ポーランドのアイヌ研究者 ピウスツキの仕事 ─ ─ 古蠟管レコード資料からの音声再生* 朝倉 利光 エジソンの発明による蠟管式蓄音機が、前世紀末から今世紀初頭にかけ音 声を記録するために使われ、その結果として多くの貴重な録音蠟管レコード 資料が残されてきた。現在、この文化遺産としての蠟管レコード資料の保存 方法や音声再生技術の確立などが重要課題となっている。ここでは、B.ピウ スツキ、北里闌、加計正文が残した録音レコード資料に関係して、録音した 人の人物像、録音蠟管の意義、蠟管レコード、録音蠟管からの音声再生に ついて紹介する。特に、レーザー利用による非接触型の光学式音声再生法に ついて詳細に解説する。 1.まえがき 年 月 日から 月 日の 日間、 サハリン 旧樺太 のユジノサハリンスク 旧豊 原 にあるサハリン州郷土博物館で行われたブ ロニスワフ・ピウスツキ(Bronisław Piłsudski)生 誕 周年国際シンポジウムに出席した。会場 となった郷土博物館は、かつての樺太庁博物館 で、日本の城を思わせる純日本式建築は日本時 代の貴重な名残りであり、日本と関係の深いピ ウスツキを記念するシンポジウムに最もふさ わしい会場であった。シンポジウムの内容は、 小生の講演を除いてすべてピウスツキを記念 する文化人類学、民族音楽、言語学に関するも のであった。小生の講演は、“レーザーを用い たピウスツキ古蠟管からの音声再生”であり、 ただ一つの工学的研究の成果であった。シンポ ジウムの会長 V.M.Latyshev が、シンポジウム最 後の総括において、小生の講演に対して「シン ポジウムにすばらしい花を添えていただいた」 と賛辞を述べられた。シンポジウム終了後に、 サハリン北部の少数民族への 日間の訪問旅行 が計画され、ユジノサハリンスクから北方へ 延々 時間の汽車の旅でサハリン鉄道の終着 駅ノグリキを訪問した。ノグリキは北緯 度 に近いオホーツク沿岸の町で、そこはかつてピ ウスツキが 時期生活を共にしたニブヒ ギリ ヤーク 族が住んでいる所である。そこではニ ブヒ族から暖かい歓迎を受け、特にピウスツキ がかつてニブヒ族に出会い、そこの生活に融け 込んでいった過程を演劇にして紹介されたの には非常に感激した。演劇の終了後に、ピウス ツキ復活に多大な貢献をしたとして、今回のシ ンポジゥムを開催した会長であるLatyshevとピ ウスツキが録音した蠟管からの音声再生を行 つたとして小生が表彰を受けた。ポーランドの 人類学者ピウスツキは世界でも有数のアイヌ 研究者でありながら、その業績と生涯はまだ多 くの謎に包まれている。ところが、従来その所 在が明らかでなかった彼の樺太流刑時代の録 音蠟管がポーランドで発見され、 本が日本で の再生・解読を目的に 年 昭和 年 月 日にポーランドから北海道大学応用電気研究 所に運ばれてきた。 録音蠟管は、約一世紀前の製品であり、かつ その保存が悪かったため相当に劣化が進んで おり、情報内容を解析する前に、音声再生に高 度の技術的研究が要求された。したがって、工 学的音声再生のための研究が続けられ、一応の 成果が得られた。音声再生と合わせて、内容の 古蠟管レコード資料からの音声再生(朝倉利光) ─ 32 ─ 解析が言語学と民族音楽の立場から行われて きた。一方、この機会を契機にピウスツキの生 涯・業績とその周辺の発堀も文化人類学的立場 から精力的に行われてきた。このようにして、 ピウスツキ録音蠟管に関する研究は、工学、言 語学、民族音楽、文化人類学の多方面にわたる 学際的協力関係で研究が進行して今日に至っ た(文献 1−3)。ピウスツキ蠟管の研究が進められて いることが報じられたことがきっかけで、録音 蠟管約 240本が京都の大谷大学図書館で発見さ れた。この蠟管に音声を録音したのは、北里闌 (たけし)である。また、広島県山県郡加計町の旧 家、加計慎太郎氏の蔵の中に夏目漱石の蠟管の ほか 4本が見つかった。この蠟管は、加計家の 先代にあたる 22 代目の加計正文が録音したも のである。 1986 年(昭和 61年)2月 25日に、再生の役割 を終えた録音蠟管は、ポーランドに返還される ために北海道大学応用電気研究所を離れ、2 月 28 日に新東京国際空港から航空便で返還され た。一方、北里録音蠟管も再生が終了し、2 月 26 日に大谷大学に返還された。しかし、加計録 音蠟管に関しては、再生が困難をきわめ、依然 として再生作業が続けられている。 以上の録音蠟管 3件にまつわる周辺の話題を、 特に(1)録音した 3人の人物像、(2)録音蠟管の 意義、(3)蠟管レコード、(4)録音蠟管からの音 声再生の工学的諸問題について、多角的観点か ら紹介する。 2.録音した 3 人の人物像 2.1 プロニスワフ・ピウスツキ(文献 1−3) プロニスワフ・ピウスツキは、ロシア領ヴィ リノのポーランド人地主の家に第 3子長男とし て 1866 年に生まれた。1年後に、後にポーラン ド独立後、国家元首となった弟ユゼフ・ピウス ツキが誕生した。この兄弟はともにペテルブル グ(旧ソ連のレニングラード)大学に進学した が、同じ大学の学生アレクサンドル・ウリヤノ フ(レーニンの兄)らのロシア皇帝アレクサン ドル三世暗殺陰謀事件が発覚し、これに連座し て 1887 年に逮捕された。元老院で開かれた特 別法廷で 15 名全員に絞首刑の判決が下され、 アレクサンドル・ウリヤノフら首謀者 5名は絞 首刑に処せられたが、残るピウスツキ兄弟を含 む 10 名は死刑を免れた。そして兄と弟は樺太 流刑 15 年と 5 年の刑に処せられた。ピウスツ キは、それ以来 10年間(刑期は恩赦令で 3分の 2に減刑)、国事犯として樺太に囚われの身とな ったが、その環境にもめげずに樺太原住民の社 会にわけ入り、とりわけ原住民ニブヒの実地調 査を行った。1896 年に刑期満了に伴って移住民 の資格を取得し、南樺太のコルサコフに開設さ れた測候所に勤務し、それを機会に樺太アイヌ に関心をもつようになった。その後ウラジオス トークに渡り、そこの博物館に勤務するように なったが、ロシア科学アカデミーの依頼もあっ てそこから樺太にアイヌ調査研究に出かけた。 このとき、アイヌの酋長バフンケの姪と結婚し、 1903 年に長男、1905 年に長女をもうけた。問 題の蠟管は、この頃にピウスツキが調査費でエ ジソン式蓄音機と蠟管を購入し、自分の手で録 音したものである。 図 1 は樺太滞在中のピウスツキ、図 2 は樺太 原住民と一緒に撮ったピウスツキの写真である。 