平面  図 29:『田上義也建築査集』p.80 図10-3-27建築中の佐田邸 30:『田上義也建築賛集』 p.68 ろび、軒と窓の納まり、目板打ちの外壁、2階妻面の2本の柱型など、 ライト的モチーフが随所に見られるが、屋根勾配はきつく、2階の腰壁 が裾広がりになっているなど、全体にズングリした印象を受ける。水平 に広がるプレーリーを意識しながらも、北海道の荒々しい自然の中では、 デンと腰を据えた安定感のある外観の方がより適切と判断した雪国的造 型を求める田上の意図であろう。  中央の広間と麻手に縁側を廻す寝室(10畳)の左右に、「食堂兼居間」27 「望楼」28と、「エントランスホール」28「台所」28「バス」29「トアレット」2S 「女中」28室を長く伸ばした十字平面で、海側(北側)のアプローチは「入 口の感情をアクセントづける」294本の列柱で支えられたパーゴラが覆 い、居間前にはアプローチに呼応する列柱の並ぶ「テレス」29が配され、 居間や広間に通じるドアを開くと潮騒や海岸を走る汽車の音が遠くに聞 こえ、また夏の涼風も吹き込むといった、自然との交歓が意図されてい た。  居間の東側端部は、原案(1927年3月10日)27では、八角形の大温室が 作られるはずであったが、実施では居間を矛型に引き締めたアルコーブ 「望楼」28を突出させ、四方に開口する連窓が、内部の視線を豊かな戸外 の風景まで導いている。入用的な空間はここでは不用との設計者の考え とも受け止められるが、こうした自然や外部空間との対話は、2階でも 顕著に表現されており、広間上に位置する「ゲストルーム」28の左右両翼 の「望楼」28は、「山と海との紫外線貯蔵」2S室を意図していた。  幾何模様のサッシ割りの連窓や2階ゲストルームのライト風の窓には、 部分的に青色ガラスがはめこまれたり、長押風の横材や勾配天井の押縁 のグラフィカルな構成が、田上らしい空間を表現しており、食堂の椅子 やテーブル、カップボードなども田上のデザインであった。 10-3-8:佐田作郎邸(現小熊自邸)(1928) 函館市元町32-10現存  街区のほぼ中央にあり、2階部分がわずかに仲通りから望まれるだけ で、人目につきにくい位置に建っているこの建物は、海産物商佐田作郎 が、竣工後2~3年で手放したあと、函館の著名な財閥小熊幸一郎の娘 夫婦小熊小五郎の住宅として使われてきた。  庭に突出した八角形の応接室や居間開口部の亀甲形モチーフのサッシ 割りの連窓などに田上らしい意匠が展開され、外に大きく張り出した軒 (軒出3尺)の扱いなどは、ライトのプレーリーハウスを想起させる。  L字形の平面は、広く開放的な階段ホールを中心に和室部と洋室部に 振り分けられ、洋室部は、玄関ホール右に八角形の応接室、左に「リビ ングルームと食堂」3。、台所、「メード」30室、「内玄関」30から構成され ている。応接室は、2面の壁体以外はすべて「『ひまわり』の如く」30ガ 一 326 一 ラス窓とし、東側正面には田上好みの「切妻の高窓」30(亀甲型大窓25)を 和室部は、広縁に面して仏間(8畳)、座敷(10畳)の続き間とし、L字の 隅部にのる2階は、広縁付きの「客間」3。(8畳)であった。ゆったりとし た階段ホールは、洋室部と和室部をつなぐ「重要なる任」30を果たすとと もに、「ボイラールーム」と「サービススペース」3。を兼ねていた。  建築壼集に掲載の平面(図10-3-29)は、現状にほぼ一致するが、残さ れている設計原案(図10-3-30)では、座敷の北側に板間の「休息室」31を 置き、「コシカケ」3zを造り付けた出窓を設けて、海への眺望を配慮した 設計であった。 梁伏図と断面詳細図から、屋根勾配は5寸5分、地盤 から端隠しまで9尺、軒高10尺3寸、座敷天井高!0尺(畳上端より)、居 間天井高9.4尺(図面上実測)である。  構造部材寸法を以下に示した。 棟木・母屋 橿木 敷桁 軒桁 陸梁 敷梁 隅木 2階真東 真東 4寸角 4寸×5寸 4寸×6~7寸 4寸×8寸 4寸×8寸 4寸×1尺4寸 5寸×4寸 6寸寸 4寸角 端隠し 軒平物 軒天井裏板 大引 土台 根太 根太受け 柱 1寸5分×ユ尺 ユ寸×6寸 4寸×6分 4寸角 4寸角 2寸×2寸5分 2寸×4寸 4寸角 31:『佐田作郎氏邸新築設計図』(1927.  7) 図10-3-28佐田邸応接聞 (“T/71 .一.t一          一:) im‘一一 Flt’一:1,一一TF7“’,.    曳、ノ                 t 図10-3-29佐田邸平面図(『田上義也建;築測索』) 遥母、   一 .一一一一一H一一一.一h一一一一一一一一一一 尋へ @              せ唱 ’ f ’ 一足イ1弊色旨勒  聰し臨〒薗一:僑_ ‘醍‘《・喝’ 図10-3-30佐田邸原案 10+9=上田久寿直示(現MOA世界救世教北海道地区本部小樽布教所) (1928) 小樽市操舟5-8現存  r雷雨』で、「作品四(筆者注:小熊邸)のヴァリエイション」32として 紹介された住宅で、かなり改変されながらも坂牛邸(10-3-5)の南隣りに 現存する。  施主の上田久寿子は、初代小樽新聞社社長上田重良(1862~1915)夫人 一一@327 一 むヱもマよサいぜリリほし  コ        色魂’ 32:『田上義也建築蚕集』 p.55 嵩k   尋      むミノお  ぶさ 願、。諮.臥、♪一.、 一#一FLge.rT一一 ’.. ’. V 離離鍵盤難燃辮畷糠蝦難畿醸撫無難㌧・冨婆騨甥ご獅響》野ず炉一∴潮騒票引照lj                                                          産 1=ma一一M-t”’W’一一一一一’一”一’=一’一’一一 !   ヒ ハ さ一   ・ 噌詩 “鷲} V ▼ 一一幣 e       』 , , , 塞 4 … 凋 梅 獅 」   魅 く 毛 ;         翫   一 . 一   「     剛 . 斜 吋       、 ’ . 篇 「 『   ギ ー 、   ’   一 、匡 3 … 飛     沖 ん 陵 一3 図10-3-31佐田邸断面図(台所・食堂) 33:MOA世界救世教北海道地区本部小  樽布教所による。 34:加藤誠『田上義也の初期住宅作品』  (1983年度北海道大学卒業論文)   ,門. 多 講加齢 図10-3-32上田邸南側外観 レ 図10-3-33上田邸金物(住宅は坂牛邸)    _.拠・』認 図10-3-34上田邸塀の田上のサイン 図工0-3-35上田邸平面図(『田上義也建築三二』) で、重良の死後社長を継いだ。1919(大正8)年には娘のスマが坂牛直太 郎と結婚している。  竣工は、坂牛邸完成の翌年で、総工費15,000円。竣工を記念して門柱 脇の煉瓦塀土台に「Build.1928 AD T,Yoshiya」のサインが残されている。  久寿子の死後、坂牛スマ、上田正直、堀岡久子の共同所有であったa3 が、1962年10月s3土地付き300万円で小樽市に売却され地域のクラブと して使用34、1973年12月本野雄次郎商店所有、1979年1月からMOAの 所有となり、大幅に増改築を受けている33。  図面資料としては断面詳細図が残るのみであるが、概要は『壼集』掲 載の図面から知ることができる。敷地の北寄りの門塀からのアプローチ は、正面の低い袖壁の目隠しを見ながら、手前で直角に南に折れ、ゆっ たりした前庭を通って、南側花台を兼ねた袖壁で受け止められ、玄関へ と導かれる。玄関を入ると、テーブル、作り付け長椅子などを備え「小 応接を兼ね」32た広いエントランスホールで、南に応接室、北に階段室、 スペアルームを置く。応接間には、田上好みの「亀甲形大窓」32を開口し、 「東、南、西の三方より採光し」32ていた。  「日本間を主体として構成」32した平面で、ホールの東側、東西に長 い中廊下の南側に茶の間(10畳)、居間2室(8畳、6畳)の和室を一列に並 べ、東端「テレス」32に面してサンルーム的なホールをとり、北東隅の 石倉と連絡している。倉は既設のものと思われるが、縦長の開口部など は、田上が手を加えたものであろう。  廊下の北側に並ぶバス、台所、勝手口、メード室は、田上の住宅作品 に共通する北風への対処であるe 一 328 一 10-3-10=アパーートメントハウス(1925) 計画案  第1回田上義也建築作品展覧會に出展した計画案で、着彩された平面 図には1925年3月の日付が入っている。新聞評のように「在来の貧弱な 長屋建ての世界を全く脱している」s6作品といえる。  当時のアパーートが、あまりにも「孤立的で」「社交性も成長の可能も見 られ」36ず、「貴い人間生活」38がすっかり埋没され、住民生活不在の状 況であると批判的であった田上が提言した「温かい人間味」35で「手をつ なぎ合う」35アパート案であった。  周囲にゆったりと緑地を持つ敷地に計画された住棟は、!階軒高9尺 と全体に軒高を抑えて水平性を強調した一部2階建てのプレーリースタ イルの建物で、戸建住宅にも通じるデザインを展開している。住棟中央 には、背後のパーゴラに続くアプローチ道路が貫通しており、同じ形式 の棟が、いくつか続くことを想定した計画であったのだろう。  アプローチが:貫通する住棟中央通路は、腰掛や机が置かれ、一種のコ ミュニティースペースとして考えられたものであろうが、この通路の左 右に対称に、階段室と居室群が配置され、階段室をはさみ、前庭側に勝 手口、後庭側に主玄関が置かれている。2階平面の記載はないが、下階 よりも小規模な居室をもつ2階建てアパートの計画であったと推定され る。  1階住居は、ラテン十字形に近い平面で、交差部中央に円形ペチカを 置き、主軸と45度傾いた衝立(高さ5尺6か日)で、4室に分割している。 野球のホームベース型に分割された部屋は、6畳相当の矩形と1坪程度 の三角形を組合せたものと、居間と記載された4畳半相当及び4畳相当 の部屋を含む戸部の部屋、3坪の食堂に分割され、食堂に続いて台所、 35:北海タイムス(1925.4.26) 36:小樽新聞(!925.6.17)「正しい建築   (下)」 s’ @産 雌  盤1       ’転四’ぬ     じ 棚1 O ◇  孟 懸競 M 1 7.i .f 裏 、画 配)蘭’・ し  コ バr£く・ ノ 》聾、な 、ul ㌻  δ  1    ・・渥。 、三、  一 . 四面論判 ・  聡  !.r     L.〈xa llliliseck:”’sNi .,. 橋 感 . 盤 僖 円 も   ~ 面 漉 。 F 熊 4槻ノや幽ドヤフや噴ノ尭    ヘノ∴並ζ へ燃補’き’・… ” し 6 ⑨ 一 「 C   口 霜 、 」 ? 讐 だ =ロ ノ ㌔ 盤 、     ~ 、 . 議 ザ 。 小 )》 b 渥 ’ 哩 . ●         ㍉ 馬 馬   ~ γ 、 -   \ 昏 塁_・・ 」 [れズ、ノ tr9 d同 時e一 ㌦瀦 灘、     ∠刷 剛 幽い短     hg ボ~ご脳L》ン』一 門・歴、〆ぜノ 図10-3-36アパートメントハウスの基本設計 一 329 一 」 / つ る ’ , 、 / , 白 、 」 ー ー へ ・ 凄 、 匠 7 ブ ♪ ご 分 る る 盆 や 一     ’   一 歪 5 望 } } 爵       2 5 π 、 一 隔 錨 鑓 賢 し   ぜ 、 轟訂へ 轡黙認購鍵難騒騒難灘懸騒灘離開藏懸悪難難欝欝騨罫塁;∴笥曝醒響搬白白1欝凝:饗三三隷難山1鞭鍵二二響二三濫罰 潮懸識・一蹴  犠鉱灘・撫一 、赫 1、 一撃 @=:・k 36:『田上義也建築螢集』 p.41 風呂、玄関ホールが長胴部分を構成している。室名は、右側住居部を漢 字で、左を英語で記載していた。  単純な平面形を、円形ペチカと成の低い斜めの間仕切で変化をつけ、 各室はすべて庭に面しており、また左右の財部から中央通路側にむかっ てセットバックする1階ファサードは、来訪者を拒むことなく、招きい れ包みこんでくれる温かさを表現したものであろう。 10-4 「雪国的造型」住宅  1930年に出版された『田上義也建築董集』には、田上が意図した「雪 国的造型」についての一文がある。そこでは「凡ゆる雪欝欝要求は、一切 が建築的創造の手を経ねば、厳しい自然の弾圧から奪還出来ない。」と し、自然と郷土と人聞生活の本質の正しい理解を通じて発見されるべき 北国の建築条件に適した雪国的造形が「整然と組立られた、水々しい体 型を発映せしむならば、北方こそ新しき世界の根元となるであろう。」 と主張し、これまでのライト風デザインを越える雪国向けのスタイルを 提案した。  寒地住宅にふさわしい住宅デザインの模索とライト風からの脱却を求 める姿勢は、初期の段階から見られたことはすでに述べたが、後述する 片流れ屋根形式の習作もそのひとつの方向であった。  こうした習作と並行して提案された雪国的造型は、軒先まで1、2階 を通して立つ柱型、この柱型から北側へ葺き下ろす屋根表現、垂直なは しご窓など、高さや垂直性が強調され、南面に大きくガラス開口をとっ たファサード、保温性を保っためのコンパクトな平面構成などが特徴的 である。四面の柱型や内部装飾などライト風の表現も維持されており、 ライト風デザインを意識しながら自己様式を確立していった過程をみる ことができる。 10-4-1=吉田角次邸(現袴塚厚三居住住宅)(1928) 札幌市北16条西4丁目 現存  現在の所有者は留辺蘂町在住岡崎忠一で、1955年代に岡崎が北大医学 部教官から購入した。1989年から袴塚家が居住している。  間口6間、奥行15間の長方形の敷地に建つ住宅で、1階床面積27.75坪 (91.58㎡,物置を含む)、2階8.75坪(28.88㎡)、延べ36.5坪(120.45㎡)、 豊集では「吉田夫人と子供達の家」と紹介されている。  一部2階建ての主棟とアプローチ側に「半島」38状に突出した「食堂兼 一一@330 一 躍謬:黙黙騨騨難灘灘離雛雛灘灘灘難難懇懇懇願騨 居間」36とに「抱かれる」3G入口は、「港」3sにたとえられる。札幌軟石を 積んだ門灯は、さしずめ灯台の暗喩であろう。  玄関ホームの左手に「メード」36室(3畳)、左手壁をはさんで台所、風 呂、物置が続く。ゆったりとした階段ホールの北側に「小供室」s8(6畳) と居間(6畳)が続き、2階階段室北側に「小供室」s8(4.5畳)と客間(8畳) が置かれる。  現在はモルタルで塗られている外壁は、布コンクリートの上に法面を つけた「ヤキスキ水切り煉瓦」37をのせ、付け土台、水切り上を幅6寸の 下見板を羽重ねした鎧下見板張りとし、出隅を小口留めとしている。屋 根勾配6寸、軒高はGL(地盤面)より20尺、斜めに張り上げた軒天井は、 1×5寸の持送りに4分板を張っている。  左右の柱型と上額縁、花台で囲われた、彫りの深い2階南側開口部は、 三角破風をつき破り、軟石積みの集合煙突や階段室隅の腰から2階上風 下までの縦長の「ハシゴマド」38などと共に、「華昇せる軸様の象徴」3Bと しての役割を担っている。  !階居間の南側窓は、2本の柱型と上下の額縁で囲われるが、十字平 面の住宅に見られるような大きな開口部とはせずに、額縁上をシックイ で仕上け㌔中央に菱形の小窓をあける程度の閉鎖的な扱いをみせている。  玄関・食堂廻りの断面詳細図(図10-4-3)には、「空気まど」37や「Vent」 37 フ書き込みがあり、空気の流れを矢印で示すなど、換気への配慮も見 出すことができる。 … 摂 ㌧ ド C 吃 k 農 、、 / 匡 昏 跨 蔭 一驚 菰 二 野 ド . . 運 1 、・ 燈IN 芝一一@黛 一義\’ rk’ 鋤 ↓ I l l I ↓ る T \ 雪 ノ ” P ○癖軸 tt” LL i   !1 番b. 図10-4-2 吉田邸設計図 一 331 一 図10-4-1吉閏邸南外観 37:『吉田角次氏邸新築設計詳細(本玄  関、食堂)』(1928.5.11) 38:『金子邸新築設計平面立体』(1927.  5.11) 馬  白白 ,幽、       ,rlグ\    ,♂・4ざ , 曝 ヨ 馨ヴ ・詫一 馴:1 ー ー ー I I 一 障 - 嘱 1 , 『 L ::’.lil一..”i’”L.        ミと        ムリ         鋤 図10-4-3     (本玄関、食堂)』 「 一 盛 ゼ 膵 置 曼 吉田邸食堂断面図(『吉田角次氏子新築設計詳細 ザ冒 !・:層} 図10-4-4小川邸 “ i薫/一 ’霞。レ, /S“s,. 「、 u ・♂ B・艶 ㌔ 、         = 図lO-4-5小川邸平面図(『田上義也建築書集』) 歴 麺 ロろ  1 , 了 講 t] D、鎌強’, 図10-4-6 小川邸南立面原案 39:『田上義也建築喪集』 p.36 10-4-2=小川隆子邸(1928) 札幌市  1924年結成の「北光トリオ」の一員ピアニストの小川隆子(小川義雄夫 人)の住宅で、1階23.375坪(ポーチ含む)、物置1.5坪、2階13.75坪、延 べ38.625坪(127.5㎡、物置を含む)の小住宅である。  壼集では「一九二七年作品」とされているが、図面「DeSIGNE(ママ)FOR MR’ S OGAWA’SHOUSE」の日付は、「1928.3.20」となっており、「田上義也 建築作品展覧会目録」(1930年)でも1928年作品としているので、ここで は1928年の作品とした。  ペチカを中心に、居間(南)、食堂(西)、エントランスホール(東)の3 っの空間を連結し、居間の南側に温室を伸ばし、北側には台所、風呂及 びサービスヤードを介して物置を付属している。建物本体の西側には実 現しなかったプールとテラスが、東側には玄関とパーゴラを張り出して、 弱いながらも東西軸が意識されている。  2階は、「ベッドルーム」(6坪)「スペアルーム」(6畳)「メード」39室(2 畳)で構成されている。寝室のクローゼットは外側に突出して、後に「雪 国的造型Jの主要なモティーフの一つともなる2本の柱型の意匠として、 まとめられている。  原案では、居間南側の窓は2階窓台下まで達する大きな額縁で縁取ら れ、装飾的な欄間や花台を持つ開口部のデザインであったが、実際には 温室が付属し、額縁だけが実現している。  総2階建てに近い主屋の成の高い外観や、黒っぽい下見板張りと妻壁 軒下、柱型の漆喰壁とのコントラスト、2階窓上から軒下までの高さな ど・田上の十字形平面の住宅に見られる意匠とは明らかに異なっており、 前述の柱型とあいまって、のちの「雪国的造型」スタイルの萌芽が見られ る作品である。  この住宅は1931年に離れと玄関部が増築された。離れは、台所から西 側にL型にまわした縁側に面した和室の続き間(8畳、6畳)とし、座敷部 一 332 一 は高さ16.60尺(Gしから)の軒先から北側に4寸勾配の片流れ屋根を架け、 縁側部は4寸勾配の差掛けとした。玄関部は当初の計画にあったものの 実現のようで、ライト風住宅にもしきりに採用された煉瓦造の花台も備 えていた。 10-4-3=東武別邸(1928) 旭川市7条13丁目右1号  政治家東武(1869=明治2~1939=昭和14)の旭川の別邸である。東は、 1928年衆議院議員に北海道第2区(旭川市および上川、宗谷、留萌の3 支庁管内)より立候補して、2月20日の選挙で当選している40。別邸の新 築もこのあたりと関係があると思われる。  東武は、奈良県十津川郷士の家に生まれ、1890(明治23)年東京法学院 (現中央大学)卒業後渡険し札幌製糖会社に就職したが、1892年北海道庁 理事官浅羽靖の推薦で深川村菊亭農場支配人となり、十津川移住民の中 から百戸団体を組織してメムに移住し、深川市の基盤を作った。在学中、 水害に見まわれた郷里の住民を説得して、空知支庁新十津川村開拓の道 を開いたことでも知られる。1901(明治34)年第1期道会議員選挙に当選、 1907年まで2期6年道会議員をつとめたのち、1908年第10回衆議院議員 選挙に出馬39歳の若さで当選した。その後衆議院には1915年の第12回総 選挙で破れた以外は、1939年まで10期29年間国事に、また立憲政友会の 中堅党員として奔走した41。また1898年『北海道時事』創立に参画しぐ 1901年道史と『北海道毎日新聞』 『北門新報』の三紙を合同して『北海 タイムス社』を創立し、理事となり、その後短期間だが社長を務めた。  住宅は、書斎、応接室など「公的生活」42空間を収容する2階建て主棟 の東側に、平家を接続した「ダイナミッシュなる雪國的造形」42の作品で ある。西側正面左右の柱型は小窓をはさんだダブル柱とし、南側に5本 の柱型「防風柱」4eを並べ、また外壁仕上げも、設計図では目板打ち下見 板とあるのに、実際にはモルタル仕上げ(「人造石仕上げ」)としているの で、一連の住宅作品の中ではやや趣きの異なる外観意匠となっている。  敷地の西側に建物を寄せて、 「奥庭をアングル型にとり、最大限の廣 い展望を利かしめ、ローンを以て埋」42めるといった外構についても注 意が払われた。  主棟南側、軒の出4尺の切妻屋根をかけた突出部は主玄関で、南面の 破れ破風と五角形の欄間を付けた大きな開口部の組合せは、田上の一連 の住宅作品で書斎や応接間に多用された意匠である。玄関南側に煉瓦の 上に札幌軟石の笠木を置いたフラワーボックスを造り付け、 「冬は地下 より浸透する厳しい寒氣に封ずる抵抗となり、夏は草木の繁みに依って 涼風を内部に導き入れる」42ことを意図した。 一 333 一 鐵       獅L簸『 欝欝灘懸轟轟纏i購醗灘鰻麟、灘・欝 灘灘  机’ ぐ謬A 幹  ‘ 腎 「’ @1’ゴ・・”、}菰ド 図10-4-7東武邸南西外槻 40:『旭川市吏第一巻』(1959.4.10)「第  三章第十一節衆議院議員選挙」 41:『新十津川町史』(1965)、 『北海道  大百科事典』(198D参考。 42:『田上義也建築叢集』 P.67 踏 」 灘慧難:纏縫難魏魏麟縫嚢難購凝議袖隅き墾鷲轡轡響禅欝欝謂艶し糖5飛轡覆轍糠購欝欝翔                                                         ’ _ メ“ 垣   、 酷 43:『現代札幌人物史』 (札幌現代社、  1931. 11. 23) pp. 80, 81 44:鬼窪重夫氏(1927一)による。 図10-4-9 鬼窪邸南側外観(1983年撮影) 45:『鬼窪氏邸新築設計図 札幌円山、  NO 1.階上、階下平面、東、北面の姿  図』 (1929.6) 一 阪 O へ . / :     へ     の   り こ γ ・ し 一 「 レ 量 ー ー へ ) 一 - … ! 一 ’ 膳 が 辱 ・ ・ 轡 ・ ・ ’     冨 嗜     7 1   .一一←1          詞1 図10-4-8東武邸平面図 ・卜吸 i ..,一に._轟  玄関に続く「エントランスホール」42の東に書斎、西に応接と女中室、 北側に「内玄関」42、水廻りを置き、2階は、南側に広縁を配した「東氏 の居間」42で、「本間」(10畳)、「次の間」42(10畳)の続き間である。下階 の書斎の東に続く広縁(巾1間)の北側には、円形ペチカを中心に「三つ のリヴィング」42である居間(8畳)、寝室(8畳)、茶の間(8畳)と台所を田 字形に配置し、 「採光と内部採録に依る温度の調整は零下四〇度極寒に 封して、春の如きペチカに触感に依り、エクセントリックな生活をやわ らげ、健康を増進せしむ」42ことが意図されていた。 10-4-4=鬼窪重作邸(1929) 札幌市北1条西26丁目(旧圓山表参道23)現存  1924年に創立した札幌民衆金融株式会社の専務取締役43鬼窪重作(18 80~1973)は、「大衆の利便を、第一・目的に置」43き、「商務厳重以外に非 道を行はず決して温情に背かない」43人物として知られた。長野師範を 卒業後、2ヵ年間県下の小学校の教壇に立ち、その後渡米し、20年間の アメリカ生活後4s、1922年3月シアトルを出発し横浜着、一時夫人の実 家のある軽井沢に滞在後、同年10月8日札幌に住居を定めた44。札幌の 風土が長年住み慣れたシアトルと似ていることが理由の一つというq4。  北1条通り(旧札幌神社表参道)に面した敷地は、北側8.5間、南側14 間、長さ22.5間の台形で、中央やや南寄りに建物が建ち、表参道側正門 からアプローチするが、広い庭の樹木が緩衝帯となっている。  南面の垂直性を強調した外観は、小粒ながら力強い印象を与え、北側 に吹き下ろした屋根は、「雪国的造型」をよく表現しているとともに、後 述する太秦邸の造型を予感させるデザインといえる。  東西に長い建物の南側に2階棟を突出させた単純な平面形で、1階は、 「広場(ママ)」45(玄関ホール)の南側に「応接客間」45(5坪)、北側に台所、 便所、風呂など水回り部分を置く。「広場」から1間幅の広縁が続き、北 一 334 一一 伽, 晒li冊h 「菰慌 騨  ee lIlマηlm, ,認里雌1,  ね 図10一一4・一le鬼窪邸立面図(左南面、右西面) ’血 e _一属~♪ 1 ep. t l r t ・ , 崔   療爽( Nt”・e   嗣二     箋】  、倉、{ 卜 1 1 魅輪 ’イ@ ’計k川   rレFt♪ん◎ ゆ触 P噌げ億哨   i   嘩 り ’ 4    なサ      ミゐ ) . ;         ,添一一一 図lO-4-11鬼窪邸平面図(『田上義也建築査集』) ,7㌧,ク /   なサ × _ _『     闇 /澄 \ 鴫   ρ 蛯k L亀飾P轍蜘靴 一  一 塞 套 ≒ . 難 一一…一 ッ r           -           1 二 一   , 墜葺総 喫       墜   憧己ヨ蓬 二] “ 謬 i 回2q緬9@ 彩暢‘舳一= N   三 _:二 � _ } }  }撃P亡 、1 一 _     一      一 ‘ 謝 = 1 ら 」 1 o ● 撃 ↓ 亀 ! ゴ こ = ”野 1・ 陸値曾 鴨’砺 9 ◎ 購 , 一 かi鰯然馬 覆 1 摩 ¢脚 繊1一’ 飼■ 1 1 窪 醤 : ’≦へ 螢 8 4   甑」鱒 慶 『 .≡嚢…塁  ■ X,亀 オ 赴 1 亀 運」懸霞、 ∠・ A ’・ v 鴨 ; 電 h 博一ξ甕 譲 ! 罐 ≡羅謝糊 [  一 著X @騨 = 三 = 慈 篠薦  畠ayコ 、 一     噌 一 、 て 墓 『岡鴨  輪r、 多 讐9 一」.鞠 髄吋 勉 - 扇   晒碗●甑メ 磁 …』 @   贋な郭?士       8,㌦       、 図10-4-12鬼窪邸断面矩計図 一 335 一 も 鮮 驚 、灘 講’羅黒. かを盈 46:『鬼窪氏邸新築設計図縦断詳細矩  形の図』(1929.6) 47:『田上義也建築査集』 p.21 図10-4-13後藤邸 48:『田上義也建築書集』p.52 図m斗一14後藤邸南立面図 49:『後藤惣作氏邸新築設計圏 南面姿  図と東面姿図NO一・2(a)』(1930.2) 側に「茶の間」(8畳)、「本間」45(8畳)が続き・「茶の間」北側には「子供」45 室(4.5畳)が連絡する。広縁入口上には、三角形のアルコーブrrecess」 がとられ、八角形の照明器具とともに、ホール空間を飾っている・  ゆったりしたホール空間に設置された階段は・幅広の手摺を設けて段 状の花台とするが、田上の住宅に共通する仕様の一つである・  2階は、北側「客間」45(8畳)、南側「次の間」45(6畳)の和室で構成さ れ、 「客間」西面には丸窓が計画されていたが、上げ下げ窓に変更され ている。  陸屋根の玄関部前には、田上お得意のパーゴラも計画され、アプロー チまわりにゆとりを生むはずであったが、実施されなかった。田上の他 の作品でも、こうした傾向はよく見られ、図面修正の間もなく、現場で 変更されることが多かったのであろう。  遺存する矩計図46によれば、地盤から2階鼻隠し下端まで24尺、北側 平家部分13尺、1階階高12尺、ホールおよび応接露天井高9.5尺、2階和 室天井高8。5尺である。  コンクリート布基礎を建物全周に廻すのではなく、南側広縁から応接 間、玄関、風呂場下までとし、残りは独立基礎とする。2階床梁を1.2尺 ×4寸、土台、軒桁を3.8寸角とする以外は、通柱、大引、母屋、小屋束 など構造部材の多くで3.5寸角が採用されている。 10-4-5=後藤惣作邸(1930) 札幌市大通西27丁目(旧円山村7丁目)  「あらゆる雪國的要求は、一切が建築的創造の手を経ねば厳しい自然 の弾圧から奪還できない」47との主張を具体化した「雪国的造型意図」 の代表作である。壷集には、この意図についての田上の意見が述べられ ている。やや長いがそのまま引用してみよう。  「雪國の屋根は軍純にして力強きこと、構造の軽快なること、より防 寒的であること、直射日光配給への重大なる首櫓は、多量なるガラスの ファサードを必要とすること、併してそれが冷蔵庫の如く、或は海水に 浮ぶ船の如く、スガモリと吹雪と寒氣の神経に封ずるデリケートな防禦 ダイナミッシュな大風が楡の大木を倒す山の様な雪の吹溜り、零下三〇 度の切られる様な寒氣に反抗して建築も何等かの豪健として、智的なる 腫型を意圖せねばなるまい。」“8と結び、鬼窪邸(1929年)などもこの類 型としている。  外観を力強く引き締める南側正面の2本の柱型は、2階軒下まで垂直 に伸び、柱聞の大きな開口と、下階の下見板と上階の白いモルタル仕上 げのコントラストなどが、 「雪国的造型」の特徴であった。  竣工時(図10-4-13)の写真をみると、田上の作品にしては、玄関廻り の扱いがそっけないが、設計図“sではパーゴラを備えた玄関ポーチを予 一 336 一 定していた(図10-4-14)。  216坪のほぼ矩形の敷地に建ち、1階46.76坪、2階12.59坪、延べ59. 35坪である。平面は、玄関ホールを中心に明確に機能分割され、南に応 接間(5.5坪)、西に広縁付きの和室部分、北に女中室(3畳)や台所、便所、 風呂などのサービス部分が置かれていた。和室部は、1間幅の広縁の北 側に炉を切った「茶の間」(8畳)と「本間」5。(10畳)を並べ、茶の間の北側 に「次の間」5。(6畳)が置かれていた。応接間と2階次の間の柱型は、押 入や物入に利用されている。  鉄板瓦棒引きの寄棟屋根は、8寸5分勾配で、平面の出入りに沿って複 雑な形状にかけられ、北側では、台所附近で緩勾配とされながら、物置 まで葺きおろされている。  1階胴蛇腹下を小口留めの下見板張り、上を「川崎式メタルラス張り 下地」49のモルタル仕上げとし、2階軒高25尺、平屋部分で15尺とした4s。 出窓や柱型、外壁の凸凹など、やや雑多な要素で構成されている外観で あるが、1、2階破風板下部の白く塗られた帯が、全体をよく引き締め る効果をあげている。 r-1一一‘一’一”一一一一’”’一一一一”一r一’一e’一一一’一一      聲 L- 1-L... .mu 早 算 や 七 耐 騨 紅    ぬ ’七. 一r’! 一1 葺ヨ:                   躍 , 認       ・ 50:『後藤惣作氏邸新築設計圖階上・階  下・平面』(1930.2) I     I   ,       且 」 l r   一 「   一 ・曇 ・・ ’畠 ボ τ コ L 事 i L i ゐL.一D”. n..一1一一.:!’LIL.一.Lr.L’. 」 一   t   a   1   4   c   i   1   -   c ,一 ti 図10-4-15後藤邸平面図 10-5 片流れと陸屋根の住宅 a噌  田上は寒地住宅にふさわしい住宅デザインの模索とライト風からの脱 却を求め、 「雪国的造型」に到達する過程で、片流れ屋根や陸屋根形式 の住宅の習作を重ねた。単純で力強い雪國向きの屋根形式の模索や、十 分な採光を意図した形態表現として採用されたが、ライト風のデザイン をすすめる中で、当初から並行して採用された建築表現であった。古く 一 337 一 叢懸i難繋覆髄難難難1騰灘講難難欝欝幽幽幽幽幽幽欝欝欝1響, 選 . … 轟 一 夢 會’ ’ttt,”i・illli’/tti,ii.・.,i・徽璽蝋羅欝鑛義 51 :ノ」、樽新聞(1926.4.13) 52:『田上義也建築叢集』 p.65 53:『沢枝重雄氏のアトリエと住宅一平  面並に立体図.1928.5月作』 図10-5-1澤枝邸 は、1926年の自身のアトリエや澤枝邸(1928年)・東京小金井里美勝造ア トリエ(1929年)など小規模なアトリエ建築にみられるが・雪国的造型の 屋根表現にも大きく影響を与えており・壷草では城下邸(1930年)を雪国 的造型のバリエーションともしているが・本論文では太秦邸(1931年)な どのようなライト風と明らかに異なる住宅デザインとして結実していく 過程の作品と位置づけ、本節で扱っている。 10-5-1=百円の家(1926) 札幌市南3条西13丁目  田上義也の最初のアトリエで、北海道大学水産科教授西村真琴の住宅 の納屋を改造した5坪強(10.5畳程度)の小品である・大きなガラス開口 をもつ片流れ屋根の建築で、100円で完成した。「柔らかな光を思ひの儘 採り入れた明るい」51オフィスは、同時に自身の建築を説明するための モデルルーーム的な要素も強かった。  「厳凍(ママ)に対して武装した中にも心からの住居と云ったアトリエの ある住宅を建てたいものと常に努力して居ります」51と語る田上の「生命 の躍動が見られる」51とは新聞記者評である。このアトリエで、関場邸 (1926年置や札幌北一条教会基本案の設計が行われたのである。 10-5-2=澤枝重雄邸(1928) 札幌市北2条西22丁目(明円山村248)  アトリエを併設した画家の小住宅である。住宅部とアトリエを20度ほ どの角度で曲げて接続し、間に玄関を置く。 「外客及アトリエとの関係 を断」52つよう意図したもので、設計図53では、玄関東側の住宅部は、 食堂(5坪)、居間(8畳)、寝室(8畳)を一列に並べているが、垂集では 室名の記入を、食堂を「応接間」52、居間寝室を「リヴィング」52としてい る。  開口部も、設計図では各室ごとに大きさの異なる窓を計画しているが、 豊集では「南東のノルマルライト」52を内部空間に採り入れるよう出窓を 南面から東面まで廻して、「大いなる硝子のファサード」52を造りだして いる。  アトリエは、東京小金井の里美勝造のアトリエ(1929年目などと共通の 外観をもち、北の「採光を蒼空より仰ぐ」昼2よう意図され、北側を軒高19 尺まで高くして開口を広くとり、軒先には田上好みのルーバーを備えて・ 4寸5分勾配の屋根が南側に葺きおろしている。  玄関上には、「客及寝室」52として利用できる「スペアルーム」52(2.75 坪)を置き、アトリエと逆に南から北に屋根を葺きおろして、「屋根は明 快に機能成形を表徴する」52という田上流の建築論を表現している。  小規模ながら変化のある外観はまた、 「毒忌(ヴォリューム)は、プラ 一 338 一 難灘灘灘騨饗轟轟羅繕1購灘麟蕪蒸轟轟灘熱緊緊糀嚇、 ンのムーブマンを発映して空間に交響する」52という空間論の実践でも あった。 x  3,・QXts  什    Stこミ、 F ’レ1 1 一 闘 } 1’ ,汐 ン 「「 i 鮎   { \ 含_1言 .皇;鼠  ロ 鱈賦  言 撃つ X-tk“i l 獣 図10-5-2澤枝邸外観、平面(『田上義也建築蚕集』) ’・ C,sv“’L>      /   ま\   四,ル.。  \    己    ↓  //      \ //           \ ・ 〕 誤 、 図10-5-3櫻田邸外観、平面(『田上義也建築蚕集』) 10-5-3=櫻田邸(1928) 小樽市  壷i集に「小樽小住宅(櫻田氏の家)」5“と掲:載された住宅で、1928年4 月9日付けの図面55が1枚残されている。平面は叢集とほぼ一致するの に対し、外観は四望と立面図とではかなりの隔たりがある。アティック 部分が、豊集ではフラットルーフをのせて外観に表現されているのに対 し、立面図では小屋裏に納められている。田上の意図通り完成しなかっ たものの、後の太秦邸(1931年)に結実するデザインの習作作品として興 味深い。  敷地は、南に日本海を一望できる断崖で、北は「山の園繍」5G地形であ る。  平面は、円形ペチカを中心に、「子供室」「茶の間」「書斎とリヴング」se が囲み、書斎の南側にサンルーム、北側に玄関と応接室、茶の間を結ぶ 「エントランスホール」56を置く。茶の間の北側は台所とし、さらに北端 に便所、物置、風呂を一列に並べ、北の寒風に備えている。 「階下より の暖気に防寒装置不要」seの2階「アテイークルーム」5eは、「父の書斎」 で、フラットルーフを採用している。  「凸凹の平面は単純な大屋根で覆はれ」58、延びやかなスケールを意図 したようで、立面図ではライトの代表作の一つウィンスロ咽笛(1895、 一 339 一 54:『田上義也三途蚕集』 p.40 55:『桜田良(?)治旧邸新築設計図平面、  階下、アチック等』(1928.4.9) 56:『田上義也建築盆集』p.40 黎裏鍵欝難i羅饗繋灘難欝犠騨・膿響藤遭 i 一 】 賄 淘 季 薯 」 ’    .,. 雛購難難饗響繋讐羅欝簿灘潟唾1 ギts一’4・  ,悔 ・si .{㍗  K ’1 t一 D’ 黷狽狽kib ;r P t t π “”…‘擁■’㌦’・〕て毒 ・ 毒 軽 罰 》 」 幸 零 垂 . 砦 鉛 洗 乳 セ ㌃ 重 縛 三 ∴ ♪ ・ 爵 、 蓋 弾 籔 灘 讐 図10-5-4城下邸南側外観 57:『城下良平氏邸新築設計図階上階  下平面.姿図』(1930.7) シカゴ)を想起させる雰囲気をもっているものの・延びやかさは消えて マッシブな印象を与える。寄棟屋根の大屋根は屋根勾配6寸5分・鼻隠 し下端まで(Gしから)10尺の高さとし、土台上7尺・鼻隠し(1寸2分×1寸 5分)下端に接する連続窓の成の半分までを6分厚の目板打ち下見板仕上 げとし、その上軒下まで高さ2尺部分を漆喰で仕上げていた・ 10-5-4=城下良平邸(1930) 札幌市南5条西21丁目 現存  医師であった城下良平の住宅として5,000円で建てられた・  壼集では、雪国的造型意図の後藤惣作邸(10-4-5)のバリエーションと しており、鬼窪邸(10+4)の初期スケッチには屋根表現や丸窓意匠など 類似のデザインがみられるが、南面の半円シリンダーが目を引く。  同様のシリンダーは、帯広志田病院(1934年)などでも採用されたが、 北国における日光の享受を意図したもので、雪国的造型のテーマのひと つでもあった。シリンダーは機能は異なるものの、札幌紀文茶屋(1932 年)、旭川パリジャンクラブ(1933年)、網走観光ホテル(1936年)、石狩 海濱ホテル(1937年)などのガラス張り螺旋階段として田上が1930年代に しきりと使う意匠のひとつともなった。  南面するシリンダーは、2階軒下まで垂直に25尺57の高さまで伸び、 そこから北、東、西側の三方向に屋根が大きくふき降ろされている。  内部は「エントランスホール」57を中心に構成されており、シリンダー 部にあたる「応接と書斉」57部分、「茶棚間」57(8畳)、「本間」57(10畳)、   1 t  冒 ツ 珊 ■ ヤ 励 ヒ ◆ 、 I I i l I 写弘 3 脚 雪 、 ( も 「 : ぜ 曜馬 隻 」 凸 q  じ @「 睾・雲 ρ 欄 鞭.婁象 口 のA “「 二 一  ,  一 @      事り 心 輕  置 . 噌 , ’ 馨 しかゴ 婆・グ・ 駄            コ     .一.蘇畢       カザ ひゆ 図10-5-5 城下邸設計図 xゐ  、、 × 康而事邑 開上」卜前 一 340 一 「広縁」57で構成される座敷部分と、便所、風呂などの付帯部分からなっ ている。付帯部分を北側に集めて全ての居室を南面させ、十分な開口部 をとり、また台所、茶の間、本間の3室間には、壷集では壁ペチカとな っているが、実際には円形ペチカが採用され、 「家族の為の健康に充分                                   58:なる採光と採暖、通風」58が考慮されていた。  2階は、シリンダー部をサンルーム、次の間(6畳)をはさんで客間(8 畳)と小屋裏利用の物置とした。  シリンダー部は、1階天井高9.8尺5s、2階9.3尺5s、1、2階とも3 5g: 段5連の横長ガラス窓(2×2.5尺5s)を建てこんでいる。シリンダー外周 には「煉瓦半枚積み」5sの花壇を添えている。  1946年自宅開業のため、応接室を診療室に、納戸を待合室、女中室を 薬局に改造した。その後屋根裏や広縁を居室として改造したり、台所を 改造している。 10-5-5=太秦康光邸(1931) 札幌市南1条西21丁目 施工:庄司藤吉 1995年3月23日取壊  旧小熊邸の西側に建つ太秦邸(10-3-4)は1931年5月施工、同年8月に 竣工した。施主太秦康光は、北海道大学理学部創設の際に化学科教官と して内定後、!928年から文部省在外研究員として2年間アメリカに留学。 帰国後、小熊教授の勧めにより旧札幌郡藻岩村大字圓山村46番地(現南 1条西21丁目)に155.25坪(512.33㎡)を借地し、田上に設計を依頼した ものである。  田上は設計の際、小熊邸とのコントラストを考え、それぞれの施主の 性格を反映させたという8。が、この住宅では主入の温厚で角のない気質 を表現したのであろうか。  建坪は45.58坪(150.4㎡)、庄司藤吉(1886~1960)の請負いで、請:負 金額は4,650円であった。  2階の陸屋根と片流れ屋根の組み合わせ、階段室の垂直の嵌め殺し窓、 局面を持つサンルームの開口部、ずんぐりしたプロポーションなど、旧 小熊邸などを代表とするライト風住宅とは異なる、どこか柔らかくふく よかな印象さえ受け、独自の作風を求めた到着点のひとつということが できよう。  屋根は野地板の上に柾葺き、さらに「亜鉛引月星三十番平鉄板小羽ゼ 五分以上折曲ゲ釣子ママ各二個所取付十二切」e’葺きとし、陸屋根部では 下地としてアスファルトルーフィングを何層も張ったという。仕様書で は、隅谷部同様鉄板をハンダ付けすることも指示している。この陸屋根 (仕様書では平屋根)の採用は、 「屋根裏に室内暖気を入れなければ、丸 太に雪が積もったように、雪は、とけずに高いところでは吹き飛んでし まうであろうと考えたから」62という。 一 341 一 『田上義也建築登集』p。70 『城下氏住宅新築設計詳細図』 図10-5-6 太秦邸北西外観(1983年撮影) 60:太秦智子氏による。 図10-5-7 太秦邸と小熊邸(太秦家蔵) 61:『太秦邸新築設計仕様書 一九三十  一年四月作 田上義也建築制作アト   リエ』 62:『田上義也建築作品抄』(1966。5.1)  p.37 . 気 唱 報 . 喧 , 塚 . 磯 . ℃ 講   欝、ぬ 冊 、 』 『 - 椴 一 斑滋 や 墜  外壁は腰部分を浅野スレート張りにするほかは・黒色系の「独逸ハキ 付ケ」8’モルタル仕上げである。  平面は、北側が電車通りであることを考慮し・玄関・ホール・便所・ 台所、納戸などを北側に一列に置く考え方は旧小熊邸と同様である・南 側には応接、食堂、寝室を雁行させ・南端をサンルームとする・玄関ホ _ルまわりが広くとられ、また土間とホール・階段室境は低い造り付け の下足箱と木製円柱が、非常にすっきりと空間を区切る・円柱上にのる 円筒形の照明器具や、玄関土間北側の円窓が空間を和らげ㍉訪れる者を 優しく受けとめた。  ホール南側の応接は、8畳相当の板間で、東側引き違い窓の下には造 り付けソファーを備えている。西側の6畳相当の板間の食堂や南側サン ルームとはガラス引戸で連続し、ダンスパーティ用に一体化して使用で きるようにとの依頼であったというeo.  南側いっぱいに開口部をとり、西側の寝室10畳分以外はサンルームと するが、寝室ではガラス窓の内側に大きな引き違い障子を4枚建て込ん でいる。寝室の西側には化粧室、便所を付属し、北側は風呂、台所など のユーティリティとする。台所床にはレンガ製の貯蔵ムロを備えている。 専用便所付きの女中室(3畳)も台所に付属している。  2階は書斎と客間(8畳)。陸屋根部分は書斎と北側の階段室を含むが、 北側は高さ8.5尺のはめ殺し二連窓として、階段室に明るく採光してい る。  この住宅では、幾何学的な形態を組み合わせた花台や置台、食器棚な どの小家具もデザインしている。いずれも小ぶりながら、美しい形態を しており、田上の多才な一面をうかがわせる。 r’r .1.t一   壁 こ旦署.i..,るエ ; o 田 レ 糞薗豊蹴. 重面門門. 串面寵{図. 、 杢 奪 、 、 斜 翼 ★籔飽陥敦 { πT’寮’ 璽i階三面。 理・.ヨ 藪戸L垂.藍_一_; 恕 τ 顔 図10-5-8 太秦邸設計図(太秦家蔵)  制止覧■敢. 訟r、の冒i’「dCo・ ●“讐1,2鳳4召. tアt▼ 一 342 一 10-6 インターナショナル・スタイルを意識した住宅  インターナショナル・スタイル(国際様式)とは、1920年代から50年代 頃までの近代建築の主流をなす合理主義的造形様式をさしているB3。そ の特色としては、装飾の排除、シンメトリーよりバランスの重視、量感 より空間感覚で建築をとらえてゆくことの3点に要約されるs3。  田上も住宅以外の作品では、ライト風を脱却する過程で、1930年代の 病院建築やホテル建築などで、意識的にこのインターナショナル・スタ イルをデザイン手法に採り入れているように思われる。田上が『芸術学 研究』の中で展開した建築論の途中に挿入された写真は、多分に編輯者 外山卯三郎(1903-1980)64の方針によるものと思われるが、第2輯には ル・コルビュジェとピエール・ジャンヌレの「メゾン・ア・ガルシュ」 (1928年、図10一一6・一1)、第4輯にはローベル・マレ・ステヴァンのバルザ ック街の小別荘(1926年、図10-6-2)が掲載されている。  藤岡洋保によれば日本の建築界がル・コルビュジェに傾倒するのは19 29年頃というB5が、田上自身も意識していたようである。  住宅作品ではインターナショナル・スタイルと呼べる作品は少数派で あるが、1930年代の田上の作風を考える上で見逃すことはできないであ ろう。 10-6-1=相内邸(現大谷邸)(1934) 札幌市南1条西28丁目 現存  施主の相内は竣工後2年で樺太に転勤し、その後先代大谷三郎がこの 家を買い取り、子息哲也の経営する大谷哲也商店㈱(雑穀飼料)事務所を 経て、三郎の長女宅として使用している。  軒の深い大きな寄棟屋根が東西方向に長く延びて水平線を強調し、南 北方向にはエントランス部分のポーチが突き出し、L字型の平面形をと っている。2つの軸線の交差部に2階がのっている。  主棟から南に張り出すエントランス部は、南と西に窓をつけた半戸外 空間の土間と玄関で構成され、南側と玄関東側には田上好みの「FLOWER BOX」B8が配置される。玄関に続くホールの西側に「ヒロエン」Beが続き、 東側は8畳大の応接室である。南と東に1尺ほどの出窓を張り出すが、 2階壁面も張り出すことによって平坦な壁面表現をとっている。