研究論集 = Research Journal of the Graduate School of Humanities and Human Sciences;第23号

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ヘーゲルは「物自体」をいかに語ったか : 『大論理学』「本質論」読解

安保, 広睦

Permalink : http://hdl.handle.net/2115/91117
JaLCDOI : 10.14943/rjgshhs.23.r1

Abstract

ヘーゲルの主著『大論理学』はしばしば「カテゴリー論」として読まれる。「カテゴリー」とは、カントの用法に従えば、われわれの認識が可能となるための条件のひとつであり、われわれに与えられた多様な直観を統一する、アプリオリな「概念」である。しかし「カテゴリー」は、カントにおいては「現象の規定」であるとされ、その適用範囲が「経験」のうちに制限されている。制限されるかぎりにおいて、われわれの主観的条件としての「カテゴリー」は真に客観的なものとなる、すなわち「客観的妥当性「を得ることになる。さて、ヘーゲルによれば「カテゴリー」の本性とは、カントが措定したあの制限を越えて「物自体」へと適用されるところにある。より正確に言えば、経験の内外、「現象」と「物自体」という区別自体を廃棄するところにこそ、「カテゴリー」の本来的な意義がある。しかし「カテゴリー」が「現象の規定」であるのみならず、「物自体の規定」でもあると理解することは、すでにカントによって厳格に禁止されていることである。それというのも、「カテゴリー」が「物自体」に適用されることで、理性の自己矛盾としてのアンチノミーが発生すると考えられるからである。それゆえ問いは、いかなる齟齬をも来さないまま、どのようにしてヘーゲルは「カテゴリー」を「物自体」に適用したか、である。本稿ではまず、『大論理学』とカント『純粋理性批判』との内容的連関について触れながら、ヘーゲルの論理学がカントの「超越論的論理学」を引き受け、これをさらに深化させていることを確認する。これはすでにさまざまな先行研究によって示されている。その上でカントの「カテゴリー」が現象を飛びだし、「物自体」へと適用されるべき性格をすでに有していたことを論じ、これの敷衍こそがヘーゲルの主眼であったことを主張する。その際、とくに『大論理学』「本質論」にある記述を参照する。ここにはカントの「物自体」が主題的に論じられている箇所があり、上で述べたカント的「カテゴリー」の性格にもとづいて、具体的に、ヘーゲルがいかにして「物自体」を考えることができたのか、またいかにしてそれをみずからの論理学体系のうちに位置づけたのかということを、整合的に論じることができると思われるからである。

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