図 1 樺太滞在中のピウスツキ 図 2 樺太原住民と一緒に撮ったピウスツキ (座っている左側の人、右側はロシア人) ポーランドのアイヌ研究者 ピウスツキの仕事 ─ ─ 日露戦争がおこると、ポーランド社会党の指 導者となった弟ユゼフ・ピウスツキは日本の援 助を求めて東京にやってきたが、それに成功す ることなく。去って行った。しかし、このこと を兄ピウスツキは知らないままに、 年に函 館にやってきて、東京、神戸、長崎と駆けめぐ り、 年に日本を離れてポーランドに帰った。 この間、彼は文学者の二葉亭四迷、横山源之助、 アイヌ学者の鳥居竜蔵、坪井正五郎、神保小虎、 村尾元長、政治家の大隈重信、山縣有朋、島田 三郎、そして日本の社会主義者らと多岐にわた る親交を結んだ。ピウスツキは、特にアイヌ救 済を熱心に訴えて歩いた。彼はアイヌ原住民と その文化の理解者であり、保護者であり、アイ ヌ民族への愛情に燃えていた。 年にポーランドに帰ったピウスツキは、 学歴不足から研究職にもつけず、学位取得のた めフランスとスイスに留学したが、いずれも資 金不足で挫折してしまった。しかし、 年か ら 年にかけて博物館や科学アカデミーに 就職ができて研究生活が始まりかけたが、第一 次大戦の戦雲に追いやられて再び流浪の旅に 押しやられた。そしてスイスからフランスと渡 り歩き、 年末頃にパリに流れついたが、 年 月 日セーヌ河のミラボー橋のふも とで水死体として発見された。死亡については、 パリ警察の検視で自殺と断定されているが、そ の真相はいまなお明らかでない。遺体は、パリ 北方のモンモラシーにあるポーランド人墓地 に眠っている。 北里闌 北里闌は、破傷風の血清療法の発見者として 世界的に有名な医学者、北里紫三郎のいとこに あたる。北里は、 年 明治 年 に熊本県に 生まれ、東京大学文学部を卒業後、若き日約 年間をドイツ留学ですごし、大阪医大 現阪大 医学部 で長くドイツ語教授を務めた。ドイツ 語教授のかたわら、日本語の起源研究に没頭し た在野の言語学者でもある。 年 昭和 年 から 年にかけて日本語のルーツを求めて、 南はボルネオ、フィリピンから北は北海道、樺 太まで研究旅行をし、各地の民謡や方言をエジ ソン式蓄音機を使って蠟管に録音した。北里は、 「日本語の起源は、アイヌ語と朝鮮語、それに 南洋語の混じったもの」という学説を主張し、 それを証明するため各地の言語を収録した。こ れらをもとに、「日本語源研究の道程」「日本語 の根本的研究」「日本古代語音組織考」などを 著した。 年 昭和 年 死去。 加計正文 夏目漱石の録音による蠟管は、広島県山県郡 加計町の旧家、加計慎太郎氏の蔵の中にあった。 この蠟管は、加計家の先代にあたる 代目の 加計正文 年 明治 年 ~ 年 昭和 年 が、 年 明治 年 月 日に漱石 に依頼して録音したものである。正文は、東大 文学部英文科に進んだが、林業や鉱山で栄えて いた加計家を継ぐため、東大を中退し同町に帰 っていた。しかし、東大時代の恩師夏目漱石を 懐かしみ、彼に依頼して許可を得たのち、上京 して録音したものである。蔵から出された蠟管 は、特注の桐と紙ケースに丁寧に納められ、蓄 音機とともに保存されてあった。漱石の蠟管の ほかに 本あり、うち 本は正文の親友で、か つ漱石門下の児童文学者、鈴木三重吉が録音し た「潮来節外」で、残り 本は内容が不明であ る。桐箱には、蠟管のほかに漱石、三重吉の書 簡がたくさん残されており、正文が彼らと交友 が深かったことをうかがわせた。図 は、蠟管 とそのケースである。 正文は加計町に録音蠟管をもち帰ったあと、 漱石を懐かしみながら時々聞いていた。しかし、 次第に蠟管が針でいたみ、だんだんに聞きにく くなり、 年 大正 年 に聞いたのを最後に 蔵の奥深く納めてしまった。その後、鈴木三重 吉や小宮豊隆 漱石門下の文学者 の要請で何 回か蔵から出して蓄音機にかけてみたが、すで に漱石の声を聞くことができずに、再び蔵の中 図 夏目漱石と鈴木三重吉の録音した蠟管 白色に変質している とケース 古蠟管レコード資料からの音声再生 朝倉利光 ─ ─ に入れられて現在に至っている。蠟管は加計地 方の特有な湿潤な気候と蔵特有の環境により、 白いかび状のものでおおわれて劣化が進んで おり、かつ摩耗により音溝がほとんど消えてお り、音声再生の見通しは非常に暗い。 3.録音蠟管の意義 ピウスツキ蠟管 文献 ピウスツキは世界でも有数のアイヌ研究者 であるが、余りにも波乱に富んだ生涯であった ためか、その生涯と業績にはまだ謎に包まれて いる部分が多い。彼は 年から 年の間、 樺太にあって原住民であるアイヌの中で長期 間にわたって生活し、アイヌ語に精通できたた だ一人の研究者であり、南樺太全域のアイヌ言 語の資料を多く残した。さらに口承文学の採集 と、それへの具体的、客観的考察を行い、これ らはアイヌ語研究史において輝かしい業績と なっている。 ピウスツキの仕事でひときわ異彩を放つも のに、蠟管蓄音機による樺太アイヌ語の音声収 録がある。言葉はいかに詳細に記載されていて も、時間とともにそれから音声を再現すること は難しくなる。したがって、現代では人類学者 の必要な仕事に音声をテープレコーダーに収 録することがある。この仕事の先駆的なことを、 ピウスツキは当時の新製品である蓄音機と蠟 管で行っていたわけである。彼の音声収録は、 アイヌロ承文学の諸文学様式を明らかにする 上で貴重な資料である。さらに、蠟管には祭り 歌、恋慕歌、舟歌、酒謡、神謡など民族音楽が 多く含まれておりアイヌ音楽の貴重な資料で もある。また、蠟管にはハウキやオイナといっ た各種の神話や伝説が多く収録されている。こ れらはアイヌ文化の具体的要素を豊富に含む もので、文化人類学上から貴重な資料である。 以上のように、ピウスツキ録音蠟管は言語学、 民族音楽、文化人類学において極めて貴重な資 料であり、その解明はそれらにおいて重要な意 義をもっている。しかし、長期にわたって放置 されて劣化してきた蠟管からの音声再生には、 工学的再生の技術的研究が重要であり、それな くして前記の学術的研究への出発ともなり得 ない。本再生研究を通して得られてきた工学的 再生法の確立は、世界に放置されている多くの 劣化した古蠟管からの再生に利用することが できる。すなわち、音声再生方法の確立は、埋 もれた貴重な文化遺産である未再生の古蠟管 からの情報収集の可能性を開くものである。 