ヒロエ ン(幅6尺)北側に「茶ノ間」66(10畳)と「客間」e6(12.5畳)の続き聞を並べ、 西側廊下をはさんで納戸、便所を配置している。ヒロエンの建具は、欄 間付きガラス繰戸「繰引雨戸」8eとし、戸袋も「硝子戸入戸ブクロ」SBとし て軽快に扱っている(図10一・6-5)。  主室北側の台所、勝手口、女中室などの配置は、他の住宅作品に共通 一 343 一 63:『建築大辞典』 (彰国社、1974.10.   le) 64:美術評論家。1922年北海道帝国大学  予科に入学。 『黒百合会』と『詩学  協会』を根城にダダイズムをキャン  ペv一一ンした。1925年詩と版画の同人  誌『さとぼろ』を創刊、モダニズム  運動を紹介。1926年札幌を去り、:京  都帝国大学哲学科に入学。武蔵野音  楽大学教授、造形美術協会理事長な   どを歴任。 (『北海道大百科事典』   (北海道新聞社、1981)『芸術學研究   第一輯』(第一書房刊)を1929年12月   1日刊行、第二輯1930年5月ユ日、  第三輯8月20日、第四輯同年11月20   日のうち、田上義也は建築論を1、2、   4輯に投稿している。 65:藤岡洋保『大正末期から昭和初期の   目本の建築界におけるル・コルビュ  ジェの評価』 (日本建築学会大会学  術講演梗概集(東北)1982.10)     〈 T. 求h .;  .娯り噸 N轡 図10-6-1 メゾン・ア・ガルシュ(『芸術     學研究第二輯』) 図10-6-2ステヴァン作小別荘(『芸術     學研究第四輯』) 66:『相内氏住宅新築設計平面図階上.  階下』 1 ≠ . 這 「 」 , - 旨 p 難霧灘縷灘懇灘購1難1欝蕪辮霧購難耀瓢騨蟹『門珊:芦欝驚響1濃認懇謬騨慰羅 ,stz, /Xx e 一〉 図10-6一’3相内邸南側外観 67:『田上義也建築査集』 p.82 する。  2階は、南側に3方向に浅く出窓を張り出したサンルーム(6畳)・中 廊下をはさんで東西に8畳の居室「LIVING RM・」eBを配置した・  「つば廣の帽子の如く寒気に抗する為に厳重に構成」s7された軒の深 い寄棟屋根や階段室の梯子窓など従来のモチーフが見られる反面・壁面 の凹凸や装飾が少なく、量感のないフラットな白い壁・窓台の水平線と 横長窓および梯子窓による壁面分割などの外観は・以前の作品に見られ ない特徴である。南面サンルームの基線と接する連窓の扱いも軽快であ る。同様の「横長の窓」87は、安部信明邸(1930年3月設計・図10-6-7)な どにもみられるモチーフであった。 ぎ\ 藤 図10-6一一4相内邸東側外観 図10-6-5相内邸「ヒロエン」 7L..一山===f1==pt=F=一i1!1== 『一 @=   .、。=藷,誤箪殻=≒や・門一一)=・ 図10-6-7 安部信明邸(1930) e urs v“w. 15セ日曜P乳韻. 胴 罰 L一 .一 i.. 丁 肥 幽 下口氏爾藤綱, 勘彫軸。糎 5験し【ソ脚.            暑 製」姦超1τεc’鈎.ぞAし覧ε匪1~・       ン循姫● 写 芸 顧 W 寒 素 , 「 罰 ㍉ 剥 碧 .i≒モヨ” 爆1・ 冨 『・調    ti一 コ口pt●●いPい晒●」”」 ,.e i 図10-6-6 相内邸新築設計図(平面・立面図) 一 344 一 tr19.腐も 10-6-2=倉田清純邸  図面に設計年や所在地などの記載がない作品であるが、田上の1930年 代の作風をみせる住宅である。1932年に「クラタ氏の住宅」計画案があ り、規模、意匠ともまったく異なるが、この倉田邸の初期案とも考えら れるが、確定には至らなかった。  この住宅の正面ファサードをパラペット付きの陸屋根風にみせる片流 れ屋根の手法は、正面性を強調する店舗やカフェー建築で多用された書 き割り表現に通じる。また吹き抜けのガラス開口の多い居間部分を額縁 でi縁取る手法も、十勝川温泉ホテル(1933年)、志田病院(1934年)、宇喜 代(1935年)などにみることができる。  この住宅の特徴は、中央の螺旋階段を中心とするコンパクトな平面と 吹き抜けの居間であろう。単純な平面に比して、外観が複雑で、相内邸 のような軽さのない点が惜しまれるが、コルビュジェのサヴォア邸(19 31年)などの螺旋階段を意識したものであろうか。同類の螺旋階段は、 北見郷土館(1936年)などにも見ることができる。  平面は一見矩形を意識しているものの、出窓や壁面、北側水廻り勝手 口などの付帯部分でかなり凹凸があり、この形状がそのまま外観にも反 映している。集合煙突を囲む螺旋階段を中心に、1階は南東側「居室及 食堂・応接」6B(3.5×4間)、南西側「ヒロエン」8s付き和室(8畳)、エント ランスホールをはさんで北西に「柱型」、「フラワーボックス」s8を備えた 玄関、北側に「女中室」68(1.5×1.5間)、便所、化粧室、浴室を、北東側 に台所と勝手口を配置する。2階は、西側に押入をはさんで子供室(2.5 ×2.O間)と予備室(2.O×2.0間)が南北に並び、北側にホール的な「スペ アルーム」68、東側に主寝室(2.5×2.5間)を配置している。  吹き抜けの居間の天井高は16.2尺、2階スペアルーム、1階ホール、 女中室などで7.5尺、 「日本間」69で8.5尺と断面図に記載がある。  断面詳細図によれば、地盤からパラペット上端まで30.0尺、西から東 へ葺きおろす片流れ屋根は、垂木(0.18×O.18尺)、「並四分」70厚の野地 板の上に、「ルーフィングニ号品」7。、柾「並二寸足」7。を葺き、パラペッ ト立上げ部とともに「亜鉛引網鉄板(月星印30番)」70を張っている。外壁 は「菱形ラス張建築紙下地」7。のモルタル塗り、玄関前の柱型も目地切り をしたモルタル塗りとしている。  外観意匠は決してスマートに納まっておらず、特に意識したと思われ る南側も、吹き抜けの居間空間を強調するあまり、隣りの和室、子供室 群とかけ離れてそれぞれがまったく別個の意匠として取り扱われ、小規 模な住宅にしてはまとまりのない外観となっている。完成度の高い作品 とはいえないが、ライト風を脱却した過程同様、インターナショナル・ スタイルを意識しながら、独自の様式を求めようとした田上の歴程を示 す作品のひとつとして評価しておきたい。 一 345 一 68:タイトルなし(倉田清純邸)平面図 69:タイトルなし(倉田清純邸)断面図 70:タイトルなし(倉田清純邸)断面詳細  図 s=e一==一・ 図10-6-1C倉田清純邸断面図 繊灘灘i灘灘醗羅懸灘1灘翻灘藩論鑛鰯轟轟1灘麟羅難霧懸魏魏難難轟轟糠騰糠…肇幽幽幽幽難灘羅灘灘灘欝欝灘鰹難1羅 ,・離 そ 無 5 舞 難 翁 ” ▼ “4 駐 ム ー 墨 て 開 ・  らゆゴサ ロヘ   ロ ね コP勘 ほ     ら ロ  ロ   轟繍 ご週.離ζ      一一 ・o val こ1 +1 孕 ロ 喫ゴ…“ 卜 ψ 1 _ゴ匿憲1二』耀   鯉愚 雫 - 藩 蟹   諏 μ ” . 卜       州 l l 周 趣 胤 3 } ド 舶 沸 、 U ㌧ . ’ 皆 ” , 艦 - ふ … 無 -   … ” コ」礁 , O ぴ 一 〇 ◎ b  ロレしサシユ 讐宮畠一ゆ 購・?1 」 ‘ ← か 0   5 ㌣ 陶 響 .se . ti,o 亀 蚤◎呉ム。 6Lo      6.騒   ・   6,ワ    齢v,e岡   6.c ・・  6e  ・鱒   ,   ne  _   qo   あ    」             6パ 図le-6-8 倉田清純邸平面図 1 e-e 一三 紳翻一・ 肋一・畿。・愚ρ・嶋サ 。 印・・つ一一会5圃6 g.b te.o ω ・ ” 即 :倉田清純氏住宅痂築設計圖。 }1 t.εVATi。N S SCALE IA,。。 ▼,9    幽   ,  噛                                P  一    一 A     荏「 、r、. @  1幽                I ? } , ■ . 8   1   1 鎖 纈 ,. 1 犀   26◎ P30 @即 P 二一、1   一 =二7     4 I」_一“.㍗_ f WEST SIDε                  SOUTH smε 「  噌 7噂  P         一τ層 D   一  :㍉).,、 ノ    \二齪冨 ミ 7  ,0 -  o 戸     圃 亀   曾 @・ r , ■ ρ , 7 r,層亨 噛 一r.  「 @曹 圃馬  }一冊,  隔胴 ㌧望」』 =・ 諺 ’ τ し            「煽 ■」ノ  亀 釦 , 1                       隔 “ ・ @・1 @!1 、  誌      み争’ 、  ,    ,、 . @           警}.・・ ゥ , 一 E:AST SπDE:                             NORTH sIDE: 図IO-6-9倉田清純邸立面図 一一@346 一 10-7 東京郊外の住宅作品  本節では、これまでみてきた雪国向けの住宅とは条件の異なる道外の 作品2点をとりあげる。いずれの作品も、北海道で展開したデザイン傾 向の線上でみることができるが、里美勝蔵邸の場合、アトリエは片流れ 屋根住宅に通じる思想を展開しながらも、住宅部分では田上らしさは発 揮できず在来の和風住宅形式をとっている。  もうひとつの外山邸は、雪国的造型要素を展開しながらも、雪や風な どの厳しい自然環境から開放されて、北国では控えめにしか実現できな かったテラスやパーゴラなどの開放的な緩衝空間をのびのびと実践して おり、また北の作品にはほとんどみられなかった白一色の外観など、当 初から追及したテーマのひとつである自然との交歓のほか、1930年代に 展開するインターナショナル・スタイルへの意識なども読み取れる作品 である。 10-7-1=里美勝蔵邸・アトリエ(1929) 旧東京府豊多摩白井萩町大字下井草字柿の木1911  画家里美勝蔵の住宅である。108坪75のほぼ矩形の敷地に竣工した建 物は、片流れ屋根のアトリエが付属するものの、住宅部分は瓦葺きのま ったくの和風であり、田上らしい表現はほとんどみられない。  遺存する図面は、1次案(1928年10月26日付け)、2次案(同10月28日 付け、配置の変更とアトリエ詳細の補足)と実:施案(1929年3月付け)との 3種類8枚が残されており、壼集では「ファサード及プラン成形は概し て東洋的性格を多分に表示する」71と述べているものの、田上の本意で はなかったものと思われる。  実施案では、敷地の南東に寄せられた招き屋根のアトリエが和風の母 屋に食い込む形で接続し、 「北の採光を必要とするアトリエを、正しく 雄心に引寄せるとき、プランのムーヴマンは土地をはげしく衝動する。」 71 ニいう。  「火灯窓」72をみせる北側玄関(3坪)は、たたきと畳敷き(3畳)部分とか らなり、右手にアトリエ(9坪)、正面に「本間」72(8畳)への襖が開き、本 間を通して「奥庭に呼応」7:している。本間の東側には「茶の間」72(6畳) が続き、南側「ローカゴ2が続き間をコ字に囲み、南側で3尺5寸幅、東 ・北側では3尺幅で、玄関の間と連絡している。 「ローカ」の北側に台 所と風呂、東側に女中室(2畳)、便所が配置され、甫東端に接続する「離 れゴ2(6畳)は、 「アトリエに相封」71し、「プランのリズムに於ける重要 なアクセンテーション」71として意識された。  母屋は、軒下の塗壁仕上げ以外を押縁下見板張りとし、離れは、濡れ 一 347 一 71:『田上義也建築蚕集』 p.73 72: 克]欝住宅とあとりえの 鯵 製 鄭 蟹 報 灘 脚 蒙 1 醗 ㌦」三 r:’n ;・隷・’ 暮 図1 O・一7-1 里見勝蔵邸・アトリエパi・一・・ス     (『田上義也建築査集』) 73:『里美勝蔵氏邸新築設計図アトリエ  縦断詳細』(1928.le.26) 騨’鮒 図10-7一一4外山卯三郎邸外観(『田上義     也建築登集』) 74;『田上義也建築書集』p.75 75:『外山卯三郎氏邸新築設計図井萩東  京』 (1928.10) 76:『田上義也建築査集』p.74 図10-7-6外山卯三郎邸リヴィングルiS     ム(『田上義也建築豊集』) 縁、網代戸袋、火灯慰下地窓などを備えた数寄屋風の造りとされた。 アトリエは、亜鉛鍍鉄板瓦棒葺きの招き屋根であるが・後述する1次案 とは、屋根形態、南側正面開口部などもすっかり変更され・平凡な意匠 となっている。  これに対し1次案の方は、瓦棒引き鉄板葺きの寄棟屋根に下見板張り の外観を呈し、敷地の南東側の庭を囲むようにL型に配置し・北東にア トリエを置き、西に玄関、ホール、水廻り・台所・南に縁側を廻した続 き間である寝室(8畳)と茶の間(6畳)、子供室(3畳)で構成されている。  アトリエは、3寸8分勾配の片流れ屋根で、正面軒高地面から18尺、漆 喰塗り天井下までを大きく開口し、中央1間幅は、下引違い・上嵌め殺 し、左右半聞事を上回転、下外開き窓とした。軒先部分は、 1・5尺ピッ チの垂木(1×6寸73)を軒桁より4尺延ばして、ルーバー(「パゴラ」73)状 とし、左右の壁の基部をバットレス状に斜めに突き出して勾配屋根の形 態を強調する意匠であった。 10-7-2=外山卯三郎邸(1929) 旧東京市外井荻町下井草1,100  9.5×11.5間、109.25坪の長方形の敷地に建つコンパクトな住宅であ るが、「武蔵野の大自然に流動する大氣に呼磨」74し、 「泰山の如き安定 と力学的平衡」74を表現した作品であった。  雪国的造形の要素の一つである柱型が書斎と2階の南面にみられるも のの、北海道の住宅設計を規定していた「雪と風とに封ずる武装」74から 解かれた解放感は、リビングルーム前の広いテラスや「パゴラ」74を支え る柱列、2階バルコニーの他、北の住宅作品ではほとんどみられなかっ た外観全体を白一色で統一する作風にも表れている。北国では、控えめ にしか計画できなかった「パゴラ」74も、ここでは大々的に使用され、 「ベンガラ入り」75のコンクリート土間の「テレス」75に深い陰を提供して いる。  内部は、エントランスホールの東側に「リヴィングルーム」7B、北側に 「食堂」78、「台所」7。を配し、規模の割にゆったりとした階段ホールの南 側に応接室兼書斎を置く。「リヴィングルーム」には、軟石(おそらく大 谷石であろう)積みの暖炉を備え、田上設計の八角形のテーブルと椅子 のセットも置かれ、庭側の窓辺に造り付けのソファーを置いていた。リ ヴィングルームから2段ほど床の高い食堂とは、長押風の棚板で仕切ら れているものの、天井や天井をグラフィカルに飾る細木の押縁を連続し て、空間の一体感を図っている。食堂にもリヴィングルーム同様、造り 付けソファーが置かれていた。  2階は、前室を兼ねた書斎コーナーと寝室(4坪)と南側に「バルコン」76 が計画され、武蔵野の自然との交歓が意図されていた。 一 348 一  遺存する2枚の図面は、いずれも1928年10月付のもので、完全な図面 ではないが、実施案に近いものである。ただ外観が、設計図では、1階 外壁の腰部分を北の住宅同様、水平押縁を強調した下見板仕上げとされ ている点と、暖炉の煙突幅が実施案よりも狭い点などの違いがあった。             sじ商惇唖.               し確   急   岬」 v → 「 : , 一 曝」・・ 『 図10-7-7外山卯三郎邸リヴィングルv一     ム・食堂     (『田上義也建築書集』) 壌国, ・・(?1殉 る砂 }一豊 LIL   寛 聖1   望中  髭 一一・ ヒ竃 ri Ly 難1、 喉 鳳耀  (ぐ   》  艦 e 図10-7-2里美勝蔵邸・アトリエ実施案    蟻悔   琵 tM ll  等笑9   董               Nl:プ,v 図10-7-5外山卯三郎邸平面図(『田上義也建築三三』) ρ :ユ3ff」vJ・r9曜ヤ,A 図10-7-3 里美勝蔵邸・アトリエ1次二 一 349 一 亀 ’灘懸灘羅灘、鍵.                                             ヌリ v.鑛難灘灘灘i灘灘灘難鱒1灘難灘灘轟轟轟轟繊騨1雛羅鎌鰹騨懇繋幽幽灘幽幽劇職幽幽灘講i灘嚢懸欝講灘饗応自由騨 「縮 霧 熱 型 裏 囚 磁 3 み 蕎 . 強 箭 捻 讐 一 「 却 第ll章 1920年代の住宅以外の作品 … 叢 図11-1-1バチェラー学園寄宿寮(新免     克己提供) 11-0 1920年前の作品の作風  前章では住宅作家ともいうべきほどの田上の多産な住宅作品を通じて、 1920年代の住宅作品がライト風モチーフに影響されながらも・当初から ライトの作風を抜け出すための試行錯誤が行われたことを指摘したが、 同様の姿勢は、住宅以外の作品でも認めることができる・  住宅以外の作品でも、ライト風の影響の強い1920年代と・ライト風を 離脱するための過程として、インターナショナル・スタイルやアール・ デコなどへの傾倒がみられる1930年代の作品とに大きく分類することが できそうである。  本章では、1920年代の代表作品から、本道における作品第1号のバチ ェラー学園、第2部で述べた建築家M.ヒンデルとの競作である札幌北 一一�ウ会のほか、ライト風の影響が認められる5作品をあげて紹介する が、バチェラー学園ではすでにインターナショナル・スタイル的な手法 もみられ、住宅作品同様当初からライト風からの離脱と独自の様式確立 のための模索を意識していたといえる。 11-1 バチェラー学園(1924) 札幌市北3条西7丁目 木造2階建 施工:朴沢組  アイヌ保護学園(バチェラー学園の前身)の寄宿寮として建てられたも ので、田上義也の北海道における建築作品の第1号でもある。  田上とバチェラー博士(近年ではバチラーと記述するがここでは混乱 をさけるため当時の呼び名に統一した)の1923(大正12)年の渡道中の出 会いについては第8章でもふれたが、来札まもない田上に住居を提供し てくれるなどなにかと面倒を見てくれたバチェラーの晩年の重要な社会 事業のスタートをきる施設の計画が、田上の北海道における設計活動の 一 350 一 スタートともなったのもまた因縁めいたものを感じる。  アイヌの父ジョン・バチェラー(1854~1944)は、1920(大正9)年「ア イヌ教化団」を組織した。アイヌが和人と社会生活をおくれるよう学校 教育を受けさせ、さらに希望者や能力あるものに中等学校以上の教育を 受けさせるために経済的援助をすることを目的とした事業である㌔ 19 22年には「アイヌ教化団後援会」も設立された。設立当時の役員は、以 下の者たちである2。   会長 北海道庁長官  宮尾瞬治   理事 北大教授農博 時任一彦      北大教授農博須田金之助      北大教授法博 森本厚吉      帝国製麻支店長農博 平塚直治       日野牧師   小野村林蔵  バチェラーは1923年宣教師を退職するが、退職後もアイヌの子弟教育 の為に奔走した。北海道で最も教育施設の発達した札幌で、才能ある者 を中等学校からさらには大学まで進学させるため、寄宿舎の建設を計画、 70歳を越える体に鞭打って寄付集めを始めた。資金は徳川義親(1886~ 1976、尾張徳川家19代当主)候爵が中心となって集めてくれた。1924年 春に上京、徳川邸に招いた知名の士から5万円の寄付を集めることがで きた。義親候は、八雲に開拓移民を送って来た際にバチェラーと知り合 い、以後バチェラーが日本を去るまでスポンサーとして面倒をみた人で ある。  寄宿舎は同年7月着工3、9月24日には完成したが、8月にはおよそ完成 していたようである。8月8日付け徳川公爵宛の手紙に、 「私たちの寄宿 舎はいまほとんど完成しました。内部に壁が塗られております。物置小 屋を除いて八十二坪となり本当に立派なものです。多くの人々が建物を 見にやって来ます。」4とある。  さらに10月15日付け「アイヌ寄宿舎に関する一一般報告」6によれば、9 月24日に完成した寄宿舎には、その月の26日名寄出身の北風修次郎がま ず入居。この建物は15~20名の青年を収容することができること。寄宿 舎の建築面積は84坪、工費は物置や家具、ペンキ塗り、屋根の亜鉛板張 り、排水樋を加えて9,230円24銭であったことなどがわかる。  1924(大正13)年10月の小樽新聞には、3日間(3、4、5日)にわたって寄 宿舎の記事が連載された8。 「札幌に生まれた珍しい建物」「通風と採光 に苦心した建築家/母に抱かれたような温か味」 「勝手の違った建築に 大工も驚く/安価な材料で堅牢な建物」といった見出しで、記者の印象 や建物記事が続く。多少長いが引用してみよう。  「あまりにも粗野にして異様なる外観にまごつかずにはをれなかった。 それは日頃札幌などの近郊に所謂文化村として陸続と勢力を扶植してゆ く新しき建築などとは似てもっかぬ、其処には何の粉飾もなく柱も壁板 一 351 一 、織撃兼蜉I灘灘灘雛鑛灘懸灘灘灘難飛燕灘孫孫灘灘1灘難灘蝶霧鞭 ユ:仁多見巌『異境の使徒英人ジョン・  バチラー伝』(北海道新聞社、1991.  8.29) p.178 2:仁多見巌『アイヌの父・ジョン・バチ  ラtS』(楡書房、1963.4.30)以下の  沿革は、同書を参考にした。 3=仁多見巌訳編『ジョン・バチェラtS  の手紙』(山本書店、1965,12。15)  p.348 4 『ジョン・バチェラL・…の手紙』  P.344 5.『ジョン・バチェラーの手紙』  p.346 6:仁多見回氏の教示による。 蕊撫白山 ザ 欝 熱 鍵 議 郵 毅 ゼ 奮 驚 四三.購i灘難懸懸盤懇懇1難鑑識灘購辮欝欝麟1薦歳∵ L“灘驚『勢丁聾寝ll蟹/ 翻 N;一 窒rgXl?’.’r 図11-1-2 バチェラー一a?園寄宿寮(仁多  見巌蔵) 図11-1-3 バチェラー・・…学園寄宿寮階段室 も木目鮮やかな森の香さへ嗅がれる様な荒けづりな素朴なものがあった。 然し一度足を其の建築の中に踏み入れて部屋の一に座した時記者は何物 か、かう母の抱擁のなかにでもある様な安らかな感じを抱かずにはをら れなかった。」 建物の印象として、大小10以上のどの部屋も通風採光に注意し、東 南に窓を開いて「秋の日の柔な陽光を一様に浴び」・部屋の一つ一つが 押し入れなどをはさんで仕切られ、 「日本の下宿屋などにある様な」唐 紙一つという不安はなく、一人一人の個性を重んじようとする設計者の 苦労にも言及し、また天井が低く押さえられているのは「温熱の関係」 であること、心持ち長く水平に突き出た窓越しに外界を眺める感じはい かにものびやかで安らかであること。階段は、 「舟底型の手摺りの水平 線によって」階段の斜線は殺されて少しも昇るという重苦しさを与えな いこと、下棚や手摺りの上の鉢植えが植物と家と人との接触をしみじみ と感じさせること、階段室のガラス窓からの明るい光の入り方と眺めの 趣がかわっていることなど、建築の特徴をよくとらえて報じている。  「建築に対する思想と抱負とをポツリポツリと断片的に語って呉れた」 というくだりは、田上青年の風貌をよく伝えているが、さらに彼の言葉 を借りて、「建築は一つの生命であり人間生活の基調である。」「建築は 正しく美しく簡素でなければならない。」 「建築は実用であり実生活の 武器である。従って建築は装飾でない。……すべてが用に即し用が形に 即して初めて美であり必然である」などと、田上の思想や設計態度につ いてもふれ、最後に「此の建築と共に息づき生活する人々の奥深い魂に 交渉のある作品としてはあまりにも貧しいが、ただ全き感喜を以て当た り得たことを悦ぶ。」という設計者の言葉で締めくくっている。  寄宿舎は完成したものの、基本金不足の理由で財団法入化は却下され た。その後もバチェラーは財団法人化を目指し、募金活動を続けたが、 個人の力では限界があり、以前から助力を惜しまなかった徳川義親が中 心となり、義親と渋沢栄一が顧問、新渡部稲造が会長となって、1930年 7月「バチェラー学園後援会」が設立された。後援会事務所は、東京府 荏原郡世田谷町桜木652得能と.のう佳吉方に置かれた。得能はもと北海道 庁内務部長で、バチェラーが1923年4月道庁内務部嘱託になってからの 知己で、夫人松子もバチェラーから洗礼を受け、また自叙伝『我が記憶 をたどりて』(1928年)の日本語化を手伝う関係でもあった。この後援会 の募金活動により、まもなく1931年7月13日学園は財団法人となった。 1931年の「バチェラー学園後援会」役員名簿には、当時の札幌を代表す る財界人、大学人が名を連ねている。  顧問 候爵   徳川義親    農博・法博新渡部稲造    男爵   佐藤昌介 理事長 ジョン・バチェラー 一 352 一 北海道庁長官 村上信一 北海道大学総長南鷹次郎    理事  宮部金吾、時任一彦    監事  平塚直治、須田金之助    評議員 有間英二、志村高志、今 裕、高岡熊雄、新島善直        岩本照日、関場不二彦、竹谷源太郎    書記兼舎監 片平富次郎  田上自身も、同年10月11日、札幌混声合唱団や小川隆子夫人、笹仲子 夫人らの賛助出演を得て、バイオリンのチャリティ演奏会「バチェラー 翁に捧ぐ。田上義也提琴独奏会」を豊平館で開催し収益を寄附している。 1930年11月14日付田上宛のバチェラー書簡7には、内訳が「田上義也氏よ り領収 七〇円 バチェラー学園に対する個人的寄付」 「札幌音楽協会 より領収 二四五円 バチェラー学園のために」と記述されている。  設立以来多くのアイヌ青年を送り出した学園であったが、1940(昭和 15)年頃から中等学校制度が地区制となり地方からの入学ができなくな り、さらに1941年には第二次世界大戦が勃発しバチェラーが日本を去っ たあとは、本館(バチェラー宅)は澱粉会社や、軍人援護会に賃貸(1942 年9月)され、寄宿舎は1945年北海道庁に収用され軍人援護会の理事住宅 として使われるなどしたが、戦後は学園関係者に返還され、その後社会 福祉団体に利用されたりして1961年に解体された。  この建物の設計史料としては、外観パース2枚(うち1枚は色鉛筆で 着色している)と平面エスキースの3枚および、『書集』の挿図(パース と平面図)が残るが、残された二葉の写真とは印象も規模もかなり異な る。写真に見られる外観は、田上の住宅作品によく使用された目板打ち 下見板張りの外壁で、縦横桟で9分割された建具をはめた連窓を南側に 見せているが、二二で区切られた連窓はパースの全面開放表現とはかな りかけ離れており、全体的に二二や外壁量も多く、基本案にみられた軽 快さは失われている。  3枚の外観パースはほとんど同じもので、1、2.階とも四壁を除き、 意識的に全面ガラスとされ、東側脇階段室もガラスの箱風に扱われてお り、 「多量の硝子のファサードは二二を殆ど埋めつくす程に、光線を求 める」8意匠や、ピロティで支えられた物干スペースなどは、明らかにイ ンターナショナルスタイルを意識したものと考えられ、独自の作風模索 への姿勢をみることができる(図11-1-5)。  西と北翼の南側の二形を意識したようなモチーフは、後の旧邸(1927 年、10-3-7参照)や、鬼窪邸(1929年、10-4-4参照)などの住宅作品の外 ∠  , 撃 、 ’ノ 〆}  4   !   〆 汐 } 曹《     一 尾  る  〆  ノ  ワ 一白く   ゆ ● ’ 冨      ’ ’”4 C 〆 帽 4   〆  !   一  4’ ’ 図ll-1-5バチェラー学園パース 一 353 一 図11-1-4 田上義也提琴独奏会プログラ     ム 7:前掲『ジョン・バチェラ・・一・・一の手紙』  pp.429・Nt430 8:『田上義也建築叢集』による。 輝騨・磯鱗灘灘灘懸灘購鑛綴織_.聖経灘i叢論轟轟難1隷灘三盛.灘無難i灘難聴幽幽鰻i驚灘幽幽1自白響灘一難灘一白懲1繕一 、懸鍵灘i灘灘難鑛i灘難鱒灘1聯懇懇鍵欝鱗疑 観でも繰返し使われる特徴的な意匠であった。  平面史料は、エスキースと壼集掲載の両平面が存在するが・いずれも 実施案とかなり異なる。エスキース平面では・1階55・5土平物置3・5坪、 テラス5坪、2階58坪、物置をいれて合計117坪(テラスを除く)・書集平 面では、1階65.5坪、物置3.5坪、テラス6坪・2階59・75坪で物置を含 む合計は128.75坪と、やや規模が大きい。1940年度の学園財産目録には、 117坪25とあり、エスキース平面と規模の点では似ているが・田上好み のテラスは失われ、個室の数なども縮小されて完成したと考えられる。  内部構成の詳細は不明であるが、近年発刊された『異境の使徒 英入 ジョン・バチラ一翼』内に掲載の略平面によれば L字型の接合部に玄 関と階段室を置き、西棟1階では南から診療室(2・5×3・0間)・片廊下の 西側に和室(8畳)と3尺幅の廊下をはさんで女子学生用(2~3人用・6畳程 度)、職員用(1~2人用、2.5×2.5間)の部屋を並べる・廊下は北棟の北 側で逆L字に台所(2.5×3.5間)に接続し、廊下の南側は広い食堂(2.5× 5.5間(一部階段室下を含む))であった.  2階は西棟に職員用(2.5×3.0間)、床の間、押入付きの職員家族用和 室(8畳)以外は、学生室である。6畳から12.5畳程度の2~3人用の相 部屋が6室並んでいた。  建築豊集は建物完成後に発刊されたにもかかわらず、実施案でなく基 本案を掲載している。実施段階で設計変更をうけコンパクトに収められ た結果、基本設計のもつ延びやかさは失われており、田上は建築空間に 対する自身の考え方をより積極的に示すために、あえて変更前の平面を 掲載したと考えられる。他の作品でも同様に基本計画の方を掲載する例 が多く見られるのもこうした理由であろう。  ここでは田上の設計意図を反映させていると思われる壷集掲載の平面 をとりあげて、建物概要を説明しておこう。  平面はL字型で、1階は、「エントランスホール」西側に南から「ルー ム1」(7坪)、「ルーム2」(6坪)、「ルーム3」(5坪)の家族用13室が並び、 「ルーム2」と「ルーム3」との間には、外観隅角部を引き締める集合煙突 が立っている。ホール東側に、「集会と食堂」スペース(13.5坪)、「台所」 (5坪)が並び、南側に「テレス」を備える計画である。さらに西側には「メ ード」室、「風呂」、勝手口が並び、北側には片廊下が配されて、北西端 に便所が付属する。  2階は、L型の古道部に階段室、 「パブリックスペース」を置き、西 側に「ルーム4~7」を置き、東側に並ぶ「ルーム8~12」の5室の南側前 面には、1間幅の「サンルーーム」が配され、「コシカケ」なども備えた学生 達の共同スペースとして考えられていた。東側脇階段のホールから出入 りするパーゴラ付きの三千スペースは、物置と一部ピロティーで支えら 一 354 一 …Hl、 蜩?.鑛醗醗鑛灘灘羅灘鰯1灘購灘懸羅1騨熱論難語灘1騨灘 れた屋上を利用していた。  広いエントランスホール、食堂に続くテレスやパーゴラ付きの西側テ レス、L型隅角部のパブリックスペースや階段室のほか、冬はサンルー ム、夏は「バルコン」となる学生室前の勉強室など、その後の田上の開 放的な空間の指向がじつによく表現された計画であった. 図ユ1-1-6 バチェラー学園平面図(『田上義也建築蚕集』) 11-2 ライト風の作品 11-2-1=札幌第一農園1(1926) 札幌市南2条西13丁目 木造平家一・部2階建i1926年5、6月設計  住宅(安部信明旧邸)に増築された種苗、農具などを売る「街の中に建 てられたるSeed store」9である。  逆L字型平面の南側主監1階には事務室と応接聞、北側発送室、2階 は居間兼客聞と小屋裏利用の物置を配置する単純な構成で、南側主棟の 大きく西側に葺きおろした招き屋根が特徴的である。1930年代の住宅作 品で展開された「雪国的造型」(10-4参照)の萌芽の一部を見ることがで きる。田上自身もこの点を特に意識したようで、 「単続なる切妻の屋根 は西側の平屋より延び上り、階上に『招き』を構成し、視覚的平俗を破 る」9と述べている。  主棟南東側に長方形断面の双柱で支えた差し掛けをかける入口とし、 店舗部分が応接間とある。保存設計図では、差し掛け屋根部分はパーゴ 一 355 一 9:『田上義也建築婁集』p.27 図11-2-1札幌第一農園1(『田上義也     建築蚕集』) 難山1欝温血騨警懲講劇烈議撫灘 鑛剛臆・轡  一、.“ ・鱒灘轟轟灘盤鰻繋灘鑛灘藩綴織箋雛鑛購潔騰判∵.罪』∴・野1野野野脚’「 馬噌幣騨隅愁ジ「高 10:『安部信明氏札幌第一農園新築設計  図階下平面図』 11:『札幌市医師会史昭愚臣』(1983.3.  le)   , }副 “ “i 図11-2-2 札幌市医師会館1階平面図 12:札幌市医師会館平面図 ラ仕様とされており、内外のつなぎ空間を意識した田上の設計姿勢がよ く表われている。内外のつなぎは・事務室と応接間とにつながる温室で も意識されたであろう。建物の性格上不可欠のものであったろうが・ 「草花の隙間を通して外部を柔く(ママ)視覚する」9ことへの配慮が・この 点をよく示している。  事務室の外開き窓は、「ミノゴ。(美濃)版サイズのガラスを「横使用」10 した「はしご窓」で事務室と応接間の間に・やや南より円形ペチカがみら れる。ペチカは、住宅のみならずカフェー亀屋支店(12-2。1参照)や幌西 巡査派出所(12-5-3参照)など、田上の内部空間意匠の重要なモチーフの ひとつであった。 11-2-2=札幌市医師会館(1926) 札幌市南1条西19丁目 木造2階建 施工:篠原要次郎  1926(大正15)年6月22日地鎮祭、同年7月18日上棟式を挙}犬 9月27 日竣工1㌔以後1954(昭和29)年3月に北海道医師会館が竣工するまで北 海道医師会事務所も同居した。1942年国民医療法公布で札幌市医師会は 北海道医師会札幌支部に改組されたが、ユ947年新札幌市医師会として発 足している。1954年3月大通西7丁目に北海道衛生会館が竣工、3階に 北海道医師会事務所が入居する際、今度は札幌市医師会が同居の身とな った。  旧会館は、その後札幌医大、日本通信建設株式会社、大北電建株式会 社などに貸与されたが、1957年9月青木外科が内部改修を施し開業した。 翌1958年、札幌市都市計画路線「中の島桑園通」の計画に、札幌医師会 館西側住宅部分がかかることとなり、1960年7月26日旧会館の増改築工 事が、請負金額374万円で地崎組と契約され、同年10月21日、札幌市医 師会及び准看護学校の移転式が行われた。1961年12月大通西19丁目の新 会館移転に伴い、これらの建物はすべて解体されたn。  木造2階建て切妻屋根の主棟(本館)は、平側正面中央に2本の柱型を 貫入させたブ追川クンペディメントをみせ、長方形断面の8本の柱で支 えられた吹き放しのポーチを張出している。昭和初期の建物によく見ら れる意匠である、軒下の白漆喰部と下見板張りの外壁との組合せは、水 平コーニスでくっきりと区分され、妻面では破風状に立上げられている。 幾何的なサッシュ割りをみせ、枠廻りを強調した欄間付き上げ下げ窓2 連窓は、このコーニスを分断し漆喰部分まで突き出して配されている。  9×22.5間(202.5坪)の東西に細長い敷地に、西側を正面に本館事務 所棟を置き、背後に住居棟を付属している。  長方形断面の4本の柱型で囲まれた正面玄関両側に、「市医師会用○ ○(筆者中=図面上の室名一部解読不明)事務室ゴ2と「医師生命保険会社 用事務室」12が配され、ホール(「広場j’2)の左(南)側に応接室、北側に 一 356 一 洗面所、便所を置き、中央には手摺り部分をゆったりと広げて照明置き 台とする、田上らしい意匠の階段があった。階段室奥(東側)には、食堂、 「内玄関」12、小使室(3畳)、台所を突出させ、煉瓦造防火壁をはさんで、 住宅棟が付属する。  住宅棟は、東端南側に「寝室」(8畳)と「居間兼茶の間ゴ2(8畳)の続き間 を、中廊下北側に「生命保険用納戸ゴ2(4.5畳)、風呂を配し、本館との 間に台所、女中室(3畳)、「勝手口」12などを置いて、中庭をコ字形に囲 んでいた。  平面図2では、アプローチがゆったりととられ、5台分の駐車スペー スや「車夫溜ゴaなども計画されているが、残された写真(図11-2一一3)では、 門柱真近に本館があり、実現されなかったようである。  2階には大会議室が設けられたようで、正方形を基本とした幾何学的 なシャンデリア(図11-2-4)の設計図も残されている。 11-2一・3=愛門門(1927) 札幌市豊平 木造平家 施工:サッポロ建築社(川崎喜代治)  豊平町と白石町一円に生活している約1,000入の細民の救済を目標と した慈善団体愛隣会の無料診療所および失業者救憧(sゆうじゅつ)所であった。  愛二会は、細民の疾病を治療することを目標に1926(大正15)年9月14 日、友松三郎や医師松江鎮五郎らが中心となって豊平町30番地に開設し た無料診療所が出発点である。開設以来約!ヵ年に3,300余名の患者に 治療を施す成果をあげたが、1927年にはさらに彼らの生活安定を図るた めに「門門者ホームPaupersHome」13を併設することとし、事業の拡張 をめざした。中心的使命である無料診療所が、「健康保全ゴ3のために疾 病の治療や衛生思想の普及という「生活資料の増進」’3に対する奉仕と すれば、四四者ホームは「健康を資本として、其の生活の向上を図る」Is 指針を与える「生活保証」13という精神面での奉仕を意図したものであ る。  二野者ホームの事業として、学芸講習部、家庭工業奨励部、生産及消 費組合部、人事相談部を設けることとし、それぞれの事業の予定概要は 以下のようであった。 ① 学芸講習部は、知識と労働との調和を目ざし、毎月1回から2回学術  講演会を公開し、工業、農業、水産等に関わる一般科学知識の普及を図  り、毎夕または隔日乳児や希望者に国語、歴史、算術の3課を教え、こ  れらの学課と交互に一定の技芸を修得させその技術の上達に従い、一定  の工賃を支給して生計の一助とさせ、彼らの独立自営に対する自尊心を  養うことを目的とした。 ② 家庭工業奨励部では、家族一団となって労作でき、しかも職業という  よりも趣味と実益を兼ね備えて、一大家族主義を実践できる家庭工業を  推奨するが、作られた製品の販路については次の生産及消費組合部が責  任をもつ。 ③ 生産及消費組合部は、道産奨励、国益増進を根底に、低利資金を借り 一 357 一 ・遷.,  At ≧、    d 図11-2-3札幌市医師会館 ∂ ユ @  呼 l L ↓ 1 AA’  ♂’ 冝@  一 に  _   黶@      一 齊�@ _ 図11-2-4 札幌市医師会館大会議室シャ     ンヂリア 13:『北門建築 愛隣會無料診療所建築  記念號』(サッポロ建築社、1927,IL  1)  、∵も敷・ty !  許触1,1Lノ   ノ で  l  l、 這             x 図11-2-5 愛山館バース(『田上義也建     築甕集』) 騰翻灘.。懸盤灘懇灘灘灘難懸羅羅 購綴幽幽難醗羅繋灘二二灘灘織難難灘鱗懸難羅臼白白灘白白灘灘山畠購i難難 醗購購羅灘.購1織灘離離i懸 tF2t; 継 灘 鰯 蝶 揃 ル 、 烈 図11-2-6 『北門建築』表紙   入れて生産組合を組織し、家庭工業製品を廉価で市揚販売業者に卸し、   消費組合を組織して、低廉な物資の供給を計り・経費節約・相互扶助を   目的とする。  ④ 入事相談部は、精神的煩悶や生活苦の訴えに対して・懇切な回答を与   え、失業者に職業紹介を図って、生活全体に対する最善の方向を示す。  こうした事業は、従来の借家では積極的な展開が望めず・新たに事務 所と必要施設を建設するのに、約1万円の基本金が必要とされ・基金の 募集が計画された。1927年11月1日中発行された『北門建築』 「愛隣會 無料診療所建築記念號」(サッポロ建築社)には・寄付を募ることを目的 に、この事業の詳しい説明がなされているが、すでにこれらの施設が着 手されていること、こうした建物が細民区域の一角に建設されることそ れ自体が、貧しい人々に明るい慰めを与え、生活に対する希望を与える など、愛隣会の固い信念が、田上の巧みなスケッチとともに特集されて いる。  この雑誌によれば、愛隣会の委員は、代表委員友松三郎、医務代表医 師松江鎮五郎、常務委員として、野田波治、近藤i孝悌、高杉年雄・田中 博、中尾直則、伊藤胤男、事務員谷藤ふみ子、看護婦梶原そと子、助産 婦山場ひで子、上野そと子らで、賛助員として、理学博士宮部金吾、ド クトル・オブ・フィロソフィー高杉栄次郎、医学博士香宗我部壽、同中 川諭、農学博士小熊桿、同井口賢三、道庁社会課長上田一郎、市会議長 村田不二三、市助役増田彰、商業会議所会頭久保兵太郎、谷口眼科病院 長谷口捨次郎、帝國製麻会社札幌支社長平塚直治、大日本変酒会社札幌 支店長藤田昌、医学士粂川秀武、地崎組地崎宇三郎らがまた資金募集の 呼び掛け人として名を連ねていた。  1927年度経費予算は次のように計画されている。 ○事業拡張資金:募集予定額    内 訳    1建 築 費    2設 備 費    3敷地買入金    4運転資金 ○収支計算  予定収入総高    内 訳    1維持会友会費    2道庁補助金    3特別寄付金    4臨時収入 ユ2,000円 6,000円 1,000円 3,300円 1,700円 3,920円          1,200円(200口予定)           ユ50円           150円(薬価の2割は患者の寄付)            300円(音楽会、講演会、バザー等)               (ホーム会費ユ20円、家庭工業奨励部   5付帯事業よりの収入 420円                収入120円、生産組合収入ユ80円)   6運転資金  ユ,700円 予定支出総高      3,780円   1薬    価    840円   2人 件  費    1,800円(医師、看護婦謝礼、事務員給料) 一 358 一 3消 耗 費 4事務及通信費   5点   6旅   7薪   8諸   9臨   10印   11三 差引残高 灯 炭 雑 時 刷 備 費 費 費 費 費 工 費 ユ20円(、月10円) 180円(月15円) ユ80円(月ユ5円) 100円 60円(7ヵ月石炭3トン、木炭5表) 100円 ユ00円 150円 ユ50円 140円(翌年度へ繰越)  拡張事業資金によって建設された木造建築は、間口10間、奥行29間の 南北に長い敷地に2棟建てられた。手前から前庭、二二所、中庭をはさ んで「主体である」14診療所は奥深い位置にとり、さらに後庭をひかえ る配置である。2棟とも、亜鉛鍍鉄板瓦棒葺きの大振りの屋根、目板押 さえ下見板張りと漆喰を組み合わせた外壁、幾何学的な窓のサッシュ割 など、田上の住宅作品などに共通の意匠がみられる。『北門建築』では わざわざ「ライト派田上式」という様式規定をしているが、田上の作品 が当時の札幌の建築界でひときわ特徴的であったことを示すエピソード といえる。  救出所は31.5坪。二棟の「救二者ホームゴ4の東側に玄関棟を突出し、 左右の袖に「事務室」14を置き、玄関からアプローチ通りを覆うように低 いパーゴラが備えられていた。軒高13.1尺、玉石地業布コンクリート基 礎のホームは、転びのある大きな切妻屋根をかけ、南北に大きな破風と 「合掌窓」13をみせる計画であったが、この大窓は引違い窓に縮小され た。南側妻面の大窓をはさむ孤高型の裾には、「フラワボックス」’3が取 り込まれ「花と共に地に連らなる」13意匠とされた。  「夢のアー・一・・チ」13を飾るパーゴラは、「つたと果実」13を繁らせ、 「労か れし身と、傷ける貧しい心」ISを、なぐさめるよう意図したもので、パ ーゴラの「隙間を洩れる光と影のかくれん坊」13を、田上は「モザアル トの音楽と感じゴ3るようだとも説明している。  パーゴラ下の診療所へ通じる直線の小道は、田上が好む要素でもあっ た。 「私は直線の道を愛する。病める者、疲れし者、弱き者、貧しき者 に、道草は禁物である。」 「率直を意味する直線の道こそ、方向と方針 を定める唯一のレール(軌道)であろう。」13と述べている。この道は来 訪者を「飛ぶように門から一気にパゴラのアーチをぬけてゴS診療所の入 ロへと導いてくれる。  診療所入口は、幅1間、高さ18尺の角塔を立て、軒の出3尺でそそり たっていた。「安心と平和と正直」Isの表現という。 r北門建築』掲載の スケッチでは、玄関左右にパーゴラを備えるが、壼集挿図(11一一2-5)では、 玄関から待合室前のたたき部分にパーゴラがのびやかに表現されている。  診療所は、1階34.75坪一部2階にアティック2坪を備え、軒高10.5尺、 基礎は玉石地業軟石積みであった。入口の西側に患者待合室、南に診療 一 359 一 14:『田上義也建築査集』p。50 プ 臨 黙 繍 必 、 1 一 ・ 騨   鋲   …   酸 寝 .         オ ぬ ・ 懸 器 ぬ , 剛 一i犠一飼 巨誹璽・t-t’日しセ◎塑 図11-2-7講堂前のバv…ゴラから診療所     を望む(『北門建築』) 灘.議 灘i灘灘灘灘鑛灘灘灘懇懇灘灘輪差i鑛灘灘総論論難頭蓋鑛1難懇難難難灘ttt,.1..f.幽幽幽幽1鐸難』∵ 饗   。.運撃響㌦, 蒐    ”n,t.?魂..墨隈七t’.、...,奄.     .、.v c『㍗ 、、癖鯉鷲昌 @・t’・ 卜 } ケ δ ▲ ・ 伊 響” ェ譲羅懸灘灘灘難綴織懸鑛灘雛繊藷搬奪融瓢写騨饗隅騨野離郷1避剛∵∴質欝欝 魍 N 15:北海タイムス(1927.12.11)『同胞愛  を基調として/二つの社會奉仕/けふ  盛大に落成式を挙げる/豊平無料診  療所』、小樽新聞(1927.12.11)『寒  空に貧しき人々のボー・i・・ム蓮つ』 16:田上義也スクラップブック資料(新  聞名不明)「救仙ホーム/細民の為め  新築された/愛囎の事業Jによる。         A       〆で/   ノ 1 髭㌣獅楚e 己 £  もりのチハ   ノに ヘロ   れロドドコ  ノ ム 隣; 』ノ毛 L 一 」 ド           や d ㌧ ’7 } ご 牝 : - 」 i ゼ 9 一 獄 図11-2-8愛隣館平面図(『田上義也建     築書集』) 17:脇哲『物語薄野百年吏』 (すすきの  タイムス社、1970,9.15)p.255 室、治療室が並訊待合室は、 「静かな落ち着きをただよわす低い腰掛、 円い机、棋書籍」13などが置かれ・「感情の調和と理念の酒養を計る」 ・3 アとが意図された。叢集平面(図11-2-8)では・待合室と診療室との間 にペチカも備えている。入口正面には薬局、西側には南から産室・台所、 物置が並ぶ。  豊集では、南側のガラス開口を産室、薬局から診療室・治療室へと、 段状に後退させて、「光に対する有機的分割」13を明確に意図しているが、 r北門建築』掲載の平面では、薬局、診療室・治療室の南側壁体が直線 状になっている。ペチカの記入も無いなど多少の違いがあって・実施に あたっては、こちらが採用されたと考えられる。  