研究論集 = Research Journal of the Graduate School of Humanities and Human Sciences;第22号

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『フラワーズ・オブ・シャンハイ』論 : 映画における「隠れる」ことをめぐって

龔, 金浪

Permalink : http://hdl.handle.net/2115/87862
JaLCDOI : 10.14943/rjgshhs.22.l77

Abstract

『フラワーズ・オブ・シャンハイ』(海上花,一九九八年)は,侯孝賢が百年前の上海租界を舞台に,古典小説『海上花列伝』から改編した作品である。本作は,評論界で評価されているが,その良さが充分に語られているわけではない。その原因は,学界から本作への注目がまだ足りないことと関わっている一方,本作自身の「シンプルさ」─ バリエーションのないカメラワークと起伏のない物語─ がもたらしている読解への困惑も関係していると考えられる。本論は,この「シンプルさ」から出発し,侯孝賢の「深度が表面に表れる」という創作理念を手がかりとし,制作,ナラティブ,映像表現といった三つの側面から,本作における「シンプルさ」の裏にある複雑な様相を明らかにしようとするものである。まず,制作側からの証言を参照するうえで,監督の演技指導と美術のセッティングといった二点から,「身体」と「環境」を巡って,制作側がいかにして無関係なもの=欠かせないものを通じて,本作における特有な雰囲気を醸し出したのかを分析する。次に,原作との比較に基づいて,素材の取捨,プロットの推進,全体の構造といった側面から,ナラティブの各段階における特徴を分析し,その全体に共通する「隠れる」という特徴を明らかにする。最後に,本作における映像表現,とりわけカメラの運動に注目し,「半拍遅れ」と「振り子」的動きという特徴を見出し,それらの表現がいかに映像における冷静さと流動性を作り出しているのかを論じる。以上の分析によって,侯孝賢がいかに表したいことを無関係な,あるいは日常的な表面に隠しているのかを明らかにする。その結果,本作は物語のドラマ性や時代・地域の風貌,すなわちエキゾチックな外見などを超え,日常性に溢れる映像の表面にある生き生きとした人間に共通するものを表している作品だと指摘する。

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