研究論集 = Research Journal of the Graduate School of Humanities and Human Sciences;第10号

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侯孝賢『悲情城市』のなかの言語 : 文字と音声について

井上, 裕子

Permalink : http://hdl.handle.net/2115/44608

Abstract

1945年から1949年の台湾を舞台にした映画『悲情城市』では,史実を伝える文字画面や筆談の文字,また複数の言語によるセリフ,手紙や日記体のナレーション,ラジオ放送の音声など,豊かな手法で物語が語られている。そしてこのすべて言語にかかわる手法は視覚による文字と聴覚による音声に分けることができ,映画のなかの文字と音声の言語はそれぞれ対称的に配置され,その機能と効果を果たし,物語内容を語っている。さらにこれらの言語は,物語とともに,台湾という空間における一時の歴史的時間をも語っていることが分かる。そして,この映画のその視覚的な文字と聴覚的な音声に着目し,それらを分析・考察して浮かび上がってくるのは,情報伝達における音声言語の未全であり,一方での文字言語の十全である。映画をみるに当たって,私たちは音声で映像を補うよりは字幕を頼りにする。音声情報に十分な注意を払わずに,視覚情報に重きを置く。これはやはり,映画における音声の映像への従属を示すのだろうか。しかし,『悲情城市』では聞こえる音声が情報伝達の未全を示す一方,聞こえない音声である「沈黙」がそれを補うように伝達の十全を表わしている。音声には多くの情報が隠されており,文字は映像に組み込まれることで,映像の力に勝るとも劣らない機能を発揮する。つまりそれは,音声と映像の豊かな統合であり,そこに映画の構造における映像と音声というものを考察する一つの機会ととらえることができる。この作品では,視覚の文字,聴覚の音声が映画の構造のなかでそれぞれ対等の機能と効果を果たし,映画のなかの物語と映画の背景と,そして媒体としての映画そのものを作り上げているのである。

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