北里蠟管と加計蠟管 北里蠟管には、アイヌ語、八雲方言、秋田方 言、熊本方言などの日本語の各方言、台湾の高 砂族の言語、フィリピン諸島のサマール、タガ ログ、ブラカン、バゴボなどの諸方言が生々し い音声で収録されている。日本語の方言の場合 は、まだラジオなどで標準語が全国に流れなか った時代の“原方言”の発堀に重要なデータを 提供している。アイヌ語や台湾の高砂族の言語、 フィリピンの諸言語は、いずれも類例のない貴 重な音声資料である。 加計蠟管に含まれる夏目漱石や鈴木三重吉 の音声は、もし再生が成功した場合には、日本 の偉大な文豪の肉声として文学書以外からの 資料となり、社会的に貴重な資料となるであろう。 4.蠟管レコ一ド 文献 年前後に使用されたレコードは円筒と 円盤の 種類があった。円筒式はエジソンが 年に錫箔蓄音機として発明したのが最初 で、蠟管式に改良して実用化された。図 は、 エジソン式蓄音機の一つである。 図 蠟管式蓄音機 エジソンスタンダード 一方の円盤はドイツ人ベルリーナが 年 に考察したもので、現在のレコードの原形であ ポーランドのアイヌ研究者 ピウスツキの仕事 ─ ─ る。この 方式は形状ばかりでなく音声の記録 方式も異なっていて、円筒の場合は音溝の垂直 方向の変化が、円盤では左右の変位が音声信号 に対応している。 標準的な蠟管は直径 55mm、長さ 105mm の円 筒に、254μmピッチで音溝がねじ状に刻まれて いる。したがって、一本の蠟管には約 本の 音溝があり、約 分の録音ができる。図 は、 保存状態のよかったピウスツキ蠟管のケース と蟻管である。図 に、エジソン式蓄音機によ る蠟管への音声録音の過程を示す。 図 ピウスツキ録音蠟管のケース 左 と蠟管 右 図 エジソン式蓄音機による録音過程 当時は音声直接方式の録音時代で、録音時は ホーンに顔を近づけて発音させたり、ホーンの 代りにチューブを接続して口にあてて発声さ せた。また、スタイラス 針 の代りにカッター を用いて蠟管の表面を削り取るようにして音 溝を刻んでいた。したがって、音圧の強度に対 応して溝の深さが変化しているが、音響エネル ギーだけで溝を刻むため、その深さは最大で 50μm 程度である。ただし、ピウスツキ録音蠟 管は録音技術が未熟であったためか、深くても 10μm程度である。 物理化学特性 蠟管レコードは、赤外線スペクトログラムに よる分析結果から、ブラジル産のヤシ(Corypha Cerifera)の葉から採取したカルナバ蠟(Carnauba wax)を主成分とするものであることが判明し た。カルナバ蠟の原材料は黄緑色や褐色のもの であるが、ヤシの種類および精製方法によって 幾つかにさらにわかれる。いずれも約 %が脂 肪酸であり、ほかに炭水化物、高級アルコール などが含まれている。 カルナバ蠟は天然蠟中で最も固く、磨くと光 沢があり、 ~ ℃の高融点を示す。融点に達 した蠟が自然凝固 凝固点 ~ ℃ した場合、 その表面は他の蠟に比べて、均一で細かく削工 研磨の効率もよいことから、蠟管レコードの素 材として適当であった。しかし、 ℃以上で硬 度が急激に低下し、各種溶剤に溶けやすくなる。 他の蠟と同様に温度変化による膨張収縮率が 大きいため、部分的に加熱あるいは冷却した場 合には亀裂が生じやすい欠点がある。 ピウスツキの蠟管は、黄茶色、焦茶色、黒焦 茶色、黒色の 種でエジソンフォノグラフ社と コロンビヤフォノグラフ社のものである。それ らはカルナバ蠟だけでできているわけでなく、 カルナバ蠟のよい性質を残し不適当な点につ いては増量剤や安定剤を混入して改良してい る。特に、黒色系のものはモンタン蠟 カッ炭 より抽出した鉱物性蠟 を加えていた可能性が ある。蠟管レコードの機能を十分に発揮させる ため各企業独自の成分、製法を極秘に試みてい たと考えられる。 保存状態と修復 ピウスツキ蠟管や加計蠟管は保存状態が非 常に悪く、ほぼすべての蠟管に白色変質物が認 められる。図 に示すように、それらが粉化し 薄く白っぼくなっているもの、白く濃く大小の 班点のあるものが多く、情報再生時の雑音の最 大の原因となっている。また、多くの蠟管にひ っかき、擦れ、圧着などに原因する表面傷が認 められ、 数本は大きな亀裂があり、複数に破 損している。 白色変質物については、肉眼ではカビなどの 微生物によって生じたものにみえる。しかし、 赤外線吸収スペクトログラムによる分析結果 からは、白色変質物はカビによるものでなく、 古蠟管レコード資料からの音声再生(朝倉利光) ─ 36 ─ カルナバ蠟の成分にわずかな変質が生じたも のであることが推測される。白色変質物はカル ナバ蠟の主成分であるセロチン酸や混合物で ある少量の炭水化物、蠟系アルコール、高級脂 肪酸など経年の紫外線照射、温湿度変化、また 酸化などの分解作用によって生じたと考えら れる。 図 7 蠟管の音溝の拡大写真:(a)保存状態のよいも の、(b)白色変質物で覆われているもの、(c) 大きな傷のあるもの、(d)レプリカの表面 いずれにしても、再生にあたって修復が必要 となった。カルナバ蠟は 40℃以上で各種溶剤に 溶け、常温でも反応しやすく化学溶剤で洗浄除 去することは蠟管本体に危険であり、またこの 白色変質物は水に不溶である。この白色変質物 は、変質脂肪酸や経年に耐えにくい蠟管の混合 物である炭水化物、樹脂水分などの混合物であ るという推測によって、これらの分解除去をご く自然に安全に行うことを目的に消化酵素の 使用を考えた。これには大根に含まれるアミラ ーゼ(ジャスターゼ)の効力を活用することに した。アミラーゼは pH5.2~5.8、60~65℃の時 に最も活性が強いが、蠟管のカルナバ蠟は温度 変化による膨張収縮率が大きく亀裂のあるも のなどに危険であるので常温処理を行った。こ の処理の効果として、特に表面の黄変した油脂 と白色変質物を 30%近く減少させることがで きた。 複数に破損しているものは、蠟管内型の芯棒 の上でシアノアクリレート系の接着剤を用い て接合組み立てた。図 8は、ピウスツキ蠟管の 複数個に破損した蠟管の修復前後の写真であ る。これに使用する接着剤の強度は、蠟管の力 学的強度と同質であることが望ましい。欠損や 幅の広い亀裂をもつものは、触針式による再生 の際に、触針先が 250μm と極小であり、内部に 落ち込み停止する問題が生じるため充填塑型 にすることにした。それには低融点、強接着力 の可塑材が理想であるため、充填剤を特に用意 した。 