研究論集 = Research Journal of the Graduate School of Humanities and Human Sciences;第22号

FONT SIZE:  S M L

『騎士団長殺し』論 : 「無」の肖像を描く「私」

肖, 禾子

Permalink : http://hdl.handle.net/2115/87878
JaLCDOI : 10.14943/rjgshhs.22.r73

Abstract

『騎士団長殺し』は、二〇一七年に新潮社より刊行された。『1Q84』BOOK3以来七年ぶりの本格長編である。この小説の先行研究には、主人公「私」の言動を作品解釈の着眼点とし、作品の結末から、私と妻のユズの関係、および混乱した人生の回復を読み取り、それに基づいて作品の主題を分析するものが多い。他方、結末をハッピーエンディングと見なし、主人公に正当性が付与されていることから、作品の有効性や、作家村上の創作力の後退について批判を行った論者もいる。また、別の論者は、作家村上の実人生、つまり父との葛藤などを参考して、主人公「私」の行為の意義を問題としている。しかし、作品の結末が円満なものかどうかは再検討の余地がある。また、結末がハッピーエンディングとなっていることは、作品の批判性や作家の創作力の有無に直結しない。主人公「私」の行為と態度から作品の優劣を評価する論じ方、および作家の実人生と発言から、作品の主題を、〈父殺し〉やシステムへの対抗に収斂する論は再検討する必要がある。そのようなアプローチは、「私」が挫折を迎える物語の結末、「私」の肖像画の創作にまつわる表象の問題、および「私」の自己同一性の内実を十分に論じることができない。本論文では、先行研究を参照しながら、「私」による日本画「騎士団長殺し」の受容、「私」が「秋川まりえの肖像」と「白いスバル・フォレスターの男」を描いたときに起こった出来事、および「私」の絵が未完成であった原因について考察する。その上で、「私」の創造過程において見られる、肖像画を描くことの困難さと矛盾、「顔」の表現不可能性、および「私」の自己表象の問題について検討する。最終的には、以上の検討から物語内容のはらむ批判性を抽出し、作品の主題を「私」の自己表現の願望と挫折の観点から論じる。

FULL TEXT:PDF