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Date:  Fri, 01 Jun 2007 17:39:26 +0900
From:  yama-ir-ml @ yamanashi.ac.jp
Subject:  [drf 0824] 現行法制度の中で著作者にしかるべき権利を戻すこと

DRFの皆様へ

山梨の藤田です。いつもお世話になります。

「現行法制度の中で著作者にしかるべき権利を戻す」ためには,
どのような方法が有効なのでしょうか?といったことを考えてみました。

現代における法は,フランス革命以後の市民社会の秩序を律するもので,
資本主義的市場経済を前提にしています。一方その市場経済は,所有権や契約
といった基本概念が,広い意味での法によって実効性を持つことを前提にしています。
著作権法は民法・物権法の特別法であり,無体物である「表現形式」に物権的効果を
付与しています(一般法・特別法の関係にしては,客体はかなり異質ですが)。

詳解著作権法p.196において作花氏は,「原始的に著作権がどこに所属するのかと
いうことは公の法秩序の問題であ」り,「契約その他に別段の定めがあるときはと
いうことになると,何か契約で公秩序的なものをもぐることができる。」
ことになるのではないか。つまり,でこぼこになっていく。それで,
「物権的排他的権利の所在の基盤になっている法の公秩序を乱すものではないか。」
と心配する意見を披露していました。

とはいえ,特許権が今でもごく一部のプロだけが関心を持つものであるのに対して,
著作権はすべての人々に身近なものとなって来ているため,権利者・利用者として,
自らの判断・責任で契約や意思表示ができるようになることは,必要なことでしょう。
当面,機関リポジトリ登録に関しての「義務・強制」も別途考えてもいいようなもの
ですが,自発的に研究者がこの問題に取り組んでくれることがあってもよさそうです。
(『情報の科学と技術』のように,著作権を執筆者に帰属させる投稿規程を考えて
くれる流れになったり,『情報管理』にようにオープンアクセスになるかも)

「現行法制度の中で著作者にしかるべき権利を戻す」ためには,契約が有効です。
著作権63.1では,著作権者は,他人に対し,その著作物の利用を許諾することができる。
著作物利用契約(最近では,あまり権利処理ということばを使いません)は,
諾成契約であり,口頭又は,文書,いずれでも成立します。契約内容をより明確に
するため文書で契約することは望ましいことに違いありません。

「SPARC 著者添付文書」を使用した. ジャーナル論文の著者としての権利の確保.
 AUTHOR RIGHTS
http://wwwsoc.nii.ac.jp/anul/j/projects/isc/sparc/author_rights/SPARC_AuthorRights_ja.pdf
については,期待は大きいと思います。こういうものが,威力を発揮しそうです。
この文書については,「日本の機関リポジトリの今2006」の直前で気がついていたので,
懇親会でも話題にしてみました。このページ作成に携わった方とも話したかもしれません。
たいへんなご苦労だと思います。
SPARC及びJISC & SURFの推奨する「著者の権利」を留保するための契約書等について
 国際学術コミュニケーション委員会(2006年12月27日)
http://wwwsoc.nii.ac.jp/anul/j/projects/isc/sparc/author_rights/licence_how_to.html
このページは「機関リポジトリの今」当時見当たらなかったのですが,
さらに丁寧に解説がされてわかり易くなっていました。
このような業績にケチをつけるつもりは全くないのです。
むしろ,これが本当に研究者に浸透する必然性も感じます。
そのために,機能として定着するために,あえて補足して注意すべき点を考えてみます。
気分を害される方もいるかもしれませんが,よろしくご理解ください。

この問題では,実際,著作権制度一般には,「契約」をうまく持ち出せないケースもある
のではないかとも考え始めました。投稿者はそもそも掲載しか眼中にない!かも。
たとえば,映画会社を優遇するための特権として,俳優の了解を得て撮影・録画後,
その映画を利用(たとえばDVD化)するとき,俳優の著作隣接権はここで消滅する。
これを回避するため,後々の利用まで「契約」しておくことは理論的には可能である。
しかしながら監督に対して弱い立場にある一俳優は,
次回不採用になるリスクがあるので「契約書」を監督につきつけられないと言う。
(このような契約書を持っていったら,万一入選が取消されたら,・・・)