さらに半永久的に蠟管を保存するための措 置として、つぎに述べるエポキシ樹脂によるレ プリカの作成を行った。 図 8ピウスツキ蠟管の修復前後の写真: (a)修復前、(b)修復後 4.3 レプリカの作製 レプリカ(複製)の製作では、歯科治療におけ る義歯作製の技術を応用した。図 9(a)に示した ように、まず母型を作るためにアクリルパイプ (直径 10cm)で作った型取り外枠の中心に蠟管 を固定し、歯科材料で用いられる印象剤を流し 込んだ。印象剤としては、収縮が少ない、寸法 精度が高い、流動性がよいなどの理由から付加 重合型ビニールシリコン(GC 社 EXAFLEX F) を利用し、蠟管の溝に密着させるために、印象 剤を塗布してから圧縮空気を吹きつけた。また、 印象剤を注入するときは、気泡除去のためバイ ブレータで振動を加えた。約 6分で硬化した後、 外枠をはずしシリコンを外側に広げながら蠟 管を抜き取った。つぎに、電子顕微鏡の試料作 製に利用されるエポキシ樹脂包埋剤(Taab 社、 Spurr Resin)をスターラで十分撹はんし、真空装 置で溶液中の気泡を除去してから、図 9(b)に示 すように母型に注入した。恒温槽に入れ 60℃の もとで、36 時間かけて硬化させた。図 7(d)の レプリカの顕微鏡写真からわかるように、1μm ポーランドのアイヌ研究者 ピウスツキの仕事(2013) ─ 37 ─ 程度の精度が得られており、エジソン式蠟管再 生機で再生しても原蠟管音声と変わらない音 色が得られていることが確認できた。 図 9 レプリカの作製順序:(a)シリコンの流し込み、 (b)エポキシ樹脂の流し込み 5.録音蠟管からの音声再生 5.1 従来の蠟管蓄音機(文献 5、6) 蠟管蓄音機はエジソンフォノグラフ社(Edi- son Phonograph)、コロンビヤフォノグラフ社 (Columbia Phonograph)などで販売されていたが、 その中でも 1900~1905 年にはエジソン社のホ ームフォノグラフモデル A (Home Phonograph Model A)、スタンダードフォノグラフモデル A (Standard Phonograph Model A)などが普及して いた。録音機はいずれも、図 4、6 に示したよ うに、蠟管を一定速度で回転させながら回転に 同期してスタイラス(針)を直線移動させるよ うになっている。動力としてはゼンマイを利用 しており、回転速度を一定に保つように機械式 のガバナを備えていた。回転速度は、1902 年ま では 144rpmで、それ以後は 160rpm である。 スタイラスは、曲率半径 8mil の円形が多く、 再生用としてはサファイアが、録音時のカッタ ー用としてダイヤモンドなどが利用されてい た。スタイラスは金属棒の先端に固定されてい るが、先端が比較的自由に上下左右に動くため、 蠟管に偏心があったり音溝が蛇行していても 十分に追従していける。金属棒の他端は針金で ダイヤフラムの中心に接続しており、スタイラ スから伝達された機械振動が音響振動に変換 される。ダイヤフラムは初期の頃は動物の皮、 セルロイドなどで作られていたが、薄いマイカ や銅板も多く利用されていた。 図 10 蠟管蓄音機による再生音の長時間周波数スペ クトル 蠟管に段落をつけて再生した衝撃音により 再生系の周波数特性を求めた結果、低域は 100Hz 以下で高域は約 3.5kHz であることがわ かった。しかし、ピウスツキ録音蠟管をエジソ ン式再生機スタンダード A(図 4)で再生し、そ の長時間周波数スペクトルを求めてみると、図 10 で示すごとくスペクトルの現れている範囲 が 500Hz~3.5kHz と狭くなっている。これは録 音系やホーンの周波数特性も大きく反映した ためと考えられる。 当時の再生機の針圧は約 20g と大きく、その 上に回転数が 160rpm と高速のため、回転時に 針先端に加わる加速度は数 100m/s2 前後に達す ると考えられる。したがって、亀裂や欠落のあ る部分では、蠟管をいためてしまう危険性があ る。そのため、蠟管を直接利用する場合には、 音声信号検出として非接触のものを使用する か、接触式のときでも針圧の非常に小さいもの を選択する必要がある。蠟管蓄音機の特徴の一 つは手軽に録音できたことである。エジソンの 古蠟管レコード資料からの音声再生(朝倉利光) ─ 38 ─ 機械は針の変換だけで録音機として使える点 から、単なる音声再生装置としてではなく、現 在のテープレコーダーのように使われること も多かったようである。ピウスツキ、北里、加 計らの目的には、このことが適当な道具となっ たと考えられる。 図 11 開発した再生系のブロックダイアグラム 5.2 音声再生システム 私達が開発した蠟管再生システムは、図 11 に示すように駆動部、検出部、データレコーダ ーおよびマイクロコンピューターからなって いる。検出された信号はアンプ、フィルターを 通った後にデータレコーダーに記録されると ともに、A/D コンバーター(12bit、10kHz)を介し てフロッピーディスクに格納される。駆動装置 は 1回転につき音溝 1本分だけ蠟管が移動する ようになっており、検出部を固定したまま信号 を検出できるようになっている。低速駆動用と して、直径 5cm のポリカーボネート棒に 254μm ピッチでネジを切った蠟管固定棒を作り、それ をリールとワイヤーを介してステップモータ ーと結合し、ゆっくり回転させる方式を開発し た。また、高速駆動用として蠟管をパルスモー ターで回転させながら水平パルスステージに より直接移動させる方式を開発した。これは、 駆動用の 2つのパルスモーターの回転速度を独 立に変化させることができるようになってい るため、コンピューター制御により音溝にセン サーをトラッキングさせながら計測するのに 適している。 検出部では、蠟管からの信号検出を変位計測 と考え、以下に述べるごとく接触法と非接触法 を開発した。 5.3 接触法による音声再生(文献 7) 接触法は触針を音溝にそって触れながら変 位を測定する方法で、検出部分には(i)表面粗さ 計測用のセンサーと(ii)音響振動計測用のセン サーを使用した。前者は変位電圧変換部が差動 トランスでできており、触針の変位を 0.02μm の感度で測定することができる。また、針圧は 最小 0.07g と小さくとることができるので、直 径 10μm 程度の触針を用いても、表面を傷付け ることなく信号検出ができた。