研究論集 = Research Journal of the Graduate School of Humanities and Human Sciences;第23号

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円地文子「二世の縁 拾遺」論 : 作中口語訳「二世の縁」の再検討

齊田, 春菜

Permalink : http://hdl.handle.net/2115/91120
JaLCDOI : 10.14943/rjgshhs.22.r51

Abstract

本稿は、円地文子「二世の縁 拾遺」(以下、「拾遺」と略す)の作中口語訳と語り手の「私」を軸にテクストを読み解くものである。作中口語訳とは、「拾遺」に挿入されている上田秋成『春雨物語』「二世の縁」の「口語訳」(三三〇頁)を指す。「拾遺」の大きな特徴の一つとして「二世の縁」の全訳が叙述されている。これは定助の性への執着を強調した加筆として原文との比較を中心に研究がなされてきた。「拾遺」研究では、原文「二世の縁」を基本的に「仏教批判」と理解している。そのため先行研究は、仏教批判の物語である原文「二世の縁」から定助の性への執着の物語として作中口語訳を位置付けている。しかし、この位置付けには二つの問題がある。一つ目は、そもそも原文の「二世の縁」が「仏教批判」の物語なのであろうかというものである。二つ目は、定助の性への執着を強調する加筆が、主に里の主人や村人たちのセリフと会話から読み取れるものであるにも係わらずそのことについては注意が払われていない点である。そのためまず原文「二世の縁」の先行研究を参照し、原文「二世の縁」解釈の検討を行い、「拾遺」研究の原文「二世の縁」理解についての更新を行った。この原文の検討の結果を踏まえ、定助の性への執着とは、主人や村人たちが構築したものであることを明らかにした。加えてこの主人や村人と定助の関係は、「私」と布川の関係と一面において相似形であるといえる。ただし、布川は定助と異なり一方的に「私」に規定されるだけの存在ではない。「私」と布川は双方向的な関係でもある。この「私」と布川とのやり取りの間におかれているのが作中口語訳である。そのためこれも何らかの形で「私」に影響を与えている。そこで布川の口語訳に対する「私」の語りと実際の作中口語訳の叙述のズレを考察し、「私」の語りが二重化していることを明らかにした。この二重化は、統一されることなく「子宮がどきりと鳴った」(三四〇頁)以降からテクストの幕切れまでそのままであった。したがって本稿は、原文「二世の縁」と作中口語訳の関係を再考し「拾遺」を「私」の語りの二重化について表象したテクストとして結論付けた。

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