落成式は1927年12月11日に挙げられた15。当日は・北星女学校有志の コーラス、友松代表委員の事業経過報告、澤田道庁長官代理、市長代理 戸津高知北海中学校校長らの祝辞後、西村眞琴博士の救貧問題に関する 記念講演などがあった。西村博士ば、丸井百貨店で個人展覧会を開催し、 丁数百円の収入金すべてを野州会に寄付するなど、後援者として協力を 惜しまなかった入である。  翌1928年1月2日には、細民150唱名をホームに迎え、田上のヴァイ オリン演奏、北星女学校生徒の手造りの贈り物などがあって、温かい正 月を迎えたことなどが新聞ISにも報じられている。 11-2-4=亀屋本店(1928) 札幌市南4条西4丁目 木造平家  ススキノ最初の喫茶店兼高級洋菓子店17で、在住外人も多数訪れたと いう。計画初期には、陸屋根の客船をイメージさせるデザイン習作(図 11-2-9)がみられ、次章に述べる亀屋支店(1929年)に連なる意匠として 興味深い。この案は、その後の計画では姿をひそめ、かわってライト風 意匠の木造2階建ての計画(図11-2-10)に変更されたが、最終的に亀屋 食料品の喫茶部のみの改築となった。実施案は、切妻屋根下見板張りの 簡素な外観で、入口廻りに幾何学的な意匠を集中させたデザインに変更 されている(図11-2-11)。  内部では、亀甲型のテーブルとそれを囲むように配置された台形のソ ’   獄 監 ⑨  -v1 e ’ 弓 こ_・ 冒 図11-2-9亀屋本店初期計画案 ee iQ      ド ゴつ一 t’ t 1〈14ti’x一’ 一 360 一 i一: , ll?lk’ ファーを6組配置し、「美しき平面分割と空間のリズム」’9を演出し、正 面の半円形に突出したカウンター上部の左右には、幾何学的な装飾を施 した「ブリキ製電気のカサJ’Sの照明を下げている。屋根勾配とほぼ同じ 勾配の舟底型の天井とし、床から頂部までの高さ11尺、両端部8尺とし、 勾配天井には天井灯を組み込んでいるIs。左右の壁面には床から6.5尺 の高さ、ちょうどピクチャーレールと同じ高さに、奥行1尺の物品棚を 廻し空間を引き締めていた19。 図11-2-10亀屋本店計画案(1927,3) 一 361 一 18:図面『KAMEYA TEA SALOON』 19:『亀屋食料品店喫茶部新築設計図縦  断面図』 饗騨饗灘購.蕪、灘灘麟灘灘灘灘灘鑛欝懇慈轟轟難灘灘懇叢i議議i講論灘襲監 ノ 、 、 一     ~ .                         }             噌   ・ -   ・ ・ ↓   ・ →   一 州   一 口 団 。 o ロ 旧   曜 箆 d 含 嘘 q O . 弧 搾 r ’   1 一                   ■               一 [ 亀   「 副 ■ 一 一       「 蝦 滞 。 一     , プ 「 r , →       - 、       一   1 ゆ … 、 - 職 “   「     p         l     }                                   「 一     ,     ド ,           ”     噌           「           甘     憎 ,   畳   贈   一 ‘ 『 ○       メ し b   一 ’ ,   f     リ         リ     客 . ト オ 議 U ” φ 直 着 貿   活 一 , 重 零 , 薯 口     、 、     「 働     」 ” ・   匿 卵 工 嘱 ▼一 塾 峯         ’     一   曾 」 縛     犀                 す }     ・   琵 % .         ↓   }     「 4 髪 応 1   嚇                 駒 一 聖                       「               .               8 一 令 鳩 ゐ 聯 }       毛   ト ー 1 1 唖 n 墾 仰 F         マ     ‘ 1         一       「   一                                                       一 一   臼     ・ ー ー - ー ー 「 ! 一 甲 ρ 図11-2-11亀屋本店喫茶部設計図 図11-2-12亀屋本店喫茶部内部バース 繊雛難騨難1欝騨幽幽難曲幽幽欝欝灘i難感応難i難1一白難山魏 . itt;i’ 一纏灘灘灘難1灘纏馨繊霧講羅欝1欝灘鐙耀難聯響騨響螺1:警:『1弓二k‘ 20:藤田明郎『松岡農場顛末記』(「北海  道地方史研究90」、1973.2) 21:前川公美夫『北海道音楽史』(1992.  6.5) p.322 図11-2-13亀屋本店喫茶部断面図 11-2-5=松岡農場事務所(1928) 和寒町字西町36木造2階建  松岡農場は、松岡汽船株式会社社長松岡潤吉が、前社長修三(実父)の 指示で、1921(大正10)年8月本道各地の農場地帯を視察し、同年秋本町 の伊藤、根井両農場を買収したことに始まる2。。和寒町市街地の大半と 殖民区画時の和寒原野の主要部分を含む大農場であった20。  1924(大正13)年春、二代目支配人として小川義雄が着任した2e。小川 義雄は1880(明治13)年生まれ。1905(明治38)年8月札幌農学校卒業後2。、 1907年アメリカに留学し1922年の帰国まで酪農の研究にあたった2。。ピ アニストである隆子夫人とは1913年に結婚している21。熱心なクリスチ ャンで札幌のデパート五番館の創立者、小川二郎の実弟であった。日本 基督教会札幌教会の設計者候補として田上を教会に紹介してくれた人物 である。1924年赴任以来、農業の指導研究にあたり、特に1934年ごろに          ,セ                          o日IG 図11-2-14松岡農場事務所 “ 図11-2-15小川義雄宅立面図 一 362 一 叢購懸鰹...騨_蝦 冷床苗利用栽培法を創案したことで知られる20。夫人を札幌に残し単身 赴任を通したが、1928年に和寒の小住宅(図11-2-15)を田上が設計して いる。  1925年松岡農場株式会社となり、このころ会計主任として松岡汽船株 式会社から綾仁三郎が派遣された。1938、39年ごろには小川と農場運営 で意見があわず農場を去る2。が、小川宅と同年にやはり田上が綾仁宅を 設計している。  1940年から村ぐるみでの小作農解放運動がスタートし、1941年5月農 場解放が決定し、翌1942年松岡農場解放記念祝賀式が行われている20。  1927年1月頃から基本設計が始められたと考えられる事務所建物は、 初期住宅作品に共通するライト風デザインである。深い軒、破れ破風と 「亀甲型引窓」の組合せ、テラスをおおうころびのある切妻屋根、目板 打ち下見板の外壁などが特徴的であるが、設計図では控えめな1階事務 所や2階主寝室の南側柱型が、残されている写真や透視図ではかなり強 調され、 「雪国的造型」への試行を見ることができる。  事務所は、旧事務所として使用されたであろう住宅を移転した「旧家 屋」22と棟続きになっており、1階は庭側に開放的なゆったりとしたテ ラスに続いて玄関、応接室と事務室、「小使室」22が配置された。これら 4室の中心には丸形ペチカ風の記入がある。事務室に続いて「地図室」z2、 中廊下に沿って予備室、風呂、便所が配置され、旧家屋の台所と連絡し 22 :『松岡農場新築設計図(事務所)』 土or・o(蝿tt鱒) 恥,■働b茜払冒樋」 吃ひ5覧θゆ脚し凶ゆ 電 奪 樽集る9Q噂璽一 か 羽 ”義 ’ fへ 。         i    、    弓     ξ    ‘    ,    6    r    o・   欄8 0   ノ 鎗ト   ト $●}  1■ 毛 = 1 多 ヒ ; 6 P 0 汽 ■ ‘         ノ ヒ y 鴛 惹 マミ η,  勘L ゼii際 B   l11 A 器 1 1 .   購 場 霊 脚 」   の 、 魑 季 ’ q , 母 1 噛 . 1 ・ ) 媛 k ^・ G 竺 メ応煤 @ 監 会 合弓.’層獺層’籠IL…  判 塁 賞1・刷訓 ∫し99 鼎 i tl;葭  ll サ‘図 岡・』 凸u @榊 ・’ ヨ   、 」 , .㍉ 乏 り         も    へ    ゆ     ず    るコ   てひ   ろ  ロ  な  新     i十   (事¶卜飾,   題 粘 函         、 /   … ド 兆                   / …     … … . 吋 ,   … 」         卜 tt  t、  鱒  ・蜂 岡 口  田 ,レ”エ.幽凡u御櫛 図11-2-16松岡農場事務所設計図 一 363 一 、忌・一     . ・ ぞ 、   て 3 領 蕉_。、一「了『1 図ll-3-1 日本基督教会初代会堂     (『札幌北一条教会歴史写真     集』 1985) 23:『日本基督敏會札幌北一條教會創立  六十年史』(1956) 24:宮田洋子訳『掌院セルギイ北海道巡  回記』 (キリシタン文化研究会、19  72) 灘鋸灘 滑肺.恥 ≦ ている。2階は階段ホールを中心に、主寝室と寝室の2洋室と8畳2室 の続き間となっている。主寝室の一部はアルコーブ風に突出して机が隅 角部に2卓おかれ、2面採光の縦長窓を備えていた。  事務所の2階および旧家屋部に誰が居住していたかは不詳であるが、 2階の主寝室は記載されたツインベットや机などから・小川義雄とたま には訪れたであろう隆子夫人のために用意された部屋と考えたい・全体 のデザインや規模からすると住宅作品の範疇に入るものであるかもしれ ないが、1階周りの外部から室内へと連続感あふれる空間処理は・事務 所という機能であったからこそ実現できたものであろう。 11-3 日本基督教会札幌北一条教会(1927) 札幌市北1条西6丁目 施工:伊藤組 1979年取壊し  田上の代表作の一つであるとともに、札幌北1条通のシンボルの一つ として広く市民に愛されたこの教会建築は、M.ヒンデルとの指名競技 設計であった。先にも述べたように、ヒンデルの来札は、田上の1年遅 れ1924(大正13)年のことであったが、設計活動はほぼ同じ頃から展開し ており、北海道におけるプロフェッショナルな建築家活動の黎明期を飾 る記念碑ともいえるものである。 教会の沿革  札幌独立教会とならび北海道大学関係者と関わりが深かったこの教会 の創設は1890(明治23)年、札幌市南1条西1丁目中通東:向きに日本基督 教会講義所を開設したのに始まる。1894年南大通西3丁目の120坪の敷 地に初代会堂が建設され、工事監督森山伝藏により5月着工、12月竣工、 建築費1,781円45銭を要した。翌1895年10月23日、教会建設並献堂式が あげられ、札幌日本基督教会が誕生した。下見板張りの外壁に、尖頭ア ーチの開口部を配したピクチュアレスクな外観(図11-3-1)をもち、風見 鶏の飾りが玄関廊の尖塔頂部にとりつけられていたことから「鶏教会」と 愛称されたz3。ハリストス正教会のセルギイr北海道巡回記』24に「十 字架のかわりに尖塔の上に雄鶏をたてたアメリカの長老派のりっぱな教 会」と紹介されているものである。  1907(明治40)年5月10日の札幌大火で焼失したが、翌日の臨時総会で ただちに仮会堂の新築と敷地の変更拡張が建議され、北1条西6丁目19 27年会堂の位置に敷地を求め、仮会堂を3,318円で建設、同年1月16日献 堂式をあげ、北辰日本基督教会と改称した2s。木造平家、切妻妻入りの 一 364 一 難灘響響蠣 雛・・ 簡素な仮会堂であるが、棟飾りや妻の破風飾りなども一応備えている. 田上の第1次案の外観パース(図11-3-2)の背景に描かれている木造建 築がこれに相当する。  1914(大正3)年には牧師館竣工、翌1915年には日曜学校教室が会堂裏 に増設されるなど、教会施設の充実が重ねられ、1924年の臨時総会では 会堂の改築問題が提案された。1925年10月の創立満35周年記念式典を経 て、1926年には具体的に新会堂建設に向けての準備がなされ、牧師館を 隣接のローリー館(基督教青年会館、1910=明治43年建設、1937年札幌北 1条教会が日曜学校敷地として買収)裏に移設、牧師館跡に会堂を移す 工事が行われ、5月着工9月1日移転完了した。 1927年新会堂  新会堂の設計は、ヒンデルとの指名競技設計とされたが、1925年4月 の第1回田上義也建築作品展覧会以降のことであろう。田上には教会員 小川義雄の紹介で教会建築委員会25から依頼があり、第1次案(図1・1・一一3・一 2)では、柱型を強調した水平志向のデザインとした。遺存平面図には、 玄関ホール廻りの照明具を組み込んだ柱型や、南北両側の2階テラス付 き吹き放しポーチの扱いなどにライト風の手法がみられる。平面におけ る玄関部、会堂、聖壇部の3っの空間分節はやや形態を変えながらも、 実現案でも踏襲された。この案に対して、小野村林蔵牧師は「キリスト 教の精神の象徴は塔である」Z8と再提出を求めた。そこで「大地から風雪 を突き上げるような塔を設け、雪の結晶のような屋根をっけ」26て、正 面中央の塔屋を強調し、内部のフライングビー一一ムの構造支柱や合掌天井 を外観に明快に表現する案(図11-3-3)とした。同案透視図には、1925年 12月20日の日付が記載されている。結果は、 「日本の教会は日本人の手 で設計したものを」26という教会側の意見もあって、田上案に決定した。  1927年3月28日長老小笠原楠学名により新築申請がなされ、警保第36 41号で認可、解体調査時に発見された「工事記録」によれば同年4月14 日伊藤組(伊藤i亀太郎)請負で着工、7月31日工費31,500余円27を要して   v 幽1蝉  一一x.一 25:有馬英二、香曽我部寿、新島義直、  時任一彦など北海道大学教授陣で構  成された。 26=『北のまれびとくエゾライト・田上義  也〉(上巻)』(1977)p。117 27:北海タイムス記事(1927.10.D         ,一”tr・ノー一 7㎜5 濡〃ア∬刎∫!’な擁.窪’η搾“κ解航ツ弔π,∬唱工蓋幽な脳』班 図11-3-2 田上案(一次) 1 ’ K . ly’R ㌧員 一 365 一 図11-3-3 田上案(二次) .鶴灘難難灘無難灘灘晶晶轟轟纐二丁騨磯鞍響 騨繋ヂ壕v “..一. “..is.,, d t一 t.. t. ti ,t. o.,.. 菱 : 躰「、、・ 膨 騨- 蜩蛛@羅懇懇.糠灘難灘雛i  難難鞭醗欄響驚1讐雛;:騨罫ii響}1麟麟騨 Ll囎或ナ襲1 ’1’二It’.蜜   黄㌧l li’ E ik’S一’v v: ,,“: 図11-3-4 1927年新会堂正面外観 28:『田上義也建築密集』p.25 29:『失われた教会堂一札幌市北一条教  会堂を保存ずる会の記録』(1980.5.  1) P. 20 竣工した。r北海タイムス』でぽ「9月初旬竣工」27とあるから・教会 本体以外の工事が1ヵ月あまりあったと思われる・献堂式は10月2日、 時任一彦長老司会で挙行された。当時の北海タイム紙には「田上義也氏 の設計にて極めて斬新な建築で札幌市の大建築物中異彩を放って居るも ので北一條の通りに美観を添へるものである」27と報じられている・  r日本基督教蛸脚新築仕様』が残されており・総則の一文には「本工 事竣工期限ハ大正十五年四月 日ヨリ大正十五年十月 日迄トナス」と あったり、仕様に「鉄骨小屋組」の項があるなど、実施工事と食い違う 部分も見られる。また左官工事の項では「外部全部ハ人造洗出シ仕上リ 厚サ八分以上タル可シ」の記載を朱線で訂正したり・ 「鉄筋コンクリー トニ階建」の上に付箋で「木造二階建」と訂正した部分なども見られ、 実施工事にあたっては、仕様書の必要部分を朱で書き直したり削除した りする程度でそのまま適用したものと思われる。  初期の図面にはほとんど日付の記載がないので、正確なところは不明 であるが、一部の設計図の日付と仕様書の記載から推測すると、鉄筋コ ンクリート造と鉄骨小屋組での設計は1926(大正15)年3月末には一応終 了し、予算その他の事情から木造に変更され、引き続き変更図面が書か れたものと思われる。遺存する資料中、木造変更に直接関わるものは、 『日本基督教會堂新築設計詳細平面玄関廻り』と『札幌日本キリスト教 會堂新築設計図 誤載小屋組詳細』(図11-3-5)しか残されていない。  外観は「雪層堆積に封ずる機能成形」28を表現したもので、正面中央を 高く立ちあげた塔屋部には、垂直に長くのびたアーチ窓が2連あけられ、 その上にややころびのある破風をみせ、さらに宝塔と尖塔をのせて、垂 直性を高めている。後の田上の言葉を借りるなら、 「広い正面の切妻破 風を突き破り、大地から蒼空を切る尖塔は天に向かってさらに高く合掌 し、大屋根の上に十字に組まれた屋根は、力強く、さらに天に伸びてゆ く小尖塔を求心的に引きしめ、大地に直角にそそり立つ生命のシンボル とし」2e、「教会堂と庭園が生き生き呼吸している雪国的造型としてコン ポーズした」29のである。   ノジ、 :“嘯 ’レ滅 ク〆  も   エゆノ   ノー ヒ遜 ・li…聯7 コ  え レ ね ゴ螂.. ♪ ・ - … 岬 ’ 曳ノ 阿 も ” 軽 ・ 鱒it  騒,轡 ぱ《} 射内躍}・・ 図11-3-5 会堂木骨小屋紺 一 366 一  正面塔部左右を飾る直径1.8m(実測値)のバラ窓は、様式的表現とも いえるものであるが、とかく堅く平坦な印象を与えるドイツ下見板張の 壁面に繊細さをそえている。ドイツ下見板張りの採用は、当初の人造洗 い出し外壁案に少しでも近づこうとした表現かもしれない。  木造モルタル造の正面玄関下屋および東側下屋は、1951年の増築によ るもので、この部分の付加により当初の垂直的表現はかなり失われてし まった。創建時には、塔屋部左右のバラ窓下にモルタルで縁どられたニ ッチ風の2つの玄関があり、半円形欄間付きの両開戸が並んでいた。  屋根は桟瓦棒葺で、仕様書では、「野地板上端二便鞍瓦ヲ「アスファル ト」ニテ張付ケ30#亜鉛引鉄板図面隠従ヒ小ハゼ五分以上折曲ゲ板巾弐 ヶ所宛○メ亜鉛引釘ニテ取付ケ入隅谷其他「ハンダ」付ヲナシ雨漏ナキ様 施工スベシ」と指示している。  小屋組は、当初南北部を木造、会堂部を鉄材トラスで計画していた. 矩計図(図11-3-7)によれば、部材は、主トラス上材(合掌材)2Ls・一4×3 ×3/8、主トラス下材2Ls-3.5×2×3/8、真東2Ls-3.5×2×3/8、束 2Ls-3×2×1/2、ラチス2Ls-3×2×1/4、柱2Cs-5×3×3/8(いずれ も単位はインチ)などを予定していたが、変形クイーンポストトラスの 木骨小屋組に変更された。  小屋組詳細図(図1 1 一・3-5)にはすべての部材寸法が記載されているわけ ではないが、陸梁(O.5×1.0)、二重梁(O.5×O.8)、合掌(0.6×O。5)、添 一twv一一   wtXk..,, B,tT”’〉;fA]tw 叩冒帥       謄 施 帰 蕊 胴 か         ヒ が     ハ ” 蓋 」 聖 ’擁嶺鶴瓢禰 ゴご ア ド・1  亀   しちのコ  1置 へ’、’δ’‘  1 鴨H !l融      書 籍.・ 網 図11-3-6 新会堂北西外観 .、鴨“嚇 =======)    優_魂1維        ・1日H い桝1 @r.:r‘働 U 伽 - ,   ら 観 図11-3-7鉄骨小屋組矩計図 図11-3-8食堂内部とフライングビinム       りぬ         ゆ   ロ                                       ゆ コ     の   つ ノ ぼ                   コ         イ そ   く   げ ロ の , b 聖 運 ㍍ 創 ム . … ≡ 軸 = 甦 . } § 謹 h {」 % ワ ご 舞 三 【 匿 = ヨ … 三 脚 ≡ ㎜ 呂 ・ 壌 ・ 庫 ・ - ・ 庁 - 轟 で , . ? […,黷 茶 R タ ー 1 1 口 ・ 辮 菰 1 ,,,腫       づ 立 呈 一 , 一 」 、 F し し 壌 h =  伽 ルーム① - ’ 」 r ’ - 1  し   ヨ ヨ ダ も 1階 卿 遊   小 鶴 9 ■ 【 一 J n 冒 U 口 〕 ∩ 口 U n 目 U ∩ 〕 n 一 〕 〔 U 〔 日 一 [ h U [ し n t 〕 n 目 ] ∩ 目 U ・:認 〕一ゆ 図11-3-9平面図(『田上義也建築畳集』) 一 367 一 2階                         お 灘灘騨..灘灘灘鑛難灘灘雛灘瀬轟轟 磯‘ / 灘  轄_,、騰.,灘鐵纏鐵灘叢懸盤 1イ 1再r 止 論盤織論竃矯 合掌(0.5×O.8)、母屋(0.6×0・4)・方杖(O・5×0・5)・桁(0・5×O・7)(い ずれも単位は尺)などの材寸が記入されている・  側面は片開き戸をもつ5垣間のベイによって・北側(桁行18尺)・中央 部、南側(桁行15尺)の3っに分節されるが・2階を含む北側・講壇を含 む南偲礼拝堂にあたる中央部といった内部機能の相違をそのまま素直 に外観に表現している。屋根勾配を、中央部6寸と南北部7寸と・微妙に 違えているのもそれ故であろう。軒は深く、約1・5m(実測値)張出し、 軒下はボックスコーニスとし、開口部をもつベイ部には・屋根裏換気口 が設けられている。南側妻面は、屋根面より高く立ち上がる木造モルタ ル塗の防火壁とされている。  「會堂の精神はゴシックの伝統を反映するを常とするが」・平面は「あ くまで精神と機能の正しい表現」28を追及し、「あらゆる傳統的形式の塁 重を離れて考察」2sされた。第1次案の原案を踏襲して、中央に礼拝堂 (42×55尺、64.266坪)、南に講壇(15×48尺、20坪)、北に玄関部(18× 48尺、24坪)を置いて大きく3分割し、玄関部は土間、「広間」(ホール) の左右に「スペアルーム」「クロークルーム」を配していた(図11-3-9)。  床面積は、1階108.266坪、2階40.56坪、延べ149.725坪であったの が、後の増築で!階119.33坪、2階29.83坪、計149.16坪と実測されて いる。  旧玄関部は、1951(昭和26)年の玄関下屋部増築時に礼拝堂に組み込ま れ、6月初旬着工8月に完成した。  正面中央は半球ドームでおおわれた講壇とし、西側を牧師室、東側を 納骨室、貴重品室としている。東側の納骨室部分はレンガ造の厚い壁で 囲まれ、堅牢な構造とされていた。正面の奥まった壁面には金色の十字 架が浮かび、左右には幾何学模様のステンドグラスが嵌め込まれ、講壇 に柔らかな淡い光を投げかけていた。このステンドグラスは、田上設計 の新会堂(中央区北1西13)に移設されている。  2階は、小集会室を中心に、西側階段室、 「ルーム③」、東側「ルー ム①、②」で構成し、南側に奥行10尺(実測時で5尺にせばまれていた) のギャラリーが付属していた(図11-3-9)。  中央の礼拝堂は、 「合掌」28天井の高く吹き抜けた(頂点まで実測寸法 8,445mm)空間で、左右の壁面から3尺離れて5尺おきに連続する列柱と 「フライング・ビーム」とが「力の力學的關係を明快に表徴」28しつつ、静 的ともいえる空間に落ち着いた「音楽の階調を形に見るような美しさ」23 とリズムを与えていた。無装飾に近い空間は、よく観察すると、柱とフ ライング・ビームとの交差部の二等辺三角形の格間に、漆喰を斜めに浅 く彫った浮彫りが施されていたり、漆喰塗りの天井には、側面開口部に 対応して、コ型の単純な木製モールディングが施されるなど、田上らし いグラフィカルな扱いも見られた。 一 368 一 保存運動と解体  1978年敷地移転問題がおおやけとなり、会堂の解体計画を知った市民 から保存の声が起こり、翌1979年2月7日「北一条教会堂を保存する会」 が結成された。札幌の文化人、財界人、一般市民を巻き込んでの会堂保 存運動は、会を中心に様々な方策が検討されたが、約3ヵ月にわたる努 力の甲斐なく、教会側の解体方針は変わらず、 「祈りの場としての使命 が終わった時、この建物の生命は終わったのであって、他の使用目的に 供すべきではない」という厳然たる態度によって解体撤去が決定、会堂 および1952年竣工の会堂東側日曜学校校舎の解体撤去工事は、1979年4 月20日終了した。  会堂と同時に取り壊された日曜学校校舎も田上の設計で、1949年設計 依頼、1952年6月伊藤組が着工同月22日の定礎式、6月3日献堂式を経 て、10月5日竣工、同19日献堂式をあげたものであった。  保存運動の記録は、 『失われた教会堂一札幌市北一条教会堂を保存す る会の記録』(1980)に詳しいが、解体寸前の3月、保存する会の依頼で、 会堂の実測調査をする機会があり、また解体の最期まで見とどけること になった。調査は、鹿島建設㈱および解体業者(三松建設)の協力を得た とはいえ、限られた時間内での調査のため、平面・立面・断面の基本図 作成範囲内とし、構造、細部意匠などの詳細な調査は、時間的制約から 断念し、主として写真記録にとどめた。図面は、同年5月から10月にか けて作成、1、2階平面図・北側正面図・西側側面図・断面図(いずれ も縮尺1:50)および側面窓詳細図(縮尺1:5)の6葉を完成した.調査は、 創建時の姿が復原できることを前提とし、東側日曜学校側玄関付近の立 面、平面は一・部省略した。  調査の成果として、塔屋部小屋組に打ち付けられていた2枚の響板一 『新築認可証』と『工事記録』の発見があげられる。工事記録は、いわ ゆる棟札に相当するもので、工事に関わった者の氏名が詳細に書かれて おり、建築史料としても貴重な発見であった。  以下に『新築認可証』と『工事記録』の内容をあげておきたい。 新築認可証 「警保第三六四一号   札幌市北三条西二丁目一番地       小笠原楠弥 昭和二年三月二十八日付申請 基督教会堂新築ノ件認可ス   北海道庁長官中川健三」 工事記録 「日本キリスト教会堂 新築工事記録   着手 昭和弐年四月拾四日   竣工  同 年七月参拾壱日 一 369 一 図ll-3-10解体中の会堂 4 4 確 灘灘灘灘難輪舞綴灘鑛灘雛鑛懇鑑識灘1醗羅馨鰻1鷺灘i灘灘幽幽自己曙白山難1幽幽白白灘照臨纏三三掌1響難磯灘 教会代表者 設計監督 請 負 人 同現揚主任  大工棟梁  同世話役  鳶  職  石  工  家根職  武力職  左  官  建具職 ペンキ職 煉瓦職 運  搬 。                         勧                         め                         読                         も                         と                         蕪 弥 也 郎 郎 七 吉 吉 郎 吉 作 平 吉 は 作 郎 吉     太 五       次         燕   次 代 楠 義 亀 定 與 常 政 群 運 喜 茂 栄 : 清 萬 千                         注 原 上 藤 戸 延 田 山 本 田 保 島   者 宮 田 藤 笠                     筆 小 田 伊 木 身 池 内 岡 新 久 一 燕 一 深 吉 佐 一   1 2,2  r i!il;.E/ of. m! Xt“5 口 :;・ ;[L e          o  ロ暗目] 浅               tiil’!ilml: . 図11-3-11実測正面図(1979年作成)(北海道大学建築史研究室蔵) 第12章 1930年代の作品 12-01930年代の作品にみられる作風  1930年代になると、それまでの住宅設計活動の割合よりも、市街地内 の「モダニズムの尖端」1ともいうべきカフェーや喫茶店、店舗などの商 業建築、1930年の鉄道省国際観光局創設を契機として増加した観光ホテ ル建設など、時代の風潮を適切にとらえた作品が増加し、さらに一連の 住宅作品にみられたライト風スタイルからの離脱志向がより顕著に表れ ている。そこでは住宅作品と同様、「雪国的造型」が第一目標であったが、 表現手段としてインターナショナルスタイルやアール・デコスタイルの デザイン要素を積極的に展開し、さらに当時の日本建築界に刺激を与え たル・コルビュジェを意識したことも、田上自らが認めている。  さらに商業建築のファサードデザインを宣伝媒体の一つとして理解し た田上は、都市における商業建築意匠の在り方、方向性を探る手法の一 つとして、既存の建築物に表装を付加するといった看板建築ともいうべ き書き割り表現で様々な提案をおこなった。  また、一部のカフェーや病院建築、ホテルでは、一見RC造風の表現 も見られた。外観を陸屋根風のモダニズムデザインでまとめ、時には露 骨に正面外観のみの書き割り的表現としたり、外壁も白色塗装のモルタ ル仕上げなどで、この時期求めながらも果たせなかった田上のRC造へ のこだわサをうかがうことができる。  RC造的な表現は、艦船デザインをモティーフとしたホテル建築で顕 著に展開されたが、さらに目につく意匠の一つとして、ガラス張りの螺 旋階段がある。螺旋階段の採用は、コルビュジェからの影響とも考えら れ、倉田邸(1930年代)や北見郷土館(1936年)などに見出せるが、外観に 露出させたガラス張り螺旋階段は、モダニズムデザインの外観表現の一・ つとして、紀文茶屋(1932年)、パリジャンクラブ(1933年)などのカフェ ー建築や石狩海濱ホテル(1936年)、網走観光ホテル(同年)などホテル建 築などでも積極的に展開した意匠であった。  本章では、1930年代の作品を、看板建築ともいえる書き割り表現のみ られる商業建築、モダニズム期の代表建築としてのカフェー・飲食店、 陸屋根表現などインターナショナルスタイルを意識した病院建築、艦船 デザインを意識したホテル建築、その他の1930年代の作品とに分類し、 この時代の田上の作風の変化をみていくことにしたい。 一 370 一 一 371 一 灘灘総       擢 鰹 響 翻灘灘羅総懸灘.雛総懸轟轟i難論i・1鵡懸醗霧灘灘 稜 ユ:林喜代弘「昭和初年大阪歓楽街展望」  (『近代庶民生活史⑩享楽・性』1988)  p.474 三冠灘灘灘錨懸灘’離離灘灘i購嚢鱗鱗雛鞭…蓮}欝饗、鷺蒙警鶴野響聴講 一一t一 コ 墾』 ・.一 u P燭脚  軸ゆ 図12-1-1マリヤ手芸店 2:マリヤ手芸店による。 3:『七十年のあゆみ富貴堂小史』(富  貴堂、1968.3.12)p.36 4:『七十年のあゆみ富貴堂小史』  p. 51 5 『七十年のあゆみ富貴堂小史』で  は改装を「昭和4年」とするが、ここ  では設計図によった。 6:『富貴堂楽器部と書房の改造屋上平  面』スケッチ 7:『七十年のあゆみ富貴堂小史』  p.70 8:『富貴堂書房改築設計図 電気塔側  面図』 12-1商業建築と書き割り表現 12-1-1=マリヤ手芸店改修(1930) 札幌市北2条西3丁目 ファサード改修  マリヤ手芸店は1926年札幌駅前通りに開店した。店主本間テイは、北 海石版所社長の姉にあたり、店舗は北海石版所の一部を借りた。2階中 央に半円形破風をみせる木造2階建ての洋風建物で、この建物の正面一 部に、広告塔と看板を兼ねた外装を田上が担当した。  田上と交際のあった北海石版所の2代目本間清造が依頼したもので、 清造は「道心」の初期のメンバーであり、店には画家が多数出入りした 2という。デザインは東京から店舗建築の本などを取り寄せ、何人かで 話し合いながら模型を作り、商品のことも考慮しながらすすめ、最終的 に田上がまとめたと思われる2。  「マリヤ」とカタカナの店名を縦にレタリングした塔部の垂直性と、 「maRIYa」とアルファベットの大文字小文字を混在させた横長看板とが 微妙なバランスを保った、ファサードデザインというより立体的な造型 看板である。  都市における商業建築のあり方に様々な提案を重ねる田上にとって、 こうした部分的な改修工事もまた、商業建築意匠の方向性を探る願って もない実験の場であったのではなかろうか。 12-1-2=富貴堂改修(1930) 札幌市南1条西3丁目 1930年5月設計 ファサード改修 1937年取壊  1908(明治41)年11月に開店した間口7間、奥行15間(石造倉庫4×5間 含む)の石造2階建て店舗3とその東側に1918年夏に増築された間口3間 奥行7間木造3階建てモルタル仕上げの楽器部店舗4のファサード改修 である。  1950年5月、これまで個入経営であった富貴堂の機構を合名会社富貴 堂と改め、店主中村信以は代表社員となった。残されているr富貴堂書 房改築設計図北面姿図・断面a』(図12・一1-3)には、「1930.5」の日付が あり、機構変革を契機に改築が計画されたと思われる5。  石造2階建て店舗の屋根面に束を立てて片流れ屋根とし、 「コーピン グ」B(笠木)を大きく張り出して陸屋根風にみせ、西側に「伸びゆく店業」 7をシンボライズする高さ50尺の「電気塔」8を建て、rFUKIDO SHOBO」の切 り文字を縦に並べて浮かせ、隅部にガラスを入れ内部に照明を組み込む 「隅あんどん」8とした。書房部東側の防火壁上にも西側塔と同サイズの 横長ガラスをいれた「あんどん」とし、西側高塔上の旗竿には社旗をひる がえした。  明治期の典型的な商店建築からの見事な変身であり、札幌の中心部南 一条通に異彩をはなち、都市における商業建築自身の広告媒体としての 存在を強く意識させる作品となっている。 ♪ ∵       1     一 , ‘ 1 1 , ー ー 幽 些 一 ㍗    @鰯   等 ■ - 詩 一 -   畠 ㌔ , 唱 } ド     戸 巳 ー ー       響 v - 1 ← 1     1     1 t ー ト ロ ー , b μ       ・ 嚢 碧 煮 … 鯛 箋 } 乳 ド 1     一 め 衝 乱 二 曜 。     ● , 醒 讐 q U ◎ 3 濁 O ㊤ ◎ 亀             , 3 ・ , 蒔 4   管 ノ -   I     l     一       乙       1     ん 廷 一       -       一       - 恥 M 別 ウ 邑 . て 一       l I       l I   ㍗ ξ 隔 鰯 ●       i 爵 1       1 1 1     匹 白 鷲 . 漏 ”   が 解       - 瓢 f . 厨 剛 繭 團     灘 矧 鵬 ㎜ 準 」   , 雪 漁 一 h . 図12-1-3富貴堂書房改築設計図                                     帆   .                   ネ             ㎝   一 12-1-3=札幌第一農園11(1930) 札幌市南1条西24丁目(札幌市外円山村南大通4丁目)木造2階建 1930年5月設計  1930年竣工の安部信明新開脇に付属して新築された小店舗である。19 26年4月頃新築の田上の最初のアトリエ(「百圓の家」s)以来、1928年の澤 枝邸アトリエ(札幌)、1929年里美勝蔵アトリエ(東京郊外)など、初期の 作品からみられる片流れ屋根デザインの一ヴァリエーションである。  15×33尺の長方形平面の建物で、1階は前面に土間床の店舗、背後は 吹き抜けの倉庫、店舗上に倉庫空間をもつ。正面北面は2階鼻隠し下端 までの高さ20尺、南面背後9尺まで屋根を葺き下ろしている。  外壁は1階部分を下見板、2階を「独逸ナマコ」1。仕上げとし、正面 2階左手の半円形小窓と、横長押出し窓の組み合わせ、片流れ屋根を支 えるかのような西面窓の斜め材の組み合わせなど、小粒ながら目を引く 外観意匠を呈している。 12-1-4=岩城新聞店(1930) 旭川市2条7丁目11木造2階建1930年6月設計  新聞店の店舗併用住宅である。片流れ屋根の建物の前面を書き割り的 に扱ったもので、内部構成とは無関係に左右対称のファサーード意匠とし、 正面陸屋根左右に「パコラ(ママ)(藤棚)」12を翼状に広げ、左右の箱型の壁 は「下地メタルラス張り色付モルタル叩仕上ゲ」13としている。『岩城 新聞店新築設計図旭川階上・階下平面・姿図 NO.ISには、正面図に赤、 ? 璋 焔    ’tc    員  Mn;や 嫡曜_.脳一・}ρ_.一_.,、.・ ” 図12-1-2 富貴堂 ン に 噌 蝉 9:小樽新聞(1926.4.13) 10:『安部信明氏邸附属店舗新築設計図』 図12-1-4札幌第一農園l1 11:新免克己氏による。 12:『岩城新聞店新築設計図二階梁伏・  床伏・断面』 13:『岩城新聞店新築般計図旭川階上・  階下平面・姿図NO.1』 一 372 一 一 373 一 灘1難難灘搬灘,鐙羅簸灘’蕪蒸灘難鑛鐵i灘i藁薦難騨欝難懇糠灘幽幽自賠難山難白白三郎欝血幽幽講欝2∴響出自白白・襯 一三三三羅綴織灘鑛 躍 難鷺懸灘鰻離離轟灘  サ,,嚢黙 .’騨.…  ,,. 14:『北海道商工名録』 (北海出版社、  1930, 9. 20) 15:『小笠原商店卸部新築設計図 階下』  平面・階上平面・立体姿図』 図12-1-6 小笠原商店卸部正面図 青、黄色の色鉛筆で着色されており、水平軒板・額縁などは青・!階腰 壁下見板は薫左右の箱型モルタル壁は赤と黄を混合している・同じよ うな色彩で完成したとは思えないが、グラフィカルな表現を得意とした 田上らしいエスキスである。  パーゴラ頂部まで地上から33尺の高さの小規模な建物であるが、この ファサードデザインは、田上の兄弟子にあたる遠藤新設計の1925年東京 帝国大学学生基督教会青年会館の正面デザインに酷似しており、遠藤新 の影響を強く感じさせる小品である。  間口5間、奥行7間1尺の長方形平面の1階は、作業場、事務室、応 接間、茶の間、台所、便所、奥行約5間の2階は前面に8畳2室、階段 室、押入をはさんで、6畳2室、子供室(5畳)で構成されている。 ” ,●/l’ u ! 調 豊叢濾i慈 1  ___… 一一 A 一  一 @}…『 噌 一@  三≡ま 二⊃    一 、                             F   一                                           「 陪削9払藷 ↓ ㌧ l l } 一 訪 賢 : 辞 一 一   ,、へ.、~ @ ント鳶 @、   鞠  ’  ・ ヨ    = 三三買’一 藁』,∴= 一曹■=====二 一一『 @  __二__  ,一,胃,===  _ 黶@∴三二三ママヨ==一・ 一 1 } 一 P     亡 r   一 一 _槽      ’   _                                噛  , f窪===7二∵7=一     =一   一_ 化   面                   涌    商                  南価レ    FY, 1・                   F停  ヒ 図12-1-5岩城新聞店平面、姿図 一 響     , 回 }    一  一 一 撫 、     一  一      一 @一瀞 } 一 一 一   一 @ }酔 ,    一 一黶@     冒        一 一 一      一   一   冒 一一 -   一 一    一    一    一一 謄  一   r 一    一 ρ 「 一  一 一  一 } 一 窟    e 12-1-5=小笠原商店卸部(1932) 札幌市北3条西2丁目 木造2階建  文具、小間物、雑誌卸小売店土佐屋14の店主小笠原楠彌は、日本基督 教会北一一条教会の長老を務めた人で、教会の建設(1927年)が縁となり、 店舗設計を田上に依頼した。  30×33尺のほぼ矩形平面の小規模建築であるが、1930年代の多くの作 品の意匠の一部として採用されている早取り(フレーミング)手法で外観 を引き締めている。この建物では2尺成の笠木を、額縁状に左側地上39. 5尺の高さの塔屋部分から建物の外形に沿って隅部1階まで連続し、右側 は一段低く地上34尺の位置から1階欄間まで廻している。枠取り部は人 造石、1階腰部を黒色タイル張り、2階以上の正面外壁を「モルタル独 乙カベ」tbで仕上げ\両側面および背面は「アサ野耐火壁板」’5で仕上 げている。1階欄間上の看板部には照明灯が組み込まれ、市街地建築で 多用した「あんどん」効果を演出していた。  開口部も1930年代の田上スタイルの要素を採用し、塔屋部の中心に真 鍮パイプを十文字にはめた丸窓、右側笠木下にスリット窓、2階中心に 上下2段の横長引違い窓、右側枠部を中断するように付けられた横長ガ ラス3段重ねの出窓などを見ることが出来る。 12-1-6=千秋庵帯広支店(1933) 帯広市西2条南9丁目 木造3階建 施工:大江某(大工)1965年取壊  ユ933年5月上旬起工し、7月5日開店したエ6菓子製造、販売、および 喫茶店である。店主は岡部勇吉17、28歳の「新進の人」16であった。当時 の新聞には、 「西二条銀座通の一角に、例外なく誰の目をも惹く、明朗 な白おう(ママ)の建築物、どこまでも都会的で、而も親しみ深い、モダー ンな建物こそ味覚の殿堂千秋庵ですゴ8「設計は芸術味豊かな札幌の田上 義也氏です面倒臭い理屈ナン温言ふ必要はありませんライト式のあの建 物から惹っけられるやうに與へられる感じ丈けでもう充分です、恐らく 田上品にしても理想に近い設計だったらうと思ひます、田上氏の偉才を 語るものでもありませうゴ6と紹介されている。  奥行の深い建築であるが、間口5間、前面奥行2間分のデザインに商 業建築らしい配慮を払っており、背後の下見板張り住宅部分とを枠取り (フレーミング)手法ではっきりと区画している。  遺存設計図18によれば、店舗部2階軒には人造石仕上げのロンバルド 帯のような小アーチを飾り、2階壁面はクリーム系タイル、半円アーチ 飾りを付けた縦長窓とあわせて珍しくロマネスク風の意匠を借りている が、縦長窓の横長ガラスのサッシュ割り、横長ガラスを立て込んだ出窓、 3階塔屋の丸窓と横長サッシュの出窓、!階階段室の丸窓などは、まさ しく田上が1930年代に好んで展開した建築要素である。  1階看板部分は遜色タイルで、左右に丸灯を付け、右から「札幌千秋 庵帯広支店」のレタリングを掲げている。塔屋上部の旗竿も田上好みの 意匠のひとつである。また喫茶部の家具の設計スケッチも残され、空間 をトータルに考えようとした田上の姿勢をみることができる。  当時の新聞19掲載の写真などをみると、実際には軒先アーチは水平蛇 腹に変更され、窓アーチの彫りも浅く、設計図の立面図よりも平滑な印 象を受ける。塔屋部分の高さも増して、田上の提案したプロポーション に比べ頭でっかちの作品となっている。看板も、「生波」16と号する札幌 中央寺住職が揮毫した「千秋庵ゴ6の文字に変更された。  平面は、!階74坪、2階45.25坪、3階8.75坪、計128坪の建物’eで、 1階が売場、台所、居間、工場など、2階が喫茶部、使用人室、3階は 塔屋となっている。2階の喫茶部は、「出来得る限り家庭的のもの」’eに しようと、 「ボーイの服装は勿論、飲物にもお菓子類にも」18注意を払 い、 「帯広における唯一の気軽な喫茶店」IBとして親しまれたという。 一 374 一 一 375 一 き お       な ロ 1」i羅灘1 灘欝 欝灘懸灘灘羅灘灘i羅議論1灘i難1灘  黛  v”’N”1へ・一k 難砂 16:十勝毎日新聞(1934.2.14) 17:十勝毎日新聞(1934.12,11) 18:『千秋庵三三支店改築設計図立体・  平面・工場・断面』 19:十勝毎同新聞(1933.7.8)      藩」筆洗一_ .、,、 三三鑛脳  ew 2 ㍉ 雫 岳 ゑ 小 ア !   ぜ ・ : ∵ ・ 海 挿 ξ 愛 き で 魚 婁 ’ ㌦ 〔 ノ ハ 、 喉 拶 懸 嶺 ・ . 競 麟 領 難i灘難難1難1熱欝鍵灘魏魏1:難彫渥酌避響懇懇岬騨∴{           一一L瓢、〆・蹴∴恥’   ,もみe  ’で 20:『田上義也建築鐙集』p.90     諏 タ 馨 噺   マ を ミ ぎ お モ     嶺 一me“bewhma ac一 図12-2-1亀屋支店正面外観 図12-2-2亀屋支店内部      ,         卜            §     歯   =  、一  零      ㎝孕   弓  ‘ o   實箕.              黒 σ    ・・一   趣      ● を       コむヒ       の 図12-1-7 千秋庵帯広支店正面・側面図 12・・2 カフェー・飲食店 酬  1 P・T・ の,  0 S綱A6脅 V「切”「7w7-7一門7『丁一 黷�決齣w一一士・ 。 魂 曹 ’察一一 _    像 4  / 秩@    “ @    ; t .一 滋 一 ∫ 」 _ @〆L  一一 顎縄釜 一 ’ }       ・ヨー一LT  【一 一. 噂            r-L =一 = 圭延墾一 12-2-1=亀屋支店(1929) 札幌市南1条西3丁目 木造3階建  南1条十字街に建てられた「レストランとティールーム」20である。  「思ひ切ってダイナミックに表現せる雪国的造形意図」20の作品で、屋 上のカンチレバーのパーゴラ風庇やスリット状の旗竿支持塔などの軽や かな扱いは、「最上層空間に於けるマッセと蒼空とのリズミカルなる操 作」20を意図したものであったし、ファサード右手の細長い行灯型照明 具も垂直性の強調に一一役かっている。  内部については、!階喫茶部の内部写真(図12-2-2)やパース(図12-2- 3)が残されており、床はモザイクタイル、円形ペチカを囲むように客席 が配置されていた。正面奥間仕切壁の隅には、上方にいくほど広がる7 重の半円飾りがっく。照明塔のようにもみえ表現派風の意匠が注目され る一方で、六角形の背をもつ椅子にはライト風意匠が認められる。  当時出版の『大札幌案内』(1931年)には、 「新装をこらしてモダーン 喫茶店の先駆をなしてから、ここの舗道をいやが上にも華やかにした。 ラッシュアワーには若いサラリーマンで、レヂスターは猛烈な回転を開 始する繁昌振り。設備がすべて新しくノーブルであるのもよい。見渡せ 図12-2-3亀屋支店1階喫茶部バース ば客種はざっと教授、医者、重役といふところ。」と紹介されている。 経営者高橋達一は、食い道楽の粋人で、カレーライスにワカメの味噌汁 をつけるといった独特の経営をした人で、仕事への情熱も激しい人であ ったという21。 12-2-2=ヤマニ(1930ころ) 旭川市4条8丁目 木造2階建 1928年計画  開店は1923(大正12)年zzである。当時は「ヤマニバー」とよばれた22。 経営者弓田弘は、共鳴音楽会の会員としてチェロを弾き、また「旭川に 近代風俗」22を持ちこんだ文化人のひとりであったが、旭川で始めた新 感覚の事業は、時代を先取りしすぎて全て失敗している22。