ただし、帯域が DC~50Hz と狭くなっているため、再生時の回 転速度を本来の 1/100以下に抑える必要があり、 2分間の再生に 4~8時間を要した。後者は周波 数帯域が広いため実時間再生が可能であるが、 回転速度を速くすると触針部と蠟管との間に 摩擦音が生じそれが強大な雑音になる。触圧を 大きくすると摩擦音は小さくなるが、こんどは 蠟管表面を傷つけるおそれがある。いずれにし ても触針法の場合は、触針と蠟管の接触部をど うするかが最も重要な問題となる。 まず表面粗さ計測用センサーを用いた場合 の再生音について述べてみよう。エジソン式蠟 管録音機で利用されていたスタイラスは、その 先端部の直径が約 200μm の球状あるいはだ円 形のものであり、音溝の形状はこの針形がその まま反映したものである。したがって、原音を できるだけ忠実に再生するためには、この形状 を考慮する必要がある。一方、音溝の深さを正 確に計測するには、針径をできるだけ小さくし て溝の谷部の一番深いところに針を設置しな ければならない。しかし、あまり針径を小さく すると蠟管表面の細かな傷や析出物を検出し てしまい、溝の谷部を正確になぞるための制御 機構が必要になってしまう。逆に、針径を大き くすると表面の細かな凹凸に応答しずらくな るのでそれだけ雑音は少なくなることになる が、周波数特性が低下する恐れがある。ここで は、いろいろな針径をもつ触針により再生を試 み、針径の差異が再生音の音色にどのように反 映するかを調べた。 図 12(a)、(b)、(c)に示したように、針の先 端の形状をエジソン式と同様に半球形とし、針 径が(a)10μm、(b)250μm、(c)800μm の 3 種類に ついて再生し、その信号波形とスペクトルを比 較した。なお、針圧はいずれも 0.07g、回転速 度は 1.25rpm とした。 ポーランドのアイヌ研究者 ピウスツキの仕事(2013) ─ 39 ─ 図 12 触針法で用いた種々のスタイラス(針): (a)10µm, (b)250µm, (c)800µm, (d)300µm (加速度センサーにボールペンを接着したもの) その結果、図 13 に示すように、針径によっ て波形が大きく変化し、聴取実験からも音色の 差が大きいことがわかった。ただし、図 13 は /rekuxkara/と聴取される再生音声について示し たものであり、図中の(d)はエジソン式再生機 で再生したものである。明瞭性は(b)、(a)、(d)、 (c)の順に高く、それぞれ雑音の音色も著しく 異なった。また、スペクトルを比較すると、(a) では高域に雑音成分が集中しており、逆に(c) では低域に多い。エジソン式の場合、ちょうど バンドパスフィルターを通過したような特性 を示しているが、これはダイヤフラムやホーン の特性が反映したためである。いずれにしても、 エジソン式のピックアップに最も近い 250µm の径のものが優れており、しかもエジソン式よ りも広帯域の信号を捕らえていることなどが わかる。 つぎに、実時間計測を目的に音響振動センサ ーを利用する方法で得られる再生音を調べて みよう。 センサーとしては加速度型振動ピックアッ プ(B&K 社、8307、1Hz~25kHz)を用い、その 出力を積分器(B&K社、ZR0020、10Hz~10kHz) を通して速度になおしてから、インパルス精密 騒音計(B&K社、2209)により増幅した。前述の ように、高速にすると触針と蠟管表面の間で摩 擦音が生じてしまうので、ここでは図 12(d)に 示すように、触針部にボールペンの先を接着す る方法を考案した。このボールは直径約 300µm であり、蠟管表面との適合性もよく、しかもボ ールが回転するために摩擦音が生じにくいと いう利点がある。 図 14 再生音の時間スペクトルパターン:(a)加速度 センサーによる、(b)レーザービーム反射法に よる再生 図 13 針径による再生音スペクトルの相違 (a)10µm, (b)250µm, (c)800µm, (d)エジソンスタンダード Aによる再生音 古蠟管レコード資料からの音声再生 朝倉利光 ─ ─ 図 は、本方式により実時間再生した例 であるが、作動トランスによる結果と比べてほ とんど変わらないか、あるいはそれ以上の音質 が得られることがわかった。ただし、実時間処 理なので大きな傷があったり破損している蠟 管には使用できない。 非接触法による音声再生 文献 ひびやや破損のない蠟管に対しては前述の 触針法による音声再生が可能であるが、そうで ない場合には触針法による再生ができない。し かし、ひびや破損している蠟管や図 に示した ような修復した蠟管にも貴重な音声が収録さ れており、それらからの音声再生が期待される。 そこで、これらの蠟管から音声を検出する強力な 手段として、光を用いる非接触検出法を開発した。 図 レーザービーム反射法の原理 まず最初に検討した方法は、表面粗さ計測用 の光切断法の応用である。これは光切断用の特 殊顕微鏡 ニコン製 Surface Finish Microscope 精 度 2μm を用いて、10μmの幅をもつ白色スリッ ト光を蠟管の面に対して °の斜め方向から 照射し、スリット光に対して °の方向からそ の反射光をとらえる方法である。音溝の山谷に 対応して蠟管面に投影されたスリット光にも 山谷が生じるが、この山と谷の差が音溝の深さ に比例した値になる。この画像を顕微鏡に取り 付けた固体カメラでとらえ、インタフェースを 介してコンピューターに取り込んだ。しかし、 実際に得られた画像は、蠟管表面の凹凸により 乱反射が生じてしまい、得られたスリット反射 光もとぎれとぎれになり、山谷を示す明僚な線 像にはならなかった。したがって、とぎれとぎ れになった線を接続するような画像処理を行 った後に、山谷の差を算出する処理を行った。 しかし、実際には画像処理に莫大な時間を要し たので光切断法の応用は断念し、光切断法のス リット光に代わってレーザービームを蠟管に 照射し、その反射光を位置検出センサーで実時 間計測する方法を考察した。図 に、レーザ ービーム反射法による蠟管からの光学式音声 再生の原理を示す。 図 レーザービーム照射系 図 は、図 に対応するレーザービーム照 射系の実際の装置である。HeNe レーザー光源 からの光ビームを顕微鏡用対物レンズを通し たのち、回転しながら光軸に垂直な方向に並進 移動する蠟管に照射する。