そもそも,米国型の契約書が,日本において著作権の分野で普及するのだろうか?
(訴訟大国の米国は,弁護士の数も多いと耳にします)

著作権制度は国際的に調和していなければならないとは思います。
著作権に名を借りた非関税障壁を実現する手段に利用し,
各国が自国に有利な貿易環境実現するために著作権制度を調整するのは困ります。

そこでまず米国のあり方を考えます。
米国のように保護の対象が著作物にある場合,人格権を持ち出すことはありません。
著作物としての「原稿」を所有しているとしても,複製物の保有にいたっては
別のものと考えます。「原稿」そのものは著者のものかもしれませんが,
発表され複製される中で,オーサーシップは消滅するとみな認識しています。
米国は著作権の中に人格権があるなどとは考えないわけです。
当然,人格権と財産権とを不可分とすべきなどという主張もない。
そこでは,財産権の取引に対する制約は可能な限り除くべきという意図が
隠されているようです(隣接権もないに等しく,生演奏などの無形サービス自体が
著作権の対象にならないことも思い出すべきです)。

この米国は1989年にベルヌ条約に遅ればせ加盟しました。
(この時点まで,米国では○の中にCマーク!を著作権局に登録していたひとたち
ですから,契約書なんてのも,さほど苦にならないのかもしれません)
それまでの公益第一政策を転換し,知的財産権の強化に向かうことになります。
そこでは,人格権は既存の制度内の保護に留め,隣接権も蔑ろにしています。
1994年GATTにおいて,米国は主導権を発揮し,TRIPSで「人格権」を葬り去ります。
世界標準基準は,どんどん米国主導となって来ているようです。
Author's rightから,copyrightに向かい,自然権的アプローチがなく,
人格権保護の姿勢が薄い米国著作権法が標準になっていくのでしょう

岡本薫氏によれば,日本人は明確な契約書を交わす習慣に乏しく,
米国においては当事者同士の契約で仕切る傾向が強い。
日本では内閣(官僚)による立案であるが,
米国では利害関係者が直接政治家と結び,議員立法に向かう。
日本では法解釈に政府がガイドラインを示すことが期待されるが,
米国では法律の方は大まかにしておき,「何が公正なのか」※の判断を裁判所に任せる。
(米国では,政府の人間が法解釈に勝手に容喙してはならないようです。
ということは,文化庁の講習会のようなものが成立するのかしないのか?)。
などの事情を承知の上で,岡本薫・だれでも分かる著作権p.83では,
日本でも法律を簡素化して契約に任せるという政府部内の検討を紹介していますので,
一般的に「契約書」の重要性は増すとは思います。

以上のようなことを念頭において,今後このような契約書の普及のゆくえを
見守りたいところです。
(「クリエイティヴ・コモンズのCCL」も裁判になれば,
当然著作物の利用を許諾する者=ライセンサーと許諾を受ける者=ライセンシー
との間では契約が成立していたと理解されるようで,契約の一種のようです。
http://www.alles.or.jp/~spiegel/docs/cc-about.html)

※フェア・ユース
他者の著作物を許可なしに使用する場合であっても,使用の目的,著作物の性質,
使用する量や程度,潜在的な市場・価値への影響といった要素を勘案して,
公正な使用であると判断される場合には著作権侵害とはならない。
(著作物を利用する第3者の表現の自由に配慮したもの)

このように米国のことばかり説明しましたが,ひとつだけドイツの近代著作権の萌芽期
では,ある時期,「原稿所有権」から「著作物についての精神的所有権」への置き換えが
あり,ドイツ内で定着したことを思い出します。そういった流れを受けますと,
「出版者に対して著作権の全部譲渡が契約された場合であっても,当事者が
とくに明示の意志表示をしないかぎり,移転の対象は出版行為の目的から決せら
れなければならない」(半田)わけで,このことを考えれば出版者版PDFの解放!も
引き出せない論理ではないような気もします。

参照文献 
白鳥綱重,アメリカ著作権法入門,信山社,2004
加戸守行,著作権法逐条講義,著作権情報センター,2006
名和小太郎,情報の私有・共有・公有,NTT出版,2006
半田正夫,著作権法概説,法学書院,2005

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山梨大学教学支援部図書課資料情報グループ
係長:藤田 洋(PHS 7181)