後述するア ポQ、パリジャンクラブのいずれも高田の経営で、新改築の設計すべて に田上を起用した。  1928年9月31日付け『ヤマニビルデイング新築設計』(図12-2-4)が1 枚残るのみであるが、当初は既存建物の一部を取り壊して改築を考えた ものと思われる。立ち上り寸法の大きいスパンドレルの扱いや、最上階 のパラペット部と階段室壁高とで額縁状に建物を枠どる意匠は、田上の 1930年代の作品によくみられる扱いである。ラフなスケッチであるが、 玄関部欄間や各階隅部に幾何学文様の装飾を意識した書き込みがみられ る。1階は吹き抜けの大食堂、2階は一部食堂部で、新館背後の旧館上 にはルーフガーデンが計画されている。 【 r サリ嘲, 1τ       ● 齣 w   嬬 . 1    、  一 } 蟹 1 1         しg 謝  1       一C       =      1 一 噂 8 , 一 〇   l       l @      一C  q 黶@ .脾ヨ .2 一,・ニ 婁;み「詳 τ 曲ψ ↓、 一 一 ,   「二 K ’ ㌃   ,   ’ の   ,   轟   4   0 幽=r●. 黷P @遭 1 老I l  .L       l さ’ 7り 111b一.・㌧助 e          噛 @       ㎜   ,「 P紡 D , ぶ こ ‘ ~ ’ . 〆     舎     竃 ,   、     ■     圏 } ; , レ 爆 イ 1 乙 .   1     ● , 蘇 . ’ , ・、・ 撃o:,  o、国恥  零、瓶、“ @  ’℃ 」    」 」 勾   の     ② 潤:叩 幅 演」 毎一面茎竃 8         、 」 畦 一     一 @  伽  ■ Eこr @ b 純戟B 。・ @ 1 寺 篤 1 璽 き       ,   L       l   , 圃       喜   湾 璽 iひ [ “ {洲 @い口 刷 r               , @    9 f  ↓ } 牽 賢 .主孟..一睾L筆ξ毒 こ。とh.。孟竃一r4一†「L 冨 7ぞ昌げ‘                玄偽旦計理証蛭亭る噌τ.曙ム 彊昆鱒の一τr篤5q阻,田392 ’σ‘り二 図12-2-4ヤマニピルディング設計図 21:和田義雄『札幌喫茶界昭和史』 (19  73.8.1)pp.45, 46 22:木野工『捌1吟昔ぱなし』 (総北海  出版部、1985.1,20)p,373             民鷺琶 {曳       ぽ エ     鋒勲 ;ll囲盟 総・ご               ヘニ    マ                 ぱ       ド 図12-2-5 改築前のヤマニ(渡辺義雄提     供)   ・      ”四・ 」■晦      v 藷.・碧,姉…一卍一㌃        サコ           ハ     濡 ” ,鰐 、   凶           一e・,    冨翌            ▼     噂     疑,・_ 一         た   ハ  ろ             の      一≦ .  f      呂猛“ぴ・一 り’・→南藤 図12-2-6 1930年頃のヤマニ(渡辺義雄     提供) 一 376 一 一 377 一 難羅鱗叢叢麟難騨1霧難灘灘灘羅灘.雛灘灘i謙譲灘麗耀i二丁灘攣難曝i蕪難舞li灘繹園山自白!響応難旧劇饗一驚鷺懸隔羅劇烈欝白山二二ll鍵s 羅灘i灘論難鑛難1懇懇i灘灘灘購灘灘畷雛:靱融;\ 号罪甲羅胃『鰻唱㌦鰐1ご・’ 二’撚蚤“・                   貞’儒罫 へ曳 f覧 ?   ト ∵   -. E 訴 勃 ご 塞 F 雪 農 辱 隔 . 誕 ’ ン , 補 夢 , ∴ 多 ゴ 鵡 2昭隷畿rいる』儲渡辺義雄 24:『旭川今昔ぱなし』p.374 25:旭川新聞(1929.7.20) 図12-2-7 ア:ボQ 26:『大札幌案内』p.113 27:『物語薄野百年史』p,225 …綿査Ti..∴瀦引           譲            二窟響            1猷驚            避三三 図12-2-8㈱三條の広告(1大札幌案内9)  この計画案は大幅に縮小され、最終的に既存建物のファサード改修で すまされたらしい。看板建築に近い書き割り風の意匠であったと思われ るが、田上の市街地建築作品に多く見られる手法のひとつである。  改装前1922年ごろの写真(図12-2-5)で、左側の3棟がヤマニである。 中央に入母屋屋根の建物をはさみ、左右ともに1階を大きく開口し、右 棟は2階に下見板、上げ下げ窓の洋風意匠をみせ、左棟は2階も大きく 開口した和風の建物が並んでいる。右手の大きな洋館は、旧北海ホテル である。1930年旭川4条交差点付近を写した写真には、改修されたヤマ ニ(図12-2-6)がみられ、左脚部分のキリンビールと掲げたファサード部 分である。  ヤマニは、1934年2月17日の旭川新聞に広告を出し、営業を閉鎖し、 店舗は一般商店に開放し、今後はパリジャンクラブ経営に全力傾注の謹 告文が掲載された。実質的には1933(昭和8)年には営業を中止し、小原 金物店に変っている23。 12-2-3:アポQ(1929) 旭川市4条8丁目 木造2階建  前述のヤマニの喫茶部にあたる。旧北海ホテルとの間に開業し、主と して町の美術家とか文学青年、新聞記者らが出入りし、ここで詩集、歌 集の出版会などもよく催された24。  「黄を基調にした原色塗りの甚だモダニティな建物」25で、名前は旭川 新聞の記事(1929.7.20)によれば、 「A.B.Cuoといふローマの幸福(殊 に恋愛の)の神」に由来し、「アポをそのま、にしてCuoキューをQ」とし た。新聞掲載の写真からでは詳細は不明であるが、おそらく外装のみの 改修であろう。黄色の色彩とともに、丸窓や正方形、水平、垂直に配し た長方形のコンポジションなどが、 「近代性」25を表現していた。 12-2-4=カフェー三條(1931) 札幌市南3条西3丁目 木造平家一部2階  「清楚、気転高雅の三大信条を以て、ホテルの気品とカフェのおだ やかさの中間を行く高踏的カフェの先駆」26をうたい文句に誕生した「会 社組織で企業化された」2Bカフェーで、小樽市にも、支店小樽会館(水天 宮鳥居前)、公園ガレージ(公園通)、分店酒場黒船(電気穿通)を経営し た。カフェー三四は、 「建築芸術と姿態美と味覚技巧の交響楽を氾濫さ せる」zeとの意気込みで計画されたもので、三下ガレージも併設し、裏 には純日本料理の分店太郎茶屋が付属していた。  既存建物の外装とインテリアを田上がてがけたもので、 「コマイの上 に型紙を貼った粗放なもの」a?であった。外観写真のみしか残らず詳細 は伝わらないが、ウダツ付きの木造平家の母屋と付属蔵の建物180坪の 改装のようで、バタフライ屋根のように広げたルーバー庇やアティック 部分に縦=桟装飾を施した部分に田上らしさが表現されている。この部分 の2階中央にみられるアーチ窓は、当初からの窓をそのまま利用してい る。  「ライト式五段床面」28と名付けられたスキップフロアの内部は「船室 のような作り」26の座席を配置し、建物の外壁腰部の軟石の積み方にも 田上らしいグラフィカルな扱いを見出せる。 12-2-5=キャピタル(1932) 釧路市西幣舞町26(現末広町2-11)木造2階建 1931年設計  釧路でのカフェーの魁は、1927年の稲荷小路ライオン文化食堂といわ れる2S。その後、北陽軒、千草軒、赤玉、クロネコ、オーシャン、ミミ ーやキャピタルなどが出現し、一時はカフェーだけでも市内大小400軒 を数えるほどであった。とくに1934年ごろにはカフェー、飲食店、料理 店をはじめ一般商工業者の好況時代が出現し、その好況は1938年頃まで 続いた23という。  キャピタルの開店は1932年1月、1929年発刊の『釧路市商工案内』に は、経営者柳澤トキの名が確認される。 「コーヒー一杯のお客さんこそ ほんとうのお客さん」3。をモットーに、コーヒー!杯の客でも希望があ れば自家用シボレーで送迎した。1934年に経営者がかわり、カフェ「街 の酒場」となり、1945年7月釧路空襲で焼失した。  1983年発行『月刊住宅ライフ』Vol.28に田上の回想が掲載されている。 「釧路市のヌサマイ橋のほとりに、約三〇〇坪のくキャピタル〉という キャバレー風の社交場の設計を委嘱された。この仕事は設計一切を私に 委任されたもので、龍神の精をテーマにクシロ河への荷揚げの喜びと安 全を祈念する幻想風の造形とし、その龍眼を、Capitalと正面の塔の中 央にネオンを入れた。このブルーネオンは当時のクシロでは初めてであ 図12-2-10キャピタル外観 28:『大札幌案内』p.127 図12-2-9 カフェー三條外観バース 29;『釧路市史』(1957.9.15)  pp.432, 433 30:釧路新聞(1932.1.9) 図12-2-11キャピタル玄関 ・一@378 一 一 379 一 灘灘購i灘懸灘懸盤羅灘海難灘灘購灘鐡灘鱗i灘灘灘雛鑛讐欝灘難1白白灘一白難灘自白白白一難自白難白白講三一白山一二1灘灘 、、、”灘講i雛・難懸i鑛灘雛羅簿難鍵 亀 隔 警 . 隔 図12-2-12キャピタル2階食堂 図12-2-13キ・ヤヒ●タル2階食堂 図12-2-15紀文茶屋正面図 31:『アパートホテル・新築設計図・SHe-  et 1S 32:『紀文茶瓦屋改造矩形之図』 り、この製作は、今日高名なロバパンの社長である、当時の情熱の青年 ネオン屋さんの石上寿夫さんであった。氏と私は師走の雪中に座りこん で輝くネオンの開眼に感銘を深めあいました。(中略)ヒューマニズムに 溢れている漁業の港町に、キャピタルは人間の心をともす安らぎのいこ いばたれ」との願いで設計したという。  回想にあるように、外観意匠のテーマは竜神の精である。龍の頭部を メタファーした隅角部を強調し、曲面をえがく外壁は上部にむかってセ ットバックし、単純ではあるがボリュームのあるデザインは表現派的な 印象すら受ける。1階玄関廻りはモールディング付きの額縁の小壁で縁 取るが、こうした縁取りの手法は田上が好んで採用した意匠のひとつで もあった。キャピタルでは、さらに外装を細かなタイル貼りとして、幻 想的に仕上げられている。正面入口の欄間には幾何学的な模様のステン ドグラスをいれ、木製ドアーの下部は真鍮製プレートでコの字型に覆い、 一部は鋲頭を露したり、真鍮パイプの取手を手摺り風にアレンジするな どアールデコの影響も認められる。同様のドアー意匠は、ほぼ同時期の 札幌の紀文茶屋の入口でも使用された。  計画当初は釧路ホテルを併設する予定であったらしいが、実施案では 1階が食堂、ティ・サルーン、ビリヤードルーム、中庭中央にプールが ありガラス張りの天窓が覆っている。2階は大小4室の食堂であり、3 階は女給のために使われた。     摺  T.    、 図12-2-14キャピタル平面図 階 」島 また、旭川パリジャンクラブの項(12・一2-7)で述べるように、田上好みの 意匠であった。  カフェーへの入口廻りの意匠は、釧路のキャピタルと酷似しており、 また玄関部分の独立角柱には、電灯が段状に組み込まれ、他のカフェー のインテリア同様、照明デザインへのこだわりがみられる。  平面は、1階がカフェーを中心に、右手にホテル入口、洋室1~6室 を鉤の手に配置し、ホテルの「エントランスホール」31中央の螺旋階段が 2階ホール(「パーラー」3ユ)とを結ぶ。左端には茶屋への入口があり、ガ ラス張りの螺旋階段で2階へと導かれる。カフェー奥にはパーラーをは さんでプール(池)がある。2階は、「ロダイ」と前面廊下(「バルコン」31) に面した客間(8畳、6畳の続き間)、客間(8畳)のほか、廊下をはさんで 3室あり、ホテル部は1~7室の洋間で構成されている。  1932年12月14日の北海タイムスでは、「紀文ホテル開店、宿泊王朝食 付一円、一円五十銭、休憩料七十銭、一円」と「募集、女給、料理見習、 ホテル女ボーイ、二階廻り女中」と広告が掲載されているが、『物語薄 野百年史』など管見した文献には、まったく掲載されていない。 立 萄 ヒ 亘 理 ・ :, ts’ :ll’1:’1一., .rll’llii r ,サ  t 一 口陶go口団コAVA    ・口網障葛 Σ難で7一町}黙榔γ魯~、 一.論噺轡群壷蜜爵 rli7:uzl-q.S 重文葦配罐 塁濫“評 tM. 脚 ’ 畷2 - ・ 賎曜 . 輩 d 陶   一 } t L ㌧ ・ 卿 r - #   爆 一       ● ” 了 了 ㌻ 至 } 12-2-6=紀文茶屋(1932) 札幌市南5条西4丁目 木造3階建  すすきのに計画された「アパートホテル」31兼カフェ兼茶屋の建物で ある。  正面ファサード部分のみ陸屋根風のモダニズムデザインでまとめ、背 後の建物は他の市街地建築作品同様、切妻屋根、下見板張りという在来 型としている。「ロダイ」3aやロダイ上の小庇、パラペットなどの水平線 の強調、外壁の「ラス下地モルタル上塗白シックイ」32仕上げなどは、こ の時期求めながらも果たせなかった田上のRC造へのこだわりの一表現 と見ておきたい。さらに建物端部に配置されたガラス張りの螺旋階段も 一 380 一 図12-2-16紀文茶屋設計図 12-2-7=パリジャンクラブ(1933) 旭川市4条7丁目 木造2階一部3階建 1935年閉店  旭川で「ヤマニ」「アポQ」とユニークな店を次々と開店した丁田弘が 経営するカフェーである。  正面左手のガラス張りの螺旋階段とその上部に続く塔がデザインポイ ントとなっており、2、3階通してのガラス張り壁面も斬新である。ガ ラス張りの螺旋階段は、前述の紀文茶屋(1932年)のほか、石狩海濱ホテ ル(1936年)や網走観光ホテル(1936年)でもみられる田上好みの意匠のひ 一 381 一 .難職官 .鐵雛’灘羅灘灘灘鑛i灘灘灘轟轟轟轟孫孫轟轟翼 難.灘1’灘1灘白白 ’一白三無欝疑・鱒繊驚・一二二三騨’ 毒 J W ポ 5)’NE’ Ere,tgeS¥tES:Thg 灘灘纏縫懇懇講灘1欝欝饗難騨欝f灘鋸離猿羅、轡il 図12-2-17パリジャンクラブ正面図 33:『旭川市史第三巻』(1959.7.1)  p.838 34:『CAFFE 1設計図1933』 35:『旭川今昔ぱなし』p.206 とつである。螺旋階段屋上には木製手摺りもみられ、陸犀根風の意匠で あるが、正面から背後にゆるやかな勾配の片流れ屋根の建物である。フ ァサードしか表にだせない市街地建築デザインの常套手段であり、多く の田上の作品でもみられる。  rCAFFE設計図1933』によれば、軒高36尺、螺旋階段頂部32尺、「ブ リキ板張り」の塔屋高41尺、階段室上部の旗竿先端まで53尺、旗竿には アールデコ調の7段の輪飾りを付けるが、自転車のホイールを転用して いる。  間口5.5間、奥行12.5間の長方形平面で、図面に「PROMENADE」と記載さ れた2階には、ブラジルコーヒーを主とした喫茶部を設けたが、その構 成は極めて新鮮で、一部の市民から喜ばれた33という。階下の広い踊場 「AUDITORIUM公衆社交場」34を見下す喫茶部の配置や、入口から喫茶部 に昇っていく螺旋階段は、当時としてはモダンの先端で、すこぶる好評 を受けた33。  1階正面奥にカウンターと台所を配置し、台所前には2階までの内部 螺旋階段が配置され、その螺旋階段から2階へは「CORIDOR」(ママ)34が結 んでいる。前面一部を3階とし、女給用畳室とした。  前面螺旋階段の中央は「タモリガラス」34をはめた照明塔(「アンドン」 3つで、夜ともなれば階段室にはめた「半紙判」34のガラスを通して、ネ オンのように明るく輝いたことだろう。  1933年に華々しくオープンしたが、1935年には「旭川会館」に改称して いる35。   …   一一・・監’, r     . 一 7 lt ・“ 1:ldS Y  噸←’ ∫一三 の ー ー 「 亨 ー ー ㌣ ノ ハ . φ《 7/’ノ ’ . 劣 〃 箸 ノ珍ん躬V〃 “.s£t o( 歌 一 g20f{  弩  t. 宇喜代は1935年2代目工藤芳蔵時代に建設され、外壁はモルタル吹付け、 工;期は同年4月初旬から7月初旬までの3ヵ月位、設計料は200円、建 築費は2,000円以上であったという。  1978年12月23日に田上建築制作事務所で行われた田上義也と工藤勝美 との対談で、設計までのいきさつ、設計監理の様子などの概要を知るこ とができる。  「大正14年の冬だと思うが、岩内でバイオリンの独奏会を開いた38。 場所は二葉座だったと思う。それから随分行かないで昭和8年に2代目 の芳蔵さんから設計の依頼を受け、再び岩内へ行った。私は建築中、宇 喜代に泊って図面を書きながら監督していた。その日数は10日位で奥の 方の小屋でした。  構造は木造で3階建、外壁はモルタルで吹付けでやった。その時は岩 内の左官屋さんがやったと思う。これは近代建築なんで大変でした。カ ーテンウォールをとり入れた。当時は確認申請なんかなかったので自由 に仕事した。上のネオンについては、岩内の仕事の前に釧路でキャピタ ルというキャバレーをやった。その頃札幌ではわずか2、3ヵ所であっ た。釧路に次いで確か札幌のロバパンの主入(石上寿夫氏)にやらした。 私がその話をしたら宇喜代でも作るということになり、作ったもので、 後志でも初めてであった。」  外観は、額縁風に小壁を廻したカフェー部と、入口上の二部、ぎごち なくカーブを描く階段室の3っの要素を結合し、小規模ながらソリッド な印象をうける。塔部屋上には、釧路キャピタル同様、石上寿夫制作の ネオンがっけられた。カフェー部は、3本の方立を2階軒までのばして 全面ガラス張りとするが、この点をカーテンウォールと称したのだろう。 階段室もガラス張りであるが、他のカフェーのデザインに比べると伸び やかさに欠ける。  !階はビヤホール、2階は広間として利用したというが、設計図『DE- SIGNE FOR CAFE UKIYO』(1935年4月)では、2階もスクリーンでいくつ かのブースに分けられている。家具は三越製であった。3階にボクシン グジムがあったという。  1954年9月26日の岩内大火で焼失している。 騨 雇 』 贋 層 ■ 澗昭=冒 s・,A2’ 図12-2-19宇喜代 36:『北のまれびとくエゾライト咽上義  也〉(下巻)』では1924(大正13)年。  岩内白水会主催提琴独奏会をさすの  だろう。 奪 .》t’シ ご i,。剛ア’ Stレ!  風,り』’    ,只60 図12-2・一18パリジャンクラブ断面図 tr”r 12-3病院建築とモダニズム表現 12-2-8=宇喜代(1935) 岩内二字万代29-6 木造3階建 施工:川端組  岩内町万代で4代目として料亭を営む経営者工藤勝美の話によると、 一 382 一  田上義也は、病院建築を「最も近代的イデオロギーの上に凡ゆる現代 的建築的要素を充実せしむべき使命に立つもの」37ととらえ、「都市の小 一 383 一 37:「帯広都市計画一考察」(十勝毎日新  聞、1933.5.16) ・:轟 轟灘難灘灘購灘1雛羅轟轟轟轟轟轟 り 煽乳ョ一叢継    鷺    轍    題  一白i一白1朗朗鍵白鍵懇 灘灘懸懇懇灘購灘1難繊i饗i耀1難難繋讐懇懇簾舞蒙…畿灘鋸鎌鱗 38:「建築家のみた一九三〇年の旭川J  (新聞名不明、1933.12.25) 39:『新編沼田町史』(1982.12.10)  p. 128 40:『新編沼田町史』p.778 ⇔ か 口ai口:賦一一. ’Mrllr’rtrdiiUL;.2Lp; ・ 」のt’・解ゾ」レ  ノ   ウ.塩圃 図12-3-1浅野炭鉱病院バース(『田上     義也建築蚕集』) 41:『田上義也建築隠妻』p.87 操的表示、人間精神と生命を培養せしめ得べき暖たかき(ママ)表現。健康 的構成への表徴。生理的機能構成に対する特異なる新形膣であらねばな らない」38とした。  本節では、市街地におけるモダニズムデザインの展開手法として、フ ァサード廻りに重点を置いてデザインした病院の代表例として、浅野炭 山病院、山下紅門院、池田病院、志田病院をとりあげた。 12-3-1=浅野炭鉱病院(1930) 沼田町浅野地区 木造2階建  1968年閉山の雨竜炭鉱株式会社3s(旧浅野雨竜炭鉱株式会社)は、初代 社長浅野総一郎が設立した炭鉱である。1929年9月から開坑準備に着手、 1930年3月本坑開坑、翌1931年4月から出炭を開始したが、炭鉱開発に 心血を注いだ浅野は、出炭を待たずに1930年11月急死している40。  浅野炭は工業用で、国内産業の好不況に左右され、また再三のガス爆 発等の事故で経営は必ずしも好調でなく、1952年古河鉱業㈱に鉱業権が 委譲され、古河鉱業㈱雨竜鉱業所と改称した。この鉱業所も赤字の累積 により1962年11月閉山、同年12月から新会社の雨竜炭鉱株式会社を設立 し操業を続けたが、経営不振となり1968年11月20日閉山式が行われてい る。  浅野炭鉱病院の新築設計図は、4枚残されているが、建築書集に掲載 の平面、透視図とも、設計図とはかなりかけ離れており、田上が意図し た空間構成が、実現段階で大幅に縮小せざるを得なかったことがうかが える。  まず豊集掲載の方からみていこう。  南側に大きく開口した直線上の建築で、階段室を望楼状に垂直に立ち あげ、3階には「ガラス張りの野州を持ち炭山一帯」41を望むことができ、 「快復期に於ける患者の慰安」41に充てられた。階上西側の集合病室用の サンルーーム張出し下は「エントランス」41で、「雪国的機能成形」41を意図 した造形であった。  プランは、1階エントランスホールまわりに薬局、待合室、外科室、 診療室、看護婦室と食堂、台所を配置し、ホール東側は病室棟。病室6 室はすべて南面し、南側1間幅の廊下は、「冬期の防寒に備え」41た2重 窓の「プロメナード(散歩場)」“1とし、直射日光の入るサンルームとする ことも可能であった。病室の北側は「コリドール」41をはさんで、台所、 「サービス」41室、便所、浴室などが並ぶ。2階は、階段ホールをはさん で、西側に前述の「集合病室」、サンルーム、東側が病室4室で、1階同 様南側に「プロメナード」41を配置している(図12・一3-2)。  新築設計図(図12-3-3)では、切妻屋根の平家建物の西側一部を陸屋根 風の2階建てとし、玄関脇に丸窓付きの高さ30尺の階段室塔屋を立ちあ げる。四型案の望楼の変形である。正面、東西面からは陸屋根に見える が、実際には北側に勾配を持つ片流れ屋根としている。外壁はクレオソ ート塗りの下見板張り、2階棟では高さ21尺まで同様の仕上げとし、上 高さ6.5尺分は上下を水平コ目下スで引締め、間を「白色」42塗装した「四 番鉄板」42張り仕上げとし、南面に「ASANO TANKOHOSPITAL」、西面に「浅 野炭砿病院」と病院名を掲げる。  玄関、ホールを囲むように薬局、控室、外科室、診療室、看護婦室が 並ぶのは壼集案とほぼ同じであるが、玄関脇の食堂は「茶の間」42と名称 を変え、部屋配置は雁行し、豊集案の整然さが失われている。ホールの 東側に続く病室は大部屋!室となり、サンルームを兼ねたプロメナード も失われている。2階も6畳、8畳の和室がとられのみで、董集案に見 られる軽快さはない。  田上義也の理想とする造形意図は、住宅以外の作品では田上の意図通 りに実現されることが少なかったし、多くの場合実施段階で大幅に変更 されたが、本施設もその一例ということができる。 一   」 一 画 塀 』 ‘ レ ‘ 一 L 一 つ 一   一       r                 I mtl’J? i ; 42:『浅野炭砿病院新築設計図M3』 「 鵬rプ}ン 図12-3-2浅野炭鉱病院平面図(『田上義也建築董集』) 醤一 層一   SouIH VIe“Ax t iL 図12-3-3 浅野炭鉱病院設計図 ・ 玖 ’ 、 恥 〆 畠 転     ハ. 、. . …W 「  「1鞭”   心墨嘩心                       ロ 一 384 一 一 385 一 難鍮難難灘轟轟織灘謙謙語・灘灘灘騒 か綴・購.鋸1 購.撚瀬叢 灘懸白白白白白白講i難灘一白纏灘 灘騨rw騨 く )i ]e’ 演. 蝉酬 纒羅i灘難1欝灘i慰撫綴餐勲繋羅欝飾繊郵痙∴碧塾欝野∵州脚㈹∴総懸ヴ党卸 43:『消されかかった療術一死線を越え  て50年一』 (社団法人北海道治療師  会、1981.9.23)pp.31、32 44:『世界大百科事典29』 (平凡社、19  72. 4, 25) 45:『消されかかった療術一死線を越え  て50年一』pp.34、35 46:『消されかかった療術一死線を越え  て50年一』p.37 47:『消されかかった療術一死線を越え  て50年一』 pp.167、168 48:当主石原通孝による。 12-3-2=山下紅療院(1931) 札幌市南1条西9丁目 木造3階建 現存  1930年9月21日、民間療法を行う者のわが国初の団体「北海道治療師 会」が札幌市で誕生し、事務所が札幌市南1条西9丁目石原通孝宅に置 かれた43。  民間療法とは、医師以外の者が行う病気治療法44で、1934年10月28日 北海道治療師会が北海道庁衛生課長宛に提出の療術名称等によると、① 精神療法科、②手技療法科、③物理的療法科の3科57療法があっだ5。 適当な刺激を人体に与え、体質の改善、疾病の治癒及び予防にあたる③ 物理的療法科は、さらに(イ)電気、光線科、(ロ)温熱療法科、(ハ)刺激 療法科に分類され、石原通孝の山下紅療法は、③の(ハ)に分類されるも のであった46。  山下紅療法は、指頭をもって腹部の神経叢を按じ、神経系統の衰弱部 位を検出し、その部位(主として頭部、頚部、野崎、腰部)に対し、桑 酒の塗擦拝及び紅剤、山下液を用い、塗擦操作を行って適当な刺激と栄 養とを与え、神経系統の調節をはかり、血行を促し、回復エネルギーの 機能を増進せしめて治療保険の目的を達ず8る方法である。  1949年厚生省の依託で北海道が実施した「療術の医学的調査」研究で、 この山下紅療法を分担した北海道大学放射線医学教室若林勝教授の調査 報告47によると、山下紅剤は、明赤色の溶液に暗赤色の粉末を水に溶か したもので、山下本家が製造する粉末の製法は企業秘密という。実験で は、この紅剤は放射性物質を含むとは言えない、毒性はないという結果 がでている。適応症として、神経系特に交感神経系疾患、神経衰弱、肩 こり、胃痙攣、喘息等に有効とある。  さて建物の話に移そう。当主石原通孝は、現在地で西村真琴(北大水 産学部教授)から55円で改築前の平家の建物を買った。以前は歯科医院 として使用されていたもので、病院を開くには都合がよかっものらしい。 石原は、1930年結核で入院中に、建築専門家の話を聞き、建物をつくる なら建築家に頼もうと思っていたが、たまたま知人の片平某からバチェ ラー学園の話を聞き、田上に設計を依頼したといゲ8。  平面は、間口24.5尺奥行31尺の長方形平面の主棟と、間口15尺奥行17 尺の従棟で構成され、1階主棟は患者控室、治療室、中廊下をはさんで 玄関、応接間、便所などで構成し、丸窓部分は6.5尺幅の控室前ホー一一一ル である。西側従棟に、板敷き茶の間(4.5畳)、 洗面、台所、浴室、勝手 口が続く。2階は主棟に書斉(板間)、バルコン付き広縁(サンルーム)、 床押入付き客間(8畳)、和室(6畳)、従棟に寝室(板間)、3階屋根裏階は、 前面6畳2室、8畳、3畳などの和室となっている。  主棟の前面9尺分を陸屋根風、後側22年分はマンサード屋根とし、主 棟背後に接続する2階建て部分は陸屋根で、設計図では「平屋根.アス ファルト下地コンクリート上部タイル張り」4sとある。またマンサード 屋根部分の外壁は、 「鉄板張り上ペンキ三回ヌリ仕上ゲ」60であった。  二棟東側正面は、軒高36尺、モルタル仕上げの平滑なファサードであ る。3階に1.5二成のスリット状の連窓をコの二二にまわし、正面右(北) 側1、2階を奥行3尺ほど切り込んで、1階は玄関、2階はバルコニー としている。明らかに鉄筋コンクリート造を意識した意匠であり、コル ビュジェ的作風への意識も感じられる。2階バルコニーの手摺り、1階 中央の丸窓などは、1930年代に田上が好んで展開した意匠のひとつであ った。 // ’ i, ,ii. 霊寸: 49:『山下紅療院新築設計図平面図PL.  lg 50:『山下紅療院新築設計図姿図PL,2』 ■ 弓 硯 証 t#一 i砿’e 翼 9雅 r一一一一・一一一一一一一一一一一一..一..一一..”一一一 姥   1 . ter Ugl l 4  v 鵜 -π 穫 芋 k 傷t 9,和 踊窪            .一T5一” 図12-3-4 山下紅療院平面図49 『,ゴ ;Pl’E一;一e i i t  イ 轄 一           ,                          一  { ㎜    一                                   一 =一 齒争黶@一㌦_  …  . _    [ 一≒≧三讐ニー=三≡     曹一一   『                     曹 黶@       一             一   一 e   曹       一 n   層 一     即 冗}一一=二:7丁=一 @             1!  ;    __;=一7「====_印          r   } “   鋤釧一L    身1畔履,                 鋸甜剛 oし「 一  _」幽一曝遡型麗麟拠」 図12-3-5 山下紅療院立面図50 12-3-3=池田医院(1933) 札幌市南2条西4丁目 木造3階建  皮膚・泌尿器科池田六蔵の医院で、3階部分のスリット状連窓など、 山下紅二院(1931年)のファサードとよく似た正面をもつ。美濃紙に描か れた縮尺1/100のファサードスケッチが残されており、赤、青、黄色の 色鉛筆で、開口部、壁体などが検討されている。  平面は、間口6間奥行4間の医院部に、間口3間奥行7.5間の住宅棟 が接続する構成で、!階は診療室、控室、薬局、住宅部に食堂、台所、 便所、風呂、奥に続き間の居間(8畳、6畳)が続く。  2階は、医院部に洋室3室(18×12、12×12、9×9尺)、畳室(4.5畳)、 応接間(12×12尺)、非常階段などを配置し、住宅部では客室(8畳)、次 の聞(6畳)、子供室(6畳)が一列に続いている。 騨    一       一  7 @   」 , ・ {    単 @ 薯 @   狂       脚     剛 7     噸 駕     一 1 十 一 一   鴬 = _ 竿 一 G L   コ ◎     緬 漏   1 く て ノ 辱 図12-3-6池田病院正面図 一 386 一 一 387 一 ぽ 饗灘難灘麟蕪繊灘欝難懸灘饗欝欝響驚難藁菰孫孫1灘麟薄霧罎1醗認識灘三舞饗難鱒螺…耀i一驚響難鷲襟灘瀬瀬鎌購欝驚》1讐1、漏〆 51:十勝毎日新聞(1934.10.9) 52:十勝毎日新聞(1934.12.14) 53:『志田病院増新築設計図・帯廣She-  et ll』(図12-3-10)  医院部ホールには、螺旋階段が計画されていた。墨入れされた「池田 医院新築設計図」の原図には、赤や青鉛筆でエスキースした跡が残され ており、螺旋階段も折れ階段への変更が認められ、実施段階でかなりの 改変があったと想像される。 12。3-4=志田病院(1934) 帯広市西2条南8丁目 木造2階一部3階建 施工:横山棟梁、大沼棟梁51  東西に長い間口12間奥行27間の短冊状の敷地に建つ旧館の東側に増築 された病院棟である。設計図の日付は1934年8月、同年10月7日上棟式 を挙げた。式は、大野神官の修祓、祝詞奏上、志田信彌病院長、請負者 横山、大沼両棟梁、来賓代表杉田末吉、友入代表船戸、十勝毎日新聞社 長代理井浦編集長らの玉串奉莫があり、そのあと餅撒き、酒宴が行われ た51。竣工は1934年12月、同月14日から診療が開始された52。新築の坪 数は170坪、工費15,000円であった51。  志田病院は、1928年2月小児科専門病院として発足し、 「幾何級数的 に躍進」s3し、1935年1月10日、内科、婦人科を増設して総合病院とな った。院長志田信彌は、山形県の出身、山形中学を経て東北帝国大学医 学部卒業後、北海道大学小児科を経ての開業であった52。総合病院化に あたり、東北帝国大学医学部から内科医長高橋濟一博士、北海道帝国大 学医学部から産婦人科医長神谷虎二らが招聰された。  新築された病棟の正面東側ファサードは、高いパラペットの立上り、 2、3階に張り出したシリンダー、2階バルコニー上のパーゴラ、各階 腰部に水平に走らせた厚みのある蛇腹などが特徴的である。1階パーゴ ラ下の玄関前の楕円形窓が、アクセントとして目を引いた。シリンダー. や2階パーゴラの意匠は、この時期の田上の他の作品にもみられる艦船 ブリッジのイメージを意識したものであろう。  ファサードデザインは、田上の市街地建築作品によくみられる書き割 り的なもので、正面からは陸屋根風にみえるが、実際には前面は片流れ 屋根、背後は切妻屋根を組み合わせている。外壁前側はモルタル仕上げ、 背面切妻屋根部分は、下見板張り仕上げとしている。3階パラペット上 まで地盤から38尺、2階部分パラペット上端まで34尺とし、1、2階天 井高10尺、3階シリンダー野天井高は7.5尺としている。  平面は、間口55尺、奥行北側61尺、南側30尺(1階では27尺)の逆L字 型とし、!階部分を7尺突出させ、パーゴラ下から玄関ヘアブローチす る。1階は「エントランスロビー」53を囲むように応接室、診療室、待 合室、薬局、研究室、階段室、便所などを配置し、奥に小児室、自家用 茶の間、廊下をはさんで小応接室、休息室を配置している。2階は、東 側のシリンダー状の病室を含めて5室、中廊下をはさんで看護婦室、病 f 室3室、階段ホール奥に南側にサンルーム付き集合病室(18×24尺)、廊 下をはさんで北側に病室2、流し場が並ぶ。!、2階廊下の天井はいず れも、垂木構造の舟底天井である。シリンダーの3階望楼部分は自家用 室とされた。 三 認 司 ] 」 .   鷲   【 - = ・ . こ   ‘ ; レ   セ   ・   義   ・ 」 ←   ε   ,     蒔     胃 長 一 1    LLi;r= l寺一焉一 ~一 ゥ岡  iゼ  トー塊 !一TFI よ    嘱1     に 鯉「~’一 襲」慕’一;三鑑帳黛 !解準函. 一 製 {     5 Y , r ” 君 ザ 離三rド 7 一 覧 王 . 一 - 嚇 隣   撃 鱒 ふ 、 墨 」 亀 壽   殉 ρ 卿 縞 」   一}一} 図12-3-7 志田病院正面外観 . 『 」 懇 、 蟹 、 ミ \ ㌦ 回 、、1       院   病   田 \ 志欄鎚降図 ミ ] 、・ 志 (1955年頃撮影) (北海道大学建築史研究室蔵) 図12-3-9志田病院設計図(平面) 「 UITetdi 一 388 一 図12-3-10志田病院設計図(立面) 12-4 ホテルと艦船デザイン  田上のホテル作品には、近水ホテル(1932、弟子屈町)、十勝川温泉ホ テル(1933、音更町)、網走観光ホテル(1936)など、当時の北海道を代表 するものがみられる。本項ではほかに、一度も使われることのなかった 一 389 一 灘濡濡犠灘i灘響欝 辮響欝欝欝灘羅羅山畠. .二._∴議轟麟麟軽一驚騨響欝1三二 鱗翻灘羅羅1羅難懇懇鑛霧難難綴灘i灘饗響醗暫鷲翼麗蟹墾鯉隅;騨 54:『田上義也建築甕集』p.88 55:『中島温泉新築軸割』 滋,総・ 図12・一4一一1 中島温泉外観 ・影鍾 石狩海濱ホテル(1936)と、市街地内の浴場保養施設である札幌中島温泉 (1930)を含めて概観する。 12。4-1=中島温泉(1930) 札幌市南10条西2丁目 木造2階建  札幌市中島公園近くに建てられた「浴場を兼ねたレストラン」54である。 L字型の隅角部は、左右に柱型を立ち上げ、さらに柱型内側に照明塔を くみこんで曲面中央部を強調し、ルーバー状の庇(「パゴラ」55)をつけた 片流れ屋根が柱型上部を抑える。屋根のパーゴラ風意匠や柱型意匠は、 田上特有のモチーフのひとつであった。  残された図面のうち、日付記載のあるものは少ない。r中島温泉新築 設計図 二階梁伏.小屋伏』に1928年10月とあり、ほかに『中島温泉新    ンω・。。。〔平門解職       ロゆバのロむロビゆ  図12-4-2 中島温泉パース ■ て   冒 寄 膨 噛 & Stk “tk#gli 1嗣1ロ 11r↑r一「・鵬審ξ「ゴー ’pt一 一1  ;t ヂ 喚 7 ア ILt i    蔓   曜  功 墜翼貰} ‘  湘}f 蚤 .幼 食 童          一一一ノn£rnber)・一 図12-4-3 中島温泉新築設計図(階下) 52尾一一 一   一つ …一一’』@     .’’”一二二r一 剛  R==二 一 傘「r,一,6一幽 d  蔭 搶秩 C」誌ψ1 二= 竃◎口.菰 ’ ’二… E一 @裏 秩@    りト鳥 鼈齔 Z一 vゆ尾 メ@1 三 三 撃 濫 図 . 編 国 運 山 賎 団 、 冨物 7 一 ,   一 圃一一一一 一 一一 鋪   ・ H_一 }一  __ンー あとり之 図12-4-4 中島温泉新築設計図(階上) 一 390 一 翻.購灘羅雛鱗轟轟灘暴露懇灘黙認霧 峯 卍 築設計図 百分ノー 階上平面』には1929年10月とあるので、少なくと も完成(1930年)の2年程前から計画がなされていたと思われる。  1階は、隅角部左右の入口を入ると、「エントランスホール」56をはさ んで、天窓屋根付きの浴場部(52.5坪)と「喫茶食堂」「調理場」「応接間」 「事務室」「男部屋」56などが並び、2階は、隅角部に「無料休憩所」5?を置 き、「会合用洋風食堂」「女部屋」「洋風食堂」2室、「日本間」572室(とも に15畳)などで構成されている。 12+2=近水ホテル(1932) 弟子屈町字弟子屈!20-70木造3階建 施工:田中組(田中丑蔵) 棟梁:五十嵐一雄  釧路新聞社長遠藤清一の父平吉経営のホテルである。弟子屈温泉市街 の北側を流れる釧路川の対岸、弟子屈湯ヶ島に建設された。当時弟子屈 温泉には、長生閣、土沼旅館、子寳旅館、本山旅館などがあった58が、 ホテルは三水が初めてだったので、阿寒国立公園への観光基地として盛 況を続けたという59。  「弟子屈市街に碇泊した」「明るい一隻の巨大な」「欧州航路の優秀船」BO を彷彿させる外観は、 「緑色の聡明な小さな屋根」「裾を鑛げたクリーム 色の大きな胴膿」「マストに似た望槙には、満州新國旗のような横線旗が、 赤道直下の彩色魚みたいに翻へって」60いた。珍奇をてらったのではな く、一切の装飾や無駄を大胆に削り、しかもホテルとしての合理的実用 性に基いて単純化し機能化した結果が、必然的に船の形態に帰結したと いう6’が、後述の石狩海濱ホテルに至る習作の一一つとしてよいであろう。  工事は、第1期本館、第2期別館と分けられ、第1期工事本館は木造 3階建て。プラントボックスを兼ねた門柱は、 「建築の触覚としての役 目を」61果たし、スロープでホテルの玄関へと導く。玄関から矩形の「休 息と食堂とを兼ねるサロン」62を通して、釧路川の流れを遠見すること ができた。サロンの右手を数段下りると1丁丁の廊下に導かれ、左側に 客間3室が並び、さらに脱衣所へと通じている。  浴室は、モザイクタイルで床を敷きつめ、東南に面して轡曲した大き な開口をもち、 「欄間にちりばめられたステンドグラスは、湯に浸る人 の心持を和らげ愉しませる、快い階調を奏でて」e’いた。脱衣場共有の 男女混浴の浴室であるが、楕円形の浴槽は、中央の低い仕切で一応男女 用に分割されている。  サロンの左翼は和室で、基本段階では8畳2室であったが、実施段階 では次の間(6畳)付き和室(8畳)に変更された。廻り縁をめぐらし、 外側に柱型を強調したパーゴラ付き「テレス」を廻していた。  2階はすべて客室である。大きくとられた「硝子窓は、充分に下階な 光線を室内へ吸収し雪國の旅人の健康を朗らかに嘔ってゐ」6’た。『近 一 391 一 56:『中島温泉階下プラン』 57:『中島温泉階上平面図』 58:鉄道省『日本案内記北海道篇』(19  36. 3) 59:『月刊住宅ライフ』(1983.6.D 60:「社同人の弟子屈紀行【二】」(釧路新  聞(1932.9,28カ、)) ・ 』 翼 図12-4-5 正面(北側)外観 61:「社同人の弟子屈紀行【四】」(釧路新  聞(1932.9.30カb)) 62:基本設計と考えられる『近水ホテル  設計図NOユ (1932.1.)』(整i理番号  236-4)書き込みによる。実施設計図  では単に「食堂」と記載されている。 図12-4-6 南東外観 F灘難懲醗灘騨雛灘難騨鐸繋難灘i難繋難鞭i騨鯉騰響照鍔}1欝欝盤懲隠 饗譲羅羅欝      ;腕・ 63:「社同人の弟子屈紀行【六】」(釧路新  聞(1932.10.3カh)) 64:「社同人の弟子屈紀行【七】」(釧路新  聞(1932.10.4か)) 水ホテル設計図2』や『近水ホテル設計NO 21932・1・』などの基本設 計には「ルーム6~11」の5室で構成されている。北側に並ぶ「ルーム7、 8」(3坪)、「ルーム9」(5坪)の南側には、サンルーム的な「プロメナー ド」を、また「ルーム6」(3坪)および7、8室の北側と9室の西側には 「バルコン」を計画している。北棟に連続する西翼は、広縁を廻す「ルー ム10」(和室8畳)と「ルーム11」(3坪)で構成された。実施段階では、「プロ メナード」は採用されず、客間9室が縮小(4坪)され、広縁も3回忌の 廊下に変更されている。  3階も「ルーム12」(4坪)、「13」(4.25坪)の2室であったのが、客間(4 坪)と望楼(2.25坪)およびデッキに変更された。  釧路新聞に弟子屈紀行を寄せた「仁麿生」と署名の記者は、たまたまホ テルで田上と語らう機会を得、当時の田上の風貌を「ロイド眼鏡と、廣 い額と、パッショネートな厚い唇と逞しい体躯」63と伝え、対話を通じ て田上が語る建築観を引用している。その語るところを要約すれば、前 半は、ライトの「日本人は日本の民族精神や自然風土に適した建築を作 るべき」63という言葉を引用しつつ、建築を1枚の風呂敷にたとえ、建 築は正直に生活内容を表現するものでなければならないこと。さらに人 体の構成にたとえ、建築も各自のもつ個性や生活を如何に正直に造形的 に表現するかということが必要という。  具体的に近水ホテルの設計に対してもふれ、弟子屈は武蔵野のように 変化の少ない坦々たる土地であるが、地下から沸く温泉、釧路川の清流、 対岸の低い丘の起伏と遠山との立体的な風景を見るにつけ、 「私の構成 意欲は自然に恵まれた水と湯との大なる湖上に浮かんでいる船の想念を 直感し」84「水に近き大地の熱情を主題とせる旅人の心を港のような優し いしかも豊穰なおだやかさを以って憩はしめるホテル」B4を意図したと 語る。  また、東南面を完全にガラス窓で埋め尽くした点を、人はなぜ頑丈に 壁で包まなかったか不審がるだろうが、 「風、暴風、吹雪、寒氣など傳 統的な雪國の条件を防禦するため壁で包むことは光線を否定するもので あって却って反封な効果を生むと信じ」e4、この点が「雪國建築に封ず る新解繹である」s4という。このホテルは強い建築である。石や煉瓦の 囲いということではなく、立木のような弾力をもっことで、力の性質の 「勢力的構成」e4を図り、風が吹いても揺るがず雪にたいしてもすが(ママ) を洩らすような不愉快さは絶対になく、寒風の侵略に対する武装は充分 整えたっもりである。鞄でない建築を作ることが自分の一生の修練であ る.近水ホテルは、自分の貧しい作品として未だ世に問うほどのもでは ないかもしれないが、真剣な意味で以上の思想の一・端を随所に大胆に表 現したつもりであると結んでいる。  本館(1期工事)に続き、本館東側に新館、西側に別館が計画された。 新館についてはエスキース『近水HOTEL・設計(増築)・1933・Tanouye』 が!葉残るのみで詳細は不明であるが、『近水ホテル別館新築及本館新 館改造設計』(1933.9,9)図のタイトルから、新館竣工の後、別館が竣工 したと推察される。別館は、遺存設計図(図12一一4-11)などによれば、1 階は、玄関ホール南側に続き間の客室(8、10畳)と南側畳廊下、西側に 畳敷きでベット採用の2室(10、8畳弱)を配し、北側に宴会場(84畳)を突 出させた。  寄棟屋根の宴会場(図12-4-7)は、初期のライト風の雰囲気をもつもの で、床こそ畳敷きであるが、漆喰仕上げの合掌天井をグラフィカルに木 製樟縁材で隈取り、正面アルコーブは幾何学文様で飾る左右柱型状の小 棚で強調し、中央にガラス窓を配置しながらも床の間的に扱うといった 和洋折衷空間であった。  2階は、続き間の貴賓室と客間2室(5坪)で、書院(10畳)と続き間(8畳) の貴賓室の南側は、下階同様に畳廊下としている。玄関脇の4.5尺幅の ガラス張り螺旋階段は、網走観光ホテル(1936)や石狩海濱ホテル(1936) などでも好んで使用されたボキャブラリーの一つであった。  同ホテルは1940年7月31日に弟子屈グランドホテルと改称し開業して いる。 ■gi2.nの            、ち _一;  一くト、\    ,_考一身一《ニニニ/;;ヘ静 穏一.で…i葬ニー/      ユ1 ン7プマ          … ◎二L ! l r ” ‘ 亭 ) 璽 蒔 ● ¶   噂 亀             卜  一姻一一_ 諭・く  ・   ε 学 図          L. 網c釜 ド   《ツ, 怐@,ψ �イ甑 の 仁 r 8 4 葱 “ C、 でリゼ `・亀撃 (洲     鵬髄帥一嶋・ ㌶噸げ 宙黶A8 ’ ε 〇 二 冒 」 自 1 ●● 嵩 }幽 †.壷 や や∫’ 6 ヲ γ 属 確聞,雪脚 撃 :‘ ぽ 噛 鰯」.   70ア摯縺@・ら  5 装 、 竃 ● 膨 一 」 」 ‘ 言  ’ ホ ・ 一 も 4 ・  o T馬       .許、   豊棊ハ 略 :『 e ■ド c一1  醐 @」き    “ ‘の可¶  脚 ■一 L  鱒 」F ■夢馬 1 , ・ o   ●` 匂 i @ 1 「 ン !’� 黶 @ 一 、’一一 衷・一一一一 5●一 ロ  A “一 79    一 @   ニレ ≠P 図12-4-8 近水ホテル1階平面図 図12-4-7 別館宴会場内部 ノ 乙  . 箏 興 りli懸 ぞ.≒1・ll 一紬7, i1 50 .ぐ ?…イ、・一P   ・チXE嵩..   略 誹 い 口 図12-4-9 近水ホテル2階平面図 一 392 一 一 393 一 艇 鰯 購 羅灘離離.難一、 .鐡鍵懸灘灘灘灘灘.講灘懇懇欝羅灘懸鍵盤難難雛灘欝騨1一難:灘・一一響饗籔・ 懸、 靱 L蕊 @! 