レーザービーム照射 点におけるスポット直径は、対物レンズを光軸 に沿って移動させ照射ビームのウエスト位置 と蠟管表面に刻まれた音溝の幅 254μm に対し て適当に調節する。 表 距離 z の変化に対する照射ビーム直径の変化 表 に、距離 z を変化させたときの蠟管表面 におけるスポット直径の変化を示す。触針法で は構造上から針の直径を自由に変えることが 困難であるが、レーザービーム反射法では照射 ビームのスポット直径を再生したい蠟管に合 わせて適切に調節することができる。 図 は、図 における蠟管の駆動装置の部分の 平面写真であり、その動作は前述のとおりである。 図 のレーザービーム照射点において、照 射ビームは蠟管の音溝面の傾きに応じた反射 角で反射される。このとき蠟管は回転している ポーランドのアイヌ研究者 ピウスツキの仕事(2013) ─ 41 ─ ので、反射光ビームの方向が時間的に変化する。 この反射光ビームの方向をレーザービーム照 射点から R=30mm の距離に光軸と垂直に配置 された一次元位置検出器(浜松ホトニクス製 PSD S-1352 34x2.5mm)の検出面の位置として検 出する。蠟管の音声は、音圧強度の時間変化に 対応する溝の深さとして音溝に記録されてい るので、一次元位置検出器で検出された位置信 号は音溝面の傾きの時間的変化であるため音 声信号となる。 図 17 蠟管の駆動装置の平面図 図 18 は、一次元位置検出器を用いた光スポ ットの入射位置検出回路の概略図である。反射 光スポットが一次元位置検出器の電極 1から距 離 Xの点に入射するとき、電極 1と電極 2から 取り出される電流 Ix1と IX2は IX1=Ix/L IX2=I(L-x)/L で表される。ここで Lは一次元位置検出器の抵 抗層の長さを表し、I は入射光エネルギーで生 成される全光電流を表す。電流 Ix1と IX2の差と 和の比を求めると Iv= 𝐼𝑋1−𝐼𝑋2 𝐼𝑋1+𝐼𝑋2 = 2 𝐿 𝑥 − 1 となり、入射光エネルギーに関係なく、反射光ス ポットの入射位置 xに比例した電流が得られる。 図 18 一次元位置検出器を用いた光スポットの入射 位置検出回路 つぎに、上記の光学式音声再生法によって得 られた音声情報について検討してみよう。 図 19 光学式再生法と触針式再生法による再生音声 の長時間周波数スペクトル (a)再生音声 図 19 には、光学式再生法と触針式再生法に よる再生音声の長時間周波数スペクトルの比 較を示す。この場合の光学式再生法では、レー ザービームのウエスト位置から蠟管表面の照 射点までの距離を z=3mm に設定した。このと き、照射ビーム直径は 85μm となる。一方、触 針式再生法では、直径 300μm のインクを抜いた ボールペンの先を針として使用した(図 12(d) を参照)。触針式再生法による蠟管からの再生 音声を基準にして考えると、蠟管の音溝には 300~4000Hz の周波数帯域にわたる音声情報が 記録されている。 これと比較して、光学式再生法では 300~ 1500Hz までの音声情報は再生されているもの の、1500Hz 以上の音声情報は高周波数帯域まで のびている雑音にマスクされて判別できない。 この高周波数雑音は聴取の際に大きな障害に なるばかりか、再生音声の子音や摩擦音がこの 雑音にマスクされて不明瞭になる。また、触針 式再生法に比べて、光学式再生法では 300Hz 以 下の低周波数雑音が増加している。この雑音は、 再生音声の明瞭度を著しく低下させている。 光学式再生法による再生音声を聴取しなが ら、対物レンズを光軸に沿って移動させ蠟管上 の照射ビーム直径を変えていくと、再生音声の 明瞭度、音色、雑音特性が変化する。 図 20 に、照射ビームのウエスト位置から入 射点までの距離 z を変えたときに得られる光学 式再生法による音声信号の長時間周波数スペ クトルを示す。表 1から、距離 z が大きくなる と蠟管上の照射ビーム直径も大きくなる。図 20 から、0≦z≦5mm の範囲では 300~1500Hz、6 古蠟管レコード資料からの音声再生 朝倉利光 ─ ─ ≦z≦10mm の範囲では 300~1000Hz、そして z ≧11mm の範囲では 300Hz 付近のみの音声情報 が再生されていることがわかる。 図 光学式再生法による再生音声の長時間周波数 スペクトル 距離 z が大きくなったときの音声情報の高周 波数成分の欠落は、照射ビーム内における反射 光の方向に対する平滑化によるものである。音 声情報の高周波数成分が欠落すると、子音や摩 擦音が再生されなくなるばかりか、再生音声の 明瞭度や音色が劣化する。したがって、再生音 声の質のみに注目して聴取実験を行うと、 ≦z ≦5mmの範囲 照射ビーム直径になおすと 30~ 140μm で再生したときの音声が最も自然であ ると考えられる。 雑音特性 図 と図 に示されるように、レーザービ ーム反射法で再生される音声信号には、距離 z が増加すると急激に低周波数帯域に向って減 少する高周波数雑音と、距離 z の変化に無関係 に一定強度で存在する低周波数雑音が含まれ ている。これらの雑音は、触針式再生法による 音声信号には存在せず、レーザービーム反射法 を用いた光学式再生法による音声信号に特有 のものである。この雑音の原因を調べるために、 z=0,2,4mm のときの検出面における反射光スポ ットの写真を図 に示す。 この図から、検出面には反射光スポットとと もに空間的に不規則に分布する粒状性の明暗 のパターンが生じていることがわかる。このパ ターンは、レーザー光のようなコヒーレント光 を用いたときに生じる特有な現象で、スペック ルパターンと呼ばれる 文献 。 図 のスペックルパターンは、蠟管表面の 照射ビーム内に分布する波長程度のランダム な凹凸から散乱されたレーザー光が検出面で 干渉して生じたものである。そこで、直接に蠟 管表面を顕微鏡で観測してみた。 図 検出面における反射光スポット z 、 z 、 z 図 蠟管表面の顕微鏡写真 その結果が図 の写真で、蠟管表面は音溝 のほかに非常に複雑な微細構造からなってい ることがわかる。 これは長い年月の間に蠟が再結晶して生じ たもので、蠟管全体を覆っている。この再結晶 ポーランドのアイヌ研究者 ピウスツキの仕事 ─ ─ 析出物質による微細構造からスペックルパタ ーンが生じ、これが音声再生時に図 と図 に示された雑音として検出されている。 