藤田東湖の『孟子』観 : 徂徠学派との比較から
武石, 智典
Permalink : http://hdl.handle.net/2115/60572
JaLCDOI : 10.14943/rjgsl.15.r81
Abstract
後期水戸学は、藤田幽谷(一七七四〜一八二六)にはじまり、高弟である会沢正志斎(一七八二〜一八六三)、子息である
藤田東湖(一八〇六〜一八五五)らによって水戸藩の藩内にのみ影響力を持つ学問から、幕末に「尊王攘夷」運動の理論的
支柱となり、全国的に影響力を持つ学問へと変容していった。後期水戸学は、周知のとおり、諸学を糾合した折衷学的な学
問であり、ただ同時に諸学の影響をどの程度、認めるかという点については、議論のあるところである。なかでも、問題と
なるのが、後期水戸学に多大な影響を与えたとされる徂徠学の影響をどの程度、認めるかという問題である。水戸藩の史館
である彰考館において徂徠学が講じられたのは、藤田幽谷の師、立原翠軒からである。徂徠学を、後期水戸学を代表する学
者である藤田幽谷、会沢正志斎、藤田東湖がどのように受容、もしくは拒絶したのか考察
することは、後期水戸学の特色を
明らかにする上で、重要である。後期水戸学を代表する学者の一人である藤田東湖には、『孟子』について論じた「孟
論」
がある。また、荻生徂徠には、『孟子識』があり、荻生徂徠の経学の高弟である太宰春台にも「孟子論」がある。
本稿は、以上に挙げた藤田東湖の「「孟
論」、荻生徂徠の『孟子識』、太宰春台の「孟子論」をテキストとして、三者の『孟
子』観解釈の比較を通して、藤田東湖の思想形成に徂徠学派がどのように影響を与えたのか、考察を加えることを試みたも
のである。
結論として、藤田東湖と徂徠学派における『孟子』観では、『孟子』を批判する点は共通するものの、批判点が、三者三様
に異なっていた。なかでも、藤田東湖の『孟子』批判は、「君臣」の名分論に基づく批判であり、徂徠学派における「道統論」
における「孟子」を巡る位置付けとは明確に異なっていた。以上のことから、『孟子』観に限っていえば、藤田東
湖は、徂徠
学派の影響を受けていないと結論づけることができると考える。
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