〔君1勉r渠’覧 層閉1こ ・マ避難:∫巳欄 伽盛河傘6 図12-4-10近水ホテル立面図 l n 9  ,  1  「一 ・ 1 . … , ● ド 1り @…曹ゴ 1 齢 ;!一 1 峠 .誉 φ  .  ■  や  ● ・9一 つ 雀 ’議  よ山  ■ 噌 @ 恥 : ●ρ 、,, ず・ 9、,囎 o  . ?  ’ ?駄 躍∵ ・. 「 乙t ・嚇  6e     6 6P 4L 6←  る  ■  6  ← ■ @   ●  ← 凸. φ ォ  拳  ■  唖  や 6 噌  電      軍 」     皇 @・.       ・.  ’     鱒 」      L 戟@l 二 ‘6 で 壬 ・ 亀 1 「 こ . l i 尋 ; ギ 岐 .;.. ρ  6          ●●‘ 駐 9愈1 ヤ 睡 の.”G■●“。 6ρ          ¢o■噂   G   “   ’ 審貞9 1 ∫ 戯       曾 ; i    し  ㊥   ● 痰?. , , 等 噂 ‘ ← ◎  ‘  ■ 争 9 4.     璽 E 6・.?一中 S ●} 9 々 , レーδ ご,‘ 怩ョ■卿h鮎 、偽 9 曜 , ← 「 し 1 1 { 、 1 4          1    一 1 r ㍉嶋…唱・:一7 ,P一     τ 屠仙 ・・嘱・いレ 心 ‘ サ 冨 一 」一 黶 f  P 彦・ヒ ㌧ ~ 凄 重 轄     奪 i監→  ρ @二 @! 1幽   :… 一  τ @¢ @をィ 曝 @ 蕊6.  一 P   1 一  齢 レ紳       r耐 B  ■.轄  尋 面 ! I i l 》 1 一 hイ櫓}一一 @  i @  喉 @  9 @  「 @  1 ひ ◆ ㌣ ← ’ 弔 C ・  ◎  ◎  ■ 」 @  のゥ  9P ・  4  ひ  ‘ ォぐ ψし・己 。 ゆ  勇 6  b . @.      . 宦。  ●  ■,◆  ・  β ゥ  6  →  ●  o  . P μ 6 ’ . L  □轟   ● 一9u■b一    ⊥コ曹 層6 鴻ξ’. i・‘ 1   、メ  ド9 @ 1・の・’●,’p一 R副     一ヒ→ ,   ノ     , D一緬___「} 図12-4-11近水ホテル別館設計図 12+3=十勝川温泉ホテル(1933) 音更町十勝川温泉南13-1木造2階建て一部4階 施工:岡崎組  帯広市中心部から12㎞の十勝川沿いに位置する十勝川温泉は、十勝平 野、日高山脈の展望が開ける平原の温泉として親しまれるS5。その歴史 は、1900(明治33)年依馬嘉平が、南1線88番地(笹井温泉ホテル附近)に 湧きでた「ぬるま湯」を沸かして利用したのが初めというB6。その後、 1910(明治44)年に簡素な温泉宿を経営していた前田友三郎が帯広十勝館 の建物を買収移築し、本格的な温泉宿の経営を始めたが、1915年に廃業 している66。  その後手のっけられないまま1928年になって雨宮駒平が掘削に成功、 「下士幌温泉」から「雨宮温泉」と改称し、また当時の小樽新聞が全道 から選んだ「小名泉」にも加えられて将来の発展が期待されたが、1932 (昭和7)年には旅館経営から身を引いてしまった6e。  一方雨宮温泉とは別に、然別湖の開発などに力を注いでいた十勝毎日 新聞初代社長林豊州も、1931年十勝川沿いでボーリングを開始した。翌 1932年には掘削に成功、事業半ばで岡崎公・一一一・・に譲渡することになるもの の、温泉ホテルの建設にもとりかかった。温泉名も、広く親しまれるよ う豊:州らの求めに応じた代議士三井徳宝が、「十勝川温泉」と名付け、さ きのホテルも「十勝川温泉ホテル」と命名された8B。  林豊州(本名茂)は、1889(明治22)年2月18日、板井増治、コト夫妻の 次男として大分県臼杵町(現臼杵市)で生まれた。県立臼杵中学校(現臼 杵高等学校)を経て中央大学法科に学ぶ。その間1909(明治42)年、帯広 町で家具店を営む同郷人林長次郎と養子縁組、翌1910年11月中央大学を 退学、長次郎長女波津女と結婚し、以後義父長次郎の経営する「北大商 会」に勤務した。!914年菅野光民が創刊(1912年)した「十勝日日新聞社」 理事として新聞事業に参画する87が、1918年菅野の死去で十勝日日新聞 社の経営が宙に浮き、豊州は翌1919年十勝日日新聞社の社屋を譲り受け、 「十勝毎日新聞社」を興した。以後、日勝黄金道路開削提唱から、1934年 然別湖、油平温泉、音更川上流一帯の大雪山国立公園編入実現等、郷土 の観光と産業開発に捧げた68が、1935年12月20日46歳で死去した。  林豊州と田上義也の出会いは、当時の北海道庁長官佐上信一BSの紹介 によった。田上設計の弟子屈愚論ホテルに一泊した佐上信一との会談の 中で、 「十勝毎日新聞社の林豊州社長がホテルを建てるから、一度会っ て欲しい」70といわれ、田上が林邸を訪れてからつきあいが始まった。 初対面の印象を、田上は「林さんという人は直感で人柄を見抜き、入間 を裸にして、自分も裸で大きくかかえ込んでしまう人だと思った。明る い、髭の大きな顔一高い鼻は計画性を語り一瞳は野望に充ち一発生すこ ぶる大一構想は全身にあふれ、豊かな巨体に対比して緻密な感性を所有 した天衣無縫な風格の人であった。」70と回想する。 65:『角川日本地名大辞典1北海道上巻』   (角川書店、1987.10.8) 66:『音更町史』 (音更町撃墜さん委員  会、1961.11.3) 図12-4-12正面外観 図12-4-13本館と浴場 67:『林豊州伝』 (十勝毎H新聞社、19  89. 10. 8) 68:『林豊州伝』p.162 69:1882-1943年。広島県生れ。東京帝   国大学卒業後、内務省に入り、岡山  県、長崎県、京都府知事を経て、19   31年第21代目北海道庁長官。この時  期北海道は世界的規模の経済恐慌と  連続冷害の打撃をうけており、佐上  長官はとくに農業合理化を推進しよ   うとした。また根釧原野開発に貢献   し、この地方の酪農の父として敬愛   された。(『北海道大百科事典(上)』  北海道新聞社、1981.8.20) 70:田上義也「十勝の帝王」(『林豊州伝』  p.2e7) 一 394 一一 一 395 一 躍織遜譲轟轟灘i灘離籍羅轟轟灘雛灘懸灘騨灘銀幕欝灘遍羅輝認識i轍・x 鐸 竪 u, ., . ”...’’”;i,,, k:/ y ふふ護 9 誕 鰭 貫 躯 ジ i ’   r t 私 71:田上義也スクラップブック「十勝毎   日新聞」(1933年日付不明)記事よリ。 72:十勝毎日新聞(1933.5.30、6.6) 73:十勝毎日新聞(1933.6。6) 74:十勝毎日新聞(1933.7.6) 75:十勝毎日新聞(1934.4.!9) τ6:十勝毎日新聞(1934.5.22) 77:十勝毎日新聞(1934.2,7) 78:十勝毎日新聞(1934.3.3、3.9) 79:田上義也「連載④私と北海道の建物」  (月刊住宅ライフVol.28、1983.6.1)  p. 27  林との会談の中で、 「十勝川流域の開発と十勝川温泉ホテルの建設計 画」70が委嘱された。設計に先立ち、田上は林豊州らと敷地の検分を実 施し、その印象を「十勝川温泉地へ」71と題して「十勝毎日新聞」に寄 稿している。また林社長と帯広の都市構造や交通網についての歓談を、 「帯広都市計画一考察」(1933年5月16日)として寄稿した。  ホテルの起工式は、1933年6月5日十勝川河畔下士幌堤防地で挙行さ れた72。起工式の様子を伝える十勝毎日新聞記事(1933.6.6)には、式に 参加した人名が報じられており、その一人である田上義也を「新進気鋭 のライト式設計大家」73と紹介している。  1933年7月5日上棟を終え74、翌1934年4月内外の造作が完成75、同 年5月20日開業した78。この間、1933年9月には北海道電燈会社によっ て電化工事がすすみ、温泉ホテルだけでなく付近の住民の需要にも応え ることとなり77、さらに1934年3月には多量に噴出する炭酸熱泉を掘り あてるなどの幸運も重なった78。  このホテル建築のテーマは、第1に平原と川と強風であった79。玄関 ホールから4階の展望台までの階段室をバットレス風に扱った意匠は、 「40mの強風に木造建築が耐えるためゴ9であるという。浴場は川岸の接 点まで迫り出し、全体の構成を「シャトー風のホテル」79とした。  バットレス風に立ちあがる塔屋までの高さは、地盤から60.5尺(18.3 m)、設計図80には屋上に田上が好んだ意匠のひとつ鉄製円形旗竿支持 台(径3.5寸)が書き込まれている。旗竿先端まで地盤から72.5尺との記 載があるが、竣工写真(図12-4-12)にはみられらない。  風と雪とシャトー風を意識したためか、全体にやや閉鎖的で鈍重な印 象を受ける外観は、下地板に「建築紙ヲ張り田崎式ラス張り」80の上「モ ルタルハケヒキ」eoの白っぽい外壁を、黒っぽいペイント塗り亜鉛鍍鉄 板葺きの窓上部小庇、屋根軒端などの水平材が引き締めている。1階正 面食堂や客室棟広縁、2階客室、3階望楼などにみられる丸窓は、この 時期の田上の作品によくみられる要素のひとつである。 80: T琶1購『ル新築設計図エレ ’ 廓一一コ寸疇輔彊象素テル綴書†膨.     し ・ ㌔     転 し             ・ , ∵ /                 階 5 享 面 国 ・ 〃 y fil一・一一一一iiii   li  へ・ぞ乞      コづド     ノく        帯盈郊%.          ・幸・ 次こ =一. .一’。∫一 胴 5 1 開 ㌧ 鵜 、 . ’ ノ   、 轡 、   、 、 、 農 熊 辱 ’ ぎ \   \ ゴ ち 、 , ’ \ . 駈 ざ 電 ,皆τ 4 ’   〆 章            、 ず .                   , 、 \         へ 継 訟 融 鞍 . 4 \ 攣 り   、 堪 ■ 亀㍉ 月ツ 、 く 、 鰍. ’ ㌧ \ . 諏 憶       、 ・ 鴇 ・ 、 ・ / く.一.,.’i一/.’・1, ●シ 嘉 .>YfJ / 鱒ウ Gよ .   .:K g   o 識.,、 e 毅〆、       し       , 一一一 w   }       ii 磁ri- ? { R輌-巾       1 }「L_,一二こ口一「=蒜_一… 喋・一 概 図12-4-15十勝川温泉ホテル1階平面図 爵三ご竺ゴ →一ム」_ :          O L 一一一 一一” 図12-4-14十勝川温泉ホテル立面図 ● ●†酵叫怨象ホテ。じ勤鎮穀引n凱 夢;老姉怖.  」漁r翻●2 f ’           “ ! ’           し 7 9 写 ろ ・ 4 ・ ~ ε ム 匹 e ● 函 よ 蓬 穿 翁 雌 プ レ 翌 ・ \ , ・ ● 偽 . … 二=門 縄 一 蜘         ‘ 哨 ・ ソ 鱒     ^ 等 冥 /  >vs  6..な 1’   奪,・遡蝿 ・“焉A、  誉 ’饗セ “ ///@fx ’Sy ・/ r; =ヨ.ヨ ・ 彬 ム 産 釜 享 ハ熱 1:’ 一一i-1r    @W、 A \ \ ぞ s’ q : X 一 “or( 殉 翌 卜 し ,コ顧, 二T 1 ●■8圏り 二 認 L一一“1一一,.一一一r,.一一.一一.・L一’一一.一一一,”一. 一一一H“ 一  ■●●一 一一r圃一 一一咽b■一一r一門 ¶■睦噌一一   一一,一 , ←卜●一一一一一回 暦12-4-16十勝川温泉ホテル2階平面図 一 396 一 一 397 一 難灘騰、難灘無難灘羅鑛鍵難馨1灘灘雛蕪蒸織騨欝霧麟灘i灘i鎌髭i欝璽糠灘灘1白白欝轡騨山山螺一白簿難蒙欝i鷺山鱗灘難山二二・謡訟 鐡懸灘難騨難難簸x g 81:『十勝川温泉ホテル新築設計図.S-  eetNO 2 (t-t) S 82:『十勝川温泉ホテノ噺築設計図,se  eet 3 (.v>!  平面は、玄関ポーチ部と客室棟をY字型に接続し、1階はエントラン スホール脇に食堂(18×18尺)、十勝川に沿って客室棟を延ばし、広縁(6 尺幅)付き続き間3室(いずれも10畳)、中廊下をはさんで便所、物置、台 所(15×24尺)、女(中?)部屋(6畳)、自家用室(8畳)、ホールカ・ら食堂前 廊下を通じて川岸近くの楕円平面の浴場に連絡していた。  2階は、Y字の交差部に「広場」81「ロッビイ」81を置き、脚部にあたる 客室棟は中廊下をはさんで、客室4室(RM.4~RM.7)と、反対側に便所、 洗面所、納戸、階段、客室2室(RM.10、 RM.11)を配置し、廊下端部に客 室2室(RM.8、 RM.9)を置く。 Y字の右腕部は玄関ポーチ上部で、スノコ 張りの「バルコン」81とし、左腕部に客室3室(RM.1~RM.3)を並べる。客 室は、入口は片開き戸で、ベット(3.4×6.8)と机を備え、一般には畳敷 きとしていた。窓はいずれも出窓形式の二重窓としている。  望楼状に建ち上げた3、4階のうち、3階は階段ホールを囲んで客室 3室(RM.12~RM.14)を配置し、4階は「望楼」82としていた。 2万円を要し、懸命の作業により予定通り完成し、日食観測にまにあわ された。大きな期待のもとに発足した町営観光ホテルであったが、最初 の委託者の経営不振で、1939(昭和14)年2月、あらためて田辺村次に経 営を委託、5月「ホテル山水閣」と改称して再発足している8sa  このホテルも、田上は鉄筋コンクリート造でまとめたかったのではな かろうか。インターナショナルスタイルを意識した単純な外観や、ガラ ス張りの螺旋階段が特徴的な建物である。  敷地は、網走川沿いの1934年に永久橋として完成した網走橋の南側で、 地上3階地下1階、総建坪373坪のL字形の建物であった。1階はホー ル、宴会場、事務室、2階は、和室7室(内1室は続き間)、洋室4室、 3階は、和室8室、洋室6室、浴室で構成されていた86。  戦時中黒色に塗られたが、のち白色系クリーム色仕上げの外観に戻さ れ、1977(昭和52)年取り壊されている。 86:北方文化研究会編『田上義也建築作  品抄』 (らいらっく書房、1966.5。1) 83:『網走市史下』(網走市役所、1971.  3)pp.1469. 1470 84:『北海タイムス』(1935.9.15) 図12-4-17網走観光ホテル南西側外観 85:『北海タイムス』(1935.12.7) 12-4-4=町営網走観光ホテル(1936) 網走市南2条西1丁目 木骨唐網コンクリート造3階建一部5階 施工:三井組(三井三次)  網走町は、1935年度予算に町営観光ホテル新築費と鉱泉試掘費を計上 し、ともに可決された。連年の凶作で財政困難にもかかわらず、翌1936 年6月19日の皆既日食観測に、世界各国からやってくる学者や新聞記者 のためのホテルとして、町および商工会が中心となって計画したもので ある。建築費4万円のうち、3万円を起債により、一部を有志の寄付に 求め、不足分を一般町費から支出、完成後は委託経営とし、月額250円 の賃貸料で町債の償還にあてる計画であった。鉱泉試掘は観光地として 熱望していたものであったが、不成功に終わっている83。  当時の新聞記事(「北海タイムス」1935.9.15)は、「日食ホテル」「学者ホ テル」建設を報じ、「地下共四階といふ国際的型の」84建物で、「貴賓室を 含み客室は三十間、外に七十畳の宴会場、四十畳の小会室、二十畳大の グリルルーム(地下食堂)があり浴室、化粧室の衛生設備も充分に来朝の 学者の満足出来る様特に配慮した建築」84とされた。建築スタイルは 「国際型であるが質的には雪国型でオホツク海の国際ホテルとして申分 のないもの」84を意図したという。  同ホテルは、日食観測後は、「網走観光ホテル」として引き続き町で経 営する予定であったS4。  1935年に着工し、内部の一部造作を下すばかりで九分通り完成した同 年12月5日午後10時40分、仕上げ壁乾燥中の3階客室の火鉢の火が付近 のかんな屑に燃え移ったのが原因で、3、4階内部150坪を焼失し、11 時20分鎮火した85。1万円の保険がかけられていたとはいえ、復旧には 麟騨『 ・1一一・一.一一一一一一一一一t一 図12-4-18網走観光ホテルパース P購罫. z一畷 頴 索 ≒ 順 e        e  曇N’  ・ ,.;,;一;.,..  i 一’1  A 画 露「801書1塵 ロコ 巳_鳩 胤ヨ、  s r ら 噂   り Aや       s鴫’ 一 嶋 雫  ・q ,91b;.       i  階 図12-4-19網走観光ホテル平面図(『田上義也建築作品抄』) 2  階 3  階 一 398 一 一 399 一 懸羅嚢羅灘灘懇鹸灘li羅灘灘灘灘鑛i懇繊羅1灘灘灘難論灘i灘欝灘 、鋸r 華 k 葱 雛1騰 蛹怩遠。i綴織難羅難懸麟難灘嚢難鍵盤継1∵1包 :i‘f’1.,一 ・”t/一 ” 繽Q罵嚢驚罫『静『 87:㈱石狩海濱ホテル創立事務所(札幌  市北3西3信陽館ホテル内)発行。創  立趣意書、起業予算、収支予算、定  款、新築工事概要をまとめたパンフ  レット。田中実氏(石狩町在住)が発  見したもので、石狩町役場総務部提  供。 88:設計原図は、  1.石狩海濱ホテル設計図3階PLAN.   1:200  2.石狩海濱ホテル設計スケッチ   1:200(1935.7.25)  3.無題スケッチ  4.石狩海濱ホテル設計図(平面図)   1:100 NO.1一一NO3(1935.E)  5.(立面図)1:200  6.(断面図)1:200(1935.9)  7.縦断面詳細図1:50  8.矩形図1:20  の計le枚が遺されている。 89:1895(明治28)年:石狩町生まれ。1911  (同44)職能量寺副住職。1928~1932  年町会議員。1947~59年石狩町長。  1960(昭和35)年没。 図12-4一・20遠設中の石狩海濱ホテル 90:増田鍬平『戦時下の土建業界始末記  (その3)』北海道建築士会札幌支部  だより(1983) 12+5=石狩海濱ホテル(1937) 石狩町弁天町地先木骨鉄網コンクリート造3階建施工:増田鍬平  同ホテルは石狩町の砂浜に建設されながらも、一度も機能しないまま 消え去った文字通り砂上の楼閣であるが、1936(昭和11)年7月発行の創 立趣意書が見つかり87、また遺存する設計図8sとあわせ、設立意図やエ 事概要などを知ることができる。 建設経緯と沿革  石狩海門ホテルの計画は、1932(昭和7)年6月2日『北海タイムス』 紙に「石狩の砂丘に大遊覧ホテル 工費五十万圓で建設」と透視図入りで 紹介されている。 「砂丘の地形なりに弩級戦艦を横たへたやうな」基本 設計は、総床面積700坪。1階は、水泳競技のできる大プール、食堂、 海水温浴場、子供の一大楽園、2階は、和洋室、宴会場で、屋上はすべ てテラス式。 「夏は籐椅子にもたれて海風を浴びながら雄大なる風光を 展望」するよう工夫され、他に温室、日光浴場、講堂などを含み、鉄筋 コンクリート造、工費50万円という壮大な計画であった。その後、木造 に変更され、規模も半分程度に抑えられて、最終的に1935年9月付け設 計図(図12-4-23~25など)によって実施されたと考えられる。  ホテル起業にあたっては、町会議員も務めた能量寺住職飯尾円什89が 中心となった。ホテル開設の背景として、趣意書では「自由ノ生活様式 ヲ採ラントスル傾向近年特二著シク各地ノ海門山岳、温泉等門門ヲ極ム ル状態」を鑑み、「重ネテ地方農漁村ノ冬期閑散時」の「一大娯楽場ヲ提 供セン」としたものであった。ホテル建設地附近は、細砂の遠浅で、僅 かな設備で海水浴場となること、背面に柏樹林を控え、砂丘の白砂とハ マナスの赤い花は、旅情を慰めてくれることなどの利を生かし、さらに 石狩、札幌問の国道改修は「一時間二満干ザル自動車ノ行程」を可能に し、また石狩川放水路完成が「江別ヨリ水路僅カニ一時間鯨ニシテ降ル ヲ得」 「春、夏、秋ヲ通ジテノ遊覧客数:萬二及ビ、海濱ノ文化的施設ヲ 要望サル・」に至ったことをあげ、夏は海、冬は温泉として利用する「一 大文化的ホテル」建設の動機を述べている。  株式会社石狩海濱ホテル創立事務所は、札幌市北3条西3丁目信陽館 内に設置され、起業予算として資本金は50,000円、その内訳は、建i物建 設費41,000円、備品費4,000円、運転資金3,000円、創立費1,000円、予 備費1,000円とされた。収支予算として、収入はホテル客室収入9,720 円、食事飲料売上12,920円、宴会収入2,400円、雑収入2,851円の計27, 891円、支出は食事飲料原価6,460円、営業費12,340円、減価償却1,500 円、諸税300円の計20,600円で、利益金は7,291円が見込まれていた90。  請:負は増田鍬平が引き受けたがso、飯尾側の条件はホテル建設資金は 一銭もない。どこかの業者が全工費を立て替え施工してくれるのなら一 切をその業者に任せたい。工事の請負契約が成立すればただちに株式会 社を設立して、工事竣工までには全額支払の予定というまったく虫の良 い話しであったso。結局1935年11月「総工費36,000円。前渡し金なし。 八分通りの出来高分に、半金の18,000円、残額は完成引き渡し後完済」 9。 フ契約を結び、同年11月8日に地鎮祭を、12月18日には網走から駆け つけた田上も参加して上棟式を挙げStた。当時田上は、網走観光ホテル と北見郷土館(網走博物館、1936年、現存)の監理も抱えており、しかも 観光ホテル工事中の12月5日には3階を焼失し、復旧工事に忙殺される 時期でもあった。  ホテルは1937(昭和12)年5月に竣工したものの、内部造作などは未完 のまま、敷地6,000坪と建物約300坪が増田鍬平名義で登記された。1942 年忌は名義人の了解なしに北海道庁に売却され、1944年から第2健民修 練所92として使用され、1945年7月!5日空襲に見舞われ全焼している。  施工者の増田難平は、1901(明治34)年新潟県三条市生まれ。大工を志 して上京し、宮大工の修業のかたわら、蔵前工業学校の夜学で建築を学 んだ。1923(大正12)年の大震災後の復旧工事で実務をこなしたあと、19 30年に来札した。主な作品として、この海濱ホテルのほか、北海道大学 北学寮(1933年、札幌市北区北14西2)、玉一旅館(1935年、札幌市中央 区北3西3)、丸新旅館増改築(1939年、札幌市中央区南!西4)、グラ ンド太陽小樽支店(1940年、小樽市花園町)などの設計施工があげられる。  一一一 戦・ 図12-4-21石狩海濱ホテル正面外観 91:注90の文献では12月25日とあるが、  ここでは北海タイムス(1935.12,22)  によった。 92:1943年内務・厚生省、健民運動組織  要項を通牒、同年8月全国的に設置。  身体の強健でない青少年を入所させ、  体位・体力の向上をはかった。      (側面図) 図12-4-22石狩海濱ホテル立面図 (正面図) 一 400 一 一 401 一 耀鍵灘鑛麟灘一議鍵懸購難灘灘難灘灘灘馨難灘孫孫灘鑛二丁繋 一一灘灘 三蓋灘講_,_灘灘雛難鰻雛欝欝難講懇懇欝i疑驚懇懇開懇懇鍵盤耀鷲艦 93:「石狩海濱ホテル新築工事概要」(趣  意書pp.12、13) 94:設計図では39.5坪。 建築概要  日本海に面する間口25間(45m)の横長の建物は、 「木骨鉄網コンクリ ート」「破精(タール:筆者注)仕上ノ上コンクリートペイント塗り」3階 建で3。その様式は「雪国的造形意図二二ル国際型ニシテ石狩海濱砂丘 ノリズムヲ性格的二発映セル独特ナル型体」s3と、田上が一貫して語る 建築論の一端を実現したものであった。  外観は、海側全面に展開するデッキ、セットバックさせた客室棟、2 階客室の円窓、中央右よりの塔屋など、明らかに客船のイメージを意識 しており、また左端のガラス張り螺旋階段は、田上が好んだ意匠の一一っ でもあった。浴場部分も含め、連窓の意匠は「紫外線誘導ノ目的ヨリ多 量ナル破璃面」93を必要としたからである。  高さは、趣意書の工事概要では、地上から旗竿頂部まで47尺、塔屋最 高部40尺(12m)、2階デッキ上端12尺、3階デッキ上端22尺、同パラペ ット32尺であるが、矩計図や断面詳細図他の図面で微妙な違いがあり、 かなりの部分で設計変更があったと考えられる。  建物の延べ面積は、332.76坪(デッキを含む。1,098㎡)、1階155.32坪、 2階130.44坪、3階47.OO坪s4である。  1階は、車寄せ、玄関、「エントランスホール」を中心に、右に小集会 室や「スカイライト」付き浴場(18坪)、ボイラー室、便所など、左に受付、 「事務室」、売店、台所、大広間(27坪)を配し、大広間前を1.5間幅のデ ッキ「BALCON」としている(図12-4-23)。 ノ・ 曜‘ ■ 個脚噂 , “ }- 一 C 『 、 戸 . 、 曹 愚 轟 P ? ◎ 」 ‘ ア 鰯 曽 嘉 ’ ‘ 裡 L ‘ 稲 r 、 ■ 馬 ’叫 G網「 , 爾 ’ b婦 イ咽 .●6 幽   一 ‘           ム      簿階 ’ 「^D一一獅  曹↑㈹ 1…,, 1婁 勘の :   :一. ; 幽  :1? ;一tr     り Ψ 極 - 1 一 い ●64 登 鳳 置8 ゆ 隅 L. し冒 v愚t擦『’1轍i融、 : Nt me / 1調凌 彗 w恩 ・1蓋1 ざア   セ  置 モ s;t L」璽目 灘曇【一蝿錘   圷 彊 ⊆   畢 ’ 疑 1 烈 鷺 さ ド【 欝 . 4ら 購 蒔 一 , 。 i 4r 9 鴛 1 t 亙 藝 製 ,              しゅじ  LL___」__雛菊一」 ・一弔@   t’ r’    ∬誌 、      }.  、        し      ”     1 圖止一門瞬瞬鞄酢 口 減 野 町 .レ 図12-4-24石狩海濱ホテル2階平面図 ■F=ご二=:=:=一一一一 ’ llp tlgE..4 誌膿 七一 ft“ t”tn ======= == ==: トー :,圃 ;・埼           サ  薦 {ホ,  ロ    i i / r l 叡l l計警 /図l   o記   」   ‘ r ・・,, r.;   皇・ 仁.. .,ご 葺← ◎ 寸寺曹6 弓 毒 ・ ● ひ○ ・ 4 ■◎ 1 7 」   ]L・畿 s , i 1 1 , d ∵ ∵ H e 「 臼 ~ け .   . 一 沖轡 庫 ψ ■ 4   岬   コ 3 恥 旧∵讐一油   ト・1      ,   、 ひ ← ..」 .。 ik  t星     隠 馳  手  拠  .’レ∵鴨㌔1蒔F .一一 ! 一 rt } “ ニゴ{ 劉 1;一 i ;一胤 璽 主 卿  ? lL6灘 「 亭 一  ! 曙 誤   → 峰 ● 響 甲   罰       4 L i 塁 匹 i 竃 2   「 亀 ・ Ir: エ郭 ;  ¶ ヒ} 1 一マ H    , ぎ :挑」・ 嚇 ! 1 ・   i ・ ㍊ 7 3 嵐 ’ j L i { ・ ド 騨 ㎏ 彦 『サ し b 1」ご 幣.轟 r一一 hIIili :   ii ・;.“@il⊥下野ヨL 亀 穿   モ       4匡    鴨■7●岬 穿 8 脚 9 → し u/ 秩@t, ワ         コ   しも  tvl-v・ネ.ボ鳳.●」7     1 9 ひ       炉 ! - 一 H 一44 ; i Dlot a}), LT] . . ,,.. 馳一_二__=_  __ .一T一.__一 一 図12-4-23石狩海濱ホテル1階平面図 』7齢 口 電 n U 口 口 。 ¢ u ‘ 誓   目 h 昌     j J 彗 q   l - l i l ”       一 1 一 説蝋 o 「 ぐ   3 } デ 誕 欝 図 l!閥麗 i           愚          s・弟誼麹晒・・触   刷 4の8噸‘ ・嚇 蝕ご●”Q }. t一曽 5階 一 噛’ 翌.  πと     1 r 晦 鵬 γ 罰 し 幹”;k「t み ら← 象 縄 嘱 1.Si 目 n   「 1 5 L一.一.〉一 r一  紬 rJv一 1   らぜワし 1=為. 幽 遡 NICM 繋 噛 2 ㍉・1,Ii.‘ リドよ し  あエ ケ       螺1欄1,F徽li!縷 覧 ジ 醐 1 工臨 ら    ・ 輪卜 榊 、 ” →聯回φ6 9 ‘ 触←輪 も ・ 叶 偽 し で τ , 3 も 申  ”一.一1“t Irdi 口 回 護 U n 目 ● m u田t窪二割作研窄所 図12-4-25石狩海濱ホテル3階平面図 一 402 一一 一 403 一 、” t㍉ム 畿 L 縢 灘灘.縫羅鱗懸灘鍵盤総懸灘三盛灘灘難論購麟白白白鍵白白灘雛議灘鐵羅白山灘.懸灘懸羅難難欝掌三二諮 購謹 禰 鑛灘馨灘難購灘.難翻辮1鍵灘難灘響難蟹難難饗欝;饗鰯興灘霧辮難ず:難蝉 95: ィ聾ホテル矩計図●T州0’ARCH 96:『旭川市史第三巻』(1959.7.1)  p. 765  2階は、和室(8畳)4室、洋間(4坪)4室と「ヒロエン」付きの続き間(10 畳)2室で構成され、海側に「クリンガタイル」張りの「BALCON」を置く(図 12-4-24)0  3階は、客間(8畳)と畳廊下を廻す和室(10畳)、海側に「破精材」を施 したタイル張りのデッキがあった(図12-4-25)。  2階の「ヒロエン」と3階の畳廊下は、サンルームと展望所を兼ね、 デッキは「大衆的遊覧場トシテ開放」した「プロメナード(散歩場)」で、 「雄大ナル石狩海濱日本海ノ風光ヲ十分観賞シ更二日光浴ニヨル健康増 進ヲ計うントスル」s3目的で設けられたものであった。  内部は未完のままであったが、計画でも、天井は漆喰およびベニヤ、 プラスタなど、壁もベニヤや「トマテキス」s5など、ローコストの材料で 仕上げられる予定であった。 12-5 その他の作品から 12-5-1=佐々木座(1929) 旭川市1条6丁目 木造2階建一部3階  旭川で佐々木座といえば1900(明治33)年3月27日開業96した佐々木源 吾経営の劇場がすぐに挙げられる。同劇場は危険家屋として昭和初期に 解体されているが、本劇場との関連は不詳である。『旭川市史第三巻』 (1959.7.1)「第三十六節 劇場・映画館・映画人」には、1928年末の劇場、 常設館、演芸場8館の名が挙げられ、劇場として佐々木座(旭川市1条6丁 目)1館が記載されている。  1929年5月付けの設計図を中心に13葉の図面が保存されている本劇場 は、廻り舞台や枡席をもつ本格的なものであった。左右対称を意識した 正面東側外観は、軒蛇腹で水平性を強調した陸屋根風意匠とし、中央塔 屋部の高さは地上50尺、左右3階部のパラペット高は42尺、塔屋左右に 旗竿を掲げている。客席から舞台にかけての主三部は、木骨トラスの腰 折れ屋根とし、屋根頂部には換気塔(「Vent Tower」s7)をあげている。  外壁は、クリーム色97の「人造石洗い出し仕上げ」SSで計画された。  1階玄関は中央部左右に柱型をはりだし、左右の小壁に丸窓を配して いる。丸窓意匠は、北側側面の各階階段室や舞台裏廊下、芸人室、南側 側面2階階段室などでもみられた。  1階は、玄関中央に「売券場」右手に「電話室」「事務室」、左手に「下足 室」「喫煙室」「中茶屋」を配置し、「ライトプロメナード」「レフトプロメナ ード」をはさんで客席と舞台である(図12-5-2)。  客席は11×約10間の矩形で、上部約7×7間を吹き抜け、2階はコ字型 に桟敷席を廻している。舞台には直径5.5間の回転舞台を備え、上部左 右に「ハヤシ方」席が設けられている。2階正面側には「食堂と喫茶」を備 えていた(図12-5-3)。  内部意匠については詳細図等からわずかにうかがえるのみであるが、 客用大階段まわりの球と直線材を組合せた壁灯、踊り場の正方形の壁灯、 「スピンドル」(竪棒)を採用した手摺(『佐々木座新築設計図旭川8客 用階段の地下花道・便所詳細図』)や、内部柱型上に矢筈模様風の幾何 学模様(『佐々木座新築設計図旭川12楽屋廻り規矩断面図』)を付加 するなど、田上らしい意匠がみられる。 97:『佐々木座新築設計図旭川4北側  面・中央断面図』 98:『佐々木座新築設計図旭川10前  面中央部矩形詳細』 「 s・嘱   I i l .    1 一     一一列 i1雁藏確藪勲翻一、 ↓ 十 峯 峯 圭 へ                         塵 b       レ                     ● , 6 , 一       一 r 「         } ● 且 毒 t ギ 一 . 6 工 、   、 軸 . 写 1 、 響 , 測 続 蝿 噛     蜘 ま 樫 弓 晰 … 陥 一 門 一 一     岬       冑 ノ   / , 戸       ,   → ~ 7 ξ 嵩 藩 遍 瓢 こ         事 卜             一           9 8 ・ 訂   温             剛             嘉         ㌻ 一 く ㎝ ㌃ ‘ あ 蔓 叫     「   一 璽 台 面 目 牽 …φ パ 監 ‘     』 . 1 書 ・ 凹       塾 り     一 や   賦       ” “       恥 禽 管   轟 、 一 ” 6 5 認 17ユ ゆ 璽 健 喧   」 幽 評 「 蝋 翫 3 ㌦   7 . “ 霞 t 6 、   恥 町     . ミ ビ 信 ム ナ 士 」 - ◎ 冠   } M い 幅 甑 … い 畷 響 『 穐 簡 … r 構           η 」 じ 輔 竃 . 一     } 「   ~ =         一・ ポ 嘉 ・ 丁 ・ 弓 お - 7 一 一                               ヤ ρ y ;,nca皿耽1H五勉 鵬“ロ …・ 図12-5-1佐々木座正面図 図12-5-2佐々木座1階平面図 ア 「 τ ・ 乙 凸         岬■ρ, .              一噂一         ρ一P’一  ■ イ“ 師 1勧  ,1  , 冊 レ ! t u 、 ヤ   9 憂 f 〔 重 ・ り ¢ ▼ ・ g        ’㊥ 霞 望 i ‘ t 7     一 書 二   ,3 } ,      雪 奮 ’ � 嘯 秩 @ !   窒 飾       勘 E一ヘド鯛帰声      、 /〆釧.1 @ ニニニ、__   ’ ^ 臆 ・ ’ 一 ¶         尼  4l   三 . .   {   ら し     4 ミ モ 1     庵 い E   宜 ! } I   I 1 ● 4       , 図 ’ : i … 亀 暫 曜卿 ! レ 陽 1 }  恥   .●o    3 ト ● 1   」 い 3 一     噂  匹 z  書.1        鳳 弄 三 . I  I I・隙Ψμ9”学畠    ・・←“・曲r階瀦声 6・臼1飾・             ・騨る齢捗噌加一 C                         [ } 曾辮艦鞘}圓 “ _副 鎚Ktis’ 一 図12-5-3佐菱木座2階平面図 一 404 一 一 405 一 灘義@灘鰍・ 羅露悪i灘難轟轟i轟轟悪熱“’繊難’撚 ”e‘“tww“u獺=’ 贈 ? 山山山山灘山山二二1鑛灘二二灘鐡薪r 璽 ,’ 羅,灘鐵雛購饗灘纏羅.難難轡騨騨τ・ 3 癌螺 . 」 F り 濡 99:『田上義也建築書集』p.95 100:『円山百年史』(1977.6.25)p.254 101:『田上義也建築査集』P.94 r 一 ノ ♪ , ρ ’  r,‘関門’ρ可竺   壊 ll ’ 語 ’ 一 一 辱 π 図12-5-4 円山郵便局(『田上義也建築     査集』) 図12-5-5 円山郵便局外観(『円山百年     史』) 102:タイトルなしの円山郵便局立面図 12・一5-2=円山郵便局(1930) 札幌市南1条西24丁目 木造2階建 1965年秋取壊し  円山に初めて開設された3等郵便局ssで、初代局長は藤森芳夫であっ た・oo。開局は1930年6月16日と記録されている10。。  局舎併用の住宅で、平面は、局舎と住居部を「クローゼット」ssで区切 り、1階郵便局は「公衆室」「現業室」1。1からなり、住居部は、北側に玄 関、 「エントランスホール」1。1をはさんで西側に便所、応接室、東側に 台所、物置を配置し、南東側に8畳二間の続き間、南側に縁側を配置し ている。2階は和室(10畳)である。  当初計画では、局舎部正面を旭川岩城新聞店(1930、12-1-3)のファサ ードに類似したデザインとし、片流れ屋根の前面を書き割り的に扱い、 正面中央陸屋根左右にパーゴラを翼状に広げている。岩城新聞店の項で も指摘したように、東京帝国大学学生基督教会青年会館(遠藤新設計、 1925)のファサードとも酷似する。  中央塔屋部は地上32尺の高さで、両側一段低い(パラペット上端まで 地上27.5尺)壁体よりもわずかに突出させて強調し、2、3層目に配置 した連窓は両脇まで廻り込ませて、ソリッドな外観に軽さを付加しよう としている。実際にはパーゴラは省略され、左右の壁は中央塔屋部上端 まで延ばされた外観(図12-5-5)となって、当初案の浮遊感は一掃されて いる。  「独逸ナマコゴ02の外壁は、「下地建築紙二号品敷込の上川崎式メタル ラス張りモルタル掻掃付三回仕上ゲの上ペンキニ回塗」りとし、腰部と 住宅部外壁は目板打ち下見板仕上げ、「円山郵便局」名をレタリングした 正面玄関の庇は、照明入りのガラス張りとしている。 で山下南方面の保安の要として重要視され、またモダン交番として有名 であっだ。3。  木造平家建ての小規模な建築で、当初案は2×4.5間の長方形平面の長 手方向に片流れ屋根を架けた単純なもので、玄関部上部に円筒形の看板 を掲げた外観がユニークである。平面も前側事務室と宿直室、台所間に 円形ペチカを備えるなどの点が目を引くが、実現案では規模こそ同じも のの切妻屋根とされ、円形ペチカは集合煙突に変更、円筒形看板は半円 筒形とされ、この部分のみ片流れ屋根とされた。  半円筒部および東西南外壁は「モルタルハキ付ケゴ。4仕上げ、腰部は 「人造石仕上げ」1。4、北側外壁のみ下見板仕上げとしている。 儒卵一r一 整幅 、麺 ‘ 阿・ @。熊顕1’ p1 鮭 ヤ¶ =@ 鰍響r } η L 臼ll ら3 @ 」 ガ古血  響㌔ 1、輻 } 1    ”綱一零 ?1“ A獅φ i    ◎    至・::“ @  _ゴ .       坐 一;症の .の一6r   ,9   ・り    ♂ . ;;.. 7葺 @  rゼ・、4陣・ @ い 』@   噌   一  一 トー 図12-5-8 二三巡査派出所当初案 ヴ 漣 図12-5-7 幌西巡査派出所外観 103:『山鼻創基八十一周年記念誌』  57.5. 29) p. 214 12-5-4=函館毎日新聞社(1932) 旧函館市鶴岡町1番地 木造3階建塔屋付き 施工:木田組  函館毎日新聞の新社屋である。社屋の大増築は「折畳み式輪転機」1。5 の増設による工場施設の完備とともに「本社躍進の前奏曲」105として実 施された1932年度の二大事業であった。  「建築美術の権威田上義也氏の創案になる鉄筋コンクリート四階建の 近代式建築ゴ05で、 「三階には数百名を容る・講堂を設け、種々の催し 場に備ふると共に読者の利用に便ならしめ」1。5、「「読者と共に作る新聞」 即ち「われらの函毎」」1。5実現の願いがこめられた。  工費及び施設費は4万8千円で、木田組が請け:負い、1932年8月24日 から工事が始まった。着工を告げる記事108でも「鉄筋コンクリート四階 建近代式建築」’oeと報じているが、実際には木造で実施された。しかも 当初の全面新築から変更されて、既存の木造2階建て建物の上への増築 107 ナある。商業建築における書き割り的表現に共通する手法であった。  ライト風スタイルから脱却し独自の作風を模索する田上義也にとって、 鉄筋コンクリートによる表現は常に念頭にあったようにも思われる。早 い例では、1926年3月末に設計を終える日本基督教会北一条教会(1927 年、11-3)でも、当初は鉄筋コンクリートで計画されていた。客船をイ 104:『幌西巡査派出所新築設計 矩形断  面』 一 ,; ,li ’i 紅L⊥山 働一!ヲ画 i一・・,,izg     調  み“’“ 9 約 ・ 「  …     献 お …   “ 卜… 権皐  醐工》邑 図12-5-6 円山郵便局平面図(『田上義也建築壷集』)    12-5-3=幌西巡査派出所(1930)    札幌市南11条西14丁目 木造平家 1964(昭和39)年10月取壊     札幌警察署幌西巡査派出所は、1930年7月1日設置:osされたが、 建 (19    物は設計図の日付から8月以降に建設されたものと思われる。1948年ま 105:函蛸毎日新聞(1932.8.15) 106:函館毎日新聞(1932,8.25) 107:『函館毎日新聞社増築設計図 断面  詳細矩計図』 一 406 一 一 407 一 難灘灘灘購,,灘i難i灘…論叢欝藩論懸灘難難蕪蒸薄塗鎌t tli l・Mf 『、礁・・鰍J・:勲… 廿 熊    ’ 7 「騨白山難山灘山山一二二二二二欝議・ t腸鵜”臓i・箕    ら .糊 ・滋強 ,,,懇懇蠣i覇難壁 難難醐辮難懇懇騨鷺1綾羅饗響懇懇、畿鑛醤摺 108:『函館毎日新聞社新築設計 ファサ  ード』 メージさせる1930年代のホテル建築のデザインも鉄筋コンクリートによ る表現を意識したものであろう。インターナショナルスタイルもコルビ ュジェも表現主義なども、ライトから脱却するためのデザインソースと して積極的に吸収したように思えるのである。  3階階高差をそのまま外観に表した正面は、1階中央に出入口、腰壁 上に黒色タイル壁と縦長2連窓を交互に並べ、2階はスパンドレル上に 中央階段踊り場開口部の縦長3連窓、左右に黒色タイル壁と縦長2連窓 を交互に並べる。3階は、右手講堂部分はスパンドレルから軒までの全 面開口、社章を入れる丸窓とその下に黒色タイルの小壁、小壁の上端は 講堂部の水平サッシュと、左手連窓上端とにそろえられている。屋上の 塔屋は、全面ガラス開口と「プリズムガラス」1。8入り開口をみせ、右手 に「乳白ガラスゴ08をはめて広告塔と社旗用旗竿を立てた。旗竿の鉄管 横には、4段輪飾りも付加されている。旭川のパリジャンクラブ(1933 年)屋上でも採用されたアールデコ風の装飾である。  白いスパンドレルと黒色タイルのツートンカラーの外観は実現しなか ったし、部分的に開口部位置の変更はあったが、ほぼ基本案通りに完成 した。コンクリート造風のファサードを実現させるため、スパンドレル 部分を壁面より1尺ほど107張出し、壁下地材と「鉄アングルリベットス クリュー付ゴ。7で緊結された2等角の角材を下地に板張り、 「外部川崎 式ラス張りモルタル仕上げ」107としている。  間口72.5尺、奥行42尺の矩形平面で、1階が工場、営業室など、2階 が工場、編輯室、応接室など、3階が講堂(34×42尺)、応接室、重役室 などで構成され、塔屋に図書室が付属していた。 H・ : PHIItl:i +1 1 .塑II 愚・蹴 ~ 1 ら 呵 Jt D E VArN,v. ●             噂     ■ 吻 写 2 . 7 ● 一 盃 舘 山 母 日 野 旧 祉 嘉 築 . 毅 ・ 訂 } .」r●o藍Vo凪「瞬● 塵ζ『のb●TVo国》θ             7ア砂アー・s.’. 曜△●・0』YE△「【:鴎’ム■rE髄正r・       」「1【ムユ1【三 『赤●圧匿∠NrVA一●0 図12-5-9 函館毎日新聞社1立面図 12一・5-5=共同魚菜市場(1934) 釧路市 木造2階建  旧釧路川に沿った釧路市大字入舟町3に所在の㈱共同魚菜市場が計画 した施設である。同社はr昭和四年度釧路市商工案内』(1929.8.15)に よると、1925(大正14)年6月10日設立の魚菜競売業で、資本金50,000円 の株式会社であった。釧路には、もう一社㈱釧路魚菜市場があったが、 1934年に共同魚菜市場に買収されて新たに釧路魚菜市場として発足して おり10s、この合併にあわせての計画であったと思われる。  三舞橋のほとりに計画されたこの市場施設は、1階が魚類卸市場、倉 庫、集会場、宿直室などで構成され、2階は青菜卸市場、倉庫、事務室、 役員室及び応接室などが収容されている。  外観は陸屋根スタイルであるが、片流れ屋根の書き割り表現としてい る。道路側正面および川里ファサードはRC造の表情にもみえ、また丸 窓や連窓、煙突状にみえる換気塔など、ホテル作品で展開した艦船モチ ーフがストレートに表現された案であった。 一         〆 一 一∫一恥堕 ’ 図12-5-10共同魚菜市場配景図  芸  罫   謬 12-5-6=北見郷土館(現網走市立郷土博物館)(1936) 網走市桂町1-1一一3桂ヶ諸公園内 木造2階建 施工:宍戸組(宍戸栄左衛門)  網走観光ホテルの設計調査のため網走滞在中に、網走支庁長岡田佐市 から設計依頼を受けたもので、皇太子殿下御誕生記念事業として建設さ れた博物館である。初代館長を務めた米村喜男衛の努力によって、先住 民族の遺跡、その伝説、考古学的な資料の収集、アイヌ民族の生活の実 態とその遺物資料などの展示解説を目的とした110。  ホテルと郷土博物館の二つを手がけることになった田上は、建築のテ ーマを、ホテルの方は心の安らぎと憩いを提供する女性像とし、博物館 の方は、チャシの古城跡を守護し、風雪に対峙して立つ男性像を意識し た111という。  資金は住友家より10万円の寄付の予定であったのが1万円となったた め、他の鉱山や北見教育会、北見支庁内の町村にも寄付を求め、当初の 鉄筋コンクリート造の予定を木造に変更した。1935年9月着工、翌1936 年8月竣工、同年11月3日開館した112。  低く強い感じの表現を求めた111結果、中央部の玄関左右に広がる水 109:『新釧路市史年表』(1975.9.25) 図12-5-11北見郷土館南西外観 110:田上義也「連載④私と北海道の建物」  (月刊住宅ライフV。1.28、1983.6.1)  p.28 111:田上義也「連載④私と北海道の建物」  p.29 112:山口廣ほか「近代建築再発見29流氷  の街の赤いドーム」(『建築知識』19  85.11)p.59。 『網走市史』(1971)で  は9月着工、竣工1936年7月としてい  る。 一 408 一 一 409 一 灘難鑛離離難懸il灘灘灘灘難賑賑謙譲麟    撒難麟灘遜幽幽i灘認識一白一難白白織難獲饗懇難山難山一二二二1二二響 購蕪雛灘灘灘簸灘鍵懸i難講雛難蕪識・灘搬轍鮒墜藤織b・’・・: 鶴翼懸 113:『田上義也建築作品抄』(1966.5.1)  p.21 図12-5-12北見郷土館階般室見上げ     (1974年撮影) 平の強い両翼は、深い軒の出の寄棟屋根を架け、1、2階を左官手製の ブロックを張り付た胴部が分節している。1、2階の窓間の柱型の強調 は、窓の保護のため113という。