白色ペイントを塗布した円筒物体から、図 のごときスペックルパターンが生じることが わかっているので、レーザービーム反射法にお いて検出面に生じるスペックルパターンによ る雑音特性を、蠟管とは独立に調べることがで きる 文献 。そこで、蠟管と同じ形状のアルミ ニウム円筒の表面に白色ペイントを塗布し、レ ーザービーム反射法で音声再生の実行を行っ てみた。 図 は、レーザービーム反射法でスペック ルパターンが生じた信号の長時間周波数スペ クトルを距離 z を変えながら測定した結果であ る。この図からわかるように、一次元位置検出 器で検出されたスペックル信号は、距離 z が増 加すると低周波数帯域に向かって強度が減少 する。これは z が増加すると、検出面のスペッ クルパターンの明暗粒子の平均的大きさが小 さくなり、一次元位置検出器の受光面内に含ま れる明暗粒子の数が多くなり、結果として空間 的に平均化されるためである 文献 。 図 レーザースペックルの長時間周波数スペクトル 図 音声情報が記録されていない蠟管の再生音声 の長時間周波数スペクトル 図 と比較するため、図 に音声情報が記 録されていない蠟管からの再生音声信号の長 時間周波数スペクトルを示す。図 と図 か ら、白色ペイントを塗布したアルミニウム円筒 と蠟管をレーザービーム反射法で音声再生し たときに生じる雑音の特性が同質のものであ ることがわかる。したがって、蠟管再生時に生 じる雑音は蠟管表面の微細な凹凸構造から生 じるスペックルパターンが原因であることが わかった。ここで距離 z を大きくしたとき再生 音声の高周波数成分が欠落するのは、蠟管面の 照射ビーム内における音溝面から反射される 光ビームの方向の変化が平滑化されるためで ある。一方、雑音信号の高周波数成分の減少は 検出面に配置した一次元位置検出器の受光面 内におけるスペックルパターンの明暗粒子が 平均されるためである。したがって、両者は全 く別の現象である。 図 の触針式再生法による結果から、この スペックルパターンから生じる雑音のうち、 300Hz 以下の低周波数雑音には音声情報が記録 されていないことは明らかなので、この帯域を ハイパスフィルターで除去しても再生音声に は影響を与えない。一方、高周波数雑音は音声 情報と重複しているため、ローパスフィルター で除去することはできない。したがって、距離 z を変えて雑音が少なく、かつ再生音声が自然 に聞こえるように照射ビーム直径を調節しな ければならない。聴取実験の結果、z≧3mm 照 射ビーム直径になおすと 85μm 以上 が適当で あることがわかった。 図 再生音声にエコーが重畳するときの照射状況 エコー 光学式再生法による再生音声を聴取しなが ら、対物レンズを光軸に沿って移動させ蠟管上 の照射ビーム直径を変えていくと、再生音声と ともにエコーが重畳して聴える。これは、図 に示すように照射ビーム直径が大きくなると、 再生しようとしている音溝とともにそれに隣 古蠟管レコード資料からの音声再生 朝倉利光 ─ ─ 接する音溝も照射してしまうためである。この とき、蠟管の 回転分の前後の音溝に記録され ている再生音声がエコーとして聞こえる。 図 に、距離 z を変えたときに得られる光学 式再生法による音声信号の自己相関関数を示 す。図の遅れ時間τ のピークは、レーザービ ーム照射点で再生された音声から生じたもの である。 図 エコーが再生音声に存在するときの自己相関 関数 さらに、遅れ時間τ ± 秒で生じる 番目 のピークはエコー音声信号からのものである。 エコー音声の強度は、照射ビーム直径が小さく なるほど減少するため 距離 z が小さい場合 、 直径を小さくするとこのエコーは除去できる。 図 の結果から、z≦4mm であればエコー音声 信号の強度は主たる再生音声信号の強度の %以下となり、聴取実験を行っても問題にな らないことがわかった。 以上の蠟管の光学式再生法による音声再生 で、再生音声の明瞭度とエコーを考慮した場合、 照射ビーム直径は小さいほど良好な結果が得 られ、雑音を考慮すると大きい方が好ましいと いう相反する結果が得られた。聴取実験の結果 からは、照射ビームのウエスト位置から蠟管面 上のレーザービーム照射点までの距離が ≦z ≦4mm、スポット直径になおすと 85~110μmが 最適であることがわかった。 トラッキングエラー 蠟管の音溝の幅 254μm より細いビーム直径 85~110μmで照射すると、光学式再生では触針 法のように直接に針で音溝をなぞっていない ために、蠟管の音溝のうねりや駆動装置の位置 誤差のためにトラッキングエラーが生じる。こ のトラッキングエラーが再生中に起きると、再 生音声の音量が極端に減少し、蠟管全体にわた る安定な再生ができない。 図 に示すように、トラッキングエラーが 起きると蠟管からの反射光スポットが検出面 上で横ずれが生じる。この横ずれをトラッキン グエラー信号として検出し、レンズを移動させ ることで照射ビームを音声再生したい音溝ま で移動させトラッキングを補正する音声再生 装置を開発した。 図 トラッキングエラーが起きているときの照射 状況 このトラッキングエラー補正機構付光学式 音声再生装置を図 に示す。レーザービーム は、対物レンズと駆動装置付レンズを通った後、 コーナーキューブプリズムを介して蠟管表面 に照射される。 図 トラッキングエラー補正機構付光学式音声再 生装置 図 レンズの駆動装置 ポーランドのアイヌ研究者 ピウスツキの仕事 ─ ─ 音溝からの反射ビームは再度コーナーキュ ーブプリズムを通して上方に反射され二次元 位置検出器 浜松ホトニクス × に入射される。この音声装置において、レンズ 駆動装置は図 に示すコンパクトディスクプ レーヤのレンズ駆動装置を用いた。 図 の補正機構付光学式音声再生装置の信 号処理回路の概略図を図 に示す。 図 トラッキング補正回路 二次元位置検出器上で反射光スポットの縦 方向の時間的位置変化は音声信号 として検 出され、横方向の時間的位置変化はトラッキン グエラー信号 として検出される。音声再生の 最初の段階で、初期設定電流 をレンズ駆動装 置に印加し照射スポットを音溝の中央に合わ せる。トラッキングエラーが起きないときには、 初期設定電流 とトラッキングエラー信号 とは等しいため となりレンズは駆動さ れない。トラッキングエラーが起きると、差電 流 ≠ で照射ビームを作っているレンズの 駆動装置を となるまで駆動し、照射ビ ームを振って照射スポットを音溝の中央まで 移動させ、トラッキングエラーを補正する。