研究論集 = Research Journal of the Graduate School of Humanities and Human Sciences;第19号

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侯孝賢『珈琲時光』論 : オマージュの視座から

龔, 金浪

Permalink : http://hdl.handle.net/2115/79818
JaLCDOI : 10.14943/rjgshhs.19.l189

Abstract

『珈琲時光』は侯孝賢が2003 年に松竹株式会社からの招待を受け,映画監督小津安二郎の生誕100 年の記念作品として作られた日本映画である。記念作品という明確な目的があらかじめ規定されることによって,本作は強いオマージュ作品としての性格を持つものになった。本稿はオマージュという要素に注目し,本作におけるオマージュのあり方を究明することを目的とする。まず,先行研究において,本作と小津映画の類似点が安易に侯孝賢による小津へのオマージュとみなされていることや,両者の違いのほうが多いという事実が見過ごされてきたことなどの問題点を指摘しながら,侯孝賢が述べる「異なる方法」でオマージュするということに注目する。 次に,その「異なる方法」を究明するため,小津映画とも侯孝賢の過去の作品とも異なる本作特有の映像表現と映像構成から考察する。映像表現に対する考察は,「見せないこと」,「共存する他人」,「直接しないこと」という三つの側面から本作における間接的な表象を分析する。また,映像構成に対する考察は,顕在的な移動描写と特別な「電車胎内図」の二つの側面から,本作が描いた「東京物語」の二重性を解明する。 最後に,その間接的な表象に現れている劇的なものを日常の表面に隠すという手法は,侯孝賢が尊敬する小津ならではの深層にあるものを表面に隠すという手法に共通するものだと思われるため,侯による小津へのオマージュはこのような間接な表象に表されていると考えられる。また,本作に見られた多様な都市表象と都市を背景とする物語の中で描かれた都市と個人の関係が,小津映画が意図的に行ったとされる都市表象と都市の視点から個人の物語を語ることと共通する部分があることから,映画を小津へのオマージュとして捉えることができる。 以上の考察に基づくと,本作におけるオマージュのあり方は映像表象によるものではなく,創作理念において表出されていることが明らかになる。オマージュの対象と共通の創作理念を持ちながら,異なる方法でオマージュを捧げるやり方はオマージュの対象を新たな形で生き返らせるものとして,オマージュ作品としての魅力を放つものだといえる。

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