胴部に張り付けたブロックは、防寒帯 として、またモザイクタイルによるモルタル肌の被覆は、耐火、耐寒を 工夫したもの113であった。  平面は十字型で、1階はホールを中心に左右の翼は展示室、正面図書 室、2階は教育室、講堂、応接間として使用された。  低い翼部の外観の印象や階段室廻りの白壁と木製手摺のコンポジショ ン、展示室の緩やかな勾配天井などはライト的ともいえるものであるが、 ドームへ通じる2階中央の螺旋階段は、1930年代の建築モチーフのひと つとして田上がしきりに多用した要素の一つであった。ドーム塔屋は現 在閉鎖されているが、ここからは網走港や知床半島を展望できる”3と いう。  階段室のスリット状や星形の小窓には、当初幾何学的なパターンのス テンドグラスがはめこまれていた。ステンドグラスの色も改修された現 在のような濃い色ではなく、もっと淡い黄、水色、紫など色ガラスであ り、日没と朝日の光と影のリズムの幻想を表現する111ことを意図した ものであった。  田上が意識した男性的な表現とは、中央ドームや正面玄関2階の円柱 柱型、アーチの採用などを指すように思える。アイヌ民俗を意識したか のような土着的な重さも、雪国的造型表現の一つと見ることができるが、 全体的に1930年代の作品に共通して見られるモダニズム的表現はかなり 薄れている。ただ正面1階左右の額縁状の縁取り手法の直線性は、1930 年代の作品で田上が好んで採用したモチーフのひとつであるし、上で述 べた螺旋階段も1930年代モチーフといえるものであった。 図12-5-13北見郷土館透視図 A      ア バ  ロ    ヨ      ユ        ノ       ・\㌧>rl      3階平闇1瓢       ( ・   i   』 還’ 呂{li輌三 灘・      ピ   し       ロ じ         :岡、. 訓            2V皆5Fi l貿1 図12-5-14北見郷土館平面図(『田上義也建築作品抄』) 114:藤森照信・増田彰久『建築探偵東奔  西走』(朝日新聞社、1988.5.30)  p.212 115:『札幌正教曾百年史』 (札幌ハリス   トス正教会、!987.8.19) 12-5-7=札幌正教会計画案(1934) 札幌市 木造平家  札幌市南7条東1丁目に1936(昭和11)年に完成した札幌正教会は、河 村伊蔵長国祭の設計であるが、田上の計画案が残されている。  河村は、建築家内井昭蔵の祖父にあたり、1865(慶応元)年愛知県半田 市生まれ、上京後1885(明治18)年ニコライより洗礼を受け、1939年に没 するまでロシア正教の建築担当聖職者として勤め11“、函館正教会(1916 年)や豊橋正教会(1915年)、白河正教会(同年)などを設計監督した。  札幌正教会の創立は、1888(明治21)年8月である。1893年南2条西7丁 目で会堂基礎式をあげ、翌1894年秋竣工した。設計はモイセイ吉田(陸 軍建築家)、監督ゲオルギィ芦立であった1!5。木造平家妻入り下見板張 り、中央にファンライト付入口、左右に半円欄間付上げ下げ窓をみせる 素朴な洋風建i築であった。のち1921(大正10)年前面を増築、設計は臼澤 ぐ・  i ’! 毒㌦恥 養 ワ } τ 一無一⊥ 匪or= ・、’o瑠   雷四四隅隅 メ 臨 e 鑓 マ  ・’1 血 一 、 二 丁 鐘 謬     -     薗   ⑭   … 1“t’卸v ヒ、な 部・リ嘱蕩内 図12-5-15札幌正教会彩色立面図 一 410 一 一 411 一一 1灘羅 ee 騰灘灘懇i轟轟懲轟轟i灘難灘轟轟灘霊鑑灘灘購馨i灘灘一白灘鵜難i灘i灘難山1羅二二二二二二雛纏1灘二二i贈 . 購灘難難難鱗難…、 クギ禦、窪難論曙  t-mp W -a’r , 圭}           入  一「マ「で『一マ 稼 貿 恥 一 コ 噌     一  一  一 r F「罵■  匹           H9∬5凝 cド  ’冒’{  ㌦ ● {瑚 一一 �` ; 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T」のサインが見られるが、左下サインの年号には疑問が残る。これは聖 堂の竣工年を示すもので、壕の整理の際に付加したものと考えられる。  田上案(図12-5一一16)では、15×20間の敷地の北側に聖堂、南側に牧師 館を置く配置で、聖堂は、5×8.5間の聖徳(啓蒙所を含む)、啓蒙所西側 の正面に20×9尺のエントランス、背面東側に5×2間の至聖所を付加し、 啓蒙所南側に八角引照を突出している。聖所内部は、ヴォールト天井と し、中央部の天井高17尺を想定している。  啓蒙玉上のキューポラと止所東端講壇上の小キューポラが正教会らし い外観を表現しているが、玄関、啓蒙所、聖所部をころびのある切妻屋 根で一体的に覆い、6寸勾配の屋根の軒は、札幌北1条教会などと同様 にボックスコーニスとし、軒の出2.5尺、軒高16尺、西側キューポラ先 端まで地面より高さ40尺、小キューポラ先端まで36.5尺、八角塔軒高30 12-6 北ノ王鉱山と歯止航空㈱落部工場  多産な田上の活動は、1936(昭和11)年から激減する。日中戦争(1937 年)、国家総動員法(1938年目を経て、太平洋戦争に突入するころである。 木材や鉄鋼、生活必需物資の統制令などが公布された世相を反映して、 ほとんど設計依頼もなく、戦後1951年に設計活動を再開するまでのブラ ンク期ともいえるが、これまでの作品には見られなかった大規模な産業 施設計画を2ってがけることになる。  一つは、帝国産金興業会社による北見・生田原村(現生田原町)の北ノ 王鉱山(1937年)、もう一つは同社の渡島・落部村(現八雲町)入沢の落部 エ場(1944年)である。 12-6-1=北ノ王鉱山(1937) 生田原町 施工:地崎組、大野組116  生田原町に残されている田上自筆の透視図「北ノ王鉱山全景 KITANO- KOUZAN LANDSCAPE 1937 FEB.」(図12-6-1)は、北ノ王鉱山の全体像を、 独特のタッチで実に細かく表現している。作品活動のほとんどなかった この時期にあって、彼の創作エネルギーを発散させる格好の材料であっ たといえるものであった。  生田原川に臨む緩斜面一帯に展開するこの計画は、 531mの山頂近く に備えられた貯鉱室;17(1)や精錬所(H)に向かう中央通りをはさみ、左 手正面ゲート付近に11棟ほどの庭付き「高級社員住宅11e」(E)が並び、中 央に北ノ王会館(劇場、C)、右手には従業員倶楽部(D)、やや上方に普通 科、専科生100名収容の鉱山学校を併設した事務所118(B)が位置し、さ 116:北方文化研究会綿『田上義也建築作  品抄』(らいらっく書房、1966.5.1) 117:『生田原町史』所収の杉山義夫(大  阪商事調査部長)「北ノ王鉱山視察記  (昭和13年)」による。 118:『生田原町史』 (生田原町役場、19  81.3)pp.96, 97 一 412 一 一 413 一 灘灘雛欝響鞭饗驚轟轟灘騨驚欝饗難懸鑛灘叢鑛繋繊繍鑛論難白白二二灘白白白白難山一二二二二二二二辮響響雛 懸鐵鑑鷲麟灘灘繊雛灘1欝撫欝欝藩饗::欝:ll;型璽甲羅「評マ緊稽”      賜 l     z 賦鴨 イ董『綴・_瑠 図12-6-2診療所 ! 1 ’ ! “ ” 図12-6-3 北ノ王鉱山事務所 図12-6-4 北ノ王会館 らに上方に社員住宅地117(F)や鉱夫長屋(G)が並び、谷をはさんで左手 には「白亜の北ノ王倶楽部」117(A)が位置していた。他に、日用品配給所、 製材風病院機械器具修繕工錫変電所などが、整然と配置されてい た。図の左端には、上生田原町駅(J)もみられ、精錬所と電気索道で結 ばれる様子も描かれている。この計画の描かれたi2ヵ月あとの4月には、 帝国産業興業株式会社が買収し、飛躍的な増産体制に入ることになった。 鉱山の沿革  本鉱山の創立は、1918(大正7)年11月、前年に和田政吉や山品末男ら が試掘発見した露鉱一帯を「北ノ王鉱山株式会社」が譲り受けたことに 始まる。普通の金山とは異なり「土砂鉱」を採掘処理し、呼量の豊富な ことにおいても我国であまり例がないともいわれたこの鉱山は、また生 田原町における金銀鉱業発展の端緒ともいえるものであった。  翌1919年、一・部に水銀鉱が含まれていたことカ・ら金銀水銀鉱に変更、 水銀精錬所も設置して操業を開始したが、成績不良のため4年間休業、 改めて1923(大正12)年11月金銀鉱採掘を目的として再開、12月から久原 鉱業㈱が引き受けて「貴王鉱山」と改称したが、翌1924年12月水野伊三 郎に採掘契約が移されて「北ノ王鉱山」名に復されている。  1926年からは、北の王金山株式会社他吉田清作ら75名による北ノ王鉱 山鉱業組合が経営し、町君は日立や鴻ノ舞へ送られたが、1931(昭和6) 年精錬を開始し、1934年には精錬所を増設している。  1937年4月帝国産業興業株式会社が買収、増産体制に入った。同鉱山 の規模は、北海道においては鴻ノ舞、静狩、三井珊瑠についで第4位の 鉱産額を占め、重要金山として着目されていたが、1943(昭和18)年4月 「軍事企業整備法」により、閉山されることになり、施設は次々と解体、  北ノ王鉱山全景(昭和1綱 L g ヨ ( ll it } プ 1一 .一”  __. x ハ リ ヘ ー’ @訊 _  ・__ノ=一  愛・:讐、搬・ \  鯛齢 ・ ,}     \・腎 ㎞△導爆囮昭△[]巳ムロ臼『日△開ロq目7囲目。 従業員、労務者は、新しい鉱産現場へ配置転換されて、労務者の60~70 %は、イトムカ鉱山に移されたという。  閉山に伴い、鉱山施設に関しては鉱山監督局が建物転換等の実権を掌 握し、遊休施設の監理を帝国鉱業開発㈱にあたらせていた。村ではこの 遊休施設を買収し、公共施設の充実を図ることを企画し、当時の寺井実 箔村長(在職1943年7月~1946年11月)を中心に陳情請願を続け、最終的 に診療所、事務所、会館、巡査駐在所、社宅2戸など500坪余が、坪単 価40円で払い下げられることになった118。  診療所(図12-6-2)は、日本赤十字社北見病院生田原分院として転用さ れ、手術室や病棟の増築、内部改造を、川合徳四郎が請け負い、1945年 1月25日開院。1953年には、モルタル塗り平家建ての建物に改築された が、1964年閉院している”9。  事務所(図12-6-3)は、水平感の強い外観で、整然とグリッド分割され た開口部やガラスで覆われた階段室をもち、正面玄関の庇を支える四角 錐台形の柱型は、ピロティーを想起させる力強さを持っている。村の総 合庁舎として転用することを目的に買収されたが、1945年4月21日全焼 の生田原国民学校の仮校舎として使用、また1947年5月7日開校の新制 生田原中学校仮校舎として使われた12。。  村の公民館に転用予定の会館(図12一一6-4)は、正面に櫛形アーチの破風 と、破風を突き抜けた石造風意匠の柱型をみせ、プラスター仕上げと思 われる表現が、ダイナミックな中にも瀟洒な印象を与えるファサード意 匠の建物であった。写真から判断すると、このアーチは正面と背面に書 き割り的に付加され、主棟は切妻屋根のようである。両側面には斜めの 控え柱が露出し、力強さが強調されている。アーチへの嗜好は、北見郷 土館(1936年、12-5-6)などにも見られるが、田上の作品群の中ではやや 異質の表現をもつ作品である。  この会館は1947年川合徳四郎に10,000円で転売され、解体され遠軽に 移築された。1950年8月17日625名収容の遠軽劇場として落成し、舞台 開きには七代目尾上菊五郎、市川海老蔵合同の東京歌舞伎が公演された ’a’ ニいう。  巡査駐在所と社宅2戸は、村の公務員住宅として転用されている1:s。  さて、施設関連の史料としては、前述の透視図のほか、北ノ王クラブ の初期案と考えられる無題透視図(図12-6-5)、 「北ノ王金山クラブ設計 図(1937.5)」平面図(1:100)と「北ノ王鉱山office用家具(昭和12年10月 10日)」の設計図2葉が遺存している。さらに北ノ王クラブ外観・内部、 事務所外観、従業員倶楽部外観・内部、北ノ王会館外観、北ノ王鉱山事 務所外観診療所外観などの写真が若干残されており、本節ではこのう ち北の王クラブと従業員倶楽部について概観しておこう。 119:『生田原町史』p。782 目]2目田[]色團 120:『生田原町史』p.839 121:『遠軽町史』(遠軽町役場、1957.7,  20) p. 463 図12-6-1北ノ王鉱山全景(『生田原町史』よリ。図中のアルファベットは筆者加筆) 一 414 一 一 415 一 認灘 鱒轟欝灘欝蕪蜂∴癖. 瓢 響 ㌦   卍 丸 、 叔 ∂ ■ 、難 秋山一白騨一山繋二野彰翼二二二三,婆1二二騨欝鋒 謎 驚 煎 聯 ・ 華 蝋 鞍 鴨 、 詠 謡 叔 灘蟹灘灘灘灘醗難難難灘ii灘響磯鱗離離響懇懇饗響警驚響鰻騨繊麗難響響 1一: 図12-6-7 北ノ王クラブ N 図12-6-8従業員倶楽部 / 一一’ ;!’/ 一一 ~ ’N一 一一一一一±”一 一 ( 拶 一   一一一掌謬ジ捜     気一ミ             .,rtft’、     t 一・            』’.           『髄,         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ヤード室、12坪)が連続する。  「玉場」前のホールから、幅1間長さ5.5間の「ヒロエン」が続き、「食堂 用座敷」として使われる書院・床構え付き座敷(12.5畳)と続き間(12.5 畳)が並ぶ。手前続き間には台所(5坪)が続き、食堂用座敷をL字に廊 下が囲み、廊下の右側端部はクラブ出入り口、左側に浴室、洗面所、便 所など水廻りが置かれていた。  食堂用座敷の床の間門廊下のほぼ中央で、背面の客室棟と結ばれ、階 段4段上って中廊下をはさみ、左右に「料理人用」室(8畳)が並び、さら に左右6畳2室、8畳が左右に4室、合計10室並んでいた。  2階は、階段ホール正面側に8畳(床棚付き)および6畳の客間、左手 に「客間」(10畳)を配し、ホール左側端部はさらに、塔状の明るい出窓付 き階段室で3階と結ばれていた。ホールに直交する廊下にそって、書院、 床付き「客間」(10畳)と続き間(8畳)が並んでいた。 従業員倶楽部  木造2階建て一部平家の建物は、小さいながらも田上らしい表現の見 られる建物の一つである。平面は、クラブの基本形を縮小したものに類 似していたと思われ、2階建て主棟に平家の和室群と台所などのサービ 一 416 一 一 417 一 羅懇懇灘 灘灘灘1難癖雛灘鑛灘1灘灘灘濃霧轟轟灘鑛1遜譲麟鑛鑛 _一轍懸灘二色罐騙脚 幽 嘉 聡 羅、爽「繍購 ’“ ・,・ p IV・灘巨,謝  麟無 一=@ 橿一‘ 譲 層 ス棟を付属していた。  外壁全体を目板打ち下見板張りとし、この仕上げは集合煙突にまで徹 底している。こうしたゴツゴツした仕上げとは対照的に、突出させた玄 関部はプラスター仕上げとし、正面には半円アーチの窓を採用して軽快 に扱っている。  主引解部の太めの木製枠で縁どられた縦長の開口部は、田上の住宅作 品で多用された「はしご窓」で、階段室の採光用であろう。 12-6-2:帝産航空㈱落部工場(1944) 八雲町入沢(旧落部村)  生田原のほか、朝鮮や本州などで金山鉱業を経営していた帝国産金㈱ (社長:石川博資)は、1943(昭和18)年3月愛別ベニヤ工場落部工場を買 収し、帝国産金㈱落部工場とした。翌4月、入沢に田上設計の新工場を 建設、6月には別会社帝産航空株式会社を創設して、前記の買収工場は 解体、改めて新工場を落部工場とした。  同時に田上は、石川社長の申し出で、新設会社の取締役工場長を任さ れることになる。建築依頼のなかった時期だけに、生産工場経営者への 転身に甘んじることになるのである。  この頃、落部の隣村野田生に疎開していた作家の伊藤整と出会い、慣 れない疎開生活にとまどう伊藤を企画課長に、一家を社宅に迎えるなど の便宜を図っている。  会社は、新設と同時に軍の指定工場となり、木製飛行機に使用する航 空用短板製造を主とし、従業員400名を要する規模であった。戦時下の 食料難ということもあって、ブイタウシナイ(現花浦)で農場経営をし、 食料の自給自足の態勢まで固めていたが、1945年8月終戦と同時に閉鎖、 帝国産金㈱落部工場と改称したが、1947年5月に閉鎖され、1949年大同 木材株式会社が買収、引き続き操業したが、これもまもなく閉鎖された。 費 設 建 oo 盾盾 oo 盾盾 oo 盾盾 oo 盾盾 oo 盾盾 oo 盾盾 oo 盾盾 oo 盾盾 ゆ⑩ Tゆ I』 Q6 X2 Q0 S8 V5 V2 O1 O2 X0 S1 O1 O6 S3 ?         2 ユ � 細 鋤 2 価 単 円 o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o o 5 5 5 5 6 4 4 4 4 6 6 6 6 6 4 4 4 4 4 4 � 数 坪 延 � 坪 8 4 50 5 0 拓 8 0 0 0 2 0 2 5 2 0 3 6 7 0 5 0 1 2 2 5 2 6 1 5 1 0 8 0 6 6     3 1 3 4 3 1 1 1 3 1 1 � β � 1 1 1 2 2 2 ユ 4 6 ユ 2 ユ ユ ー 1 ー ユ � 造 構 � 屋 平     鉄 〃 〃 平 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 1 1 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 鉛     葺 亜     柾 造     造 � 途 用 � 繊 構 餐 官 丸 合 四 強 乾 自 倉       事 職 従 寮 合 変 守 休 風 便 洗 � 記 � イ ロ ハ ト リ ヌ ル オ ワ カ ヨ タ レ ソ ッ ネ � , D ’ h N 一 ” g” 一一.. .一一一 .x             x/11‘ 一 一一 一 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房、1966.5.1)p.45 2 『田上義也建築甕集』 p.28 3 『田上義也麓築査集』 pp,5、6 4’『田上義也建築叢集』 p.22 13-1 田上義也と雪国的造型  第10章から第12章にかけて、田上義也の作品活動を大きく住宅作品と 住宅以外の作品とにわけて考察し、作品全体では1920年代と1930年代と の作風に大きな変化のあることを指摘した。つまり、20年代にはライト 風の影響が大きいのに対し、30年代には「雪国的造型」というキーワー ドを基盤に、ライト風から離脱する自己様式確立への姿勢が明確に表れ ているのである。  1929年に出版された『芸術学研究第一輯』(1929.12.1)では、東京郊 外の外山邸(1929年、10-7-2参照)の外観写真を例示しながら、 「彼はラ イトから多くの精神を学んでゐますが、師の模倣ではなく、むしろライ トから受けた純日本的な精神を捉えようと努力してゐます」と説明が添 えられている。田上自身も、ライトの影響を肯定しながらも、ライトの 作風をそのままコピーするのではなく、ライトの精神を土台にしながら も、むしろライトの作風から抜け出すことを意識しっっ、積雪寒冷地に 適した建築作品の創造に向けて努力したことを自ら認めている1。  こうしたライト的スタイルからの離脱の萌芽は、渡面前の大竹虎雄別 邸(1922年)の外観などにも認められるし、渡道後初の作品ともいえるバ チェラー学園(1924年)の初期案には、全面連窓による「硝子のファサー ド」z意匠やピロティーなど、インターナショナルスタイルを意識した意 匠も認められる。ライト風の住宅作品と並行して創造された片流れ屋根 住宅の習作もまた、「雪国的造型」住宅を模索する過程の形態表現のひと つとみることができる。  しかし、ライトやコルビュジェの建築形態をいかにそっくり型どって も、新興理論の新しそうな衣をいかにつけようとも、模倣は空疎であり、 生活に必要な用を離れては意味をなさない。生活にピタリと呼吸し、必 然的関係を育むフォルムであるべき3とする田上は、さらに北方という 地域性を強く意識した。 「国際建築。組立家屋。定型化。」4といった風 潮に対して、それらは「南方より吹き寄する」4ものとし、国際性(アンチ ナショナール)に対しても否定的である。  「凡(ママ)ゆる村や、部落や、町が新しく創り出される。新しい炭山が 発見される。凡(ママ)ゆる施設が、学校が、都市計画が、全て新しき意図 に表現される。新鮮に充ちてみる郷土」4である北海道を舞台に、建築は 魂を生き生きと衝動し、オーガニックインテグラルとしての組立である 5とし、「北方こそ新しき世界の根元となるであろう」4との意気込みで、 「雪国的造型」は意識されたのである。そこには、ライトからの教えであ る「日本人は日本の民族精神や自然風土に適した建築を作るべき」eとい う思想が反映しており、当然、住宅以外の作品創造上でも常にこの意図 は意識されたと思われる。  田上の意図する「雪国的造型」は、単純で力強い屋根、軽快な構造、防 寒的であること、直射日光配給への配慮から多量のガラスのファサード の必要性、海水に浮かぶ船のようにスガモリと吹雪と寒気に対するデリ ケートな防御、そして大木を倒すような大風山のような雪の吹溜り、 零下30度の切られるような寒気に対抗するべく豪健にして知的な形態で あることなど7を挙げている。  具体的な表現方法として、住宅では!、2階を通して立つ南面の柱型、 この柱型から北側に葺きおろす屋根表現、垂直なはしご窓など、高さや 垂直性を強調し、南面には大きなガラス開口が採用された。  住宅以外の作品でも、近水ホテル(12+2参照)で述べたように、暴風 吹雪、寒気などの雪国の条件を防御する上で、それまでの頑丈な壁で包 む造型は「光線を否定するものであって却って反対な効果を生む」8とし、 ガラス窓で埋め尽くす外観は雪国建築に対する新解釈である8とした。 この解釈が1930年代の作品に見られるモダニズムデザイン展開の大きな 原動力ともなった印象を受ける。  1930年代における田上の作風の変化はまた、作品活動の変化とも無縁 ではなかった。それまでの住宅設計活動の割合と逆転し、市街地内の商 業建築や郊外の観光ホテルなど、時代の風潮を適切にとらえた作晶が多 く見られるようになった。そこでは前述の「雪国的造型」が第1目標であ ったものの、表現手段としてはコルビュジェ的なものから、インターナ ショナルスタイル、アール・デコなどのデザイン要素まで積極的に展開 されている。  ル・コルビュジェが日本の建築界で最も注目される外国人建築家とな るのは、前述した(10-6)ように1929年頃といわれるが、田上義也の蔵書 にもコルビュジェ関係のものが少なくなかった。  戦前のものではたとえば、工学博士前川国男訳/ル・コルビュジェ著 『今日の装飾芸術』 (現代建築二二第五編)(=構成社書房,1930。10.18) を、!932年2月14日付けで訳者から謹呈されている。同書は、同日付の 前川からの書簡の別便で送られてきたもので、書簡には、いっそやレイ モンド事務所で御目にかかったこと、今度弘前で鉄筋コンクリート造の 小事務所を依頼されたため、いくつかの事項について教示いただきたい 旨書かれている。質問事項として、1陸屋根と防水排水にっき積雪に対 する特別の施設および注意すべき点、2内樋の可否、3井戸ポンプ水槽 5:『田上義也建築査集』 p.8 6:「社同人の弟子屈紀行【六】」(田上義  也スクラップブック「釧路新聞」(β  付不明)) 7:『田上義也建築輩集』 p,52 8:「社同人の弟子屈紀行【七1」(前掲「釧  路新聞」) 一 420 一 一 421 一 、n・)bi’.・   舖朧 糊、 ∴ 隔 幽 謙譲i灘灘鰹織磁輪灘一白山山難山二二譲驚i灘,二二鐵灘i灘鍵欝轡羅灘議ew 9:「社同人の弟子屈紀行【四】」(前掲「釧  路新聞」) 躍鍵灘. 蝶、 羅i轡 に対する注意4水洗便所についての意見と適当な簡単な衛生設備の有 無、5積雪時に対する出入口の設備のほか、経験上気付いた点の教示を 求めている。どのような返事か知るべくもないが、雪国的造型を求めた 田上は、おそらく懇切丁寧に自己の経験をしたためたに違いない。と同 時に、以前から注目していたコルビュジェに親しむ機会のひとつであっ たとも想像される。  もちろんこうしたさまざまな情報が、単なる模倣で終わることがなか ったことはいうまでもない。ひとつひとつが田上流の表現として不可欠 なものとして吟味された結果である。  ホテル建築にみられる艦船デザインも、近水ホテルで田上が述べるよ うに、 「珍奇をてらったのではなく、一切の装飾や無駄を大胆に削り、 しかもホテルとしての合理的実用性に基いて短純化し機能化した結果が、 必然的に船の形態に帰結した」Sものであった。  市街地内の新しい建築であるカフェーや喫茶店などの風俗建築や商業 建築の設計にも積極的に関わった田上は、商業建築のファサードデザイ ンを宣伝媒体の一つと捉え、既存の建築物に表装のみ施したり、ファサ ードのみモダニズムデザインとするなど、看板建築ともいうべき書き割 り表現を導入することによって、より斬新な正面意匠を展開することが できた。  書き割り表現にはRC造風の表現も見られた。代表作である日本基督 教会札幌北一条教会(1927、11-3参照)では、RC造と鉄骨小屋組の設計 から木造に変更された点にふれたが、1930年代の作品には一・見RC造の 表現ながら、実は木造が多い。基本設計ではRC造でありながら、施主 の経済力や当時の経済状況が実現を許さなかったものと思われるが、独 自の作風を模索し、インターナショナルスタイルからコルビュジェ的表 現、表現主義など、様々なデザインソースを意識的に展開した田上にと ってRCによる表現は是非とも必要なものであったのだろう。木造に変 更しても、時に張りぼてであったり、時に書き割り表現によって当初の イメージを追及した作品は多い。函館毎日新聞(1932年)のほか、一連の 艦船デザインモチーフによるホテル建築や紀文茶屋(1932年)、パリジャ ンクラブ(1933年)などは、その好例といえそうである。  もうひとつRC造的な表現に付加された意匠として、ガラス張りの螺 旋階段をあげることができる。外観に露出させたこの階段は、紀文茶屋、 パリジャンクラブなどの華やかなカフェー建築や石狩海濱ホテル(1936 年)、網走観光ホテル(同年)などのホテル建築でも展開され、田上の19 30年代の建築スタイルの主要な要素の一つでもあった。螺旋階段の採用 などには、コルビュジェの影響も深いと筆者は想像するが、本論ではそ れを検証するだけの材料を揃えることはできず、今後の課題として残さ れた。ここでは倉田邸(1930年代)や北見郷土館(1936年)などの螺旋階段 が、サヴォア邸(1931年)の螺旋階段を彷彿とさせる点だけを指摘してお きたい。  以上みてきたように、田上義也は、北海道という活動の舞台を得て、 雪国の過酷な自然風土に適した建築を求め、軽快な商業デザインから身 近な住宅に至るまで、常に「北」を意識した。同時に建築はあたかも風 呂敷のように正直に生活内容を表現するものでなければならぬこと、各 自のもつ個性や生活を如何に正直に造型的に表現するかということにも 腐心した。自身の設計の根元にはライトの教えや影響があることを認め ながらも、当初からライトからの脱却を意識し、自己様式の確立への過 程であった。その過程には、コルビュジェのほか当時の様々な建築思潮 や建築スタイルへのゆらぎも認められるが、自己様式の一つの到達点が 「雪国的造型」であったといえよう。 13-2著作に見られる建築観  田上義也が戦前期に残した著作として、3回にわたる建築展のうち保 存されているパンフレット2点(1925、1930)や『芸術学研究第一輯』 (1929)、r同 第二輯』(ユ930)、 r同 第四輯』(1930)に連載の「建築 論」、『田上義也建築壼集』(1931)などをあげることができる。建築展 のパンフレットおよび『田上義也建築壷集』については第9章でふれて おり、また『芸術学研究』中の「建築論」は、内容が整理されて『田上 義也建築書集』中の建築論や各作品解説と共通部分が多いのであらため てとりあげることはさけ、当時の新聞に寄稿した4記事をとりあげ、田 上の建築観の一端にふれてみよう。  ここでとりあげる寄稿記事は、田上義也が所蔵していたスクラップブ ックに収録されていたものである。筆者が寄託されている田上の初期の スクラップブックには、田上の寄稿や彼の作品について報じた記事、雑 誌の切り抜きなどがA-4版125ページにスクラップされている。1921年 頃から35年頃までの記事が多いが、記事掲載の年月日はほとんど未記入 である。原則として元記事にあたったが、確認できないものもあった。 北国にふさはしい建築一考察  北海タイムス1929年10月25日、26日、30日の3回にわたる連載記事で、 同年夏大雪山で開催の夏期大学での講演をまとめたものである。 「雪国 的造型」に結実する田上の建築観をまだ未成熟ながらみることができる が、第3回田上義也建築作品展覧會(1930)のパンフレットで展開した「建 一 422 一 一 423 一 ∵鐸i:讐簸懇織i繋熱懸軽灘雛肇難灘1鐵二二難ξ黙ゴ蟹蹴幽㍉二二二二簾藻灘1 鞭.i灘慧畿三三響 勘麟走..招魂嚇 ・騰 、 雌 築小論」と共通する個所が多く見られる。この講演での考察を基に翌年 の建築小論はまとめられたものと思われる。  北国の建築を考えるには「必然が必然性を帯びる」ということを前提 とすることをはじめに述べ、人体における5官はどこにも不必要なもの がないように、一切が実用であり、うそのない、とってつけたような装 飾もない、目的が必然性を持つことは優美である。飛行機の均整のとれ た形態は、翼を支える針金1本にも力学と重量から割り出されて全体を 支持する目的の結果であり、20世紀が機械美をたたえるのもうそではな いと肯定する。  北国建築で最も重要な事項として、以下の7項目を挙げている。 ユ.雪国の生活に即した建築様式の根本的改革 2.構造革命 3.間取(家と土地の関係) 4.防寒と通風 5.採光(直射日光の配給) 6,庭園 7.建築保護(修復掃除)  1の建築様式の改革では、民族性と風土環境が独自の形態を生むよう に、雪国には雪国独自の様式が創作されるべきこと。暖国の中途半端な 焼き直しや欧米の写真帖の模倣に決して北方生活の解決はありえないこ と。2の構造では、単純で軽い構造が大切で、自重をできるだけ軽減し て外力(雪や風圧)に耐えること、樹木のような弾力を有した強さをも っこと。大きな寸法の材料を使用しても構造が強くなることはなく、却 って自重が増して危険であること。強い構造とは材料のマスではなくカ の経済的組立にあること、冬の北海道の自然は家を虐げるので堅牢な構 造を期したいと述べる、構造の項では、さらに具体的に基礎、壁、屋根 などを取り上げているが、防寒的処方も含まれているので、本論では4 の項でふれる。  3の間取では、雪国のプランニングは土地と緊密な関係から生まれる ので一概にはいえないが、できるだけ単純にすること、細かい小さな部 屋を多く作らず茶の間を大きく12畳以上とって一家団攣の目的を兼ねる こと。茶の間を中心に部屋を配置する、いわゆる居間中心型が防寒保温 の目的上適切で、屋根も単純ですむので構造的に堅牢になること。各部 屋の個性を尊重し、部屋の性質を十二分に活かしながらしかも全体と融 合していること。客間や玄関を重視するあまり台所や居室が隅の方に押 しやられるような、どこかに犠牲を強いるようなプランニングは生活を のびのびと自由な気持にさせない。土地に即して間取が生まれ、間取に 即して外形ができる。よい間取は必ずよい形を教え、自然な形、正しい 間取の根本は土地であるなど、敷地と間取と外観の関係についてふれた。  4では、防寒を外部的防寒と内部的防寒とに分類し、前者は建築本体 の武装、後者は暖房器具による方法であるが、後者の発達に比して建築 本体の防寒法はまったく遅れているとする。また、通風(換気)も防寒 と同時におこなわれるべき重大な問題とした。  外部的防寒法については、記事では構造の項で述べているが、本論で はここで扱おう。  基礎と床下周りでは、床板を2重にすることや建築紙を床下に張るこ とも重要であるが、さらに有効なのは、煉瓦、コンクリート、石造の基 礎を地下1尺ほどの深さにして外と床下を完全に遮断し、床下に乾燥砂 厚さ2寸以上を敷き込むこと。  外壁では、空隙にオガクズをいれたり、下見板下地の二重三重張り化、 二重窓の採用、堅牢な窓枠採用による在来の額縁の廃棄を唱える。  従来の屋根は薄過ぎ、野地板の張り方が粗末であるため、暖気が逃げ る。床板のようにしっかり張った野地板の上に建築紙を張り、垂木を架 け渡しオガクズを1寸以上屋根全体に敷き込み、さらに板を張って鉄板 をかけて屋根を分厚くする方法など、外部的防寒装置の必要性を説いた。  5採光では、いかに建築本体を防寒的にし、人工的に暖房器具で室内 温度を高めても、太陽光線には及ぶべくもないとし、事情の許すかぎり 東南にできるだけ広い窓を多く採ることを推奨した。半年雪に埋もれる 北国では、直射日光浴が不足し、白血球の製造や骨の発育に不可欠な紫 外線を浴びることが乏しいのでできるだけ窓を解放して直射日光を浴び ることが必要であること。東南を切妻にして亀甲型の大欄間をつける意 匠は、重窓(かさねまど)と称して、高い大空から直接紫外線を導入する ためのものである。  6では、建築とは単に家を建てることだけでなく外構の必要性を説き、 「半歳の春と夏を自然の草木や花によって私共の庭園の中で一冬中を雪 と戦った建i築を飾ることは欠かしてはならない」とした。  7では建築のメンテナンスの必要性を説き、一冬を超した雪解け後に は充分な手入れを必要とし、10月旬には冬に向けての保護を必要とする。 建築にも愛情が不可欠とするのであった。  結論として、雪国では基礎を固め、窓を厳重にし、 「何丈の雪層にも 嵐にもびくともせない」建築を作ることが急務であること、北方建築は 北国人にとって大海を航してゆく船の羅針盤の如きもので、雪原や吹雪 の中に建つ建築は船のように周到な準備が必要である。建築は生活に即 して生まれ、環境は個性を形成する。雄大で強烈な自然を基盤に、北の 特色を生かした、健康で暖かい建築が生まれるなら、北方は必ずやユー トピアになるであろうとし、自分は建築によってわれらの生命を守るこ とを考えたいと結んだ。 一 424 一 一 425 一 ∵_婁臨。 ,、メ,..e,議一謙雛轟轟i饗1遍羅寂声 饗欝欝野響響旨 墾欝 }一      psew _訟嶋,一、。縛野 ・ ’ ρ h ら ト タ 嘗 ・ ノ 、 圭 8 T 『 鎗 “ v”@ffnyv’@paslT 灘鞍響鷺警1}筆ぐ芋:鷺1ぎ廊艦密蕊・ 「胃蝶講義 e し6’ 雪国の小住宅  小樽新聞に掲載された記事のスクラップである。掲載年月日は不詳で あるが、r北のまれびと』年譜に掲載の1937年「札幌市主催雪国的小住 宅」講演のレジュメと考えられる。  主として「洋服生活者に適応した」雪国の小住宅の1例をあげて、平 面構成防寒配慮などについて具体的に解説したものである・掲載年月 日が不詳のため、前述の「北国にふさはしい建築一考察」の発表時期と の関係は不明であるが、内容的には「北国にふさはしい建築一考察」と 重複する点も多く、前項を補完するものとして興味深い。   L.嚇 図13-2-1 . @ し   ● 脚   ・ 炉ω } …㎝ . 言 ・ ヂ : : : … 一 砧 頚 」 萎 倒 鞭 . 嫡 雪国の小住宅平面図  具体例の説明に入る前に、雪国の住宅についてのまじめな研究が台頭 してきた当時の風潮を喜ばしい傾向と評価した上で、住宅本来が持つべ き要求がまだいくらも生かされておらずまた体系づけられていないこ とを危惧している。新たに建設される住宅が、安直に便利至上にのみ関 心を持った結果、肉付きのない骨と皮のような味気ない家であったり、 陳腐な装飾の小技に堕落したり全体が見かけ倒しに飾り立てられた厚化 粧の住宅であったり、全てに控えめで現状維持の住宅に相当の価格の家 具調度を飾るなどアンバランスな住宅など、生活者の要求自身があまり にも漫然とし、全体と部分の関係を捉えることがないことも憂いている。  建築に対する考え方として、 「所有慾を強く持たないで友達のことを 親身になって考へるやうなつもりで間取を考へ、庭を考へ、居間や台所 といふ様に「助け合った考へ方」が大切である。」とし、その理由とし て「建i築は有機的なまとまりをもってみるから」とする。  例にあげた小住宅は、夫婦、子供2人、手伝いの計5人が生活し、1 階17.5坪、中2階6.5坪、他に物置1坪、計25坪の規模である。  平面図(図13-2-1)が挿入され、北東側玄関から玄関広間(2畳)、南東 にカギの手の円窓をつけた応接を兼ねた居間(10畳、図では12畳となっ ているがここでは本文に準じた)と円形ペチカをはさんで食堂、台所、 物置、勝手口、と連なり、北西に風呂、便所、女中室が配置されている。 居間からの階段は、中2階の寝室(10畳)に通じ、居間は吹抜、中2階は ペチカの左右にガラス戸を建てこみ、階下との親しみやすいつながりの ほか、変化と奥行が演出される。  平面を第一要素(台所風呂便所)、第二要素(茶の間玄関女中)、第三要 素(居間と寝室)に分割し、第二要素である茶の間(食堂)によって、第一、 第三を結びつけた形であり、「交通と静止」、「集合、離散」を最も自然に 素直に表現した形態となっている。 「家の重要なる機能として台所を基 調とする主婦の生活」舞台として第一要素を与えることによって、清潔 で、健康で、自由な動線が実現される。  換気と採暖の調節を、図13-2-2に示しているが、室内を完全に保温す るために、床下冷気を遮断し、屋根裏に透過する暖気をふさぎ、にごっ た空気は煙突から逃し、新鮮な空気を導入する。居間は、東から「清澄 な光線」、南から「暖かき温度を大硝子の表面フ.サ.ドから豊かにそそ」がれ、 その光は食堂にも流れ、中2階を間接に柔らかく照らす。  保温に対する配慮として、天井と床についてふれるが、天井では屋根 裏と室内との完全遮断を実現することにより、スガモリは防ぐことがで き、屋根は単に積雪を支えるのみでよいので、緩勾配でも平屋根でもよ いことになる。従来のスガモリ防止のための二重屋根や急勾配の配慮は 必要なくなる。床は天井と同様に、 「マルソイドルーフィングかその他 建築紙一号品位のもの」で覆い、上床を張って床下と遮断する。畳の上 に直接ふとんを敷くよりは、寝台を利用する方が、床面から1尺5寸ほ ど高いのでストーブの暖気も適度にあたたかく、床面と寝台の間に空気 層があるので床の冷気を絶つことができると、寝台の効能を力説する。  記事はここで終わっている。(上)とあるので、連続記事があったか もしれないが、この記事だけに限っても、プランニングで重要視した点 や雪国的造型で意識した暖かい室内空間の実現といったテーマに対する 田上の真摯な姿勢がよく表れている。 建築家の見た一九三〇年の旭川  1930年12月25日掲:載の寄稿文と推定される。北海タイムス旭川版ない し旭川新聞掲載記事と思われるが、現在のところ特定できていない。  1930年代には住宅にくらべて商業建築などの作品が多く見られるよう になったことは第12章でふれたが、この時期旭川での作品活動も目につ いた。1928年東武別邸、1929年アポQ、佐々木座、1930年岩城新聞店、 1931年ヤマニ、斉藤家累代之墓、1933年パリジャンクラブなどがあげら れる。市街地内のカフェーや喫茶店など都市のモダニズムを代表する施 設をてがける田上が、都市構成や都市施設、都市交通などに深い関心を 示すのもこのころの特徴である。  小論は大きく5つに分節され、交通、カフェー、病院、モニュメント、 高山植物をキーワードに当時の旭川の都市的状況をとらえている。  交通の要としての鉄道のほか、都市交通の急テンポなスピードに寄与 する「モーターカー」が、旭川を律動的なリズムの街にしていることを 指摘し、またカフェー激増の理由を「不景気の合理的反映は逆に本能的 衝動を強く発映する」ものとするが、さらに北方のカフェーに特異な機 能があるとする。つまりアルコールと人間性の欲情の春風であることは 認めるものの、半歳の冬の厳しさに閉ざされた魂に春のような解放感、 充足感を与えてくれる場であるとした。  また市中に多く存在する病院を、旭川の活動力を反映するものであり、 、  ,’」    第劇笥’㌦  ノ晩 f 6 ノ 、 / ソ タ , ’ m 丁 「ノニ1 ピ  β ,ウ ■      摯’.  いU再’㌔.」_   魅Y’ 図13-2-2 雪国の小住宅外観と断面 一 426 一 一 427 一 国璽雛灘熱灘鐡i灘藩鷺灘黙認繋丁丁丁丁誌轟1姦騰織鞭羅論難白山麟鋒二二1群1警簿警三際:聡灘、rt ・幽’ ,霞網繋 緊 黛 鱈 ヅ 「最も近代的イデオロギーの上に凡ゆる現代的建築的要素を充実せしむ 可き使命に立つもの」とし、いくつかの病院建築を具体的にあげて、形 態、色彩などについて批評しながらも、都市的要素のひとつとして建築 を理解し設計が進められている点を評価している.  さらに自身設計の斉藤家墓碑などのある神居町の墓地を、時代表徴の 新しい概念を有する「フレッシュなるモニュメント」としてとらえるな ど、新しいジャンルへの言及もみられる。  最後の高山植物に関しては、キーワードとしてやや唐突に思われるが、 自身の設計姿勢をたとえたものであった。過酷な自然状況の中で可憐な 花を咲かせる高山植物を「自らの小を持してこの山嶺」を美しく蔽う姿 を、北国での自身の設計行為に重ねあわせ、微力ながら雪国建築を創造 していく決意が語られていると思われるのである。 帯廣都市計画一考察  十勝毎日新聞1933年5月16日掲:載の記事である。十勝…毎日新聞社およ び十勝川温泉ホテル社長である林豊州社長と帯広の都市構造や交通網に ついて歓談したことを基に寄稿したものであった。上述の旭川で展開し た都市論をさらに発展させたものともいえる。  帯広の位置、地形を語るのに、日本列島から導入し、星形の島北海道 は、弓なりにやわらかく轡曲する日本列島の「頭脳」にあたること。樺太 をカンザシ、東北を胸、東京はヘソ、関西は胃、中国は腰、九州を健や かに伸びた双脚と表現し、日本を水平上に美しく伏せた姿と見た。 「脳 髄」にあたる雪国を入間精神の水晶にたとえ、旭川都市論で展開したと 同様に高山植物の精神が脈うっているとした。  石狩岳とヌプリに囲まれ、然別湖を源流とする十勝川の流域に作られ た帯広の幾何学的な都市構造を、 「整然たる幾何学的「ユニットライン」 が原野の区画を示し畑を整へ、村落を造り、町に体系を与え」たと説明 し、街のアウトラインの基線のひとつが、鉄道、車道、人道であるとし た。さらに都市交通の中心として、「モーターカー」と自転車と「トラッ ク」を挙げている点が、十勝の物資の集散地である帯広の特徴をよく示 している。  格子状の都市区画に対して、鉄道と火防線の斜めの軸の「タスキ」は、 見事な「ムーブマン」を生じ、街にリズムを与えていると評した。  目を転じて、市街地建築を観察し、白壁の多い街で、瓦屋根の土蔵式 建物が「ポツン、ポツン」と見えるが、色調が消極的で各々の建物が渾然 として不統一である、「雪国の建築として色調に対する「コントラスト」 がグット大胆にほしい」、「形体に立体性がほしい」、「力強さもほしい」 と感想を述べている。 一 428 一 翻灘T∴灘灘難1蟹諮擁1蜘憎勉   ア  ビ ,礁_識講__ 弧  この稿でも、郷土に寄せる正しい理解と検討を基盤に、独自の雪国建 築の必要性を唱え、「薄っぺらな国際主義的宣伝建築」では厳しい自然に は対抗できぬとし、雪国的造型意図の展開によって「水々しい体型を発 映せしむるなら」、帯広は「新しき雪国的前衛都市」となると断言する。  カフェーについての節は、旭川とまったく同じであるが、さらに病院 とともに廉売市場に目を向けている。病院についてもまた旭川と共通す るが、 「内容に比して外部構成に色彩的錯覚と形体の統一に対する視覚 的線の不統一が惜い」とし、「病院はなるべく一色に包まれた方が単純で 美しいと思ふ」 「都市美学の為めにも形体構成に対する形式的ハアクタ ー(ママ)」を強調して欲しいと注文をっけ、都市美学を意識した単体デザ インの必要性を意識している。  表通りから中通に突き抜ける廉売市場の存在には興味を引かれたよう で、経済機構における公共的建造物として特異な存在で、将来性を予見 しており、スカイライトによる採光計画はおもしろいが、通風と採光は まだ不完全であること、商品配列の混乱が商品価値を低めていることな どを指摘している。  当時の帯広市は、建築ブームであったのだろうか。 「公私大小の建築 群は修繕と改築と新装にハンマーのヒビキを立て(ママ)」と記述しており、 「タウンプランニング」の修正も部分的に実施されていたらしい。そうし た活気を背景に、大産業都市として展開する可能性を予見しているが、 それを「拓殖一昔日の汗と血と希望と夢の還元である」とし、稿を田上得 意の詩的なフレーズで結んでいる。  「「オビヒロ」は前進する!/レアリズムの街/マテリアリズムの街/ オビヒロ市!/更に君はこれにクンストを加へないか」  以上4っの寄稿文を見てきた。そこに一貫して流れる主張は、北の建 築家として活動する田上が求めた「雪国的造型」意図の確立である。田 上の作品活動は、頑固なまで、北方的なるもの、北海道的なるもの、地 域性を意識した制作過程であったといえよう。 一 429 一 怒  Y ∵一 p:te[一” く @ り讐榊一き”tミ『’モ’ 灘灘難饗慧灘灘議購蟻i難購灘議麟懇懇鱗箋響響響轡1驚饗野野響響鑓轡欝魏魏響饗tt’.’一.i”ill”’///11’i難燃                                   蜂届 if“ @’ 響マ坤 結章 北海道建築界と二人のフリーアーキテクト      マックス・ヒンデルと田上義也 イ 寸   弛 ㌦   ズ 馬 , ’ 凋 「 ‘   , 、 ゴ 割 織 凱 嬉 ∴ 認 矯 塗 ㌦ 樗 や ・ ジ ダ 焦 鎧 駆 籍 構 総 鶴 凶 闘 観 灘 他 愉 曽 ㍉ . 西 恥 い ∵ 無 F 脈 . ヅ  ドぞ やせゆやぎむぼ     墜懸鑛懸懸、灘羅魏 羅_灘懸繊鍵麟轍懸叢叢麟i雛講i講鍵繊難懸盤灘欝1鱗難山白白羅出歯二二1繊鑛直直難難欝難難羅難鞭饗三絶饗穆灘継  ,,,,.。,,’ 灘・灘 驚響欝磯物響欝1噺轡》麟莚織’/ 4煮」唄聖㌧L’や;「  ’」“ ’=れ u願∵γ魎 〆 」 ぜ 占 褥 菱 競 浄 Ψ 量 「 ト ’ プ ぜ ㌔ ’ 一 結章 北海道建築界と二人のフリーアーキテクト     ーマックス・ヒンデルと田上義也一  本論文では、第!