こ のようなトラッキングエラー補正機構付光学 式音声再生装置を用いることで、蠟管からの音 声再生がより安定にかつ確実に行えるように なった。 むすび ポーランドから送られてきたピウスツキ録 音蠟管レコード資料がきっかけとなり、古蠟管 レコードからの音声再生に関する工学的研究 が行われてきた。その成果を、録音した人物像 や録音蠟管の意義と合わせて、蠟管レコードの 物理化学特性、保存状態と修復、レプリカ作製 について述べるとともに、録音蠟管からの音声 信号検出法について重点を置いて解説した。音 声再生法としては、加速度センサーを利用した 触針法と非接触型のレーザービームを利用し た光学的音声再生法が実用性が高いと考えら れる。両者を比較すると、光学的再生法は傷が あったり破損している蠟管でも音声再生がで きる利点があるが、トラッキング制御の問題や 触針法に比べて音質がやや低下するという欠 点がある。 本報告で述べなかった問題に、再生音声にお ける雑音軽減処理がある 文献 。一般に多くの 蠟管は、保存状態の悪さと録音技術の未熟さか ら蠟管表面の状態が悪く、かつ録音された音溝 が極めて浅い。したがって、ここで紹介した音 声再生法だけでは、音声の明瞭性が悪く、再生 音声に対して雑音軽減処理が不可欠となる。雑 音としては、傷に相当するスパイク状のものと 白色変質物に相当するランダム状のものに大 きく分かれる。これらの雑音の除去として、ス パイク状のものは時間波形上で、ランダム状の ものは周波数領域上で処理する方式が有効と 考えられる。いずれにせよ、雑音の性質と合わ せて音声信号の性質をも考慮して、最適な雑音 軽減法の研究が必要である。歴史的には蠟管レ コードは短期間で消えてしまったが、短期間で も数百万本以上生産されていることから、多数 が現在まで残っていると推定されている。その 多くは音楽が録音されたものと考えられてい るが、ピウスツキ、北里、加計のように個人的 に録音した蠟管のなかに、言語学や民族学の貴 重な資料や当時の著名な人々の肉声が残され ている可能性があり大変興味深い。特に、ピウ スツキ蠟管と同様に、滅びつつある少数民族の 音声言語や民族音楽などが録音された蠟管は、 ヨーロッパ、旧ソ連、アメリカなど各地に散在 しており、再生と解読が待たれている。したが って、音声再生技術の確立は、貴重な文化遺産 である未再生の蠟管からの情報入手の可能性 を開くことになり、人類の財産である音声によ る精神文化をよみがえらせることになる。これ らの仕事は、現代の科学技術を研究する者に課 せられた責務であり、それはまた歴史が私達に 古蠟管レコード資料からの音声再生 朝倉利光 ─ ─ 残したロマンへの挑戦でもある。 本報告を世界的観点に立脚して眺めてみる と、触針法による蠟管からの音声再生と再生音 声の改良に関する研究は世界の中の数ヵ所の 博物館などで行われているものの、録音蠟管か らの音声再生を組織的に、かつ非接触法による 音声再生の研究を行っているところは見当た らない 文献 、 。それだけに、この分野におけ る一層の研究が期待される。 本報告の中の音声再生に関する研究は伊福 部達教授 北大電子科学研究所 、岩井俊昭助教 授 現在、静岡大学工学部 、川嶋稔夫講師 北 大工学部 に負うところが大であり、これらの 諸氏に厚く御礼を申し上げる次第である。さら に、本報告の大部分は国立民族学博物館を中心 と する国際 研究組 織 ICRAP (International Committee for Restoration and Assessment of Piłsudski’s Life and Work) 文献 の中の重要研究推 進課題として取り上げられてきたもので、その 組織の諸氏からの激励に対して深く感謝の意 を表す次第である。 参考文献 朝倉利光 伊福部達編 ピウスツキ録音蠟管研究の歩み 北海道大学応用電気研究所 加藤九詐 小谷凱宣編 国立民族学博物館研究報告別冊 号“ピウスツキ資料と北方諸民 族文化の研究” 国立民族学博物館 先川信一郎 ロウ管の歌――ある樺太流刑者の足跡 北海道新聞社 4) H.Jüttemann: Phonographen und Grammophone (Klinkhardt & Biermann, Braunschweig, 1979) R.ジェラット 石坂範一郎 訳 レコードの歴史――エジソンからビートルズまで 音楽 之友社 6) G.L.Frow and A.F.Sefl: The Edison Cylinder Phonographs 1877−1929 (Kent England, Great Britain, 1978) 7) T.Ifukube, T.Kawashima and T.Asakura: J. Acoust. Soc. Am. 85, 1759 (1989) 8) T.Iwai, T.Asakura, T.Ifukube and T.Kawashima: Appl. Opt. 25, 597 (1986) 9) T.Asakura and N.Takai: Appl. Phys. 25, 179 (1981) 10) N.Takai, T.Iwai and T.Asakura: Appl. Phys. B26, 185 (1981) 11) T.Iwai, N.Takai and T.Asakura: Optica Acta 28, 1425 (1981) 伊福部達 電子情報通信学会誌 13) Proc. Int. Symp. B.Piłsudski’s Phonographic Records and the Ainu Culture (Hokkaido University, 1985) 14) A Joint Technical Symposium: Archiving the Audio-Visual Heritage (Stiftung Deutsche Kinemathek, Berlin, 1987) 年 月 日 受理 * 朝倉利光「古蠟管レコード資料からの音声再生」『応用物理』 − : − を、著 者の許可を得て転載した。その際、誤記・誤植を正すとともに、段落をさらに細かく区切 った場合がある。 * Author & title: T.Asakura, “Reproduction of the Sounds from Old Wax Phonograph Cylinders.”