部で示したような大正・昭和前期の北海道建築界の 大きなうねりを背景として、民間建築を対象に作品活動をすすめたM. ヒンデルと田上義也という二人のフリーアーキテクトについて、これま でほとんど知られていなかった作品および著作活動の多くの部分を明ら かにした。  各人が北海道建築界に与えた直接的な影響を詳細に検討するまでには 至らなかったが、それを論じる前に作品や業績についての資料の集積が まず必要と思われ、また当時の建築界の状況を十分ふまえた上でなけれ ば検討できないと考え、本論文ではまずこの点を明らかにすることを主 目的とした。  第1章で述べたように、当時の北海道では、大規模な商業施設や主要 な教会建築、函館の防火都市づくりに貢献した中村鎮などのように、道 外の建築家や建築事務所によって生み出されることが多かった(1-2)し、 北海道建築界をリードしていったのは、北海道庁や主要都市の営繕技術 者達であった(1-5)。  二人の建築家の活動範囲が彼らの活動の隙間を埋めるような、住宅建 築や民間建築、宗教建築などであったことは、やむを得ないことであっ たと思われるが、逆にかえって建築家と市民との距離を近づけたように も思えるのである。  市民生活に新しい息吹を与えるきっかけともなった博:覧会(第2章)を はじめ、市街地の繁栄や発展は、郊外住宅地の整備をも誘引したが、札 幌でも大正期以降中心市街地の周辺に新興住宅地が開発され、中流住宅 の建設に拍車をかけた。しゃれた洋風の外観をもつ意匠的にも平面計画 的にも目をひくそれらの住宅は、文化住宅とかモダン住宅と呼ばれ、多 くは大学教官、医師といった知識人や実業家たちの住宅であった。:施主 自ら設計したり、従来通り棟梁がてがけたもののほか、建築家が積極的 に関わるようにもなった(第3章)。  ヒンデルは自邸を手始めに、柳、山崎、大野など北海道帝国大学医学 部教官の住宅を設計し(5-1)、田上義也は、北海道帝国大学教官のほか、 政治家、医者、実業家、音楽家など、広い範囲の施主層に受け入れられ ていった。  ヨーロッパの近代建築思潮を身につけた37歳のヒンデルが来道するの は1924年、ライトに師事した24歳の田上義也の来道も1年前の1923年で ある。しかも二人はユ924年からほぼ同時に札幌で設計活動を開始してい る。ヒンデルは1927年に活動の拠点を横浜に移すので、両者の活動が重 なりあうのはわずか3年半ほどとはいえ、お互いに良きライバルとして 意識したであろうし、新聞に報じられる両者の住宅作品をはじめ各々の 寄稿記事や講演は、建築家の職能、存在を一般市民に鮮烈にアピールし たことは想像に難iくない。  生前の田上義也からの聞き取りでは、両者は顔を会わせたことも、お 互いに声をかけたこともなかったというが、一渡だけ日本基督教会北一 条教会の基本設計で両者が競ったことが知られている。結局田上義也の 設計となるが、北海道におけるプロフェッショナルな建築家の活動期を 飾る記念碑的な作品であった(11-3)。  さて両者が北海道建築界に残した足跡はどのようなものであったろう か。本論文では、大半を作品個々の解説などに費やした結果、この点に ついては多くの課題を積み残したように思われるが、改めて両者に共通 する足跡について評価しておきたい。なお両者の経歴と主要作品の対照 年譜を表14に示し、再考の資料とした. (a)建築家の職能についての啓蒙  ヒンデルは北海タイムスの投稿記事(1925年)で、建築に関する計画と 監督は建築家にまかせよ、建築問題の解決は建築家に一任せよ、建築家 の社会的地位は医師、弁護士などと並び法律で保証されるべきものであ るなど、自信をもって断言した(7-1)。  いっぽう田上義也も『正しい建築』(小樽新聞1925年)で、多くの設計 者が注文主の要求をあまりにも無節操に受け入れていることに警告を発 し、施主の要求を受け入れるかどうかは建築家側にまかされていること、 医師の措置にたいして素人が口出しできぬと同じく、建築も建築家のみ があっかる独舞台であると言及している(第9章)。 (b)北海道向き建築の提案  ヒンデルは、『雪國に相応しい新しい建築』 (北海タイムス1925.10. 30、31)で、日本の伝統的建築は北海道の冬には適さぬため、屋根を簡 単で急傾斜のものとし、南からの採光を考慮するなど、北国の設計条件 をいれた北海道向きの建築を創るべきことを唱えた(4-2)。 こけら張り 16角形平面の自邸は、 「北海道建築にひとつのヒントを与えるもの」(同 上北海タイムス)として評価されたし、外壁のこけら張りや鉄板張りな どの防寒処理やフレアード屋根は、独特のヒンデルスタイルを生み出し た(7-3)。北国の建築には北国の建築家が適っているとも述べている(7 -1)o  同様に田上の提案した「雪国的造型」も、単純で力強い屋根、軽快な 一 432 一 一 433 一 躍3例’評~吻灘麟[画        1騰 犠1灘欝馨懸欝蕪蒸難難灘羅蕪繕鑛繕孫譲鍮轟轟麟蕪}鍵鍵心魂麟璽羅態轡二三辱二三㌻謬ζ播鴛警辮二二縛総1齢’.賑嚢iii三二 ・一f轡望壁一嘩「 緩 灘難難驚灘:露:灘戴:叢難灘1鹸轟簿灘∴叢i甥鞭糟響響避難欝欝姫饗響蟹7霊懇欝                                                        一一.為 構遣採光を考えたガラスファサード、スガモリと吹雪と寒気に対する 防寒性など、北国の建築条件に適した表現形態の追及であり・自己様式 確立への過程でもあった(10-4、13-1、13-2)。 (C)安易な国際様式傾倒への警鐘  ヒンデルは、1925年代の日本建築界における「コンクリートの函が頻 に建つ」(北海タイムス1925.10.30,31)傾向を「洵に心ない業」(同)とし、 「何故日本建築のいい所をとり入れて日本独特の建築を造らないか」(同) と「模倣好きの日本人に対して」(同)疑問を投げかけ、風土伝統を意識し た創作活動をすべきという立場をとった(第7章)。  田上もまた、ライトの教えである「日本の民族精神や自然風土に適し た建築を作るべき」という思想を根底に、国際性(アンチナショナール) に対しては否定的であった。「国際建築。組立家屋。定型化。」(r田上 義也建築叢集』)を、「南方から吹き寄するもの」(同)とし、「ライトやコ ルビュジェの建築形態をいかにそっくり型どっても、新興理論の新しい 衣を身に着けようとも、模倣は空疎であり、用を離れては意味をなさな いとし、安易な国際様式の模倣を戒めている(第13章)。 たものと思われる。  各々の建築観や作風については、第7章、第13章で述べているので重 複は控えるが、両者の共通した主張の多くが、現代の北海道建築界が抱 えている問題にも通じる内容を有している点で興味深い。  なおヒンデルについては、横浜時代の作品や晩年のレーゲンにおける 活動についての資料収集や詳細な検討が残された。田上義也については、 雪国的造型をキーワードに作品を分類し多くの図面史料を基礎に北海道 における作品の全容についてほぼ把握しえたものの、いくつかの作品に みられる兄弟子遠藤新との影響関係などについては、論究の余地が残さ れた。いずれも今後の課題としておきたい。 (d)設計ジャンルの多様性  二人の建築家がてがけた作品の中には、それまでの建築家がほとんど 対象にしなかったようなジャンルもみられる。いずれも市民生活に潤い を与えるスポーツやリゾート施設、カフェーや喫茶店などの小規模商業 施設などであった。  ヒンデルのスキーヒュッテ3部作は、自身の小屋を含め、札幌近郊の 山々をつなぐツアースキーの拠点として市民に広く親しまれ、1994年に 再建されたパラダイスを除く二つは現在も北海道大学管理のもとで利用 されている(5-4)。  田上の設計活動が、1930年代になると住宅よりも市街地建築の割合が 増加し、市街地内の風俗建築や商業建築、郊外の観光ホテルに至るまで 多彩であったことは、第12、13章でも述べた。既存建築のファサード改 修からファサードのみ斬新な意匠とする看板建築的な表現すら採用した 手法は時として「絵しか書けない建築家」として建築技術者から白眼視 される(遠藤明久r北海道住宅史話』(下)P.129)ことにもなったようで あるが、田上にとっては商業建築におけるファサードデザインの重要性 の主張以外の何物でもなかったように思われる。田上とてこうした表現 は実施段階での不本意なものであったことは、遺存する設計図の当初案 からも類推できるが、モダンを志向する施主にとって、気軽に相談にの ってくれる建築家像というものが浮かび上がってくる。こうしたフット ワークの軽さがまた、様々な建築ジャンルに携わる機会を増幅していっ 一 434 一 一 435 一 眩い饗・搾?ft岬興・懇 懇鰻警灘難難灘灘灘難i灘灘. 翻購灘麟懇懇鑛難灘難繍鑛凝議懸盤舞罎鱗灘罵繰欝難欝鱗繋鑛鱗灘三三三二騨難三三響饗騰;講三二耀饗艦 魑P「堅1i 避町ゴ’τ電賊1辱rrr, 司 タr,一 廓 ヨ・ン 観 懸隔鰯丘・ 騨離離難難轡菟響攣ll亨:騰饗舞鶴:1◎夢^“ s Xp 1/t )一一 t-ii“ ?t/ tp f.x一 一 部難癖魁亀鑑’。’       “♂  ▼ d、、   億      3 表14 ヒンデルと田上義也の経歴と主要作品年譜 ヒ ン デ ル 田 上 義 也 1887 1.20チューリッヒで誕生 1899 5.5栃木県で誕生 1903 【16】下級ギムナジウム終了 BECHEF&りANDELE(チューリッヒ),SCHMIDT&ROSSET(チロン) で製図訓練 1907 【20】チューリッヒ,ロールシャッハ,アーラウ,クール,サンモリ ッツ,ミュンヘン,ベルリン,パリ,ブリュッセルなど放浪(~19 14) 1913 【14】青山学院中等科入学 1914 【27】スイス軍技術士官として兵役(~1916) 1915 【16】早稲田工手学校入学 1916 【29】設計事務所開設(チューリッヒ) 【17】早稲田工手学校卒業逓信大臣官房営繕課勤務 1918 【19】帝国ホテル現場事務所入所 1919 【20】12.31F.L.ライト来日 1921.4.帰国 1922 【23】大竹虎雄別邸(東京) 1923 (関東大震災) 【24】11.28札幌到着ジョン・バチェラー博士宅に寄留 1924 【37】1月マルセイユ出発,3月横浜到着 【25】道北、道東:、国後島遍歴、北海道定住を決意 自邸「東光園円い家」(札幌) 岩内白水会主催提琴独奏会開催 北光トリオ結成演奏会開催 札幌藤高等女学校(札幌)* バチェラー学園(札幌) 1925 【38】柳壮一邸(札幌),山崎春雄邸(札幌),大野精七邸(札幌) 【26】4.26-27田上義也建築作品展覧会(札幌時…計台) 自邸(2次,札幌),林邸(札幌) 第二回北光トリオ大演奏会(小樽) 聖フランシスコ修道院(札幌),日本基督教会札幌教会案(札幌) 高田治作邸(小樽)*,フナミヤ食堂(小樽) 「新しく家を建てる人々へ」北海タイムスへ投稿 1926 【39】奥田歯科診療所(札幌),テイネパラダイスヒュッテ(札幌) 【27】百円の家(西村真琴宅改築)(札幌),関場不二彦邸(札幌) 北星女学校女教師館(札幌)*,フランシスコ会神学校(札幌) 関場博士の観海荘(銭函),水野眼鏡店別荘(銭函) ジュネーブ国際聯盟会館競技設計案 田上自邸・アトリエ(札幌),北大五十年祭記念装飾(札幌) 国産振興博覧会豊平館食堂(札幌),同野外舞台(札幌) 札幌第一農園1(札幌),札幌市医師会館(札幌) 1927 【40】北星女学校寄宿舎(札幌),札幌藤高等女学校寄宿舎(札幌) 【28】小熊桿邸(現道銀円山クラブ)(札幌)*,金子実邸(札幌) 天使の聖母トラピスチヌ修道院(函館)* 坂牛直太郎邸(小樽)*,坂敏男邸(銭函)* ヘルヴェチアヒュッテ(札幌)*,ノートン邸(札幌) 白雲山荘(札幌) 新潟天主公教会献堂式(新潟)* 日本基督協会北づ条教会(札幌),愛隣館(札幌) 横浜市本牧満坂へ移転,事務所開設 横浜自邸(現ゾンデルホフ邸)(横浜)* 1928 【41】旭シルク㈱住宅(司令官ハウス)(横浜) 【29】第2回田上義也建築作品展(札幌今井記念館) 熱田天主公教会(名古屋) 吉田角次邸(札幌)*,小川隆子邸(札幌),城生邸(札幌) 北国女学校校舎案(札幌) 上田久寿子邸(現MOA小樽布教所)(小樽)*,櫻田邸(小樽) 秩父宮卑下ヒュッテ(現空剃小屋)(札幌)* 佐田作郎邸(現小熊徹邸)(函館)* OAG(ドイヅ東:洋文化研究協会)入会 東武別邸(旭の,小川義雄邸(和寒) 亀屋本店(札幌),松岡農場事務所(和寒) 1929 【42】“Japanische Bausitten”(日本の建築風習)講演(OAG) 【30】『芸術学研究第一輯』に「建築論」発表 岐阜天主公教会(岐阜) 「北国にふさはしい建i築一考察」(北海タイムス10.25,26,30) 三星女学校校舎(札幌) 鬼窪重作邸(札幌)*,亀屋支店(札幌) 里美勝蔵邸・アトリエ(東京),外山卯三郎邸(東京) アポQ(旭の,佐々木座(旭川) 1930 【43】岐阜天主公教会附属幼稚園(岐阜) 【31】第3回田上義也建築作品展(4.25-29札幌丸井記念館,7. OAG会館改築(東京) 24-28旭li今井呉服店)開催 「建築家の見た一九三〇年の旭ll」(新聞名不詳)発表 『芸術学研究第ゴ績』『同第四輯』に「建築論」発表 バチェラー翁に捧ぐる田上義也提琴独奏会(札幌豊平館) 後藤惣作邸(札幌),安倍信明邸(札幌),城下良平邸(札幌)* 中島温泉(札幌),札幌第一農園皿(札幌) 幌西巡査派出所(札幌),円山郵便局(札幌),富貴堂改修(札幌) マリヤ手芸店改修(札幌),岩城新聞店(燭ll),ヤマニ(捌ll) 浅野炭山病院(沼田),斎藤家墓(旭ll) 1931 【44】恵こ方二天主公教会(名古屋) 【32】『田上義也建築査集』出版 聖母病院(東京)* 太秦康光邸(札幌),山下紅療院(札幌),カフェー三条(札幌) 金沢天主公教会(金沢聖霊病院附属聖堂)(金沢)* 国産振興北海道拓殖博覧会野外舞台(札幌) ヒ ン デ ル 田 上 義 也 1932 【45】南山中学校本館(名古屋)*,上智大学(現1号館,東京)* O本木天主公教会(十和田カトリック教会)(十和田)* F都宮天主公教会(カトリック松が峰教会)(宇都宮)* 【33】小笠原商店卸部(札幌),紀文茶屋(札幌) ゚水ホテル(弟子屈),キャピタル(釧路) 汪ル毎日新聞社(函館) 1933 【46】ドイヅ学園(東京) 【鈎】「帯廣都市計画一考察」(十勝毎日新聞5.16) pリジャンクラブ(旭lD,千秋庵帯広支店(帯広) r田病院(札幌),十勝川温泉ホテル(音更),白雲荘(鹿追) 1934 【47】聖母病院第2期増築工事(東京) ケ母病院看護室第2期工事(同上) 【35】相内邸(現大谷哲也商店事務所)(札幌)*,志田病院(帯広) ム広観月園(音更),共同魚菜市場(釧路),札幌正教会計画案 ホ井莫のための円形野外舞台 1935 【48】マックス.ヒンデル建築事務所解散 【36】宇喜代(岩内) 1936 【49】OAG退会 【37】網走観光ホテル(網走),北見郷土館(現網走博物館)* 1937 【38】札幌市主催「雪国的小住宅」講演 kノ王鉱山(生田原),石狩海濱ホテル(石狩) 1938 【39】「バチェラー翁に捧ぐ音楽のタベ」(札幌公会堂) 1939 【52】ヘルベチアヒュッテ(札幌)行 【40】青森文芸館,弘前新光キネマ,能代国民劇場 キ岡国民劇場 1940 【53】ドイヅへ出発 【41】仏舎利本殿計画案 1944 【45】帝産航空株式会社取締役工場長(~1947.3) 骼Y航空i部工場(八雲) 1947 【48】帝産オート会社取締役札幌支店畏(~1951.3) 1951 【52】田上建築制作事務所再開 1963 【76】1月末レーゲンにて没 【64】北海道総合開発功労者知事賞,北海道総合開発道民大会賞 1965 【66】斗ヒ灘イヒ賞(芸術部門) 1966 【67】日本挙士会アカデミア賞 1970 【71】北海道国際文化協会会長,北海道ユースホステル協会会長 1971 【72】勲四等瑞宝賞 1977 【78】札幌市芸術文化功労賞 1978 【79】北海道開発功労賞 1982 【83】北海道新聞社会文化賞 1991 【92】8.17札幌にて没 注記:【】内は年齢、*は現存作品。1951年以降の田上義也の作品については省略し主な受賞関係のみとした。 一 436 一 一 437 一 饗懇懇灘難灘難霧綴織織灘灘釜編纂騰鱗鑓:驚妻撫繕叢叢双翼1と欝撃:撫蕪難:簸聴罫1灘叢叢撰譲離二二騨:1貿三綱掌二三『聡∵集築㍗萬 蜘π暢 杯グ 三二三二鐸驚璽轡“師 ㌦酔 , 惣■}”帽馬閥蝋:【【く門毎臥稗、R「恥F’ 婆 ぎ・ 釜 麟欝欝懇懇達搬搬総。霧ン:1ゾ∴へ T~二 ㎞ ’   図版出典および所蔵一覧 第1章 図1-1-1 r建築図案 文化生活と其の住宅』表紙(庄司博喜蔵) 図1-1-2 r大札幌案内』表紙(北海道大勃bヴ資料室:蔵) 図1-1-3今井百貨店本店(1926)(『丸井今井百年のあゆみ』) 図1-1-4今井百貨店本店(1937)(r丸井今井百年のあゆみ』) 図1-1-5今井呉服店(1916)(『丸井今井百年のあゆみ』) 図1-1-6三越札幌支店(1932)(北1山道大学建築史研究室蔵) 図1-1-7松竹座(『大札幌案内』(1931.7.20)) 図1-1-8貿鷲座(遠藤明久提供) 図1-1-9カフェー三業(田上家蔵、筆者寄託) 図1-1-10亀屋(田上家蔵、筆者寄託) 図1-2-1札幌組合教会(『建築世界』第8巻第2号(1914.2.10)) 図1-2-2札幌組合教会立面図(『建築世界』第8巻第2号) 図1-2一一3札幌組合教会平面図(『建築世界』第8巻第2号) 図1-2-4札幌独立基督教会(1885)(札幌独立キリスト教会蔵) 図1-2-5札幌独立基督教会新会堂(1922)(札幌独立キリスト教会蔵) 図1-2-6北立面図(1970年実測)(4臨道大学建築史研究室蔵) 図1-2-7東立面図(1970年実測)(北海道大学建築史研究室蔵) 図1-2-8平面図(札幌独立キリスト教会蔵) 図1-3-1中村式L字型ブロック(『早稲田建築学報第二号』1923.7) 図1-3・一 2中村式ブロックの床スラブ(『申村鎮遺稿』(1936.9.5)) 図1-3-3中村式ブロックの壁の構造例(『申村鎮遺稿』(1936.9.5)) 図1-3-4錦輝館(『早稲田建蘂学報第二号』(1923.7)) 図1-3-5北海道拓殖銀行滝川支店(ゴk海道大学建築史研究室蔵) 図1-4-1東本願寺函館別院(北海道大学建築史研究室蔵) 図1・一4-2函館市立図書館本館(北海道大学建築史研究室蔵) 図1-4-3蓬莱アパート(北海道大学建i尊母研究室蔵) 図1-4一・4蓬莱アパート平面図(北海道大学建築史研究室蔵) 図1-4-5大火記念慰霊堂(北海道大学建築史研究室蔵) 図1-5-1札幌グランドホテル(札幌グランドホテル蔵) 図1-5-2札幌警察署(r札幌市写真帖』(1936.)) 図1-5-3札幌グランドホテル平面図(田上家蔵、角寄託) 図1-5-4 小樽組合基督教会(北海道大学建築史研究室蔵) 図1-5-5小樽組合基督教会設計図(玄関部詳細)(日本基督教団小樽     公園通教会) 図1-5-6 日本メソジスト函館教会立面図(1982年実測)(北海道大学     建築史研究室蔵) 図1-5-7日本メソジスト函館教会第4代会堂(1909年)(『日本メソジ     スト函館教会五十年記念史』(1923.)) 図1-5・一8北海道大学理学部本館(北海道大学建築史研究室蔵) 図1-5-9石井喜助(石井家蔵) 図1-6-1旧英国領事館(196(1年撮影)(北海道大学建築史研究室蔵) 図1-6-2在英資料〔図212〕(配置図)(Public Rec◎rd Office蔵) 図1-6-3在英資料〔図213〕(平面図)(Public R㏄。rd Office蔵) 図1-6-4在英資料〔図215〕(立面図)(Pubhc R㏄ord Office蔵) 図1-6-5北側復原立面図(北海道大学建築史研究室蔵) 図1-6-6西側復原立面図(北海道大学建築史研究室蔵》 図1-6-7主棟断面図(北海道大学建築史研究室蔵) 図1-6。8復原平面図(北海道大学建築史研究室蔵) 図1-6-9札幌カトリック北h条教会(北海道大学建築史研究室蔵) 第2章 図2-1-1 図2-1。2 図2-1-3 北海道物産共進会(1886、根室県)(『北海道物産共進會報 告』(1886.2)北海道大学北方資料室蔵) 北海道物産共進会(1892、札幌)第f館(『北海道物産共進 會報告』(1892.12.28)北海道大学北方資料室蔵) 北海道物産共進会(1906、札幌)会場配置図(丁北海道物産共 進會事務及審査報告』(1907.9.23)北海道:大学北方資料室蔵) 図2-1-4北海道物産共進会(1906)第一館(r北海道物産共進會事務      及審査報告』(1907.9.23)北海道大学北方資料室蔵) 図2-2-1開道五十年記念博第一会場(『開道五十年記念北海道博覧      會事務報告』(1920.3.30)北海道大学北方資料室蔵) 図2-2-2開道五十年記念博第一会場配置図(『開道五十年記念北海      道博覧會事務報告』掲載配置図より作成)(北海道大学建築      史研究室蔵) 図2一 2-3水産館(『開道五十年記念北海道博覧會事務報告』) 図2-2一・4 北極塔(『開道五十年記念北海道博覧會事務報告』) 図2-2-5林業及鉱業館(『開道五十年記念北海道博覧會事務報告』) 図2-2-6園芸館(r開道五十年記念北海道博覧會事務報告』) 図2-2-7拓殖教育衛生館(『開道五十年記念北海道博覧會事務報告』) 図2-2-8第二会場工業館(r開道五十年記念北海道博覧會事務報告』) 図2-2-9農家住宅模範家屋(r開道五十年記念北海道博覧會事務報     告』) 図2-3-1国産振興博覧会ポスター(r国産振興博覧會誌』(1927.ユ2.     20)北海道大学北方資料室蔵) 図2-3-2札幌駅前歓迎門(『国産振興博覧會誌』) 図2-3-3 国産振興博覧会第一会場配置図(『国産振興博覧會誌』掲     載配置図に加筆)(北海道大学建築史研究室蔵) 図2-3-4第一府県館(『国産振興博覧會誌』) 図2-3-5機械館(『国産振興博覧巡覧』) 図2-3・一6参考館(『国産振興博覧會誌』) 図2-3-7歴史館(『国産振興博覧會誌』) 図2-3-8旭ll上川館(r国産振興博覧會誌』) 図2-4-1国産振興北海道拓殖博覧会ポスター(r国産振興北海道拓     殖博覧言論』(1932.8.20)北海i道大学北方資料室蔵) 図2-4-2国産振興北海道博覧会第一会場全景     (正面中央府県館、右は西府県館に続き特設館、左は東府県     館および特設館)(r国産振興北海道拓殖博覧會誌』) 図2-4-3国産振興北海道博覧会第」・会場配置図(『国産振興北海道     拓殖博覧會誌』掲載配置図より作成) 図2一・4-4中央府県館立面図(r国産振興北海道拓殖博覧會誌』) 図2-4-5演芸館正面図(『国産振興北海道拓殖博覧會誌』) 図2-4-6音楽堂正面図(『国産振興北海道拓殖博覧會誌』) 図2-5-1小樽海港博覧会ポスター(『小樽海港博覧會誌』(1932.4.10)     北海道大学北方資料室蔵) 図2・一5-2小樽海港博覧会位置図(筆者作成) 図2-5・・3小樽海港博覧会配置図(『小樽海港博覧會誌』掲載配置図     より作成) 図2-5-4小樽海港博覧会正面前広場の景(『小樽海港博覧平平』) 図2・一5-5正門正面図(『小樽海港博覧落勢』) 図2-5-6水族館・海事海運館・産業貿易館正面図(『小樽海港博覧會     誌』) 図2-6-1北海道大博覧会会場配置図(一部筆者加筆)(小樽市蔵) 図2-6-2公園会場正門(北海道大学建築史研究室蔵) 図2-6-3産業本館(北海道大学建築史研究室蔵) 図2-6-4北海道館と飛躍塔(北海道大学建築史研究室蔵) 図2-6-5迎賓館(小樽市博物館蔵) 図2-6-6 海岸会場正門(北海道大挙建築史研究室蔵) 図2・一6-7国防館(北海直大学建築史研究室蔵) 第3章 図3-1-1 図3+2 山鼻屯田兵村(北海道行政資料課蔵、lr札幌歴史地図〈明治 編〉』より転載) 山鼻屯田兵村一戸あたりの敷地(岡田彩子『山鼻・円山住 宅地の成立一大正期札幌の都市形成に関する研eq一一』1985 一 439 一 睡灘…饗繊麗蕪蒸難難難灘!灘羅緊緊灘1豫騰轟ll議1二三謙照照轡1纏慰鎌綬騰艶酵{舗1騨騨桝}響響轡響野」隅響∵警          二三二三1欝’        首託 v”㌧ュ帥マ桟v’3 T”1”  “『■刃肪へ≠’一ref峨」r”曲 ・r く「 r ノ 汐 “r一@nyt@一”; tv:trtny      年度北海道大学建築工学科卒業論文) 図3-1-3 山鼻町豫定道路一覧圖(北海道立図書館蔵 『札幌歴史地図      〈大正編〉』より転載) 図3-1-4札幌郡藻岩村大字圓山道路網圖(1922年)(三関ミン蔵) 図3-1-5 円山振興会住宅勧誘寛伝ポスター(1925年頃)(三関ミン蔵) 図3-1-6「札幌温泉と瑠想的住宅地」記事(北海タイムス、1928.7。14) 図3一一1・・7札幌温泉(札幌市資料館蔵) 図3-2-1小田良治邸(『建築写真類聚住宅の外観その二』北海道      大学附属図書館蔵) 図3-2-2亀井邸(北海道大学建築史研究室蔵) 図3-2-3杉野目邸西正面(北海道大学建築史研究室蔵) 図3-2-4杉野目邸西立面図(杉野目家蔵設計図より作成)(北海道大      学建築史研究室蔵) 図3一 2一一5杉野目二二立面図(1/200)(杉野目家蔵設計図より作成)(北      海道大学建築史研究室蔵) 図3-2-6杉野目邸平面図(1/200)(杉野目家蔵設計図より作成)(北海      道大学建築史研究室蔵) 図3-3-1旧有島武郎邸(1985年撮影)(北海道大学建築史研究室蔵) 図3-3。2竣工当初の有島邸玄関(神尾行三蔵) 図3-3-31957年以前の有島邸(r森本厚吉』1957) 図3-3-4有島武郎邸復原西立面図(1/300)(北海道大学建築史研究室      蔵) 図3-3。5有島邸復原平面図(北海道大学建築史研究室蔵) 図3-3-6有島邸復原南立面図(1/300)(北海道大学建築史研究室蔵) 図3-3-7中央10畳北面(神尾行三蔵) 図3-3-8 中央1(》畳南面(神尾行三蔵) 図3-3-9食堂(神尾行三蔵》 図3-3-10武郎のストーブのスケッチ(「手帳七」『有島武郎全集第12     巻』筑摩書房、1982) 図3-3-11武郎の住宅スケッチ(「手帳十四」『有島武郎全集第15巻』     麟房、 1986) 図3-3-12古藤邸北東外観(北海道大学建築史研究室蔵) 図3-3-13古藤邸平面図(1/200)(大島家蔵『古藤氏住宅設計図』) 図3-3-14古藤邸東立面図(1/200)(『古藤氏住宅設計図』より作成) 図3-3-15古藤邸南立面図(1/200)(『古藤氏住宅設計図』より作成) 図3-3-16古藤蛋晒立面図(1!200)(『古藤氏住宅設計図』より作成) 図3-3-17古藤関北立面図(1/200)(『古藤氏住宅設計図』より作成) 図3-3-18応接室の円形ペチカ(筆者蔵) 図3・・3-19大原邸南側外観(北海道大学{据地計画学講座蔵) 図3-3-20大原邸応接室(筆者蔵〉 図3-3-21大原邸応接室、温室(筆者蔵) 図3-3-22大原邸食堂(筆者蔵) 図3-4-1庄司宅北西外観(1993年撮影)(筆者蔵) 図3-4-2庄司宅復原平面図(1/200)(筆者蔵) 図3-4-3富樫箔1螂南西外観(北海道大学建築史研究室蔵) 図3。4-4 富樫別邸平面図(1/200)(北海道〕大学建築史研究室蔵) 図3-4。5斎藤邸東外観(北海道大学建築史研究室蔵) 図3-4-6斎藤邸平面図(1/200)(Aヒ海道工業大学住谷研究室調査図面     より作成)(北海道大学建築史研究室蔵) 図3-4-7 旧大島邸南外観(北海道大学建築史研究室:蔵) 図3-4-8 旧大島邸平面図(大島蜘蔵『大島氏住宅之平面図』より作成)      (北海道大学建築史研究室蔵) 図3-5-1 旧出納家住宅南西外観(北海道大学建築史研究室蔵) 図3-5-2旧出納家住宅復原略平面図(北海道大学建築史研究室蔵) 図3・・5-3 旧出納家住宅南立面図(北海道大学建築史研究室蔵) 図3-5-4 旧出納家住宅東立面図(北海道大学建築史研究室蔵) 図3-5-5 旧出納家住宅現状平面図(北海遭大学建築史研究室蔵) 図3-5-6 『高倉さんの楽しい農業生活設計』表紙(北海道大学1ヒ方     資料室蔵) 図3十7高倉左輔住宅南外観(『高倉さんの楽しい農業生活設計』19     53.1.20) 図3-5-8高倉左輔住宅平面図(『高倉さんの楽しい農業生活設計』) 第4章 図4+1来札当時(1924年)のヒンデル(岡部洋子蔵) 図4-1-2 ヒンデル家家系図(ハンス・ヒンデル作成)(筆者蔵) 図4-2-1東光園円い家(右から1人おいてヒンデル、アニー夫人)(ハ     ンス・ヒンデル蔵) 図4-2-2札幌藤高等女学校(ハンス・ヒンデル蔵) 図4-2-3自邸(二次)(ハンス・ヒンデル蔵) 図4-2-4柳邸(山崎家蔵) 図4-2-5 山崎町(山崎家蔵) 図4-2-6奥田歯科診療所(ハンス・ヒンデル蔵) 図4-2-7パラダイスヒュッテ(筆者蔵) 図4-2・・8ジュネーブ国際聯盟会館競技設計案(ハンス・ヒンデル蔵) 図4-2-9札幌藤高等女学校寄宿舎(ハンス・ヒンデル蔵) 図4-2-10ノートン記念館(ハンス・ヒンデル蔵) 図4-2。11ヘルヴェチアヒュッテ(山崎家蔵) 図4-3-1横浜自邸(筆者蔵) 図4・一3-2新潟カトリック教会絵葉書(ハンス・ヒンデル蔵) 図4-3-3旭シルク㈱住宅(ハンス・ヒンデル蔵) 図4-3-4上智大学(ハンス・ヒンデル蔵) 図4-3-5南山中学校本館(南山学園蔵) 図4-3・一6宇都宮天主公教会(吉田勝夫蔵) 図4-3-7 0AG会館(ヒンデルのサイン入りスケッチ)(s‘Die Gesch-     ichte der OAG-1873 bis 1980一”OAG蔵) 図4-3-8 ドイツ学園(東京横浜ドイツ学園蔵) 図4-3-9 ヒンデルカs)ll喜田一雄に与えた「勧 (川喜田敬忠臓) 図4-3-10離日前(1939年)のヒンデル(山崎英男蔵) 図4-3-11レーゲンの共同墓地(1984.9撮影)(筆者蔵) 図4-3-12ヒンデルの墓碑(1984.9撮影)(筆者蔵) 第5章 図5-1-1東光園円い家西側外観(竣:〔当初)(ハンス・ヒンデル蔵) 図5-1-2円い家北側外観(195(陣代撮影)(北海道大学建築史研究室     蔵) 図5+3東光園円い家平面図(「北海タイムス1925.10.31」より作成) 図5。1-4二号官舎西側外観(北海道大学建築史研究室蔵) 図5-1-5二号官舎正面図(1/200) 図5-1-6二号官舎平面図(原設計図をトレース)(北海道大学施設部     蔵) 図5+7二号官舎断面詳細図(原設計図をトレース)(北海道大学施     設部蔵) 図5-1-8柳邸南東外観(ハンス・ヒンデル蔵) 図5-1-9Baujoumal表紙(柳福子蔵) 図5-1-10柳邸Bauj。umalの内容の一部(柳福子蔵) 図5-1-11柳邸平面図(Bauj。urnalより作成)(北海遭大学建築史研究     丁霊) 図5-1-12山崎邸北側外観(山崎家蔵) 図5-1-13山崎邸設計図(山崎家蔵1 図5-1一一14山鮎鮨平面図(北海道大学建築史研究室蔵) 図5+15山崎邸玄関ホール(山崎家蔵) 図5-1-16山凹型居間南西面(山崎家蔵) 図5・一1-17山崎邸居間北面と神棚(山崎家蔵) 図5-1-18山崎邸居間のオーーフェン(山崎家蔵) 図5十19山崎戸所蔵椅子(北海道大学建築史研究室蔵) 図5十20グブラー所有椅子(北海道大学建築史研究室蔵) 図5-1。21林道(ハンス・ヒンデル蔵) 図5-1-22大野邸(ハンス・ヒンデル蔵) 図5+23ノートン記念館南西側外観(ハンス・ヒンデル蔵) 図5-1-24ノートン記念館玄関部(ハンス・ヒンデル蔵) 図5-1-25ノートン詔念館居間(ハンス・ヒンデル蔵) 図5-1-26ノートン記:館東側外観(右側がミス・ノートン)(日本聖公     会北海道教区蔵) 図5-2-11933年頃の札幌藤高等女学校(札幌藤学園蔵) 図5-2-2 図5-2-3 図5-2-4 図5-2-5 図5-2-6 図5-2-7 焼失した藤高等女学校本館(札幌藤学園蔵) 復旧工事中の本館(札幌藤学園蔵) 復旧工事終了(1932年)の本館(札幌藤学園蔵) 創建時の本館(ハンス・ヒンデル蔵) 札幌藤高等女学校南立面図(1981年調査時)(北海道大学建 築史研究室蔵) 札幌藤高等女学校本館復原断面図(鵬翼部)(1/30①(一部推 定)〈北海道大学建築史研究室蔵) 図5-2-8札幌藤高等女学校本館復原平面図(1/500)(北海道大学建築      史研究室蔵) 図5-2-9心皮女学校配置図(『北星学校々舎新築准賂十建物配置図』      (北星学無論)より作成) 図5-2-10ヴォーリズ案教師館立面図(図5-2-10~13は原図を反転した)      (北星学高蔵) 図5-2-11ヴォーリズ案寄宿舎立面図(北星学園蔵) 図5-2-12ヴォーリズ案教師館平面図(北星学園蔵) 図5-2-13ヴォーリズ案寄宿舎平面図(北星学園蔵) 図5-2-14女教師館西側外観(ハンス・ヒンデル蔵) 図5-2-15女教師館居間(ハンス・ヒンデル蔵) 図5-2-16女教師館居間・食堂くハンス・ヒンデル蔵) 図5一 2一 17女教師館復原平面図(北海道大学建築史研究室蔵) 図5-2一・18女教師興野立面図(北海道大学建築史研究室蔵) 図5-2-19女教師館南北断面図(北海道大学建築史研究室蔵) 図5-2-20寄宿舎西側外観中央部(1974年撮影)(北海道大挙建築史研      究k蔵) 図5-2-21寄宿舎計画案正面図(資料7)(北星学園蔵) 図5-2-22寄宿舎東側外観(北星学四目でみる100年工887-1987』1987,      9.15) 図5-2-23寄宿舎側面、背面設計図(資料8)(北星学園蔵) 図5一 2一 24寄宿舎1階平面図(資料1)(左)(北星学園蔵) 図5-2-25寄宿舎2階平面図(資料2)(右上)(北星学園蔵) 図5一・2一 26寄宿舎3階平面図(資料3)(右下)(流星学園蔵) 図5-2-27北星女学校(左から寄宿舎、女教師館、校舎)(二二学園蔵) 図5-2-28北星女学校校舎(『北野学園目でみる100年1887-1987』) 図5-2-29A案正面図(資料A-5)(流星学園蔵) 図5-2-30A案側面図(資料A-7)(北星学園蔵) 図5-2-31A案1階平面図(資料A-2)(北星学葦葺) 図5-2-32A案2階平面図(資料A-3)(北野学園蔵) 図5-2-33A案3階平面図(資料A-4)(オビ星学二二) 図5-2-34B案立面図(資料B-3)(北星学二二) 図5-2-35B案平面図(発芽学園蔵) 図5-2-36正面図スケッチ(資料C-1)(北星学三蔵) 図5-2-37C案立面図(資料C-3)(北星学園蔵) 図5-2-38C案断面図(北野学園蔵) 図5-2-39校舎間取図(『北町学園百年史資料編』1990.10.15) 図5F3-1札幌北1東3仮修道院(r光明附録』N◎.11731957.1.13) 図5-3-2札幌北15条修道院(『光明附録』N。.11741957.1.20) 図5-3-3 フランシスコ修道院北西外観(ハンス・ヒンデル蔵) 図5-3-4神学校(北海道大学建築史研究室蔵) 図5-3-5復原北立面図(北海道大学建築史研究室蔵) 図5-3-6復原東立面図(北海道大学建築史研究室:蔵) 図5-3-7復原断面図(北海道大学建築史研究室蔵) 図5-3-8復原平面図(北海道大学建築史研究室蔵) 図5-3-9礼拝堂・祭壇(ハンス・ヒンデル蔵) 図5-3一ユ0トラピスチヌ修道院(1960年撮影)(北海道大学建築史研究     鋼 図5-3-11トラピスチヌ修道院平面図下から1、2、3階(『はこだての     文化財』1971.12.20) 図5-3-12トラピスチヌ修道院聖堂部断面(図面T1)(天使の聖母トラピ     スチヌ修道院蔵) 図5-3-13トラピスチヌ修道院聖堂内部詳細図(図面丁2)(天使の聖母ト     ラピスチヌ修道院蔵) 図5-3-14トラピスチヌ修道院断面(図面丁3)(天使の聖母トiiピスチヌ     修道院蔵) 図5-3・一15トラピスチヌ修道院轟轟(左側創面棟中央聖堂棟は1927年 一 440 一一 一 441 一 ne‘’ 撫.苓響熱際際鷺1罵1藩鷺∴凝:}謬王卿,澱 一.ゼぞ 乱 ・い・. ’、’ P, ] ノ ’fi,tμ・ミ軽      右側棟は1930年増築)(絵葉書『天使園』) 図5-3-16新潟カトリック教会聖堂絵葉書(ハンス・ヒンデル蔵) 図5-3-17ライネルス宛の葉書(南山学園蔵) 図5-3-18新潟カトリック教会遠景(左からヴィアンネ舘、教区長舘、      聖堂)(カトリック新潟教会蔵) 図5。3-19新潟カトリック教会聖堂内陣(戦前期)(カトリック新潟教会      蔵) 図5-3-20新潟カトリック教会配置図(1980年頃)(カトリック新潟教会      蔵配置図より作成) 図5-3-21新潟カトリック教会設計図(図面N1)(カトリック新潟教会蔵) 図5-3。22新潟カトリック教会堂:設計図 ①塔;及階段詳細図(図面N4)      (カトリック新潟教会蔵) 図5-3-23新潟カトリック教会正面(1982年撮影)(筆者蔵) 図5-4-1建設中のパラダイスヒュッテ(酒井隆太郎蔵r酒井隆吉アル      バム』) 図5-4-21951年ごろのパラダイスヒュッテ(『Berg HUtteとSki HU      -tteに就いて』北海道大学建築工学科1951年度卒業論文) 図5-4一一3パラダイスヒュッテ正面図(1/150)(北海道大学建築史研究      室蔵) 図5-4-4パラダイスヒュッテ設計図(札幌市冬のスキー博物館蔵) 図5-4-5改修後のヘルヴェチアヒュッテ(1986年撮影)(筆者蔵) 図5-4-6建設中のヘルヴェチアヒュッテ(『山とスキー』No.771927.      12.1) 図5-4-7ヘルヴェチアヒュッテ平面図(北海道大学建築史研究室蔵) 図5-4-8ヘルヴェチアヒュッテ東立面図(北海道大学建築史研究室     蔵) 図5-4-9ヘルヴェチアヒュッテ断面図(北海道大学建築史研究室蔵) 図5-4-10秩父宮殿下ヒュッテ(Berg HUtteとSki Mtttteに就いて』     北海道大学建築工学科1951年度卒業論文) 図5-4-11秩父宮殿下ヒュッテ設計図(『山とスキー』第89号1929.1.1) 図5-4-12秩父宮殿下ヒュッテ平面図(北海道大学建築史研究室蔵) 図5・・4一一13秩父宮殿下ヒュッテ北立面図(北海道大学建築史研究室蔵) 図5-4-14秩父宮殿下ヒュッテ南立面図(北海道大学建築史研究室蔵) 図5-4-15秩父宮殿下ヒュッテ断面図(北海道大学建築史研究室蔵) 図5一 5-1ジュネーブ国際聯盟会館ル・コルビュジェ案(Charles Jenc     ’ks “le Corbusier and the Tragic View of Architecture”      1973) 図5-5-2ジュネーブ国際聯盟会館ヒンデル案透視図(ハンス・ヒン     デル蔵) 図5-5-3 ジュネーブ国際聯盟会館ヒンデル案配置図(ハンス・ヒン     デル蔵) 図5-54387号ネノー、プレーゲンハイメル案(『建築雑誌』1927.11) 図5-5-5117号プロツギ、ヴヅカロ、フランツチ案(『建築雑誌』19     27.11) 図5-5-6143号ルフェーブル案(『建築雑誌』1927.11) 図5-5-7431号ヴァゴー案く『建築雑誌』1927.11) 第6章 図6-1-1 図6-1-2 図6-1・・3 図6-1-4 図6-1-5 図6-1-6 図&1-7 図6-1-8 図6-2-1 図6-2・一2 図6十3 図〔F2-4 図6-2-5 旧ヒンデル邸南東側外観(筆者蔵) 旧ヒンデル邸居間南東面(筆者蔵) 旧ヒンデル邸居聞北面(筆者蔵) 旧ヒンデル邸居間天井隅部(筆者蔵) 旧ヒンデル邸小屋裏(バランスウェイトの玉石がみられる) (筆者蔵) 竣工後まもないヒンデル邸(ハンス・ヒンデル蔵) 旭シルク㈱住宅外観(ハンス・ヒンデル蔵) :旭シルク㈱住宅遠望(ハンス・ヒンデル蔵) 熱田天主公教会聖堂と司祭館(r素顔の名古屋教区』1968. 10.15) 熱田天主公教会聖堂袖廊部(1936年頃か)(南山学園蔵) 岐阜天主公教会聖堂と司祭館(神言神学院蔵) 岐阜天主公教会聖堂内陣と側廊(神言神学院蔵♪ 岐阜天主公教会外観(神言神学院蔵) ,_聾「鼻 メ盛   s   m 嫡r之塩 ’ 1ノ@㌣  「釦苧  ’ ■7▼恥、’「一噂「炉一曲開騨一F一 一  、一 野攣距 煮 ( - κ } 宰 図6一 2-6岐阜天主公教会聖堂内部(神言神学院蔵) 図6-2-7岐阜天主公教会司祭館(神言神学院蔵) 図6-2-8恵方町教会南側遠望(玄関・鐘楼は1969年増築)(恵方町教会      蔵) 図6-2-9竣工時の御器所天主公教会(『恵方の鐘第19』1967) 図6-2-101974年以前の恵方町教会(畔柳武司提供) 図6-2-11御器所天主公教会1階平面図(畔柳武司提供) 図6-2-12御器所天主公教会2階平面図(畔柳武司提供) 図6-2。13御器所天主公教会北立面図(畔柳武司提供) 図6-2。14御器所天主公教会南立面図(畔柳武司提供) 図6-2-15御器所天主公教会西立面図(畔柳武司提供) 図6-2-16金沢聖霊修道院三位一体聖堂南東外観(南山学園蔵) 図6-2-17三位一体聖堂内部(竣コニ時)(金沢聖霊修道:一隅) 図6-2-181941年以降の三位一体聖堂内陣(カトリック新潟教会蔵) 図6-2-19金沢三位一体聖堂東立面図(1/400原図を反転)(金沢聖霊修     道血振) 図6-2-20金沢三位一体聖堂北立面図(1/400原図を反転)(金沢聖霊修     道院蔵) 図6-2-21金沢三位一体聖堂平面図(1/400原図を反転)(金沢聖霊修道     院蔵) 図6-2-22創建時の三本木天主公教会(カトリヅク十和田教会蔵) 図6一 2一 23創建時の三本木天主公教会内部(カトリック十和田教会蔵) 図6-2-24三本木天主公教会設計図(カトリック十和田教会蔵》 図6-2-25カトリック十和田教会正面現状(筆者蔵) 図6-2-26カトリック十和田教会内部現状(筆者蔵) 図&2-27カトリック松が峰教会正面外観(1979年撮影)(筆者蔵) 図6-2-28宇都宮天主公教会創建時正面外観(山根寛吉蔵) 図〔}・2-29宇都宮天圭公教会創建時北側外観(山根寛’吉蔵) 図6-2-30宇都宮天主公教会創建時内部(吉田博蔵) 図6-2-31宇都宮天主公教会正面図(東面)(1/800)(北海道大学建築史     研究室蔵) 図6-2-32宇都宮天主公教会背面図(西面)(1/800)(北海道大学建築史     研究室蔵) 図6-2-33宇都宮天主公教会側面図(南面)(1/800)(北海道大学建築史     研究室蔵) 図6・一2-34宇都宮天主公教会平面図(1/800)(北海道大学建築史研究室     蔵) 図6-3-1聖母病院正面外観(『聖母病院5(降のあゆみ』1982.12.21) 図6-3-2病院本館とベネディクト病棟(『聖母病院50年のあゆみ』) 図6-3-3A1.1929年設計平面図(聖母病院蔵) 図6-3-4 Cl,1934年複写平面図(聖母病院蔵) 図6-3-5立面図(聖母病院蔵) 図&3・一6外来特合室(『聖母病院5眸のあゆみ』) 図6-3-7西棟西面南側のバルコニーと外階段(『聖母病院50年のあゆ     み』) 図6-4-1南山中学校校舎南正面(南山学園蔵) 図6【4-2南山中学校教室前廊下(北海道大学建築吏研究室蔵) 図6-4-3南山中挙校配置図(南山学園蔵) 図6-4-4南山中学校校舎南立面図(南山学園蔵) 図6-4-5南山中学校校舎北立面図(南山学園蔵) 図6-4-6南山中学校校舎矩計図(南山学園蔵設計図を浄書) 図6-4-7南山中学校校舎平面図(1、2階)(南山学園蔵) 図6-4-8 中学校付属教師住宅平面・断面図(南山学園蔵設計図を浄書) 図6-4-9南山申学校全体計画透視図(『南山学園の歩み』1964。11.1) 図6-5一ユ1914年校舎(『上智大学創立戴拾五年記念』1938.11.1) 図6-5一一2ヤン・レツェル建築事務所設計1914年校舎立面図(『建築世     界』第8巻第1号口絵1914.1) 図6-5・31932年新校舎(ハンス・ヒンデル蔵) 図6-5-41系案正面図(資料1-1)(上智大学蔵) 図6-5-51系案屋根伏断面図(資料1。3)(上智大学蔵) 図6・・5-62甲案1階平面スケッチ(資料2-2)(上智大挙蔵) 図6-5-72系案立面スケッチ(資料2-4)(上智大学蔵) 図6-5-83系案1階平面スケッチ(資料3-1)(上智大学蔵) 図6-5-94-1案平面スケッチ(上智大学蔵) 図6-5-105系案1階平面図(資料5-1)(上智大学蔵) 図6-5-116系案1階平面図(資料&2)(上智大学蔵} 図6-5-126系二三立面図(資料6-6)(上智大学蔵) 図6-5-136系賢主棟断面・中庭立面図(資料6。9)(上智大学蔵) 図6-5-147系案透視図(資料7-6)(上智大学蔵) 図6-5-158系列1階平面図(資料8-2)(上智大学蔵1 図6-5-168甲案2階平面図(資料8-3)(上智大学蔵) 図6-5-178甲案3階平面図(資料8-4)(上智大学蔵》 図〔F5-188系案4階平面図(資料8-5)(上智大学蔵) 図6-5-198系列側面図、南立面図(資料8-8)(上智大学蔵) 図&5-209系案北立面図(資料9-2)(上智大学蔵) 図6-5-21表玄関外観(山崎家蔵) 図6-5-22屋上工事中の景(川喜田貌忠蔵) 図6-5-231階二二事務室前ホール(山崎家蔵) 図6一 5・・ 242階西翼講堂(山崎家蔵) 第8章 図8-1-1 図8-2-1 図8-3-1 図8。3-2 図8-3-3 図8-3-4 図8-3-5 図8-3-6 図8-3-7 図8-3-8 図8-3-9 早稲田時代の田上義也(田上家蔵筆者寄託) 大竹邸(r婦人画報』1922.7) バチェラ・・・…邸(1972年撮影)(北海道大学建築史研究室蔵) 北光トリオ第2回演奏会プログラム(田上家蔵、筆者寄託) 小熊邸(田上家蔵、筆者寄託) 田上自邸アトリエ(田上家蔵筆者寄託) 豊平館食堂(田上家蔵、筆者寄託) 北海道帝国大学芋r陛五十周年記念式典式場スケッチ(田上 家蔵筆者寄託) 北海道帝国大学創基五十周年記念式典会場(r北海道帝国 大学四脚五十年記念写真』1927.3.25) 田上義也提琴独奏会ポスター(田上家蔵筆者寄託) 193{}年代の田上義也(田上家蔵筆者寄託) 第9章 図9。1-1第1回建築作品展ポスター(田上家蔵、筆者寄託) 図9-1-2第1回建築作品展パンフレット表紙(田上家蔵、筆者寄託) 図9-1-3バチェラー学園(田上家蔵、筆者寄託) 図9-1-4 アパートメントハウスの基本設計(田上家蔵、筆者寄託) 図9-1-5北都に建つホテル(田上家蔵筆者寄託) 図9-1-6高松邸(田上家蔵筆者寄託) 図9。 1-7高田邸(田上家蔵筆者寄託) 図9-2-1第3回建築作品展ポスター(田上家蔵、筆者寄託) 図9-2-2第3回建築作品展旭川展の案内記事(田上家蔵、筆者寄託) 図9-2-3第3回建築作品展目録(田上家蔵、筆者寄託) 図9・一3。1 『田上義也建築壷鋼の箱表紙(田上家蔵筆者寄託) 図9。3-2 『田上建築呼集』宣伝ポスター(田上家蔵、筆者寄託) 第10章 図10r1一ユ 図1(ト1-2 図1(Fl-3 図10・一1・・4 図102-1 図10-2・・2 図10・・2・・3 図1(ト3・・1 図10-3-2 図10-3-3 図1(〉一3-4 図10-3-5 図10-3-6 大竹別邸南東外観(『建築画報』Vol.131922.11) 1966年頃の大竹別邸(長島孝・一蔵) 大竹別邸玄関(『婦人画報』Na2011922.7) 館 (r建築画報』 Vol.13 1922.11) 高田邸スケッチ(田上家蔵、筆者寄託) 高田邸車面図(『田上義也建築甕集』1931.2.23) 高田邸(1983年撮影)(北海道大学建築史研究室蔵) 高松邸計画案(田上家蔵筆者寄託) 関場邸バルコン(左手は応接間)(田上家蔵筆者寄託) 関場邸食堂内部(田上家蔵、筆者寄託) 関場邸プロムナード(正面は応接間入口)(田上家蔵、筆者 寄託) 関場邸スケッチ(『田上義也建築群集』) 関場邸L2階平面図(『田上義也建築壷集』)  図10-3-7田上自邸北側正面(田上家蔵、筆者寄託)  図1(F3-8田上自邸南東側外観(田上家蔵、筆者寄託)  図1{}一・3-9田上自邸エントランス(田上家蔵、筆者寄託)  図1G3-10田上自邸平面図(『田上義也建築萱集』)  図1(ト3-11建設中の小熊邸(田上家蔵、筆者寄託)  図10一・3-12小熊邸南東外観(田上家蔵、筆者寄託)  図10-3一工3小熊邸応接間南面(田上家蔵、筆者寄託)  図1(F3-14小熊邸応接間北面(田上家蔵、筆者寄託)  図10-3-15小熊邸平面図(『田上義也建築萱集』)  図10-3・一16坂牛邸北西外観(田上家蔵、筆者寄託}  図10-3-17坂牛邸階段(田上家蔵筆者寄託)  図10-3-18坂牛邸平面図(『田上義也建築査集』)  図10-3-19金子邸平面図(田上家蔵、筆者寄託)  図10-3-20金子芝露外観(田上家蔵、筆者寄託)  図1(F3-21金子邸応接間(田上家蔵、筆者寄託)  図10-3-22坂邸(創建時)(田上家蔵、筆者寄託)  図10-3-23坂邸(1987年撮影)(筆者蔵)  図1{}一3-24坂邸居間(1986年撮影)(北海道大挙建築史研究室蔵)  図1(ト3-25坂邸原案(1937.3.10)(田上家蔵、筆者寄託)  図10-3-26坂邸平面図(『田上義也建築螢i集』)  図10・一3-27建築中の佐田邸(田上家蔵、筆者寄託)  図10-3-28佐田邸応接間(田上家蔵筆者寄託)  図10-3。29佐田邸平面図(『田上義也照準』)  図10-3-30佐田邸原案(田上家蔵、筆者寄託) 図10-3-31佐田邸断面図(台所・食堂)(田上家蔵、筆者寄託) 図1(F3-32上田邸南側外観(田上家蔵、筆者寄託) 図1(F3。33上田海門塀(住宅は坂牛邸)(田上家蔵、筆者寄託) 図10-3一・34上田邸塀の田上のサイン(北海道大学建築史研究室蔵) 図10-3-35上田邸平面図(『田上義也建築論集』) 図1(F3-36アパートメントハウスの基本設計(田上家蔵.筆者寄託) 図10-4-1吉田邸内外観(田上家蔵筆者寄託) 図10-4-2吉田邸設計図(田上家蔵、筆者寄託) 図10-4-3吉田邸食堂断面図(r吉田角次幽幽新築設計詳細(本玄関、      食堂)』 (田上家蔵、筆者寄託) 図1(〉一4-4小川邸(田上家蔵筆者寄託) 図10-4-5小川邸平面図(『田上義也建築葺集』) 図10-4-6小川邸南立面原案(田上家蔵筆者寄託) 図10-4-7東武邸南西外観(田上家蔵、筆者寄託) 図10-4-8東武邸平面図(田上家蔵、筆者寄託) 図10-4-9鬼窪邸南側外観(1983年撮影)(北海道大学建築史研究室蔵) 図10-4-10鬼窪邸立面図(左南面、右西面)(田上家蔵、筆者寄託) 図1(F4-11鬼窪邸平面図(『田上義也建築董i集』) 図10-4-12鬼窪邸断面矩計図(田上家蔵、筆者寄託) 図1Q-4-13後藤邸(田上家蔵、筆者寄託) 図1(ト4-14後藤邸南立面図(田上家蔵、筆者寄託) 図10-4-15後藤邸平面図(田上家蔵、筆者寄託) 図10-5-1日枝邸(田上家蔵、筆者寄託) 図10-5-2日枝邸外観、平面(『田上義也灘集』) 図1(F5-3櫻田邸外観、平面(『田上義也建築画集』) 図10-5。4城下邸南側外観(田上家蔵、筆者寄託) 図10-5-5城下邸設計図(田上家蔵、筆者寄託) 図10-5-6太秦邸北西外観(1983年撮影)(北海道大学建蘂史研究室蔵) 図1(ト5-7太秦邸と小熊邸(太秦家蔵) 図10-5-8太秦邸設計図(太秦家蔵) 図10一〔}一1 メゾン・ア・ガルシコ.(『芸術學研究第二輯』1930.5.1) 図1(〉一6-2ステヴァン作i小別荘(『芸術學研究第四輯』1930.11.20) 図10-6-3相内邸南側外観(北海道大学建築課研究室蔵) 図10-6-4相内邸東側外観(北海道大学建築史研究室蔵) 図1(ト6-5相内邸「ヒロエン」(北海道大学建築史研究室蔵) 図1(ト6-6相内邸新築設計図(平面・立面図)(田上家蔵、笹者寄託) 図10-6-7安部僧明邸(1930)(田上家蔵筆者寄託) 図10-6-8倉田清純邸平面図(田上家蔵、筆者寄託) 図10-6-9倉田清純邸立面図(田上家蔵、筆者寄託) 図1(ト6-10倉田清純邸断面図(田上家蔵、筆者寄託) 一 442 一 一 443 一 闘曜一騨『剛曜卿嘲 蔚 v尋1み , ス 冒 、㌦蕩褥 暫→ 託メ1 噸緊  翌、gyv・ 図1(F7-1里美勝蔵邸・アトリエパース(『田上義也建築董集』) 図1(ト7-2里美勝蔵邸・アトリエ実施案(田上家蔵筆者寄託) 図10十3里美勝蔵邸・アトリエ1次案(田上家蔵、筆者寄託) 図10-7-4外山卯三郎邸外観(『田上義也建築萱集』) 図1{F7-5外山卯三郎邸平面図(『田上義也建築ff集』) 図1(F7-6外山卯三郎邸リヴィングルーム(『田上義也建築叢集』) 図10-7-7外山卯三郎邸リヴィングルーム・食堂(『田上義也建築萱     集』) 第11章 図11-1-1バチェラー学園寄宿寮(新免克己提供) 図11-1-2バチェラー挙園寄宿寮(仁多見巌蔵) 図11+3バチェラー一学園寄宿寮階段室(田上家蔵、筆者寄託) 図11十4田上義也提琴独奏会プログラム(田上家蔵、筆者寄託) 図11十5バチェラー学園パース(田上家蔵、筆者寄託) 図11-1-6バチェラー学園平面図(『E日上義也建築董集』) 図11-2-1札幌第一農園1(『田上義也建簸集』) 図11-2-2札幌市医師会館1階平面図(田上家蔵.筆者寄託) 図11-2-3札幌市医師会館(田上家蔵筆者寄託) 図11-2-4札幌市医師会館大会議室シャンデリア(田上家蔵、筆者寄      託) 図11-2-5愛隣館パース(『田上義也建築壷集』) 図11・一2・・6 『北門建築』表紙(田上家蔵、筆者寄託) 図11-2-7講堂前のパーゴラから診療所を望む(『北門建築』) 図11-2-8愛隣館平面図(『田上義也灘集』) 図11-2-9亀屋本店初期計画案(田上家蔵、筆者寄託) 図11-2-10亀屋本店計画案(1927.3)(田上家蔵、筆者寄託) 図11-2-11亀屋本店喫茶部設計図(田上家蔵、筆者寄託) 図11-2-12亀屋本店喫茶部内部パース(田上象蔵、筆者寄託) 図11-2。13亀屋本店喫茶部断面図(田上家蔵、筆者寄託) 図11-2-14松岡農場事務所(田上家蔵、筆者寄託) 図11-2。15小川義雄宅立面図(田上家蔵、筆者寄託) 図11-2-16松岡農場事務所設計図(田上家蔵筆者寄託) 図11。3-1 日本基督教会初代会堂(『王位90周年記念 札幌北一一条教      会歴史写真集』1985.10.23) 図11-3-2田上案(一次)(田上家蔵、筆者寄託) 図11-3-3田上案(二次)(田上家蔵、筆者寄託) 図11-3。4 1927年新会堂正面外観(田上家蔵、筆者寄託) 図11-3-5会堂木骨小屋組(田上家蔵、筆者寄託) 図11-3-6新会堂北西外観(田上{家蔵筆者寄託) 図11-3-7鉄骨小屋組矩計図(田上家蔵、筆者寄託) 図11。3-8食堂内部とフライングビーム(田上家蔵、筆者寄託) 図11-3-9平面図(『田上義也建築萱集』) 図11。3-10解体中の会堂(北海道大学建築史研究室蔵) 図11-3-11実測正面図(1979年作成)(北海道大学建築史研究室蔵) 第12章 図12-1-1マリヤ手芸店(マリヤ手芸店蔵) 図12-1-2 富貴堂(富貴堂蔵) 図12-1-3富貴堂書房改築設計図(田上家蔵、筆者寄託) 図ユ2・・ 1-4札幌第一農園H(田上家蔵、筆者寄託) 図12-1-5岩城新聞店平面、姿図(田上家蔵.筆者寄託) 図12十6小笠原商店卸部正面図(田上家蔵、筆者寄託) 図12-1-7千秋庵帯広支店正面・側面図(田上家蔵、筆者寄託) 図12-2-1亀屋支店正面外観く田上家蔵、筆者寄託) 図12。2。2亀屋支店内部(田上家蔵、筆帰詣託) 図12-2-3亀屋支店1階喫茶部パース(田上家蔵筆者寄託) 図12-2-4 ヤマニビルディング設計図(田上家蔵、筆者寄託) 図12-2-5改築前のヤマニ(渡辺義雄提供) 図工2-2-6 1930年頃のヤマニ(渡辺義雄提供) 図12-2-7 アポQ(旭川新聞1929.7.20) 図12-2-8㈱三條の広告(『大札幌案内1931.7.20)        ゆ.1二二潅二二二二 ・野4課勇吟剛噌11亭?15』量’-艸憎隔!w㌔一一}一 ・隷難響,     “購    プe ヤ 羅轡欝懇懇ご欝欝舟∵\ ”1一一e一P1.J 一t . r r’VTb ;v$ t - γ     謂 - 」 ㍉ 図12-2-9 カフェー三條外観パーース(田上家蔵、筆者寄託) 図12-2-10キャピタル外観(田上家蔵筆者寄託)  図12-2-11キャピタル玄関(田上家蔵筆者寄託)  図12-2-12キャピタル2階食堂(田上家蔵、筆者寄託) 図12-2-13キャピタル2階食堂(田上家蔵筆者寄託)  図12-2-14キャピタル平面図(田上家蔵、筆者寄託) 図12-2-15紀文茶屋正面図(田上家蔵筆者寄託) 図12。2-16紀文茶屋設計図(田上家蔵、筆者寄託) 図12-2-17パリジャンクラブ正面図(田上家蔵、筆者寄託) 図12-2-18パリジャンクラブ断面図(田上家蔵筆者寄託) 図12-2一一19宇喜代(田上家蔵筆者寄託) 図12-3-1浅野炭鉱病院パース(『田上義也建築論集』) 図12-3-2浅野炭鉱病院平面図(『田上義也建築萱集』) 図12-3-3浅野炭鉱病院設計図(田」二家蔵、筆者寄託) 図12・・3-4山下紅血院平面図(田上家蔵筆者寄託) 図12-3-5山下紅療院立面図(田上家蔵筆者寄託) 図12一・3-6池田病院正面図(田上家蔵筆者寄託) 図12・・3-7志田病院正面外観(田上家蔵筆者寄託) 図12。3-8志田病院(1955年頃撮影)(北海道大学建築史研究室蔵) 図12-3-9志田病院設計図(平面)(田上家蔵筆者寄託) 図12-3-10志田病院設計図(立面)(田上家蔵、筆者寄託) 図12-4-1中島温泉外観(『田上義也建築画集』) 図12-4-2申島温泉パース(田上家蔵、筆者寄託) 図12・一4-3中島温泉新築設計図(階’F:)(田上家蔵、筆者寄託) 図12・・4-4 中島温泉新築設計図(階上)(田上家蔵、筆者寄託) 図12-4-5近水ホテル正面(北側)外観(田上家蔵、筆者寄託) 図12-4-6近水ホテル南東外観(田上家蔵、筆i者寄託) 図12-4-7近水ホテル別館宴会場内部(田上家蔵、筆者寄託) 図12-4-8曲水ホテル1階平面図(田上家蔵、筆者寄託) 図12-4-9画面ホテル2階平面図(田上家蔵、筆者寄託) 図12-4-lO噴水ホテル立面図(田上家蔵、筆者寄託) 図12-4-11近水ホテル別館設計図(田上家蔵、筆者寄託) 図12-4-12十勝川温泉ホテル正面外観(田上家蔵、筆者寄託) 図12-4-13十勝川温泉ホテル本館と浴場(田上家蔵、筆者寄託) 図12-4-14十勝川温泉ホテル立面図(田上家蔵筆者寄託) 図12。4-15十勝川温泉ホテル1階平面図(田上家蔵、筆者寄託) 図12-4-16十勝川温泉ホテル2階平面図(田上家蔵、筆者寄託) 図12・一4-17網走観光ホテル南西側外観(田上家蔵、筆者寄託) 図12-4-18網走観光ホテルパース(田上家蔵、筆者寄託) 図12-4。19網走観光ホテル平面図(r田上義也建築作品抄』1966.5.1) 図12-4-20建設中の石狩海面ホテル(田上象蔵、筆者寄託) 図12十21石狩感心ホテル正面外観(石狩町蔵) 図12-4-22石狩海濱ホテル立面図(側面図、正面図)(田上家蔵、筆者      寄託) 図12-4-23石狩海濱ホテル1階平面図く田上家蔵、筆者寄託) 図12-4-24石狩幽鬼ホテル2階平面図(田上家蔵、筆者寄託) 図12-4-25石狩海濱ホテル3階平面図(田上家蔵、筆者寄託) 図12r5-1佐々木座正面図(田上家蔵筆者寄託) 図12-5。2佐々木座1階平面図(田上家蔵、筆者寄託) 図12-5一・3佐々木座2階平面図(田上象蔵、筆者寄託) 図12-5。4 円山郵便局(『田上義也建築自証』) 図12-5-5 円山郵便局外観(『円山百年史』) 図1匹5-6 円山郵便局平面図(『田上義也建築叢集』) 図12-5-7幌西巡査派出所外観(田上家蔵、筆者寄託) 図12-5-8幌西巡査派出所当初案(田上家蔵、筆者寄託) 図12-5-9函館毎日新聞社立面図(田上家蔵、筆者寄託) 図12-5-10共同魚菜市場白痴図(田上家蔵、筆者寄託) 図12-5-11北見郷土館南西外観(田上家蔵筆者寄託) 図12-5-12北見郷土館階段室見上げ(1974年撮影)(北海道大学建i築史     灘 図12-5-13北見郷土館透視図(田上家蔵、筆者寄託) 図12-5-14北見郷土館平面図(『田上義也建築作品抄』) 図12-5-15札幌正教会彩色立面図(田上家蔵、筆者寄託) 図12-5-16札幌正教会設計図(田上家蔵、筆者寄託) 図12-6-1北ノ王鉱山全景(『生田原町史』1981.3、図中のアルファ     ベットは筆者加筆) 図12-6・一 2診療所(田上家蔵、筆者寄託) 図12・一6-3北ノ王鉱山事務所(田上家蔵、筆者寄託) 図12-6-4北ノ王会館(田上家蔵筆者寄託) 図12-6-5北ノ王クラブ初期案(図面の一部割あい)(田上家蔵、筆者     寄託) 図12-6-6北ノ王クラブ平面図(田上家蔵筆者寄託) 図12-6-7北ノ王クラブ(田上家蔵筆者寄託) 図12-6-8従業員倶楽部(田上家蔵筆者寄託) 図12-6-9帝産航空落部工場計画図(田上家蔵筆者寄託) 第13章 図13-2-1 図13-2-2 雪国の小住宅平面(小樽新聞、掲載年月日不詳)(田上家蔵、 筆者寄託) 雪国の小住宅外観と断面(小樽新聞、掲載年月日不詳)(田 上家蔵筆者寄託) 主な参考文献  【建築家・営繕組織関係】 村松貞次郎r日本建築家山脈』鹿島研究所出版会1965.10.20 日本建築学会編『近代日本建築学発達史』丸善1972.10.20 越野武r日本の建築[明治大正昭和]1開花のかたち』三省堂1979.6.30 小野木重勝『日本の建築[明治大正昭和]2様式の礎』三省堂1979.4.15 藤森照信r日本の建築[明治大正昭和]3国家のデザイン』三省堂1979.2.20 長谷川禿『日本の建築[明治大正昭和]4議事堂の系譜』三省堂1981.4.10 坂本勝比古『日本の建築[明治大正昭和]5商都のデザイン』三省堂1980.9,10 山口廣r日本の建築[明治大正昭和]6都市の精華』三省堂1979.9.1 村松貞次郎・石田潤一郎r日本の建築[明治大正昭和〕7ブルジョワジーの装飾』三省堂1980.1.10 伊藤三千雄・前野まさる『日本の建築[明治大正昭和]8様式美の挽歌』三省堂1982,8.10 谷川正己『日本の建築[明治大正昭和]9ライトの遺産』三省堂1980.11.1 近江1栄・堀勇良『日本の建簗[明治大正昭和]10日本のモダニズム』三省堂1981.8.30 坂本勝比古r明治の異人館』朝日新聞社1965.9 山形政昭『近江兄弟社を中心に残るU.M.ヴォーリズの建築活動資料の調査報告』日本建築学会大会学術講演梗概集(東海)1976.10 山形政昭『ウィリアム・メレル・ヴォーリズの建築をめぐる研i翔私家版1993.2 『高松政雄君の制作と著作』故高松政雄君記念事業會1935.9.5 高松政雄『建築家の修養』(『建築雑誌』No.285)1910.9.25 中村音羽『中村鎮遺稿』中村鎮遺稿刊行會1936.9.5 藤森照信・増田彰久『建築探偵東奔西走』朝日新聞社1988.5.30 藤森照信『昭禾唯宅物語』新建築社1990.3.10 遠藤新生誕百年記念事業委員会編r建築家遠藤新作品剣中央公論美徳出版1991.9.25 遠藤明久『北海道住宅史話(上)(下)』住まいの図書館出版局1994.6.21 遠藤明久r指田近之輔の経歴と業績』日本建築学会北海道支部研究報告集No.661993.3 小坂素謡r建築家石井喜助について』北海道大学工学部建築工学科1991年度修士論文 吉田実r北海道における学校建築に関する史的研究一頭海道庁設置以降の初等・中等学校建築をめぐって一』北海道大学工学部建築工学科1980 年度修士論文 東出雅仁『北海道における初期鉄筋コンクリy一一ト造学校建築に関する史的研究』北海道大学工学部建築工学科1980年度卒業論文 小坂映王『昭和初期における小樽市の営繕事業について』北海道大学工学部建築工学科1989年度卒業論文 大條雅昭・越野武・角幸博『函館市(区)の営繕組織について』日本建築学会北海道支部研究報告集No.561983.3 r播州解績一小南武一の生涯一』小南ミチ1982.1.20 スピロ・コストフ編/横文彦監訳『建築家一職能の歴史』日経マグロウヒル社1981.10.20 ペーター・ブレイク/田中正男、奥平耕造訳『現代建築の巨匠一20世紀の空間を創造した人びと一』彰国社1963.8.10 藤岡洋保r大正末期から昭和初期の日本の建築界におけるル・コルビュジェの評価』日本建築学会大会学術講演梗概集(東北)1982,10 『新訂建築学体系6近代建築史』彰国社1968.7.1 S.ギーディオン/太田實訳『空間・時間・建築2』丸善㈱1955.5.25 【M.ヒンデル】 Kurt Meissner “Deutsche in Japan 1639-1960r’ Tokyo 1961 “Mittelungen der Deutschen Gesellschaft ftir Natur-und V61kerkunde Ostasiens” 22 1931 “Die Geschichte der OAG-1873 bis 1980r” OAG 角幸博r建築家マックス・ヒンデルの経歴と作品について』日本建築学会計画面論文集No.4651994.11 【田上義也】 蝦名賢造『北方のビジョン/地域開発における人間研究』らいらっく書房1966.5.20 rわたしの道(第一藻)』北海タイムス社1974.4.10 小山一男r北のまれびとくエゾライト・田上義也〉』(上)(下)現代出版社1977.10.20 田上義也「私と北海道の建物」(『月刊住宅ライフ』連載)1983.3~1984.3 『私のなかの歴史3』北海道新聞社1984.8.20 r受賞に輝く人々(昭和五十三年)』北海道1979.3.29 外山卯三郎編輯『藝術學研究 第一輯』第一書房1929.12.1 一一@444 一 一 445 一 饗欝響蕪蒸灘欝灘蓑藝鎌難緊緊帯謬論下熱、乱泌.丁丁三脚藝 ・嚢・二q  9“’マ 誉∵諺継・三三5導1劉∴帯螺誉蹴、1凋稻∵ 1;’:. .鑑F     い   弊門・酬㌦ 讐沖γ鳥r蠣曜一脚剛・一”v・?一 醗 騨離離鴛警欝灘議鎌灘轟1嚢鱗1麟紋織 弼二.}舜 vJΨL沸h静{↑㍉鳳奪罫線「’”詮讐…域 亨 戚郁炉桝『ヒ・潤、 ・.・斡卿撃覇  比 外山卯三郎編輯『藝術學研究 第二輯』第一書房1930.5.1 外山卯三郎編輯『藝術學研究 第四輌第一書房1930・11・20 日本藝術學協會編『田上義也建築董集』東京建設社1931.2.23 北方文化研究会編r田上義也建築作品抄』らいらっく書房1966.5.1 加藤誠『田上義也の初期住宅作品』北海道大学工学部建築工学科1983年度卒業論文 江川弘一『田上義也の初期作品について』北海学園大学工学部1983年度卒業論文 【建設業関係】 木田保太郎『木田保造』1976.4.16 『風雪の百年 北海道建設業界史』北海道建設新聞社1980. 山崎英雄『道南の槌音 函館建設業界史』函館建設業組合1982.4.1 【住宅・文化村・郊外住宅関係】 山本外三郎『「文化村落」の建蘂に就いて』(『建築之普及』No.27帝國工業教育會)1922.6. 山中節治r建築図案 文化生活と其の住宅』建築書院1923.2.11 中尾保『誤れる文化生活』(『建築と社会』第8霊園2号日本建築協會)1925.2.1 中谷宇1吉郎『績冬の華』甲鳥書林1940,7.5 『高倉さんの楽しい農業生活設計』画幅学園通信教育出版部1953.1.20 南面+社会古顔研究所『大正文化 1905-1927』勤草書房1988.2.27 内田青蔵r「昭和改良会」の活動からみた大正・昭和初期(戦前)における「洋風系独立住宅」の導入と成立に関する研究』1986 池上重康・越野武・角幸博・太田純r北大医学部文化村について』日本建築学会北海道支部研究報告集N。.671994.3 池ヒ重康・越野武・角幸博『北海道大学「医学部文化村」について』日本建築学会計画系論文集No.4661994.12 糠油灘以前(蜘麟団体のあれこれ)」(北繊士舗醗言麟蝕概融士』%1,16朧藤士会) 村田専as『emアラカルト』(r纏士/函館肪藤士会1。周年言d・.e・V函館肪鹸士会)1962.2.1。 川島龍司rはこだての文化財 建簗編』函館市文化財保護協会1971.12.20 趨明久『㈱寺函館別院(1915年)備伊州日腱三会絵翔講演梗WW(楠道)1978.9 大{鞭『函館市簾綴の蜘磯』楠道大学工学継築工学科1982鞭卒業論文 l l t z.2 ご1 ?曳’ ぶ . 私 鼠 混  【北海道その他】  『新編沼田町史』沼田町役場1982.12.10 『新+津川町史』糖道新+溺1町役場1965.11. 歌志内市史編纂委貴会r歌志内市史』1964,11.10 旭ll市史編集委員会『旭ll車回第一一一・:巻』旭ll市役所1959.4.10 旭ii市史編纂委員会r旭il市史籍三巻』旭ll市役所1959.7.1 木野工r旭川今昔ぱなし』網ヒ海出版部1985。1.20 『室蘭市史 下巻』室蘭市役所1941.6.25 『音更町吏』音更町史編さん委員会1961.11.3 『新釧路市史年表』釧路市1975.9.25 生田原町史籍さん委員会r生田原町史』頼髄翻囎陸田胸役場1981.3 『遠軽町史』遠軽町役場1957.7.20 網走市史編纂委員会『網走市史 下巻』網走市役所1971.3 蜘嚇「松膿場顛蒋己」(r北鱒二方史研究90』)ゴ鱒肪蜘究会1973.2 【頼画道一般】 r消されかかった療術一死線を超えて50年一一』社団法Mifi毎道治画師会1981、9.23 前川公美夫『北海道音楽史』私家版1992.6.5  【札幌】 『北門建築愛確当無料診療所建築記念號』サッポロ建築社1927.11.1 大塚白面r大札幌案内』近世社1931。7.20 r札幌市史 政治行政編』札幌市役所1953.2.20 r札幌市史 産業経済編』札幌市役所1958.4.30 札幌市教育委員会編『新札幌市史第二巻通史二』北海道新聞社1991.10.19 円山百画面編纂委員会r円山百年忌』円山百年史編纂協賛会1977.6.25 『山廊創基八十一周年記念誌』山鼻創基入十一周年記念会1957.5.29 上野幌開基百年記念事業協賛会編集部『上野幌百年のあゆみ 拓魂』上野幌開基百年記念事業協賛会1985.9.29 札幌市教育委員会編『さっぽろ文庫1札幌地名考』北海道新聞社1977.9.26 札幌市教育委員会編『さっぽろ文庫7札幌事始』北海道新聞社1979.1.30 札幌市教育委員会編『さっぽろ文庫12藻岩・円山』北海道新聞社1980.3.25 札幌市教育委員会編『さっぽろ文庫・別冊 札幌歴史地図〈明治編〉』札幌市・札幌市教育委員会1978.9.12 札幌市教育委員会編『さっぽろ文庫・別冊 札幌歴史地図ぐ大正編〉』札幌市・札幌市教育委員会1980.3.17 札幌市教育委員会文化資料室編rさっぽろ文庫・別冊札幌生活文化史〈大正・昭和戦前編〉』札幌市・札幌市教育委員会1986.2.20 伊藤廣r屯田兵村の百年(下巻)』北海道新聞社1979.9.10 関秀司・笹木義共『ふるさとの想い出写真集明治大正昭和札幌』国書刊行会1979.9.28 和田義雄『札幌喫茶界昭和剣株式会社財界さっぽろ1973.8.1 脇哲『物語薄野百年史』すすきのタイムス社1970.9.15 石田篤郎編纂r丸井今井百年のあゆみ』株式会社丸井今井1973.12.1 阿部要介『札幌グランドホテルの50年』三井観光開発株式会社1985.4.25 札幌市医師会史編纂委員会r札幌市医師会史 昭和編』社団法人札幌市医師会1983.3.10 【函館】 r函館市誌憩函館日々新聞社1935.12.20 『函館市史資料白磁6集』函館市編纂委員会1956.12.22 村田専三郎『函館建築文化雑記』函館名匠顕彰宴会1943.U.25 村田専三郎「函館の建築(一)」(NHK函館放送局編r郷土昔話』函館郷土文化会1954.6.20)  【宗教関係】  五十嵐鐵『回顧五十年目(小樽)天主公教会1941.6.25 「フランシスコ会北髄布拗史(一)~(t)」(r糊イma』)1957.1.13.5.19 木太魏●OS忠一・{囎r倶熾カトリック教会五一三山倶鞍カトリック教会196278  『函館・宮前町聖ミカエル教会改新築記念誌』1965,11.7 1灘灘欝欝1灘識鑑畿f腎16謄教団札4vat)lkif・21・1966・1・・2 繰鱗㈱蜷督教会.クラーク記・欝(1922)についてその・』r同その2』日本灘会北濾:部大35鰍艦繊 回心リスト教会歴蠕纂類会r躰聖二型鰍リスト教会酔の歩み』1993.4.1。 「フランシスコ会楠道布教破(一)~(t)」(r糊付録』)1957.1.ユ3.5.19 小野忠亮『北日本カトリック教会史』中央出版社ユ970.3.18  『素顔の名古屋教区』1968.10.15 『カトリック恵方町教会五十周年記弊誌』1981.6.21 小野忠亮r青森県とカトリック』百年史出版委員会1982.9 岡田鞘『栃木鍵轍化カトリック松が燭〔会』㈹日腱面会関轍音鰍支所1986.11.8 田中美知子『歩く宣教師イポリト・ルイ・カディヤック』1978.5.21 宮田洋子訳r掌院セルギイ北海道巡回記』キリシタン文化研究会1972.7,20 聖母病院5(〉年史編集委員会『聖母病院50年のあゆみ』1982。12.21 『日本鋤会鰍噛轍会期・Z・k+年史』日本蹴会札幌北一轍鋪戯稗蠕纐会1956.12.25 『失われた教会堂→L幌市北鮒鐘を興る会の纐札幌枇一轍鐘を鰯る会198。.5.1 札幌正教餌年史委員会r札幌正教會百年史』宗雛門札椥・リストス正教会1987.8.19 『躰基鰍団函鰍会1・。年史1874~1974』日本基en団ハリス翻記緬館教会1976 『日本メソジスト函館教会五十年記念誌』1923 【学校関係】 『北斗学園八十年誌稿』1967.10.1 櫨学園1。。年史「写真篇」編集Ca会rゴ隣鵬で見る1鵬188㍗1987』1987.9.15 北星学園百年史刊行委員会『北星学園百年史 資料篇』1990.10.15 札幌ma育委員会文化資料室rさっぽろ文庫61農学校物翻下聞社1992.6.24 r南山学園の歩み』南山学園1964.n.1 一 446 一 一 447 一  麗麗難懇懇羅欝蕪蒸灘1繊灘懸灘灘i難三熱総籔隷i撫燕憲;撫霧撫辮郷鍵三際二二=響1三野憐. ℃:喚外二二ミ歩ゴ鑓∵桝響黙懸一轡晩虚、. 馬黄賦        ぬぬ 鞠蝋マ蝋叩娯マ含㌔し『勝卸や・’・…劉艶聯荊・罰脅、 蒙 難離離讐繋灘購舞雛饗鞭羅醗驚図と難轡響r鷺洩を甥糖騨鴛妙響蝋鞭欝響難i雛 crL’ ?avrflT.e.smtx」fi一”ltefi. [i’上智大學創立威拾五年記念』上智大学1938.11.1 上智大学編『上智大学五十年剣上智大学出版部1963.11.1 上智大学史資料集編纂委員会r上智大学資料集 第3集(1928~1948)』学校法人上智学院1985.3.30 “Deutsche Schule Tokyo 75 Jahre(19ca-1979)” Tokyo 1979 【博覧会】 『北海道物産共進會事務及審査報告』北海道物産共進會1907(M40).9.23 『開道五十年記念北海道博覧會事務報告』北海道庁1920.3.30 国産振興博覧曾編纂部編纂『国産振興博覧會誌』北海タイムス社1927.12.20 『国産振興北海道拓殖博覧會誌』国産振興高ヒ海道拓殖博覧會1932.8.20 水出良造『小樽海港博覧倉誌』小樽商工会議所1932.4.10 『小樽市主催北海道大博覧會誌』原稿(小樽市立図書館蔵)1940か 『灘報』 Vol●13 1922・11) 演 、 爵 撫ざ .聴!》 【辞書、辞典類】 古林亀治郎r現代人名辞典』中央通信社1912.6.27 金子信尚『北海道人名僻書』北海道民論社1923.9.30 『キリスト教大事典』教文館1963.6。30 『建築大辞典』彰国社1974.10.10 槌田満文『明治大正風俗語辞典』角川書店1979.11.25 ;坂本太郎監修i『風俗辞典』東京堂出版1981。10.10 『北海道大百科事典』北海道新聞社1981。8.20 r角川日本地名大辞典1 北海道上巻』角川書店1987.10.8 【スキーヒュッテ】 『山とスキー』第78号1928.1.1 『山とスキー』第79号1928.2.1 『山とスキー』第89号1929。1.1 r北大山岳幽々部面』第13号北海道大学体育会山岳部1990.5.1 森本光彦『Berg HUtteとSki Hutteに就いて』北海道大学工学部建築工学科1951年度卒業論文 佐々木政吉「新設記念ヒュッテに就て」(『北海道帝国大学文武会スキー部創立拾五周年記念』)1962.12.10 大野精七『北海道のスキーと共に』1971.1 【その他】 南博編『日本モダニズムの研劉ブレーン出版1982.7.30 南博編r近代庶民生活誌③世相語・風俗語』三一書房1985.5.31 南博編『近代庶民生活誌⑩享楽・性』三一書房1988.7.15  【人物・人名など】 『現代札幌人物史』札幌現代社1931.11.23 森本厚吉伝刊行会『森本厚吉』河出出版1956.12 佐渡谷重信『評伝 有島武郎』研究者出版1978.8 r有島武郎金集第6巻』筑摩書房1981.2.20 『有島武郎全集第12巻』筑摩書房1982.11.30 『有島武郎全集第13巻』筑摩書房1984.6.30 r有島武郎全集第15巻』筑摩書房1986.9.20 『新潮日本文学アルバム9 有島武郎』新潮社1984.9.20 前川公美夫『有島武郎の札幌の痛く上〉』北方文芸1984.12 前川公美夫『有島武郎の札幌の寂』星座の会1987.9.30 r有島寮物語』農林中央金庫札幌支店1987.1.31 『出納陽一氏の面影』「出納陽一氏の面影」刊行会1977.5.15 大野精七伝記編集i委員会r大野精七の歩み』大野精七先生顕彰会1981.6.17 『林豊州伝』十勝毎日新聞社1989.10.8 仁多見巌『アイヌの父 ジョン・バチェラー』楡書房1963.4.30 仁多見巌訳編rジョン・バチェラーの手紙』山本書店1965,12.15 仁多見計『異境の使徒英人ジョン・バチラ一封』北海道新聞社1991.8,29 【雑誌】 (1’ww,1] No.285 1910.9 ifwwpuU] No.488 1926.10 ifiklElliilSl ,S No.497 1927.4 [rww No.502 1927.11 『灘』No●506 1928●2 『灘』 No.585 1934.5 『建築世界』第8巻第1号建築世界社1914.1. 『建築世界』第8巻第2号建築世界社1914.2 『建築世界』第8巻第3号建築世界社1914.3. 『建築之普及』No.27帝國工業教育會1922.6. 『建築と社会』第2号日本建築協會1925.2.1 『婦人画報』No.2011922.7 一 448 一 一一@449 一 三三三三三鱒三二三三:謹・三筆三二三三欝欝f三三二三三 崩、a諏 Ψ   ・働喚驚「7桝磯饗w岬暑甥←鳥て・一劃η響脚7㎎騨・㌔・   難1,.・,, 旧藩讐鰐讐響響1惣望㌻∵脳∴r㌧㌶Yl”’ 一1,鰹称5’吟 ・灘 ” 関連既発表学術論文および論著 第1部 【学術論文】 1.角幸博、越野武『有島武郎札幌邸(大正2年)一建設事情とその沿   革について一』日本建築学会計画三論文報告集No.465(pp.129-   136) lg86.3 2.角湖西越野武『函館旧英国領事館(大正2年)の建築について』   日本建築学会計画系論文報告集No.390(pp。142-149)1988。8 3.池上重康、越野出面幸博r北海道大学「医学部文化村」につい   て』日本建築挙会計混系論文報告集N。.466(pp.153-162)   19su.12  【その他の学術論文】  4.越野武、角幸博『札幌独立基督教会・クラーク記念会堂(1922)   について その1』日本建築学会北海道支部第35回研究発表会論   文集(pp.141-144)1971.3  5.越野武角幸博『札幌独立基督教会・クラーク記念会堂(1922)   について その2』日本建築学会北海道支部第35回研究発表会論   文集(pp.145-148)1971.3  6.伊藤俊英、越野武角幸博『建築家中村鎮と中村式鉄筋コンクリ   ートブロック』日本建築学会北海道支部研究報告集No.55   (pp.ユ53-156) 1982.3  7.笹本明、越野武、角幸博『開道五十年記念北海道博覧会と明治大   正期博覧会の建築』日本建築学会北海道支部研究報告集No.55   (pp.157-160) 1982.3  8.越野:武、角幸博、修t藤俊英r建築家中村鎮と北海道』日本建築学   会大会学術講演梗概集(東北)(pp.2349-2350)1982.10  9,大僻謝紹、越野武、角幸博『函館市(区)の営繕組織について』   日本建築学会北海道支部研究報告集No.56(pp.221・一224)1983.3 10.郷間幹夫、越野武、角幸博『函館市元町の3教会について』日本   建築学会北海道支部研究報告集No.56(pp.225-228)1983.3 11.川瀬昭則、越野武、至幸樽r札幌における大正・昭和初期の住宅   遺構調査』日本建築学会北海道支部研究報告集N◎.57   (pp.149-152) 1984.3 12.古田真三、越野武角幸博『旧有島武郎邸(大正2年)について』   日本建築学会北海道支部研究報告集No.57(pp.241-244)1984.3 13.岡田彩子、越野武角幸博『大正期における札幌山鼻・円山住宅   地の成立』日本建築学会北海道支部研究報告集No.59   (pp.289-292) 1986.3 14.高橋澄人、越野武、角幸博『函館給英国領事館の建築について』   日本建築学会北海道支部研究報告集No.60(pp.217-220)1987.3 15.角幸博『『北海タイムス』にみられる明治・大正期の建設業者』   日本建築学会北海道支部研究報告集No.61(pp.241-244)1988.3 16.角幸博『国産振鋤瞬毎道拓殖博覧会と小樽海港博覧会』日本建築   学会北海道:支部研究報告集No.63(pp.349-352)1990、3 17.小坂映王、越野武、角幸博、長尾充r昭和初期における小樽市の   営繕組織について』日本建築学会北海道支部研究報告集No.63   (pp.sc5-sc8) 1990.3 18.角幸博『北梅道大博覧会(昭和12年)について』 日本建築学会大   会学術講演梗概集(中国)(pp.765-766)1990。10 19.角幸博『国産振興博覧会(大正15年)について』 日本建築学会北   海道支部研究報告集No.64(pp.381-384)1991.3 20.照井康穂、越野武、角幸博、長尾充、池上重康『札幌市における   明治・大正期の建築の3遺構(旧正見病院・旧吉田別邸・旧出納   邸)』日本建築学会北海道支部研究報告集N。.65(pp.445-448)   1992.3 21.小坂映王、越野武角幸博、長尾充『建築家石井喜助(1893~19   77)』日本建築学会北海道支部研究報告集N◎.65(pp.449-452)   1992.3 22.小坂映E、越野武、角幸博、長尾充[1’建築家石井喜助(1893~19   77)について』日本建築学会大会学術講演梗概集(北陸)(pp.1101-   llO2) 1992,8 23.太田純越野武、角幸博」池上重康『桑園博士町について』日本   建築学会北海道支部研究報告集No.67(pp.581-584)1994.3 24.池上重康、越野武、角幸博、太田純『北大医学部文化村について」   日本建築学会北海道支部研究報告集No.67(PP.585-588)1994.3 25.池上重康、越野武、角幸博、太田純『北海道大学医学部文化村に   みられる文化生活の導入』日本建築学会大会学術講演梗概集(東   海) (pp.1387-1388) 1994.9 26.玉木大樹、越野武、角幸博r函館市東部旧「開機」の住宅地形成   について (1)「開鍍文化村」ほか2村』日本建築学会北海道支   音β研究幸侵告i集iNo.68 (pp.609-612) 1995.3 27.内藤孝、越野武、角幸博、玉木大樹『函館市東部旧「開襲」の住   宅地形成について (2)近代和風住宅について』日本建築学会北   海道支部研究報告集No.68(pp.613-616)1995.3 【著割 28.(共著)『さっぽろ文庫23札幌の建物』札幌市教育委員会   1982. 12 29.(共著)『さっぽろ文庫・別冊 札幌生活文化史〈大正・昭和戦前  編〉』札幌市教育委員会1986.2 第2部 【学術論文】 30.角幸博r建築家マックス・ヒンデルの経歴と作品について』日本   建築学会計画詩論文集N。。465(pp.175-181)1994.11  【その他の学術論文】 31.角幸博、越野武『建築家マックス・ヒンデルー1』日本建築学会   4ヒ髄芝音噺究幸侵舗き No.45 (pp.369-372) 1976.3 32.角幸博、越野武『建築家マックス・ヒンデルMAX HINDERの経歴   について』北海道大学工学部研究報告N。.83(pp.15-24)1977.3 33.角幸博『建築家マックス ヒンデルMAX肛NDER-2一住宅作品に   ついて その1』日本建築学会北海道支部研究報告集N。.49   (pp.451d“454) 1978.3 34.角幸博r建築家マックス ヒンデルMAX H工NDER-2一住宅作品に   ついて その2』日本i建築学会北海道支部研究報告集No.49   (pp.455-458) 1978.3 35.越野武、角幸博『北海道における近代建築の展開』北海道大学工   学部研究報告N。.92(pp.93-104)1979.1 36.角幸博r建築家マックス ヒンデルMAX HIVDER-3一名古屋市南   山中学校について一』日本建築学会北海道支部研究報告集N。.50   (pp.375-378) 1979.3 37.角幸博『建築家マックス ヒンデルMAX HINDER 3っのSki HU-   tteについて』日本建築学会大会学術講演梗概集(近畿)(pp.2097   -2098) 1980.9 38.角幸博、越野武、新田真理『図星学園女教師館(大正15年)につ   いて』日本建築学会北海道支部研究報告集N◎.54(pp.113-116)   1981.3 39.角幸博、越野武『北星学二女教師館(大正15年)について』日本   建築学会大会学術講演梗概集(九州)(pp.2333-2334)1981.9 40.畔柳武司、角幸博『新潟カトリック教会について』日本建築学会   東海支部研究報告No.20(pp.449・・451)1982.2 41.渡辺正継、越野武、角幸博『マックス・ヒンデルに関する研究   そのLフランシスコ修道院について』日本建築学会北海道支部   研究報告集N◎.55(pp,161-164)1982.3 42.角幸博、越野武『マックス・ヒンデルに関する研究 その2,札   幌藤高等女学校(キノルド館)について』日本建築学会北海道支部   研究幸侵鹸No.55 (pp.165-168) 1982.3 43.角幸博『宇都宮カトリック教会(1932)について』日本建築学会   大会学術講演梗概集(東北)(pp.2343-2344)1982.10 44.角幸博『『カトリック新聞』にみられるヒンデルの作品について』   日本建蘂学会北海道支部研究報告集No.56(pp.229-232)1983.3 45.角幸博『『カトリック新聞』にみられるヒンデルの作品について』   日本建築学会大会学術講演梗概集(北陸)(pp.2567-2568)   1983.9 46.畔柳武司、角幸博『金沢聖霊病院附属礼拝堂について』日本建築   学会大会学術講演梗概集(北陸)(pa.2585-2586)1983.9 47.角幸博『北の地に新風をおくったスイス人建築家マックス・ヒン   デル』住宅建築N。.238(pp.188-193)1995.1 48.池上重康、越野武角幸博『北海道帝国大学および小樽高等商業   学校傭外国人教師官舎(大正14年~昭和2年)』日本建築学会北   海道支部研究報告集No.68(pp.637-640)1995.3 第3部 【その他の学術論文】 49.加藤誠、越野武角幸博『田上義也の初期作品について(1)一住   宅一』日本建築学会北海道支部研究報告集N。,57(pp.153-156)   19an.3 50.沁1泓一、越野武、角幸博『田上義也の初期作品について(2)   一非住宅一』日本建築学会北海道支部硯究報告集No.57   (pp.157-160) 19en.3 51.角幸博、越野武加藤誠『田上義也の初期作品について』日本建   築学会大会学術講演梗概集(東海)(pp.921-922)1985.10 52.角幸博『石狩海濱ホテル(1936)について(田上義也研究2)』日   本建築学会大会学術講演梗概集(九州)(pp.787-788)1989.10 53.角幸博『大竹虎雄別邸(1922)について(田上義也研究3)』日   本建築学会大会学術講演梗概集(東北)(pp.895-896)1991.9 54.角幸博r田上義也戦前期の建築活動から』ひろばN◎.51(pp.25-   32)(社)北海道建築士事務所協会1991.12 55.角幸博r田上義也建築作品展について(田上義也研究4)』日本   建築学会北海道支部研究報告集N。.66(pp.397-400)1993.3 56.角幸博『田上義也建築作品展覧会(1925年)と出展作品について』   日本建築学会大会学術講演梗概集(関東)(pp.1499-1500)1993.9 【著書】 57.(共著)『失われた教会堂 札幌市北一条教会堂を保存する会の記   録』札幌市北一条教会堂を保存する会1980.5 一 450 一 一 451 一 FengFpmmpge. 饗灘黙黙欝難響難灘議購軽丁丁二丁鵜丁丁∴誉潜警じ蘇ゾ憾〕胞 へ’_rががて、\ハ (J、属 バ  !“’一 ’T∵’‘:艦㌻獅~暫バ獄懲。            ゐ   ひいへ                ん   ’      \.L.、…、二三、∠織      孔 一tf高=@”一t”Y,.’t. art’T.一;’ 一;H”一de. Nny/rwr““X(?.b一. .“lt N一 ” ’ 臣 ‘ 燗 膚 「 ◎ ・ ◆ 」 , 腎 t 鳳 ■ ■ ■ “ ■       ■     ■ ・ 」 ・ 、 ” 」 . .   風 ・ ∫ 悪 釦 れ町 一 L ’ 叩 ド 一 一1   e 一r 一v] 1 1:  .  ] T一 ’響    ■ 面 . ,一@T T,,, i,i       L             r 一..‘” D i ’一Stb   :  1  」一i i一 」  璽一i一@.一一 IA一 , 一一    11 .1 )雪畠 ] 一 一 一. - 一■   【   r 圏   一 r 1 一 ■.一     i T ”. 1 一一 曜 ・1  一 國 - 咽 =  E 1 1 . 1 一. 11, ト 1 」 「 一     1 ■ 「 せ     回           1  d       -        11 [tL一」}こ・   L   圏;    ’ 琶                   il 一 im-1, 1                     , 一1                       - r   ’ρ   ■  ’停ノ                       圏                         1’                       i ili                         1 l                     1 !一                           ,                        1尊                 一, ihii                   ⊥1、冒’li     ri         IL , 一 111i 1, . 一ille.一 ,i 一一 i i-J’ D,M’ @. ’.e:ti:一一 i一一ii,. 一’      di ,.1 th 一一 lei LPIbL                      ’        1                   1                /・一                        {1 1一 t 哩■v一.■     一 1 一黶@T-     1一 一一   一一 ’ 1     一 ¶ 」 弄 や 田冒 k 書孟L』   i ㌔ 一 ■ 一 一. 一一r         L[圧.1                 t ’       1  一一     Ill    書轟㌔1穏lll       寸出.’i 1,,iil            ロ                匡㌔」〕             ・‘雪1  ,・        申 ・rL㌔・一・r   門  1・・  Il   一覧   1一.-」し1 黶u[一一   、一一一一一一丁.一一一一’.一 rr[r写一弓・‘1 t一一一 1町1’蛎占舟母 ,lt] ’1. 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